残暑カマキリ

 残暑の夜。

 食糧と切れかかった洗剤を買いにスーパーへ行く。その前に、スーパーの隣に新しくオープンした本屋に寄った。ゴールデンタイムを少し過ぎたくらいの時間帯なのに、人気がない。過疎地方ならではの性、とでも言うべきだろうか。
 店を出る時、それまでずっともよおしていた尿意を排出するべく、トイレへと入る。トイレは店の入り口、外に近い場所にあるため、そこを通るだけで自動ドアが開閉する。電気代の無駄だな、と思った。
 事を済ませ始めると、家族に「ただいま」なんて言われたかのような安堵感が身を包み、思わずため息をこぼす。そして、トイレのセンサーを見つめながら用を足す。とても長い。
 ふと、足元に目をやると、どこから入ってきたのか、茶色いカマキリが便器の根元に居座っていた。
 茶色いカマキリか、普通は緑色だよな、なんで茶色なんだろ、あ、もう秋が近いからか、カマキリも紅葉するんだな、などと思いつつ、尿を放出し続ける。それにしても長い。

「よう、待ってたぜ」
 どこからか、鼻にかかる声が聞こえる。例えるなら、スネ夫の声だ。しかし、辺りを見回しても、トイレには僕一人しかいない。きっと、今日はスタジオで練習があったから、耳がキンキンしているせいで幻聴みたいなものが聞こえたんだな、と思った。
「おい、こっちだぜ。長小便め」
 いや、確かに聞こえた。すると声の主は足元で目を光らせている、この茶色いカマキリなのだろうか。僕は警戒しつつも、カマキリの目に焦点を合わせる。
「お、やっと気づいたか。ったく、こっちが話しかけてんのに、無視するんじゃねえよ」

 やはり、この茶色いカマキリが喋っている。よく見ると口を細かく動かし、スネ夫の声ではっきりと喋っている。僕は水を切る動作を終え、イチモツをしまい、その場にしゃがんでまじまじとカマキリを観察した。
「なんでカマキリが喋ってるんだ?」
「喋っちゃ悪いのか。お前ら人間だって喋ってるだろ」
「いや、なんで虫なのに人間の言葉を喋ってるんだよ」
「アホか。お前ら人間がのさばるこの世界で生きてるとな、言葉なんて嫌でも覚えるんだよ。どこに行ってもペチャクチャと。五月蠅いんだよ」
「はあ?勝手な事ばかり言うなよ。だいたい、こんなところにいないで、虫は虫らしく森へ帰れよ」
「しょうがないだろうが。元々、ここに俺の住処があったのに、急に人間どもが本屋なんて建てちまうんだから。お前ら人間の方が勝手だ」

 用を済ませたのはいいのだが、どうして僕はカマキリなどと話しこんでいるのだろうか。傍から見れば、どこぞの昆虫マニア青年がトイレで偶然見つけたカマキリに興奮し、一人話しかけている、と思われても仕方がない。
「よう、それよりだなお前。もっと他にやるべきことがあんだろうがよ。本屋なんか来てまた小説とマンガ買って、お決まりの現実逃避か?いい気なもんだぜ」腕組みをしつつ、カマキリが言う。
「別にいいだろ、読書くらい。暇なわけじゃなくて、これは息抜きのために買ったんだ」
「どうだかな。どうせ家に帰ってすぐに読みふけって、きっとやらなきゃいけない事そっちのけで、朝方に眠くなってそのまま寝るんだろ。情けねえな。あんた、そういうオーラ出てるぜ。俺にはわかる」
 全く。どうしてこんな虫一匹に自分自身のことをあれこれ言われなければならないのだ。
「お前みたいな虫に何がわかるっていうんだよ。人間は、色々と複雑なんだよ」
「バーカ、虫だからわかるんだよ」

 僕はカマキリと話しながら、手を洗って外に出たのだが、カマキリは後をついてくる。歩きながらもこのカマキリが訳の分からない事ばかり言ってくるので、僕とカマキリは駐車場の縁石に並んで腰かけ、さらに話を続けた。

「虫だからわかるって、どういう事だよ」僕はタバコに火をつけて、煙を吐き出しながら言う。
「いいか、お前ら人間はだな、脳味噌の量が他の種族よりも少しばかり多いからって、余計なこと考えすぎなんだよ。いつもいつも人間同士の事とか、他人の事とかどうでもいいことばかりな」カマキリは僕の足元から僕を見下すような態度で話す。
「俺ら虫をよく見てみろって。本能的に生きているだろ?俺なんかな、こんなくだらねえ世の中に産まれてきてから毎日毎日、ちいせえ虫のケツを追う生活してるんだよ。食うために生きていると言ってもいい。いや、俺ら虫だけじゃねえ。人間以外の動物は、自分が生き延びることで精一杯なはずだ。少なくとも、人間の手中で生かされている奴ら以外はな。最近じゃあ、犬とか猫だけじゃなくて、俺たち虫なんかもペットとして飼う人間もいるみたいだしな」
 そう語るカマキリは、少し悲しそうな顔を見せた。
「まあ、人間がのさばって、人間が住みやすい環境に作り変えられたこの世界じゃ、俺らも人間の手を借りた方が生き延びる可能性も低いわけじゃないけどな」
「で、結局何が言いたいんだよ」
「おお、そうだった。すっかり熱弁ふるって、一番言いたいことを忘れるところだったぜ」

 カマキリは腰をあげ、自慢のカマを磨きはじめた。
「要するに、だ。自分の事は自分でしっかりやれよ。現実から目をそらすんじゃねえ。大事なのは、自分がやるべきことをやるんだよ。他人なんかに頼ってたら、食い物にも満足にありつけねえってことだ」
「なんだよ、結局説教じゃないか。虫になんか説教される筋合いはないね」
「じゃあお前はずっとそこから動けないさ。前にも後ろにも。今のままで、行きたい場所へ行けるのか?他人や世の中から流されずに、満足に食いもんが食える場所へ行けるのかよ?まあ、無理だな。今のままじゃ」カマキリはカマを磨き終え、ふぅと磨きカスを吹き払った。
「ま、がんばれよ。他の虫たちと違って俺は、優しいからよ。こうしてお前に大事な忠告をしてやったってわけだ」
「別に求めてねえよ、そんな忠告」
「そうか?虫の忠告くらい、無視せずに聞いておいた方がいいぜ。なんてな」

 ふいに後ろの明かりが消え、辺りが暗くなった。どうやら本屋が閉まったらしい。田舎にできる本屋は、閉まるのも早い。
「じゃあ、俺は行くぜ。今の時期は夏を終えた蝉の死骸がそこら中に転がってるからな。楽に食事にありつけるってわけさ。今のうちに食っておかないと、そろそろ冬だからな」
「お前も大変なんだな」
「少しは気持ちが理解できたか?なら、次はお前が動かねえとな、お前自身で。ちょっと見てな」
 そう言うとカマキリは羽根を広げ、ブウゥゥンと素早く動かした。
「俺は自由に飛べるぜ」

 カマキリはそのまま青黒い空へと羽ばたいて、消えていった。
 虫なんかに説教されるとは、僕ももう終わりかな、などと考えつつ、タバコを消して閉店間際のスーパーへと向かった。
 買い物を済ませ、家へと帰ってきてから気づいたのだが、結局目当てだった洗剤を買い忘れてしまっていた。

残暑カマキリ

残暑カマキリ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted