フィエステリア

人間の場合

 前の座席の客が異様に臭い。ただでさえ、俺はバスに弱いというのに、こんな臭いまで漂ってきたら、酔わないでいられる方が難しいというものだ。
 前に座っているのは、薄汚れた服を着た老婆なのだが、小さい体に似つかわしくない大きなカゴを座席の横に置いている。臭いの発生源は、どうやらそのカゴのようだ。
 何が入っているのか気になり、少し前に身を乗り出し、覗いてみた。カゴにはビニルに包まれた魚やら山菜やらが、ほんのりと茶色い水分をまとったまま、中に入っている。その見た目の悪さから、視覚を通してもその臭いが伝わってくる気がして、俺は思わず顔をしかめる。
「何を見ているんだい」
 老婆が顔をこちらに向けもせず、言葉を発する。気づかれていたのだろうか。
 俺はすいません、と平謝りし、座席の背もたれに深く寄りかかる。老婆は舌打ちをし、何やらモゴモゴと独り言をつぶやきはじめた。
 こういう人間に関わると、ロクなことがない。仕方が無いが、目的地に着くまで臭いは我慢するしかなさそうだ。

 ロクなことがないのは、今に始まったことではない。
 こんな就職難な時代に、こんな俺がすんなりと会社に入れたことが、まさにその始まりだった。
 内定だよ、という言葉を聞かされた時こそ喜びはしたものの、いざ入社してみると、そこはいわゆるブラック企業というやつで、入社初日から深夜まで外回りをさせられた。
 右も左も、むしろ会社のトイレの位置すら覚えていないまま送り出され、何やらよくわからない建設企画についてのパンフレットと書類を渡されただけである。もちろん、先輩社員のフォローなんてあるわけがない。今まで生きてきた中で、これほど何をすればよいのか見当もつかないと思った事がないほどだった。そして、孤独だった。
 汗だくになりながら、渡された資料に記入されてある家のリストを目で追い、見つけたその家に入り、意味不明な建設企画の説明を聞いてもらう。大抵が快く家の中にあげるはずもなく、玄関先でピシャリと締め出される。当たり前のように、門前払いだった。中にはどうにか茶の間へとあがらせてくれる家もあったが、俺の話のたどたどしさと、内容の怪しさから、すぐに用事があるからだとか、孫を迎えに行かなきゃだとか理由をつけられ、結局追い出される始末。
 そりゃそうか、と俺は思う。俺だって、そうするはずだ。

 そんな何を目的にして働いているのかわからない日々が、いつの間にか3か月、6カ月と過ぎ、ちょうど一年目を迎えようとしていた頃。ある日突然上司に呼び出され、現場の担当になってくれ、と言われたのだった。
 その現場というのは、例の建設企画の現場だった。例の、と言っても俺自身がその話を住民に話すため駆け回っていたのは一年も前のことだったし、その仕事が終わるとまた次から次へと似たような事をしなければならなかったので、俺はそれを思い出すのに少し時間がかかった。
「上手くいけば、昇進も考えられるんだけどなあ」なんて言う上司の甘い甘い囁きにのせられた形で、俺は今、その現場に向かうためにバスに乗っているのだ。
 現場というのがこれまたものすごく遠い場所で、郊外も郊外、どちらかというと片田舎なんて屁でもない、というような場所だった。
 空いている土地を有効利用しよう、なんて人間のためだけにあるようなうたい文句で企画が通ったものらしく、過疎化が進んだ地域に新しい建物を建てて、若い生活者を根こそぎゲット。わかりやすく言えば、そういう企画だった。俺もその企画と同じように、大した目的もなく就職活動なんてしている若い奴らを根こそぎゲット、みたいな感じでこの会社に雇われたのではないかとすら思えてくる。
 とにかく、現場でなんとか結果を残せば、今までの安月給とは少し違った生活が送れるかもしれない、なんていう俺の淡い期待を一緒に乗せて、バスは揺れていた。

 バスが街を出て、もうどれくらい時間が経っただろうか。いくら田舎へ向かっているとはいえ、かれこれ二時間以上は走り続けている。そして、これまでバス停らしき場所に停まった様子が一度もない。そう思っていると、ピンポーン、と甲高い音が車内に響き、しばらくしてバスが緩やかに停まる。外を見ると、バス停があった。ようやく最初のバス停かよ、と俺は嘆く。
 目の前の座席にいた老婆が立ち上がり、大きなカゴを両肩にしょって、ひょこひょこと前方へ歩いていく。どうやら、この場所で降りるようだ。やっとこの悪臭から解放されるのだ。俺は安堵する。老婆がバスから降り、再びエンジンが大きく音を出して、進み始めた。
 何気なく外を見ると、老婆がこちらを見ていた。そして、笑っているように見えた。
 俺は驚き、すぐに後ろを向き直し、窓から老婆の姿を見るが、老婆は大きなカゴをしょってどこかへと歩いていくところだった。何だ、気のせいか、と俺は思う。

 老婆が降りたバス停を過ぎると、これまでどこにも停まらなかった事が嘘のように、バス停からバス停へとテンポ良く停まり始めた。それに反比例して、乗っていた乗客も一人、また一人と減っていき、逆にバスへと乗ってくる客もいなかったため、乗客は俺と数人だけになっていた。普通に考えればそうだろう。俺は俺とて、好んでこんな田舎に来ているわけではないのだ。
 元々、この辺りに住んでいる人間など、両手で数えて足りるほどに違いない。これから何十人、何百人、何千人と増やすために、俺はこんな田舎に来ているのだ。もしそれが現実になったら、今こうやって苦しい思いをしてバスに揺られていることも、懐かしく思えるのだろうか。
 そんな事を考えていたら、じんわりと胃液がこみ上げてくる感触があった。酔い止めを飲んできたはずなのに、と俺は思う。何故俺は、こんなにも人並み外れた酔いやすさなのだろう。酔っている、と思えば思うほど、気持ちの悪さは酷くなっていく。
 幸いにも、俺の座っている座席は窓側だったため、遠くの景色を見て紛らわすことにした。どこに目を向けても、広がっているのは広大な山々で、目に優しい。人間が生きるのに必要な酸素を出し、人間が吐きだす二酸化炭素を吸いこんでくれる木々たち。世界中に供給できるというほどではないが、少なくともここ日本の中では、かなり有望な森である。これからその土地を少しずつ削り、また人間のために生まれ変わらせようということを考えている俺や、俺が所属している会社が、少し疎ましい気持ちになった。

 それにしても、気持ちが悪い。軽い頭痛もしてきた。まだ目的地には着かないのだろうか。心なしか、さきほどの老婆がいた時のような悪臭が、また漂い始めているような気もする。さらに、酷く眠気がする。十分に睡眠をとってきたはずなのだが、と俺は思う。これまでの溜まった疲れが、一気に溢れ出てきたのだろうか。
 しかし、これは好都合であるかもしれない。どうせ起きていたって気持ちが悪いだけなのだから、いっそ寝てしまえばいいのではないか。目的地は確か最終地点だったはずだ。ならばそこまで眠っていたとしても、運転手が起こしてくれるだろう。
 そう考えると、途端に眠気の渦が俺を吸いこみ始める。ふわふわとしていて、体の硬直した部分がほどけていくような感覚。座り心地の悪いバスの座席も、高級なベッドに様変わりしたと錯覚するほどの安心感が身を包む。俺はその感覚とバスの揺れにに身を任せ、頭を窓側へと垂れるようにして、ゆっくりと目を閉じる。

 目を閉じる間際、前の座席と窓のその間から見えるものがあった。茶色い、小さな箱が、そこには置いてあった。一瞬にして俺はあの老婆の事を思い出す。なんとか重い瞼を上げてその箱を観察すると、少し蓋が開いているようだ。それに気付いた瞬間、また悪臭が鼻をつく。その箱から悪臭は出続けているのだ。去り際に老婆が見せた、あの笑った顔。俺は途端に嫌な予感がした。眠ってしまってはいけないような、何か悪いものが体にまとわりつくような感覚。けれど、体は言う事を聞かず、頭と体の意識を切り離そうとする。それほど強い眠気が俺には襲ってきていたのだ。俺は、耐えることができず、いつの間にか眠ってしまっていた。

「お客さん、お客さん、起きてください。着きましたよ。大丈夫ですか?」
 体を強く揺さぶられ、俺は目を覚ます。視界がハッキリすると、人の良さそうな運転手の顔が映った。周りを見回すと、もう他に乗客の姿はなかった。
「ああ良かった、お客さん、少しうなされていたようで、心配だったのですが」
「え、ああ、すいません。つい寝てしまったみたいで」
 そう答えつつも、俺は眠りつく瞬間のことを思い出す。そして、前の座席の窓側に置いてあった、小さな茶色い箱の存在も思い出す。
「そういえば、あの箱は?」
「箱、ですか?」
「そうだ、酷く臭う箱なんですよ。確か、前の席にあったんだけど」俺はそう言って前に身を乗り出し、箱を探す。しかし、そこに存在していたはずの箱は、元々何もなかったように、その存在は消えていた。
「おかしいな、確かにそこにあの箱が」俺は首をかしげる。
「ははは、お客さん、きっと疲れているんですよ。とにかく、着いたんですから、外の空気など吸ってみてはどうです?ここは都会と違って、とても空気が美味しいんですよ」

 促されるままに、俺は荷物を持って立ち上がり、料金を払ってバスを降りる。もう既に辺りは夜になっていて、街灯の明かりが2、3本あるだけだった。
 ううん、と背伸びをして、俺は胸いっぱいに空気を吸い込む。確かに空気は澄んでいるようで、いつも無意識に吸っているような都会の空気にはない、何か良いものが含まれている感じがした。これから毎日、こんな美味しい空気が吸えるのなら、辺鄙な場所での現場担当もそんなに悪いもんじゃないな、とも思えた。

 そういえば、バスを降りたはいいものの、この場所からどう行けば現場近くのプレハブにたどり着けるのかわからない。地図には大体の位置しか載っていないので、詳しくは実際に歩いてみるしかなさそうだった。俺は運転手に聞いてみるということを思いつく。きっとあの運転手なら、この辺りに詳しいはずだし、人も良さそうだから、教えてくれるはずだろう。
 そう思って俺は、体を返し、後ろを振り返る。

 そこには何か長い棒のようなものを両手に持ち、頭上で構えている運転手がいた。あっ、と思った瞬間、俺はバスの中で眠りに落ちる瞬間と似たような感覚を覚えた。気持ち悪さからくる不安と、抵抗ができないほどの安心感による眠気。そして、悪臭。
 あの悪臭は結局何だったのか、俺にはわからない。ヒュッ、という音が聞こえ、運転手が棒を振り下ろす。俺が最後に見たのは、運転手の笑った顔だった。

ニュースの場合

 TV画面の中で、真剣な表情をした女性レポーターが話す。
「昨夜未明、都市部から遠く離れたこの川の中腹で、またもや遺体が発見されました。情報によりますと、遺体は衣服を着ておらず全身裸で、顔から腕や足、そして細部にいたるまで所々が激しく損傷しているといった、見るも無残な姿で発見されました。遺体の身元や性別も、詳しくはわからない状態だということです。また、奇妙な表現となってしまうかもしれませんが、警察によるとその遺体は、傷をつけられたというより『何者かに齧(かじ)られて損傷した』と言った方が正しいとのことです。犯人像は、一体どんな人物なのか、そして、こういった一連の行為の狙いは一体何なのか、今後も詳しい捜査の結果が待たれます。以上、中継でした」

 場面が変わり、清潔感のある男性キャスターが映る。
「はい。えー、今お伝えいたしましたのは、連続猟奇殺人事件についての新しいニュースでした。本日は、当番組でもこの事件を詳しく分析するべく、ゲストをお招きしております。元警察庁副総監で、数々の難事件を解決されてきた、後藤田和夫さんにお越しいただきました」
 後藤田、と呼ばれた角刈りで体つきの良い白髪混じりの男が紹介されると、画面に向かって深く頭を下げた。見るだけで体育会系、というイメージがつきそうな男ではあるが、どこか知的な風貌も感じさせる佇まいだった。
「それでは早速ですが、今回の事件について、後藤田さんよりこれまでの経緯を説明していただきます」

 キャスターの促しを見て、後藤田が口を開く。
「事件の発端は、ちょうど今から一年前ほどになります。今回の遺体が発見された場所と同じ、人里離れた山奥の川の下流付近で、山登りに訪れていた老夫婦が、男性の遺体を発見したことから始まりました。その男性の遺体も、今回と同じように身元の判別が非常に難しく、大変に損傷した状態でしたが、遺体の傍に落ちていた社員証から、某建設会社に勤めていた男性だと分かりました」
「まだ、お若い方でいらっしゃいました」キャスターが嘆く。
「ええ、本当に。なんとも痛ましい事件でした。それを皮切りに、あの現場付近で断続的に事件が起こっております。今回の事件も含めると、全部で8件。つまり、8人もの方々が亡くなられている、ということになります」
 後藤田は、一つ大きなため息をこぼした。

 二人の後ろにある大型ビジョンに、地図が映し出される。事件現場のポイントがわかるように、遺体が発見された箇所に赤く×印がついていた。見ると、どの印も川の上流から下流近くについているのがわかった。
「こちらが、遺体発見現場に印をつけたものです。これまで全ての遺体が、この川の付近で発見されていることになりますが、後藤田さん、この点についてどう思われますでしょうか」
「そうですね。色々な見解があるとは思いますが、私が思うに、犯人はこの川で殺害を行ったとは思えないのです」
「と、おっしゃいますと」
「これは推測に過ぎませんが、犯人は別な場所で被害者を殺害し、損傷を負わせた後、この川へただ投げ込んでいるようにしか思えないのです。遺体の骨などが折れているのも、殺害時に負った怪我ではなく、川へ投げ込まれた時の衝撃で折れたものなのではないかと考えております」
「なるほど。では何故、犯人はどこか土の中へ埋めるでもなく、どこかへ隠したりするわけでもなく、わざわざ見つかりやすい川へと遺体を投げ込んだりしたのでしょう?」
「わかりません。ただ遺体を処理するのが面倒だったのか、それとも遺体を誰かに発見されなければいけない理由があるのか、それともまた別な理由があるのか」
 そう言うと、後藤田は腕組みをし、考えこむような仕草をした。話題を次に進めようと、キャスターは話を続ける。

「では、遺体の損傷についてお聞きしたいのですが、この一連の事件は、かなり猟期的な要素が強いですよね。どの遺体も、『齧られた』後が見られると報告が出ておりますが」
「はい。それがこの事件の一番の謎、と言ってもいいと思います。これについては私も全く理解できず、頭を悩ませているのが現状です」後藤田は言い終えると、少し沈黙した。言うべきか迷っていることがある、という様子で、しばらく手元の資料に目を落としていたが、ゆっくりと話を続け始めた。
「世界には、カニバリズムというような趣向の人間がいる、と聞いたことがありますか」
「カニバリズム、ですか」
「そうです。不適切な発言になってしまうかもしれませんが、わかりやすく述べるとすれば、人が人を食す行為をすることです」

 後藤田のその言葉に、キャスターや番組スタッフがどよめく。ざわざわとした声が、TVを通しても伝わってくる。しかし、放送が途切れない様子を見ると、番組は放映を続けるのだろうということが伺えた。
 ざわめきを遮るように、後藤田がその通る声で話を再開する。
「不適切な発言、失礼いたしました。関係者の方々、ならびに視聴者の方々にはこの場でお詫び申し上げます。しかし、カニバリズムについては様々な見解がございます。宗教的な意味でのカニバリズム、そして社会的意味でのものも存在するのです。もちろん日本でもそういった趣味の方がいるかもしれませんし、今ここで述べるのは場違いかもしれませんが、過去には太平洋戦争中、又は小笠原事件などの際に、そういった行為が行われていたとも言われております。補足として申し上げますと、その際のカニバリズムは、自分自身が生き伸びるために必要であったため、そういった行為を行ったという社会的意味でのものだと思われます」
「で、では後藤田さん。今回の事件でもそういった行為、つまり、カニバリズムが何らかの形で関わっているということでしょうか」
「あくまで、私の予想に過ぎませんから、断定はできません。しかし、あの遺体の跡を見る限り、そう考えられるということも、事件を解いていくための一つの鍵になるかもしれないということです」
「もし、犯人が本当にそのような趣向を持った者だとすれば、今後はどういった事が予想されますでしょうか」
「そうですね。また同じ行為を繰り返すとも思われますし、今私がここで述べたことを犯人がどこかで聞いているのであれば、行為を辞める可能性もあるかもしれません。そして単独犯であるのか、複数犯であるのかも不明です。そしてもう一つ、今回の事件で犯人は何一つ手がかりを残していないというのも気になる点です。もし犯人が遺体に噛みついたのであれば、唾液が遺体から検出されるはずなのですが、川に流されたことによって、全て洗い流されてしまっております。また、殺害に使用された凶器も、全く発見されていないことも不思議です。死因は鈍器による撲殺から、鋭利な刃物による刺殺の2通りが現在までみれらていますが、残念ながら、まだ詳しいことは何もわかっていません。目的も、何もかも」
 そう述べた後、引退したはずの警察職に対する後悔の念と、その警察の力を持ってすら、現時点で何もできていないことに対する自責の念を感じたのか、後藤田は下を向き、閉口してしまった。

「えー、一刻も早い事件解決の進展が待ち望まれます。以上、連続猟奇殺人についての分析でした。後藤田さん、本日はお忙しい中、どうもありがとうございました」
 キャスターはそうまとめて、次のニュースの原稿へと目を走らせた。

猿の場合

 目の前のTVからは、また殺人事件のニュースが流れている。僕は食い入るようにその画面を見つめていた。先日、元警察庁副総監の後藤田という男が、ある番組で自分の考えを述べたその数日後、彼の変死体が都内のホテルから発見されたというニュースが流れ、この事件はまた違った変化を見せていた。それも急速に。
 とある山奥の川付近だけで起こっていたはずの連続猟奇殺人は、ここ最近で全国的な規模に広がっていた。それも、遺体が発見される場所は決まって山奥、郊外も郊外、さらにあたかもそれが当たり前のように、近くを流れる川の上流から下流にかけてであった。先日殺された、後藤田を除いては。
 ここまで来ると警察も馬鹿ではないらしく、単独犯による犯行ではない、ということは理解できたようだった。むしろ国際的なテロであるだとか、日本国を覆すようなクーデターを目論む者たちの反抗であるとか、様々な憶測や見解がメディアを賑わせていた。
 いよいよだな、と思い、僕はぽりぽりと頬をかく。

 警察やメディアは物議をかもしだしているが、「カニバリズムについて」だけはどちらも一向に核心をつくような意見を出せないでいた。テロやクーデターが目的ならば、わざわざ人間を「齧る」必要などないからである。
「わかっちゃいねえよなあ」と僕は独り言をつぶやく。
「ま、わかるはずもないだろうけど」

 僕は立ち上がり、部屋着を脱ぐ。洗面所で歯磨きと洗顔を済ませ、ワイシャツに着替えてスーツに身を包む。髪をワックスで整えた後、ふたたび腰を下ろしてコーヒーを飲みながら、TVに目を向ける。
 画面には相変わらず現場の中継がひっきりなしに放送されている。警察が藁にもすがる思いで現場を捜査し、何か手掛かりになるものはないかと連日連夜、現場に訪れてはやっきになっていた。現場は外であるし、大自然の中なので、よくあるような黄色いテープで侵入を規制したりすることができず、地面に杭を打ち込んでそれにブルーシートをかけるだけの壁を即席で作るだけであった。報道陣はその隙間をかいくぐり、なんとか情報を得ようと試みているのである。警察はそれを防ごうと、現場を取り囲むように人員を敷き、対応していた。
 傍からその様子を見ていると、本当に事件を解決するためには、もっと他に手段があるのではないかとすら思えてくる。どちらも自分たちの手柄を得るために行動を取っている気さえするほどだった。

 その時、女性レポーターが画面に映った。警察と報道陣の慌ただしいやり取りを見て、多少困惑しているようだった。
僕は画面に、というか、その女性レポーターに向かって言う。
「な、可笑しいだろ」
 僕がそう言うと、画面の奥の女性レポーターがニコリと笑う。
 僕はそれを確認したあと、TVを消し、部屋から出た。

 記者会見場は、報道陣でごった返していた。むんむんとした熱気。そこいらからアレはどうなっているだの、あそこの情報はまだなのかだの、汚い言葉と唾が飛び交っていた。僕はパイプイスに座り、その状況を冷静に見る。皆、さまになっているようだ。よくも短い期間でこれまで、とも思う。
 熱気の中にいること、数分。部屋の入り口のドアがバタンと開いたかと思うと、長身で短髪の、やけに顔立ちが整った男が颯爽と部屋へ入ってきた。同時に、その男に向けて大量のフラッシュが浴びせられる。男が係に促されて長テーブルの前に立ち、椅子を引いて腰かけるまで、そのフラッシュの勢いは止まらなかった。
 多少、フラッシュの光が嫌そうな顔をした後、その男はマイクを手に取り、話を始めた。

「皆さん。お忙しい中、このような場所へお集まりいただき、ありがとうございます。国家交道大臣の広田誠二と申します。この度は、何故皆様にお集まりいただいたかというと、近頃毎日のようにメディアを騒がせている、連続猟奇殺人の件についてお話させていただくためです。いや、お話というよりも、ご説明をさせていただきたいと思っております」
 広田、と名のった男は、特に緊張などもしていないようで、さらりとした顔で言葉を発している。声も端正な顔立ちによく似合っていて、スマートで聞きとりやすい声だった。
「広田さん、あなたが計画していた建設企画の現場で殺人事件が起こっている件について、どう思われますか」どこかの記者が、荒ぶる声で第一声を放った。
「そう慌てないでいただきたい。これから説明をすると、先ほど申し上げたばかりではないですか」広田は落ち着いた様子で、用意されていた水を口に含む。
 僕は水を口に含んではいなかったが、ゴクリと生唾を飲んだ。

「まず、私の企画した建設企画についてご説明いたしましょう。この企画は、我々日本人にとって、とても重要な意味を担っております。現在の日本の経済は低迷期にあり、求職率と求人の倍率が反比例を繰り返しています。物価の低下も留まるところを知らず、どこよりも安さを目指したマーケティングにすがるしかない企業。それを打破する政策も狙いどころが甘く、どこか違うところを見ているのではないか、と言いたくなるような案しか議題に上りません。さらに高齢化社会、少子化と、これから何かが始まっていくという気配を見せない状況にあります。他国と比べるのは多少抵抗がございますが、中国をはじめとする各国は現在、高度経済成長期にあり、いつぞやの日本を思い起こさせます。バブルはいつかはじけるものではありますが、彼らは我々の人口の何倍もの総人口を誇っております。バブルがはじけてしまうのは、まだまだ遠い未来でしょう」
 流石大臣、といったところで、あたかも用意していた文章を丸暗記してきたかのように広田は流暢に、そして丁寧に言葉を話す。
「それらの国々のバブルがはじけるのを待っている間、我々は的外れな政策だけに頼っていて良いのでしょうか。ここで申し上げますが、私は、私自身が所属する党を、それほど素晴らしいとは思っておりません。決して対等と言えないアメリカとの協調を保っていて良いのでしょうか。絶対的な力を持つ人間一人の言いなりになって、それに従って行動するだけで良いのでしょうか。我々は再び、他国に頼る側から、頼られる側へとならねばなりません。では、具体的にどうすれば良いのか―」広田はそこで、しばらく黙る。
 場内も、張りつめた空気に包まれている。カリスマ性か、と僕は思う。話が上手い者は、誰の耳でも自然に引き付けてしまう空気感を持っている。常に自分がその空間を支配し、うむを言わさない手段、そして話し方を身につけている。その手本とも呼べるのが、まさに目の前にいる広田であることは間違いなかった。

「簡単なことです。人を、他国の人間を多く住まわせればいいのです」
 場内が堰をきったようにざわつき始める。頭おかしいんじゃねえのかだとか、何を話すのかと思えば、などと言う言葉がそこかしこから聞こえてくる。
「もう日本は俺たちだけでキャパを超えている。見りゃわかるだろ、国家交道大臣さんよ。大体、どうやって他の国の奴らを大量に住ませるって言うんだ」また、どこかの記者の野次が飛ぶ。
「土地がないのであれば、作れば良いのです。所詮、日本は世界的に見れば小さな島国。皆さんもご存じのとおり、最初から限られた土地しか持ち合わせておりません。ですが、まだまだ開発できる場所は残っています」
「それって、まさか―」
「そう、日本に存在する全ての山、全ての森、全ての自然を、住む場所へと作り変えれば良いのです」

 広田がそう述べると、ざわつきがより一層大きなものとなった。それを見た広田は、両手を大きく上げ、何かを制止する仕草をとった。
「御静粛に願いたい。事は至ってシンプルです。しかし、複雑な事を考えるよりも、効果がハッキリと見える分、非常に有効な手段であると断言できるでしょう。これまで美しい日本の自然として保護していた自然を、我々人間の住みやすい環境に作り替えたならば、日本の人口は増え、多くの外国人がそこで生活を始めるでしょう。日本に住む以上、口にするもの、住む場所、訪れる場所、そういったものの大部分が、ここ日本で確保していく必要がでてくるのです。そうなれば、我が国の経済は目まぐるしく循環し始め、再び経済成長が見込めるのです。自然を破壊することにはいささか心が痛みますが、日本に自然が無くなったとしても、他国にはある。自然を見たいという欲求が出れば、空港を利用して訪れるしかなくなります。現在は赤字になっている航空事業も、巻き返しを見せることが可能です。皆さん、如何でしょう。私の建設企画の素晴らしさは、ご理解いただけましたでしょうか」広田は言い終えると、ニヤリと顔をほころばせた。
 僕は、その顔を見た瞬間、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。きっと、その会場にいた大部分の者が、僕と同じ感覚に襲われたに違いない。

 頬をぽりぽりとかきながら、さてどうしたものか、と僕は考える。まさか、相手にこのような考えの持ち主がいたとは。ある程度予想はついていたけれど、広田はそれを超えるものだった。しかし、ここで引いてしまっては、意味がなくなってしまう。
 僕はそう思った後、奥歯を強く噛みしめ、左右にスライドさせて、キュリッと甲高い音を出す。これは普通の人には聞こえない、いわゆるモスキート音に近いものだ。若い者なら多少は聞こえるが、広田には多分、気づかれないはずだ。

 僕の出した音を聴いた者数名が、会場の入り口のドアを塞ぐように、その前に並ぶ。それも、ごく自然な様子で。よしよし、と僕は思う。これで、手はずは大体整った。後は、広田が「あの事」に勘づいているのかどうか、といったところだ。僕は、広田の次の言葉を、静かに待つことにした。

政治家の場合

 私は今、記者会見場にいる。
この世の中に、一体何が起きているというのだ。私が国家交道大臣になってからというもの、どうして思うように事が進まないのだ。皆、何もわかってはいない。私がどれほど国民の事を愛し、国民の事を考え、日々頭を悩ませているのかという事を。この会見の後も、私にはやらなければならないことが山積みだというのに。
 連続猟奇殺人が起きている。しかも何故かその被害者が、全て私の企画した近未来郊外政策事業に関わっている人物ばかりである。しかし、それが何だというのだ。私の考えは間違ってなどいないのだ。この政策が現実のものとなれば、誰もが幸せに暮らしていけるよりよい日本の未来の第一歩になるというのは確実なのだ。ここで歩みを止めるわけにはいかない。

 私が記者達に向かって説明を終えると、再び場内がざわつき始めた。これだから一般人は困る。特に、記者と呼ばれる者たちはそうだ。浅はかな考えしか浮かばず、ただ目の前にあることを面白おかしく記事にすれば良いということだけを考えている彼らのような者は、本当の価値感というものを理解していない。最も、この計画が成功すれば、この場にいる者たちの、私に対する姿勢も変わってくるというものだ。私はそう想像するだけで、思わず顔がほころんでしまう。その自分の無意識な仕草に気づき、すぐに私は冷静さを取り戻す。
「皆さん、御静粛に。さて、今の説明で、私の企画した内容についてはご理解いただけたかと存じます。続いて、世間を騒がせている連続猟奇殺人について、私の見解を述べさせていただきます」私はそう言って、一口水を飲む。

「この連続殺人は不思議な事に、私が企画し政策を進めている建設事業に関わっている方々ばかりが被害者となっております。この事に関しましては、私自身も大変心が痛み、犯人に対しては大きな遺憾の念を抱きます。それと共に、このような一連の行為を行ってきた者を、許しておくわけにはいかない、とも思っております」

「ふざけるな。お前の勝手な考えに反発している奴がいるから、殺人事件が起こっているんじゃないのか」
「そうだ、責任をとれ。大体お前の考えだって、今の国会で役に立たない議論をしている奴らと同じようなものじゃないか」
「結局政治家は、自分のことしか考えていないんだ。それをわかっているのか」
 辺りからは私に向かって、至極低俗な言葉が飛んでくる。だが、私は一切を無視する。こういう者たちと正面から向き合う事こそ、低俗というものだ。しかし、私は一つの言葉に対し、反応する。
「ただ今、責任を取れ、とおっしゃった方がいらっしゃいましたが、責任を取るとは一体どう解釈をすればよろしいのか、私には分かりかねます。私はまだ何も成し遂げてはおりません。普通、責任を取るという言葉の意味は、何か行動を起こした上で、その結果が予想以上に悪い、もしくは何のメリットももたらさなかった場合にのみ適応されるものではありませんか?だとするならば、私が責任を取るという必要は、微塵もないことです」
「馬鹿なことを言うな。人が何人も死んでいるんだぞ。お前の勝手な政策で」私の目の前に座っていた小太りな記者が、口角泡を飛ばしながら私を罵る。だが、私は冷静さを保ったまま、答える。
「証拠は、あるというのですか」
「なに?」
「私の企画、考えに反発した者が、罪のない人を殺めたという、その証拠はあるのですか」
「それは―」記者が口ごもるのも当たり前だ。警察ですら、その犯人像を未だに憶測でしかとらえていないのだから。
「あなたの今の発言こそ、全く意味のないものだということがまだお分かりになっていないようですね。公の場なので、少しは考えて物を言っていただきたい」
 私のその発言を聞くと、彼らはざわざわと騒ぎ立てるだけで、もう誰も私に攻撃的な言葉をぶつける者はいなかった。

 場内が少し静かになってきた頃。
 私は頭の隅にあった、「私なりの憶測」を述べてみようかと考える。
 私が考えた物事に対して、それを妨害するような者がいるということは、私とて理解している。しかし、右翼左翼といったような類の者ではないということは確かだ。そう考えた末、ある時、私は一つの憶測にたどり着いた。だがそれは、私という崇高な人間が思いついた事にしては大変奇妙なものであったし、私自身の考えに対して、私自身がそれを欺瞞だと思えた。この場で述べる事でもないだろう、とは思っていたのだが、むしろ丁度良い機会なのではないかとも、今になって思えてきた。上手くいけば、この記者たちの向ける汚らわしいペンの矛先を、私からそらすことができるのではないか、と。
 そう決意した私は、聴衆に向かい、演説をするつもりで、静かに話し始める。

「では皆さん。今からここで、私がこの連続猟奇殺人の犯人像を特定する、というのは如何でしょう?責任を取る、という言葉の意味にはなりませんが、少しでもこの事件解決のヒントとなれば、と思ったのですが」
 その時、会場の空気が一瞬、ピインと張り詰めたのを私は感じた。
 私は、またもやこの記者達がざわつき始めるのではないかと予想していただけに、少し驚く。きっと、どんな些細な情報も有益にしてしまおうという、記者魂と呼ばれるものがそうさせたのだろう、と私は思う。
「一つ、質問よろしいでしょうか」
 記者の群衆の中から声がし、一人の男が手を挙げた。どうぞ、と言い、私はそれを促す。
 黒い髪と黒いスーツの群れからひょいと抜け出るように、男がその姿を私に見せる。ごく一般的な日本人の顔立ちをしていて、多少人情味も感じさせる風貌の記者だった。
「今の大臣の発言は、あたかも犯人について何か知っている、というような発言に聞こえたのですが、大臣は、犯人について何かご存じなのでしょうか」記者の男は顔が痒いのか、ぽりぽりと頬をかきながら、私に質問をする。
「何故、あなたはそう思われたのでしょうか」
「大臣は犯人像を『特定する』とおっしゃいました。それは、犯人について何か知っている、もしくはそう考えられるであろう確固たる自信がある場合にしか、普通は言わない言葉だからです」
 私はピクン、と反応する。どうやらこの記者は、他の記者と着眼点が違うようだ。

「なるほど。そう言われれば、その通りですね。いいでしょう。私が犯人について知っていることを、これからご説明いたしましょう。ですが、これはあくまでも私の予想に過ぎません。ですから、これが真実であるかどうかを確かめる必要はございません。もちろん、それが警察の皆さん、そしてあなた方記者達の何かのヒントになれば、とは思っておりますが」
「わかりました。では、広田大臣。あなたのその予想を早速お聞かせ願えませんか」そう言うと、記者の男は席に座り、姿が見えなくなった。私はその様子を見たあと、一呼吸おいて、話す。

「では、始めます。今回の猟奇殺人事件のポイントは、どの被害者の遺体も『齧られた』痕跡があるということです。一見すると、先日お亡くなりになられた後藤田元警視総監が述べたように、カニバリズムに魅せられた者の犯行のように見えます。犯人は、人を食すことに何か信念のようなものを持って犯行に及んでいるのではないかと、私たちは思いました。しかし、それが盲点だったのです。後藤田さんがカニバリズムの事を述べたことによって、この事件はあたかもカニバリズムに魅せられた人間の犯行であると、私たちは先入観を感じてしまっていたのです。そこで、こう考えるとどうでしょう。もし、被害者を殺害し、その後に『齧る』という行為に全く意味が無かったとしたら?犯人はカニバリズムなどという思想を、少しも持っていないとしたら」
「大臣!発言内容の意味がわかりませんよ」記者の誰かが叫ぶ。
「まだ私の話は終わっておりません。質問があれば、後にしていただきたい。少し話がややこしいようなので、かいつまんで言いますと、つまり。これまでの連続猟奇殺人の犯行は、人間の仕業ではない、と私は考えました」私がそう言うと、またもや予想に反して、誰も騒ぐ様子を見せず、私の話を聞き続けているようだった。奇妙だ、とも思ったが、私は話を続ける。
「もう、おわかりいただけているかとは思いますが、人間の仕業ではないということは、人間以外の犯行だと、私は予想しております」

「では広田大臣は、人間以外の、何の犯行だとお考えなのですか」また、あの記者の男が群衆の中から姿を現し、ぽりぽりと頬をかきながら言う。
「これは、私自身も非常に馬鹿げた事だとは思いますし、非日常的な要素がありすぎるとも思いますが、そうですね。私は多分、動物たちの仕業なのではないかと考えております」
「動物たち、ですか。動物というと、例えばどんな?」
「そこまでは、私にも分かり兼ねます。が、とても知能の高く、非常にどう猛な動物の仕業であると言えるのではないでしょうか」
 よし。記者達もみな、私の話を興味深そうに聞いているようだ。こんな奇想天外な話でも、少しは私の計画から目をそらす事はできそうだ。毎日の生活の中で、常に何かないだろうかとネタを追いかけている記者たちのことだ。私のこの発言を馬鹿げた発言だと取り上げる可能性がある。もしかすれば、あきれ果てて私のことなどを追う事さえ辞めるかもしれない。大した器ではない大臣だった、と記事を書くかもしれない。しかし、それでいいのだ。私は、私の計画さえ実行できさえすれば良いのだ。

「もう一つ、ご質問があるのですが」再度、記者の男が言う。
「何でしょう」
「もし仮に、大臣がおっしゃっている事を信じるとして、動物たちの犯行だとしましょう。そうだとすれば、何故その動物たちは人間を殺し、齧っているのだと思いますか?それも、全国的に、そしてあなたの建設企画に関わっている方々を中心に」
 この記者は一体何を考えているのだ。そんな事を聞いて一体何になるというのだ。私が述べた事の先を考えるのは、貴様ら記者たちの仕事ではないのか。…まぁいい。この会見が終われば事はスムーズにいく。もう少し付き合ってもいいだろう。
「そうですね、さしずめ私の建設企画において、自分たちの大事な居住地である自然を侵略されたくないから犯行に及んだ、といったところでしょうか」
「んー、惜しいですね」
「は?」
「いや、大体は合ってるんですが、ちょっとニュアンスが違うんですよ」
 何だこの男は?さっきから何を言っているのだ?この私を聴衆の面前でコケにしようとしているのか?
「君!君は何を訳のわからない事を言っているのだ!惜しいだとか何だとか、これはあくまでも予想の話ではないか!」私は思わず声を荒げる。しかし、記者の男は特に動じもせず、またもやぽりぽりと頬をかきながら、言う。
「ですから、違うんですよ。犯行理由が。というか動機が。うん。やはり大臣と言っても、ここ止まりでしたか」
「い、いい加減にしたまえ!さっきから意味の分からない事ばかり言っているんじゃない!犯行理由や動機が違う?そんなもの、もし私が言うように動物たちの犯行だとすれば、誰も分かるはずがないではないか。それとも君は、動物たちの声でも聞けると言うのか?」
「ええ、もちろんですよ」記者の男は、ニコリとほほ笑む。
「なっ…、何だと!馬鹿げている!やはり貴様ら記者たちは馬鹿げているのだ!動物たちの声が聞ける?そんな事がある訳がないだろう!」
「あるんですよ。だって僕たち、猿ですから」
 記者の男がそう言って、笑った。

 笑ったというよりも、何かを噛みしめたというようにも見え、その瞬間私の耳の奥にキィーンと甲高い何かの音が聞こえたような気がした。
 すると、他の記者たち全員が立ち上がり、ヒィーッ、ヒァーッ、と奇声を上げ始めた。キャホキャホ、ヒアーッ!ウアーッ!
 中にはその場で飛び上がる者もおり、私は思わず目の前の光景に目を疑ってしまう。左右、中央、どこを見渡しても、そこにいる者たちは狂ったように奇声を上げ、手を打ち鳴らしている。

「ね、言ったでしょう?僕たちは全員、猿なんですよ」
 一人だけ、冷静に言葉を話す男がいた。その男は狂った者たちをかきわけ、私の前へと歩み寄る。先ほどの記者の男だった。
「こ、ここ、こんな事があっていいはずがない!そうだ、夢だ!きっと私は夢を見ているんだ!ああ!」
 私は気が動転していた。思わず入り口へと転げ出す。しかし、入り口の前に立っていた者も、私が近づくとキアーッ!と奇声を上げ始めた。私は仰天し、その場に尻もちをついた。
「無駄ですよ。あなた以外、みんな猿ですから。それにしても」記者の男は、地べたに座る私を見降ろしながら話す。
「惜しかったですよね、あなたも後藤田さんも。後藤田さんは人間の思想にとらわれ過ぎたんですよ。カニバリズムもあながち間違いではないですが、僕らはただ単に人間を食べているわけじゃないんです。そして広田さん。あなた自身は、僕らにただの妄想を話したつもりかもしれませんが、実はそれこそが正解だったんです。カニバリズムなんて思想、僕らは持ってませんから。ただ、僕らは別にあなたの計画を邪魔するために食ったわけじゃあないんですよ」
「だ、だ、だ、だったら!何故こんなことをするんだ、貴様らは!」
「そうですね。最後に教えてあげましょうか」
 男は、それまでぽりぽりと頬を掻いていた手を止め、何かを受け止めるような仕草で両手を頭上へと高く上げ、言った。

「僕らは、進化するんです」
 記者の男がそう言い終わるやいなや、大勢の狂った記者たちが私へと飛びかかってきた。最初に目を食われ、もう、何も見えなくなった。

カップルの場合

「よって、この政策を中止し、代わりに今お話したように、自然保護をメインとする企画を提案いたします。如何でしょうか」
 この言葉の後、議会はより一層雑音が大きくなり、各々の議員たちがそこらでこそこそと小さな議論を始め出した。広田国家交道大臣が自身で推し進めていた案を自ら廃止宣言し、それまでとは180度角度を変えた内容の企画を提案したからである。
いくら広田大臣が話の上手い人間で、その場にいる者の心を引き付けてしまうカリスマ性を持ち合わせていたからといっても、誰もが予想をしていなかった行動だったため、議会はたちまち混乱に陥った。
 連続猟奇殺人は影をひそめ、近頃はそのニュースでメディアが騒ぎ立てることも無かった。人々は日常の生活に追われ、まるで何事も無かったかのように平静を取り戻しているようだった。

 そこで、広田大臣の発言である。
 そのままであれば何事もなく順調に事を進められるということは、当事者である広田大臣でなくとも、明白であった。しかし何故、ここにきて建設計画を全て白紙にし、失われつつある自然を保護し、拡張してゆこうという内容に変えたのか。当然それは日本だけではなく、世界的に見ても実行してゆかなければならないという、いわば人類にとっての命題とも呼べるものであったが、広田大臣はさらに人の住む場所を減らしてでも自然を拡張してゆくべきだと発言したのである。真逆も真逆、本当に自分の意見をひっくり返しただけの意見に、議員は誰も賛同できずにいた。

「ちょっといいかね、広田大臣」メガネをかけ、四角い顔をしたベテラン議員がマイクの前に立ち、異議を申し立てる。
「ええ、何でしょう」
「君は以前、この政策は何が何でも成功させる、いや、成功させねばならないというような事を言っていたではないか。それが何だ。急に中止などと言いおって」
 広田は面倒くさそうに、頬をぽりぽりと掻く。
「まぁまぁ、落ち着いてください。確かに、以前の私はそう言ったかもしれません。ですが、今の私の考え方は違うのです」
「ハッハッハ、まるで別人だとでも言いたそうな顔じゃあないか。しかしね、君は何も変わっておらんのだよ。以前も、そして今も。どちらにしてもただの我儘を押し付けているだけではないか。まず君は自分の立場を理解しているのかね?あの連続殺人で、君は一度その責任を言及されている身だ。だが、運が良かったと言うべきか、事件は沈静化した。そして君は今も国家交道大臣という立場にいる。ここは国会の場だ。神聖な場所なのだよ。どうして君のような男がまだこの場に居続けられるのか、不思議でしょうがない。他の連中がそれを許可しようとも、私は君一人の我儘を黙って見過ごす事などできないのだよ」
 議員の声が大きかったため、キーン、というノイズが場内に響き渡る。

「確かに、外見は変わってないかもしれません。ですが、確実に変わってしまったのですよ。何もかも。さらに言うのであれば、これまでの政策はただの私のエゴだったかもしれません。ですが、先ほど私が述べた事は、そうではありませんよ。望まれているからこそ、政策を変えたのです」広田は微笑をもらす。
「望まれている、だと?冗談も休み休み言いたまえ。君のその、コロコロ変わる政策を誰が望むというのだね?国民か?それとも我々議員か?」
「どちらでもありません」
「何だって?」
 広田は、一呼吸おいて、言う。
「世の中が、望んでいるんですよ」

 広田がそう述べた後、ある一部の議員からパチパチと拍手が起こった。それは一人、また一人と増え、過半数以上の議員が拍手をし始めた。広田に対し異議を申し立てていたメガネの議員とその他の議員はあっけにとられ、拍手とざわめきが半々という奇妙な光景になった。これが何を意味しているのか、議員の半分はまだ、わかっていないようだった。
 そして、数年が経った。

 とある公園の噴水前のベンチに、若い男女が座っている。男女の前には鳩たちが首を前後に揺らしつつ、何かをついばむように大勢歩いていた。
「なあ、ヒューマン・ズー、って知ってる?」男が言う。
「あ、聞いたことあるかも。最近できたんでしょ?今、超人気らしいじゃん」
「そうそう。俺、こないだ行って来たんだけどさ、すっげえ面白かったぜ」
「は?ちょっと、何でアタシを一緒に連れてってくれなかったの?ってか、誰と行ったのさ」
 女は訝しげに男の顔を見る。すると男は動揺を見せ、女から視線をそらした。
「え?あ、いやあ、誘われたからさ、友達と行ったんだよ」
「なんか怪しいんだけど。まさか他の女と行ってないでしょうね?」
「は、ははは。そんなわけないじゃん。俺にはお前しかいないもん」
「ふーん、どうだか」
 しまった、という表情を見せる男は、罰が悪そうに髪をくしゃくしゃとやる。
「ってかさ、お前そんなこと考えるなんて、本当に人間らしくなったよな」
「えー?ちょっと、話変えないでよ。まぁ、でも確かに、こうなってからもう3年経つからかな」
「多分、そうだろ。よしわかった。じゃあ今日、ヒューマン・ズー行く?」
「え!ホント!行きたい行きたい!行こうよ!」
 二人はベンチから立ち上がり、どこかへ歩いていった。

世の中の場合

 連続猟奇殺人が起こる数年前、とある動物園から逃げ出したチンパンジーが数匹、いた。
 狭い檻の中で、日々人間の目にさらされ、与えられる食事も満足にできなかった。しかし、そこから解放された時、そのチンパンジーたちは自由になったのである。チンパンジーたちは所構わず走り、逃げた。迷い込んだ森の中で、なんとか食物になりそうなものを探し、拾っては食べた。そして飼いならされていた本能が少しずつ野生を取り戻し、一種のテリトリーを築き上げるまでになった。
 やがてチンパンジーたちは家族を作り、本来のあるべき姿へと戻っていったのである。野生の種族よりもより人間を嫌い、より人間を恐れる。それは、人間から飼われていたという経験が、彼らにそうさせるのであった。

 ある日そこへ、偶然にも迷い込んだ不法投棄の業者を見つけてしまった。チンパンジーたちは縄張りの侵略にとても敏感な動物である。そのため、本能的に業者を襲い、殺してしまった。そして、その肉を食べたのである。
 人間を食ったその後、彼らは突発的な何かが作用し、人間へと変貌を遂げた。容姿だけでなく、脳を食らうことで知識も得ることができた。彼らは知識を、そして進化を渇望し、人を見つけては、食った。これが、連続猟奇殺人の始まりである。

 世の中には、とある観光スポットが出来つつあった。日中は閉園しており、夜中のある時間帯のみ開園される場所、「ヒューマン・ズー」。そこでは動物の代わりに、人間が檻の中へ入れられ、裸で飼育されていた。そこへ訪れる客もまた、人間であった。

 園内の明かりが一斉に灯り、賑やかしい音楽が流れ始める。それに合わせて赤、緑、黄色のライトが眩しく踊る。やがて白く太いライトが一つに収束され、園の入り口の門を照らす。門が開き、中から逆立ち歩きをしたピエロがやってきて、叫ぶ。
「さあ、ヒューマン・ズーの開園だよ!もちろん、入園料なんて無し!今日も時間の許す限り、どうぞお楽しみください!」そう言うと、ピエロは2、3度バク宙を決め、見事な着地を決めた後、入り口の門を両手でビシリと指さす。
 おおお、という歓声と拍手が辺りからあがると、どこからやって来たのか、大勢の人間がわさわさと入り口へ群がった。群れから少し遅れるように、端正な顔立ちをした男が颯爽と歩いてくる。それを見たピエロは、ひゅーんと飛び上がって、その男の目の前に着地した。

「これはこれは、リーダー。いや、今は広田国家交道大臣、でしたか」
「いや、いいよそんな名前。別にいらないし。いつものように、リーダーでいいよ」
「ではリーダー、本日はどうなされたのでしょう」
 リーダーと呼ばれた広田は、ぽりぽりと頬をかきながら答える。
「いやさ、ここが結構人気だって聞いたから、僕も見ておこうかなと思って。まだ見た事無かったしね。最近、人間の相手がやけに忙しくて、休む暇も無いんだよ。あいつらホントにウザいわ。こんなことなら、広田になんかならなければ良かったな」
「まま、そうおっしゃらずに。リーダーがいなければ、我々がこのように進化する事は無かったのですから。では、本日は人間の事など忘れて、存分にお楽しみくださいませ」
「ははは。ありがとう。でもさ、ここには人間しかいないんだろ?」
「あっ!そうでした!いやはや、これは失敬失敬」ピエロはペシンとおでこを叩く。
「まぁ、いいや。とりあえず案内してくれる?」
 広田はピエロの後に続いて、園へと入っていく。

 園内では様々な催し物が開催され、猿から人間へと変化した彼らならではの芸が披露されている。出店では人肉ソーセージや目玉のポップコーンなどが売られ、子供には人間の腸を膨らませた風船が配られていた。しかし、飲み物だけは人気があるのか、コーラやポカリなどといった人間の世界と同じ物が販売されていた。そして、園内を歩いているのは家族連れやカップル、友人同士といった、なんら人間と容姿が変わらない者たちだった。

「こちらは、サーカス小屋でございます」大きなテントの前で立ち止まり、ピエロが言う。
「へぇ、サーカスまでやってるんだ?見る見る」
小屋の中には客席が多数あり、ステージには広田の案内役と同じ格好をしたピエロがいて、そのピエロはマイクを持ったMCの役目だった。
丁度、最初の演目が始まるところだったらしく、MCが合図を送ると、首輪がつけられた人間がステージへと放り出され、何やら怯えている。客たちはそれを見るだけで、爆笑した。MCの2回目の合図で、オスのライオンが一匹、ステージに連れてこられる。MCはライオンに近づいて、何やらぼそぼそと話をし始めた。ライオンはガオンと吠えたあと、じりじりと人間との距離を詰めていく。
「さあ、ショーの始まりだよ!」MCがマイクでそう叫ぶ。
 人間は声にならない声を出して怯え、ステージの隅へと逃げる。しかし、MCが人間についている首輪の鎖をぐいと引っ張ると、人間は勢いよく地面へと転び、顔が土まみれになった。その行為が数回繰り返される。客たちはその光景を見て、腹を抱えて思い切り笑っていた。

 鎖につながれた人間が肩で息をし始めた頃、ライオンが人間へと飛びかかる。前足で顔を蹴られ、ぶべっ、という声が漏らしながら、人間は後ろへと転がる。間髪入れずにライオンが飛びかかり、人間の胴体へと噛みつく。ぎゃあ、という声が場内へ響き、客席からは拍手と歓声が一斉にあがった。ライオンは人間の肉に噛みついたまま、ぶるぶると頭を左右に振り、感触を楽しんでいるようだった。

 しばらくして、ぶちりと音がし、人間が転がる。その一部はライオンの口に残っており、ライオンの口元が赤く染まった。客たちは席から立ち上がって、手を頭上で打ち鳴らし、キャア!キャア!と吠え始めた。それに興奮したのか、ライオンは人間に齧りつき、そのままがぶがぶと美味そうに肉を食らった。少しの間ビクンビクンと身悶えていた人間は、しばらくして、動かなくなった。
「あっ、コラ!すぐに食べるなって言っただろ!」MCのピエロが叫ぶが、ライオンは美味しそうにくちゃくちゃとやった。その様子を見て客は、ああー、と感嘆の声を漏らす。そして、ライオンに向かって大きな拍手を送った。
「何だ、結構盛り上がってるじゃないか」広田はそう言って、ピエロと一緒に小屋から出る。

「続いては、こちらになります」ピエロが掌を前に差し出し、広田を案内する。
 檻の中に砂地があって、中には数人の人間が裸で何やら呻いていた。その周りは高台になっていて、広田たちから見ると、だいぶ上の方から人間たちを見降ろすような形になっていた。砂地には山や丘などが造形物として存在し、まさに動物園と同じような作りになっているらしかった。
「いわゆる、人山、ってやつかな?」
「はい、そうでございます。細部にもこだわって作りましたので、ごゆっくりとご覧ください」
「まあ、そこまで俺らの時と同じにしちゃうと、ちょっと嫌な気持ちが蘇ってくるけどね」
「あ、申し訳ございません!近いうちに、別なものにいたしますので」
「ああ、いいよいいよ。もう俺らは、猿でも人間でもないしね」
「お、恐れ入ります」

 そんなやり取りをした後、広田が人山を見ていると、一人の人間が他の人間へと噛みついた。があああああ、と悲壮な叫び声があがる。
「ねえ、あれって完全に噛みついてるけど、いいのかい?」
「ええ、あいつらには食べ物を与えてませんので、きっと空腹なんでしょう。こういうことは日常茶飯事でございまして、いつの間にかここの名物のようなものになっております」
「ふーん、そうなんだ」
 ピエロがそう言った通り、余程腹が減っているのか、人間に噛みついた人間はそのまま体の肉を齧り取り、そのままムシャムシャと食べてしまった。砂にはピピシッと血しぶきが飛ぶ。その様子を見た周りの人間たちもそこへわらわらと集まってきて、同じように肉を食べている。彼らは広田たちから見降ろされていることなど忘れているかのように、肉を食う事に夢中になっていた。
「はっはっはっはっは、これは面白いな!名物になるっていうことが分かったよ。あいつら、共食いしてるじゃないか!」
「はい、喜んでいただけて、光栄です。しかし、こいつらはただ、食ってるだけですから。最後の一人になると、食う物もないので、やがて死んでしまうんです。ですからその前にまた人間を補充して、餌の代わりにしてるんですよ」
「なるほどね。はっはっは。なあ、あいつら、以前カニバリズムとかなんとか、って言ってたけどさ、今こうやってお互いに食ってる奴ら、そういう事考えたりしてると思う?」
「さあ、わかりませんが、多分考えてないんじゃないでしょうか」
「だよねー。俺らだって、そんな面倒くさい考えとか持って食ってるわけじゃないしね。そういう事言ってた奴らが普通に食ってるんだもんな。いやホント、見れば見るほど滑稽だ」
「はは。左様でございますね」ピエロは、揉み手をしながら深々と頭を下げる。

 ピエロの行為を見た広田は、徐々に笑うのを止めて、少し苦々しい顔をしながら言う。
「なんかさ、僕たちも昔は共食いしてたじゃないか。もう薄っすらとしか記憶が残ってないけどさ。今さらだけど、何であんなことしてたんだろうって思うんだ。同類を食うって、一体何の意味があったんだろ。今、まさに共食いし合ってるこいつらを見てると、結局は人間も、僕らも同じなのかもしれないな」

 一人を食べ終えた人間は、かなり食欲があるのか、次に別な人間へと食らいついた。広田はそれを見て、再びクククと笑い始める。
 黒緑の空には無数の星がきらめいており、肉を食われる人間の叫喚と、広田の甲高い笑い声が混ざり合い、その空へ渦となって、吸い込まれていった。

フィエステリア

フィエステリア

連続した短編小説です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-26

Copyrighted
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  1. 人間の場合
  2. ニュースの場合
  3. 猿の場合
  4. 政治家の場合
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  6. 世の中の場合