ホタル

 企業検索がどうだとか、自分がやりたい事だとか、愛知県で立てこもりが起きてるだとかが嫌になって、僕はベランダの外に出てみた。
 外はもう7月になるというのに、まだ夏と言われたくないのか、学校がわりと山の上の方に建っているからなのか、それともただ単に夜だからなのか、はたまた僕がこういう気持ちだからなのか、肌寒いというか、寂しかった。
 カチリ、とタバコに火をつけて煙を思い切り肺に入れる。虚ろな気持ちを忘れようとしたけれど、口から吐き出されるのは、外と同じくらい寂しい白い煙だった。手垢で汚れている窓ガラスにもたれかけて、そのままタバコを吸った。

 ふと、誰かが階段を上がってくる音がした。目の前の踊り場を見ると、荷物が積まれた段ボールと、お茶のペットボトルがある。階段を上がってきたのはおじさんで、どうやらその人の荷物のようだ。
 おじさんは、そこらへんのどこにでもいるような作業員、といった風貌で、ものすごくやせ細っており、顔は赤黒く日に焼け、髪は乱雑に散らかっている。いかにも、といった感じだった。なによりも、臭そうだった。
 僕が気にせずタバコを吸っていると、その赤黒くて臭そうなおじさんは、言った。

「ホタル、ですか?」
 あ、そうか。ホタル族の事か。一瞬考えたあと、僕は思いつく。こうして外でタバコを吸っている人の事を、タバコの火種の灯りからホタル族と呼ぶのだ。
「まあ、そんな感じです」
「ははは。中じゃあ吸えないのかい?」
「そうですね」
「最近は喫煙者も肩身が狭くなってるって言うしね。どこもそうなんだろうねえ」
「ここはまだこうやって灰皿があるからいい方ですけど、うちの県で一番デカイ大学なんて、敷地内全面禁煙になったみたいで、学生とかはわざわざ校門の外に出て吸ってるみたいですよ」
「へぇ。そいつはそこの職員さんたちも大変だろうね」
「でしょうね」
 こうして雑談を交わしている最中、おじさんは意外と優しい声をしていて、それだけで今までの「臭そう」というイメージが払拭されたような気がした。

「ところで、ホタルですか?」
「え?」
 気がつくと、僕の体は昆虫のホタルになっていた。
 タバコを持つ手はトゲが生えた木の枝みたいになっているし、足も同じように細く枯れた枝のように変わっていた。手垢で汚れたガラスにもたれかかっていた背中も、ツルンとした羽根が生えている。全身は白黒っぽく、さっきまではジーンズに覆われていた僕のお尻も、黄色く発光するランプのようなものに変わっていた。
 ガラスに映る僕の顔は、昆虫のホタルそのものに変化していた。

「うわ!なんだよこれ!」
「だから、ホタルなんでしょ?」
 一体何が起こっているのか自分でもわからないまま、とりあえず落ち着こうとして僕はタバコを吸う。
 枝となってしまった指で挟んでいるタバコを見て僕は思う。そもそも、ホタルに口なんてあるのか。感覚だけで口の周囲を動かそうとすると、どうやらストロー状になっているようで、僕はそれをうまく動かし、タバコを吸った。煙を吐くと、ピョー、と音がした。そして、それに合わせて僕のお尻が黄緑色に点滅した。よく見れば羽根も蒼白く光っているようだ。なんだか不思議だけれど、それが自分でも驚くほど綺麗で、ピヨー、ピヒョローと何度もタバコを吸った。

「君は世の中を知っているかい?」
 突然、おじさんが言う。
「えっと、ある程度は、わかるかもしれません」
 ホタルになっても喋れるらしい。ただ、一言話す度に、うにんとストローが伸び縮みして、気持ちが悪い。
「ある程度っていうと、どれくらいだい?」
「今まで生きてきて経験したり、分かったことくらいですかね。音楽とかなら結構詳しいですよ」
「そうか。じゃあ君は何故、今こうしてホタルになっているのか、知っているのかい?」
 おじさんはまた不思議なことを聞く。
「それは僕に聞かれても困りますよ。僕自身も何でホタルになってるのか、さっぱりわからないんですから」
「はっはっは。だったら、世の中の事をある程度知ってるなんて、言えないじゃないか」
 僕はカチンとくる。
「でも、それとこれとは関係ないじゃないですか」
「本当に、本当にそう思うかい?」
 ニカッと笑いながらおじさんは僕に聞く。笑った顔を見て、おじさんには前歯が一本無いことがわかった。
「実は君がホタルになっている事と、世の中を知るという事が、ほんの少しでも関係しているとしたら?」
「はあ?」
「関係しているとは言い切れないけれども、もしかしたら関係しているかもしれない、ということだよ。君は世の中を知らないが、実は色々な事を知ろうとしている。だからホタルになったんじゃないか?」
 僕はなんだかよくわからなくなって、蒼白く光っている羽根をくしゅくしゅと触った。

「いいかい?世の中を知るという事は、とても勇気がいることなんだ。知ってみたらそれまで自分が思っていた事とは全然違ったり、知ってしまう事で逆に見えなくなってしまう事の方が多いんだ。人は何かを知ろうとした時に、その状況や何かが加わって、想いが具現化してしまうんだよ。例えば、人を殺したいと毎日考えている人が、殺した時に肉を切る感触はどんなものなんだろうとばかり思っていたら、両手が包丁に変わってしまったりとかね」
「じゃあ、何で僕はホタルになんか変わったんですか?」
「確かな事は言えないけど、時間が無いって思ったりしてるんじゃないかな。何かに対してね。ほら、ホタルってすぐ死んでしまうだろう?蝉もそうだけど、短い命ってやつ?」
 なんだよそれ。意味わかんねえよ。僕はだんだんおじさんに腹が立ってくる。
「別に俺、世の中について知りたい事があって、それに時間がないとか全然思っていませんよ」
「世の中ってのは一言じゃあ言えない。世の中世の中って言うけど、細分化してみればものすごく膨大な情報や知識があるからね。社会の事だったり音楽の事だったり。ましてや明日の天気、人の気持ちだったりもするんだ。私はそれをひっくるめて『世の中』って言っているだけだよ」
 僕はまた腹が立つ。と同時に、考え込んでしまう。一体なんだよ、それ。
「ちょっと難しいかな?でもね、君がホタルになってしまったっていうことは、何かを知ろうとしているという証拠なんだ。それは事実だよ。その『何か』までは私はわからないけど。君じゃないし」

 タバコが燃え尽きて、寂しい夜がその灰をさらっていった。線香花火みたいにパラパラと燃えた灰の光は、僕の光る羽根にシンクロしているようだった。
 よいしょ、とおじさんは荷物を持ち、階段を下りていく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、俺このままだとヤバいですよね!ホタルのままだったら死んじゃうんでしょ?短い命って、あと何日も生きられるかわかんないですよ!どうしたらいいんですか!」
「ホタルのままじゃ、嫌かい?」
 階段を下りるおじさんの声が、踊り場に反響して聞こえてくる。
「そりゃそうですよ!だって死ぬんですよ?まだ夏もきてないのに、ホタルなんて季節外れだし、しかもこんなでかいホタルの死骸あったら皆ひくじゃないですか!それにまだ俺若いしやりたいことだっていっぱいあるんですよ!このままじゃ死ねませんよ!」
「元に戻りたいの?」
「当たり前じゃないですか!」
「だったら、知ることだよ。勇気を出して、ね」

 もうなんなんだよ。一体このオヤジ何者だよ。意味わからねえことばっかり言ってんじゃねえよ。好きでホタルになんかなったわけじゃねえよ。何だよ知るって。何だよ勇気って。
僕の中に渦巻いた気持ちを理解してくれるはずもなく、おじさんは荷物をトラックに詰め終わって、チェックをしている。僕はベランダから下を見下ろし、叫ぶ。
「もういいですよ!このまま死にますよ!もう知らなくていいですよ!何だかよくわかんないけど!」口のストローが、うにんと伸びる。
「まぁ、そういう道もありだ、って私は思うよ。知らない方が良かったって事もあるからね。しつこいようだけど、知るかどうかは、君自身が決める事だから」
 運転席のドアに手をかけながら、おじさんは言う。

 僕が知りたいことって何だろう。世の中にある、僕が知りたいこと。履歴書の書き方?愛知県で起きている事件の結果?誰かの気持ち?虫のこと?明日の天気?わかるようで、わかるはずがない。
 本当にこのままホタルで一生を終えてしまおうか。命はもう残り少ないかもしれない。何もできないかもしれない。でも、よく見ればこの枝のような手足だって使いやすそうだし、羽根だってお尻だって、タバコ一本吸いさえすれば、見事に綺麗に光ってくれる。こんな大きさのホタルの死骸があればニュースになるだろうし、それが僕だってわかったら僕は有名になる。
 待てよ。これが僕か。こんな姿で死んだら、父や母は何て思うだろう。虫みたいな顔をしている、なんて思ってたら本当に虫になって死んでしまった、とか思うんだろうか。というか、誰か悲しんでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。そもそも僕だってわかってくれるだろうか。今日を境に僕がいなくなったとして、誰か気づいてくれるだろうか。

 その時、僕はあることを思い出していた。僕が一体何を知ろうとしていたのか。僕が何に対して勇気を出さなきゃいけないのか。ハッキリとはわからないけれど、うっすらと見える。見えるというか、感じている。胸の奥の方にある感じ。その形は栗のようにイガイガしているし、それでいて触れば風船みたいにパンッとはじけて消えてしまいそうに不安定だ。触りたいけど触れない。できるなら知りたくはない。やはりあのおじさんが言うように、知らないでいた方がいいかもしれない。これを知ってしまった時、このホタルのままで死んだ方が良かったって思うかもしれない。でも、すごく知りたい。何故だかわからないけれど、知ったら何かが変わる気がする。良い方か悪い方かまではわからないけれど、本気でそう思う。今まで生きてきて経験してきたことよりも、この何だかわからないことの方が大事だって思う。感じる。知りたい。

 バタン、とトラックのドアが閉まる音がして、僕は我に返る。
 バロロロロロロロ、という音を立てて、トラックは走っていった。角を曲がる途中で、おじさんが窓から顔を出した。きっと、笑っていたのだろう。口の間に、ちょうど歯の一本分の暗闇が見えたから。

 手垢のベッタリついたガラスを見ると、僕は、僕に戻っていた。
 一体何を知ったんだろう。全然何かを理解した気がしない。でもきっと、知ろうと思ったことがきっかけで戻ったんだろう。それが勇気だったんだろう。

 夜はまだ寂しそうにしていたので、細くなくなった指でカチッとタバコに火をつける。肺いっぱいに吸い込んで、口から吐き出す。羽根なんかない。お尻もよれよれのデニムに覆われている。
 僕は何かを知ろうとした。それが事実だ。大したことじゃないのかもしれないけど、きっと僕の中ではすごいことなのだろう。ホタルになってしまうくらいだ。そう滅多にあることじゃない。
 本当にその全てを知った時、僕は喜ぶだろうか。それとも、後悔するだろうか。それは、こんな寂しそうな夜にだって、絶対にわからないことなんだ。

ホタル

ホタル

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted