ドラードの森(9)
歩きながら、おれは気になっていることをモフモフに聞いてみた。
「あのオランチュラとかいうやつは、きみのペットか何かなのか」
「わたくしの、というわけではありません。かれらは特別な存在なのです。わたくしたちドラード人は森の上層部を生活圏にしています。一方、ムシやキノコたちは下層部を住処にしており、お互いにあまり干渉しないように棲み分けています。実を言いますと、下層部の空気はわたくしたちには酸素が濃過ぎますし、逆に上層部では巨大なムシたちは窒息してしまいます。樹上にまで上がって来るのは比較的小さなムシだけなのです」
おれは便箋並みのチョウを思い返した。
「あれでも小さい方なのか」
モフモフはちょっと苦笑した。
「まあ、地球のものに比べれば大きいと思いますが。ともかく、わたくしたちの世界とムシたちの世界の、いわば、緩衝帯として中層部にいるのがオランチュラなのです。わたくしたちはムシとコミュニケーションをとることはできませんが、オランチュラは簡単な言葉なら理解してくれます。それに、何と言ったらいいのでしょうか、オランチュラはわたくしたちに友好的なのです。わたくしたちだって誤って下に落ちることがあるのですが、必ず彼らの網に引っかかりますし、必ず助けてくれます。そのため、わたくしたちはオランチュラを森の精霊の使いと信じているのです」
話に集中していて気付かなかったが、おれが落ちたのより大きな穴がすぐ目の前にあり、その向こう側に太い枝が伸びていた。
モフモフはオランチュラの話をやめ、みんなに声をかけた。
「さあ、みなさま、両替所は隣の木の上にあります。この枝橋を通って行きますので、どうか気をつけてお渡りください」
またゾッとする空中散歩なのか、そう思ってためらっていると、モフモフがおれに背中を向けてかがんだ。
「中野さま、どうぞ」
タイミングの悪いことに、さっきのアッくんとかいう子供が不思議そうな顔でこちらを見ている。ここでおれがモフモフにオンブなどしてもらおうものなら、裸の王さまを見つけた子供のように大騒ぎしそうである。
しかも、先ほどは姿の見えなかった黒レザーの女がいつの間にか戻っており、面白いことが起きるのを期待するような顔でおれたちを見ていた。
「ああ、いや、いいんだ。これぐらい、自力で行けるよ」
「よろしいのですか」
「うんうん、大丈夫さ。これが高所恐怖症を克服するチャンス、かもしれないしね」
強がったものの、今度の枝はモフモフに負ぶさって渡ったものよりかなり細い。そのためだろう、ちょうど吊り橋のように、枝の両側にオランチュラの糸を編んだらしい手すりが付けてある。モフモフがそれを指さして、みんなに注意を促していた。
「手すりには十分な強度がありますが、お子さまが登られたりしないよう、お気をつけください。それから、途中で向こう側の枝とのジョイント部分がありますので、そこを渡るときには、お子さまの手を離さないようお願いします」
最初、黒レザーの女が手すりなど目もくれず足早に渡り始め、それを追いかけるように髭男、負けじと黒田氏が続いた。日曜日のパパや子供たちさえ次々と楽しげに渡って行くのに、おれはなかなか最初の一歩を踏み出すことができずにいた。
すると、黒田夫人がニコニコしながらおれに手を差し出した。
「中野さん、主人がさっさと先に行ってしまったので、すみませんが手を引いてもらえないかしら」
「はあ」
とても人をエスコートするような気持ちの余裕はないが、そう言われると断れない。おれは夫人と手をつないで渡り始めたが、どちらかといえば、おれの方が手を引かれているような感じである。
橋を進むにつれて次第に枝が細くなってきて、歩くたびに微妙に上下に振動するようになった。おれは膝が震えだした。夫人と手をつないでいなければ、とっくに引き返しているところだ。
そうこうするうちに、問題のジョイント部分が見えた。こちら側の枝と向こう側の枝を束ねて糸でグルグル巻きにしてあるだけだ。幅は両手を広げたぐらいしかない。それまで、極力視線を下に向けないように気をつけていたのだが、うっかり橋の下を見てしまった。
「あら、中野さん、どうしたの。お顔が真っ青よ」
「あ、いえ。何でも、ありま、せん」
口ではそう言ったものの、膝が震えてもう一歩も進めない。
その時、夫人がおれの後ろの方を見て「あら」と声を上げた。
「さっきのクモちゃんが来たわ」
「えっ」
振り向くと、オランチュラが枝を渡って近づいて来るのが見えた。夫人は『さっきの』と言ったが、同じ個体かどうか、見た目ではわからない。そいつはおれたちのそばまで来ると、赤い単眼でじっとこちらの様子を見ていた。先ほどの経験で多少慣れたが、やはり気味が悪い。何のために来たのだろう。
すると、オランチュラは一番後ろの足を尻の方へ回して糸を摘み、順繰りに前の足にリレーして、一番前の足(手?)でそれをおれに差し出した。どうやら先ほどのように体に結べと言いたいらしい。何たることか、クモに情けをかけられるとは。
「ありがとう」
そう言ったのはおれではなく、黒田夫人である。
黒田夫人はおれの代わりに糸を受け取ると、「ごめんなさいね」と一言ことわってから、グルグルとおれの体に巻き付けた。最後にそれをギュッと結ぶとニッコリ笑った。
「わたしが引っぱってあげたいところだけど、それは無理ね」
夫人はオランチュラを見た。
「クモちゃん、わたしの言葉が通じるのかどうかわからないけど、モフモフさんに頼んできてもらえるかしら?」
オランチュラにどの程度の知能があるのか知らないが、そのまま糸を延ばして向こう側に走って行った。すると、すぐにツンツンと糸を引く合図が来た。
「さあ、中野さん、がんばって歩くのよ」
(つづく)
ドラードの森(9)