26、亜季・・・大人になれなくて

過去の幸せはもうありません

   26、過去の幸せはもうありません 

 (どうしたのだろう?・・・母は静か過ぎる。いつものように声が高くなり早口で私の無防備なところをつついてもこない。それに・・・あの言葉。この運命を受け入れなさいってどういう事?)


普段とは違う母のすべてが亜季を不安で包む。父はドアの前で今頃になって訪れた過去という訪問者に打ちのめされていた。
そして切ない笑顔を亜季にむける。

「大丈夫か?・・・それにしてもお前とエリカが出会うなんて。皮肉すぎる偶然だな。」

亜季も父の独り言の様な言葉にやはり同じような切ない笑みで頷き自分の部屋へ行くためにドアを開けた。
(このドアがこんなに重かったなんて今日まで知らなかった。)



 それから数時間、三人には自分の心と向き合う為だけの時間が訪れた。
自分を見つめる?それとも自分の心と話す?そんな事がよく言われるが家族の日常からはどこか対極にある行為かもしれない。
何かがおこらなければ日々起きる出来事とお互いの愚痴でなんとなく終わる方が気が楽。でも現実にはどんな家族にも苦しい時代はある。


 夫婦と親子。
この世で一番密接なようでひとつ歯車が狂えば他のどんな関係より憎しみが深くなる世界。だからこそあまりお互いの心を知りすぎないよう距離があるほうがいいのかもしれない。ただその距離を保つのが難しい。おそらく親という役割と子供という役割にはけして共感しあえない部分があるのだろう。どんな親も一度は言うだろう言葉がある。「家族の為、子供の為。」
それを聞く多くの子供もきっと一度は思う。(えっ!それ本当?それって実は自分のためじゃないの。)

こんな親子のすれ違いは当たり前。でもそんな親子のずれに夫婦の行き違いが加わればほどよい距離もいつしか隙間に変わり隙間が溝になる。
父と母、夫と妻、男と女、このすべての役を与えられた夫婦というのはなんとなく日々流れていくのが理想かもしれない。自分の本心、心と話すなんてできるならさけた方がいい。溝を身に染みる程感じたらとてもやっていけない。でもどうしてもそうせざる得ない状況が来てしまったら?


多分この家族は今そんな渦の中にいる。

ひとり寝室のべッドに腰をおろし顔を両手で覆う母。その指の隙間から亜季の子供の頃の無邪気な笑顔がすり抜けていく。
(あんなに可愛かったのに。いつからか亜季は私に反抗ばかり。・・・何故?自分が完璧な親とは言わないけど必死でやってきたのに。

亜季の気持ちだって理解しようとした。でも何もかも許すわけにはいかない。・・だって親なんだから。その上今度は・・エリカ?
私の人生で一番ふれたくない部分にあの子は入り込み、かきまわしている。何故・・何故?
これが私がこれまででしてきた子育ての答え?・・・亜季とエリカ。エリカは何故亜季に近付いたの?
亜季は自分の母親の苦しみなんてどうでもいいの?
もともとあの人が浮気なんかしたのがいけない。ああ・・絶対ふたりが一緒にやるなんて認めない。あの記憶を消す為にいい家族をつくろうと頑張ってきたんだから!)
母の目からもう何年も流した事のない涙がこぼれていた。


 夫はさっきまでの緊張感がまだ残る部屋でひとりこれからどうなるのかを思いめぐらしていた。
男の行動力というのは不思議なもので外で仕事をバリバリこなし、戦略を練り人を動かす人も家の事となるとその力はなかなか出ないものらしい。特にそれぞれの感情がうごめくこういった場面ではただ気を揉むばかりだった。
(それにしてもまさかこんな事。・・・あの時の間違いはいつまで尾を引く?エリカ・・・どんな風になっているのか。母親似だろうか?それとも・・・?
ああ、亜季はどうするつもりだろう。幼い頃の亜季は本当によく笑う素直な子供だった。まあ、確かに何を考えているのかわからない夢見がちなところはあったけど。妻はどうするのか?亜季が時に感情の起伏が激しくなるのは希美子に似たのかも。それにしてもこの家は・・どうなる?)


 亜季は部屋に戻ると小さくCDを流した。ちぐはぐになった頭がもう一度スムーズに流れる様に、そして感情のたかぶりとこのままでは母の強さで夢をつぶされてしまうかもという不安を隠す様に久々の David Bowie。ドラムの規則正しいテンポが亜季の混ざり合った気持ちをひとつひとつ分けていく様に体の中で刻まれる。

(ママは何を考えているの?・・そりゃ、ママの気持ちがわからないじゃない。でも、エリカや私にはなんの落ち度もない。悪いのは・・パパ。
それにもう昔の事じゃない。私には私の夢を追う権利がある。その始まりにあの人が必要なだけ・・だってあの空気には引かれる。どんな音楽もその人の出す空気感はあなどれない。彼女の影と情熱はジャズにはピッタリ。まあ、あの人はあまり好きになれないけど。ママがなんて言ってもやめる気はない。それにしても・・・さっきのママ、不気味。)


 同じ一つの出来事なのに三人の思いはそれぞれちぐはぐ。
ただひとつ父と母は亜季の幼い頃の家族の幸せを見ていた。過去と同じ幸福はけしてないとわかりながら過ぎた昔の中に幸せを求める。これは歳を重ねた人が一度は通る道かもしれない。
今、未来をみているのは亜季だけかもしれない。


 そんな静寂の時間がどれだけ続いたのか。突然の玄関のベル。母が玄関のドアを開ける。そのドアの向こうにはエリカ。

長い無言が気にかかり出てきた父と亜季。4人が同時に同じ場所に立った瞬間だった。

26、亜季・・・大人になれなくて

26、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-06

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