夜空を翔る幻想竜

 マントルピースに飾った竜の彫刻が、蝋燭の灯りを受けて温かな光を放っている。
 その上の壁には写真が飾ってあった。どこかの旅先で撮ったのであろうそれは、親子三人の家族写真だった。真ん中の少年はこぼれんばかりの笑みをたたえており、その少年の両親は我が子を微笑ましそうに見つめていた。
 いま、少年の両親はこの家にいない。
 少年は、父方の祖父母と三人で暮らしていた。
「アレンや。ダートに餌をやってくれんか」低い腰掛けに体を預けた老人が、口を開いた。
「うん。わかった。でもおじいちゃん、さっき餌あげたばかりじゃなかったっけ」
「あんまりお腹がすいていなかったみたいなんじゃ。多分いまなら食べるじゃろうよ」
 アレンと呼ばれた、年齢の割に小柄な少年は祖父の指示に従って、器に餌を入れてダートの目の前に置いた。暖炉の近くにいたため、アレンのブロンドの髪がやや赤みを帯びた。
「待て。ダート。まだ食べちゃだめだよ」
 シープドッグのダートは、突っ伏した状態から体を起こし、その瞬間を待つ。全体的に灰色の毛並のダートは、薄汚れた印象を少なからず受ける。しかし、ここに住む三人は特に気に留めていない。
 長く伸びた毛のせいで目がはっきり見えないが、暖炉の火を受けて、その小さな目が光っているのがかすかにわかる。はやくサインをちょうだい。そんな眼差しだった。
「よし! いいぞ」
 アレンはダートの頭を思いっきり撫でまわしてやった。するとダートは眼前の餌に食らいついた。
「いい子だ。ダート」いつも祖父が言う台詞を真似て言う。頭の撫で方も祖父の真似だ。
「ありがとうアレン。きっとダートも喜んでいるよ」
「うん!」アレンは祖父に顔を向け、笑んだ。
「アレン」今度はソファに腰を下ろし、編み物をしていた祖母が声をかけた。「その服気に入ったかい?」
 アレンは自分の体を見下ろした。白いシャツの上に着た黒のセーターは祖母の手編みのものだった。ほころび一つない、清潔なお気に入りのセーターだった。
 アレンは大きく首を縦に振った。
「うん! だっておばあちゃんが一生懸命編んでくれたんだもん!」
「そうかい。アレンの誕生日に間に合ってよかったよ」
 アレンは数日前に十歳の誕生日を迎えたばかりだった。
 祖母はセーターを、祖父は本をプレゼントしてくれた。どれもアレンは宝物として大切にしている。
「ねえねえ、おじいちゃんおばあちゃん」アレンはダートの頭を撫でながら言った。「パパとママはいつ帰ってくるの?」
 示し合わせたかのように、祖父と祖母は顔を見合わせる。眉をしかめ、困ったように笑む。
「おいで、アレン」
 アレンは祖父のもとへ歩いた。そうして祖父に抱かれ、膝の上に乗せられた。
「アレンはまだ小さいからよくわからないかもしれないけど、いま世の中は大変なんじゃ」
「それって前に話してくれた戦争と関係があるの?」
「ふむ……。そうじゃよ」祖父はゆっくりと言った。
 祖母もその話に耳を傾けながら、編み物を再開した。
「パパとママもその戦争に行っているの?」
「ああ、そうじゃ」
「どうしておじいちゃんやおばあちゃん、それに僕は戦争に行かないの?」
「……わたしたち老人や、アレンのような子どもには魔法が使えないから、その戦争に行けないんだ。でも、パパやママは立派な大人だからね。貴重な戦力になるんだよ」
「じゃあヒーローだね!」悪い敵をやっつけるんだ、とアレンは顔をほころばせた。
 それとは対照に、祖父は難しい顔をした。それを見たアレンは、違うの? と小首を傾げた。
「いや、その通りだよ」
 祖父は微笑んだ。しかし、その微笑みの裏側には悲愴な感情が潜んでいた。アレンがそれを見抜くことはなかった。
「僕も早く魔法使えるようになりたいなあ」
 アレンは己の手を見つめながら言った。
「まだ使えるようにならなくていいよ」と祖父はアレンの頭を撫でた。
「どうして?」
 いつ終結するかもわからない戦争に、アレンを送り込みたくはない。祖父の言葉にはそんな思いが込められていた。
 祖父はアレンの疑問には答えず、「ほら、外で遊んできなさい。今日も冒険するんじゃろ?」と話を切り替えた。
「うん!」アレンは祖父の膝から飛び出し、リュックを取りに自室へと向かった。
 居間に戻ってきたアレンは、祖父と祖母に旅立ちのキスをした。いってらっしゃい、行ってきますと言葉を交わすと、ダートにもキスをして行ってくるねと言った。いつもの習慣である。
 真紅のニット帽をかぶり、アレンは外に出た。モッズコートと手袋も着用し、肌を切るような冬の寒さをしっかり防いだ。それでも、イギリスの冬は凍えるように寒い。アレンはリュックを背負い直し、数段ある段差を降りる。
 レンガ造りのこぢんまりとした家は小屋を想起させ、裕福とは程遠い。ここは都市部から離れた田舎である。似たような家がぽつぽつと点在している。都市部では激しい攻防が繰り広げられ、必要な物資はほとんどそちらに流れていってしまう。仕方のないことである。
 アレンは家を振り返った。円形の屋根には、雪が堆積していた。重みに耐えかね、端の方からどさっと落ちた。
 アレンはしばらく自分の家を見つめ、そして歩き出した。風はなく、鈍色の空からは粉雪が降っていた。
 この季節に青空は珍しい。雲で空が覆われるのはありふれた光景なのだ。
 アレンの日常は、同年代の子どもとさほど変わらない。村にはアレンと近しい年の子どもは指折り程度しかおらず、アレンが一緒に過ごす友達というのは限られてくる。そんな友人たちと昨日見た番組の話や好きな子の話、魔法の使えない彼らは手を使って雪だるまを作ったり雪合戦をしたりして遊ぶ。
 普段は村はずれの学校にみんなで仲良く登校するのだが、今日は休日。いつもみたいに友達を誘って冒険に行くのもいいかもしれないけど、今日は一人で冒険してみたい気分だった。十歳になったアレンの、少し背伸びをした冒険だった。アレンは誰の家にも寄ることなく、村を出た。
 村には一本の川が通っており、門を抜けてもそれはずっと続いている。この川はどこまで続いているのだろうと思ったのは一度や二度だけではない。祖父や祖母に訊いてみても、どこまで続いているんだろうねえと返されるだけだった。
 アレンは村を出てすぐのところにある森を冒険することにした。冒険は基本的に遠くの方へ行くことを目的としているが、今回は近場ですることにした。これまでに何度も森を冒険していたが、鬱蒼とした森は独特な雰囲気があり、まるで別世界への入り口のように思えた。村からの距離は近いが、遠くまで行けそうな気がした。アレンは迷子になってしまわないよう、リュックから小型のナイフを取りだして木の幹に印を刻み込んだ。
 森の中に入ると、一層寒く感じた。風はないので木の葉が揺れ、積もった雪が落ちることはない。音という音も、森の外にいたときは何かしら耳に届いていたが、森の中はひっそりと静まり返っていた。ときの止まった氷の世界のようだった。
 アレンは音を立てないようにゆっくりと歩を進めた。物音を立てたり声を発したりすると、森がざわめき、魔物を連れてくるかもしれないと思ったからだ。
 森の中に生命の気配は感じなかった。シカやリスなども見当たらない。木だってもちろん生きている。しかし、季節が冬だからなのか、木も冬眠しているからなのか、それが生きているとは思えなかった。木に触れると固く冷たかった。
 アレンはこの奇妙な空間に形容しがたい感覚を覚え始めていた。ちょっぴり怖いけど、それでももっと奥へ奥へと進んでみたい。いままでそんなことを思ったことはなかった。様々な思いで胸の鼓動が速まる。アレンはどんどん奥へと進んで行った。

 無秩序に植わっているように見えて、実際は一定の間隔をおいてそびえ立つ木々を抜けると、開けた場所に出た。
 何かの意味を持ってその場所には木が植わっていないのだろうか。実際、アレンは目の前の巨大な穴を見てそう思った。
 見渡すと、開けた空間の向こうは斜面になっていた。その斜面を穿ったように、大きな闇がアレンに向かって口を開き、冷たい空気を吐き出していた。その周りに積もった雪の白と、開口部の闇とのコントラストがやけに現実離れしているようだった。
 アレンはその闇を見つめたまま動かなかった。闇を恐れていたわけではない。ただ、驚いていただけだった。これまでアレンは家の周りを冒険してきた。その中には当然この森も含まれていたが、そんな知り尽くした森の中にこのような洞窟があったとは、驚き以外のなにものでもない。
 いや、それはアレンにだけ該当する話だった。アレンはこの冬に十歳になったばかりの少年だ。小さな少年にとって、この森は巨大すぎた。アレンにはもう十分探検したと思える位置でさえ、森に足を踏み入れて中間にも満たない場所だった。
 それよりもはるか先、森の奥まった場所にその洞窟はあった。
 アレンは一歩一歩確実に闇へと近づいていった。堆積した雪がキュッキュッと音を立て、足型に窪む。
 入口の一歩手前でアレンは再び立ち止った。先の見えない闇の奥からコオオオオオと不気味な風の声が聞こえる。闇への恐怖は抱いていなかったアレンだが、さすがになにか恐ろしい生き物のような息遣いを聞くと、体が震えた。
 それでもアレンは覚悟を決めて、足を踏み出した。
 リュックに詰め込んでいた冒険道具の中に懐中電灯があった。それを手にアレンは奥へ奥へと進んで行く。足音が洞窟内に反響し、空間を満たす。
 アレンは一度も後ろを振り返らなかった。それどころか、迷いなく突き進んだ。心許ない懐中電灯一本、辺りの闇がその光をも飲み込んでしまいそうなほど迫って来ている気がしても、その脚をどこへ通じるともしれない未知の世界へと踏み出し続けた。
 すると、足許を照らしていた光が形を変えた。壁が出現したのだ。小さな光ゆえに、それが完全に行き止まりなのかはわからない。アレンは天井からゆっくりとその全貌を捉えようとする。
 行き止まりのように思われた洞窟は、さらに小さな穴が開いていてまだ続いているようだった。その穴は、体の小さなアレンでさえも屈む必要があった。
 誰かの秘密基地なのだろうか。数少ない友達の中から、秘密基地を作りそうな人物を思い浮かべる。しかし、みんな優しくて嘘をつくような友達はいなかった。アレンは、秘密基地にできそうならみんなに教えてあげよう、と意気込んで進んでいった。
 小さなトンネルも終わりを迎えた。先の方で水滴が地に落ちる音が聞こえ、青い光がアレンの方に向かって伸びている。アレンは穴を抜けた。
 トンネルを抜け出ると、空気が冷たかった。そこは、ドーム状に広がった広大な空間だった。目を引くのは空間の中央に広がる周囲一キロほどの湖。底の方から光が出ているらしく、水面が青く光っている。
 洞窟の最深部はこの湖を囲むようにして広がっていた。他に目立ったものはなく、湖だけが神秘的な輝きを放っていた。
 と、アレンは湖の向こう側に光るなにかを見た。二つの光はゆっくりと消えては現れてを繰り返した。
 アレンは訝しく思い、その光に近づいてみることにした。自分の足音がだだっ広い空間に反響する。一歩、また一歩。湖に沿って歩きその光との距離を詰めていく。
「…………!!」
 アレンは息を呑んだ。近づいてわかったのは、その光が生き物の眼だということだ。それも、アレンにとっては初めて見る生き物だった。
 ゆっくりと瞬きをするその眼は、アレンをじっと見据えている。とぐろを巻いていてその大きさははっきりとはわからないが、巨大だ。アレンはこんなにも大きな生物を見たことがなかった。いままでで見た中で一番大きな動物は動物園にいたゾウくらいだが、比べものにならない。
 全長五メートルほどだろうか、艶のある白銀の鱗に覆われた体表は、湖の輝きを受けて青く染まっていた。
 頭部には二本の角が生え、その間に碧い鬣が伸びていた。また、特徴的なのは鼻の横から生えた髭だった。それは生き物の体長ほどもあろうかという長さで、あたかも髭には髭に命が宿っているかのように動いていた。
 アレンは生き物と目を合わせたままその場に突っ立っていた。不思議と恐怖心はなく、頭の中ではある考えが浮かんでいた。
「もしかして……ドラゴン?」
 アレンがそう呟くと、眼前の生物はクオオオンと鳴いた。その鳴き声は笛のように深く響いた。そこには確かな生命の息吹が感じられた。
 アレンはいつか話した祖父とのやり取りを思い出した。

「ねえおじいちゃん。ドラゴンって本当に存在するの?」
「ああ、いるよ」
「でも、見たことないよ」
「……ドラゴンはなあ、人間が生まれるずっと昔から存在していたんじゃ。そして人間が生まれてから文明を築く途中でドラゴンは人間にあるものを与えた。なんだと思う?」
「なんだろう」
「魔法、じゃよ」
「へえー」
「人が魔法を使えるのは、ドラゴンのおかげなのじゃよ。じゃがなあ、文明が栄えるにしたがって人々は魔法をよくない目的のために使うようになっていったんじゃ。そうして幾度か戦争が起きてしまった。いまと同じように。いつしかドラゴンより魔法の扱いに長けるようになった人間は、神と崇めていたドラゴンを使役するようになった。反抗するようなら魔法を使って従わせた。それでも反抗を続けるドラゴンは無残にも殺されてしまったのじゃ」
「そんな……」
「ひどい話じゃ。やがてドラゴンは人々を恐れるようになっていった。ドラゴンは神として君臨していたが、いつの間にかそれが人にとって代わってこの世を戦場へと変えてしまった。ドラゴンからすると、人は悪魔みたいな存在じゃろうなあ。かつては共存しておったのに、魔力を与えたことで住処を失ってしまった。なんとも皮肉な話じゃよ……。いまではドラゴンもその数を大きく減らし、見つけるのは困難じゃ。たとえ遭遇できたとしても、人を許しちゃくれんだろう」

 アレンはこの生物がドラゴンであると直感的に悟った。その生物が纏うオーラは神々しく、その眼はずっとアレンを見ているが、アレンの姿をただ見るではなく、内側に秘めたなにかを探ろうとしているような眼差しだった。
 アレンはゆっくりとドラゴンに近寄っていった。アレンが動きを見せると、ドラゴンはすぐに反応した。地に伏せていた頭をのっそりと持ち上げた。アレンもまたドラゴンのその動きに足をとめた。しかし、ドラゴンがじっとこちらを見つめるにとどまるのを確認してから再び歩を進めた。
「ごめんなさい……」
 アレンはドラゴンに向かってそう言った。もしもドラゴンに人語が理解できたとしたなら、それはなにに対する謝罪なのだろうと訝るだろう。いや、実際ドラゴンは人の言葉は話せなくとも理解できるのだ。だから眼前のドラゴンもこの少年がなぜ謝ったのだろうと怪訝に思った。しかしドラゴンは鳴き声を発したり首をかしげたりすることなく少年を見続けた。
「ぼくたち……きみに悪いことをしたね。ごめんね」
 そこでドラゴンは少年がなにを言っているのか悟った。少年は、人類を代表してこれまでの愚行を詫びているのだ。魔法を得たものの、それを外道の道を進むために使用し、我々ドラゴンを奴隷のように扱ったことに対しての懺悔。
 しかし、この少年が一体なにをしたというのか。見るからにまだ世界を知らぬ小さな子どもが、どうしてこれほどまで悲痛な面持ちで近づいてくるのだろうか。ある程度成長しなければ、人は魔法を使えないことは知っている。だが、そんな未熟な少年が魔法を使い、仲間を苦しめたというのだろうか。ドラゴンには理解できなかった。
 いずれにせよ、ドラゴンは少年を襲う気にはなれなかった。理由はわからない。だから持ち上げていた首を再び地面に預けた。
 アレンはドラゴンの顔まで近づいた。鼻から吐き出された息でアレンの髪が揺れた。アレンはじっとドラゴンを見つめた。傷一つないその体躯は、しなやかで神聖な感じがした。アレンは子どもながらに確かに神様みたいだなと感じていた。
 アレンの視線に気づいたのだろうか、ドラゴンが閉じていた眼を開けた。わずかに遅れて、眼全体を覆っていた薄い透明な膜が開いた。瞳は黒く縦長で強膜の部分は金色をしていた。アレンは同じような眼をもつ生き物を以前に見たことがあった。トカゲやヘビ、爬虫類のそれとドラゴンの眼は似ていた。そう考えてみると、体表の鱗も爬虫類のものと類しているようだ。しかし、同じ爬虫類でもワニのような狡猾さは一切なく、畏怖さえ感じるほどの神秘的な雰囲気を強く放っていた。
 アレンは言葉にできなくとも、そういうことを感覚で認識していた。いままで見てきた生物の中で圧倒的に異質な雰囲気を放つ、それは人よりも賢く、気高い。まさに神のような存在。
 そうはわかっていても、アレンはその身体を撫でて謝りたかった。馴れ馴れしく触ってはいけないと思っていても、アレンはその顔に頬をすり寄せたかった。
 アレンはさらにゆっくりとドラゴンに近づいた。ドラゴンはアレンが動くと、閉じていた眼を片方だけわずかに開き、すぐにまた閉じた。そうしてアレンは、跪いてドラゴンの顔に体を寄せ、頬を触れさせた。「ごめんなさい」と謝ると、どうしてか涙が零れた。アレンの涙がドラゴンの顔に滴ってもドラゴンは気にしなかった。アレンとドラゴンはしばらくそのままでいた。
 ドラゴンは前脚をぺろりと舐めると、突然首を伸ばした。なにかに気づいたのだろうか、入口の方を見やった。
 アレンもドラゴンから離れ、目線の先を見やった。すると、湖の向こう側に小さな人影があった。アレンの位置からは反対側にその人影があり、したがってそれが男のものなのか女のものなのか、はたまた大人か子どもかはわからない。
 それはしばらくその場に佇むと、ゆっくりとこちらに近づいてきた。やがて姿を確認できるところまで距離が近づくと、アレンはしばしその姿に見入った。
 アレンの目の前に現れたのは、一人の少女だった。肩までの黒髪は流れるようにして伸びていた。ブルーの瞳がアレンを捉えてじっと離さない。
 小さな口が薄く開かれたと思うと、またすぐに閉じられた。
 少女は、驚いたことにこんな時期にもかかわらず白のワンピースを着ていた。さらに、靴も履いてなかった。ワンピースの裾と足が泥で薄汚れており、愛らしい顔立ちと似つかわしくないなとアレンは思った。だがアレンはそうは思うものの、それが別段奇妙なことだとは思わなかった。むしろそれこそが彼女のアイデンティティなのだと悟っていた。もちろん、いままでに彼女を見たことはない。初めて見る顔だ。しかしアレンは上手く説明できないがそう思っていた。
 また、彼女はアレンよりもやや背が高く、そのことからニ、三年上に見えた。それでも顔にはあどけなさが残っており、だがどこかアレンにはないなにかをはらんでいるように見える。そこがアレンと少女との違いだった。
 少女は、しばらく驚いた表情でいたが、急に我に返ったように口を開いた。
「きみ……どうしてここが……」
 顔だけでなく、声にもあどけなさが残っていた。言葉の意味はさっぱり分からない。それに彼女がなぜ驚いた表情をしていたのかも不明だ。訊きたいのはこっちの方だ。
「まさか……」少女はアレンから目を離し、その後ろのドラゴンを見やった。「レヴェンが呼んだの……?」
 レヴェン、それがドラゴンの名前だった。レヴェンは小さく鳴いて答えた。
 少女はしばらく黙っていたが、小さく息を吐き出すと言った。
「きみ、名前は?」
「アレン」
「あたしはナディア。よろしくね」ナディアは微笑み、続けた。「それで、アレン。きみはこの生物がなんなのか、知っているの?」
 アレンは少し間をおいてから答えた。
「……ドラゴン」
「そう、ドラゴンよ。どうやらきみは知っていたみたいね。前にどこかでドラゴンを目にしたことがあるの?」
「ううん」
「じゃあどうして?」
「おじいちゃんから話を聞いたことがあるんだ。それに、読んだ本にもドラゴンのことが書いてあった」
「そっか。でも、それにしたって驚いたりしないの?」
「うーん……」アレンは小首を傾げて唸った。「どうしてだろうね」
 はあ、と苦笑交じりにナディアはため息をついた。
「それじゃあ、きみはどうなの。きみだってぼくとさほど変わらないじゃないか。ドラゴンだっていま初めて見たわけだよね?」
「あたしはレヴェンの――」ナディアはそこまで言って、まずいと思った。言ってはいけないことを言いかけたからだ。「えっと……前にも見たことがあるの」
 アレンはしばらく彼女の言葉が本当かどうか疑ってたが、「そうなんだ」と納得した。
 ほっとしたナディアだったが、突然アレンの先ほどの言葉が癪に障った。
 ぼくとさほど変わらない?
 そんなことない。あたしはきみよりも背が高くて、きっと年だってあたしの方が上に決まっている。それなのに、同じ年代の子どもみたいに扱ってくれちゃうなんて、子どもの癖に生意気な。
 アレンの、その純真無垢の象徴であるくりりとした目を見ていると、一言言ってやらなくちゃと思った。
「それと!」ナディアは頬を膨らませて言う。「あたしはきみとは違っていろんなことを知っているの。だからきみとは全然違うのよ」
 アレンは、なにが? というふうな顔をする。実際、そのすぐ後で「どこが違うの?」と訊いてきた。
 アレンの言葉に対し、ナディアは口を開かなかった。代わりに、右手を開くと、そこにキラキラした碧の炎を出してみせた。鉱石を砕いたときのパリン、パリンという音を発しながら煌びやかな火の粉が弾ける。
 見るからに不思議な炎だった。――魔法。アレンは悟った。
「あたしは魔法が使えて、きみは使えない。そういうことよ」ナディアは炎を一際強くしてから消した。
「魔法には驚くのね」目を丸くしているアレンに向かってナディアは言った。
「ねえ! どうしてナディアは魔法使えるの!?」
 ばっとナディアの方に飛び出し、アレンは言った。わあ、とナディアは驚き後退る。
「どうしてって言われても……」
「ねえねえどうして?」
「えーっと……」
 ナディアは視線を泳がせる。その間にもアレンは詰め寄ってきており、その度、ナディアは距離を取ろうとする。
「そ、そうだ! どうしてきみがここに来られたか教えてあげよっか」
「え、それは気づいたら……」
 ちっちっち、とナディアは得意げに指を左右に振る。
「え、違うの?」
 ナディアはアレンの興味の矛先が変わってくれてそっと胸を撫で下ろした。
「きみはレヴェンに呼ばれてここに来たのよ。普段、レヴェンは魔法をかけてこの洞窟を隠しているの。でも、きみがここに来られたってことはそういうことなのよ」
「ぼくが……レヴェンに……?」
 アレンは振り返った。レヴェンはじっとアレンを見つめていた。
「でも、どうしてぼくが? 魔法も使えないのに」
「あたしにはわからないわ。まだ教えてくれないの」ナディアは困ったようにレヴェンを見やった。
 少しの沈黙のあと、アレンはナディアに訊ねた。
「でも、どうしてこんなところにドラゴンが?」
「レヴェンは飛べないの。人に見つかって、逃げようとしたところを襲われて……」
「そんな……」
 アレンはレヴェンに近づいて優しく撫でてやった。
 そのときだった。
 突然、レヴェンが首を伸ばし、忙しなく動かした。そして、震える脚で立ち上がり悲しげにオオオオン……と鳴いた。
「どうしたのレヴェン!?」ナディアはレヴェンに駆け寄った。
 レヴェンはわずかに口を開け、なにか話しているようだ。
「レヴェンの仲間が人に捕まった」ナディアはアレンを振り返って言った。
「…………!?」言葉は出なかった。あまりにも唐突すぎて、どう反応すればいいかわからない。
 ナディアは再びレヴェンの声に耳を傾けた。
「だめよレヴェン! あなたは飛べないわ」
 ナディアの制止を振りほどき、レヴェンは湖へと近づく。その悲しげな姿を見て、アレンは――
「ぼくも、行く」ナディア、それからレヴェンはアレンを見た。「これ以上ドラゴンを殺させるわけにはいかないよ! ナディアが行かなくても、ぼくは行く!」
 アレンはレヴェンに駆け寄り、優しく撫でた。さあ行こう、と声をかけ、その背に乗った。
 アレンが、レヴェンの角に手をかけようとしたとき、ナディアはしまったと思った。
「角は握っちゃだめ――」
ナディアの忠告は遅かった。アレンは真っ直ぐに伸びた角をしっかりと握った。
「…………?」
 どういうこと、とナディアは思った。本来、ドラゴンは心を許さない限り己の角を触れさせはしない。しかし、眼前の少年はついさっきレヴェンと会ったはずなのにもう心を許したというのか。自分にはなかなか心を開いてくれなかったというのに。
 アレンという謎の少年に対する興味と、嫉妬心を胸にナディアは「待って」と言った。
「あたしも行く」
 アレンは手を伸ばしたが、ナディアは結構よという意味を込めてそれを無視した。そしてナディアは軽く地を蹴ると軽やかに飛び上がり、アレンの後ろに着地した。
「わあ、すごい」アレンは少し頬を染めて言った。
「そんなことないわよ」と、少し乱れた髪を手で払うナディア。「さあ、行きましょう」
 レヴェンは湖に足をつけた。背中から見下ろす湖は目が眩むほどに光って見えた。
 なんのためらいもなく、レヴェンは湖の中央へと歩を進める。レヴェンの体がどんどん水の下に沈んでいく。やがて水上には顔だけが残った。
 アレンの足首が水に浸かった。そして、膝、腰、胸といよいよ全身が水の中に入り込んでしまう直前に、アレンは大きく息を吸い込んだ。すると、背後から肩を叩かれた。
「大丈夫よ」と微笑むナディア。
 なにが、とは訊けなかった。次の瞬間には、全てが水の中だったからだ。
 湖の中は暗かった。湖の輝きは水面が光っていただけだったのだ。
 丸く切り抜かれたようにしてできた湖は、ずっとずっと先まで続いているようだった。レヴェンは、その先の闇へ向かってさらに泳いでいった。
 やがてアレンは息が苦しくなってきた。吐き出された空気は、気泡となって水面に上っていく。そこでようやく、ナディアの言葉の意味が理解できた。
 息ができる。
 後ろを振り返ると、ナディアは、「ね、大丈夫でしょ」と笑った。
 レヴェンが声を上げる。水の中だとくぐもって聞こえた。レヴェンの鳴き声のあと、視界は闇に包まれた。なにもとらえることはできない。そして――
 突然、浮遊感を覚えた。どうやら高いところから落ちているようだ。状況を確認しようと目を開ける。それでも視界は白く霞んでアレンにはなにがどうなっているのかわからなかった。ただわかるのは、湖の中にいたはずなのに、それがあたかも夢だったかのようにどこも濡れていなかったことだけ。
「ナディア! ぼくたち、どうなってるの!?」
「空! 空飛んでるのよ。いや……落ちてるわ!」
 ナディアの言葉とともに視界が晴れた。目の前に広がるのは濃紺色の空、そして大きな大きな月が目に入った。そう、アレンたちはいま、空を落ちている。そうとわかれば、先ほど視界を覆っていたものが雲だということも理解できた。しかし、いまそんなことを考えている場合ではない。なにしろ、落ちているのだから。
「ああああああああああ!!」
「きゃああああああああ!!」
 アレンとナディアは絶叫した。このままではレヴェンもろとも地面に叩きつけられて死んでしまう。たとえ雪が積もっていても、この速度で落ちれば間違いなく死は免れない。
「頑張れ、レヴェン!」
「頑張って、レヴェン!」ナディアはレヴェンの背に手をあて魔法を使った。
 それでも落ち続ける。地面との距離がみるみるうちに近づいてくる。
「いや……そんな……」ナディアは涙ながらに声を漏らした。「レヴェン!」
 ナディアはアレンの腰に腕を回し、抱きついた。
「レヴェン……」アレンはレヴェンの角をしっかりと握りしめていた。そして、いまよりも強く握り直し、叫んだ「飛べえええええええっ!!」
 その瞬間、アレンの体が強い光を帯びた。それに気づいたのはレヴェンと、ナディアだけだった。
「アレン……まさか……」
「クオオオオオオン!!」
 レヴェンは咆哮し、地面すれすれのところで飛翔した。
「飛んだ!」
 ナディアの声を聞き、アレンは目を開けた。
「わあ! レヴェン! すごいよ!」
 アレンはレヴェンの頭を思いっきり撫でてやった。
 危機を回避したことで、安堵のため息がこぼれた。
「一時はどうなるかと思ったけど……」とナディア。
「そうだね」
「ところでアレン、さっき自分がなにをしたか憶えてる?」
「え?」なにをしたかな、とアレンは顎に手をあてて考える。「必死に叫んだよ」
「それだけ?」
「え、他になにかした?」
 ということは無意識的に魔法を発動させたということか。ナディアはそう結論づけるのが妥当だと考えた。
「わからなかったら、それでいいの」
「なーにー。気になる」とアレンは返した。
「いいから。前見てないと落ちるよ」
「ちぇ」
 ふと、地上を見ると、細い線が見えた。その線を辿っていくと、ぽつぽつと明かりが点在する場所があった。どうやらアレンの住む村の灯りだ。ということは、あの線は川ということになる。
 アレンたちは村から離れたところの上空を飛行していた。進行方向は村とは逆、川に沿って進んでいた。
 しばらく飛行していると、突然視界の左に光るものが見えた。それは青かったり、赤かったり、色鮮やかに光っていた。
「見て、ナディア。あそこ。お祭りかな。きれいだね」
 ナディアは口を引き結んだまま答えなかった。後ろから返事がないことに訝しく思ったアレンは、振り返って名前を呼んだ。
 ナディアは俯き、小さな声で言った。
「……戦争よ」
「……え?」
「お祭りなんかじゃないの、あれは……。戦争……なんだよ」
「…………」
 アレンはそっと涙を流した。あれが……戦争? にわかには信じられなかった。色とりどりの光が明滅し、あたかもお祭りの最中のように見える、あれが……戦争?
「そんなわけ……ないよ」
 ナディアの声に嘘の色なんてなかったのはわかっていた。でも、否定したかった。
 ナディアはもう、なにも言わなかった。レヴェンも、ただ目的の場所へと飛び続けた。
 やがて、海に出た。眼下に広がる海は黒く、見上げた月はかつてないほど近くに感じられ、太陽にも引けを取らないくらいの明るさで世界を冷たく照らしていた。風は一切なく、海は凪いでいた。
 急がなくちゃ。アレンは先ほどの光景を思い出しては、一人焦燥感に駆られていた。自分になにができるかはわからない。だけど、行ってみないとわからない。
 アレンの背中から、どこか焦りを感じたナディアはアレンの肩を叩いた。
 振り返るアレンに向かって一言、「大丈夫だよ」と声をかけた。
 アレンはナディアの優しさに笑顔で返そうとするも、作り笑いになってしまった。それでも、ナディアの言葉で少しは落ち着きを取り戻せた。ナディアから目を外し、前を見据える。
 レヴェンが鳴き、その深みのある声は月夜に響き渡った。

 夜空を翔る幻想竜。その背に跨る一人の少年と一人の少女は、いま、仲間を助けるために冒険の旅に出た。

夜空を翔る幻想竜

 お久しぶりです。高瀬です。
 さて、今回のお話はドラゴンが出てくるファンタジー小説です。この作品を書くきっかけとなったのが、言わずと知れたジブリ映画の名作「千と千尋の神隠し」です。あの作品の終盤で、ハクと千尋が夜空を翔けますよね。あれです(笑)。あのシーンいいなあって思ってこの作品を書きました。
 次になにを取り入れようかなと考えたときに浮かんだのが、「ドラゴンが神として存在する世界」でした。この世には存在しない架空の生物ドラゴンは、自分にとってそういうイメージがありましたので、設定に組み込んでみました。ドラゴンっていうだけでなんだかわくわくするのはどうしてでしょうねえ。まさか、僕だけではないはず。 
 新たな試みという観点からお話しますと、今作で初めて三人称全知という視点を使ってみました。小説を呼んでいると、一人称を目にすることは多いです。三人称もまたしかり。しかし、三人称は三人称でも、登場人物の全員の心情まで踏み込むスタイルの小説は少ないように思います。(読書量が足りていないのもありますが……。)ですので、今回は挑戦という意味も込めて、そのようなスタイルで書いてみましたが、どうでしょうか。
 また、エンディングはここで終わるの? と思われる方もいるかと思います。はい、一応終わりです。しかし、完全に終わりというわけではありません。ということはつまり……。
 短編という形で出したこの作品ですが、長編にもっていけそうな気がしています。あえてああいう終わり方にしているのは、つまりそういうことです。
 ということで、あとがきで書きたいことは書きましたので、この辺にしたいと思います。
 読んでくださった方々には厚くお礼申し上げます。よろしければ、次回の作品も読んでくさだることを願って。

夜空を翔る幻想竜

イギリスの片田舎で祖父母と暮らす十歳の少年アレン。 ある冬の日、いつものように冒険と称して遊びに出かけたアレンは、村はずれの森で洞窟を見つける。奥まで進むと、そこにいたのは人の行いによって姿を隠してしまったドラゴンだった。これまでドラゴンを見たことがなかったアレンは、その姿に見入る。 やがて一人の少女が現れた。彼女の名はナディア。ナディアは最初こそこの場に人がいることを訝るが、すぐに悟る。 そしてそのあと、ドラゴンが仲間の危険を感じ取る。 一匹のドラゴン。そして一人の少年と少女。彼らが出会ったときから、冒険の物語は幕を開ける。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-05

Copyrighted
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