25、亜季・・・大人になれなくて
親は神様ではありません
25、親は神様ではありません
部屋の中の突き刺すような空気を亜季は瞬間的に感じとる。その空気の中、母と父が棘様に存在している。何度も味わった痛い空気。息苦しくさっきまでの晴れやかな気分がかすんでいく。
(何?・・何が起きたの?)
心の中で自分に問いかけて父と母の顔を交互に見た。そしてこの重く痛い空気の原因が自分であると気が付く。
長年の習性というのは良くも悪くも特殊な技を身につけさせる。
父と母の心地悪い空気はたいがいの場合飲み込むのがいいと亜季は知っている。ただ、その原因が自分となれば話はそう簡単ではない。まずは母が何を言い出すのかそれが問題だった。それまでは沈黙。亜季は母の方に顔をむけた。同時に母の目が亜季にむけられた。
「今日も遅いけど最近何をしているの?まともに働く気になったとか。それならそれでいいのよ。何かやりたい事があるならね。でも何も話してくれないんですもの。親とすれば当然心配よ。それくらい亜季だってもうわかるでしょう?・・それに、今パパから聞いたんだけどジャズを職業にしたいとか。・・・冗談でしょう?」
母の最後の言葉には最高の威圧感と皮肉が込められていた。亜季はチラッと父の方を見る。居心地の悪さを父は体中ににじませていた。
カナダで父に話した時亜季は覚悟ができていた。ただなんとなく母との話を先延ばしにしていただけだったがその優柔不断さはきっと父譲りだと改めて感じていた。
(での・・・これじゃだめなんだ。話すなら今がその時かも。自分の思いをストレートにつたえなければ。)
「冗談じゃないの。プロとしてジャズピアノをやっていきたいの。」
「あなた大丈夫?そんなに甘い世界じゃないわよ。その世界の事はよくは知らないけど。でもね、ジャズにしろ歌手にしろそういう世界で名を成したいという人は山ほどいる。その中で生き残るのはわずか。それも有り余る才能のある人。たまにそうでない人もいるけどそれはただの一発屋よ。それにどうやってその道に入り込むのよ。音大卒でもないし。大学のジャズ研とはわけがちがうのよ。そっち方面にはパパのコネはありませんよ。」
母の言葉を亜季はただ黙って聞いた。
(ママの言う事はそれなりに真実かも。一般的な親なら誰もそう思うのかもしれない。でも・・・それを言ってたら引かれたレールを生きるしかないじゃない。失敗に終わっても何もしないよりいい。それに、最後の一言がまったく気にいらない。最初から親のコネなんかあてにしません!)
亜季のその考えも若い時に多くの人が考える若き一般論。母と娘、両者の立場の一般論がぶつかるところには年齢と立場を超える魔法がなければけして折り合わない。現実だけが横たわっていた。
亜季は極力冷静さを保たなければと言い聞かせ言葉を捜した。
「ママが心配するのはわかるしもっと前に話しておくべきだったと思う。ただ、実際どこまでできるか自信もなかったし正直迷いもあった。でも、今は違うのよ。」
「どう違うの?」
「なんとかライブをさせてくれる場所もみつけたし。後は自分の裁量でひろげていくしかない。」
「それはどこ?ひとりでやるわけじゃないんでしょう。誰かあなたの腕を見込んでくれた人がいるの?」
「まあ、一人ではない。丈先輩とか・・・」
ここで亜季は言葉が出なくなってきた自分に苛立つ。
(エリカの名前を出したらどうなるのだろう?でもいつかは分かる事。)
「ねえ、亜季。あなた今舞い上がっているんじゃない?自分のピアノの腕が認められた気がして。だけどねこう言ってはなんだけど小さなジャズのライブハウスでいくらやっても無駄よ。一流になるにはそれなりの場所がひつようなの。亜季の腕を見込んでくれた人には感謝するけどおそらくその人も一生そこで終わる人じゃないかしら。そんな人生が亜季の望みじゃないでしょう?」
そんな母の言い方が亜季の純粋さを刺激する。冷静という文字が亜季の心の中でゆがみ始めた。
「それはわからないでしょう。誰も上を目指しているんだから。・・・それに私を見込んでくれた人は今注目されているシンガーよ。ただ海外にでたくても今はその余裕がないの。それでも頑張ってる。」
その時父が軽い咳払いをした。父は会う事はないが風の便りにエリカがジャズシンガーであると聞いていた。もっともそれを聞きに行く勇気はないが。ただこの部屋の中にエリカがフワフワと浮いている気がした。何か黒い雲が三人の上に押し寄せた気がした。
「そう。確かに私はあまりそういう場所に行かないしね。それなら参考までに教えて頂戴。そのシンガーはなんていう人?話の感じでは女性かしら?」
こうして来る時が来てしまった。父は予感にたえきれずおもむろに立ち部屋を出ようとした。亜季には父の様子が痛いたしい。それだけに名前を出すのが辛い。
でも母は引かない。
「どうしたの?もし亜季が本気なら私もその人の歌を聞いて見たいし。」
亜季から小さな声がもれる。ささやきのかすかな振動にドアの前の父が足を止めた。
「エリカ。・・・私のピアノを必要だと言ってくれたのは、エリカ。ママが知ってるあのエリカ。」
長い音のない時間。母が静かに立った。それからドアの方に顔を向け父を凝視する。そしていくつもの空気を切り裂くような目を亜季にむけた。
「そうなの。知らなかったわ。なんだか今度は子供に裏切られた気分。・・・そんな運命もあるのかもしれない。でも、私はこの運命をけして受け入れません。覚えておいて頂戴。親は子供の幸せを願う。多くの事は我慢もする。だけど・・・親も人間なの。わかってるかしら。」
そう言うと母は静かに部屋を後にした。
25、亜季・・・大人になれなくて