24、亜季・・・大人になれなくて

壁の名は夫婦

                         24、壁の名は夫婦


亜季の日常が静かにそして確実に変わっている。母はその変化をピリピリと感じとっていた。カナダで何かあったのか、それとも二人がエリカの事を話したあの瞬間に亜季に何かを目覚めさせてしまったのか。亜季の側を通る度に何かがはじけてしまうような感覚に襲われていた。大学も始まったというのに今日も亜季の帰りは遅い。


 夕食の後の気の抜けた時間さえ心が休まらない。夫の顔をなんとなくぼんやりと見つめていた。
「ん?・・・どうかしたのか?」

「別に。でも・・最近亜季が変わったみたいで。そんな感じしません?」
夫は自分の将来について亜季がまだ何も母には話していない事を知っている。でも自分から話したくはない。第一、カナダで聞いた亜季の話はまだまだ夢物語ではないかという気もしていた。

「そうかな。」

その曖昧な返事の音に妻は夫が何かを知っていると確信していた。

「カナダで何かあったのかしら?何か聞いてる?」
妻は穏やかな声でサラッと押してみる。

「いや。何も聞いてないけど・・・。」


 その答えに妻は暫く夫をまっすぐに見つめた。徐々に追い詰められていく自分が情けないと夫は思う。そもそも娘の将来の話くらいもっと気楽にできていいはずなのだ。
それが自分や妻の意に添わない、または不安を感じるならば親としての意見を堂々と娘にぶつければいい。それは父としてはわかっている。ただその未来にエリカという過去の傷も掘り起こされるのではという恐れが夫の言葉を押し殺していた。

(できる事なら嵐になる前に静かに去ってほしい。まさか亜季はエリカを知っているにだろうか?・・・まさか。あれ程慎重にかくし通してきた妻。そして自分。・・・それにしても近頃妙にエリカが気になるのは何故だろうか?もう何年も遠くに押しやった事実なのに。過去の傷が嵐にならなければいいが。)

そんなある種身勝手とも言える気持ちが膨らんでいた。でも悲しい事にこういう男の身勝手さを妻は感じてしまうものだ。女は自分を守ってくれる為の嘘には寛大になれるが男の自己防衛の為の嘘には厳しくなる。そしてそれを女の身勝手とは思わないから正論であると言わんばかりに攻めに転じる。


「本当に知らないの?でも何か話したんじゃない。亜季そんな事言ってたもの。」

妻は嘘で夫の心理を絡めていく。

「・・・。」

「毎晩どこをフラフラしてるのか。就活でも始めたのかしら。それにしてもなんか活き活きしてるのよね、あの子。」

「・・・。」

「何かやりたい事でも見つけたのかしら。聞いてません?私にすぐ話さないところをみると反対されると思っているのかしらね。でも亜季だってもう子供じゃないし本当にやりたい事なら応援しなくちゃね。まあ、喜べるものならね。」

妙にもの分かりのいい妻にふと気が緩んだ。

「まあそれもそうだな。・・ジャズをやっていきたいような話は聞いたけど・・・」

その言葉が終わる前に妻の目がにわかに険しくなるのを夫は見た。

「ジャズ?・・・ジャズ!つまりミュージシャン?・・・で、あなたはなんて言ったの?」

「いやぁ・・話を少し聞いただけだから。」

夫の声が部屋の中を寂しくさまよう。

「そんな。ビシッと反対してくれなくちゃ。最初が肝心なんだから。その日暮らしの先の見えない世界じゃないですか。そんな事してたらまともな結婚だって遠のいてしまう。だいたい亜季の実力で通用するはずないし。どこでやるっていうの?その世界にこねはないし。無理に決まってる。」


こういう場合親は子供の力を自分の意に添う形で判断したがるものだ。それが時に大きな過ちになる事も考えずに自分のこれまでの人生の尺度が正解であると信じて疑わない。夫は今、この場から退場する言い訳を考えていたが内心妻がそれを許さない事はわかっている。つまりもしこれ以上の大事を避けたいならなすべきはひとつ。沈黙しかない。妻は夫のその態度にじわじわと腹が立つ。


「まったく亜季は何を考えているのか。あなたもたまにはちゃんと言ってくださいね。人生設計を間違えると後悔することになるんだから。まあ、私もそのひとりかもしれないから。」

何年に一度出てくる過去の夫の浮気への恨みが顔を出す。妻の中であの出来事の重さは年月を重ねても軽くはならないようだ。

そこに亜季が帰ってきた。明るく、楽しそうに。ただいまの声も心なしかはずんでいる。それが妻の苛立ちに火をつけてしまった。

24、亜季・・・大人になれなくて

24、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-05

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