23、亜季・・・大人になれなくて

エリカの魅惑はやしんから?

23、エリカの魅惑は野心から?

 エリカはこれから出掛けるライブの為に鏡に向かう。つくる顔はもちろんいつもの神秘と不安を織り交ぜた魅惑の表情。それが自分の低く甘い声をよりひきたてるのを知っているから。もっと言えば実は神秘的どころか本当は人一倍野心を持ち現実的である自分を誰よりも分かっているからかもしれない。


ただエリカの持つジャズのイメージはとことん心地よくなければいけない。現実とは乖離した世界。男と女の別れや憎しみさえも甘く切なくなければならない。その意味ではニューオリンズやハーレムから流れる力強いジャズとはどこか一線を自ら引いていた。もちろんそんなエリカのこだわりをシンガーの仲間の中には単にビジネスジャズだと言う人も少なくはない。つまりどんな世界であれ思考は同じ線上で綱引きをするものらしい。
人の持つ思考はその人固有の生き様が否応なしに反映されてしまうのだ。


 子供の頃エリカは母の野心が大嫌いだった。ところが今、気が付けば自分の中には母が望んだ富と安定という理想の家庭など比べものにならない程大きな野望を抱いていた。ジャズシンガーとして自分の名を広める事。はっきり言えば日本など問題ではないのだ。エリカの生きる舞台は世界。

これを夢を希望というきれいに飾られた言葉のずっとさきには女であることも、友達も、時には人生のパートナーをも武器として使える程の非情さを自分にかす。そしていつかその心は大きな野心でうめつくされる。
その覚悟をあなたは持つ事ができるだろうか?
勿論その意味でいえば亜季の決心はまだまだ蕾とも言えないかもしれない。


 エリカは鏡の中の自分の後ろに亜季の顔をみていた。
(亜季・・まだ荒削りだけど彼女のピアノは私に合っている。何より微妙な間合いはこれまでには体験したことがなかった。でも・・彼女は何故か私を憎しみにかりたてる。私は母が嫌い。もともと家庭のある人を好きになった母がいけないんだから。そもそも誰かを不幸に落としいれて自分が幸せになろうとした母が間違っていたんだもの。これまでずっとそう思ってきた。それなのに・・どうして?彼女と会ってから私の心は乱れてばかり。あんな苦労もしてない世間知らずの小娘の為に。ばかげてる。ただ・・・私が前に進む為には・・・彼女のピアノが欲しい。)

エリカの切れ長の目は普段より濃いシャドウに影をおびていた。


 六本木のライブハウスは珍しく若いお客で賑わっていた。丈はいつもの様に大分前に来て一人でビールを飲んでいた。丈の場合ライブに来ているのか飲みにきているのかわからない。ただ、今日は丈にとってある意味特別な日でもある。明日から丈はニューヨークに旅立つ。丈を認めてくれた阿河 剛の進めもあり武者修行というところだろうか。

一年か二年か期間は未定。半分親に感動されているとは言えこうして海外へいけるのだからけして貧乏ミュージシャンではない。多くのジャズを愛する人はいこうして一度は海外へ行き箔をつけて戻ってくる。もちろんそれで自分の力量に見切りをつける人も多いが。

エリカはいままで何人もの人を見送ってきた。笑顔の奥に惨めさと悔しさを隠して。多くの人を裏切り、恋愛をすて、野心を優先しても亜季の父の力はかりたくなかった。そんな惨めさを今また丈の前で隠し密やかな笑みで丈と話していた。


「エリカも一度日本からでてみたらいいのに。エリカの声は向こうではもっと人気がでると思うけどな。」

相変わらず無神経にも響く一言。エリカは返事に皮肉をこめた。

「そうね・・でも先立つものないとね。行ったはいいけどむこうでホームレスじゃなんの為に行ったかわからないもの。丈さんは恵まれているから。」

最後の言葉が一瞬きつい。エリカはまさか無頓着な丈がそれに気が付くとは考えない。丈が実はデリケートだとは思いもしない。

人生や世間を知っていると自信のある人間がつまずく落とし穴かもしれない。


丈はエリカの言葉に妙な棘を感じていた。

「まあ、恵まれていると言えばそうかもな。だけど俺からみるとエリカは多くのファンがいて羨ましいけどな。」

エリカと丈の間にはいつもこんな打ち解けない空気が流れる。それがライブでは時にいい刺激になる事もあった。

「ところで・・亜季さんのピアノどう思う?丈さんはあの柔らかい感じ好きでしょう。」

「まあね。でもあいつがプロの世界に入るのはどうかな。自分だってと言われるのも覚悟で言えばこの世界はあいつにはきついだろう。確かにピアノはこれからしだいだけど競争と実力の世界についていけるか。」

「・・・んん・・優しいんだ。でもこの間いい感触だったの。私が誘ったらどうかしら?」

丈は当惑した。これまでエリカは亜季を好きではないと思っていたしふたりの間には何かあるのではないかとも感じていたのだから。
それにどういうわけか二人を近付けたくないという思いが強かった。

「それはどうかな。・・亜季はまだエリカには付いていけないよ。」

下をみたまま独り言のように丈が呟いた。その声にエリカは硬く閉ざした壁を感じる。

「そう・・・?でも変に間が合うの。丈さんもいなくしなるし一度話てみようかな」

丈の亜季への心配がエリカを突き動かす事になってしまった。丈とエリカの無言の壁がどんどん厚くなる。


 その時、はぎれのいい若々しい声で壁が崩れ落ちた。

「あの・・・すみません。今日は春咲 亜季さんは?」

「いや、今日は来ないけど。」

「そうですか。・・・この間来た時すごくよくて。」

そう言ったあとの彼の顔はあまりにも気抜けしたようでおかしさと同情を誘った。

「ああ、あなたこの間ライブのあと亜季さんと話していた人。でも、この間までは私のフアンだと思っていたけど。

エリカのからかうような言葉に彼の顔がみるみる赤くなっていた。

「ああ・・・はい。で・・・今度の亜季さんとのライブはいつですか?」

エリカはそっと丈の顔を見た。そして晴れやかな声で言った。

「今はまだ未定だけどそのうち・・多分いつでも彼女と私のライブを見ることができるようになるの。今はその準備段階。楽しみにしてて。」

エリカの言葉は藤代には救いの言葉になり、一方丈には不安を掻き立てる材料になった。

対象的な二人の男の表情を目の前にひとりエリカは勝者の笑みをうかべていた。

23、亜季・・・大人になれなくて

23、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-05

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