紙屋町さくらホテル
8/1 『紙屋町さくらホテル』 福山リーデンローズ
これは市民劇場の例会作品です。
尾道例会の日が他の用事と重なったので会場を福山へ変更してもらった。
福山駅からリーデンローズまでタクシーへ乗り料金を払っておつりを貰い階段を上がりながら財布をバッグに入れた積り・・・だったのが、その時に財布を落としたらしい。6時開場まで15分くらいだったと思う。そして開場になり変更手続きをしてすぐにプログラムを買おうとバッグを開けると、さ・財布がないーーーっ!?(◎o◎)/!
落とすならあの時しかない!慌てて入り口を出て階段の下まで走った。すでに20分も経っているのだからもう無いかも・・・半分は諦めていたのだが、その時階段の下から上って来た方が屈んで財布を拾うのが見えた!
「すみませ?ん、それ私のです??っ!」 もう?奇蹟でした―――(@_@;) (この階段を使う人が少くて良かったぁ?)
作=井上ひさし
演出=鵜山 仁
演出
長谷川清=辻 満長
神宮淳子=土居裕子
丸山定夫=木場勝巳
園井恵子=森奈みはる
大島輝彦=久保酎吉
針生武夫=河野洋一郎
戸倉八郎=大原康裕
熊田正子=栗田桃子
浦沢玲子=前田涼子
幕が上ると舞台の中央にテーブルを挟んで長谷川(辻満長)と針生(河野洋一郎)がなにやら言い争っている。長谷川はA級戦犯の自分を拘留しろと言い、今はGHQで働いている針生は御前会議に出ていない長谷川には勾留する理由がないと・・・。長谷川は天皇の密使で陸軍の本土決戦の進捗状況を調べる事が任務だったのだ。
数ヶ月前二人は広島に居た。広島のさくらホテルの3日間で何かが変った・・・。
やがて舞台全体が明るくなるとそこは昭和20年5月の広島・紙屋町さくらホテル、上手に置かれたピアノの伴奏で♪すみれの花咲く頃♪の合唱が始まった。指導しているのは園井恵子、移動劇団さくら隊のメンバーだ。園井恵子を演じるのが宝塚出身の森奈みはるさんだが、この二人は共に宝塚出身で、とってもきれいな声だし歌も踊りも素晴らしいのだけど、お芝居はちょっと・・・かな(笑)
ピアノ演奏は本格的?!と思ったら前田涼子さんは音楽学校出身、本職だよ(笑)この作品が初舞台だそうだ。
戦争も終りに近づいたこの時期、国家の命により役者さんたちは移動劇団で全国を廻って芝居の巡業をせざるを得ない環境だった。だがさくら隊の隊員は座長の丸山定夫(木場勝巳)と園井恵子の二人だけ、そこで芝居をするために座員をかき集める事になる。このホテルの経営者の神宮淳子(土居裕子)はアメリカ生まれの日系2世、カリフォルニアにいる父と兄が戦争が始まると収容所へ入れらた為、一人日本へ帰って来たが敵性外国人とみなされ、特高警察官・戸倉八郎(大原康裕)の監視下に置かれている状態、そんな神宮を助けているのが従姉妹の熊田正子(栗田桃子)。この人は広島生まれの広島育ちの役、だから広島弁を喋るのだが・・・(^^♪。広島県人からすると時に???の所も有るけど、栗田さん、広島弁を頑張っていましたねぇ?! 中々良かったよ!
ホテルに泊まっていた方言の研究をしている大学教授の大島輝彦や、ホテルに泊まりたいと薬売り古橋健吉に扮して現れた長谷川と、彼を追っている針生も傷痍軍人と林康夫(河野洋一郎)と名乗って現われ、それに特高の戸倉までもが急遽役者として参加し、総勢9人で2日後に上演する事になっている「無法松の一生」の稽古に励む事になる。警戒警報のサイレンによって稽古は度々中断されながらも一同は次第に芝居にのめりこみ始める。
稽古中に丸山は始めて観た舞台によって人生が変る観客もいる、とか役者は何にでもなれるとか新米役者に説教したり、つまりは芝居の素晴らしさを説くのだが・・・。
だが舞台の雰囲気は何時空襲が有るか判らないといった戦時下の逼迫感は全然無くて、いろんな物が差し入れされたりとか何処かのんびりとした感じだし、出演の役者さん達も伸び伸びと演じていたように思えた。
辻さんがダンスをしている場面なんてめったに観られるものじゃないだろう(^^♪ 動きがとても滑らかでしなやかに踊れるのには驚いた!
出演の役者さん達は皆それぞれに良かったし見応えは有ったのだが、舞台を観終わった時井上さんはこの作品で何を言いたかったのだろう? そんな疑問が湧いた。
パンフレットの最初に『対話と人間の声』と題して井上さんの言葉が載っているのだが、そこでは新劇の定義について『クライマックスが対話でなされる時、それを新劇と呼ぶ』と述べられている。歌舞伎でも新派でもない、対話によって悩みや悲しみや喜びを表現する芝居(築地小劇場=新劇)がようやく始まったのに、戦争によって断ち切られてしまった。大勢の俳優や舞台を楽しみにした観客達の多くがこの戦争で命を落とした。その無念さを後の世代に渡したい、という思いでこの戯曲を書いたと。つまりは新劇を伝えたかったという事なのか?
その意図からすれば今日の舞台のクライマックスは大島教授が特攻隊で死んだ教え子の遺品である手帳を読み上げる場面だろうと思う。日記に記された両親への呼び掛けが最初は父上様・母上様で始まるが感情の高ぶりにつれて次第に方言になりおとん・おかんになる。死に直面した時の教え子の叫びは確かに胸を打った。
ではそれが何故さくら隊だったのか? 実際にさくら隊の人達はこのホテルで原爆で被爆し全員が亡くなっているのだが、作品の内容は原爆が落とされる3ヶ月も前の話しである。
あの厳しい戦時下で行われる演劇が何故「無法松の一生」だったのか? それがどういう意味を持つのか? 実際にこの公演が行われたかどうかは判らないが、実は私はこの舞台を観るまでは、この作品は紙屋町のホテルで全員が被爆し亡くなったさくら隊の悲劇の話だろうと思っていたのだ。演劇は確かに素晴らしいものだと思う。だがこの内容にさくら隊の名前を付けるのは如何なもだろうか? これで亡くなった人達の無念が晴れただろうか?
私は「紙屋町さくら隊」とつけられた題名と上演された内容にすごい違和感、と言うか不快感を覚えた。
勿論パンフレットにはさくら隊に所属していて、ホテルで被爆した人達の名前も写真も有るし、被爆時の状況やその時助かったにも拘らず、急性の原爆症(急性白血病?)で数日のうちに次々と死んでいった事などが載せられているし、原爆の事や演劇界の歴史なども載せられているがこれらは後から付け足されたものだろう。
広島には紙屋町の町名は今もあるし、さくら隊の碑もある。私自身は被爆体験者では無いが原爆が落とされた時の惨状を想像するだけでも恐ろしい! 被爆者達は凄まじいその時の体験を未だに語れない人もいるというのに、演劇礼賛の作品の題名に付けるには相応しくないと思うのは、広島県人である私だけの僻みなのだろうか?
紙屋町さくらホテル