由香とトイ5

由香とトイ5

由香が荒井教頭に呼ばれたのは夏休みが始まる一週間前だった。由香は期末テストの点が思いのほか悪く、結構落ち込んでいた。そんな時に担任の先生から教頭先生が由香に話しがあるそうだから今日の放課後、教頭室に行くように言われたのだった。由香は成績が悪い事でお説教されるのではないかとビクビクしながら教頭室へ向かった。由香は部屋のドアをノックした。中から「どうぞ」と声がしたのを確認して由香は部屋に入った。教頭先生は机に座って何かの書類を作成しているようだった。「あら、もういらしたのね。ごめんなさい。その椅子に座ってちょっと待っていてください。これだけ書いてしまいたいので」と言って教頭先生はペンを走らせた。一分ほど過ぎ、「よし、完成」と言って教頭先生はできた資料をファイルに挟んで机に置いた。そしてようやく由香の方へと顔を向けた。「あなたが由香さんですね」「はい」教頭先生はスーツを着て、とても凛々しい顔立ちをしている中年の女性だった。教頭先生は興味しんしんといった目で由香を見つめていた。由香は教頭室に入ったことがなかった。由香は普通の部屋と作りが違うつくりのためかちょっと緊張していた。「ちょっとここじゃ話がしづらいですね。隣の応接室に行きましょう」ということで、二人は応接室に移動した。「今日は急に呼び出してごめんなさいね。初めまして。教頭の荒井と申します。あなたは由香さんですね」「はい、あの今日はどういった用件で」「由香さんは最近とても素晴らしい活躍なさっているとお聞きしております」「はい?あの私活躍するような事してないと思います。誰かと勘違いなさっているのではないでしょうか?」由香は誰かに褒められるような活躍なんて全く身に覚えがないのでつい正直にそう言ってしまった。「謙遜しなくてもいいのですよ。あなたは話に聞いていたイメージ通りの人に思えます」「はぁ」由香は担任の先生が教頭先生にいい加減な報告でもしたのだろうかと思いつつもそんな返事をした。「今日はあなたに直接会ってとっても感謝しているって事を伝えたかったのです。教頭になってから本当に忙しくて一人では限界がありまして」「本当に私の話なのでしょうか?本当に身に覚えがないのですけど」由香は流石に感謝されるほどの事はしていないので正直にそう進言した。「あら、これってもしかして私の事を話してないのかしら」と言って教頭先生は首を傾げた。「ごめんなさい。もしかして私の事聞いてなかったかしら」「えっ、誰からですか?」教頭先生は由香の反応を見て「まぁ、聞いてないみたいね。これじゃあ、由香さん何のことかわからないですね」と言い、困った顔をした。「話をする前に説明が必要ですね。少し話を聞いてもらえますか?」と教頭先生が言ったところに、応接室の扉を叩く人が現れた。「どうぞ」と教頭先生が言うと「失礼します」と言って現国の新山先生が入ってきた。新山はちらりと由香を見て言った。「すみません。この子はちょっと」「急ぐ用なのですか?」「はい。実は」と言って教頭先生に耳打ちをした。新山から話を聞いた教頭先生はため息をつくと由香に向かってこう言った。「ごめんなさい。ちょっと急用ができてしまって、そちらを先に片付けなくてはならなくなりました」由香には何となくトラブルの見当がついていた。昨日、現国の授業中にある生徒がスマホで遊んでいたので、新山先生がその生徒からスマホを取り上げようとした。その際、生徒に怪我を負わせてしまう事件があった。その生徒の両親はいわゆるモンスターペアレンツと言われる人たちであったので、そのクレーム処理が必要なのだろうと。由香は空気を呼んで「私の件はまた後日がいいようですね」と言って帰ろうとした。それを見た教頭先生は慌てて「ああ、待って。これでは由香さんにせっかく来て貰ったのに意味がありません」と言った。そして教頭先生はちょっといたずらっぽく笑うと「ならこうしましょう。由香さん、私は一度私の家にあなたを招きたいと思っています。あなたに会わせたい友人がいますので。由香さん、夏休みの最初の週の日曜日用事ありますか?」と言った。由香はお説教されると覚悟して来ていた。よく知らない先生の家に招かれるなんて露とも思っていなかったので返答に困ってしまった。「いえ、特に用事とかはないのですが……」「なら午前十時にあなたの家に迎えに行きます。家は○○ですね」「そうですけど。ええと、あれ」「何か問題でもありますか?」「いえ、別に」「教頭先生。もういらしていますのでお願いします」新山先生が困ったように言った。「わかっています。由香さん、今日は詳しい事を話せずごめんなさいね。今度会う時を楽しみにしています。由香さん申し訳ないですが退室してもらえますか?」と教頭先生が言った。由香は「失礼しました」と応接室を出た。次いで新山先生が出てきて由香に「用が済んだのだから早く帰りなさい」と言って職員室の方へ向かった。由香は新山先生の態度にちょっとムッとした。それよりも面倒なことになったなぁと少し憂鬱に思ったのであった。約束の日。由香はなんだか落ち着かない気分でいた。なんて言っても相手は教頭先生である。下手な事言ったりしたら学校にあっという間に悪評が広まってしまうのではと思っていた。由香は服装や髪形を派手なりすぎないように注意した。時間になると、由香の家のインターフォンが鳴った。由香が玄関を開けると、そこには「おはようございます」と言ってにこやかに笑う教頭先生がいたのであった。教頭先生は約束通りの時間に由香の家に来た。由香は「おはようございます」と言った。いつの間にか由香の母が玄関に来ていて「今日はよろしくおねがいします」と言った。「おかあさま、少しだけ由香さんをお借りしますね」と教頭先生は言った。なんだか楽しげであった。早速由香は教頭先生の家に行くことになった。教頭先生の車は青と白のツートンカラーの可愛らしいデザインだった。教頭先生の家は由香の家から車で十分ほどのところにあった。教頭先生は「車で通れない近道を通れば、自転車で行くほうが近いかもしれない」と由香に道を教えた。由香は生まれてからこの街に居るのにはじめて知った道だったので「この道、今はじめて知りました」と言って驚いた。「車で通る道はこっちを大回りしているからちょっと遠回りしているのよ。これは友達に教わったのだけれども」と教頭先生は言った。教頭先生の家に着くと、客間ではなく縁側に通された。教頭先生いわく「今日はあまり暑くないし、風があるから縁側で話しましょう」ということだった。教頭先生の家は古い木造の家だった。後で聞いたのだが、もともと農家だった義理の親の家をゆずって貰ったものらしい。縁側が、きれいに手入れされたかなり広々とした庭につながっていた。縁側からみる景色はなかなか壮観であった。「いいお庭でしょう。これが私の家の一番の自慢なのですよ」と教頭先生は照れたように言った。「会わせたい人もちょうど来ているみたいね」と言って教頭先生は庭の木の木陰を指差した。指差す先には、由香にはすっかりおなじみの喋るトイプードル、トイが木陰で涼んでいたのだった。トイはつまならそうに言った。「なんだ、由香か」「え、と言うことは教頭先生の知り合いってトイさんなの?」由香は驚いて言った。「そう、由香さんはトイさんって呼んでいるのね。モコこっちへいらっしゃい。みんなでお話しましょう」トイが面倒くさそうに由香たちのいる縁側まで来た。ひょいとジャンプして縁側に飛び乗ると、トイの指定席らしき座布団の上に座った。教頭先生が別の部屋から座布団を二枚持ってきて一枚を由香に渡して、由香に座るように薦めた。「ごめんね、由香さん。説明するより、実際会ったほうが早いと思ってあえて説明しなかったのよ」「しかし状況でわかりそうなものだけどな、由香は鈍いからな」縁側に三人は集まって話をしだした。そこへ初老の男の人が麦茶を由香たちに持ってきてくれた。教頭先生が私の旦那さんだと説明した。旦那さんは由香に「ゆっくりしていってください」といったものの、何かに怯えている様にビクビクしていた。そして会話に加わる気はないらしく、そそくさと奥に引っ込んでしまった。「旦那さんはトイさんが喋るのを知っているのですか?」由香が不思議に思って教頭先生に聞いてみた。「気づいていると思うのですが……。犬が喋るなんて絶対に信じられないみたいで」「あいつは僕のことを無視するんだゼ。おかしいだろ」普通の犬ですら苦手な上、喋ったりすると幽霊でも見たかのように固まって逃げてしまうらしい。「今はほっておくのが一番だと思っています。それよりあなたたちがどうして出会ったのかを知りたいわ。モコは全然話したがらないもの」そう言う教頭先生は興味しんしんといった感じであった。由香はトイと出会った時の話、次いで一緒に行動した時の話をトイが茶々を入れられつつも教頭先生に話したのだった。教頭先生は熱心に二人の話を聞いていた。「面白かった。話してくれてありがとう。私もモコと一緒に行動したことがあったから、うらやましくなったわ」「ええ、そうなのですか?」「ええ、教頭になってからは行ってないのですけど」「先生はどれくらい前に教頭になられたのですか?」「四年目なので三年前になるわね」「そうなのですね。教頭先生がトイさんに会ったのは何がきっかけだったのですか?」「もう十年前になるかしらね。先月の大雨のように雨が強く降った夜だったわ」そう言うと教頭先生は昔のこと語り始めた。雨の強い夜のことだった。洋子は明日に行われる若手の先生に向けた講演会のスピーチの原稿をチェックしていた。洋子の夫は他県に出帳中、夫の両親は他界していたので家にいるのは洋子一人だった。テレビを消していたので、降りしきる強い雨の音と風の音しかしなかった。洋子はひとしきり文章を確認するとそろそろ寝ようと、眼鏡をしまい、布団を敷いて寝ようとした。その時外でからわずかに人に声が聞こえたのであった。雨と風の音ではっきりとはしなかったが洋子には男の声で聞こえた。「助けてくれ」と。洋子は心臓がドキリとして恐怖心が湧き上がってくるのを感じた。自分に霊感などないと洋子は思っていたが、女性一人で外は嵐の夜。そして聞こえる男の声。洋子は怖がらないほうがおかしいと思った。洋子は耳を澄ませているともう一度「助けてくれ」と声がした。洋子は覚悟を決めてライトを持って玄関に出てみた。外は大粒の雨が強風に乗り叩き付けるかの勢いで降り続いていた。玄関には誰の姿も見えず、洋子は背中がゾワリと逆立ってしまった。すると暗闇の中から「こっちだ。早く来てくれ」という声がした。洋子は恐る恐るライトを声のしたほうに向け、目を凝らしてみた。そこには雨に打たれているが眼光の鋭いトイプードルの姿があった。トイプードルが喋ったのだろうかと洋子が戸惑っていると、トイプードルは「何を立ち止まっている。こっちに来てくれ」と怒鳴った。洋子は傘を取り出して開き、トイプードルに近づいた。洋子が近づくとトイプードルはどんどん先を歩き出した。このトイプードルはどこかへ道案内をするつもりらしい。洋子はそう思って黙って後をついて行った。方向的に川へ向かっているようだ。そのうちに雨音に混じって声が聞こえるのが分かった。小さくてはっきりとはわからないが犬の鳴き声のようだった。トイプードルは立ち止まって洋子に向かって言った。「川の中州に子犬がいる、助けてやってくれ」洋子はライトを川の中州に向けてみた。確かに子犬が川の中州に取り残されてワンワン吼えていた。洋子は躊躇して川をみた。川はいつもより増水し、濁った水はどんどん勢いを増しているようだった。洋子は先ほどテレビのニュースで川に近寄るなと警告していたのを思い出した。洋子は今なら行けるけど、時間がたったらさらに状況が悪くなって難しくなる、と判断した。洋子は傘を置いてライトだけを持って川に入った。水かさが膝より上に来ていて、洋子は踏ん張らないと足を取られてしまいそうだった。洋子は川底の石でバランスを崩さぬ様に慎重に進み、子犬のところまで来た。犬は迫りくる恐怖で狂ったように吼えて暴れた。洋子は片手では犬を抱えるのは無理と悟った。洋子はライトを捨てると、悪戦苦闘しながらも子犬を両手で抱ことに成功した。洋子は体を反転させてトイプードルのいる岸側に慎重に戻りだした。洋子は慎重に行動していたが、川の水量が増していたためか、半分ほど帰った所でバランスを崩し、川下に流されてしまった。大きな岩に体がぶつかり、洋子は何とか止まることができた。洋子は子犬を抱え、岩にぶつかった痛みをこらえつつ足を踏ん張り必死になって立ち上がった。洋子は果たして無事に帰れるだろうか不安になった。洋子は川岸からワンワン吼える声がしているのに気が付いた。洋子はさっきのトイプードルが鳴いているんだなと思った。トイプードルの声は川上の方から近寄って来ていた。洋子はトイプードルの声が上の方から聞こえることに気付いた。トイプードルは洋子のいる位置に近い川岸まで来ると洋子に向かって言った。「大丈夫か?」「大丈夫。ちょっと流されたけど。今そっちに行くわ」「ここら辺は高くなっているんだ。今のあんたの状態じゃ登れない。僕が声で合図するから川下に向かってくれ」と言った。「わかった」「合図したら慎重に来てくれ」トイプードルの吠える声が川から聞こえて洋子はその声を頼りに川下に向かった。吼え続けるトイプードルの声を頼りに洋子はさっき以上に慎重に時間をかけて進んだ。暗闇で勢いの増している川の中で洋子にとってはトイプードルの声が聞こえるだけで勇気づけられる思いだった。十数分の格闘の末、洋子と子犬はそして見事に生還したのであった。「話をもりすぎだゾ」とトイはあきれて教頭先生に文句を言った。「そんな事はないわよ。本当に恐ろしかったんだから」「それからどうなったのですか?」「家に帰ってね。タオルとドライヤーで乾かしてあげてね。二匹とも疲れたのかドライヤーの途中で寝てしまって。それはかわいかったわ」「へー、そうなんですか」「ちょ、僕は帰るぞ。奴が来る」急にトイが立ち上がり慌てたように言った。「あらあら、そうなのですか」と言って教頭先生は笑った。トイが帰ろうとすると、突然大きな犬がトイめがけて突進してきた。トイは逃げようとしたがこれは無理だと観念し立ち止まった。次の瞬間、その犬はいやそうな表情のトイの顔をべろべろなめまわしていた。由香が唖然としてみていると教頭先生は「そう、あの子がその時助けた犬なの。近所の人に頼んで飼っていただいたのよ」と言って目を細めた。

由香とトイ5

由香とトイ5

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-04

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