ごちそうさん

パスタ

「ねえ、パスタ食べ行かない?」

 こっちは仕事中だというのに、呑気に(かずら) 朋子(ともこ)は特有の甲高い声で言った。仕事に集中する私のほうに上目遣いで、更にはぷるりと唇に色良く乗ったグロスを光らせる。ボタンを二つも開けたシャツからはそこまで深くも無さそうな谷間が覗く。これがチラリズムというやつか。生憎私はそのチラリズムにチラリと一瞥するだけで、まだ作業に戻る。この女、爪だけは綺麗だ。
「かな恵、濃いチーズが食べたいってこの前言ってたでしょ」
 無表情で爪を塗る私に、彼女は元から私の反応など気にしていないように話を続けた。オレンジ、白、オレンジ。これからの夏にぴったりの、トロピカルで目立った色にしてほしいとの要望だった。2週間前、彼女の爪をピンク色に塗っている時に「今年の夏は~プール行って、バーベキューもして、とことん夏楽しむんだァ」と、世の中の明るい女子が大抵思ってそうな、ありきたりなことを、さも特別であるかのように言っていた。いや、彼女たちにとっては特別に違いない。そうなんだ、いいね。なんてありきたりな返しをしながら、その日で3本目のピンク色を使い切ったのを覚えている。
「いいパスタ屋さん見つけたの。雰囲気も良くて、おまけにイケメン揃い」
 そうなんだ、いいね。私が白のラインを塗りながらそう返すと、朋子はイケメンの話を続けた。「黒髪、茶髪、金髪。どの男の子もかっこよくてさ~、何皿でもパスタいけちゃう~」と言う彼女に、さすがに何皿もパスタを平らげる女はどうなんだと冷静な返しを思いついたが、そういうのは「マジレス勘弁」と言われるのがオチだ。いや、勘弁してほしいのはこっちのほうだ。パスタの話はどこに行った。
「あ、でもォ。そんなに食べたら、夏水着が着れなくなっちゃうぅ」
 セルフレスポンス。女がよくやることだ。自分で投げた球を、自分で取りに行く。それをさも面白そうに、だ。私はその様を、フェンスの外から見事だなぁと見守っている。そしてボールの行き先がどこに行くのか、見届けることもあれば、フェンスから離れて散歩に出掛けることもある。
 指一本一本に、ラメを静かに乗せていく。一ミリほどの丸い、ダイヤモンドのようにキラキラ輝いたラメ。こんなちいちゃなプラスチックに、私は瞬間、欲情する。なぜ同じような輝きなのに、ダイヤモンドはべらぼうに高く、このラメはちゃちな扱いなのか。ダイヤモンドが憎いわけじゃないが、ラメに欲情してしまう私を少しくらい、肯定する事実があってもいいのに。自分が思うことの変態性は認めながら、私は不満と恍惚を持って、ラメを朋子の長細い爪に乗せる。
「もしかしてこれぇ、新しいラメだったりする?」
「あ、そう。そうなの。よく気がついたね」
「わ~、やっぱり」
 前のめった朋子のまあるい瞳に、キラキラと輝くラメが映った。大きな二重に、マスカラで必死に伸ばしたであろう太い睫毛。そしてひかえめに大きくした茶色いカラコン。朋子は今時女子だ。ネイルにまで足繁く通ってくれているのだから、世間で言う『女子力』というのはなかなかに高いのだと思う。そこに子供のように素直にはしゃぐ朋子の性格があるのだから、異性には十分モテるだろう。しかし、ここ一年、朋子には彼氏がいないという。
「で、かな恵はいつ空いてる?」
「あ~、スケジュール帳見てみないと」
「パスタ食べに行くだけなんだし、今日とか空いてたら、行こうよ」
まあるく張った頬を釣り上げて、朋子は笑んだ。私は彼女のこの笑顔が嫌いではない。押しの強い彼女にこう言われると、元から断り下手な私は薄く言葉を濁してから、まぁいいかと半ば諦めたような結論を出す。
「いいよ。今日はなんとなく、パスタの気分だし」
「やったぁ!それじゃあ、7時にS駅でどう?」
「うん、分かった」
 約束が決まってみると、本当に口がパスタの口になってきた気がする。渋ってはいたものの、美味しいパスタに雰囲気の良い洋食屋を想像してみると、なんとなく気分が高揚してくる。朋子のアグレッシブな行動に全て賛同出来るような性格ではないが、たまにはその船に乗ってみるのも悪くはないのかもしれない。

「あー、でも食べ過ぎには注意しなきゃね」
 朋子はさっきの話題を、なぜか私に投げかけた。完成したネイルを角度を変えながらうっとりと見る朋子に、私は代金を告げる。ブランド物の財布から、綺麗な装いをした福沢諭吉が顔を出した。

 午後7時15分。S駅中央改札口前。
 『ごめん、もうちょっとで着くから!』『全然大丈夫だよ』このやりとりの後に、お決まりのアンニュイな猫のスタンプが押され、私はそれに既読だけを付けた。私は音楽を聴くでもスマホをいじるでも本を読み出すこともなく、前に据えた私の視界の中を行き交う人々のことをなんとなく眺めていた。初冬の寒さに皆首を竦ませ、足早に私の視界を横切って行く。帰宅の頃合いか、それとも私のようにこれからディナーに向かう人もいるのだろうか。そんなことをふと思うが、だからといってそれ以上の興味は持ち失せた。視線をまた別のところに移すと、駅の外では冬の夜空にはよく映えるイルミネーションがぽつぽつと光っている。その光を捉えたその瞬間から、私の瞳は瞬きの動作を即座に切り捨てた。綺麗だ。ああ、なんて、まるで、そう。私が日々誂え、摘み、愛おしむあの輝きに似ている。ただ、似ているというだけで、このちいちゃくてぼやけたこの駅前のイルミネーションに、あの掻き毟りたくなるような恍惚は湧き上がらなかった。私は量販店で買った980円の手袋をおもむろに外し、そしてコートのポケットに手を突っ込んだ。すると指先に小さな粒が食い込む。それを人差し指と親指とではさみ、指先の肉の中で転がした。店で使っている一粒のビーズだった。その小さな小さな粒は、一度、光の下に当たればその輝きで一気に私を魅惑の園に落とし込む。それが、福袋に入っていた大して上物でもないコートの、糸くずも混ざり合った真っ暗闇のポケットの中で無様に転がっている。私は思わず垂涎した。
「お待たせ!」
 肩を叩かれ、私は一気に現実世界に引き戻される。その甲高い声に振り返れば、薄暗がりにけろりと笑う朋子がいた。その長く、毛先が乾いた髪の毛は、冷たい風に当てられ山姥のように散らかっていた。
「今日、一段と寒いね~」
 そうだね、と返した。その寒さの中、15分間、15分間待っていた私に彼女は一つの謝罪も労いもしてくれないことに舌を噛みそうになったのをぐっと堪えた。私たちは、ちゃちなイルミネーションが照らす街道を歩き始めた。

「確か、この辺なんだけど」
 

ごちそうさん

ごちそうさん

「ダイエットしなくても、まだ大丈夫」と唱え始める女の話

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. パスタ
  2. 2
  3. 3