灯
灯は「ともしび」とも「あかし」とも読むようです。どんな読み方でも良いと思っています。
灯
夜の山道。山の中程にまで上がった辺りの、剝きだした崖に沿う道路の上。
草木の息が涼しい風に巻かれてガードレールの向こうから漂い、僕の体を夏の空気に満たしていく。妖しげな花々の香りも入り混じり、アスファルトの上に立ち尽くしたままの僕を夢のような心地に誘う。
このまま本当にどこか別の世界へ行けはしないだろうか。僕はあらためて全身で深呼吸をした。たくさんの花が一斉に自分の蜜を香らせて誘惑しているような濃い匂いがした。僕はなぜか昔の遊郭の、牢屋のような建物で客を待つ遊女の集まりを想像していた。多分歴史の教科書か何かにそんな写真が載っていたからだろう。
遊女達の誘惑の中には、わずかながら、一際鼻を突くにおいがあった。錆びた鉄のようなつんとした臭いだ。
その時僕はやっと、目の前に横たわる歪んだ銀色の自転車と、眠るように息を絶えさせた傷だらけの少女とを再び意識の中心に置くことが出来た。少女の体から広がる赤い水たまりはすでに僕の足下にまで届いている。見ると、地面に落ちた僕の携帯電話が血に浸っていた。さっきひどく取り乱した挙げ句に、手を滑らせてその場に落としたのだ。確かな要請が行えたのかどうかも怪しい。
慌てて携帯電話を拾い上げ、ハンカチで血液を拭い、あらためて連絡を取ろうとしたが、サイレンの音が近付いていることに気がつき、僕は携帯電話をハンカチに包んでズボンのポケットに仕舞った。
僕は恐る恐る少女に歩み寄り、腰を屈め、その長い前髪をそっと指で掬い上げ耳の後ろに掛けた。耳たぶに触れるとひどく冷たかった。
少女の頬にわずかにこびりついた血が、その柔らかな丸みと病的なまでの白さをいっそう際立たせていた。今となってはむしろ青白く、生気を失くしてしまっているのだけど。
それでも一見して深い悲壮感が伝わってくるような、負の感じを呼び起こすような顔では決してなかった。死んでしまったものをそんな風にいうのは変かもしれないけれど、どこか前向きな、何かを喜んでいるようなそんな表情にも見えた。偶然そう見えるような角度だったのかもしれない。そうでなければ僕の思い込みだろうか。
救急車がサイレンをうならせながら坂を上がってきた。回転する赤のランプが周囲を照らす。その光が少女の姿を浮かび上がらせるたびに、僕にはそれがいかにも死んでしまったものとして目に映った。始めから手遅れなのだ。僕は祖父の葬式のときに、棺に入った既に渇いてしまった遺体を見たことしかなかったが、それでもすぐに、彼女はもう二度と目を覚まさないのだと分かった。
死んだ人の体は抜け殻のようなものだと聞く。亡き骸とか死骸なんて言葉もある。だけど僕が見たそれは、ただの抜け殻と言い捨ててしまうにはあまりにも多くの感情を抱かせる素質を持っていた。何かを伝える力を蓄えていた。
死は変化だと言う人がいるが、僕もそう思う。生きた魂が、死んだ状態の魂に変わって、しばらくそこに居続けるのだ。もちろん死んだ魂にだって、生きた魂と同じくらいに意味がある。
彼女の柔らかい寝顔のような表情が、こんなにも感情的で、こちらまで微笑んでしまいそうになるのはきっとそういうことだ。成仏だとか天国だとかは、死んだ魂だけが見られる夢みたいなものなのかもしれない。
救急隊が二人掛かりで少女の上体と脚を持ち上げ、担架に乗せて運んでいった。完全に運び込まれてしまうまで僕はずっと目を離さなかった。
「あの」
少女の声がした。僕は一瞬、彼女が耳もとに立って囁いているのかと思ったが、それは違った。そこにいたのは彼女よりもいくらか背の小さな別の女の子だった。しかしよく見ると、活発そうに上がった目尻や薄い唇の形が彼女によく似ていた。
「姉のお友達ですか」
女の子は僕にそう訊いた。途端に僕は返答に詰まる。なぜ?
自分でもよく分からないが、さっきから僕の中で生まれつつある妙な意識が簡単なはずの答えを妨げていた。
「違いますよね、きっと。そうですよね……姉はひとりでしたから。……いつも」
独り言のようにそう呟き、女の子は一雫の涙を零した。それから更に溢れてきた涙を両手で拭い、背中を向けてうずくまってしまった。
少女がいなくなった崖下の草むらから、小さな光のまたたきが一つ現れ、飛んでいった。
その光を目で追いながら、僕は彼女に関わる様々なことについて、延々と思いを巡らせていた。
*
休みの日に、帆垂はよく神社に来て一人で絵を描いていた。鳥居の下の石の階段に座って、涼しい木陰で絵を描くのが好きだった。
目の前に見える下り坂と周りの家々を描いたり、神社を描いたり、時にはまったく目に見える景色とは違う、不思議なものを描くときもあった。
小学生の夏休みの、ある日の正午。Oが始めて帆垂に声を掛けたときに描いていたのは、まさしくそういう奇妙なものだった。
「何描いてるの?」
言いながら、Oは後ろからスケッチブックを覗き込んだ。描かれていたのは、全身がピンクの毛で覆われた、犬のような生き物だった。二足で立ち、口は大きく開かれ、だらんと舌を出して笑っている。目は今にも落っこちそうなくらい飛び出していた。Oは思わず体を仰け反らせて眉をひそめた。
「なんだこれ」
そう呟くと、今までずっとスケッチブックに目を落としていた帆垂が急に顔を後ろに向け、ぴったりと目を合わせて応えた。
「モモイヌだよ」
上ずった調子で帆垂は言い放った。その目があまりに大きく見開かれていたので、瞬間、Oは帆垂が怒っているのかと思った。
「モモイヌって何……」
「私の夢に出てくる犬。捕まったら食べられちゃうんだけど、食べられそうになったら目が覚めるの」
予想していたよりずっとハキハキと喋ってくるので、Oの方がむしろ気圧されてしまった。元々Oは人見知りをする性格なので、帆垂に話し掛けたのもやっとのことだったのだ。実際のところ、これまでにOは何度も鳥居の下で絵を描く帆垂の姿を見ていながら、立ち止まっては引き返していたのである。
何か言葉を繋がなければと思った。この変わった絵について、次に尋ねるべきことは一体何なのだろうか。うるさい蝉のせいで考えがかき乱される。
「そっか……それって、どんな場所?」
Oがぼんやりと訊くと、帆垂はかくんと首を傾げた。
「ああ、いや……そのモモイヌが出てくるのはどんなところなんだよ?」
言われて、帆垂は再びスケッチブックに目を落としてしばらく考えるような仕草をした。実際に、「んー」と声を出して考えていた。
その時間は妙に長かった。蝉の鳴き声がいやに大きく感じ、Oは色々な感情が入り混じった変な汗をかいた。
それから帆垂が突然色鉛筆を握り直し、モモイヌの左後ろに三匹の蛙を書き足した。
「蛙がいた」
書き終わってから、帆垂がOの方に向き直って言った。
「蛙ね……」
その絵からして、かなり大きな蛙であることは分かった。三匹とも、体は青ではなく茶色い。表面がでこぼこしている。ウシガエルだろうか。
「絵、上手いね」
あまり考えても仕方なさそうなので、Oは不器用に話を変えた。すると帆垂はスケッチブックのページを一枚めくり、Oに向けて言った。
「これ、そこの坂道」
「へえ」
見事な風景画だった。いつも見てきた坂道が、一段と長く、高く見える。手前の頂上のところをよく見ると、少年が一人、自転車のそばに立っていた。もしや、とOは期待に胸を弾ませて尋ねた。
「これって、もしかして俺か」
「そ!」
何ともなさそうに鼻だけで笑ったが、内心嬉しい思いで舞い上がっていた。今まで一方的だと思っていた意識が彼女の方からも向けられていたことを、喜ばずにはいられなかった。
「ここまで日焼けしてないけど」
「してるよ」
その時、初めて帆垂が笑った。Oも遅れて笑った。
「名前、何て言うの」
「帆垂」
「ホタル?変……」
変な名前だな、と言おうとしたが、Oはよく考えて、丁寧に言い直した。
「良い名前だな」
その夏休みはずっと、二人で神社に来て、帆垂が絵を描き、Oがその感想を言ったりする日々になった。二人で駄菓子屋に寄ったり、変わった虫を捕まえたり、木陰で眠ったりもした。
しかし夏休みが終わると、二人が会うことはきっぱり無くなってしまった。帆垂が学校に来ることはなかったし、Oが神社に行っても、そこで帆垂が絵を描いていることはなかった。理由は考えても分からない。小さい頃の付き合いはほとんどが自然に消滅するものだと、成長したOは気付いた。それでも、その一夏の記憶は他のどんな友達と遊んだことよりも深く印象に残っていた。
とはいえ、思い出す時以外は何もかも忘れている。当たり前のことだ。
Oがいつまでも帆垂のことを忘れずにいられたのは、彼女から貰った一枚の絵——坂の上でこちらを見ている自分の絵——が、いつまでも部屋の壁に貼られていたからである。
Oはそれを見るたびに、胸を締め付けられるような思いになりながらベッドに倒れ込み、窓から差す眩しい日の光で視界を埋め尽くすのだった。
そうして、長いようで短い年月がいつの間にか流れ去り、やがて二人は再会する。それはまるで、いつかの夢の続きを見るように唐突に訪れる。
高校二年の夏に、Oは小説を書く。O自身、そういうものに特に関心が強いわけではなかった。夏休みのうちにやることになっていたいくつかの自由課題のうち、選んだものが小説のコンクールだったのだ。他の学生は皆面倒だろうと敬遠していたが、Oはむしろ、一番やり易いとさえ思っていたし、やってみても実際にそうだった。もともとOは想像力(連想力と言った方が的確かもしれない)だけは人一倍よく働く性格だった。普段から見かけるあらゆるものに対して、筋の通った物語を自然に頭に思い浮べることが出来た。それはほとんど癖のようなものだった。自分の頭を支配して圧迫する様々な群像に苦しみ、眠れない夜も多く、時には鬱病に罹ることさえあった。だからこそ無限に溢れかえる想像を文章に起こすことは造作無かったのだ。Oはあえて凝った物語を練ろうとはしなかった。出来上がったものも特に革新的な内容ではなく、ごくありふれた高校生達の生活と、苦みの残る結末を淡々と書き綴ったような小説だったが、それでもコンクールではそれなりに高い評価を受けた。どうやら小説らしい表現を使って、体裁を保って書ききっているだけでも、高校生の作としては一目置かれたらしい。Oの小説は優秀賞に選ばれた。二番目に良い賞だった。
Oはコンクールの授賞式に出席し、賞状を受け取り、ありふれた受賞の感想を一言二言と述べてそれを済ませた。最優秀賞はいかにも勤勉そうな様子の男子が受け取っていた。彼はOの作品を事前に読ませてもらっていたらしく、それについて後から色々な感想を投げかけてきたが、それについてOが覚えていた内容は一つもなかった。
受賞式が終わると、Oは賞状を抱えて一人、会場を後にした。他の受賞者達には皆家族が付いていたが、Oの両親は二人とも仕事に出ており会場に来てはいなかった。
ロビーに出るとたくさんの人だかりがあった。周りの壁や柱には額に入れられた絵が飾られていた。入ってきたときには見逃していたが、それらの絵は全て学生による出展だった。
品の良さそうな正装の家族も多くいた。ある父親は誇らしげに娘の肩に手を置き、母親はここぞとばかりにその様子を写真に収めている。娘は猫のように父親の腕に収まっていた。
そんな家族連れの姿や飾られた絵を、見るともなく見ながらOは人々の間を抜けていった。水彩の絵はどれも繊細に描き込まれており上手だったが、夏の風景を題材にとっているにしては、どこか力強さに欠けるものばかりだった。
ただその中で一つ、Oの歩みを引き止める絵がひっそりと出口近くの柱に掛けられていた。その絵はこの会場で唯一、水彩ではなく色鉛筆によって描かれたものだった。逞しい木々の幹や生い茂る草花の色づきが命の息吹を感じさせる。金色の大層な額に入れられた最優秀賞のものよりもよほど素晴らしい絵に思えた。
下のプレートに目を落とすと、そこには帆垂の名前があった。
Oが帆垂の漢字を知ったのはその時が初めてだったが、当たり前のように「ほたる」と読むことが出来た。色鉛筆画に彼女の面影がそのまま重なっていたからだ。
Oは背筋が麻痺するような感覚と共に、何分間もその絵の前で立ち尽くしていた。眺めているだけで絵の中に吸い込まれそうになる。
そこにはあの夏があって、あの頃の自分がいて、帆垂がいて、二人でもう一度気ままな遊びをしながら毎日を過ごせるのだ。
そんなことを考えれば考えるほどに、絵に引き寄せられて離れられなくなっていく。気がつけばOは知らないうちに、右手を伸ばして静かに帆垂の絵に触れていた。
そんな様子を見て、少し離れた後ろの方から一人の女性がOに声を掛けた。
「お目が高いですね」
Oがびっくりして振り返ると、そこには少し強気な、活発そうなあの目でにっこりと微笑む彼女がいた。あの日よりもずっと大きくなった帆垂は、体の前で改まったように手を組んで、少し背伸びになりながらそこに立っていた。
「久しぶり」
呆然と言葉を失っているOにはまるでお構いなしに、帆垂がもう一度言葉を投げかける。
「ああ。すごく。久しぶり」
Oはそれだけ言うのに精一杯だった。それを聞いて帆垂は再び笑った。ばかにしているわけでもない、嬉しそうな笑顔だった。二人はごく自然に肩を並べて会場を出て行った。外はもうすっかり夜だった。
帆垂は変わっていなかった。もちろん容姿はいつかよりも大人びているし、薮から棒に何でもかんでも話し出す癖は控えめになっていたが、それでも根っこは何も変わっていなかった。それだけでOは懐かしかった。懐かしさを噛み締めることに気をとられて、帆垂の話し掛けを聞き逃してしまうほどだった。
「ねえ。優秀賞でしょ?すごいね」
「ああ……」
小説のことについては、Oにとってあまり拘りが無いので、どうでも良い話題だった。Oはただ帆垂が意気揚々と自分に話し掛けてくれて、それに対して何かしらの相づちを打っている状況を心から楽しんでいた。けれど、それだけでは会話は保たなかった。Oは何かしらの話題を提供しなければならなくなった。
いざとなると、言いたいことがあまりにも溢れていて、考えがまとまらなくなってしまう。帆垂が好奇の目をこちらに向けてじっと黙っていることに、Oは妙な焦りを感じていた。それはいつかの夏に抱いた感じとよく似ていた。
「……モモイヌって、憶えてる?」
混乱するとどうも妙な質問を口走ってしまうらしい。その時面食らったのは帆垂の方だった。帆垂は一度大げさに(彼女にとってはごく自然に)驚いた表情を作ると、先ほどよりも何倍も好奇心に満ちた様子で、前のめりになって訊き返してきた。
「あれがどうしたの?すごい、憶えてるなんて」
「分かったんだよ。実は、あれは……」
あれは———そうだ、あれは、自分が小さい頃に見た———でも、それならなぜ帆垂があの時絵に描いていたんだろう?それも、夢に出てきたなんて言って。
「僕」は目を伏せながら笑った。氷柱を刺されたように胸が切なかった。
決まっている。そんなことはもう、とっくに分かっている。どんなに丁寧に紡いだ物語でも、どこかで必ず綻びが生まれてしまうのだ。
Oは答える。
「あれはさ、ハロウィンパーティーの時に出てた着ぐるみだよ」
「ハロウィンパーティー?」
帆垂が言う。
「そう。森の家で毎年やってたハロウィンパーティー。あれにいつも、気味の悪い犬の着ぐるみが出てきてたんだよ。泣いちゃう子がたくさんいたから、途中でやらなくなったみたいだけど」
森の家というのは、Oの近所の森にあるログハウスのことだ。そこに住んでいるおじさんや地域の大人が、毎年ハロウィンやクリスマスの時期になると決まってイベントを催し、子ども達を楽しませていたのだ。
「じゃあ、あの蛙は?」
帆垂が尋ねる。
「あれはヒキガエルの置物だよ。森の家の庭にいつも置いてあったんだ。見た目がすごくリアルだったというか……結構印象に残る物だったから……」
「そう。でも、おかしいな」
帆垂が大きく首を傾げながらそう言った。Oはゆっくりと息を飲み込んだ。そろそろ自分の家が近づいてきている。
「なにが?」
何ともない風を装いながら、Oは恐る恐る帆垂にそう訊き返す。
「だって……私は一度も、そんなパーティーに行ったことなんてないよ」
ごく当たり前の疑問。Oは一体ここで何と言うのだろう。
きっと上手な発想なんて出来ないに決まっている。そういうのは特に苦手なのだ。
Oは自分の家に着く。きっとOは答えを誤摩化したまま、その場で最後の別れを告げるのだ。
「会えて本当に良かった。それじゃあ」
帆垂はきっと、何の疑いもなく微笑んで、元気に手を振ってくれるに違いない。そして明るくお別れの言葉を返すのだ。
「うん。それじゃあ、また会おう。続きはまた今度、ゆっくり聞かせてね」
そして再び、二人は離ればなれになる。それからもう二度と会えないのだ。一度綻びてしまった物語が綺麗に幕を閉じることなどない。寂しいけれど、仕方のないことだ。
それでもOはもう一度だけ、帆垂の方に振り返る。彼女はもう背中を向けて夜道を歩き出していた。それを引き止めることはもう叶わない。それに、仮にOが彼女を引き止めたところで、何一つ変えることなど出来ないことを、僕はよく知っている。
いつも以上に深く、本物らしい夢の淵から、僕は一人で目に見える世界へと帰っていった。
*
僕の周りにはずっと、夜の闇と草木と花、ガードレール、そして静かに泣いている彼女の妹がいるだけだった。
とてつもなく長い旅から帰ってきたような気分だ。それでも現実の時間はさほど多くは過ぎていないらしい。それは夢を見ることも同じで、どんなに長い夢でも本当はほんの数秒の間に体験している錯覚のようなものだという。頭はまだ朦朧としている。花の香りは未だに僕の思考を狂わせようとしているようだ。あるいはもう十分におかしくなっているのかもしれない。
僕には悪い癖がある。ざっくりと言ってしまえば、極度の空想癖だ。自分の創った世界の中にトリップしてしまうのだ。それはもう何度も、数えきれないくらいに経験してきた。
だけど、これほどまでに感情的になれたことは今までに一度たりともなかった。僕は確かに、夢を見ていた。ただの想像ではなく、それを本当の出来事のように感じながら、楽しんだり、悲しんだりしていた。
僕が帆垂の絵を好きだと言ったとき、彼女の見せた笑顔が心から嬉しかった。二人で食べた駄菓子屋のアイスは一段と旨かった。
再会の喜びも、驚きも、何もかもが本物だった。それは全く今までにないことだ。
僕は彼女の理不尽な死が怖かった。彼女はきっと、他の誰にも思い描けないような、彼女だけの素晴らしい世界を内に持っていたに違いない。もっと色々なことに出会って、色々なものを見て、彼女の中の世界は無限に広がっていくはずだったのだ。きっと彼女は誰かを感動させるような美しい世界をその心に持っていたはずだ。
僕は夜空を見上げた。空気の澄んだ山道からは、たくさんの星の瞬きが見えた。絵に描いたような満天の星空。その先に広がり続けるのは宇宙である。
宇宙ですら及ばない世界が、僕や彼女の中には存在していると思う。大げさではなく、それだけの可能性が人の心にはあるはずだ。
それなのに、彼女の世界はもう、永遠に彼女の中だけで消えてしまうのだろうか。僕はそのことに、恐怖にも近い強烈な違和感を覚えないわけにはいかなかった。
だからこそ僕は、あんな筋書きを延々と空想していたのかもしれない。あの拙い夢によって、理不尽な終わりを迎えた彼女の世界に一つの結実を与えたかったのかもしれない。
思い上がりだろうか。結局僕はこの怖さから自分を救いたかっただけなのだろうか。
いつの間にか、隣で泣いていたはずの彼女の妹がいなくなっていた。妹はすっかり泣き止んでおり、少し離れたところに立って煌めく町の景色を眺めていた。
「……病院には、行かなくていいんですか」
彼女に声を掛けたとき、僕は自分の声が鼻にかかって震えていることに気がついた。そういえば妙に、目の奥がつんとしていた。
「いいんです。もう手遅れなんです。……向かってきたトラックを避けようとして、崖の上から落ちたって……本当、運が悪くて。ほとんど、即死だったみたい」
妹の話しぶりは、先ほどよりかはいくらか清々しかった。それでも声はほんの少しだけ震えていた。
「あの……本当に、姉のことは何も知らないんですか」
妹が不思議そうな顔で僕に問う。僕は否定の意味を込めて首を横に振った。そもそも、本当の名前すら知らない。
「でも、泣いていたじゃないですか。あそこで、ずっと……」
そう言われてみても、自分では思い出せなかった。だけどどうやら僕は、取り留めのない空想の最中に泣いていたらしい。
「いえ、本当に知らないんです。ただ……一つだけ思い当たることがあって」
妹は何も言わずに、真っ直ぐ僕に目を合わせた。僕は一度目を閉じて深く息を吸い込むと、幼い頃の記憶を辿りながら、丁寧に彼女に話をした。
「ほんの小さな、小学生の頃……夏休みでした。神社の階段の上でいつも絵を描いている女の子がいたんです。僕は友達の家に遊びにいく途中に、何度もその女の子の前を通りかかりました。いつも彼女のことが気になっていたんです。……それである時、彼女に声を掛けてみようかと思って、神社の階段を上がったんです。……だけど、出来ませんでした。人見知りな性格だったので……僕は話し掛ける勇気が出せず、そのまま階段を引き返したんです。
彼女についてはそれきりです。それに、もう昔のことだから……ただの思い過ごしかもしれません。全然、違う人なのかもしれない」
僕は一息にそのことを打ち明けた。
妹は両手で口を押さえて驚いていた。それから僕の方に一歩足を進めて、僕の顔をそっと覗き込んだ。それから彼女は再び目に涙を浮かべて、感極まった様子で僕に告げた。
「それじゃあ……じゃあ、いつもお姉ちゃんが言っていたのはあなただったの。姉は、ある時からいつも自分の絵に男の子を描くようになったんです。あの、神社の階段の上で描く絵の中に……あの子、今日も来てくれたんだよって……姉はいつも私に言っていました。
あの時の姉の顔は今でもとてもよく憶えています。本当に……すごく、嬉しそうでした」
夜の山道で、僕と彼女は熱く泣きながら笑い合った。
空想の物語など始めからいらなかったのだ。
灯