雪の面影

雪の面影

 彼女を初めて知ったのは、高校一年生の時です。
 ただし、同じクラスだから顔と名前だけは一致する、そんな程度の、言葉もほとんど交わすことのない間柄でした。
 二年生になって彼女とは別のクラスになりました。
 何事も無いまま三年生になり、そして卒業、就職を迎えました。
 
 彼女と偶然再会したのは二十二歳の時です。
 新しい銀行口座を開く事になり、その手続きをしに行った銀行の窓口に、彼女がいました。
 高校時代の面影がほとんど無かった彼女を、僕は気づかなかったのですが、彼女は僕の名前に覚えがあったらしく、声を掛けてくれたのでした。
 そして懐かしさから、今度食事でもしようと僕から誘いました。
 実は、懐かしさからというのは嘘です。
 彼女はとても綺麗になっていました。
 だから、初めて会った女性に一目惚れした、と言ったほうが正しいでしょう。
 彼女と一緒の食事は、とても楽しいものでした。
 特定の女性と付き合った経験のない僕でしたが、彼女を退屈させないよう一所懸命、話しました。
 その甲斐あってか、週に一度は会うようになり、二ヵ月後には、恋人同士と言って良い関係になりました。
 彼女はなぜか高校時代の僕のことを、よく覚えていました。
 僕も君をよく覚えていると嘘をつきました。
 
          ※※※
 
 僕は凍結路での連鎖型の交通事故に巻き込まれ、大怪我をして入院しました。
 一年近く入院し、退院したあとも週二回の通院を一ヶ月ほど続けることになりました。
 通院は火曜日と金曜日、凍り始めた道路での運転をする気が起きなかったので、乗り合いバスで通院していました。
 社会に出て、マイカー通勤をするようになって何年か経っていたので、最初は満員バスが苦痛ではないかと思いました。
 ですが、一週間も経つと、かえってバスが新鮮に思えて来ました。
 路線最初の、乗客が四、五人ほどしかいないバス停から終点まで乗るので、最後列の端の席を選んで座り、のんびり新聞や本を読みながら乗っていられるのと、高校生の頃に車窓から見ていた街の景色を、懐かしい気持ちで楽しめたからです。
 
 
 二回目の通院日の朝、歩道側の席に座っていた僕は、あるバス停に止まった時、読んでいた新聞の朝刊からふと目を上げました。
 すると、乗車を待つ客の列の中の一人の少女と目が合いました。
(どうしてなんだろう)と思いました。
 次に思ったのは、制服を着ているから高校生だろうな、ということ。
 それから、ちょっと可愛い子だなとも思いました。
 僕はその少女から目をそらせず、ずっと見ていました。
 ほんの四秒か五秒、眼が合った状態が続き、客たちがバスに乗り始め、列が動いたことでその時間が終わりました。
 動き始めたバスの中で、その少女は他の乗客の隙間から見え隠れしていました。
 再び新聞を読み始め、二つほどバス停を過ぎた頃、(どうしてなんだろう……って、何が?)と、思いました。
 なぜ、あの子から目をそらせなかったんだろう。
 何をどうしてなのか、と思ったんだろう。
 僕は急に落ち着かなくなってしまい、乗客の中に少女の姿を捜しました。
 僕の座る最後列の席は、フロアより一段高くなっているのですが、それでも少女の姿を見つけられないほど、バスは混んでいました。
(今度乗ったときにでも、もう一度会うだろう)
 そう思いなおし、僕は手にしていた新聞に再び目をやりました。
 そして、その少女がどこで降りるのか確かめようともしませんでした。
 
 
 次の通院日の朝、バス停が見えてきた時に、僕は意識して乗客の列の中から少女を捜しました。
 特に目立つような子ではないのと、乗客が多いこともあって、なかなか見分けることが出来ませんでしたが、バスが止まってから真横を見ると、車窓の向こうに立つ少女と目が合いました。
 そして僕は(どうしてなんだろう)と、また思ったのです。
 少女は目線だけを僕へ残し、少し体を前に進め、それから目線を外しました。
 僕は少女から目を離すことが出来ず、その行方を追いました。
 少女は先日と同じように、フロアの中ほどで他の乗客に紛れて揺れ始めました。
 僕は何故、前回も今回も、あの少女に対して(どうしてなんだろう)と思ったのかが気になりました。
 よくあるのは、気のせい、なのでしょう。
 少し可愛い子と目が合ったから、少々のぼせた気持ちになったというような。
 そして少女が僕を見つめる理由としては、知り合いに良く似ている人を通学途中に見るようになった、というあたりでしょうか。
 しかし、おかしなもので、よく考えてみようとは思うのですが、ふと気にならなくなるのです。
 
(ま、いいさ。自分でもよくわからない理由で女子高校生に話しかけるのもおかしな話だ)
 
 そう思えた頃には、もう少女の姿を見つけられない程、バスは混んでいました。
(明後日、またこのバスに乗る。その時にもう一度会うだろう……だから今はそこまで気にする必要はない)と、そう考えるようにしました。
 
 
 その日の少女は、あきらかに僕を見つめていました。
 バス停でも。
 車内でも。
 僕は思わず、目をそらしました。
少女は、責めるような、諦めるような、そんな目で僕を見つめている気がしたからです。
 うつむくように目をそらし、少し経ってバスは動きだしてから僕は顔を上げました。
 少女は乗客の中で揺れており、もうこちらを見てはいませんでした。
 
 
 週が明け、通院日でないにもかかわらず翌日から同じバスに乗ることにしました。
 先週は気に留めていませんでしたが、その日から町の高校は冬休みに入っていました。
 学生たちがいなくなると、バスは立っている乗客がほとんどいなくなりました。
 そしていつものバス停にさしかかった時、到着を待つ乗客の中に少女の姿はなく、僕はほっとしたような残念なような、どちらともいえない気持ちになりました。
 しかし、バスが停まり、何気なく顔をあげると、そこに少女は立っており、いつものように僕を見つめていました。
 僕も目をそらすことが出来ませんでした。
 少女は僕から目をそらすことなく前へ進み、僕を見つめながらバスに乗り込み、僕の座席のほうへ歩いて来ました。
 そして空いていた横の席に腰掛けました。
 僕はもう少女のほうを見ることが出来ませんでした。
 そしてわずかに震えながら、少女の様子を伺いました。
 少女は前を向いて座っている筈なのに、こちらを向いている気がしてなりませんでした。
 
――どうして僕は君のことを――
 
――どうして私のことを思い出してくれないの――
 
 僕の自問にもう一つの声が重なりました。
 その声は、少女の声だと直感しました。
 声なんて聞いたことも無いはずなのに。
 
 気がついた時、バスは終点のひとつ前のバス停に止まっていました。
 横にはもう少女の姿はありませんでした。
 
 僕はその夜、少女の……彼女の夢を見ました。
 少女は、少女の姿ではなく大人の姿でいました。
 そして僕と彼女は、まるで恋人同士のように寄り添いあってどこかで座っていました。
 僕は彼女に、随分と気を使ってるようでしたが、彼女は顔を強張らせていました。
 僕は一所懸命、彼女の気を惹こうと話しかけていました。
 しかし彼女はこちらを見向きもせずに立ち上がり、責めるように言いました。
 
――私のこと、忘れちゃってたくせに――
 
 僕はそこで目を覚ましました。
 あの少女が……彼女が誰なのか、僕は知っている。
 彼女は僕にとって何だったのか。
 
 
 翌朝、いつものバス停に少女は立っていました。
 降りしきる雪の中、儚げに立つその姿を、僕はバスの中から見つめていました。
 バスが止まり、僕たちは窓越しに見つめ合いました。
 少女が着ている、雪のように白いコートに見覚えがありました。
 
――僕が初雪の前にプレゼントしたコートだ……でも泥が撥ねるといけないからって、君はすぐに着なかった。今日みたいに何もかも、全部真っ白になるような雪の降る日にしか着ないと言ったんだ――
 
 少女は、初めて僕に微笑みました。
 
――どうして忘れてたんだろう、君のこと――
 
 少女は……いや、僕の大切な彼女は、笑顔のままでバスに乗り込み、僕の横へ座りました。
 その微笑みは、僕がこの世で一番好きだったものでした。
 
(そうだ。あの事故の直後、僕がいくら君の名を呼んでも、君がそれに応えることはなかったんだ)
 
――忘れないでね……わたしのこと、ずっと憶えていてね――
 
 彼女の名を呼び続けていた僕に、やっと応えてくれた気がしました。
 
――ごめんね。ずうっとずうっと憶えているからね。君を思い出すことがどんなにつらくても、もう絶対に忘れたりしないからね――
 
 気がつくと、隣の席には誰も座っていませんでした。
 彼女の姿はもう僕の心の中にしか残っていないという事実に向き合いながらも、真っ白な街を往く人々やバス停に立つ人の中に彼女の姿を探してしまうことを、どうしてもやめられませんでした。
 
          ※※※
 
 彼女と付き合い始めて半年ほど経ち、共に結婚を意識し始めたのことです。
 スキーに行った帰り道、僕たちの乗った車は凍結路で、多重衝突事故に巻き込まれてしまいました。
 対向車線で起きた事故でしたが、横滑りをして対向車線からはみ出たトレーラーの後部に、止まり切れなかった僕たちの車は、斜めになりながら姿勢を立て直すことも出来ずに左側から衝突しました。
 僕は頭部を含めて全身数カ所を骨折し、記憶に障害が残りました。
 その事故で亡くなった彼女との今まで、そしてこれから思い描いていたこと、つまり彼女のことだけをすべて、僕は記憶から失くしてしまっていたのです。
 
 僕や彼女の両親、そして周囲の人々は、その事故の無残さと僕の後遺症のあまりの悲しさに、事故から一年が経っても、真実を告げる決心がつけられなかったのだそうです。
 
          ※
 
 通院も月に一度から半年に一度、今は年に一度となり、通勤に車を運転するようになりましたが、雪の降る日は彼女に会えるような気がして、冬は出来るだけバスを利用することにしています。
 
 
  了
 

雪の面影

雪の面影

彼女を初めて知ったのは、高校一年生の時です。 ただし、同じクラスだから顔と名前だけは一致する、そんな程度の、言葉もほとんど交わすことのない間柄でした。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted