20、亜季・・・大人になれなくて

どこからが勝負?

                                     20、どこからが勝負?

 自分の中の希望が見えた瞬間生きている感覚が幻から現実に変わる。これまでのもやもやとした日々はもはや過去へ遠ざかり不安というこの場所から一歩踏み出そうとする自分が妙に逞しくいとおしい。
朝香と別れてから亜季はこの気持ちを確かなものにしたくて前へ前へと走り出す。立ち止まり何かを考え出したらまた先の見えない自分で心が覆われてしまうという恐怖にも似た焦燥感が亜季をひきずる。だからただひたむきにあのライブハウス「Sarah」へと向かう。


(そうだ・・・今は余計な事を考えてはいけない。今日は丈先輩がいる、つまり・・おそらくエリカもいるだろう。朝香が言う通り私が本気でこの道に進めば母は大変だろう。硬軟使いわけてあきらめさせようとするに違いない。でも・・あきらめるわけにはいかない。だって生きていると感じられる場所に自分の身を置くことができないなんて。それじゃ私の人生じゃなくなる。ただ、私の実力はプロとして通用するのだろか?・・恐い。それでも試してみる価値はあるはず、きっと。)


 感情の高揚感は確かに人生を彩る。恋愛というストーリーが代わり映えのしない毎日の中で人生のひとこま自分が主人公のドラマを演じさせてくれるように生きる方向が見えた瞬間もやはりドラマに違いない。ただし感情の高ぶりはけして長くは続かないものだから時をのがしてはいけない。

亜季はライブハウスのドアの前で大きく深呼吸をする。そしてバッグから鏡を取り出し自分の顔を眺めた。そこに見えるのが力強さかそれとも迷いにおびやかされる自分なのか確かめるように。

(大丈夫。今の私の目はうつろじゃない。・・・行くわよ。)

そう言い聞かせてドアをあけるとカウンターではなく丈とエリカが正面にそして間近に見えるテーブル席へと向かい歩き出した。

流れているのは Let`s Fall In Love 。ピアノの軽快なタッチがエリカの美しさに小悪魔的な可憐さをそえる。

(なるほどね。これじゃ恋に落ちてみたくなるかも。エリカのあの美しさはきっとお母さんに似たんだわ。だってパパに似てると言われる私はあんな大人の魅力は多分一生かかっても無理。それに・・・私はもう恋に落ちたりしない、)


気が付くとメンバーの紹介がエリカのやわらい声で客席に届けられもうすぐ最初のステージが終わる。
亜季はまっすぐにエリカを見つめていた。エリカも軽く客席に会釈をすると微笑みを浮べ数秒亜季を見つめた。


(私はもうこの間みたいにおどおどしている私じゃない。)と亜季は無言の微笑みを返す。

(今日はどうしたのかしら?・・肩に力が入り過ぎているようだけど。何かを見つけた?)とエリカは二人の間を流れる空気に言葉にならないプレッシャーを流し込む。この二人にはどうにもならない親の因縁がついて回るようだった。


 間もなくして丈が亜季の隣に来る。
「今日はひとりか、珍しいな。だけど今日の亜季は入って来た時からいつもと違ったな。・・どうした?何かあったのか?」

人の事にはまるで無頓着な様で案外デリケートに人を見てるのが丈だった。もっともそれに気がついたのは最近の事だけど。


亜季はちょっとためらったものの覚悟をきめて思いを言葉にした。
「あの・・私、この世界で仕事したくて。ジャズをやっていきたいんです。でも、自分の実力はわからない。私のピアノ通用しますか?」
亜季の声があまりに切実で丈は暫く黙って下を向いていた。そして返ってきた答えは。


「亜季。こう言っちゃなんだけどお前・・バカ?この世界というよりどんな世界も通用するかしないかなんて誰にもわからない。えっ!あれが!なんていうのが時代の波にのる事もある。通用させるように頭を使い、アンテナを張り、腕を磨くしかないんだよ。まあ、確かに他の世界と違い年齢や学閥より実力がものを言う世界ではあるけど。通用するかしないか考えている時点でお前は負けてる。まあな、この世界人の事考えて遠慮する優しい人はだめだな。もちろん優しさは装え。でも自分の中では人より自分の方が凄いという勝手な自信を強く持たないと。亜季はそういうの苦手だろう。それに家で反対されるだう?・・まあ、そこは俺も同じだけど。よく考えた方がいいんじゃないか。」


 亜季にとって丈の言葉は意外だった。むしろ理解をしてくれるのでかないかとさえ思っていた。つまりこれが自分の甘さだと亜季は実感していた。

高揚感からどん底。それでも捨てきれない思いがかすかに亜季の中で光る。
(この光る思いを握りつぶす?それとも追い続ける?)

この時だった。いつから聞いていたのか、エリカが丈に言葉をかけた。
「そんなに厳しい事いわなくてもいいじゃない。私、聞いてみたいわ。亜季さんのピアノ。なんていうか・・そうねいわゆる苦労を知らないお嬢様のピアノの音色、どんなかしら。次のステージの前に一つどう?私が歌う。」

そこまで言うと丈から亜季へと視線を移した。



「どう?曲はあなたが選んでいいわ。ただし私もこの仕事そこそこ長いからいろんな人とやってきた。それで思うのよ・・私が歌いにくかったらプロとしてはまず成功はしない。だからあとでちゃんと評価させてもらう。それでよければ。それが恐いならお嬢様の気まぐれだから相手にはしない。」

「いやぁ、ほんとエリカは厳しいね。・・・どうする、亜季?」

丈が少し心配そうに亜季をうながした。亜季の心の中は今、嵐が吹きまくりどこか皮肉にみちたエリカの言葉がここまでの亜季のわずかな人生に突き刺さる。悔しさとどこか自信に揺らぐ自分への苛立たしさからか出た言葉に亜季はまた背中を押される。


「もちろんやります。私のピアノで歌いにくければ多分・・エリカさんの実力はその程度です。必ず気分よく歌えます。」

「曲は?」

「East of the Sun」

ふたりの事情を知らない丈にはこの二人が放つ真っすぐな矢のような視線に不気味な純粋さを見ていた。

20、亜季・・・大人になれなくて

20、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-03

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