19、亜季・・・大人になれなくて

未来の自分みえますか?

19、未来の自分みえますか?

  誰かのある時の表情が心を捉えて離れない事がある。もちろんそんな事は人生に何度もある事ではないが。だいたいの場合多くの出来事は忘れるものだ。そうでなければ身が持たない。

亜季はあの日の母の後悔と憎しみとそれでも私は幸せを掴み取るという強い思いが混在したあの表情が頭から離れないでいた。

母もそして亜季も何事もないようにこれまでと同じ距離を保ちながらも心の一点が閉ざされているのを感じていた。

閉ざされた何かを抱えた心はいつも目には見えないストレスで固くなる。そんな時亜季はまるで気持ちを発散するようによく夢を見る。


 亜季は夏の太陽が照りつける中電車に揺られ大学へと向かっていた。外のあまりに明るく輝く景色が昨日の夢を呼びさます。

(嫌だ・・なんか昨日の夢のどこか一瞬を切り取ったような・・。でも、確かそこには母とエリカが笑みを浮かべて話していた。そんな事ありえない・・・なんで?)

亜季はありもしない夢に惑わされたように妙な混乱に襲われたまま四谷の駅に降りる。突然肩を叩かれ亜季は夢からさめた。
振り向くと朝香がニヤニヤして亜季をみていた。


「またですか?夢見る乙女、亜季。まったく何を考えているんだか。今日は何にボーッとしてたわけ?・・それにしても最近多いよね、こういうの。何かあった?まあ、話たくないなら無理に話せとは言わないけど。でもさ・・心配してるんだよ。」

そう言いながら朝香が亜季の目を見た。亜季は朝香の単なる好奇心だけではない本当の心配を漂わせたこの目に弱い。

「そうね・・・少し何かあったかも。でもそれって話すべき事ではないような、よくわからない。そもそも悩んでいるのかもどうかも。」

朝香はちょっと黙り込んで額に皺を寄せて見せた。そして口を開いた。

「だったらさ話しちゃえば。何かのきっかけになるかもよ。それにさ、私は基本すぐ忘れるほうだしね。亜季の事だから簡単な問題をわざわざ複雑にしてるなんて事もあるだろうし。だいたい亜季は何でも自分の感情に絡めすぎだもん。割り切り、切捨て、そんなの苦手じゃない。
だけど考えてもどうにもならない事って意外と多いから。・・まあ、その気になったら話してよ」
確かに朝香の言う事はある意味言い当てていると亜季は思う。二人は駅を出て大学への道を歩いた。


大学の夏季休暇は長い。その為気分が向けば時折こうして置いてある楽器の手入れをしにきていた。部室には誰もいなかった。
ただ締め切られた部屋の中に息付く楽気の匂いがたちこめていた。朝香はまずサックスを手に取る。亜季は何よりもピアノの音を。

暫くの間ただ楽器と戯れる時間。沈黙も気にならない。誰にも気を使わない。そんな時間が亜季を解放していく。

「このピアノそろそろ調律しないとね。」と亜季がポツンと一言。

「うん。そうは思うけどいろいろ予算とかあるんじゃないの。大学のこういうサ‐クルってどこも大変みたいだから。学園際だけじゃなくてさサークルでもっとバイトとかしてもいいと思うけどね。」

「そう思って前に話した事あるけど・・私達の代にはなかなかうまくいかなかったね。・・・こことももう後すこしか・・・」


亜季はそういうと思い出の曲を弾き始めた。Fly Me To The Moon。そう、おそらく誰もがどこかで一度は耳にした事のある曲。言ってみればあまりにありふれたナンバーともいえる。それでも亜季と朝香にはこの曲は思い出から外れる事はない。

ジャズ研に入って初めての学園際、この曲のアレンジを廻り二人は激しく意見を対立させた。普段はあまりはっきりものを言わない亜季がこの時だけは違った。そこに朝香は始めて亜季の頑固さを見た。最終的には先輩の意見を借り、ふたりの意をなんとかミックスしたものができたがその分どこか曖昧なアレンジに落ち着いてしまった。ただそれがきっかけで朝香との距離が格段に近付いたのはこの出来事の大きなそして実りある副作用だった。



「なんか思いだすね、その曲きくと。・・今かんがえるとあの時なんであんなにむきになっていたんだろう。おかしいよね。」

「うん。でもこうして今聞くと悪くない感じ。」

二人は暫く曲の中に浸った。朝香は珍しく感傷的な気分でここまでの大学生活の過去を。亜季は・・エリカと話したあの日のこの曲を歌う彼女の声を思い出していた。エリカのFly Me To The Moon は力強かった。でもあの魔性の声がそれをかき消しセクシーな感覚を呼び覚まし月に包まれた亜季とまだ見ぬ誰かを想像させた。


その時だった。朝香が言った。

「あのね・・・私卒業したら結婚する事にした。」

亜季の指が止まる。

「・・・銀行は?就職決まっていたのに。・・先輩の大磯さんと?」

「違う。彼とはもう無理だと思う。だってあの人家の会社ついでから妙に偉くなって。大手の会社の跡継ぎだかなんだか知らないけどちょっとがっかりで。社会人としてはまだひよこだっていうのにさ。」

「そうなんだ。・・知らなかった。最近彼の話ないなとは感じていたけど。・・・話してくれればよかったのに。」
亜季の中で少しの寂しさが吹き抜ける。


「だって話す程の事もなかったし。失恋というより自分が考えていたような人じゃないんだなと思ったらあっという間に気持ちが引いて。3年かけて引く時ははやいはやい。」

「でも・・・なんで結婚?ばりばり働く女を目指していたんじゃないの?」

「まあ、一時期ね。でもよく考えると私、外でもまれていくより専業主婦として家の中の事ちょこまかやってるほうが合ってる気がして。
だから3月にお見合いっていうのをしたわけ。いるのよ、親戚のおばさんにそういうのが好きな人が。で、してみたらなんかいい人で、見た目はいまひとつだけど毎日見てても気分が悪く成る程じゃないし。家に納まっていてもいいと言うし・・・亜季、なんか意外っていう顔してる。」


「確かに、意外。でも、朝香が望んでいることなら。もちろん本気でそう思うならだけど。」

「もちろん本気。よく言うじゃない。結婚は現実だって。だから自分のこの先を現実的に考えてみたの。仕事がしたいというのも嘘じゃないけど今のこのテンションがいつまで持つかまるで自信ない。それで先が見えなくなってから結婚でもなんて考えたら結婚の運まで掴み損ねる気がして。私の場合目標は一つに定めたほうがうまくいく。これまでの経験上ね。」

「そうか。・・卒業したらすぐに?」

「半年くらいは独身も楽しんで。今のところ来年の秋頃に式を挙げるという感じで話はすすんでる。IT関連のエンジニアだけどそんな派手じゃないし。親も乗り気。・・・そのうち亜季も会ってよ。ああ・・念の為言っておくけどけして私好みの顔じゃないから。・・・で、亜季はどうするのよ。もう何か決めたの?」

「決めたわけじゃないけど・・・私やっぱり音楽というかジャズやっていきたいかな・・・?」

「本当に!・・・これはまた大変だ。亜季とお母さんの戦いが激しくなるね。でも、また急になんで?」

その朝香の質問が亜季を戸惑いと決意の方向へと導いていく。

この時亜季は絡まりあった思いと考えを言葉にし、声にのせ、戻ってきた言葉を聞き自分の中の強い意志がふと見えた気がした。

19、亜季・・・大人になれなくて

19、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-02

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