妄想先生

妄想がバンバン出てきます。

妄想先生

 森岡先生は授業が終わって椅子に倒れ込む。クラス一の美人の倉橋まみが森岡先生にしなだれかかる。「あっはーん、うっふん」と悶えながら森岡先生の首筋を嘗める。

 いかん、いかん、この頃変なことばかり考え過ぎだと森岡先生は床を踏んで事務所に戻る。教え子のことをそのように考えるのは罪なことだ。たとえ一介のしがない塾の先生だとしても、もう一つ気をしっかり保たないといけない。

 ピーポーパーポーピーポーパーポー
 ダンダンダンダンダンダンダンダンダン!
「森岡守だな。スケベな妄想を考えたかどにより逮捕する!」
「いえ、ぼくも男ですから、スケベな妄想くらい考えますよ。おまわりさんは考えないんですか?」
「わたしは断じて考えない。わたしは妻と事を行う時にはいつも正座をして手を合わせるんだ」
「それは偉い!」
「まあ、褒められるほどでもないが」
「そうですよ、あんたは変わってます」
「おれ、変わってるのかなあ」
「ぼくも変わってます。スケベなことに関しては人はみんな変わってますよ。百人百趣味です」
「いいことを言うじゃないか」
「いいことを言ったから許してもらえますか?」
「それとこれとは別だ」
「何と何ですか?」
「おぬし、本官を混乱させて罪を免れようという魂胆だな」
「いえ、混乱してるのはぼくの方です。ぼくは監獄より精神病院に入った方がいいみたいです」
「よく現実が分かっていてよろしい」

 実は森岡先生は既に精神病院に通っていた。今は精神病院という言葉はあまり使わない。精神科の病院と言う。言い方を間違うと大きい。ちなみに森岡先生は精神科のクリニックに通っている。

 倉橋まみにはもっときれいなお姉さんがいる。マライア・キャリーという。本当は倉橋なんとかというのだが、自分のことをマライヤ・キャリーと言って頑と譲らない。だから、はい、そうですか、マライア・キャリーさんと返事をしないと仕方がない。

 マライア・キャリーはマライア・キャリーの歌ばかり歌う。英語は全くしゃべれないが、マライア・キャリーの詩は全部覚えている。要するに応用力がないのだ。いくら何かをよく知っていても応用力がなくては意味がない。世の中は実用、実用という言葉に溢れている。一見精神的なことを書いているような本でも、よく読んでみると単に実用的な処世術伝授の本なのだ。
 実用重視の世の中にあって実用には何の役にも立たない知識を持っているマライア・キャリーは、この頃にしてはなかなか粋な人なのだ。

 ある日の朝、倉橋まみは電車の中で一通の手紙を受け取った。鉄腕アトムのような寝癖のついた男子高校生がつかつかと寄って来て手渡しをしたのだ。
 倉橋まみは学校のマドンナだから男の子から手紙ばかり受け取っている。彼女は律義な人だから、いつもちゃんとお断りの手紙を送っている。お断りの手紙を書くためには読まなければならないので、まみは学校のお昼休みに手紙の封を切る。

──闇に吠えて涙を流す
  いやだいやだと身を悶えさせる
  光はどこだと這いつくばる
  ここが出口だと喜色満面
  実はそこは入口だった
  出口と入口の違いや如何
  恋には恋の花が咲き、
  愛には愛の香りが漂う
  しかしぼくに一番大事なのは
  強い意志だ
  人格の統一性だ
  世に生きる苦しさと
  快楽の楽しさと
  中途半端を許す心の広さ
  これらがあれば
  人生は勝ったも同然
  果たして人生で勝利する必要はあるのか?

 ボードレールは二十歳を過ぎて詩作はしなかった。現実の冒険の方が大事だと考えたのだろうか。あっ、それはボードレールではなくて、ランボーだった。
 現実は確かに大事だが、詩も大事だ。現実か詩かの問題ではない。現実でも生きて行けて詩も作れるという精神的強さが欲しい。
 倉橋まみさんに詩を手渡しした。普通の恋文ではないので、さぞかしびっくりしていることだろう。
 ぼくの名前はレールボード。ボードレールには逆立ちしても及ばないという意味でつけた名前だ。
 真面目なことばかり考えると頭が変になると言うけれど、ぼくに言わせれば真面目なことを考えないで生きて行ける人こそ頭が変だと思う。
 話が理に落ちてつまらない。もっと感情を! 感情の発露こそが人間の生きる意味だ。感情を詩にする。音楽にする。絵にする。息をする。ごはんを食べる。うんこをする。そしてまた詩を書く。
 詩、詩、詩、詩、詩、詩、詩──

 森岡先生は仕事が終わっていつもの居酒屋に入る。七十過ぎのおばさんとその娘とふたりでやっている店だ。
 森岡先生はその娘さんにほのかに惚れている。とても気の強い女の人なので森岡先生はいつも気後れしてしまう。だからもっぱら居酒屋のおばさんとしゃべっている。
 居酒屋のおばさんはとても苦労をした人で、何度も同じ話をしても勉強になる。森岡先生は先生だけれど世間知らずなのだ。先生だから世間知らずなのかも知れない。

「先生、景気はどうですか?」とモンちゃんが森岡先生に話しかける。モンちゃんは年金暮らしの六十七歳の人だ。
「景気ですか?」先生という仕事に景気という言葉は似合わないが、塾も立派な商売なのだ。景気を気にしなければならない。
「いやあ、まあ、いい方ですか」と森岡先生は頭を掻いて答える。
「今は塾が流行りですからねえ、景気はいいでしょう」とモンちゃんは勝手に決めてしまう。「わたしなんぞは年金のみの暮らしですから苦しいですわ」
 森岡先生はお金の話はどうも苦手だ。お金よりも人生哲学の方が好きという浮世離れした人だ。
 人間はどうせ死ぬのに何故生きなければならないのか?

 その夜森岡先生は宇宙の果てまで飛んで行った。宇宙の果てには『宇宙の果て』という名前の風俗店がある。森岡先生は酒を飲むたびに『宇宙の果て』に行く。
 ニーナちゃんがバスローブ姿で「どうも、先生、いらっしゃい」と出迎える。ニーナちゃんは鶴田真由に似た顔をしていて、森岡先生の性欲をそそる。
 実はニーナちゃんは小説家なのだ。違う名前で雑誌に小説を連載している。森岡先生はニーナちゃんにセックスと同時に勉強も教えてもらっている。

 ウー、チュー、ノー、ハー、テー
 森岡先生はニーナの指のテクニックに悶え喜ぶ。
「世界の中心はどこだと思う?」とニーナ。
「世界の中心はここさ」と森岡先生は自分のペニスを指さす。
「わたしとあなたはどこにいる?」
「宇宙の果てさ」
「宇宙の果てってどこ?」
「宇宙の中心さ」
「そうよ。宇宙に果てなんかない。果てと思った所こそ中心。中心の中の中心があなたのこの物体」
 物体はニーナの手の中でたわいなく暴発した。

 倉橋まみは机の上に便箋を広げて考えている。
 わたしも詩を書こうかしら?

──ああ、わたしの手
  五本ずつ指があるわたしの手
  わたしは一生
  この手によって助けられ
  この手を使って
  わたし自身を喜ばせる
  他人も喜ばせようかしら?
  それは、まあ、適当にね

 倉橋まみは自分の書いた詩を見て頬をプーッと膨らませる。不満なのではない、顔の筋肉を動かして美貌を保とうとしているのだ。女性には暇な時間はない。さらなる美貌を目指してたゆまない努力を続けなくてはならない。

 マライア・キャリーは『バグダッド・カフェ』で歌を歌っている。歌には色がある。その上に艶がある。色と艶は内面から迸り出るものだ。
 マライア・キャリーは全く神懸かりになっていて、『つぐない』が途中で『氷雨』に変わったことに気が付かない。アコーディオンで伴奏をつけている村西とおるが慌てて合わせる。
 村西とおるはマライア・キャリーの体が目当てだから、そんなことくらいでは怒らない。マライア・キャリーをいつも家まで送り届けて次のデートの約束を取り付ける。
「今度? そうね」とマライア・キャリーはマルボロのメンソールを口にくわえる。村西とおるがシュポッとライターの火をつける。「そうね、来年の今時分かしら」

 森岡先生は自宅で『アメリカン・ビューティー』を見ている。妄想とはいいものだと考えている。気持ちのいい妄想を見ている時なら頭にピストルの玉を打ち込まれても本望だ。
 美しさとは何かを考えている。
 造形的な美しさと内面の美しさを一緒くたに考えるから世の中混乱するのだ。造形的に美しいものは造形的に美しいだけ、内面などはないと考える。内面の美しさは造形的な美しさに何の影響も与えないと考える。両者は全く別の次元にあるもので、たまさか交わることがあっても偶然だと考える。
 そうすれば混乱はない。なんばウォークの百八十円コーヒー屋のガラス越しにジロジロと女の子を見ても、何の罪悪感も感じないわけだ。
 女の子と哲学的な話をしている最中に女の子を頭の中で丸裸にしてもいいわけだ。

 ニーナは体育座りをしながら宇宙の果ての門番と話をしている。
「わたし、出張の仕事はいやだわ。わたしはわたしの陣地で仕事がしたいの」
「だがお前は森岡先生しか客がいないじゃないか」
「それで十分よ」
「馬鹿言うな。森岡先生はあくまでも客で、亭主じゃないんだから」
「あんた、焼き餅を焼いてるの?」
「おれは金が欲しいだけさ」
「わたしはいらないの?」
「お前は小説家だからなあ。難しい話になるとおれみたいな学のない者は負けるさ」
「わたしは勝ち負けにはこだわらないわ。いつも負けていいわよ」
「わざと負けてもらってもなあ」
「ねえ、一緒に宇宙の果ての外に遊びに行かない?」
「仕事中だぞ。持ち場を離れられないさ」
「宇宙の果ての外ってあるの?」
「ほら、だから負けるって言ったんだ」

 居酒屋の娘はカウンターを拭いて開店の準備をしている。森岡先生のことを考えている。あの人はどうしていつもあんなにおとなしいのかしらと考えている。わたしのことを丸でライオンみたいに怖がっているわ。わたし人間なのに。わたし、こんなに森岡先生のことが好きなのに。
 わたしだって元気な人は苦手だわ。世の中に生きていると元気な人に圧倒されることが多い。負けると生活出来ないからわたしも元気になろうと努力した。
 わざと元気に振る舞うのは大変なものなのよ。森岡先生もそのことをよく考えてほしい。わたしが生まれついて元気だなんて思わないでほしい。

 森岡先生は精神科の三井先生としゃべっている。
森岡先生「この頃女性がとても奇麗に見えるんです」
三井先生「それはいいことですね。女性は美しいものです。それがお分かりになるということは、あなたがそれだけ健康だということです」
森岡先生「わたしは色気違いじゃないでしょうか?」
三井先生「これまでの抑圧が強かったので罪の意識が大きくなるのですね」
森岡先生「いえ、わたしは本当に色気違いなんです。駅のホームなんかで美しい女性を見たら、頭の中で裸にひん剥いて性交をしてるんです」
三井先生「頭の中だけならいいんじゃないですか」
森岡先生「それがどうも頭の中だけじゃないような気がするんです」
三井先生「現実にやってたら今こうしてわたしとしゃべっていることもないでしょう。警察の中にいますよ」
森岡先生「ここは本当は警察なんじゃないんですか? 先生は本当は警察署長でしょう?」
三井先生「そうお思いになりますか?」
森岡先生「どうもそのような気が……」
三井先生「ちょっと薬を変えてみましょう。何かあれば薬が残っていても来て下さい」

 倉橋まみはレールボードに手紙を渡した。レールボードはまみの手紙を破って捨てた。レールボードはあまりにも苦悩が多過ぎる。苦悩の多過ぎる人間というのは周囲の人達にとってとてつもなく迷惑なものだ。苦悩の多過ぎる人間はそのことに気づかない。そういうことにもっと苦悩してほしいと周囲の人達は考える。
 レールボードは高校生なのに酒を飲む。早く死にたいといつも考えている。死にたいのなら死ねばいいのにとは誰も言わないが、死にたがっている人間に死ぬなと説得するのも不毛なことが多い。人に死ぬなと言わせるような自殺志願者はなかなか死なないものだ。
 何も言わないで突然人は死ぬ。

 マライア・キャリーは風呂の中で歌を歌っていた。まみは自室で勉強をしている。本当に勉強してるのかしら? とマライア・キャリーは考える。女の子は忙しいから勉強する暇なんかないはずよ。わたしなんかもマニキュアを塗るのに忙しくて家で教科書なんか開いたこともなかった。試験はわたしとエッチをしたい男の人たちにカンニングさせてもらって通った。勉強なんかしてたら魅力的な女性になれないわ。
 寺山修司が窓から裸のマライア・キャリーを覗いていた。本物の寺山修司ではない。自称寺山修司の吉田なんとかという男性だ。
 マライア・キャリーと寺山修司の目が合う。寺山修司はビクッと怯むが、マライア・キャリーは「あら、また来てたのね」と優しく言う。
 寺山修司は何とも返事のしようがない。覗きは今まで沢山やったが、見つかってこんな余裕のコメントをきいたのは初めてだったのだ。
「今度『バグダッド・カフェ』に来て。わたしの裸が見れるわよ」とマライア・キャリーは風呂の窓から名刺を投げる。名刺はヒラヒラ舞って剥き出しになった寺山修司のペニスにピタリと貼りつく。

 隣に座っている女性の足が気になる。どこかの教授のように手鏡は持っていないが、直に触るのはもっと悪い。盛岡先生は触りたくてウズウズしている。そんな自分が情けない。塾の先生ともあろう者が電車で隣り合わせた女性の足に欲情するとは。
 盛岡先生は何度も何度も首を振って妄想を振り払おうとする。しかし妄想は盛岡先生にさらに襲いかかって離さない。「触れ」「触れ」と呼びかける。
「いやだ、ぼくは見知らぬ女性の足に触るなんて出来ない」と盛岡先生はついに声を出して拒絶する。
「触れ」「触れ」
「いやだ、女性に対して失礼じゃないか。ぼくはそんな破廉恥なことは出来ない」
 隣の女性は驚いてこちらをしげしげと見つめている。女性の顔はほんのり赤みを差していた。満更でもない様子だった。

 電車で隣合わせた女性は盛岡先生を追いかける。彼女の胸はドキドキ鳴っている。盛岡先生を心底美しいと感じている。男の人であんなに美しい人はいない。
 わたしはよく美しいと言われるけれど、美しいと言われるのは嫌いだ。女の美しいのはつまらない。ただの歩く性器のように見られている気がする。
 男性の美しいのは珍しい。男は強くなければならないから、いつまでも純粋では馬鹿にされる。馬鹿にされても純粋さを頑なに保ち続ける人こそが美しい。本人は保ち続けているつもりはない。保ちたくないのに保ち続けているのだ。それが人から見ると頑固に見える。頑固だから美しい。
 説明するのはなかなか難しい。説明なんかしなくていい。わたしは盛岡先生のペニスを握りたい。盛岡先生はわたしの膣の中に指を入れたらいい。
 あら、わたしとしたことがはしたない、こんな凄いことを考えるなんて。

 盛岡先生が風邪でお休みなので代わりに塾長が授業をしてくれる。倉橋まみは盛岡先生でないといやなので、肩肘で頬杖をついてぼんやりしている。
 倉橋まみはおよそ妄想とは無縁な人間だったが、盛岡先生と出会ってから妄想をたくましくする習慣がついた。
 女性の妄想を詳述することは差し控える。ただ、パッとしてポッと出て、ウッフーンと悶えてパクッと咥えて空を飛ぶ。
 人差し指と親指で円を作り、その向こうを覗く。塾の教室のはずなのに、その円の向こうは海だ。
 ザーッと波の音がする。倉橋まみは海の中で盛岡先生と戯れる妄想を見ている。
「おい、倉橋、授業中に目をつむって鉛筆を咥えるな!」と塾長がうろたえたように怒る。

 盛岡先生は恐ろしいほどもてる。だがこれも全て盛岡先生の妄想なのだ。盛岡先生は妄想の中で妄想を見る。どちらが外の妄想でどちらが中の妄想なのか、盛岡先生には分からなくなっている。
 妄想は妄想の中で体系化した世界がある。人間は体系化した世界観に弱いものだ。たとえ妄想でも体系化された見かけがあると人間は惚れてしまう。
 人間は性的な欲望よりも体系化された世界観に対する欲望の方が強い。

 電車の中で盛岡先生の隣りにいたリンリンは何度も盛岡先生にぶつかって盛岡先生の気を引こうとする。だが盛岡先生は自分の物思いに夢中で、ぶつかられるたびに「すみません」と謝るばかりで、リンリンの姿を見ようともしない。目の前でリンリンが裸になっても「すみません」と言って通り過ぎるかも知れない。リンリンも駅の券売機の前で全裸を晒したとなったら家名に関わるから、右側の靴を脱ぐだけに留めた。
 盛岡先生はリンリンの右の靴を蹴ってしまった。
「すみません」と言って通り過ぎようとする盛岡先生の胸倉をつかんだリンリンは、「こんにちは」と満面の笑みを浮かべる。
 女性に胸倉をつかまれたのは初めてで、その女性が笑っているのは奇妙だと、いくら頭の忙しい盛岡先生も気づいて立ち止まる。
「わたし、リンリンと言います」
「ぼくは盛岡守です」
 リンリンはその後の言葉が続かない。でもこのままやり過ごしたら永久に会えないと考えたリンリンは盛岡先生を内掛けで倒し、「参ったか」と言う。

──宇宙の彼方まで
  名を轟かせようと願い
  心の窓という窓を全て閉ざし
  思い誤った方法で努力をし
  五年、十年、二十年と棒に振り
  人生に無駄はないと嘯き
  人に背中を叩かれても怒れず
  われの矜持はどこにあるのかと
  三週間前のごみを漁り
  新しい眼鏡に変えても
  何も見えず
  何とも素晴らしいかな
  この堂々たる堂々巡り

 レールボードは毎朝早くに走っている。雨の日も走る。外部的な事件が何事もないのにいらいらするのだ。
 若者は常にいらいらしている。若者は世に認められにくいものだ。パワーがあってもそれを十分に発揮することは出来ない。「それは違うよ、きみ」と年輩の人に眉間に皺を寄せられて、せっかくの自主的行動も抑えざるを得なくなる。
 いらいらする若者は実は長じて大きな人間になるのだ。いらいらする若者は若者のうちに考え過ぎるほど考える。考える人間は大きな人間になる。金持ちになるというのではない。金持ちは何も考えない馬鹿の方がなれる。

 突然空の彼方から信号音が届いた。NASAはそれに気づかなかった。望遠鏡でマンションの窓を覗き見ていた寺山修司がその音をきいた。
 そのマンションの部屋でオナニーをしていた女教師もその音に気づいた。女教師は罪なことをしている自分に対する警告音にきこえて怯える。
 望遠鏡を見ていた寺山修司は女教師がその信号音に気づいたことに気づいて、自分もその信号音をきいたことに気づいた。
 女教師は全裸であることも忘れて窓を開けて空を見る。寺山修司も覗きをしていたことを忘れて窓から首を出す。
「今の、きこえた?」と女教師が大きな声で寺山修司にたずねる。
「うん、きこえた」と寺山修司は久しぶりに人に対する共感の念を覚えて答える。
 女教師は模造紙に大きく電話番号を書いて窓から差し出す。寺山修司は望遠鏡でその番号を見て頭にたたき込む。
 二人にしかきこえない信号音がまたきこえた。世界は二人のためにあった。

 『バグダッド・カフェ』ではマライア・キャリーが今日も歌っていた。歌っているマライア・キャリーの服を『バグダッド・カフェ』のマスターが次々に脱がせて行く。客たちは彼女の歌よりも彼女の裸に釘付けになる。
 興奮した客たちはマライア・キャリーに襲いかかろうとする。ところがいつまで迫ってもマライア・キャリーの裸に届かない。マライア・キャリーの前で男たちは次々に倒れ、「水をくれ!」と叫ぶ。
 彼らは常日頃から砂漠に住んでいた。

 ニーナは宇宙の果ての風景を描いていた。客がとんと来ないので暇なのだ。客と言っても宇宙の果ての門番の指摘通り、ニーナの客は森岡先生だけだった。森岡先生がこの頃来ない。ニーナは本当に森岡先生を大事に思っていたから、電話をして呼び出すようなことはしない。電話番号すらきいていない。
 宇宙の果てはいい所で、ものを食べなくてもおなかがすかない。空中に漂っているプランクトンのようなものが口や鼻から勝手に入って胃を満足させ栄養にもなる。
 男の人に手酷い仕打ちを受けたニーナは自分の意志で宇宙の果てに飛んで来た。彼女は死んでもいい気持ちだったのだ。
 ところが予想に反して宇宙の果ては居心地が良かった。きっと誰も客は来ないだろうと、冗談でファッション・マッサージの看板を立てたらその日のうちに森岡先生が一万二千円を持って現われた。

「梅田でいい店がないかと探してたら、つい路地の中に迷い込んで……。ここはどこなんだ?」
「宇宙の果てよ。背景が黒いから分かるでしょう?」
「夜になれば梅田でも背景は黒いよ」
「梅田は暗いのでしょう? ここは黒いの。暗いと黒いの違い、分かる?」
「そう言えば分かるような気がする」
「それじゃあ、説明して」
「暗いというのは明かりがないだけだけれど、黒いというのは明かりがあっても黒いんだね」
「よく分かってるわね。やっぱり宇宙の果てに迷い込むほどの人は違うわ」
「この一万二千円は役に立つかなあ」
「今日はオープン記念で一万円にまけてあげる」
「ラッキー」

 寺山修司と女教師はマンションの屋上に憂鬱そうに座っている宇宙人を見かけた。何故その人が宇宙人だと分かったかというと、自分で宇宙人だと名乗ったからだ。そうでなければただの自殺志願の若いサラリーマンと思ったことだろう。
 背広を着てネクタイをしていた。その彼が屋上の縁に腰掛けてため息をついている。
「あなたなの? わたしたちに助けを求めたのは?」
「ぼくは誰にも助けを求めたつもりはない」
「そんなに仰山なため息をついていて、助けを求めてないなんて言わせないわ。どんな人でも心配になるわ」
「ぼくのことなんか心配しないでくれ」
「わたしはこの世界ではちゃんとした女教師なの。自殺をしようとする人を平気に見過ごすことは出来ないわ」
「それじゃあ、宇宙人らしくここから消滅してあげる。それならばこの世界の自殺の仕方じゃないからいいだろう?」
「それならいいわ。さあ、どうぞ」

 マライア・キャリーは家にいても歌を歌っている。妹の倉橋まみの目の前でも歌う。倉橋まみは適当に拍手をして、適当にうまいと言う。マライア・キャリーは妹の適当さに気が付かない。正直な人というのは罪がないかわりに迷惑なものだ。
 倉橋まみは別に学校の宿題をする積もりはないが、こうして姉の相手をしていると突然宿題がしたくなる。勉強がいかに大切なことか痛感してしまう。
 美しさだけの美しさはいかに虚しいものか考えてしまう。
 内面の美しさとは何か考える。マライア・キャリーはまみの姉だから、内面の美しさがないとは考えにくい。まみはマライア・キャリーが大好きなのだ。抱き締めたいほど愛している。
 それにマライア・キャリーの歌は勝手にマライア・キャリーを自称したとは思えないほどうまい。
 是非ともCDに録音して置いておきたいと、まみは真面目に考える。

 森岡先生は駅のトイレでリンリンと激しくまぐわっていた。森岡先生とリンリンの勢いは止められない。森岡先生が塾の先生だという感覚もない。ただの一匹の雄として一匹の雌を求めるといった具合なのだ。
 こういうことを長々と叙述することが本書の目的ではない。しかしこういうことは本書にとっては重要な要素ではある。
 人間にとってこういうことは実に大事なことなのだ。放逸になり過ぎても行かないが、抑え過ぎても行かない。こういうことは当たり前にあるのだということを前提にして、やはり表向きにならない程度に抑えておくということが必要だろう。

「最後に言わせてくれ」と宇宙人は女教師に向かって訴えかける。訴えかけられることに慣れている女教師は後ろに手を組んでほほ笑む。寺山修司はどうしようかという顔をしている。女教師との初めてのデートが宇宙人との出会いであったというのは、彼にとっては可哀想な話だ。彼はこれからの女教師との逢瀬のたびにその重要性を絶えず感じていなければならないのだから。
 寺山修司は毎日女教師の裸を覗き見していたのだから、彼女のイメージは全裸でオナニーをしている彼女の姿だけだ。だからこうした厳粛な様子をしている彼女には違和感を感じる。だが女教師とは普通こうして厳粛なものだ。
 彼は女と女の人間性との間に埋めがたい溝があることを知る。

 森岡先生はリンリンと手をつないで歩く。電車で隣り合わせた女性の足が触りたくなってその女の人とセックスまでしたというのは単なる妄想だろう。妄想とは大方このように都合のいいものだ。だからこそ人は一度妄想の渦に巻き込まれると抜けられない。
 病気が治るとは、再び無味乾燥な人生に戻ることに他ならない。治った方が本人にとっては面白くないのだ。
 人生そのものが妄想ではないと、一体誰が保証してくれるだろう。現実が本当の現実だと、一体誰が確証を持っているだろうか。
 妄想の中で生きて妄想を見るのと、妄想の中で普通に生きているのも、両方とも同じ妄想だ。どうせ同じなら妄想の中で妄想を見た方がいい。

──真っすぐに生きて行くつもりなら
  マクドもミスドも行かず
  中之島図書館に行って
  ひたすら勉強して
  真っすぐとは何かを研究して
  それを貫き通し
  人の批判もものともせず
  怒号を背後に押しやって
  歩く、歩く、歩く
  走る、走る、走る
  真っすぐこそ若者の特権
  そして人はみんな
  死に向かって真っすぐに
  生きているのだ

 レールボードは教室の黒板に詩を書き付けてため息をつく。頭がおかしい、おかしいと唸っている。
「どうしたの?」と倉橋まみが教室の後ろの出入り口から現われて言う。
「ああ、きみか」
「ああ、きみかだって。あなたってクールなのね」
「ぼくは狂ってるだけさ」
「自分のことを狂ってるなんて言う人は珍しいわ。世の中の大概の人は狂ってるのに自分で狂ってるとは言わないわ。自分だけはまともだと思っている」
「きみは狂ってるのかな?」
「わたしは狂っていないわ」
「きみなら自分のことを狂っていないという資格はあるな」
「あなたも資格があるわ。狂っていないと言えばいいのに」
「いや、ぼくは狂ってる」

 森岡先生はリンリンとつながりながらニーナのことを考えている。男とは勝手なものだ。一度征服した女のことはすぐにどうでもよくなる。
 本当はどうでもよくなったわけではない。リンリンはリンリンの、ニーナはニーナの魅力があり、どちらも捨て難いと思っているのだ。それが男の勝手だと見られるが、男本人は誠実なつもりなのだ。
 男はただ差し込むだけだから、生理的にさっぱりしている。差し込まれる女は常に真剣だ。
 リンリンもニーナも真剣だ。真剣でありながら余裕もある。女にとってセックスはたいして重要ではない。女にとって大事なのは現実だ。現実の中でいかに自分が幸せになれるかが大事だ。男のようにいつまでも夢を見ていない。

 居酒屋にスペードのエースが訪ねて来た。「森岡先生は来てるか?」
「この頃来はりません」と居酒屋のおばさんは答える。
「森岡先生が来たら伝えてくれ。世界の終わりが近づいて来たとな」
「何ですか? それ」
「字義通りだ。それ以外に何の説明もいらん」
「わたしは商売人やから、そんな難しい言葉は分かれへんねん。ちゃんと日本語でしゃべってくれへんかなあ」
「わたしは日本語でしゃべっている」
「あんたのは日本語ちゃいます。本語です。本に書いてあるようなしゃべり方をしたら、人情というものが感じられません。そう思いませんか?」
「わたしにとって大事なのは事実であって人情ではない」
「わたしにとって大事なのは人情ですねん。商売人は危ない仕事ですから、事実だけでは渡って行けませんのや。人情でものを量らなあかん」
「うん、なるほど。──おばちゃん、なかなかしっかりしてるやん」

──一人。一人でトランプ遊び
  五十二枚プラスアルファを伏せて開いて
  戦って負けて勝ってまた負けて
  私だけの世界をノートに書き付け
  日が暮れてなお夢中に伏せて開いて
  私こそが世界の王になり
  私の中で世界は完結し
  世界の終わりを決めるのも私
  再び世界を始めるのも私
  私が飽きれば世界は中断し
  私が忘れれば世界は永久に始まらない
  一人。一人でトランプ遊び

 スペードのエースは焼酎のお湯割りを飲みながら森岡先生を待っていた。ビールだと尿酸値が上がって通風になる恐れがあるから、好きなビールを敢えて飲まずに焼酎を飲んでいる。
 スペードのエースの携帯が鳴る。永久に終わらない『ボレロ』が単調に響く。
「誰か、携帯、鳴ってるで」とお客の一人が顔をしかめて唸る。スペードのエースはいつまでも『ボレロ』をきいていたかったが、気を使って携帯を取り出し表示を見る。『ダイヤのエース』と出ている。
「はい、何ですか?」
「森岡先生に会いましたか?」
「まだ会ってない」
「こちらも来ないんです」
「どこにいるんですか?」
「わたしは森岡先生の塾の事務所で張ってます」
「どこに行ったんでしょうか?」
「どこに行ったんでしょうか?」

 フレッシュマンのような格好をした宇宙人はため息をついてこんなことを言う。
「ぼくは自我に目覚めてしまったんです。人間の言うエスとかエムとかいう弱い自我じゃなくて、もっと自立した自我です。ぼく一人で世界は始まり、ぼく一人で世界は完結するといった自我です。地球の人間は一人一人自我を持っているつもりでいますが、実はあなた方の持っている自我は自我のうちに入りません。ちゃんと秩序の中に収まっています。秩序の中に収まっている限り、それは自我ではありません。単なる個体意識で、ボーッと微かなものです。
 ところが秩序というのは大事なもので、自然界に生きるものが最も尊ばなければならないのは秩序なのです。個性というのは個体の区別には必要なのですが、本質的には不必要なものです。わたしは不必要な自我に目覚めてしまったのです。わたしは宇宙の秩序をもっと美しく変えたくて仕方がありません。これは危険思想です。わたしは自分自身で自分を抹殺しなければなりません。このまま生きていてもわたしは発狂するだけでしょう。
 いざ、さらば」と言って宇宙人は屋上の縁から下に飛び降りた。
 寺山修司と女教師はただ無力に眺めているより仕方なかった。

 森岡先生とリンリンは電車に乗っている。森岡先生はリンリンの足に触れたくなる。今度は堂々とリンリンの太ももに手を当てる。リンリンも森岡先生の太ももに手を置く。
「どうして急に電車に乗ったの? まだ太陽は眩しいのに」
「呼び出されたんだ」
「誰に?」
「誰にかは分からない。頭に信号音が鳴って、居酒屋に行けという声がきこえた」
「変なの」
「確かにぼくは変だ。第一この頃職場に顔を出していない。首になるかも知れない」
「無断欠勤はいけないわ」
「毎日テレパシーで連絡してるよ」
「あら、まあ」

 宇宙人は死んではいなかった。ビルの四階の窓の近くに浮いていた。再び屋上に昇り、寺山修司と女教師にペコリと頭を下げる。
「びっくりさせてごめんなさい」
「あなたはわたしたち二人を巡り合わせてくれた救世主ですから、わたしは何でもお手伝いします」と女教師はあくまでも丁寧だ。寺山修司は何も言えず、相変わらず無力だ。
「地球を案内していただけますか? 地球人は宇宙人よりも個体意識が強いので、自我の目覚めたわたしには勉強になると思うんです」
「いいですわ。それじゃあ、三人で映画を見に行きましょう。何がいいですか?」
「『ET』と『未知との遭遇』以外なら何でもいいです」
「『ラスト・サムライ』は?」
「『ラスト・サムライ』は吐き気がしますけど、せっかくですから行きましょう」

 居酒屋に着くとおばさんが「さっきまで誰か待ってはってんけど。もう帰りはったわ」と告げる。
「どんな人でしたか?」
「随分四角い人やったなあ。横から見たら薄っぺらで」
「やっぱりスペードのエースはここに来てたんだ」と森岡先生は沈痛な面持ちになる。
「この人はあんたの彼女か?」とおばさんは隣りに腰掛けたリンリンを指さす。
「はい、彼女です」とリンリンは森岡先生の代わりに答える。沈痛な森岡先生は何も言ってくれないだろうと考えたからだ。
「あんた、狙われてるんか?」と心配になったおばさんがたずねる。
「さあ」
「あの四角い人は誰や?」
「スペードのエースです」
「友達か?」
「さあ」
「さあ、って、分からんのに何で悩んでるんや?」
「悩んでると格好がいいでしょう? ぼく」
「あほか!」

 レールボードと倉橋まみが桜並木の下を歩いている。
「桜、きれいね」とまみが言う。
「桜、きれいと本当に思う?」とレールボードが問う。
「本当に思うわ。あなたもきれいだと思うでしょう?」
「ぼくは桜の美しさなんか興味ない。みんながきれいきれいと言うから見に来るだけで、本当は桜なんかどうでもいいんだ」
「心が病んでいる時は花の美しさを感じたらいいと本に書いてあったわ」
「人間は自然の一部だと言いたいんだね。ぼくに言わせれば、人間は自然の一部なんかじゃない。自然の敵さ」
「公害のこと?」
「自分のことばかり考えるからさ。その考える頭が自然の敵なのさ。だからぼくはあくまでも自然の敵としてこれからも存在する。自然に反することを考え続ける」
「難しいのね」

──ピーポーパーポーピーポーパーポー
  救急車が走る
  急な病の恐ろしさ
  世の中、大方のことは急だ
  急でない日常こそ異常なものなのだ
  日常をありがたいと思おう
  急なことのない日
  それはいわば奇跡の中のお祭りだ
  急なことが奇跡なのではない
  日常こそ奇跡なのだ
  くどいと思われても何度も言う
  日常をありがたいと思おう

 『バグダッド・カフェ』でマライア・キャリーは出番を待っている。おなかがすいたのでお化粧前にざるそばを食べる。クラブの歌手が出番待ちでざるそばを食べているのは似合わないだろうが、マライア・キャリーはざるそばが好きなのだ。
「今日は客の入りが少ないねえ」とコロボックルAが言う。マライア・キャリーは三日ほど前からコロボックル一座と友達になった。
「マライアさん、こんな仕事やめて風俗嬢になったらどうですか?」とコロボックルBがマライア・キャリーの前で跳びはねる。いつもマライア・キャリーをからかっているので叩かれないように跳びはねることにしている。
 マライア・キャリーは鼻で笑って取り合わない。内心では風俗嬢でもいいと思っている。でも妹の倉橋まみにことを考えるとそういう仕事には就けない。

 ニーナは久しぶりに地球に帰って来た。宇宙の果てでうろうろして道に迷うと梅田のロフト前に出る。道に迷っていないのに迷うふりをするのは難しい。いわば道を騙すことだから、経験豊富な道に勝つことは難しい。
「フェアー・イズ・地下鉄西梅田?」と外国人に話しかけられる。気をつけないといけない。この外国人はラスベガスのストリップのスカウトマンだ。
 ニーナはそう簡単に騙される女ではない。
「へ~い、彼女、お茶飲めへん?」と若い男が声をかける。彼はきっと女子プロレスのスカウトマンだ。危ない、危ない。
 ニーナは男にまわし蹴りを食らわして足早に歩く。

 ピーンポーン
「誰ですか?」
「ニーナです」
 森岡先生は慌ててリンリンを押し入れの中に閉じ込める。リンリンは呆気に取られて何も言わない。リンリンは森岡先生が好きだから文句を言うつもりはないが。
 ニーナが部屋に上がる。あら、この匂い、何? と怪しむが、ニーナは森岡先生が好きなので何も言わない。
「この頃、お忙しそうね」とニーナはベッドに腰掛ける。
「まあね、忙しいんだ」
「いいことじゃない」
「よくないんだ。仕事に行っていないんだ」
「どこに行ってるの?」
「放浪かなあ」
「体に気をつけてね」
 ニーナは敢えて問い詰めない。押し入れの中のリンリンも敢えて出て行かない。男はすねると同時に二人の女を捨てることがある。

 寺山修司は女教師の裸を間近に見る。現実の女性の裸をこんな間近で見たのは生まれて初めてだ。
「どう? 近くで見たら、また違うでしょう?」
「そうだね」
 寺山修司は覗きをするのが癖になっているので、間近で女性の裸を見てもたいして興奮しない。
 困った、困ったと心の中で焦っている。好きな女性の裸を見て興奮しないのは失礼だと考える。
 ところが女教師は寺山修司よりも人間的に遥かに大きい。そんな寺山修司の反応を見ても傷ついている様子はない。
 フロイドが人間にとって最も大事なのは性的なものだと言った説はどこか片寄っておかしいと知っている。
 人間はもっと崇高なものを求めている。それが何かを知らないからこそなお求めている。
 二人で崇高なものを求めようと女教師は覚悟をして服を着る。

「今日はキャンペーンなの」とニーナが言う。
「知らなかった。この頃テレパシーが混線していて宇宙の果ての情報が入らない」
 森岡先生は嘘をついていた。実は宇宙の果てからのテレパシーは着信拒否にしているのだ。
 ニーナはハラハラと涙をこぼし始めた。涙をこぼしながら一生懸命笑っている。森岡先生はニーナがとても気の毒になる。気の毒になるというのは厄介な感情だ、気持ちが既に相手に残っていなくても残っているような気にさせられる。
 森岡先生はまだニーナのことが十分に好きだから、思わずこの部屋にはニーナと自分しかいないと錯覚してしまう。
「キャンペーンはいつまでなんだ?」
「今日の午後四時までよ」
 時計を見ると三時五分過ぎだった。
「今から宇宙の果てに行ったら間に合わないだろう」
「出張サービスということにしておくわ」
「出張だと割高だろう?」
「はみ出した分はわたしが負担してあげる」
「ありがとう。今塾に行っていないから、お金がないんだ」

 リンリンはとんでもない苦境に立たされていた。押し入れの中に自分がいるのも忘れて森岡先生がニーナと抱き合っているのだ。
 それにしても森岡先生は強い。さっきリンリンの中に放ったばかりだというのに、ニーナの中に入っている森岡先生のものははちきれんばかりに大きくなっている。
 リンリンは押し入れの襖を開けて、「すみません、わたしがここにいるんですけど」と知らせようかと考えるが、ここまで見過ごしておいて今更そんなことを言うのは無粋だと心に決めた。
 わたしは二番目でもいい、何しろわたしと森岡先生の歴史はまだ始まったばかりだから。
 森岡先生の物語は森岡先生の都合のいい風にどんどん進行する。

──流行とは新しいもの
  とは、みんなが考える定説だ
  流行とは実は古いもの
  流行を作る人達は
  みんなこの真理を会得している
  古いもの、懐かしいものこそ
  流行なのだ
  流行曲をきいて人はみんな
  ああ、昔どこかできいた歌だなあ
  と、心の中で嘆息する
  古いもの、懐かしいものを知らずに
  流行は作ることは出来ない

 倉橋まみはレールボードのペニスを握っている。二人は純愛だが、純愛故にペニスの存在が気になる。
「わたしはわたしがこれからどうして生き続けなければならないのか、理解出来ない」と言いながらまみはレールボードのペニスの根元を指で締める。
「ぼくも理解出来ない。だからといって死ななければならない理由もない」と高橋源一郎の『官能小説家』を開いて読みながらレールボードが答える。
「そうよね。死ぬ理由もない。でも生きる理由もない。人生そのものには何も理由がないものかしら」と言ってまみはレールボードのペニスを咥える。
「だ、だ、だが、ぼくは生き続ける。生き続けて、ぼくに様々な悪戯をした神様に復讐するのだ」
 倉橋まみの口の中でレールボードのペニスは爆発し、倉橋まみは精液に邪魔をされてレールボードに同調する言葉が言えなくなる。
 レールボードの爆発はいつまでもいつまでも続く。

 スペードのエースは居酒屋に入り浸っている。森岡先生を捕まえろという指令を忘れて、毎日のように居酒屋のおばさんに会いに来る。
 スペードのエースという立場は難しいのだ。どこか不吉な影の漂う見かけをしている。見た目が悪いというのはその人にとって不幸なものだ。誰も見た目が悪く生まれたいわけではない。生まれて気が付いてみたら自分は見た目が悪かった。これは不公平ではないか。
 見た目が悪いと悪い心を持った者たちが集まる。見た目が悪いと、悪いことを平気で出来る才能があると見なされるのだ。
 不思議なことに見た目の悪い人には度胸という才能が備わっている場合が多い。悪いことをするのに最も大事なのは度胸だから、やはり見た目の悪い人は悪いことをする才能があると言える。
 偏見に満ち満ちている意見だが、スペードのエースを見ると誰でもそう考える。そうでもないか。

 海岸でマライア・キャリーは全裸で漂う。
 カメラを持った大勢の男たちがマライア・キャリーのヌード写真を撮る。
 海は女だ。大きくて包容力がある。
 男には包容力がない。現実を見ようとしないからだ。
 マライア・キャリーという大きな海は、大勢の男たちを包み込む。
 マライア・キャリーの歌が水平線の向こうでこだまする。
 美しい裸身のイメージが、ファインダー越しにいくつも焼き付けられる。
 マライア・キャリーは宇宙そのものだと、カメラを持った男たちは感嘆のため息を漏らす。

 森岡先生は久しぶりに塾に復帰した。倉橋まみは黒板に英文法を書く森岡先生の背中に抱きつく。レールボードは廊下からその様子を見ていた。
 森岡先生のペニスはいつ触っても強くはちきれている。妄想の中に漂う男は、ペニスでものを考える。
 教卓に倉橋まみを寝かせて森岡先生は倉橋まみの膣の中にペニスを差し入れる。腰を動かしながら授業を進める。
 神聖な教室で何たるふしだらな。
 生徒たちは夢を見ているような目付きで森岡先生の話をきいている。
 何事が現実で何事が夢なのか、俄に答えることの出来る人はただの馬鹿だ。

──夜空に星はない
  朝に光はない
  煙る、煙る
  町は煙る
  世の中を悪くしたのは誰だ?
  おれか?
  おれも含めてみんなだ
  生きることの意味を考えよ
  そうすれば世の中はよくなる
  ああ、なんたるたわごと
  生きることに意味はあるのか?
  ただただひたすらに金儲け
  世の中が悪くなろうと構わない
  自分が金持ちになればいい
  煙る、煙る
  町は煙る
  ぼくはじっと目を開けていることが出来ない

 倉橋まみは元々冷静な性格だ。姉のマライア・キャリーは情熱的だが、妹の倉橋まみは何事も合理的にものを考える。感情に流されないというのは利点だが、もう一つ人間的な暖かみに欠ける。
 まみは部屋で窓の外を見ている。空に渦が巻いて何か不吉な前兆のようだ。渦が次第に巨大な人間の顔に変わる。
「倉橋まみ」と人間の顔になった渦が声を出す。まみにはこういうことはよくある。あまりびっくりはしない。
「はい」
「神の世界に森岡先生を連れてくることは可能か?」
「可能だと思います」
「彼は今スペードのエースに追われている。捕まる前に何とか助けてあげなければならない」
「森岡先生は不実です。沢山の女の人と関係しています」
「お前はそれを恨みに思うか?」
「いいえ、そうでもありません。わたしは森岡先生が好きだから、あの人の自由にしてもらいたいです」
「何とも羨ましいなあ」
「神様だって、女の人はよりどりみどりでしょう?」
「そんなことを大きな声で言うな。馬鹿」

 ポストを開けると赤紙が届いていた。森岡先生はビクリと身を震わせる。
 戦争中でもないのに赤紙が来るのは妙だとは考えなかった。彼の頭の中は目下戦争中だ。クルクルクルクル回る。自分の力では制御出来ない。特にエッチな妄想はとめどもなく溢れる。
 『召集令状』と書かれた赤紙の下に住所と電話番号が書かれてある。見ると森岡先生の家から近い。森岡先生は徴兵逃れをしたかったので、思い切ってその番号に電話をする。
「はい、もしもし、赤紙係です」
「国に逆らうことは恐れ多くて出来ないんだが、ぼくは出来れば徴兵を逃れたいんだ」
「そのご用件なら今すぐこちらにお出で下さい」
「行ったら何とかなるんですか?」
「世の中ほとんどのことは話し合いでどうにかなるものです」

 それは普通の一戸建ての家だった。とても政府の機関がある建物には見えない。第一『赤紙係』などという政府の機関などきいたことがない。これはきっと何かの詐欺だと考える。
 百万円の布団でも買わされたらどうしようか? クーリング・オフ制度があるとはいえ、それを使うのはどうも気が滅入る。世の中に詐欺をするような悪い人がいるという事実が森岡先生のような気の弱い人物にはどうも耐え難い。
 ピーンポーン
 はああああい
 ドアが開くと倉橋まみがエプロン姿で出て来た。
「あれ? きみは高校生じゃないか。どうしてこんな所で働いてるんだ?」
「神様の事業に高校生も何もないんです。むしろ若い方が神様に近いので、手先になることが多いのです」
「手先?」
「足先ではありません」
「指先?」
「毛先」

 レールボードは倉橋まみの指先の感触を思い出しながらオナニーをしていた。こういうことばかりやっていたら頭が腐るような気がしたが、本能の歯止めがきかない。
 倉橋まみがインディアンたちに拉致されて杭に縛り付けられている。インディアンが一人一人まみの元へ駆け寄り、凌辱して行く。
 詩を書くほどの者が、何という貧弱な妄想!
 夜の窓を大きく開け、レールボードは窓の外に向かって射精する。青年ならばこれくらいダイナミックな妄想をすべきだ。
 太平洋を妊娠させるんだ! そして巨大な神の子を生み出す。レールボードは傀儡となって宇宙全てを支配する。

 倉橋まみは森岡先生の手を引いて空に昇る。森岡先生は高所恐怖症なのでギャーギャー叫んでいる。
「神様に会うんだから、空を飛んで行かなければならないのは常識よ」とまみは諭すように言う。
 それでも森岡先生があまりにうるさいので、まみは森岡先生の鳩尾をドンと突いて森岡先生を気絶させた。
 毛を一本抜いてフッと吹くと雲が現われて、まみは森岡先生をその上に寝かせる。
「先生なのに世話のかかる人だわねえ」
「世話のかかる人ほど神に近いものなんじゃ」と神様自らが近づいてのたまう。
「わたしも世話がかかるわよ」
「女性というのは誰でも世話のかかるもんじゃ。だから女性は可愛いし憎らしい」
「神様が憎らしいなんて言っていいの?」
「ほんとは駄目なんじゃが、今の言葉は議事録から削除しておいてくれ」

 マライア・キャリーは太平洋の真ん中にポカッと浮いていた。全裸の体がきらきら光る。日焼け止めは塗ってきたが、こんなに日に晒されたら真っ黒になることは間違いない。
 マライア・キャリーは宇宙と一体になりたかった。妹の倉橋まみは宇宙意識日本支部の職員になっている。わたしもいつまでも『バグダッド・カフェ』の歌い手なんかしてないで、人類のために働こうと考えた。
 今日はその禊ぎのつもりで海に入り、日付変更線近くまで流されて来た。
 空にポッカリ浮かんだ雲の上から倉橋まみが手を振る。
「おねえちゃん、丸見えよ」
「水着、流されちゃったの」
「上から水着、落としてあげようか」
「水着のあとがつくからいいわ」

 レールボードは雨の中を走っていた。この頃オナニーのやり過ぎで頭がぼんやりする。これではいけないこれではいけないと呟きながらレールボードはひたすら走る。
 フェイ・ウォンの『私の願い』が頭の中を静かに流れる。歌手は何と言っても声だと考える。歌のうまい人など腐るほど存在する。その中で歌で金が稼げるのはほんの一握りの人間だ。その一握りの人の持っているもので共通しているのは声に違いない。
 ぼんやりした耳も突然「おっ」とそばだてるような声。プロとはそうしたものを持っている。
 ぼくにはどんな素質があるだろう?
 詩は月並みだし、何の取り柄もないかも知れない。
 十七歳くらいで人を引き付ける魅力を持った人など本当は存在しないのではないか。

 神様の宮殿に森岡先生が引き立てられる。囚人でもないのに後ろ手に縛られている。
 神様というのは分身の術が使えて、同時に何千箇所何万箇所に存在することが出来る。今宮殿にいるのはその中の一つの分身だ。
「この人、両手を自由にすると、すぐにわたしのお尻に触ろうとするんです」と倉橋まみが苦情を述べる。
「この人とは何だ、この人とは。ぼくは仮にもきみの先生だぞ」
「でも、先生、この頃全然授業をしないじゃないの」
「この頃は忙しいんだ」
「忙しいって、授業をするのが先生の仕事でしょう?」
「ぼくの仕事は他にある」
「何があるんじゃ?」と目の前の玉座に突如神様の一人が実体化する。
「ぼくは神です」
「神はわしじゃよ」
「えっ、うそ?」
「わしは神じゃ」
「神様なんかいないと思ってた」

 マライア・キャリーはあまりにも長い間海に浮いていたので、ついに体が海に溶けてしまった。魂が風船の形になって宙に浮き、成層圏を越えて宇宙に飛び出す。
 廃船になった気象衛星ひまわりの中から毛沢東が手を振る。これからは中国の時代だわと考えたマライア・キャリーは毛沢東の前に現われる。
 毛沢東は亡くなった人だかられっきとした風船になっている。マライア・キャリーは亡くなったわけではないから、風船の形はいびつだ。
「わたしはマライア・キャリーと言います」
「マライア・キャリーは日本人ではなかったと記憶しておるが」
「あなた、日本語、上手ですね」
「魂の世界では細かいことは言わん」
「わたし、毛沢東さんの愛人になって中国語を覚えたいんです」
「中国語を覚えて何をするんだ?」
「中国語の歌を歌うんです」
「上海異人娼館に売り飛ばされるよ」
「大丈夫、わたしは寺山修司の弱みを握ってるから」

──明るい日差しを浴びて立つ
  少女
  幼いとも言えないが大人でもない
  少女
  少女は水晶の玉を抱いて
  少年の前に立つ
  少年ははにかみ
  何も言えない
  少女は決してはにかんでいるわけではなく
  現実の少年に対峙している
  少女はか弱いが強い
  少年は力溢れるが弱い
  二人にとって世界は
  まだ始まったばかりだ

 突然の嵐。女教師は雷に怯える。こんなことで怯えていたら女教師なんか勤まらないわと自分に言い聞かせるが、本能的な恐れは如何ともし難い。
 寺山修司は双眼鏡で窓の外を見ている。女教師は寺山修司の性癖をやめろとは決して言わない。ただ今は雷が鳴って怖いのだ。
「ねえ、カーテンを閉めてくれる?」
「うん、分かった」と言って寺山修司はカーテンを閉めて窓とカーテンの間に身を滑らせる。
「雨の日はどこもカーテンを閉めてるから、何も見えないんじゃないかしら」と女教師はおそるおそる言ってみる。
 再び雷が光り、カーテンの向こうの寺山修司の後ろ姿がシルエットとなって浮かび上がる。
 寺山修司は汗をかいてなお双眼鏡を覗き続けている。

 神様がどうぞこちらへと言うので、後ろ手に縛られた森岡先生は倉橋まみに連れられて地下室のような部屋に入る。
「ここは何の部屋に見えるかな?」と神様が白い髭を撫でながら問う。
「地下室ですか?」と森岡先生は自信なさそうに聞き直す。神様などというのは何かと謎をかける場合が多いから、これにも何か裏があるのではないかと危ぶむ。
「そうじゃ、地下室じゃ」と神様の返事はあっさりしていた。森岡先生に神様を見くびる気持ちが起こる。
「とにかくこの縄をほどいて下さい」
「縄を結んだのはわしじゃない。この女性じゃ」
「ああ、そうなんですか。倉橋君、この縄をほどきたまえ」
「何を言ってるの。あなたはこの世界ではまだ下っ端なのよ。わたしの方が偉いんだから」
 倉橋まみは森岡先生の顔に顔を近づけて不気味に笑う。これはしまった、神様ばかりに気を取られて倉橋まみの変化に気が付かなかった。
 神様よりも女性の方が怖いというのは人類共通の常識だ。

 スペードのエースとダイヤのエースが話し合う。
「森岡先生は連れて行かれたよ」とスペードのエースが残念そうに呟く。
「これは責任問題になるわ。わたしはジョーカー様が怖い」とダイヤのエースの顔は暗い。
「二人で逃げましょうか?」
 スペードのエースとダイヤのエースとは昔からの恋仲だ。恋仲なんて古臭い言い方だなあ。まるで近松みたい。
「お互いのキングとクイーンに迷惑がかかるじゃないか」
「あなたはいつもそうやって体裁ばかり考えて逃げる。わたしがどれだけの長い間待ったか知ってるの?」
「トランプの歴史が始まって以来だから?年か?」
「その間にどれだけ沢山の人間が生まれてどれだけ沢山の人間が死んだか分かる?」
「人間の話はやめよう。おれたちは人間のせいで随分苦しめられた」
「人間がいなければわたしたちもいないわよ」
「たとえ人間に生んでもらったにせよ、おれたちはおれたちで独立したトランプだ」
「まるで分からず屋の子供みたい」

 その頃ハートのエースとクラブのエースはお互いの薄い体を合わせていた。
「アッハーン、ウッフーン」
「ハッハッハッハッハッ」
 何しろトランプ同士の性交というのは百科事典にもインターネットにも載っていないので、描写に困る。
「イヤーン、そこはAの字よ、ハートのマークが一番感じるの」
「ここかい」
「アッハーン、そこよ」

──太陽の照る
  早過ぎる夏に
  ぼくは長袖をまくり
  働く、働く
  だがぼくは虚しいのだ
  毎日毎日が単調に流れ
  同じことの繰り返し
  たまさかの大事件に心躍らせ
  心躍る自分に罪の意識を抱きつつも
  テレビに釘付けされた目は離れない
  生きていて面白いと誰が決めた
  こんな面白くない毎日を過ごすべきだと
  誰が決めた
  みんな、降りろ、降りろ
  レールから降りろ
  みんなが一斉にレールから降りることが出来れば
  世の中は少しは楽しくなるだろう

「ただ今から裁判をとり行う」とねずみの裁判官が木づちでテーブルを叩く。どう見ても彼はねずみだ。ねずみがフロックコートを着て厳しく裁判官席に座っている。
 スーツを着た熊の検事が立ち上がり、手にした紙を読み上げる。
「被告、森岡守は塾の講師という神聖な職に就きながら、このところふしだらな行為が頻発しております。わたしの考えによると有罪なのですが、被告本人はどう思いますか?」
 熊の検事の話はあっと言う間に終わり、そのあと闇のような沈黙が流れる。
「おい、おい」と背後から犬の弁護士が呼びかける。森岡先生はぼんやりしていた頭を幾分はっきりさせて「は?」と振り返る。
「きみは今たずねられてるんだ」
 いやに横柄な犬だ。今まで生きて来て犬に偉そうにされる時が来るとは夢にも思わなかった。
「ぼくは何もしてません」
「してるじゃないか」と熊の検事が森岡先生の足元を指さす。倉橋まみが森岡先生のズボンのファスナーを降ろそうとしていた。
「これは何かの陰謀です」
 森岡先生は顔面蒼白になる。と同時に気持ちもよくなってくる。

 女教師はこの頃仕事が忙しくて寺山修司に会う暇がなかった。携帯には時々メールが入っていたが、返事をしたりしなかったりだった。
 寺山修司は決して寂しくはなかった。それが彼の問題なのだ。職もなく覗きしか趣味のない人間が寂しくないわけがない。
 女教師はそのことに薄々気づいていた。それゆえに少し悲しかった。仕事の妨げになるくらいこちらに倒れかかってほしいと思うこともあった。
 人間とは勝手なものだ。人間とは所詮自分の気持ちしか考えていない。相手を助けたいという気持ちも、その根をたどれば自分の満足のためという場合が多い。多いというより全てがそうだ。

 毛沢東は気象衛星ひまわりの中でいつも一人将棋をしていた。
「将棋というのは本当は一人でやるものなんだ。きみは知ってたかい?」
「そんなこと知らないわ」とマライア・キャリーがつっけんどんに答える。「わたし、将棋になんか興味ないの。早く中国語を教えて?」
「実はわたしは中国語を忘れてしまった」
「そんなのないわ。わざわざここまで来たのに中国語を習えないなんて」
「相手がいると相手のレベルの相手としか将棋が出来ない。強すぎてもチンプンカンプンだし、弱すぎたら手ごたえがなくてつまらない。一番相手にして面白いのは自分だ。そうは思わないか?」
「わたし、そんなことどうでもいいの。誰か中国語の出来る人はいないの?」
「いいじゃないか、中国語なんか。わたしの愛人になれ」
「江青女史が怖いわ」

 森岡先生は倉橋まみの口の中に二週間分の精液を放った。放っても放っても倉橋まみは口を離さず、森岡先生のペニスは何度も何度も大きくなり、また放つの繰り返しだった。
 森岡先生の体はミイラのように干からびてしまった。森岡先生は意識を失って倒れる。倒れてもペニスだけはまた大きくなる。
「有罪!」とねずみの裁判官が叫ぶ。
「確たる証拠もなく有罪を確定するのは法律に反しております」と犬の弁護士が反論する。
「ただこれはあまりに人間的な、あまりに人間的なことですから、わたしたち動物には理解出来ません」と罪を追及するはずの熊の検事が疑問を差し挟む。

──死ぬのは死ぬが今は死なぬ
  死ぬ時に死ぬが死ぬ時は来ない
  生きたくて生きているんじゃないが
  今死ぬのは真っ平ごめんだ
  

 レールボードは倉橋まみの不在をいたく嘆いた。彼は空を呪って地に唾をした。あらゆる宗教の滅亡を願った。ところが彼には何の力もない。
 わがままを通そうと思ったら偉くなるに限る。だから自分がわがままに生まれついたと感じる人間は、必ず偉くなりたがる。
 ところが本当に偉くなるためにはどれだけ多くのわがままを我慢しなくてはならないことか。
 レールボードの特技といえば詩を書くことくらいだが、そんなのは何の特技にもならない。金にならない道楽だ。ところで一方ではその道楽こそが大事だという考えもある。金になる特技は適当に小出しにして、金にならない道楽の方に全身全霊をつぎ込むようにと。
 まだ高校生のレールボードには物事の両面が分からない。一途は一途で素晴らしいが、大人から見ると明らかに恐ろしい。手に持った凶器より目に見えない狂気の方がはるかに恐ろしいのだ。

 森岡先生は相変わらず後ろ手に縛られたまま留置場の中に横たわっている。倉橋まみは「また、教室でね」と手を振って帰って行った。
 とんでもないことになってしまったものだ、と森岡先生は考える。この頃色気違いが過ぎたようだ。人間にとって色は大事なものだが、過ぎたるは及ばざるが如しで、やり過ぎはいけないのだ。
 とはいえ森岡先生のペニスはもう森岡先生の意図からかなり逸脱している。誰も咥えてないのにまた勃起してきた。
「ニーナ」「リンリン」と森岡先生は二人の名を呼ぶ。そして頭の中には倉橋まみの映像が映っていた。
 何たる浮気男!

 煙草を吸いながら窓の外の宇宙を見やるマライア・キャリー。
 うんこをしながら新聞を読む毛沢東。
 段違い平行棒をしながら今晩のおかずを考えるコマネチ。
 神様は全てを見ている。鼻糞をほじりながら。

──ぼくは自然が嫌いだ
  人間は自然のもとに生きていない
  人間は自然に反するものだ
  四輪駆動車で浜辺を荒らすのが人間だ
  誠実な人間ならば自然を好きなどという
  嘘八百を並べるべきではない
  人間は自然を克服した気でいるが
  自然は人間が目にするものだけではない
  空気、色、鼓動、息づかい
  人間に何が分かる
  分からないならば
  自然を好きなどという
  嘘八百を並べるべきではない

 スペードのエースがジョーカーに呼ばれた。
 スペードのエースは謹んでジョーカーの部屋のドアをノックする。
 返事がない。
 スペードのエースはそろりそろりとドアを開ける。
 正面の大きな椅子にはジョーカーの姿はない。
 スペードのエースは入り口で立ち尽くし、どうしていいのか途方に暮れる。
 すると上の方から「スエちゃん」と呼ぶ声がする。スペードのエースだからスエなのだ。彼のことをこう呼ぶのはジョーカー様だけだ。
 見上げるとジョーカーは天井に貼りついていた。
「どうや、びっくりしたやろう?」
 びっくりしたどころではない。それでなくともジョーカーが恐ろしくてここに来るまででもビクビクしていたのに、こんな冗談をやられてはたまらない。
 冗談好きな偉いさんは下の者にとっては大変な迷惑だ。

 森岡先生は脱獄しようと思った。こんな罪深い色気違いをしたあとでは、自分の死刑は間違いないと考えたからだ。
 看守が眠ったあと森岡先生は必死の思いで縄をほどいた。すると上からヒラヒラヒラと一枚の紙が落ちて来た。それは
  30分3,000円ポッキリ
と書かれたキャバクラのチラシだった。よく自転車の前カゴに入っている小さいチラシだ。
 どうしてこんな所にこんなものが落ちて来るのだろうと不思議に思い上を見ると、天井が四角くパカッと開いて一人の見知らぬ女性がこちらを覗き込んでいる。
「あなたは森岡先生ですね?」と女性は上からたずねる。
「そうだが、これはどういうことだ?」
「わたしはあなたを助けに来たのです」
「きみは誰なんだ?」
「風俗よ、永遠に、です」
「は?」

 森岡先生は病気療養中でしばらく休むと塾長は発表した。倉橋まみは森岡先生がどこにいるか知っている。知っているどころか、今彼が何をしているのか見ることが出来る。
 携帯の画面を開いてエーローウェブに接続すると森岡先生の視点で風景が現われる。森岡先生の額の中央にカメラを埋め込んでおいたのだ。
「あら、また浮気してる」と倉橋まみは小さく呟く。
「こら、倉橋、携帯をしまいなさい」と塾長は注意をするが、まみは軽く鼻で笑う。塾長はそれ以上何も言えない。塾長は生徒のお母さんと関係を持っていて、その事実をちゃんとした証拠も添えて倉橋まみに握られているのだ。
 塾長はそれ以上何も言えない。

──胸が燃えて火となる
  火は天をも焦がす勢いだが
  天はそんなことを気にしない
  人の思いなどどうでもいいこと
  一人などというのは
  存在しないに等しい
  怒り、憂い、悲しみ
  若いというのはどうしこんなに
  不安定なんだろう
  どうしていつも
  シーソーの中央に
  立っていなければならないんだ
  いつか天から怒りの矢が届き
  世界は完結する
  そんな時が本当に来るのだろうか?

 コンコンコン
 ドアをノックする音
 倉橋まみは「はい」と返事をする。
 現われたのは姉のマライア・キャリーだった。
「久しぶりね」とマライア・キャリーが少し俯き加減に言う。
「そうね、久しぶりね」
「どう? 宇宙意識の仕事は」
「順調よ」
「わたしも森岡先生に会いたいわ」
「森岡先生は今、中国人と乱行パーティー中よ」
「あら、中国人ならわたしも会いたいわ」
「セックスしないといけないのよ」
「セックスくらいわたしもするわ。馬鹿にしないで」
「それじゃあ、手配するわ。森岡先生って、随分と色気違いよ」
「中国人に会えるのなら、少々のことは我慢する」

「森岡先生というのは変幻自在やなあ」とジョーカーが椅子に踏ん反り返って言う。「トランプ帝国の味方になってもらおうと考えてるのに」
「今、森岡先生は忙しいですよ。誰か他の人を探したらどうでしょうか?」
「森岡先生ほどトランプを愛している人はおれへん」
「ジプシーの末裔の方がよっぽどトランプを愛してるでしょう」
「ジプシーはただ占いの道具としてトランプを使うだけで、トランプを愛してるとは言えへん」
「森岡先生も子供のうちはトランプを愛してたかも知れませんが、今ではあまり手にしませんよ」
「まあ、あまり議論はせんでおこう。あまりうるさいとお前の体にあるスペードのマークを取ってしまうぞ」
「わたしからスペードのマークを取ってしまうと、わたしはただの紙になってしまうじゃありませんか」
「アイデンティティーにかかわるわけじゃな」
「そうです。エリック・エリクソンです」

「さあ、演説して下さい」と風俗よ、永遠には森岡先生にマイクを渡す。
「何の演説をするんだ?」
「風俗がいかに大事かをです」
「風俗と言っても色々あるよ」
「色々あるよって、あなたが今までやって来たエッチな風俗に決まってるじゃない。何を善人ぶってるの」
「そんなに怒らないでくれよ」
「怒ると立つものも立たないって」
「まあ、そうだ」
「ちょっとくらい立たなくてもいいじゃない。あなたは立ち過ぎよ」
「えらい、すみません」

「わたしは、風俗によって多くのことを学びました。わたしを大人にしたのは風俗です。世の中は売春防止法というのがあって、売春は禁止され、風俗も取り締まられています。確かに売春はよろしくない。だが男というのは性欲のかたまりであり、もしお金を払って春を買うことが禁じられたなら、素人の女の人に手を出さなければならず、そういう性欲の処理を目的に付き合った女性に対しては男は不実な裏切りをしてしまうものなのです。そういうことのないように、プロの女性というのは必要なのです。わたしの意見は片寄っていて稚拙かも知れませんが、どうかご一考下さい。わたしは至極真面目なのです」

 レールボードは森岡先生の演説をラジオできいて、自分も風俗に行こうと思い立った。
 ところが彼には今金がない。
 第一彼は高校生だ。高校生の分際で風俗とは生意気な。
 でも風俗に通う大人も情けない。
 だが世の中に風俗は必要なのだ。
「お母さん、英英辞典を買いたいんだけど、一万円くれないかなあ」
「何よ、その、え~え~って」
「英語の辞書さ」
「英語の辞書なら持ってるじゃないか」
「もっといいやつだ。ぼくはこれから英語のスペシャリストになるから、英英辞典は是非とも必要なんだ」
 息子の真剣な様子に母は思わず涙ぐんだ。この子もやっと現実を見て生きて行く気になったらしい。
 風俗は果たして英英辞典よりも価値があるやいなや。

 倉橋まみは携帯で電話をする。風俗よ、永遠にが出る。「はい、もしもし」
「わたし、倉橋まみと申しますが」
「存じております。いつもうちの森岡が噂しております」
「森岡先生は有罪でしょうか?」
「誰が有罪なの? 森岡が有罪なら、世の男どもは全部有罪ですわ」
「それじゃあ、森岡先生は無罪でしょうか?」
「森岡が無罪なら、世の男どもは全部無罪ですわ」
「それではどっちでしょうか?」
「喜びが一番大切なの。心のこもった喜びが。二人の間に心のこもった喜びがあるのなら、少々の不道徳は許されるわ」
 さすが風俗よ、永遠にだ。風俗よ、永遠にと言うだけある。

 寺山修司はついに逮捕された。女教師は悲しかったが、彼女の仕事の性格上彼をかばうことは出来なかった。
 女教師は淡々と仕事をこなした。覗きで捕まった彼氏がいるとは到底思えないほどの実直な働きぶりだった。
 彼女は美人なので、校長先生が縁談を持って来た。
「きみのような美人の先生が独身のままでいるのは危険だ」と校長先生は厳しく顎に手をやりながら言う。頭の中にどんな想像があるのかは、壁にスライドで映されるわけではないから、誰にも分からない。
 読者の想像も筆者には分からない。もし公表してもいいのなら、朝日新聞の『声』の欄に投稿していただきたい。確実に没になるだろう。

 不道徳とは何だろう?
 不道徳という言葉で一番先に連想するのは浮気だ。
 だが浮気とは何だろう?
 気持ちが浮くのが浮気だとしたら、人間他の異性に気持ちが浮くことくらいよくある。
 女性のことは女性の作者にきいてほしいが、男性ならばなんばウォークを百メートル歩いて彼女や妻以外の女性に恋慕しないことはあり得まい。
 生理的に恋慕するだけで、心はまた別だ。
 ところが男というものは、心が恋慕していなくても生理的な欲求は感じるものだ。
 浮気を撲滅することは市役所を民営化することよりも難しい。

──エロティックなことは
  悩みになりやすし
  快感があるゆえに
  悩みになりやすし
  衝動は抑え切れず
  エスカレーターを上る前の女性を
  思わず抱きとめたくなり
  その映像が
  頭の中でクルクル旋回し
  ああ、駄目だ、駄目だと
  鼻血を拭きつつ
  夜の町に安らぎを求めに行く
  こんな生々しいことは
  詩にはならんとのお叱りの声はきこえるが
  微妙な象徴詩では
  本能は語れず
  語っても
  理解されず

 倉橋まみの紹介でマライア・キャリーは風俗よ、永遠にに会いに行く。
「あなたは女性が体を商品にして生計を立てることに異議を唱えますか?」と風俗よ、永遠にがたずねる。
「異議は唱えません。これは全て男性が悪いのです。世の中が男性中心だからこういう仕事が成立するのです」
「あなたはしゃべり過ぎです」と風俗よ、永遠にはマライア・キャリーに注意をする。「質問には小出しに答えるべきです。あなたはこれからわたしたちの運動の中核になってもらわなければなりませんから、発言の仕方を覚えてもらわないといけません」
「わたしは中核になろうなんて思っていません」
「まあ、そんなご謙遜をなされては困りますわ。あなたはどこに行っても中心になる人じゃないですか?」
「わたしは目立たない人間です」
「それではご自分をマライア・キャリーと呼ぶのはやめていただきたいですわ」
「それでは何と呼べば?」
「倉橋美和子です」
「それは誰です?」
「あなたの本名です」

 風俗よ、永遠にが森岡先生の体を高く宙に投げ打ち、リンリンとニーナが彼の体を受け止める。
「さあ、これからなんば駅の御堂筋線の券売機の前に行きましょう」とリンリンが大きな声で言う。そこはリンリンが初めて森岡先生を投げ飛ばした場所だ。
「わたしは宇宙の果てに来てほしいんだけれど」と遠慮がちにニーナが提案する。
「それはあとよ」
「ちょっと待ちなさい」と刑務所の屋根にマライア・キャリーが立ちはだかって両手を広げる。彼女は風俗よ、永遠にに倉橋美和子を名乗るように言われたが、女の意地でそれは出来ないと突っぱねた。倉橋美和子でなら楽に仕事が出来るとも言われたが、彼女は敢えて苛酷な道に進んだ。
 リンリンとニーナとマライア・キャリーとの仁義なき戦いが始まる。

──人生に物語はない
  人生は
  生まれて生きて死ぬまでの時間に過ぎない
  全ての出来事は夢だ
  現在から見れば真剣な出来事でも
  終わってみればただの夢だ
  人生に最後に何が残るか?
  それは痛みだ
  肉体の痛み、心の痛み
  本当の笑いは死んだあとに起こるものだ
  そう信じたい

 風俗店の隣は工事中だった。屈強な男たちが作業に没頭している。
 思えば罪な現場だ。隣でいい気持ちで昇天する男たちがいるのに働かなければならないとは。
「おれはこんなとこで女を買うことばないで。町を歩いたら、女たちがぞろぞろとついて来るんや」
 とんでもない妄想だ。
 男は性欲が強いだけに妄想に襲われやすい。
 レールボードはそうした男たちの横を擦り抜けて風俗店に入る。
「はい、いらっしゃい!」といかにも怪しげな太くて大きい声が彼を出迎える。
 ああ、こんな所に来たら気力なんかなくなってしまう、とレールボードは悄然たる青年の様子で店員の前に立つ。
 いつもの傲然たる詩人の風貌はどこにもない。

 森岡先生は突如「仕事がしたい!」と叫ぶ。こういうわがままな人間は困る。仕事をしろという時には仕事をしないのに、もう仕事はいいよと言うと仕事をしたいと言う。こういう人に、今やっていることが仕事なんですよと言っても納得しない。
「給料貰われへんもん」
 仕事とは給料を貰えるかどうかで決まるのか? 月収いくら、それを十二でかけてボーナスを足して年収いくら。これが仕事をしているという証しなのか?
 そういう月収年収を貰っている人が、自分は果たしてどういう根拠で現在の月収年収を貰っているのか、はっきり自覚したことがあるのか?

 女教師のオナニー癖は治らなかった。寺山修司が逮捕されてからというもの、女教師は家にいる時の三十分に一回はオナニーをしていた。
 寺山修司と彼女をそもそも結び付けたのはこのオナニーなのだ。そして寺山修司と暮らしている間も彼女はオナニーをし続けた。寺山修司は女教師がオナニーをするところを見るのを最も喜んだ。
 女教師は正常な性行為について全く知識がなかった。オナニーをしてはいても彼女は全くの乙女だったのだ。
 ピーピーピーピーと携帯が鳴る。昨日入った出会い系サイトからのメールだ。二十七歳女性と登録をするだけでいくらでもメールが入って来る。見ると反吐をはきそうないやなメールばかりだった。
 今から退会手続きをしようと女教師は考える。そうでないと落ち着いてオナニーも出来ない。

──物語には脈絡があるが
  生きることには脈絡はあるか?
  何故物語に脈絡があるか?
  それは物語には結末があるから
  生きることの結末、それは
  死しかあるまい
  だれがそんなものを結末にしたがるだろうか
  全ての論議は
  死はないものと仮定して行われる
  個人の死、
  組織の死、
  それはないものとして
  だが現にあるのだ
  何もかも
  いくら堅牢な政治体組織体としても
  いつかは死はやってくる
  ましてや個人の死など
  蟻の糞ほどの価値もあるまい

 マライア・キャリーは森岡先生に欲情した。というより森岡先生の名声に欲情した。個人の本質よりも個人にまとわりついた特性が重要なことがある。
 というのは──
 特性が個人の魅力を形作ることがあるからだ。
 特性とは簡単に言うと肩書。
 肩書はその人の自信を形作る。自信は立ち居振る舞い、話し方、指の動かし方、全てに影響を与える。
 森岡先生にはその肩書がある。一般企業とかでは全く役に立たない肩書だが、人間の本質に大いに関わりのある肩書だ。
 ついにマライア・キャリーが憧れるべき人物に出会った。ところが一方森岡先生は逃げることしか考えていない。「助けてくれ」「助けてくれ」と非常に見苦しい。

 スペードのエースはワルの癖に割とシャイだ。クラブのエースとハートのエースがよろしくやっているのに、彼はダイヤのエースに言い寄ることが出来ない。ダイヤのエースはいつどうなってもいいように覚悟を決めている。ダイヤのマークをいつもきれいに磨いている。
 スペードのエースはうどん屋に入る。モンちゃんが「おはよう」と挨拶をする。スペードのエースは自分の素性を明かすことが出来ないから、モンちゃんとの話は弾まない。
 薄い体をしているからトランプだということは誰でも見たら分かるのだが。
 トランプというハンディキャップを抱えて生きるのならもっと豪胆にならなければならない。「おれはトランプや、なんか文句あっか」

 倉橋まみの手の中の携帯が震える。メール受信中の画面になる。きっと姉さんからだわ、とまみは画面を見つめる。
『マライア・キャリー』と表示される。
 自分の姉をマライア・キャリーという名前で登録する倉橋まみは変わっている。わたしも何か名前を考えようかしらと思うこともあるが、まみは琴の若関の大ファンなのだ。まさか女の子が琴の若という名前をつけるわけには行かない。
「森岡先生の好きなものは何?」という文面だった。
「森岡先生は意味不明な映画が好きです」とまみは返事を書く。
「どんなやつ?」
「タルコフスキーが好きだと言ってた」
「何、それ?」
「人の名前」
「?」

 タルコフスキーは決して意味不明なものを作ろうとは思っていないのだろう。だが森岡先生には意味不明に見える。そしてタルコフスキーの作る意味不明な映画は森岡先生のお気に入りなのだ。
 ゴダールもいいが、ゴダールには思想が多すぎる。タルコフスキーにも思想はあるのだが、叙述が詩的でいい。『ストーカー』という映画は延々と三人の男が謎の地域を探検するばかりの話だ。
 森岡先生は六千円もするのに『ストーカー』のDVDを買った。『惑星ソラリス』も買った。ソダバーグが作った『ソラリス特別編』などに興味はない。
 今インターネットで調べたら『鏡』という作品もあるらしい。タルコフスキーファンなら必ず見なければならない名作らしい。迂闊だった。

 うどん屋のおばさんはスペードのエースにビールを渡しながら、「気にしない、気にしない。人が何と言おうと気にしない」と励ます。
「気にしていないつもりなんですが、あとになってこたえるんです、いつも。トランプであることがそんなに罪かと憤る気持ちもあるんですが、トランプは会社に行かなくていいなあ、なんて言われたらこたえるんです。どうして人は人に会社に行けと言うんでしょうか?」
「それはみんながいやいや会社に行ってるからや。そんなにいやなら辞めたらいいのにねえ」
「辞めるわけには行かんでしょう」
「行くよ。せっかくの人生やねんから、好きなことして一生を送らんと。もしそれがお金にならんことでも、楽しいと思うことをするべきや。わたしは商売が好きやから商売してる。それがたまたま金になる。毎日楽しいで」
「だから会社に行け行けと言わないんですね」
「会社に行った方が世間体はええけどな」
「世間体ですか」

 マライア・キャリーは進歩的な女性のようでいてまだ処女だった。だが今時進歩的な女性などという言い方も古い。まるで昔のロシア文学のようだ。
 森岡先生は温泉の岩場の上でマライア・キャリーに挿入する。マライア・キャリーは唇を噛んで痛みに耐える。
 温泉は混浴で、まるで乱行パーティーのように男女が入り乱れていた。自分のお母さんのような年齢の女性に当たった若い男は、手を振って「もういい、もういい」と逃げている。マリリン・モンローのような金髪女性には二十三人ほどの男が群がっている。
 やりたい放題というのも下品だなあ。
 森岡先生はしきりに体を動かす。マライア・キャリーは呼吸するのも苦しそうだ。
 倉橋まみが温泉の入り口に立って森岡先生とマライア・キャリーを見ている。
 わたしはまだ森岡先生と寝たことないのに、と倉橋まみは唇を噛む。

──寝ていたい
  寝ていたい
  いつまでも
  寝ていたい
  起きていたい
  起きていたい
  時には
  起きていたい
  ぼくはわがままな虫だ
  ただ
  ニョロニョロゴロゴロと
  くねり転がる
  生きていたい
  生きていたい
  いつまでも
  生きていたい
  怠惰こそ我が命

 会社員田中は今日も会社に行けなかった。
 家賃も払わなければならないのに、会社に行けないのは困る。そう思いつつも彼の体はベッドから離れなかった。
 昼過ぎになったら起き上がってパチンコに行く。会社に行けないのにパチンコには行けるなんて最低だなと考える。
 今日も散々眠っておなかがすいたので床を降りて服を着替えて外に出ようとした。郵便箱に手を入れるとキャバクラのチラシが入っている。そんなとこに行く金はないぞとばかりにチラシをクシャクシャに丸めると、チラシは手の中で元に戻った。
「形状記憶チラシか」とひとこと言ってポケットにそのまま突っ込む。
 春なのになかなか暑い。久しぶりにうどん屋に行って愚痴をきいてもらおうと考える。

 森岡先生はマライア・キャリーをまとわりつかせたまま湯に入る。マライア・キャリーはさっきからもう三回も行っている。森岡先生は随分絶倫だ。
 倉橋まみはジェラシーの炎を燃やす。わたしの彼氏はレールボードだが、本当に大事な人は森岡先生なのだと考える。
 レールボードに電話をするといくら呼び出し音を鳴らしても出なかった。また走ってるんだわ。あの人いつも走ってる。走ってるくせにわたしの方には走って来ない。走って来たとしてもわたしは軽くいなすけどね、と倉橋まみは悪戯っぽく笑う。

 女性は意地悪なものだとレールボードは考える。意地悪な女性を相手にしようと思ったらこちらも意地悪にならざるを得ない。
 ところが心の優しい男は特に女性に対しては意地悪になれない。
 優しい男はなめられる。女性はなめているつもりはないのだが、(甘えてるんや、分かってるよ、でもいややんか)男はいつも傷つく。
 セックスをして赤ん坊を作ってさあ堕ろせというような男を女性は好む。好んでいるつもりはないのだが、そういう悪い男はなめることが出来ないから逆に気が楽なのだ。
 女性だって男をなめたくないと考えている。

──晴れるか雨か曇りか雪か
  天気が毎日変わるように
  人の心のありさまも
  コロコロ変わる
  統一的人格は存在するやいなや?
  矛盾を消すことは可能か?
  車が猛スピードでかたわらを行き過ぎ
  ぼくは頭痛に悩まされる
  時間は過ぎて
  時間は止まる
  十年に一度の感動は
  三十年に一度しか来ない
  かしましい乱痴気騒ぎはもう御免だ
  ぼくは静かに岩の上で座っていたい

「あの、今何時でしょうか?」と甘い香りのする女性が声をかける。会社員田中は立ち止まって女性を見る。時計には目をやらない。女性を見る。
 何故か吸い込まれる。美しすぎてなどという月並みな感慨ではない、あれ? どこかで見たことがあるな、という疑問符が彼の頭の上に舞っていたのだ。
 彼の知り合いにこんな美人はいない。いたら声をかけられる前に彼の方が気づいているだろう。
「十一時三十八分です」
「あら、随分正確な時間ですのね」
「デジタル時計ですので」と言いながら会社員田中は突然ハッとしてポケットに手を突っ込む。さっきの形状記憶チラシを見ると、そこにあった女性の写真がない。そして目の前にいる女性こそその写真の女性なのだ。会社員田中は確かに覚えている。何故覚えているかというと、彼はその写真の女性がいい女だと思い、こんな女と一発やりたいと思い、あとで何かに使おうと思ってチラシをポケットの中に入れたのだから。
 チラシから抜け出た女性は長い髪をかきあげ、「商工会議所はどちらですか?」とたずねる。

 マライア・キャリーは岩場の上ですっかり伸びてしまった。森岡先生のペニスは赤く怒り立ち、目はギラギラ光っている。倉橋まみはこんな情熱的な森岡先生を見たことがない。いつも教室で寝ているのか起きているのか分からないような曖昧な声で授業しているのだから。
 倉橋まみは着ていた服を全部脱いで森岡先生の前に立つ。森岡先生は鬼のような目を向けて彼女に躍りかかる。
 わあ、何て獣みたいなのかしら。先生、わたしがわたしって分かっていないみたい、それがまた刺激的だわ。でも、そんなに強くしたら痛いわ。どうしよう、わたしの力で先生を抱きとめることが出来るかしら。

「わたし、商工会議所の会頭さんと知り合いなの」と女性が会社員田中に言う。知り合いなのに商工会議所の場所がどこにあるか知らないなんておかしいじゃないかというような理性的な疑問は会社員田中の頭の中にはなかった。彼は女性の魅力に全く参ってしまっていた。おなかがすいていたこともすっかり忘れてしまったくらいだ。
「ぼくは商工会議所には子供の時に行ったことがあります」
「あら、子供が商工会議所に何の用があるの?」
「そろばんの試験です」
「へえ~、そろばんの試験って商工会議所でやるの?」
 そんなことくらい誰でも知ってるのにな、と会社員田中はさすがにあれ? と心の中で首をひねった。でもそのひねった首を思い切りねじ曲げてちぎり取ってしまい、「はい、そうです」と素直な返事をした。

 何となく世の中が色めいてきた。春だからだろう。
 春になってもぼくの内面の苦しみは軽減されない、とレールボードは太宰治みたいなことを考える。
 ノートにしきりに文章を綴る。彼は詩人でもあるが、時には散文も書く。全くまとまりのない文章ばかりだ。
 若い知性にはまとまりがない。だから乱暴なことを言いもするし行動もする。知性にはどうしても経験という肉付けが必要なのだ。ただ知性のない経験は意味がない。金儲けをする上では意味はあるだろうが、魂の向上には意味がない。魂なんか向上させてもポケットに一銭も金は入れへんでと叱られそうだから、こっそり言う。

 倉橋まみも失神してしまった。姉妹が岩場に並んで横たわる。姉妹ともどもものにするとは、森岡先生はよっぽどのワルだ。ただ彼には悪いことをしようという意識はない。すっかり妄想の嵐の中に取り込まれているのだ。
 妄想というのはマイナスのイメージがつきまとうが、本人にとっては必ずしもマイナスではないのだ。だから厄介だ。人の説得くらいでは取り去ることは出来ない。
 森岡先生は今や大有名人だ。彼自身の頭では彼は有名人であり、世界はすっかり彼の頭の中におさまってしまったから、すなわち彼は有名人なのだ。
 温泉での乱痴気騒ぎは終わってしまった。男も女も疲れ切って眠りに入っている。森岡先生一人がまだ元気だった。
 誰か森岡先生を止めてくれ。

 神様が雲の上で煙草を吸って考え事をしている。
 今や森岡先生は神様より有名だ。失地回復のために何かをしなければならないのか。いやいや、神様とはそういうものじゃないだろう。信じる者がいれば存在し、信じる者がいなければ存在しない。状況的な条件によって存在が決まるもので、何も神様自身がやきもきする必要はない。
 神様は飯を食わないでも生きて行ける。人間は神様に対して多額のお布施をするが、神様には一文も入って来たためしがない。お布施を受ける側も神様がどこにいるのか知らないのだ。

 スペードのエースは北陸の海岸沿いを放浪の旅をしていた。自殺をしようと思ってここまで出かけたのだが、やっぱり命が惜しい。彼にはトランプ帝国の叙事詩を書くという夢がある。才能がないと諦めていたが、いざ死のうという段になってその夢が胸の中でせり上がって来る。
 叶わなくても夢があるというのはいいことなのだ。この世に自分をつなぎ止めるのは夢だ。いいものを食べる、いい所に旅行する、いい女を愛人にするというのは金がないと出来ないからすぐに諦めてしまうが、高尚な夢はそう簡単には諦められない。だからこそ生きる根拠になる。
 ジョーカーはいつも事務所にいる。実はジョーカーは引きこもりなのだ。組織の一番偉いさんが引きこもりというのは困る反面いいこともある。いつ訪ねても在室なので、指示を仰ぎやすい。
 人生つらいことばかりだ。つらい中でもスペードのエースというのは一番つらい。でも誰でも自分が一番つらいと思っている。
 スペードのエースは人間ではないが、人間とはそのように勝手なものだ。

 森岡先生は氷の部屋に閉じ込められた。「頭を冷やせ!」と温泉の主人に恫喝されたのだ。
 寒くなってくるとさすがにペニスは萎えてくる。ペニスがタコ焼きみたいに小さくなると森岡先生の目も次第に落ち着いて来る。
 自分は一体何をしていたんだろう?
 いくら思い出しても思い出せない。思い出したら思い出すだろう。いくら考えても思い出せない、と訂正すべきだ。
「どうや、寒いやろう?」と天井から声が響く。温泉の主人の声だ。温泉の主人は実は元総理大臣なのだ。手先の沢山いる黒幕だ。日本の常識を代表する人なのだ。だから森岡先生のように常識を無視する者は敵なのだ。
 常識は見識ではない。確か夏目漱石がそう言っていた。あれ? 自分で勝手に言ってるだけかな?

──色があって空気がある
  空気は色を変える
  どんなきらびやかな色でも
  暗い空気に覆われたら
  淀んだ色になる
  気分という空気がある
  疲れた空気には
  物事は何でも憂鬱に見える
  溌剌とした空気は
  どのようにすれば
  醸し出されるのだろう
  年を追うごとに
  人は憂愁の影を重ね
  悲しみにも
  笑うようになる

「すみません、会社員田中と申しますが、会頭さんはいらっしゃいますでしょうか?」
 会社員田中は受付の女性にたずねる。
「どちらさんですか? もう一度お願いします」
「会社員田中と申します」
「アポイントメントは取ってらっしゃいますでしょうか?」
「いえ」
「それでは申し訳ないのですが、お取り次ぎするわけにはまいりません」
「いや、この女性が会頭さんと知り合いなので……」
「どちらさまですか?」
「礼子と言えば分かりますわ」
 受付の女性は急に慌てふためいて電話の受話器を上げる。
「あの、すみません。礼子さんという方が見えられてますが。はい、はい、分かりました」
 受話器を置いて受付の女性がどうぞと二人を誘導する。

 倉橋まみは岩場から起き上がってマライア・キャリーの肩を叩く。マライア・キャリーは目を開いたが、まみのことが誰か分からないような顔をした。
「どうもすみません。起こしていただいて。寝過ごすところでした」
「何に寝過ごすの?」
「いえいえ、人間というのは寝過ぎると脳が腐るらしいですから」
「お姉さん、わたしよ、まみよ。どうしてそんなしゃべり方をするの?」
「はあ、そうでございますか。わたしにはとんと何のことか分かりかねます」
「あら、お姉さん、記憶喪失ね。ちょっと早く起こし過ぎたかしら」
「いえ、わたしはこれから会社に出かけないといけません」
「お姉さんは『バグダッド・カフェ』の歌手じゃないの」
「はあ、わたしはそういう名前の会社に勤めているんですか」
「いやだわあ。めんどくさい」

 商工会議所の会頭は礼子の顔を見て仰天してしまった。昨日行った銀座のホステスによく似ていたのだ。まさか昨日の夜に銀座で会った女性が今日大阪まで来るとは思えない。酒を飲んでいたせいもあって記憶も曖昧だ。

「会頭さん、こんにちは」
 商工会議所の会頭はなるべく胸を踏ん反り返らせて「ふむ」と返事をする。社会的地位のある者がこのくらいでうろたえてはならない。
「わたし、会頭さんの子供を身ごもりました」
「ふん?」
 そんな馬鹿な。もし彼女が銀座のホステスだとしても、昨日したばかりじゃないか。昨日して今日妊娠することはない。
「わたしは会頭さんを脅かすつもりはありません。わたしは実は架空の存在なのです」
「架空?」
「田中さん、あのチラシを出して」
 会社員田中は形状記憶チラシを取り出す。
「わたしはこのチラシから出て来た者で、実在の者ではありません。どうですか、分かりますか?」
「I don't know.」と商工会議所の会頭は思わず英語で答えた。

 イラクでの戦争は長期化の様相を帯びて来た。だが森岡先生は自分のことで精一杯でそういうグローバルなことに注意を払っている余裕はない。
 この頃何かと変化に富んだ日々を過ごしている。この変化は現実なのか妄想なのか、森岡先生はいちいち区別がつかない。
 今でも森岡先生はすっかり凍ってしまって身動きが出来ない。凍ってしまっているのに生きているということ自体現実ではないのではないかと考える。
 目の前に元総理大臣の温泉の主人が現われる。車椅子に乗って顔にベールをかけている。元総理大臣だから誰でも顔を知っている。それなのに顔にベールをかけるというのはこの元総理大臣はベールに包まれるのが好きなのだ。
 目立つより黒幕でガッポガッポ稼ぐのは気持ちのいいものだ。

「死んだらあかんよ」と大阪商人がスペードのエースを説得している。「死んで花見が出来るものか、っちゅう言葉もあるやないか」
「花実が咲くものか、じゃないですか?」
「そうとも言う。それよりもわしの会社に入ってカード整理の仕事せえへんか? あんたはカード整理が合うような気がする」
「ぼくがカードだからですか?」
「そういうわけやない。わしはそんな偏見は持たん男や」
「偏見でもないです。ぼくがカードであることは事実なのですから、事実を述べられたところでぼくは全然怒りません」
「えらい難しい言い方すんねんなあ。大阪で一番うまいうどん屋はどこやとか、そういうこと考えるのが健康にええで」
「ぼくはうどんはあまり好きではありません」
「そんな言い方したら身も蓋もないな。その性格、直さなあかんで」

 『バグダッド・カフェ』から電話がかかってきた。
「もしもし、長く休み過ぎだぞ」
「もしもし、どちらさんでしょうか?」
「マライア・キャリーじゃないのか?」
「マライア・キャリーです」
「マライア・キャリーのくせに何をとぼけてるんだ。おれはオーナーのモハメッド・アリだ」
「強そうな名前ですのね」
「そうさ、おれは強い。強いからいつかはマライア・キャリーをものにしようとてぐすね引いてるんだ。どうだ、今日ホテルに行かんか?」
「今日は妹の倉橋まみに外出するなと言われておりますので」
「どこか体の具合でも悪いのか?」
「何か世界が変わりました。あの人がわたしを全く別人にしてしまいました」
「誰のことだ?」
「全能の神様です」
「馬鹿なこと言うな」
「馬鹿はあなたですわ。わたしあなたのこと知らないのに知っている人のようにしゃべるんですもの」
「おれは知ってるさ。きみはマライア・キャリーだろう?」
「はい、でも今までのマライア・キャリーとは全く違います」
「病院に行った方がいいぞ」
「世界は偏見に満ちています」
「……」

 バターン、キュンキュン、ボコボコ、メーメー
 世界は突然異変をとなえた。ところが人の世は世界と全く関わりなくいつもの仕事が継続する。
 永遠に継続するという予定が立てられてある。
 人の命が永遠ではないのに、仕事が永遠であるはずがない。
 永遠は人の世には存在しない。
 こんなことを考えて生きている人間は狂うしかない。だが狂った人間こそ本当は正常ではないのか。
 極論の布石。

──晴れた日には自転車をこいで
  お花畑に行こう、行こう
  絵を描くのもいいよ
  写真を撮るのもいいよ
  ぼーっと木を眺めてるのもいいよ
  つらいことなんか
  きれいさっぱり忘れて
  出来る限りの幸せを
  肉体の喜びに溢れ
  精神の苦しみを忘れる
  中学二年生のように走り回り
  四十歳であることを忘れることは
  おこがましくはない、決して

「氷になることは気持ちいいか?」と元総理大臣が鷹揚にたずねる。
「そんなに気持ちいいことありません」
「だが涼しくていいだろう」
「今はまだ夏ではありませんから、ぼくは涼しさを求めていません」
「なかなか減らず口をきくじゃないか。高々塾の先生くらいで」
「すみません。生意気な口をきいて」
「まあ、いいさ。わしはそれくらい生意気な方が好きだ。それくらいでないと人間ものにはならんからなあ」
「ぼくはどうしてもものにならない人間です。今もこうして凍ってますし」
「凍っているのは一時的なことだ。自然解凍でまた元に戻る」
「元に戻ってぼくは何をすればいいのでしょうか?」
「暗殺計画を実行してほしい」
「ぼくには殺人は出来ません」
「なに、お前は誰も殺さなくていい。お前の仕事は女をたぶらかすことだ」
「はあ」
「できるな? できないとは言わせない。できないと言うのならもう一回凍らせてかき氷にしてしまうぞ」

 商工会議所の会頭はさっきから盛んに英語でしゃべっている。筆者は英語のヒアリングが出来ないのでここにそれを書き写すことは出来ない。
 礼子と会社員田中はその間お酒を飲んで待っている。
「I'm busy.」と商工会議所の会頭は二人の間に割って入って訴える。
「わたしはひまだわ」と礼子が冷淡に言う。会社員田中は何とも言わない。しがないサラリーマンにとって商工会議所の会頭というのは雲の上の存在だ。
「何がほしいんだ?」とついに商工会議所の会頭は痺れを切らして日本語で言う。
「会社員田中を社長田中にしてほしいの」
「お前は美人局か?」と商工会議所の会頭は会社員田中に不安そうにたずねる。会社員田中は美人局の意味が分からなかったので、そうですともそうでないとも答えられない。
「女は怖いなあ」商工会議所の会頭は小切手に金額を書きながら呟く。
「女性は金持ちの男を本当は憎んでるの」と煙草をくわえながら礼子は吐き捨てるように言う。

 レールボードは昨日から熱が出てうんうん唸っている。雨の日に走るのがよくなかったのだろう。
 倉橋まみが玄関のチャイムをピーンポーンと鳴らす。元気なお母さんが出る。
「あら、まみちゃんじゃないの。この頃一段ときれいになって。うちの息子は今寝てます」
「お見舞いに来たんです」
「まみちゃんに見舞ってもらったら息子も嬉しいでしょう。あんな無愛想な顔をして、本当はまみちゃんのことが好きなんですもの」
「まあ、おばさん、恥ずかしいわ」
 倉橋まみはレールボードの部屋に入り、レールボードに一枚のカードを渡す。

  重要人物の暗殺作戦あり
  功績ある場合は詩人として世に出ることを後押しする

「読んだ?」
「読んだ」
「人生は勝負よ」
「ぼくは負けるさ。詩人だから」
「勝たないと詩人になれないわよ」
「ぼくは負けて詩人になる」
「あなたって相変わらず頑固ね」

 寺山修司は女教師に真人間になると約束をした。女教師は真人間になんかならなくてもいいと押し返した。寺山修司には女教師の真意が分からない。女教師は寺山修司のことを理解しているつもりでいるが、人にあまり理解され過ぎというのはつらい時がある。時には噛み合わない喧嘩をしてみたいものだ。
 寺山修司は女教師の家を飛び出した。女教師は追いかけない。わたしは待つ、いつまでも待つと決めている。純粋さは裏切られることが多い。女教師は裏切られてもいいと思っている。未来永劫待つと決めている。
 もてる男はつらいなあ、なんてことは寺山修司は考えていない。つくづく自分は悪い男だと自らを責めてばかりだ。

「この女をたぶらかしてほしいんだ」と元総理大臣は森岡先生に一枚の写真を渡す。松島菜々子似の女性の写真だ。森岡先生は竹内結子が一番好きだが、松島菜々子でも十分に大好きだ。十分に大好きだなんて言うと罰が当たる。こうして写真でご尊顔を拝し奉っているだけで有り難いと思わねばならない。
「ぼくにそんな力はないですよ」
「女に力はいらん。きみならそれくらいのことは分かるだろう」
「ぼくはいつもそんなことを考えてやってませんよ」
「何をやってるんだ?」
「何もやってません」
「そんなことないだろう、きみの噂は世界中の津々浦々まで響き渡っているよ」
「それは知ってます」
「知ってるんかいなあ、きみには負けるわ」
 元総理大臣は豪放磊落に笑う。石が三つ落ちて来た。

 商工会議所の会頭から二千万円貰った会社員田中と礼子はさっそく会社を起こした。会社員田中はついに社長田中になった。
 会社の名前は『株式会社 会社』。
 二人は毎日オフィスに出て来ていいことをしていた。いいことをしながらビジネスの案を考えていた。それでとにかく面接をしようということになった。
 面接当日。不況だから次から次に女性が現われた。社長田中は美しい女性たちを見ているうちに目がクラクラしてきた。
 専務礼子が代わりに面接をする。
 一日が終わり、礼子は社長田中と同衾しながらこう言う。「いっそのこと今日来た女の子を全員雇いましょう。それで毎日パーティーを開いてどんな仕事をするか決めましょう」
 社長田中には無論いい知恵はないから、「そうしよう、そうしよう」と言いながら礼子のオッパイをしゃぶり始める。

 松島菜々子似が屋敷から出て来た。森岡先生は尾行する。日傘をさした優雅な姿で松島菜々子似は歩く。右に三回曲がって左に二回曲がる。あんまり曲がってばかりなので森岡先生は目が回ってしまった。
 疲れたと思って佇んでいると電柱の陰から松島菜々子似が現われて森岡先生は肝を潰す。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」上品で優しい声だった。
「いえ、なに、あまりに太陽が眩し過ぎたので」
「日傘の下に入りなさい」
「はい、分かりました」
 二人は日傘の下でバス停のベンチに座っている。
 森岡先生の胸はキュンとなった。

──ロッテが強くて
  巨人が弱い
  有為転変
  盛者必衰のことわり
  トンネルを抜けるとそこは雪国で
  全ての道はローマに続く
  落ち込んでなんかいられない
  とにかく亀のように
  コツコツ歩くんだ
  うさぎさん、うさぎさん、そこで何してるの?
  儲けなくてもいい
  偉くならなくてもいい
  ゆっくりゆっくり歩くんだ

 スペードのエースは大阪商人の下でカード整理の仕事を始めた。ある日ジョーカーから電話がかかってきた。
「お前、なんでそんな普通の仕事してんのん?」
「ぼくは真面目になりたいんです」
「お前は前から真面目やん。そやからいつも色々仕事与えてんのに」
「ぼくは普通のサラリーマンになりたいんです」
「トランプが普通のサラリーマンになった話はきいたことないで」
「ぼくがその先駆けになります」
「それやったらそれでもいいけど、時々は事務所に遊びに来てな。おれ寂しいやん」
「はい、分かりました」
 寂しいやん、なんか言われたら悲しくなるなあ。だから友達はいいんだ。寂しさを埋め合う関係。温かさの中で人間は優しくなる。

 社長田中は専務礼子や女性社員たちと毎日パーティーをしていたが、そのうちに商工会議所会頭から貰った二千万円は尽きてしまった。
「あなたって商才ないのね」と礼子にきついことを言われ、社長田中は落ち込む。もう一度会社員田中に戻って地道に働こうと考える。
 女性社員の中の一人にまいこという名前の不思議な感じの人がいた。彼女はいつもボーッとしていた。いつもボーッとしているのに、パーティーの時に一番立ち働いていたのはまいこだった。動いているのに動いていないように見える子だった。ある意味損な性分だ。一生懸命人のために働いても認められない。
 社長田中はまいこの魅力にいち早く気づいていた。でも社長田中はシャイな男だったからまいこに声をかけられなかった。社長の権限を利用して女子社員を手に入れてしまう神経が社長田中には理解できなかった。
 だからこそ商売が下手なのだ。

 松島菜々子似は森岡先生を喫茶店に誘った。森岡先生が誘惑する立場なのに逆に誘惑されてしまった。形無しだ。
 ところが松島菜々子似は森岡先生を誘惑したのではない。松島菜々子似には松島菜々子似なりに思惑があった。
「わたしは同門激三郎の愛人です。それを知っててわたしのあとをつけてらしたんでしょう?」
「そういうわけではありません」
「あなたって嘘をつくのが下手なのね。顔を見ればすぐに分かります。あなたみたいな正直な人には同門激三郎は殺せませんよ」
「ぼくは殺す役ではなくて……」
「ほら、やっぱり殺す計画があるんでしょう? ちょっと鎌をかけただけで引っ掛かるんだもの。可愛いわね」
 こんな奇麗な人に可愛いと言われるのはちょっぴり嬉しいもんだ。森岡先生は実に他愛ない。

 レールボードは晴海埠頭で拳銃を渡された。試しに小学校で飼っているうさぎを撃ってみようかと考えたが、動物愛護協会に抗議されては大変だと思い直してやめた。
 倉橋まみからメールが来た。

  同門激三郎を殺さなかったらあなたが殺されるわよ

 レールボードは死にたい死にたいといつも思っていたが、殺されるのはあまり好ましいとは思っていない。殺されるのは痛いが自分で死ぬのは痛くないと思っている呑気坊やなのだ。
 痛いか痛くないかは死ぬ条件の中で最も大事だ。同じ死ぬのでも痛くなければ大往生だろう。人生において最も苦しいのは痛みだ。心の痛みも含めて。
 話が真面目になって面白くないかな?

──生死事大無常迅速
  忘れるな、忘れるな
  忘れた、忘れた
  人間は忘れた
  人生が無常なことを
  高校生の古典の授業の時に
  人生は無常だなんて先生が教えるけど
  教えてる先生も無常だなんて思ってない
  レッツ、エンジョイ、ライフ!
  あの世のための準備はいつするのか?
  そんなこと考えてたら
  楽しむ階段踏み外す
  レッツ、エンジョイ、ライフ!
  生死事大無常迅速

 まいこが泣いていた。社長田中は遠くから見ている。まいこは社長田中に気づいて会釈する。社長田中はビクリとしてその場に凍りついてしまう。
 まいこは社長田中を見ていないが、目ではなく意識で社長田中を見ていた。社長田中が意を決してそばに寄って行ってもまいこには拒絶の様子はまるでない。
「あの……今日はいい天気ですね……」
「はい、いい天気です」
「お昼ごはんは終わりましたか?」
「はい、終わりました」
「そうですか」
 社長田中の言葉はここで途切れる。まいこは黙っている社長田中を上目使いで見て、「社長さんはメールをしますか?」
「メール、ですか?」と社長田中の声は突拍子もなく高くなる。
「はい、メールです」
 まいこは手帳の紙を一枚破ってメールアドレスを書いて社長田中に渡す。社長田中が「ありがとう」と言おうとするとまいこはもう小走りにその場を離れていた。

「あなた先生なの?」と松島菜々子似は森岡先生の目を覗き込む。
「まあ、そうですが」
「先生が殺し屋の手伝いをするの?」
「同門激三郎というのはどういう人ですか?」
「いい人よ」
「いい人なんですか」
「そうよ、だから殺さなくてもいいわ」
「そうですか」
「納得した?」
「納得はしましたが、同門激三郎を殺そうとしているのは別の人ですから、ぼくにはどうにもなりません」
「あなたは何の仕事を命じられてるの?」
「あなたを誘惑する仕事です」
「いい仕事なのね」
「ぼくには自信がありません」
「あなたはもう立派にわたしを誘惑してるわ。誘惑されてなかったらわたしこんなにしゃべるわけないですもの」
「ぼくは何もしてません」
「いやだわ、こんなにして何もしてないなんて言うの? 罪な人ね」

 待っていた寺山修司が部屋に現われた。女教師は飛びつきたい気持ちをグッとこらえて冷静な目で寺山修司を見る。
「いつまでもこんなことをしていてはいけないと思ったんだ。だからきみとはもう別れようと思って」
 女教師は敢えて何も言わずにじっと寺山修司を見る。
「別れてくれるか?」
「別れたらあなたは幸せになるの?」
「幸せにはならないが、きみをこれ以上不幸にするよりはいい」
「わたしのこと不幸だと思う?」
「迷惑だろ?」
「わたしは迷惑も含めてあなたを愛してるの」
「そんな文学的な言い方をしても駄目だ」
「ふざけないでね」
「どうして、ね、とつけるんだ? ふざけるな、と怒ってくれよ」
「わたしは怒らないし、縋らない、ただあなたの思うようにすればいい。あなたがどうしようとわたしは待ってる」
「それが重いんだ」
「それじゃあ、待たない」と言って女教師は胸をグッと押さえる。寺山修司も思わず胸に拳を当てる。ドキドキドキドキと心臓が脈打っている。

 レールボードはまた熱を出していた。拳銃を持ったことで興奮したのもあるのだろう。何しろ彼はまだ十七だ。煙草も酒ものめる年ではない。それなのに拳銃を持つとは早過ぎる。彼には重過ぎる。
 倉橋まみから電話がかかってきた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないよ。熱が出てるんだもの」
「よく熱が出るのね」
「ぼくは体があまり丈夫でないんで」
「それじゃあ、どうして雨の日に走るの?」
「精神をいじめて平静に保つためさ」
「そんなことをして平静になるの?」
「ならないさ」
「なによ、それ」
「事実さ」
「からかってるの?」
「事実さ」

 マライア・キャリーは以前の記憶を失ってしまったが気分は爽快だった。何か悪い憑き物が落ちて体の芯が軽くなったようだ。
 マライア・キャリーは大丸百貨店に入ってモネ展を見ている。以前は絵なんか全然見なかった。ひたすら歌を歌い、ひたすら踊っていた。今は歌を忘れたマライアになってしまったが、焦りがなくなって気持ちが楽だ。
 何かに打ち込むのは素晴らしいことだが職業にしようとすると何でも苛酷なものだ。歌を忘れたマライアは自然体で暮らしている。たとえ素人芸で終わってもいいから、何か面白いと思えることに出会いたいと考えている。

 ドヒドヒ、ピュンピュン!
 ガタガタ、ドシンドシン!
 同門激三郎の指示で今日も一人の大物政治家が殺された。同門激三郎は恐れられている。松島菜々子似は同門激三郎の体の下で呻いている。六十歳の同門激三郎は相変わらずタフだ。
 森岡先生は同門激三郎の家の応接室で小さくなっている。同門激三郎の手下AとBが森岡先生を挟んで座っている。
A「殺されたくないだろう?」
B「そりゃ、殺されたくないだろう」
A「それならどうすればいいか分かるだろう?」
B「そりゃ、どうすればいいか分かるだろう」
A「馬鹿じゃないしな」
B「馬鹿じゃなければな」
A「こいつ、馬鹿か?」
B「おれは知らん」

──リーレ、リーロ、リール、リーラ
  音は楽しい
  夢は美しい
  生きる意味、ここにあり
  どこにあり?
  胸の中にしっかりある
  腕の中にも、目の中にも
  精神と肉体の全てを賭けて
  美しい人生を
  求めて求めて
  求め過ぎることはない
  過ぎたるは全てを充足する
  神の世界の真理
  人の世界の真理なぞ
  どれほどの意味があろうや?
  だがけしてけして
  人の世を否定してはならぬ

 社長田中とまいこはメールのやり取りをする。
「わたし、そんなに力のある女ではないんです。社長はわたしを買いかぶっておいでになります」
「人は人を買いかぶるべきだとぼくは考えるが」
「どうしてですの?」
「人の世をよくするためにそう思うことは必要だ。みんながみんなを買いかぶるようになれば、いい世の中になると思わないか?」
「世の中、そう単純には行かないものです」
「よく分かってるじゃないか。だからきみはすごいと言うんだ」
「すごいだけですか?」
「すごいだけじゃない」
「すごいだけじゃなくて、何なんですか?」
「ぼくは一人の平凡な女性としてきみを求めている」
「わたしのききたかった言葉はそれです」

 倉橋まみは森岡先生に電話をする。
「今どこにいるの?」
「同門激三郎の家の応接間にいる」
「そこで何をしてるの?」
「手下AとBに挟まれて座ってるんだ」
「それは大変ね」
「困らないのか? 同門激三郎の暗殺計画がばれてしまったんだぞ」
「計画のやり方を変えるだけよ」
「この電話はちゃんときかれてるぜ」
「それじゃあテレホンセックスをしましょうか? そこのみなさんも退屈してたらいけないから」
「そんな気分じゃないな」
「松島菜々子似とは寝たんでしょう?」
「まあね」
「さすがわたしの大好きな森岡先生」
「おだてるなよ」
「おだててないよ。焼き餅を焼いてるの」
「まみ」
「先生」

 同門激三郎は心根は優しい人間だ。ただ色々と人助けをして行くと、どうしても敵が出来てしまう。同門激三郎自身が何かをしろと指令しなくても、手下たちが親分の意向を勝手に汲んで恐ろしいことをしてしまう。
 責任は全部自分にあるとは思っているが、時には怖くなることがある。あちらこちらから命を狙われているのは自明の事実だ。殺されても仕方はないと腹をくくってはいるが、出来れば何とか逃れたいと願っている。
 松島菜々子似は若い女性だが六十歳の大物黒幕の苦悩をよく察している。彼女自身が大物になる可能性を持っているのだ。
「あなたが殺されそうになったら、わたしが盾になっていい」とまで言う。愛している愛されているという関係だけではない、松島菜々子似は同門激三郎を力づけたりもするのだ。
「わたしはあなたと出会えたことだけで勝ったと思っています。だからそれ以外で負けても何も痛くないんです」
 同門激三郎は松島菜々子似の体のかたわらで子供のように眠る。

 世の中争いはつきものだ。考えられないようなおかしな人間が多すぎる。まともに受け取って生きていたら損をすると思うほどだ。
 正直者は馬鹿を見るとはそういうことだろう。
 ところが一方で人間は正直者であることに越したことはない。何も生き馬の目を抜くような争いに勝つだけが人生の目標ではない。人間は高貴でなくてはならない。あくまでも高貴でなくてはならない。
 勝って勝って勝った人間は死ぬ時に勝った功績を何一つ持って死ねないことに気づき愕然とする。高貴であるということは本質的に自分は何も所有していない、一人で生まれ一人で死ぬのだということを心の底から受け入れることにつながる。
 大馬鹿であることは決して悪いことではない。

 マライア・キャリーはすっかり天使のようになってしまった。天使のようになるということは傷つくということだ。マライア・キャリーは世の中の多くのおかしいことを目撃していつも首をひねっていた。
 大声で言うた者勝ちという風潮がある。これは何も今に始まったことではなく、太古の昔からそうなのだろう。
 ところが世の中厚かましいのがまかり通るのだ。厚かましくしないと人は人のことに気づかない。何しろ人はみんな忙しい。控えめにしている人の気持ちを汲んでいる余裕はない。
 マライア・キャリーはその辺の事情も分かっていた。ただの馬鹿ではない。分かってはいるが実はあまり認めたくない。世の中がきれいになればと願っている。
 控えめが美徳にならないようでは世界は狂っている。

「あなたに元総理大臣を殺してほしいのです」と松島菜々子似がにこやかな顔をして森岡先生に話しかける。森岡先生は縄で逆さ吊りにされている。
 森岡先生はプロのスパイではないから拷問には慣れていない。だから何でも言うことをききますと言っているのだが、松島菜々子似のこの頼みはきけない。たとえ元総理大臣を殺したとしても、あとで自分がこっぴどく殺されるだけだ。
「頭に血が上り過ぎたら死ぬわよ」と松島菜々子似は色っぽく森岡先生の体を触る。逆さ吊りになっているから気持ちいいどころではない。
 ちょっと調子に乗ってあちこちの女性とやり過ぎたと反省している。今回の事件が終わったら比叡山に出家でもしようかと考えている。
 だんだんと意識がなくなってくる。きっと自分は比叡山に行く前に死んでしまうだろう。たとえ生きていたとしても比叡山には行かないだろう。森岡先生は面倒臭がり屋なのだ。

 ニーナは倉橋まみの家を訪ねた。
「森岡先生はいないですよ」と倉橋まみは冷たく言い放つ。
「どこに行ってるの?」とニーナはどうもまみに気圧されている気分で小さくきく。
「お仕事じゃないかしら」
「塾には出勤していないようよ」
「森岡先生の本職は塾の先生ではないわ」
「そうなの?」
「そうよ。森岡先生は宇宙意識の職員よ。正式に採用されたの」
「そんな話はきいたことがないわ」
「秘密なのよ、これは」
「じゃあどうして今わたしに言うの?」
「あなたがきいたから」
「秘密なら言ってはいけないでしょう?」
「そうだわ。でもこうしてたまに漏らしてみると秘密も楽しいわ」
「いいかげんな人ね」
「賢い人と呼んで」

 社長田中は正式に無職田中になってしまった。それと同時にまいこのアパートに転がり込む。
 まいこは中華料理屋で働き始めた。無職田中はハローワークに職探しに出掛ける。
 二人の夜は幸せだった。会社員田中であった時にはこんな幸せを味わったことはない。ただ単に会社員であっただけで、彼は徹頭徹尾孤独だった。
 どこに行っても通用する人間というのが本当の達人だとどこかで話にきいた。達人は浮浪者の人々の群に入っても馴染んでしまうらしい。
 人間の究極の目標はそうした達人になることだ。これが出来れば狼たちの中にいても食い殺されないと『子連れ狼』に書いてあった。
 無職田中は達人ではないから、行くべきところを選ばなくてはならない。達人の真似は達人になってからすればいい。達人でない今は達人の真似はしない。
 何でも出来ると思うべからず。

 レールボードは久しぶりに詩を書いた。拳銃を持つようになってきな臭い気分になっていたので、少し文化の香りで薄めようと思ったのだ。
 文化は決してなよなよとしたものではない。文化は戦いなのだ。社会との真剣勝負が文化なのだ。
 暴力で人を押さえることはたやすい。たいした考えがなくても体を鍛えることは出来る。ただただ毎日同じ鍛練をしていればいい。
 文化の鍛練はそう闇雲に出来るものではない。考えのない鍛練はただ精神を摩耗させるだけだ。
 拳銃を持った自分は文化から離れたのではないかと不安だった。同門激三郎の暗殺を成し遂げれば詩人にしてあげると約束されたが、殺人をしたあとに詩人になった人というのは話にもきいたことがない。
 矛盾を嫌うな、と天の声がきこえる。

──大きな声で空は青いと言おう
  大きな声で夜は暗いと言おう
  とにかく大きな声で
  大きな声で
  おなかの皮がビリビリと震えて
  肝があたたかくなる
  足は胸まで上がり
  宙に飛んで飛んで
  太陽をこの手に握り
  あちい、あちいとやけどして
  天の川で手を冷やす
  眠さなんか吹き飛ばして
  ピッピッピッピッ
  口笛を吹いて
  下手でも何でもいいや
  とにかく楽しければ

 マライア・キャリーが同門激三郎の家のチャイムを鳴らした。パーティーを開くので歌手として来てくれとのことだった。
 マライア・キャリーは歌手としての自分の記憶を失ってしまった。だから最初は断ったのだけれど、森岡先生がいるというのをきいて来ることにしたのだ。
 森岡先生のことはしっかり覚えている。自分をこのような清々しい気持ちにさせてくれた恩人だ。その恩人が今日処刑されると三時のニュースできいた。何とか助けなければと考えた。
 部屋に通されるとコーヒーが出た。
「わたしはコーヒーが苦手ですの」とマライア・キャリーは同門激三郎の手下に平然と言う。「トマトジュースが飲みたいわ」
 同門激三郎の手下は近くのセブンイレブンまでトマトジュースを買いに行く。マライア・キャリーには拒絶出来ない何かがある。歴戦のつわものでも頭を下げる何かがある。

 森岡先生は気絶して眠って夢を見ていた。
 繁華街。道行く者は全て若い女性で、その女性たちは全て全裸だった。
 ああ、駄目だ、駄目だ、こんなピンチの時にこんな変な夢を見ては行けない、ぼくはなんて不謹慎なんだ、と自分で自分を叱咤したけれど、全裸の女性の数はどんどんと増し続け、森岡先生は窮屈で歩きにくくなる。
「この人、誰?」と隣にいる全裸の女性が森岡先生の方を不審げに見る。
「いえいえ、ぼくは決して怪しい者ではありません」と言い訳をする森岡先生の声はこもりがちになり、それにどうしてぼくが言い訳をしなければならないんだ、と自分で自分に突っ込み、早くこの面白いような苦しいような夢をやめたいと考えている。
 じわじわと体があったかくなり、ああ気持ちいいと思ったら、あっ痛いと叫んで目が覚めた。
 森岡先生はテーブルの上でグルグル巻に縛られていた。

 寺山修司はベッドに寝転がって考え事をしていた。
 世の中は非常に正常に進んでいるのに、ぼくだけが異常だ。こんなに異常では女教師の好意に報いることは出来ないだろう。
 それにしても女教師はどうしてぼくにこだわるのだろう? いやいやそんなことを言ってはいけない。女教師はぼくを本当に愛しているんだ。ぼくも彼女の愛にこたえないといけない。
 ないといけないなんて考えるのがいけないんだ。
 いけないいけないと考えてはいけない。
 いけないは否定の言葉で、頭の中に否定の言葉を反響させることは心の安定によくないだろう。
 よくないもいけないか?
 いやいやいけないいけないなどと──ちょっとしつこいかな。

 まいこが横断歩道を渡ろうとすると、背後から「ねえ、きみ、きみ」と声をかけられた。「モデルにならないか?」
 背広を着たいかにも怪しい感じの男だったので無視をして歩き続けると、男はまいこの歩くあとをついて来るようだった。
 まいこはおとなしい地味な子なのだが時々こういう目にあう。ある種の男を不思議に引き付ける。
 中華料理屋に入ると店主が嘗めるような目でまいこを見る。店で働き始めると客たちがまいこを見る。
 ガラガラガラと戸を開ける音がしてさっきの勧誘の男が現われる。まいこは「何にいたしましょう」とコップに水を入れて持って行く。
「やきそば大を下さい」
「はい、わかりました」
「それからこれも」と男はまいこに一枚の名刺を差し出す。「よかったらここに来て下さい。絶対後悔はさせません」
 男はそれ以上しつこく言うことなくやきそば大を食べると金を払って出て行った。

 森岡先生はニーナとマライア・キャリーの手を借りて同門激三郎の家から脱出した。
 追われても捕まらないように三人は宇宙の果てまで来た。
「わあ、わたし、宇宙の果てなんかに来れるなんて感激だわ」とマライア・キャリーが暗い虚空を見て言う。
「あなたの歌が同門激三郎たちを眠らせてくれたおかげでこうして森岡先生を助けることが出来たんですもの。そのお礼です。でもしばらくしたらとっとと出て行ってね」とニーナの目がキラリと光る。
「あら、そうなの? でもわたし帰り方知らないわ」
「出口まで送って行ってあげる」
「出口からが遠いでしょう? 何しろここは宇宙の果てなんですから」
「いえいえ、そこからすぐに梅田のロフト前に出るわ」
「梅田のロフトから家に帰るまでの道が分からないわ」
「少しくらい自立しないとね」
「あら、わたし、自立してるわよ」
「そうかしら。だったらいいわ」
 女二人が火花を散らすのを森岡先生は怯えながら見ている。

 マライア・キャリーの歌のために眠った同門激三郎の前にレールボードは立っている。右手には拳銃が握られている。
 眠っている人物を殺すのは卑怯で忍びない。でも起きていたら恐ろしくて殺すことは出来ないだろう。
 同門激三郎のかたわらに松島菜々子似が横たわっている。レールボードは彼女の顔を見て恋に落ちた。
 同門激三郎の胸に向かって発砲し、松島菜々子似をかついで屋敷を出る。
 ついに人を殺してしまった。後悔と同時に爽快な気分もあった。転落にせよ何にせよ、人生のサイコロが振られたことはワクワクする。これからぼくの本当の人生が始まる。死にたいほどの退屈な日々から逃れることが出来る。
 だからといって読者諸氏は決して殺人などはしないように。

 無職田中は今日もハローワークに行く。入り口で背広を着た男につかまって「営業の仕事をしませんか?」と勧められるが、「営業は向きません」と言って断る。だからといって自分が何に向いているのか知らない。
 今まで仕事が面白いと思ったことはない。世の中自分に合わない仕事で充満している。誰でもそう思っているのだろう。学校を出て取り敢えず就職した会社で毎日仕事をしているうちに、次第に仕事に合わせて行く。世の中の人の大部分はそうした人生を歩むのだろう。だから一度レールから転がり落ちると悲惨な人生になる場合が多い。
 ハローワークの壁は白かった。寒々とした白だ。職員たちは無表情に対応する。無職田中の笑顔はこわばる。どうしてこんな思いをするためにわざわざ毎日出掛けて来なくてはならないのか。
 この世に未来はあるのか。

 同門激三郎殺害のニュースは政財界の裏の世界を震撼させた。元総理大臣は寝椅子に踏ん反り返りながら笑う。
 一方松島菜々子似はレールボードの部屋に運び込まれる。マライア・キャリーの歌の力は絶大なものだ。これだけの遠距離を持ち運ばれて来たのに目が覚めない。
 レールボードは松島菜々子似を全裸にする。豊かな肉体がレールボードの目を圧倒する。
 レールボードは松島菜々子似の体を見ながら陶酔の境地に入る。精液が松島菜々子似の腹の上に飛び散る。
 松島菜々子似の目が覚める。
「あら、元気なのね。ところでここにはシャワーはあるかしら?」

 ニーナとマライア・キャリーとの喧嘩は相変わらず続いていて、森岡先生はアダルト・ビデオを見ながらオナニーをしている。
 テレビ画面の中の朝河蘭が突然森岡先生の方をじっと見て、「一人でしないで。わたしがいるじゃないの」と話しかける。
 森岡先生は朝河蘭を手招きする。朝河蘭は狭いテレビ画面の枠を抜けて部屋に出る。
 森岡先生は懲りない人だ。女のためにあんなに痛い思いをしたのに、また新しい女に手をつけた。
 正上位でつながった二人が汗を流してもうすぐ行くという場面になって、ニーナとマライア・キャリーが部屋に入って来る。
「あら、まあ」と女二人は同時に叫ぶ。
「いや、これはテレビなんだ。妄想だ。何かの間違いだ」と言いながら森岡先生は精を放つ。

──優しくなれと
  子供の時によく言われ
  子供は大人になり
  優しいままで大人になり
  傷つけられて
  優しいのがだめだと思い
  優しくしないと心に決めると
  とてつもなくわがままになる
  理屈じゃないんだ、心は
  優しさの意味は
  本当に優しい人間でないと
  分からない

 寺山修司と女教師の間には進展はない。寺山修司は相変わらず自分を責め、女教師は相変わらず寺山修司を待っている。
 純粋ゆえの齟齬がある。純粋さにも知恵という武器で武装する必要がある。純粋さを馬鹿にする鈍活漢どもに純粋さの素晴らしさを教えるつとめがある。それには武装しないといけない。勉強しないといけない。純粋さを保って生きる方がはるかに高邁で難儀な道なのだ。

 森岡先生は宇宙の果てから脱出した。女は怖いとしみじみ身に染みた。
 梅田ロフト前から駅に向かって歩くとビニール袋が風に舞って森岡先生の顔に貼りつく。実に運が悪い。森岡先生は罵りながらビニール袋をわきに放り投げる。
 これからは孤独に生きて行こうと考える。ちょっと塾に電話してみようか? 真面目に働いていればトラブルは少ない。変化が少なくて退屈だが、変化なんかいらない。ボーッとしていても変化はやってくる。

「あなたは詩人なの?」
「詩を書いていれば詩人ならば、ぼくは一個の詩人です」
「わたしは現実も好きだけど、詩も好きなのよ」
「ああ、そうですか」
「信じていないでしょう」
「いえ、ぼくは人のことなんかどうでもいいんです」
「随分冷たいのね。そんなに冷たいのにどうしてわたしをここに連れて来たの?」
「あなたが好きになったからです」
「好きになっても冷たいこと言ってたら、女の子はついて来ないわよ」
「ついて来ないでもいいです」
「そんなに開き直っちゃいけないわ。自分をよく正すのは人間としてのつとめです」
「ぼくは殺人を犯したから、人間としては最低の部類に属します」
「あなたはただ利用されただけ。悪いのは利用した人です」
「ぼくは箸にも棒にもかからないというわけか」
「箸にも棒にもかからなくても、刑務所に行くのはあなたですけど」
 レールボードはカラカラと笑う。

 無職田中がいつまでも無職なので、まいこはついに名刺の電話番号に連絡をした。
「どうぞ、どうぞ」と事務所に通される。
 まいこは覚悟をしていた。変なことをされても仕方がないと思っていた。
「うちの事務所は何をする所だと思いますか?」
「さあ、分かりません」分かるわけがない。予想はつくが、そんな予想は怖くて言えない。
 ピーピーピーピー
 どこかから音がする。
「あっ、首領だ」と事務所の男は飛び上がるようにして立ち、直立不動になる。まいこは突然の男の変化に驚く。それまでは淫猥な雰囲気の男だと見えていたのが、急に剽軽に見えたのだ。
 天井付近の壁にある観音開きの扉が静かにこちらに向けて開く。まいこはそこにあるものを見て息がつまり、次の瞬間意識が遠のいた。

「あなたは森岡先生を知ってて?」と松島菜々子似がたずねる。
「噂にはきいたことがある」
「有名な人ですものね」
「そんな有名な人なのか?」
「今宇宙で一番有名な人です」
「へ~」
「森岡先生を知らないで詩人になれるなんて思ったら間違いよ。森岡先生は存在そのものが詩人です」
「そんな凄い人なんですか」
「あなたは今新聞に連載されている『妄想先生』を読んだことはないの?」
「ありません」
「それはないでしょうね。『妄想先生』は今現に書かれつつあるもので、まだ発表の段階には至っていないですもの。あなたもそこに登場してるのですよ」
「それは知らなかった」

 森岡先生は久しぶりに塾に出勤した。塾長が「ちょっとこちらに来なさい」と呼び出す。
「今日はどんな用事があって来たのかね?」
「いつものように授業をするためです」
「いつものようにって、この頃ちっとも来ないじゃないか」
「忙しかったのです」
「きみは塾の先生が本職だろう。本職以外に忙しいものを持つのはいけない。真面目に働いている人に失礼だ」
「それはすみません」
「それではこれから毎日ちゃんと出勤するな?」
「はい」
「他の仕事はやめるな?」
「やめられるものならば」
「やめられるものならばとはどういうことだ?」
「ぼくが選んだ仕事ではないんです。仕事の方からぼくの方に舞い込んで来たのです」
「仕事とはそうしたものかも知れない。そうなると塾の先生は辞職だな」
「塾の先生は辞職してもいいんですが、倉橋まみさんと会えないのが寂しいです」
「女生徒と会うために先生をしていたのか。不届きな奴だ。だが倉橋まみはなかなか可愛いなあ」
「塾長もそう思いますか?」
 塾長の唇の端からよだれがこぼれた。

 マライア・キャリーはお酒を飲んで荒れていた。
「なによ、もりおか! せっかくここまで来てやったのに逃げるなんて。わたしにはもうもりおかしかいないのに。男なんて所詮裏切るのね。ヒック。もう絶対助けてやらないから。でももりおかにまた助けてくれって言われたら、きっと助けるんでしょうね。女なんて損な商売だわ。ヒック。おい、ニーナ、お前もこっちへ来て飲め!」
「おばはん、うるさいぞ。わたしは今便秘で忙しいの」
「酒飲んだら便秘も治って下痢になるよ」
「まあ、行儀の悪い酒飲みですこと」

 目が覚めるとまいこはベッドの上に横たわっていた。大丈夫、ちゃんと服を着ている。
 コンコンとノックの音がして首が入って来る。さっきまいこが見て気絶した首だ。今度も目が釘付けになったが気絶するほどではなかった。
「さっきは驚かしてすまん。わしはろくろっ首じゃ。体を探して世界中を探している。そのためあんたのような人を探していたんじゃ。あんたは人並外れて霊感がある。そうではないか?」
「そうでもありません」
「あっさり言うなあ。今はもうわしのことは怖くないか?」
「怖いことは怖いですけど、悩んでらっしゃる方をわたしは放っておけないので」
「優しいんじゃのう」
「わたしは馬鹿なだけです」
「馬鹿なくらい優しい人をわしは好む。昔悪いことをしていた罪滅ぼしの意味もある」
「それはよろしゅうございます。何にしても良い心を持つことは良いことです」

 久しぶりに教壇に上がった日の夜、森岡先生の家の郵便受けに葉書が入っていた。よく変な葉書の入る郵便受けだから、おそるおそる取り上げると、それはやはり妙な葉書だった。

  あなたは
  宇宙意識二十三泊二十四日旅行に当選いたしました
  今日中に荷物をまとめて
  駅前の噴水広場にさっさと来てちょうだい

 せっかく職場に戻ってこれから平穏な生活が待っていると期待していたのに、これは甚だしく迷惑だ。何回邪魔をすれば気が済むんだ、と森岡先生は憤る。
 でも──と森岡先生は頭の中に妙な空想が広がるのを覚える。ああして女性たちにもてる生活もいいもんだ、と。
 懲りない男だ、森岡先生は。

──益のないことを
  苦労してこなし
  金になることには
  徒手空拳
  親戚縁者に馬鹿にされ
  近所では顔を上げて歩かれず
  あいつはでくのぼーだ
  あいつはでくのぼーだと蔑まれ
  頭脳には様々な思想が渦巻き
  金にならない思想が渦巻き
  金にならないことに後ろめたく思い
  焦れば焦るほど金は遠くなり
  金が遠くなれば人情しか武器はなく
  それゆえに人情は鍛えられ
  こういう人生もいいなあと
  この頃思う

 松島菜々子似はレールボードの初めての女性となった。レールボードは瞼のあたりに変化を覚えた。少し閉じぎみになり優しい目になる。人はたとえひどい目に合おうと優しい目で人を見るべきだ。
 これは理想であり、真実でもある。
 優しい目の出来ない者は決して詩人にはなれない。
 そうは思わないか、既得権益で金儲けをしている高利貸たちよ。
 優しい目になると人は人に縋るようになる。縋られた人間は縋る人間をなめてしまう。なめられた人間は人間不信に陥り愛することをやめる。
 人間と人間は所詮そうした陣地取りなのだ。陣地を多く取った方がわがままを許される。
 レールボードはあまりに若く、そうした陣地取りにはあまりにも経験に乏しい。

 まいこはドンゴロードの顔をじっと見つめる。ドンゴロードとはまいこの部屋に現われた首の名前だ。
「何か見えるかね?」
「何も見えません」
「まあ、この話はそう焦るほどのこともない。わしはこのままで四百年生きて来たんじゃから、これから二年、三年ほど無駄にしても構わん」
「わたしではお役に立てないような気がするのですが」
「今はそう思ってもらってもいい。だんだん慣れて来るじゃろうから、わしはそれまで待ってるぞ」
「もっといい人がいるような気がするのですが」
「たとえもっといい人がいたとしても、わしはきみにこの問題を解決してもらいたいのだ。能力のある人間というのはとかく傲慢じゃが、きみは決して傲慢ではないからな」
「傲慢になろうにも、わたしには自信がありません」
「そのうちつく」

 森岡先生は歯磨き粉と歯ブラシだけを持って噴水広場に着く。どんな人と待ち合わせをしているのか分からないから、森岡先生はキョロキョロする。
 森岡先生にすれば宇宙意識とは全く他人事の存在だ。だから誰も迎えに来なくても平気だと思おうとしているが、わざわざ葉書が来たので気になるといえば気になる。
 二十三泊二十四日というのはとてつもなく長い。もしかしたら自分はもう家に帰れないのではなかろうかと考え、わざと掃除はせずに出て来た。これはジンクスだ。
 突然時間が止まった。人々の動きが止まり、空気が止まった。森岡先生もしばらく止まっていたが、「先生」と呼びかける倉橋まみの声に振り返る。

 一方無職田中は公園でパンを食べていた。今日も仕事が見つからない。大事なまいこのためにお金を稼がなくてはならないのだが、自分にはつくづく能力がないと感じる。
 無職田中の携帯が鳴る。家から電話だ。
「もしもし、わたし」
「うん」
「わたし、仕事が見つかったの」
「うん、そうか。どういう仕事だ?」
「首の胴体を見つける仕事なの」
「やけに物騒な仕事だなあ」
「ドンゴロードは優しい首よ。心配ないわ」
「優しい首でも首は首だ」
「でも胴体が見つかるまでクビにはならないわ」
「悪いなあ、きみに食べさせてもらうなんて」

 マライア・キャリーが家に帰ると妹の倉橋まみの姿はなかった。マライア・キャリーはベランダに寝転がって空を見る。
 いい空だわ、とマライア・キャリーは呟く。生きていて良かったと思う時は、人は空を見ているものなのね。前向きというより上向きなのね。
 マライア・キャリーは森岡先生のことは忘れようと心に決める。何かとトラブルばかり起こす人はわたしは嫌いだわ。
 でもトラブルを起こす人というのは何かと魅力がある。してみると人間はトラブルが好きなのだ。生きていることが暇で仕方がない人で充満しているのだ。
 少なくともわたしは忙しいわ、とマライア・キャリーは昂然と目を見開く。純粋に生きるということは忙しいのだ。

 松島菜々子似は平然と帰宅する。レールボードは一人残って余韻に浸る。レールボードはもはやセックスの味を忘れられない。
 世の中でスケベな詩人ほどモテる人種はいない。詩人は詩人であるためには詩人として身を律しなくてはならない。それは激しい内面の戦いだ。
 道徳と放埒の両極端を詩人は触れる。どちらの素晴らしさをも知っていなくてはならず、どちらの醜さも承知していなければならない。
 それでこそ詩人は知恵者と誉め讃えられるのだ。道徳だけの詩人、放埒だけの詩人はこの世に何の価値もない。

 説教はやめよう。

 説教じゃない、真実だ。

 真実って何だ?

 分からないから、おれは書く。

 とうちゃあ~く、とうちゃあ~く、宇宙意識にとうちゃあ~く
 実に間抜けなアナウンスだ。森岡先生をここまで連れて来た倉橋まみは二メートルほどもある駅員と話をしている。倉橋まみはすっかりこの場所の顔といったところだ。
 ホームには人影が少ない。森岡先生は歯磨き粉と歯ブラシを握り締めながら倉橋まみのあとをついて行く。
「楽しみだわ。先生と二十三泊二十四日が出来るなんて」
 森岡先生が何も答えないので倉橋まみが後ろを振り返ってじっと見る。その目はまるで睨んでいるみたいだ。
「どうしたの?」と倉橋まみがたずねる。
「どうもないよ。ぼくも楽しみさ」
「無理に言わなくていいわよ」

 神様はバームクーヘンを食べながら天使としゃべっている。
「森岡先生は役に立つじゃろうか?」
「神様がそんな自信のないことでは困ります。神様が森岡先生をお選びになったのですから」
「わしは何も選ばんよ。森岡先生の方から選ばれに来たんじゃ」
「森岡先生には見込みがないということですか?」
「宇宙意識にとって見込みのない者はない」
「それでは森岡先生は役に立つでしょう」
「立つさ、立つ。きっと立つ。立たなくてもいい。森岡先生が宇宙を変えなくてもそのあとの誰かが変える。宇宙の歴史とはそうしたものじゃ」
「のんびり構えてたらいいんですね」
「そうじゃ。何もかも滅びても何かは残る。何かはな」

 まいこは五円玉に糸を通して白い紙の上に垂らす。何をしようという気もなかった。ただドンゴロードの言うような能力が自分に本当にあるのかどうか確かめたかっただけだ。
 彼女はこれまで生きにくい人生を歩んで来た。二十三くらいで人生などというとおこがましいかも知れないが、二十三年というのは本人にとっては十分に長い年月だ。
 まいこは霊が見えるということもない。何か声がきこえるというわけでもない。突然発作のように体が硬直するということもない。わたしはただの平凡な女よ、とまいこは心の中で言う。
 何かとわたしのまわりではおかしなことが起こるけれど、わたしそのものは平凡な女よ。

 家の電話が鳴った。マライア・キャリーは受話器を取って「もしもし」と言う。
「今、お暇ですか?」と低い男の声。
「わたしは忙しいです」
「五分でいいのでお時間取れませんか?」
「五分でいいのなら」
「森岡先生が宇宙意識に出掛けたことは知ってますか?」
「うちゅういしきって何ですか?」
「宇宙の中心です」
「はあ、それで?」
「あなたもお越しになりませんか?」
「わたしは忙しいの。何回も言うように」
「マライア・キャリーさんがお忙しいのはいつも承知しております」
「それではどうして電話して来るの?」
「忙しい人ほど時間を作るのがうまいものです」
「何かの本みたい」

 レールボードは松島菜々子似のマンションに通いつめる。学校に行ってもつまらない。他の生徒たちがとてつもなく子供に見える。勉強などしても全く意味がないように思える。
 松島菜々子似の肉体を貪っている間自分が殺人者であることを忘れる。警察は日々刻々に自分を追い詰めるだろうと恐れている。松島菜々子似は守ってあげると言う。レールボードも守ってもらおうと願っている。
 ある日の朝テレビを見ていると、同門激三郎殺害の犯人が捕まったとの報道があった。レールボードは目を丸くしてテレビ画面に釘付けになっている。
「やっと片付いたわね」と背後から松島菜々子似の声がする。レールボードは振り返り松島菜々子似をじっと見つめる。
「そうよ。わたしがしたのよ。この男には気の毒だけど、世の中には気の毒な目にでも合わせないとやり切れないほどひどい人間がいるものなのよ」
 レールボードは松島菜々子似に子供のようにむしゃぶりついて泣く。

 寺山修司は女教師の部屋をたずねる。女教師は仕事が忙しく寝不足だったが、寺山修司の顔を見るといきいきとして立ち働く。
「本当にぼくみたいのでもいいのか?」と寺山修司は思い詰めたように言う。寺山修司には何の計算もない。ただただ愛とは何なのかを知りたいと願っていた。
「いいわよ」とあっさり答える女教師の胸は激しく高鳴っていた。寺山修司を逃がすくらいなら死んだ方が増しだと考えている。でもそれを気取られてまた寺山修司を重い気分にすることだけは避けようとしている。
「ぼくは今まで孤独で愛されたことがなかった。だからきみを疑っていたんだ」
「わたしの気持ちは完全にかたまっています。たとえ──」と言って女教師は言葉を飲み込む。たとえあなたに包丁で刺されてもあなたを愛し続けます、と言いたかったのだ。
 寺山修司は何かを感じる。生まれて初めて気持ちが楽になった。

──何を思いわずらうことがあろう
  ぼくたちは愛し合っているのだ
  花も嵐も踏み越えなくても
  ぼくたちの愛は必ず理解される
  ただただ平凡に愛し合って
  ただただ誠実に身を処する
  何もごまかさず
  非難をも真正面から受け止める
  ぼくたちは
  生まれる前から愛し合っていたのだと
  思い思われ
  ただきつく抱き合い
  語り合う

 森岡先生は人前でしゃべる仕事をしているが、実は人前でしゃべるのが苦手なのだ。三年間やっているがなかなか慣れない。
 なのに今森岡先生は何万人もの人の前に立っている。いつのまにか立っている。さっきまで倉橋まみを抱いていたはずなのに、その夢中の霧の中から抜け出すと、森岡先生は広いバルコニーの最前列に立っていた。
 物凄い歓声が湧き起こって森岡先生は目が覚めた。そして度肝を抜かれた。
 歓声が鳴り止んで今度は恐ろしいほどの沈黙に包まれる。倉橋まみの姿はどこにもない。倉橋まみどころかバルコニーには森岡先生一人しかいなかった。
 誰も助け手がいない中で森岡先生はたじろぐ。
 だって何も打ち合わせがないんだもの。急にこんな大勢の前でしゃべれったって無理な相談だ。

 人生に推敲はない。言った言葉書いた言葉は取り返しがつかない。だからといって徒に恐れてはならない。取り返しのつかないことをしゃべり散らすしか人の中で生きて行く道はない。
 何が大事か? 人間にとって大事なのは誠実さだ。取り返しのつかないことをしゃべって人の中で円満に生きて行くためには、あくまでも心を誠実に保っているしかない。
 しゃべる時だけではない、笑う時も泣く時も怒る時も機嫌が悪くなる時も誠実であらなければならない。
 人の心を本当に打つものは誠実さだ。そんなことくらい誰でも当たり前のように分かっているが、当たり前のようにそれを実行する人は少ない。

 マライア・キャリーも森岡先生の話をきく聴衆の中にいた。宇宙は変わるんだわと感動に打ち震えている。森岡先生に抱かれて以来というもの、マライア・キャリーは実に素直になった。
 人を神のように崇めることの快さ。
 人に尊敬されるよりも本当に尊敬する人を持つ方が人間としては数倍も上等だ。
 素直さこそ命。
 マライア・キャリーはバルコニーの上で豆粒のように見える森岡先生を憧れの目で見つめている。

──物をはっきりとつかめない時がある
  じっと考えようにも混乱して
  正確に物が見えない
  頭に出て来る想念は
  ことごとくその場しのぎで
  心がこもっていない
  心がこもらない想念は
  最終的には役に立たない
  待つんだ、待つんだ
  ひたすら待つんだ
  心の中に自然な川が出来て
  想念を川に流す
  その流れは平穏で
  自然で
  そのような時
  混乱は鎮まる

 レールボードも松島菜々子似に伴われて宇宙意識の集会に出る。レールボードは松島菜々子似のいない人生は考えられない。あんなにわがままな坊やだったのに、今は至極素直になっている。
 素直になることの喜び。
 人間は本当に愛する人に出会うと素直になれる。
 人を愛することは人間の成長に最も役立つ。
 松島菜々子似はレールボードの腕を取る。
 ぼくは一生素直に生きるぞとレールボードは決意する。

 まいことドンゴロードの物語はまだ始まったばかりだ。無職田中は職を得た。寺山修司と女教師は静かに窓から町を見下ろしている。リンリンはニーナとともに宇宙の果てに住むことになった。

 さあさあさあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、あっ、ほ~い、
 この小説は全てフィクションです。ハ、ハ、ハ、フィクション!

──森岡先生の長き長き演説(抜粋)──

 急なことなので何も準備が出来てません。本当に急だったのです。こんなことならここに来る前に教えてほしかった。むしろわたしは怒っているのです。人間はあまりに追い詰められると怒ってしまいます。
 だからわたしはここでわたしの怒っていることを述べようと思います。もし不適切な発言があったとしても、わたしをこんな立場に追い詰めた人々の責任だとお考え下さい。
 この際ですから、わたしは周りの人々に責任転嫁します。もし不愉快になられたら一斉にブーイングをして下さい。とっととけつをまくって退散いたします。

 さてわたしはこの一週間ほどに様々な体験をしました。わたしの体験のほとんどはエロスに連なっております。わたしはかねがねエロスについては悩んでおりました。人間の悩みの大部分はエロスに連なるものであることは、フロイドの発見から始まって今では常識となっております。
 エロスさえ解決出来れば人間の葛藤のほとんどは解決されます。過度なエロスもいけません。皆無のエロスも精神的健康にはよくありません。適度なエロス、落ち着いたエロス、円熟したエロス、それがないと人間はどうも落ち着きません。絶えず何かにビクビクと恐れながら生きて行くか、逆に非常に意気がって衝突の多い生活となります。

 昔から女性はわたしの最も恐れていたものです。女性に何かをされた覚えもありません。しかし色気づく頃になった時、わたしは既に女性を恐れていました。
 どうして人間はセックスなどという恐ろしいものを覚えなければならないのでしょう? そしてそれのすごいところは、いざちゃんと覚えてしまうと、人生の中で最も生きがいのある行為になりかわるのです。
 不思議なものです、セックスとは。だからこそ一生を費やして追究するほどの値打ちのあるものなのです。

 わたしはつい先頃妄想状態になりまして、物事が現実なのか妄想なのか分からない状態になっております。したがって今こうして大勢の前でしゃべっていることも妄想ではないかと危ぶんでおります。
 妄想というものはその人の本質を見せてくれるものです。人間には自分自身にも隠している秘密というものがあります。妄想はその秘密を目の当たりに見せてくれます。
 わたしの場合はエロスの問題が重大な秘密でした。ぼくは妄想の命じるままにエロスを実行しました。それでわたしは知りました。事は大部分解決したと。
 解決したと思うこと自体が妄想なのかも知れません。でも妄想にしろ何にしろ、その人の苦しみを解決する手助けになるならば素晴らしい物になるのではないでしょうか。馬鹿野郎。

 わたしは三十歳になるまで女性を知りませんでした。決して真面目だったわけではありません。奇麗な女性を見るといつも卑猥な妄想を起こしてしまう男です。清廉潔白からは程遠い男です。
 ここ宇宙意識の近くに宇宙の果てがあるのをご存じですか? わたしは宇宙の果てにある風俗店のニーナという女性のお得意様でした。ニーナはわたしのコンプレックスを全て氷解してくれました。
 今では会う女性会う女性が全てわたしに抱かれたがります。おそらく、というよりも、確実にこれは妄想でしょう。溯って考えるとニーナのことも妄想なのかも知れません。
 わたしは既に死んでいて、今こうして存在するわたしは夢のようなもので、わたしは波に漂う小舟のようにプカプカ浮いているのかも知れません。

 だいぶ話に調子が出て来ました。何だか心地よい気分に包まれています。ここに倉橋まみさんはいらっしゃいますでしょうか? (間)いないですか。いても手を上げてはくれないのでしょうか。
 わたしはここに宣言します。倉橋まみさんと結婚します。

 突然聴衆の最前列の一人の男が手を上げて、「倉橋まみはまだ高校生だ。親の承諾がないと結婚出来ないぞ」と叫ぶ。
「倉橋まみはわれらの女王様です。結婚するのならしかるべき手続きを取って慎重に行ってもらいたいものですな」
「そうだ、そうだ」の声の波が津波のように森岡先生に襲いかかる。森岡先生はたじろいで立ち尽くす。帰り方は分からないが帰ろうと思う。
「なにはともあれ」と一人の巨漢がずば抜けた大きな声で言う。何万人の聴衆は突如静かになる。
「なにはともあれ、森岡先生万歳ですよ」
「そうだ、そうだ」の声が怒涛のように森岡先生の耳にこだまする。
 首尾一貫性とは何か?

 セックスに関して自信を持つことは仕事で自信を持つことよりも大事なことです。特に若い頃というのは頭の中はセックスでいっぱいですから、そういう時にある程度充足しているかどうかは、その人のそれからの人生を左右するほど重要なものです。
 一方でわたしはとても高尚なものを好む趣味を持っています。生きることの意味を常に問いながら生きている者です。セックスも大事ですが、高尚なことがなくなってもわたしの人生は灰色になってしまうでしょう。

 世の中で大事なのはさじ加減だと考えます。残念ながら今のわたしはさじ加減を承知しているとは言えません。この一週間ほどはセックスに溺れてしまいました。何事も極端であることは悪であります。逆に言うと極端な高尚さも悪であります。
 わたしはこれからいくらでも修行の余地はあります。人間、修行の余地があると思っているうちが花なのかも知れません。決して驕り高ぶってはいけません。

 怒りを述べるつもりでしたが、いつの間にかセックスの話になってしまいました。やっぱり好きですねえ。(間)誰もお笑いにはなりませんか。冗談言ってたら駄目ですね。こんなに沢山集まって下さっているのですから。
 わたしの妄想はいつか止むでしょうが、宇宙の真理は変わりません。永久の真理が打ち立てられる日を願って、わたしたちは日々の色々な出来事を処して行きたいと考えております。
 末筆になりましたが、みなさんのご健康ご幸福をお祈りしております。

了 

妄想先生

妄想先生

盛岡先生という人が出てきます。これは盛岡先生の妄想であり、真実です。妄想というのも、一つの人生であり、真実です。現実こそ妄想かも知れません。人間は、死んだ後に、そのことに気付くのかも知れません。

  • 小説
  • 中編
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2015-07-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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