16、亜季・・・大人になれなくて

エリカ、悲しみと怒りはどこに

16、エリカ、悲しみと怒りはどこに

 沈黙はよく言葉より多くを語るという。その沈黙の裏には不安、悲しみ、恐れ、怒り、時に多過ぎる甘えや期待がふくまれている。そして相手の心を探る。見方によってはじっと耐えてるようで実は相手の心を操る場合もある。

二人の間にどれだけの時間が行き過ぎたのだろうか。おそらく智香子が声をかけなければこの場面がどこまでも続くのではないかとさえ亜季は思っていた。

「亜季。・・・どうするの?」その声で亜季は目が覚めたようだった。そしてここへ来たあの決意が頭をかすめる。
(さあ、どうしよう?このどうにもならない苦しい沈黙だけを持って帰るの?そんなのバカげてる・・・第一それじゃ来た意味がない。でも間違いなく私はエリカのふてぶてしい程のこの強さに圧倒されている。この人が私の姉・・・?)


自分の中で自分と話している時、周りは音のないただの映像でしかなくなる。音が入ってきた瞬間今度はさっきまでの生々しい自分の感情が夢のように遠くなってしまう。今亜季はまるで悪夢の後の朝の目覚めの様に憂鬱と嫌な予感の中にいた。


エリカにはそんな今の亜季の心が見えるらしい。
(無理もないかしら・・親を親としか見てこなかったあなたなら親の秘密に不安や恐怖があるのかもね。でもねあなたは忘れてるの。どんな立派な親も昔はただの若い男と女なのよ。今の私達と同じ。ただ時代が違うだけ。学歴も職業も家柄も関係ない。そこには俗っぽい世間が転がってる。・・・あなただってこの先わからない。)


「とにかく座りましょう。何か飲みたいわ。」
エリカがそう言ってカウンターの真ん中に座った。この場の主役は自分である事を示すように。亜季は黙ってその右隣に。最後に智香子がその隣に。

ただし今の亜季とエリカには智香子は存在していないのも同然だった。

三人の前にエリカの頼んだ強めのお酒が置かれるとエリカは一気に飲み干す。そしてさらに「お願い。」とカウンターの男に声をかけ微笑む。男もさりげなく笑みを返す。

その笑みに亜季は一瞬寒さを感じる。
(まるで魔法の微笑みだわ。計算された無邪気な笑み?・・・本当に私達姉妹?)


「本当に私達姉妹なのよ。」

亜季の心を見透かしたのかエリカが突然そう言った。

「・・・・」無言でしか答えられない亜季。自分がもどかしい。

「そんなに緊張しないで。私は恐い人じゃない。・・それにしてもあなたは何も知らなかったのね。・・私、一年前あなたのお姉さんが会いにきたわ。。それも聞いてなかったのね。・・・随分守られていたのかしら。でもこの世の中完全な隠し事なんてそうあるもんじゃないのに。それにしてもあなたはお姉さんと違ってかなりデリケートというのか・・弱そうね。」



今日と言う日は多くが亜季を襲う日らしい。ただ不思議なことにエリカという人は言葉を選ばない人であるということが苦しいのに何故か心地いい。エリカの言葉が続く。

「話は簡単。よくある不倫ね。あなたのお父さんと私の母。母は昔小学校の教師をしていてね。外務官僚のあなたのお父さんとどこで知り会ったのか実は私もよく知らない。正直その辺のところは興味もない。その頃私はこの世に存在もしていないわけだし。ただあなたのお父さんと付き合い出して教師はやめたみたい。そして私が生まれた。あまり覚えはいいほうじゃないけど小学校の2年か3年頃までは一月に一度くらいお父さんが来てた。
当然普通の家族と思ってた。ただ出帳が多いってね。この辺おかしい程ドラマでしょう?でもある時からパッタリ来なくなった。・・つまりその時があなたのお母さんが秘密を知った時。認知はできない。その償いにお金をどっさり。おかげで私立のいい学校にも行ってた。」



そこまで話すと下を向いたまま聞いていた亜季を覗き見た。

「大丈夫?・・やめましょうか?」

「いいえ。・・ただあなたは父を恨んでる?」

「どうかしら?私の母は結婚していることを知って付き合い、私を生んだ。よく聞かされたの。未練タラタラに純愛気取りで本当に愛していたと。でもそれなら何故何千万というお金を二度と会わないという誓約書まで書いて身を引くの?。一円ももらわないなら純愛も少しは説得力あるけど。母は私を育てるのに必要なお金だったと言う。でも私なら愛する男の奥さんから提示されたお金なんてもらわない。まあ確かに母子家庭としてはいい生活はできたけど。母は私が思うにかなりの野心家。多分官僚の奥さんになろうとしたのよ。教師としては珍しい出会いですもの。のがすまいとしたんじゃないかしら。母の実家は今じゃ見かけなくなった商店街の小さな電気屋さん。でも母は人生で何よりステイタスが欲しい人なの。」


エリカはグラスの氷を指で廻しながら呟いた。
「バカみたいよ。なんとしても私をお嬢さんにし立てあげようとやっきだったわ。」

それからカウンターに置かれたままの亜季のグラスをとると亜季の前に差し出す。受け取る亜季が弱々しく声を出す。

「それで私の母は?」

「・・・そうね、あなたのお母さんは事実を知ってどんなだったか・・・まあ、いい気がするはずもない。ただ大人になって母からきいたのは弁護士をたててお金の解決をせまったのはあなたのお母さん。もちろん母は最初渋ったみたい。でも結婚を知って付き合った母は裁判になれば負ける。まして詰まるところスキャンダルを回避することに舵を切ったお父さんですもの。勝ち目はないでしょう。」



「でもそれならやっぱり一番悪いのは父。」

亜季がそう言うとエリカはまざまざと亜季の顔を見つめた。

「普通はそう言うのかしら。だけどその言い分はあまりに子供じみてるわ。だってそれはこの出来事の一部。あなたのお母さんとの愛情と私の母との愛情、そのどちらが本物で強いなんて誰にわかるの?

どれが本当で、どれが嘘かなんて誰が言えるの?この場合今のあなたがするようなおままごとみたいな恋愛とは違う。家庭、子供、社会的な立場がからめば複雑。ある意味あなたのお父さんが一番バカみたいかも。だって最後女二人はお金で合意したんだから。お父さんはそれに乗ることを選んだだけ。」


亜季にはエリカの言うことが半分しか理解できない。亜季には家庭を大事にする父の姿しか見えない。

「あなたは納得できないみたいね。でもあなただって恋愛の一つや二つはしてるでしょう?抑え切れない感情が時には存在するのよ。そしてあなたのお父さんは失敗した。でも多分自分のした事に一番後悔をしてる。あなたのお母さんには死ぬまで頭があがらないだろうし。かなり辛いわね。」

「だけどエリカさんのお母さんも苦しんだ。私の母も多分。」

「あなたわかってないのね。ひとつ間違えたらあなたがお父さんのいない人生になってたのよ。自分の野心と愛の区別を間違えたというか一緒くたにした私の母のせいで。立場から言えば亜季さんは私の母を憎んでいいの。同じ意味で私は亜季さんのお母さんを恨んでる。でも一番どうしようもないのは私の母。事あることに自分の愛は本物だった。だからあなたを生んだって。そのくせもらったお金がなくなりかけたらいい暮しができなくなることにおびえてた。それでも回りに父は何十年も前に病気で死んだけどあいにく財産を残してくれたからっていうの。確かに別れる時に家を買ってもらい、そこそこのお金ももらったから傍目にはそう見えたかも。そして手持ちが淋しくなると本当に好きだったのに奥さんに無理やり別れさせられたとそればかり。どうかしてる。母との生活は気持ちがすさむの。だから18の時に家をでた。それでこういうところでバイトをはじめた。そしたらジャズに引かれて。今の仕事を始めたの。」



その時だった。ここまでずっと黙っていた智香子が声をあげた。

「そうか!なんかわかる気がする。」

「え!何が?・・何がわかるの?」

亜季の声は誰にも分かるほど苛ついていた。

「ごめん。・・愛と野心の区別を間違えたっていうところがね。でもさ、結婚となるとある程度の野心はつきものでしょう。それっていけない事?」

「いいえ。でも、私の母の場合い結婚できないとわかってた。若い頃の母は確かにきれい。だから自信もあった。子供ができて耐え忍ぶ女を装えばいつかは自分の元にくると。そこがおぞましい。今はたまにしか会わないから聞いていられるけど以前みたいに年中聞いてたら気が狂うわ。
結局自分のことしか言わないんだから。母親のばかげた幻想のおかげで娘が辛い思いをしたなんて考えてもいない。嫌な思いさせてなんて口ではいうけど。」


亜季は苦しかった。何故かエリカの遠い過去の話の中に今を感じてしまうから。
母が時折見せる父への冷たさや恨みがましい態度が脳裏をよこぎる。過去は過去というが今のその人を作り上げるのが過去の経験や知恵から生まれるとすれば母はその時大きく変わったのかもしれない。ふと母の姉である智香子の母がもう何年も前にポロッと口にした言葉を思いだした。

「葉子は以前はあんな見栄っ張りじゃなかったのに。どうしてあんなに変わったのかしら。」

それが妙に引っかかった。


「大丈夫?なんか心配になってきたわ。亜季さんはお姉さんとは全然違うのね。」

「姉はどうして?」

「さあ、誰かに聞いたんでしょうね。わたしはもともと誰にも会うつもりなかったもの。突然ライブに来てね。自分の名前を言うと父ももういい年だけどこの先何があってもみっともないから遺産分けなんていわないでほしい。決着はついているんだからって。はっきりとね。びっくりしたけどすっきりもした。あなた達の存在が少し気になっていたから。でもそちらがその気なら割り切れるもの。私は母とは違う。お金なんかもらう気もないし。だからあなたが丈とのライブに来たときもしかしたらまた何かいいにきたのかと。・・・でも違ったみたいね。」


「ええ。何もかもが初めて聞くことで・・・ただ、みんな知っていたという事。智香子まで・・・。私ひとりが知らなかった。」

亜季の声は消えるほどに小さい。ただその一語一語が悲しく聞こえた。

「・・・困ったわね。話すべきではなかったかしら?でももう言ってしまった。悪いけど私は後悔はしない。聞いてどう感じるかはあなたの問題だから。そう言えばお姉さんさんが言ってた。妹は世間知らずのお嬢さんだからけして会わないでくれと。私はできない約束はしなかった。万一会ったら自分がどうするかわからなかったもの。で、あなたを見たら話すべきという感じがしたの。なぜかしらね・・・余計なお世話だけどもっと強くなったほうがいい気がして。いつも世間から誰かかがあなたを守ってくれるわけじゃないもの。もしかしたら少しいじめてみたかったというのもあるかしら。・・私、意地が悪いから」


亜季の目から静かに涙がこぼれる。

(これ、なんの涙?別に父や母への思いに変化はない。あるはずもない。もうひとり姉がいたという事実を除けば単なる恋愛のどこにでもある話。なのになんだろう・・・今わたしを揺らしているのは・・・聞いた話の事実ではなくて私だけが知らなかったという事実?)

なんて長い時間だったのか。エリカが立ち上がった。

「もうこれで終わり。私の中ではもう整理が出来てること。あなたは始まったばかりかもね。でもどちらにしても昔の話。だから気にしない事よ。
毎日いろいろあるんだから。親の過去なんかに関わる暇はない。知っていればいい事。・・・そうは言っても少しの間あなたは引きずりそね。それじゃ。ライブにはいつでも来てちょうだい。そちらのお友達も。」

いつもの魅惑的なエリカに戻り柔らかい声を残してエリカは立ち去った。
亜季はその背中に言葉とは裏腹の自分の母、父への悲しい怒りを見ていた。

16、亜季・・・大人になれなくて

16、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-01

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