15、亜季・・・大人になれなくて

エリカの空気

                               15、エリカの空気

妙に蒸し暑い日だった。夜の闇の中に風が吹き抜けて髪が汗ばんだ肌にまとわりつく。四谷の駅から歩いて10分、ライブハウス「Misty」の前に二人は立った。
ここまでの道のりいつもと違う亜季に声をかけてはいけない気がして無言の時間だけが流れ去った。それでも智香子の頭の中は自分がとんでもない失敗をしてしまったのではないかという思いで渦巻いていた。まさか亜季がこれ程早く行動に移すとは考えてもいなかったのだ。

(どうしよう・・今日のところは暴挙は止めたい・・でも・・もうここまできちゃったし。その人は私が聞いたエリカなのかどうか・・ああ)

そんな迷いのせいで智香子はドアを開けようとする亜季の手を掴んだ。
「ねえ、ちょっと落ち着いて。まだわからないし。その人が本当にそうかどうかも。チラッと耳にしただけなんだから。ね!」

願望をこめた智香子のまなざしに亜季は笑顔を見せた。
「だから確かめるの。智香子は何も悪いことなんかしてないんだからそんなに気にしないで。智香子らしくないよ。それにね・・・これは私の勘だけど多分あの人はどこかで私と繋がってる気がする。秘密を話してしまった責任なんて感じなくていいから。それとも先に帰る?」

あまりに落ち着きはらっている亜季の言葉にいつもの智香子の自信が僅かにこみあげる。
(そう?・・そうよね。まあ少し口が軽かったけど私達もう小さい子供じゃないんだから。亜季にも事実を知る権利はある。で、せっかくここまで来て先に帰るのもねぇ・・やっぱり・・亜季も心配だし。まさかここで修羅場なんて・・あり得ないもん。)

好奇心を心配という言葉におきかえると自分に都合のいい理論が出来上がる。それはもちろん智香子だけではない。誰もが経験する自分を赦す方法。

 もちろん亜季もけして例外ではない。ただ亜季はそんな自分を斜めにみては自分が時に嫌になる。優しさとか思いやりとかいうものは人生の意味と同じであまり深くつきつめてはいけない。人の言葉も感情もすべてはその人の持つ言葉と感情の量と質でしか表には出ないのだから。
ただまだ大人の手前の亜季は人の好意をそのまま受け止めることに抵抗を覚える。ついその言葉に潜む裏側を知りたくなる。実のところ裏など何もないかもしれないのに。その結果人の言葉にも自分の吐き出した言葉にも捉われ、振り回され、疲れる。
そう・・・これまでは。でも今、何かが亜季の中で変わりつつあるのだろか。亜季は何故か自分のこの行為に自信を持ち始めていた。迷いがないと言えば嘘かもしれない。ただ人のする事に迷いはつきものだとあっさりはねのけるいさぎよい意思があった。

亜季は智香子の目を見ると静かに言った。
「じゃあ、入るわよ。」

自分の気持ちを丸ごと亜季の為とかたをつけた智香子は緊張が解けたようにうなずいた。


 「Misty」は戦後まもなくできたライブハウス。もちろんそのたたずまいは改装されたり建て直しをしたり時代と共に変わっているがジャズの愛好家を自称する人が集まる場所として知られていた。薄暗い店の中に入ると評判の通りテーブル席はほぼ埋まっている。そして誰もがエリカの低く甘い歌声に引かれているように見えた。亜季と智香子は隅のカウンター席に腰を下ろした。そして亜季はエリカの方をじっと見つめた。


先輩のベースにピアノ、でも亜季の目にはこのステージにいるのはエリカだけなのではないかと思えた。それ程までに彼女の存在が強烈すぎた。

短く切った艶やかな黒髪を耳にかけ前髪をサラッと目元まで。黒いドレスの胸元に小さなスパンコールの刺繍。おそらく白鳥が今にも大空に飛び立つようなイメージだろうか。お化粧はしていないのではないかと感じるほどに控えめ。ただその口元だけは真赤に染まる。エリカの立つ場所だけが時間をまるで1950年代後半に巻き戻した様にも見えた。そして曲は「How Insensitive」


(それにしてもいったいこの人はどう表現すればいいの?・・・清涼感と生身の女の欲望?)
そんな考えに捉われもう一度ステージに目を向けた時亜季とエリカの目が寸分のくるいもなく一直線に繋がった。二人が今ここにいる事を確かめ合った瞬間とでもいうのだろうか。ただお互いの気持ちはあまりにかけ離れている。亜季はもし智香子の話が本当なら認め合いたいというどこか甘い幻想を隠していた。エリカはあなたにわかるはずもないという憎しみにも似た感情を笑みの中に隠していた。

 ファースト・ステージが終わり暫くすると丈が来た。

「ステージからチラッと見たら亜季がいたからびっくりしたよ。言ってくれれば席取っておいたのに。でもカウンターの方が俺は好きだけど。なんと言っても酒が側にあるしな。」

相変わらず人生を本気で生きているのかどうかわからない。それでも亜季は近頃思っていた。(この人は意外と真面目な人なのかもしれない。コツコツ積み上げていくことを知っている。もっと簡単に高みの生活も手にいれられるのに)

亜季の横では智香子が嫌悪感を込めた溜息を吐いた。連れて来たにも関わらず亜季はすっかり智香子の事を忘れていた。溜息で思い出した。


「あ、ごめんね。こちらはジャズ研の先輩、戸越 丈さん。今はもうプロ。で・・彼女は私の従姉妹。須田 智香子。」

丈は智香子に軽く頭を下げると亜季に焦点を合わせる。

「で、今日はどうした?まさか俺に合いに来たわけじゃないだろうけど・・このライブハウスは亜季好みじゃないだろう。」

「そんな事もないけど・・なんかエリカさんの歌が聞きたくて。」

丈が上を見上げて「ああ・・あ。」と小声で叫んだ。

「いいよな。あいつどこに行っても注目されるんだよ。そりゃうまいのも認めるし見た目も抜群だ。でも誰か俺に光をくれって言いたいよ。」

いつもの冗談に近い丈の言葉に智香子がすかさず口をはさんだ。

「それは自分の腕と魅力を磨くしかないんじゃないですか。」

その言葉に亜季と丈はパタッと時間が一瞬止まった音をきいた。それから丈は何事もなかったようにニコッと智香子に微笑んだ。

「まあ、ゆっくり聞いていってよ。」と言いながらいつものように亜季の肩を軽くたたいた。

「あの、それで今日は次のステージで最後ですよね。・・その後エリカさんと話す事できませんか?」

「んん・・何も予定がなければ大丈夫だと思うけど。エリカに言っておくよ。それにしても亜季がそこまでエリカのファンになるとはな。俺も自分を磨くか。じゃあ!」


 丈が去ると智香子が亜季に不機嫌な顔を見せた。

「なんか変な人。そりゃね音楽が悪いわけじゃないけどさ。どうせやるなら一流のところでやらないと。わからないけどこういうところでやってどのくらいもらえるもんなの。でもねぇ・・一流のところでやるにはあの人もう少し品よくならないとだめよ。なんかさ親が苦労して一流大学卒業させてこれじゃあね。親も泣いてるわね。親の期待にこたえようと無理しすぎてあんななっちゃったのかも。」

「さあ、親がどんな無理してたかまではわからないし、品があるかないかは受け取る側の感性だから。」

「そうかな?誰がみたってわかるよ。育ちとかそういうの。」

「そう?・・でも、彼のお父さん大病院の内科部長でもうすぐ院長になるみたいよ。まあ、確かに先輩の選んだ仕事は親が望んでいたとは言えないけど。」


「え!どこの病院?・・まさかね。なんかひどいこと言ったかな?怒ってるかな?どこかおっとりしてるなとは感じたんだけど。」
こういう智香子の変わり身の速さははいつものこと。いちいち文句をいうのもばからしい。むしろこれが智香子だと思う方が楽だった。

「大丈夫よ。そんな事気にしないから。それより早く話してみたい。」

「次のステージで終わりでしょう。もう少しよ。・・それにしてもあの人よく見ると亜季に似てる。それぞれのパーツはまるで違うけど。目なんてまるで違うもの。亜季はどんぐりみたいな目だし、あの人はきれいな切れ長。ただ横顔の顎から首の線とかそっくりなんだよね。彼女は亜季をどう思っているのかなぁ?それにあの人の目、ちょっと恐い。」

智香子の辛辣な言葉は時折真実が含まれる。(あの人の目、ちょっと恐い)それは初めてエリカをみたときから亜季がずっと思っていた事だった。


 長く感じたステージが終わる。エリカはそのまま亜季の方へ向かって来た。どういうわけかさっきまでドキドキしていたはずなのに少しずつ心が静かになる。自分で思う以上に亜季は度胸があるのかもしれない。エリカを迎える為に亜季が立ち上がる。それを見て智香子も。

それ程広くもないのに、たったこれだけの距離なのにどうしてこんなに長いのか。そして最後の一歩と共に二人は見合った。

亜季はまずは他の客より自分のところに来てくれたお礼をいうつもりだった。

「すみませ・・」

そこまで言って亜季の言葉はエリカの声に消された。

「お父様の事かしら?・・私は話すのはかまわない。でも話した事で何かを解決できるとは思ってないから。もちろんあなたと姉妹でいたいとも思わない。だってここまですべてを与えられたお嬢様に何かわかる事あるかしら?
父を恨んではいない。むしろ説得されて慰謝料なんて貰う母がばかなの。そしてお金で解決する事を誰よりも願ったのはあなたのお母さん。つまりこれはね男なんてもう関係ないの。私の母とあなたのお母さんと私。女が主役。それは意地とか見栄とかお嬢様にははかりしれない程醜いものかも。その意味わかるかしら?」


その時亜季は[恐い]と感じた理由がわかった気がした。
エリカはどこまでも微笑んでナイフを向けられる人だと亜季は今感じている。二人は話す事も座ることも忘れて沈黙の意味を空気の中に読み取る。

(ここにはエリカのための空気しかないのかも。)

亜季は小さく震えていた。

15、亜季・・・大人になれなくて

15、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-30

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