14、亜季・・・大人になれなくて
たわいない会話は恐い
14、たわいない会話は恐い
1週間後には夏季休暇が始まる。そうは言っても大学というところは一部の学部を除けば、または一部の勉学や研究に励む人を除けばこの時期はあってないようなものだ。もしかしたら一年を通じて一番真面目に学校に行き、勉強をしているのは小学生ではないかとこれまでの大学生活のなかでよく思ったものだった。
朝香と二人駅へと向かう帰り道。この日は朝からなんとなく気の重そうな亜季を見ていた朝香が少しふざけたように口を開いた。
「どうしたのよ!なんかさ今日は一日人生に疲れた詩人みたいな顔してるよ。」
「そう?・・・なんか気分がすっきりしないだけ」
亜季の返事に朝香が笑った。
「えっ!何?・・なんかおかしい?」
「だってさ、亜季は答えに困るといつもそのフレーズだよ。覚えてる?亜季と初めて話した時の事。」
「確か・・ジャズ研の部室でだった?」
「まあ近いかな。でも正確には部室へ行く途中の廊下です。亜季が先輩に誘われてジャズ研の見学に行く時よ。私もね入ったばかりで部活どうしようかななんて考えてた時でさ。
まあ、音楽系とは決めてたけどね。軽音からも誘われてたから早いとこジャズ研行っちゃおうなんて思って急いでたの。そしたらさ少し前をなんかボーッと考えごとしながら歩いてた亜季がいたわけ。
で・・ぶつかった。その時亜季が本を何冊も落として。私が誤りながら拾っててもまだボーッ。この人おかしいんじゃないかと思ったわよ。だからどうしたのと聞いたら・・・答えはそれ。なんか気分がすっきりしなくて。」
「そうだっけ。あまり覚えてないけど。」
「そりゃそうよ。私時々思うんだけど亜季ってきっと何かを感じるアンテナが人と違うのかも。鈍感かと思えば変に敏感だしデリケートかと思えば妙に図太いし。」
「それ、なんか新種の病気みたい。」
朝香はケラケラ笑うと
「でも大丈夫。人は皆長ーく生きてたら普通と言われる人になるんだから。そしてそんな老いた私達を見た若い人が言うのよ。なんて退屈な人生だろうってね。生意気よね。」
朝香は想像の世界でもう怒っている。でも亜季は朝香のその表情に温かいやさしさを感じていた。
(朝香はいつも自分でもわからない中途半端な私の心を拾ってくれる。何が彼女をこんなに大人にするのだろ?同い年なのに)
その後二人はだまって駅まで歩いた。
家に戻るとあれから一度も会うことのなかった智香子が来ていた。
「あら、お帰りなさい。智香ちゃんが来てたから早く帰りなさいって電話もメールもしたのに返事もよこさないんだから。まったくあなたに携帯は意味あるのかしら。」
母は恨めしそうな声でそう言った。そして智香子の方を見るとまるで楽しげに歌うカナリアのような声で話しかける。
「今日はゆっくりしていけるんでしょう?久しぶりですものね。ああ、お姉さんは元気?この間ひどい風邪引いていたけど。」
「もうすっかり。よく食べるし。よく寝るし。それで痩せたいなんて無理な話ですよね。」
「そうね。でも智香ちゃんのお母さんは少し痩せた方がいいわ。確かにあれじゃ膝も痛くなるわよ。昔はお姉さんも本当にいいスタイルだったのに。」
母のその声に亜季は(私はまだ体型を保っている)という勝ち誇った響きを感じていた。これ以上ここにいてもいい事はないと亜季は智香子を連れて部屋に行った。
入って数秒無言のぎこちない空気が流れる。あの日の事が亜季にはまだ整理がついていないのだ。もちろん幼いときからお互いの性格を見てきたのだから根に持つというわけではない。ただ、あの日はお互いに複雑な気持ちを抱えすぎていた。そんな時にできた溝はどちらかがまず窓を開け風を通す様にお互いの気持ちの通り道をつくらなければならい。始めに窓の鍵を開けたのは智香子だった。
「この間は・・ごめん。ちょっと言い過ぎたかなって」
「・・・私もなんの役にもたてなかった。・・・で、どうしてる?」
確かにこの時鍵は開いた。ただ亜季の中には何かが残る。それは智香子への怒りではない。今の亜季だけが捉われる言葉があの日あったからかもしれない。
「ところで亜季はやっぱり就職はしないんだ。で、どうするの?」
「うん、今考えてる。智香子夏休みは?」
「そうねぇ・・・彼もいないし。まあ友達とたまにフラフラ出掛けるくらいかな。亜季はカナダに行くとか。さっき叔母さんから聞いたよ。いいな。」
「カナダはね。でもパパと一緒というのがね。この歳で親と出掛けたいなんて思わないでしょう。ちょっと気が重いの。」
「確かに。でもさそんな何度もある事じゃないし親孝行と思えばいいじゃない。」
「そうだね。・・でもなんで今日急に来たの?」
そこで智香子があわてて大きなバッグから何かのパンフレットを何枚も取り出す。
「これなのよ。九月の終わりに友達が結婚するの」
「へえ・・相手も学生」
「まさか!それじゃ食べていけない。なんでもIT関連の会社の社長で、歳は35.。何回か会ったけどあまりね。でも私がするわけじゃないから。でね二次会の幹事を頼まれて。それがさ、もう我が儘で。お洒落なところがいいとかなんとか。だったら私に頼むなって言う感じ。でも仲のいい友達だし。それで彼女もその旦那になる人もジャズが好きで。生演奏が流れるところがいいんだって。でも私そっち方面全然わからないから。で、亜季ならどこか知ってるかなと思ったの。」
「ふーん。結婚したての二人に合うライブハウスねぇ。しかもオシャレなかんじでねぇ。」
そう言うと亜季は智香子の出したパンフレットを手に取り何気なく1枚、2枚と目を通す。6枚目だった。亜季の手がとまる。
ピアノとウッドベースその前面に立つヴォーカルはエリカだった。たった一枚の写真の中でさえ彼女は不思議な空気を漂わせていた。
亜季の様子に智香子が気付いた。
「えっ!どうしたの?そこいいの?知ってるの?」
「うん。表参道にある確かにいい雰囲気の若い女性には人気のライブハウス。」
「多分30人以上にはなると思うけど大丈夫かな?まあ確かに見た感じいいわね。これなら彼女も満足かな。どう?」
亜季は思い出したエリカの空気にひきよせられていた。智香子の声が遠い。
「亜季!どうしたの?・・それにしてもこの女の人、神秘的ね。男の人ってこういうのにまいるのかな?ああ、私にはそういうのないもんね。でも、こんな空気をかもし出すなんて結講いい歳かも、この人。」
「24歳。」
「知ってるの?その世界では有名な人?」
「さあ、でも1度だけ会ったの。それにね・・・思い過ごしかもしれないけど向こうは私を知ってるんじゃないかって気がして。」
「なんで?。」
「だって、独り言だと思うけど通りすがりにあなたが春咲 亜季って言うのが聞こえたの。」
「そう。」と言いながら智香子はもう一度そのパンフレットを眺める。そして少し大きな声で呟いた。
「エリカ。・・エリカ。・・」
「何?」
なぜか珍しく智香子の顔が曇っていた。
「んんん・・亜季・・知らないの?」
「何をよ?」
「だから・・叔父さんのというかこの家の秘密。」
「どんな?私は何も知らない。でももしあるとすればパパの表情の中にエリカが見えたのと関係ある?」
智香子は亜季の目を見てゆっくり頷いた。
その瞬間亜季の想像と現実が重なった。そして小さい声でこう言った。
「つまり私にはもう一人お姉さんがいたと言うこと。」
「でもね、まだこの人が本当にそうかはわからない。高校の時お父さんとお母さんが夜中話してるのを聞いてしまって。それにエリカという名前がやけに耳に残ってたの。・・亜季ももう大人だし知ってると思ってた。ごめん。どうしよう・・きっと叔父さんと叔母さんが必死に隠していた事なのかも・・ああ、またやっちゃった。」
どこか浮わついて見える智香子の後悔もこの時ばかりはその表情が緊張にゆがんでいた。ただ、そんな人の後悔をあれこれ考える余裕は今の亜季にはなかった。そしていつも頭の中で堂々巡りを繰り返す亜季とは別の亜季が顔を出す。
「智香子、一緒に来て。どうせ暇なんでしょう。」
「えっ!どこいくの?」
「今日先輩がエリカと四谷でライブなの。・・もう一度会ってみたい。そして確かめる。」
その亜季は亜季でないと智香子は思った。でもやはり亜季は亜季。人は他人の前でどの顔を見せるかを選ぶ事が出来るということを忘れがちなだけ。
こうして亜季はある決意を胸に、智香子は驚きと後悔を胸にエリカのもとにへと向かった。
14、亜季・・・大人になれなくて