11、亜季・・・大人になれなくて
手の中には今は何もない
11、手の中には今は何もない
亜季を取り巻く友達の就活戦争もそろそろピークを越えた。ジャズ研のメンバーも一人また一人と戻り部室が以前のように狭く感じる。
もとの光景が繰り広げられているだけなのに亜季はどこか複雑。1年から3年のメンバーがまばらに顔を出してはポツリポツリと音楽の話をしては早々に帰る。そして彼らの誰もが一度は口にした言葉「亜季さんは就職しないんですか?」
その言葉の意味をひとり残されたこの部屋で考えてみたり、感じてみたり、それが妙に亜季を落ち着かせていたからだろうか。
今日もここはにぎやかな声が響きわたる。朝香が亜季の隣に椅子を置いた。
「ねえ、この間のあの人なんか謎めいているわよね。エリカって本名かな?・・多分ああいうのを魔性の女って言うのよ、きっと。」
そう言うと朝香は私は何でもお見通しというようにひとり頷いた。
「・・・魔性の女・・・どうかしら。確かに不思議な雰囲気はあったけど。」
亜季にはエリカが「あなたが・・春咲 亜季」と言った事の方がひっかかったままだった。
「ああいうキャラをつくっているのかしら・・だってあの人が歌ったTemptation、まさしく誘惑。・・丈先輩大丈夫かしら?」
「大丈夫って?」
朝香は子供を諭すような目で亜季を見た。
「決まってるじゃない!変わりものの丈先輩も男ですからあの魔性に引きずられてジャズへの情熱もなにもかも捧げてしまうかも・・ああ、そしてついには阿河 剛にも見限られ最後にはエリカにも捨てられてお酒におぼれさび付いたベースの弦をつまびいては涙するなんてね」
ここまでくると朝香の妄想もそこそこおもしろいかもと亜季は呆れた笑いで答えた。
「ところで、亜季どうするのよ?この先働かないで毎日家にいるの?お母さんと顔つきあわせているなんて嫌なんじゃなかったの?」
「まあね。何か考える。」
あっさり言ってはみたもののその何かはまるで見えていない。ふたりの話を小耳にはさんだ真治がすかさず嫌味を投げた。
「亜季は別に働く必要ないだろう。まあ、花嫁修業だな。今の時代化石みたいな言葉だけど]
真治の口の悪さはおそらく生まれつきなのだろう。亜季はまったく気にしない。かみついたのはやはり朝香。
「あのさ、必要があるかないかで言えば私も別段ないのよね。ただ、自分の能力を社会に還元したいだけ。第一、今時花嫁修業なんて言葉を発っする事自体あなたが化石なのよ。確かにあなたのギターはすばらしい。ただしそれは技術の面でね。その無神経な嫌味を治さない限り人の心に染み入るような音は出せないわね。」
これは真治には痛かった。確かにメンバーの多くは幾度か思った事ではあるが。
音楽で生きていくという真治の願いは親の猛反対にあい就職は決めたもののなんとかこの道でと心密かに願う彼にはかなり打撃だったのだ。何も言わず真治は部室を出ていった。朝香はしてやったりと涼しい顔。ただ亜季は真治が少し気の毒だった。
やりたい事がはっきりと手の内にあるのに今はそこに邁進できないという事とやりたい事が今は手の上になにものっていない。でも探したい。そのどちらも不安というあせりは似ている気がしていた。
11、亜季・・・大人になれなくて