10、亜季・・・大人になれなくて

嘘と真実が交錯する瞬間

                                10、 嘘と真実が交錯する瞬間

   学生生活最後の春ももう終わりが近い。時間はどう感じようといつも同じ速度で過ぎる。人はその流れに乗り入学や卒業や就職や結婚といくつもの区切りをつくり、通り越しては浮かれてみたり、嘆いてみたりを繰り返す。詰まるところ命の終わりという最終地点に向かうのは誰も一緒なのに。

そして満足と納得のいく人生であったと思えたならば大方幸せな人生だったと言えるのだろうか。亜季には多くの友達や大人がその思いにたどりつく道筋がまだ飲み込めない。

夢は夢、理想は理想、現実は現実。そこまでは理解できる。ただ、夢の何を少しあきらめたらより生きやすい現実が送れるのか、理想をどう現実とすり合わせたら心安らかな日々がくるのか。


もっともこんな考えが日常をより豊かにしたい、もっといい生活をしたいと仕事に励む人にはただのたわごとなのだろうと亜季は感じていた。

だから多くの場合そういう事はけして口にしない。その結果亜季の表情はいつもどこか沈む。それを憂いと見るか、不機嫌とみるかは人によるがまっすぐに他人と向き合えないという思いだけが亜季の心を窮屈にしていた。


 うっとうしい梅雨に珍しく晴れた日だった。青い空に夏の雲がよこたわる。その雲が妙に勇ましく見える。フワフワと優しい雲のイメージからは程遠くあの雲に乗ったらジャンヌ・ダルクにでもなれるのではないかと亜季は校門の前で空を見上げていた。その時だった。遠くから声が亜季を追う。


「亜季!・・まってよ!」

数少ない友人朝香だった。ブランド好きでお洒落なあの朝香が高いヒールを気にしながら手を振りまくり亜季へとせまる。

その様子をみて亜季は二時にカフェテリアで待ち合わせをしていた事をすっかりわすれていた自分に気が付いた。

 ようやく追いついた朝香はもちろん半分怒っている。ただなんとなくの約束を忘れるのは亜季の癖と知っている為かあとの半分はあきらめてもいる。

汗を品よくぬぐいバッグからエルメスの香水の小瓶を取り出すとサッとひとふり。息を整えて亜季をちょっと怒った顔で見た。


「もう、亜季ったら!また忘れた?・・本当にどこかにメモっておいてよ。これで何十回目か。」

「ああ、ごめん。・・・そうだったよね。丈先輩のライブ今日だったっけ?」

呆れた空気が朝香から亜季へと送られた。


「そうです。だから夜何時にどこで会うか決めようって。今日なら一緒に帰れるからその時にって言ったのは亜季なんですけど。」

「本当、ごめんね。」

亜季はがっくりと肩を落とした。それを見て朝香はプッと笑う。

「で、何を見てたの?ずっと上みてたけど・・なんかある?」

「別に何にもない。」

そう言いながらがっくりしたのは実のところ雲の上のジャンヌ・ダルクからあっさりと現実に引き戻された事がただおかしくなっただけとひとりほくそえんでいた。


その日の夜7時、二人は吉祥寺のジャズライブハウス「Sarah」の前で再び顔を合わせた。

 ジャズには二つの顔がある。ひとつはニューヨークの高層ビルに散りばめられた夜景、そして気の利いたカクテルと心地いいピアノの音色。
大人の恋と、お洒落な空間。


そしてもう一つはもっと現実的な日常の悲哀を漂わせる俗にいううらぶれた場末の小さなバーで流れる音の魔術。

この「Sarah」はどちらかといえば後者に近い。ただ、ジャズを長年愛する人達には評判がいい。ジャズも、ソウルも、ジプシーのフラメンコも民族と歴史に根付いたものは悲しみや怒りという心の底からの叫びがどこかに反映されている。ただ、今の時代その部分はあまり重要ではい。
音楽もその場の空気と気分と時代の波にはさからえない。


 店にはいると丈がカウンターでひとりグラスを片手にマスターと話ていた。丈はあれから自分を誘ってくれた阿河 剛との仕事をしながらそのかたわらでこうしたライブハウスでも他の夢見るジャズマンと仕事をしていた。かなり名前が知られなくては一つのメンバーにいるだけで食べていける程甘くはないのだ。


亜季がそっと丈の肩をたたいた。
「ああ、来てくれたんだ。いやぁ・・うれしいな。朝香もありがとうな。本当、うれしいよ。ゆっくり見るっていうか聞いて行ってよ。俺の腕多分あがってるから。きっとびっくりだろうな!」

相変わらず気が大きいのか、調子がいいのか。亜季と朝香は目を合わせて心の中で舌をだしていた。


「俺の出番は8時だからまずはゆっくり飲んで。座って、座って。」

ふたりは勧められるままに腰をおろした。すかさず丈がいう。

「あっ!それから飲むならカクテルはだめだよ。ここのジャズにはバーボンが合う。」

そう言うと勝手にマスターにオーダー。丈と関わる人は余程強い主張を持たないかぎり彼のペースになる。それも彼の生き方かもしれない。


「で、どうしてる?亜季はやっぱりまだ悩めるお嬢様のままか?・・朝香は就職もう内定もらっているんだろ?どこだっけ?」

「大手銀行に。」

「すげっ!じゃ、あとはそこでいい旦那を見つけるだけか。」

その言葉にほんのささやかな皮肉を亜季は感じていた。朝香も勘はいい。何かプツンときたようだ。


「いいえ!私、銀行員と結婚する気はさらさらないし。もっと面白い人でないと。先輩のように好き勝手に生きて、勝手に人を操るというか、振り回すというか・・そういう人でないと人生あきますから。」

そう言って丈の顔を見据えた。

「うわっ。相変わらず朝香は恐いな。まあ、あまりむきにならないで。ほら、俺がいい加減だって知ってるだろう。」

その時どこからともなくあまりに柔らかく、静かに一人の女性が丈の側に立った。


「あっ!二人の美女は俺の大学の後輩。で、この神秘的な美女はエリカ。今日のボーカル。なかなかいいんだ。ソフトでいてメリハリのきいた声でさ。」

亜季は丈の話の間何故かエリカが自分をジッとみている事に気付いた。そして亜季も何故かこの見知らぬ美しい女性が気になった。

「へえ、丈さんの後輩。じゃあ、きっといいとこのお嬢様・・?だって丈さんもこんな事してるけどいつやめても食べるのに苦労はしないでしょう。」

「おい、おい。そんな事ないさ。もうすでに半分勘当みたいなものなんだから」

エリカは右の口元をほんの少し上げて静かに笑った。その笑みにどんな意味がこめられているのか亜季は気になった。


「エリカも少し何か飲めよ。俺はちょっとベースの様子を見てくるよ」

残った三人の間に微妙な空気の色が流れた。近くて遠い。優しいのに気まずい。
(この妙な空気はいったい・・何?)

「ところで、おふたりの名前をまだ聞いてないけど聞いてもいいかしら?」
エリカの声が柔らかく響く。


「もちろん。私は大津 朝香。彼女は春咲 亜季。中学から同じ学校の腐れ縁です。丈先輩のベースもだけどエリカさんの歌、楽しみです。
あの・・エリカさんは・・お歳は?よければだけどとても大人っぽく見えるから。」

エリカが優しく答える。

「24。でもいつも歳より上に見られるの。あなた方がうらやましいわ。」
その時亜季はエリカの視線を感じた。朝香は妙にエリカが気に入ったらしい。


「私達とそんなにちがわないんですね。でもとても大人に見えるわ。丈先輩の言うとおり神秘的だし。なんか・・あこがれちゃう。」

「それは多分私が早く大人として生きなければならなかったからでしょう。母は高校の時になくなったし、父のことはあまりよく知らないしね。急いで大人にならなくていいなんて・・うらやましい。」

それから少しの間沈黙がながれる。三人は三様にグラスを持ち目を伏せた。


「エリカ、そろそろだぞ。」

丈の声が沈黙を破った。スッと立つエリカ。静かに微笑むと亜季の後ろを通り去って行った。ただ、その瞬間亜季は確かに聞いていた。

「あなたが・・春咲 亜季。」

その響きはここまでのエリカとは違う鋭さが込められていた。亜季は去るエリカの背中を見つめた。その時間はまたも丈の声で破られた。

「それにしても亜季と、エリカの後ろ姿そっくりだな。一瞬びっくりしたよ。」


亜季はもう一度エリカの方を見た。その物憂げな表情の中に亜季の知らない大人の世界と素通りした真実が詰まっている事などしらないまま何故かエリカへの敵意と親しみを感じていた。

10、亜季・・・大人になれなくて

10、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted