9、亜季・・・大人になれなくて

自分の一歩手前

                                  9、自分の一歩手前

  胸のどこかに大きなつまずきを抱えた中日々だけ通り過ぎ静かに亜季の体を春の曖昧な空気のもとに運んでいく。
なんとなく母と顔をあわせているのが嫌で大学のジャズ研の部室で時間をもてあそぶ日が多くなる。


もうすぐ四年というのに亜季の頭の中には就職という二文字は存在していない。かといって何をやるというあてもない。
要するにしたい事が見つかっていないのだ。もっとも二十代早々に人生をどんな仕事を糧に歩いていくか決めるのはそう簡単な事ではない。

多くはその時期が来てしまったという大きな波に飲みこまれるようなものかもしれない。そして何度か訪れる人生の大きな波には乗るほうがそこそこに順調な人生がおくれるものらしい。

ただ今の亜季はそう感じていてもその気になれない。 今日も亜季は母の「しっかり考えなさいよ。」の言葉を背中でくい止めて部室でぼんやりピアノをひいていた。

(多分今日も誰も来ないかな?・・みんなそんな暇じゃないか。)
どこか煮え切らない表情とは裏腹にその指から奏でる曲は「素晴らしきかな人生」


「どうしてこの曲?・・・なんか皮肉ね・・・」
そんな小さな独り言が消えいく間際予想に反して部室のドアがあいた。

「おう!・・やっぱりな。亜季だと思ったよ。どことなく迷えるすばらしきかな人生という音色だな」
そう言いながら肩から大きな荷物を降ろすのはジャズ研の先輩、戸越 丈。

亜季は予想に反した出来事に数秒驚きはしたものの考えてみればありそうなことだと密かに納得していた。卒業をまじかにしても就職にはまるで興味をしめさない先輩。

頭の中はただ一つ。ジャズとどうしたらそれを続けていけるかという事だけ。彼にとって大学はジャズ研。多くの仲間が就職に頭を悩ます頃は確かにどこか浮いた存在にも思えたが本人はまったく気にしていないようだった。


優秀で父親は有名な大学病院の内科部長をしているという事実も彼には何の意味も持たない。そういう意味ではある種変わり者とも言える。

亜季はピアノにおいた指を止める事もなくと戸越の顔をみた。心なし頬が赤い。

「どうしたんですか?何かうれしいことでも?・・なんか興奮してるみたい」

「そうだな。興奮というより・・燃えてるね。わかる?」

「何かいい事?」

「俺にはね。尊敬するジャズピアニスト、あの阿河 剛から誘いを受けた。」
そういうと丈は目をキラキラさせた。そのまっすぐな純粋さが亜季に優しい笑みを与えた。


「よかったですね。でも先輩のベースは本当に評判よかったから。」

「いやあ・・まだまだだよ。でも正直ものすごくうれしい。」

「で、その誘い受けるんですか?」

亜季の質問に丈が理解を越えるという不思議な顔を見せた。
「あたり前でしょう!断る理由がない。」

「そうですけど。でもまだまだ自分にはという人っているじゃなですか。」


「そう、いるね。自信があるんだかないんだか自分でもわからないやつ。でも俺は違う。プロの中で自分が使えるかどうかなんてわかるわけないだろう。そんな凄いなかでやったことないんだから。でも今の自分に自信はある。そこから先はしがみついてものばしていくだけでしょ。恐がりに限っていろいろのうがきならべるんだよ。」

亜季は以前から丈があまり好きではなかった。自信過剰のような、調子がいいというのかそんな印象が強かったから。

ただ今日の彼をみていると素直な自信も悪くないと思えてくる。自信とは無縁の自分があまりに弱くてずるく思えた。


目をふせた亜季に丈が声をかける。

「で、亜季は就活しないのか?」

「今のところは。もうすでにおくれているし。それになにをしたいのか・・・わからなくて。まるで中学生の言葉みたいですね。」

「・・・そうか。俺の生き方を継いでくれるんだ。」
その言葉に二人で苦笑い。


 「まあ、それは冗談だけど。亜季はさ、もっと自分を好きになれ。いろいろあってもさいごは自分の力は自分で引き出すしかないんだから。
自分を頼りにできれば人の言葉も楽に入ってくる。それにな、自分を本当に好きな人は自分にこだわらないもんだよ。
本当の自分はなんて言う人間にかぎってわかってないんだよ。そのままが自分だと開きなおれ。亜季は今そこにいく過程なんだ、きっと。」

「自分を好きになるか・・・嫌いというわけじゃないんだけど。自分にも人にも猜疑心が強くて。」


丈がドアを勢いよく開けると大きな声で亜季に呼びかけた。

「よし!俺がベースを弾いてやる。思い切り人生はすばらしいという思いがピアノにのりうつる程感情を入れ込んで弾いてみろ。
どうせ今はたいして人もいないんだから音も亜季の感情のまま。大きくドーンとこいという思いで弾くんだ。ちじこまるな。」


亜季はためらいながらも丈の勢いに押されるように指を動かしはじめた。少しずつ体が熱くなり指は滑らかにはしる。気がつくと丈のベースが亜季の思いをしっかり受け止めるように力強く響いていた

9、亜季・・・大人になれなくて

9、亜季・・・大人になれなくて

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-30

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