帽子

「ピカピカピカ」

 その帽子はある有名帽子屋の目立つ場所にあった。
 帽子は中折れ帽という種類で、帽子の頭頂部にあたるクラウンが縦に折り込んであるのが特徴だ。その帽子は全体が明るい茶色でアクセントのリボンが黒っぽい渋いものだった。
 このお店には他にも色鮮やかで意匠の凝られたお洒落な帽子があるが、何故かこの帽子が一番目立つところに置かれている。それはどんな人でも想像している帽子らしい帽子として、店のシンボルになっていたためだった。
 そのため、この帽子は普段あまり売れないのだが、今日はいつもと違い、ふくよかな手が伸びた。
 その帽子を身に付け鏡を見ている人の姿がある。上等な服を着たおじさんだった。おじさんは帽子が似合っているのを確認すると、緊張で出た汗を拭いて帽子を会計した。
 帽子屋の外に出るとおじさんに向けて女性が手を振った。髪はウェーブがかかっており、小さな白いケリーバックを持ち、アール・デコ調の青いドレスを着ている。
 服装は上品そうに見え、彼女の顔は整ったものだが、つり上がった目が凡人を寄せ付けない威圧感を出していた。周りを通る男たちは自分が不釣り合いなのを無意識に感じて目を背けていった。
 おじさんはびしっと背筋を伸ばすと、まるでブリキ人形のようなぎこちなさで彼女のところに向かう。彼女は涼しい顔をして、おじさんの腕を組んだ。おじさんは顔が赤くなるのを帽子で隠しながら通りを歩いた。
 おじさんと彼女の馴れ初めはとあるパーティーだった。そのパーティーはお金持ちが集まるもので、おじさんはお金持ちの家の御曹司であり、彼女は接待に呼ばれたモデルだった。おじさんは女性慣れしておらず緊張していて、彼女はそれを察して上手く取り入り近づいた。大抵の男はそうだが、女性の下心があるのに気が付かず、この人と一緒に人生を過ごすことができれば幸せだと勝手に思い違いをする。
 おじさんも例外ではなかった。おじさんの感じる彼女の良さは表面的なもので、本当は人を物のように利用するだけの存在と考え、人の不幸を非常に喜ぶ性格だった。おじさんはそんな女性とは知らず、異性と言うだけで、特に綺麗な女性だからと浮かれてしまっていた。
 二人は通りから公園へ入った。彼女が何かを言うと、おじさんは辺りを見回しながら先に歩いて行った。やがて、何かを見つけて手を振った。彼女はそちらの方に歩いていった。
 茶色い薄汚いベンチがある。昨夜雨が降ったせいで湿っており、ベンチの前には大きな水溜まりがあった。
 彼女は不服そうな顔をしたが、おじさんは気が付かなかった。彼女が不機嫌に顔を歪めて何かを言うと、おじさんは慌てて上着を脱いでベンチに敷いた。
 彼女はまだ物足りないようで水溜まりを見ていた。今度はおじさんも気が付いたが、もう脱ぐことのできるものはなく途方に暮れた。考え事をする癖で頭を掻こうとすると、ふと帽子に手が当たった。すると深く考えることなく、帽子を勢い良く取って水溜まりの中に投げた。
 彼女は満足しておじさんの上着の上からベンチに座り、水溜まりに浸かったおじさんの帽子をハイヒールで踏んだ。おじさんは直にベンチで座り、水溜まりに靴を入れないように足を浮かせていた。
 二人はしばらくの間何も話さず沈黙していた。
 やがて彼女はイライラした様子で立ち上がって一人で歩いていった。おじさんは慌ててベンチに敷いた上着を掴み、水溜まりの帽子を手に取ろうとしたが、彼女が遠ざかっていくのと、水溜まりに浸かっていた帽子の使い道がなさそうなのを見て、何もせずに小走りで向かった。途中、振り返って買ったばかりの帽子を名残惜しそうに見るが、取りに戻ることはなかった。

「ビチャビチャビチャ」

 その帽子は水溜まりの中にあった。買ったばかりの真新しい帽子だったが、女性の願いで水溜まり避けとして使われた。
 それから帽子は長い間水に浸かってすっかりくたくたになり、もう帽子と呼べる形をしていなかった。遠くから見れば薄っぺらいぼろ布のようだが、素材が良かったためか、見ようと思えば価値のある物に見えなくもなかった。
 ある日、目利きの鋭い青年が公園を通りかかると水溜まりの帽子に気が付いた。絞って水を抜くと家まで持っていった。丁寧に水洗いして、乾かすと元の帽子に戻った。
 青年もこんなに立派な帽子になるとは驚いた。ちょっとお洒落をしようと拾ったのだが、ここまで上等だと着ている服に合わせることができない。
 青年の家は貧乏だった。父は勤めていた会社からリストラされて日雇いの仕事に行き、母は病気になってしまっていた。服を買うことはおろか、一日三食食べるのでも精一杯の生活をしていた。
 だが、青年の年頃、ちょうど高校生の時期は異性を意識してお洒落をしたくなる。青年も父と同じようにアルバイトをしてお金を稼いでいたが、服に使うほどなかった。そこで青年は考え、暇になった時、街に出かけて衣服や最悪、布を拾っては服に縫い合わせて着ていた。
 拾った物を着ることを不快に思う人が多いと思うが、周りのクラスメイトや友達に意外にも好評だった。勿論、それには理由があって拾ったものを丁寧に洗ってあるのと、青年の着回しと、布を合わせた服の制作のセンスが良かったためだった。担任の先生もその才能を認めていて、大学や専門学校でデザイナーの勉強をしたらどうかと勧めてくれた。しかし奨学金があるにしても、芸術系の学校に行くにはお金がたくさん必要で、青年の家庭では無理だった。青年はみんなから才能を認めて貰うことが嬉しい反面、働きに出るという決まった将来に複雑な気持ちだった。周りからの期待にも最初は笑顔だったが、時間が経つに連れて苦笑いを浮かべることしかできなくなった。
 もし自分の思い通りに人生を決めることができたらと思うこともあったが、考えていけないような気がした。だけど、デザイナーになりたい気持ちは消えなかった。
 青年の家に例の帽子がやってきてから劇的な変化が起こった。父は就職が決まり、母は病気が治り、青年の家にあった莫大な借金も奇跡的になくなった。青年は帽子を幸福を呼ぶものとして肌身離さないようになり、時々着ている服と似合わないことを知っていながら、被ってみたり、持って格好を付けたポーズを取ってみたりして笑った。
 青年の人生はまるで百八十度変わってしまったようだった。しかし、その人生は不幸から幸福へ、幸福から不幸へと、秋の空模様のように変わりやすいものだった。
 強い風の吹く日、青年の手にあった帽子は吹き飛ばされて道路に落ちた。ちょうど赤信号で車が通っておらず、走ってその帽子を拾いに行った。
 突然、通りで悲鳴が聞こえて、青年は道路に立ち止まった。そちらの方を見ると、険しい顔をした男が現れた。顔と服に血が付いており、手に赤く染まったナイフを持っている。
 青年は怖くて動けなかった。男はじっと見ている青年に腹が立ったのか、ナイフを構えて走り出した。
 殺される、と青年は目を瞑った瞬間、パンッと乾いた音が後ろで鳴った。目を開けるとナイフを持った男が胸を押さえて倒れた。後ろを見ると、また別の男がおり、手に拳銃を持っていた。
 青年と目が合うと銃を向けたが、また乾いた音が後ろで鳴り、銃を持った男は倒れた。また振り返ると今度は銃を持った男が三人いる。
 左右の通りから次々と男たちが現れて銃撃戦が始まった。
 男たちは暴力団であり、左と右で所属する組が違った。二つの組はある事件を境にいざこざが絶えず、ついに抗争に発展した。
 青年は運悪く抗争に巻き込まれた。パトカーのサイレンが聞こえる頃には暴力団と通行人を含む大量の犠牲者を出した。
 その中でも青年は最も銃撃戦の激しい場所にいたため損傷が凄まじかった。体には無数の穴が空き、夥しい量の血液がアスファルトに流れた。その近くには芸術大学の入学証明書と例の帽子が青年とほぼ同じになっていた。

「スカスカスカ」

 その帽子は道路にあった。風で吹き飛ばされて道路に落ち、青年が拾おうとすると暴力団の抗争に巻き込まれた。青年は死に、帽子は元の形が想像できないくらい穴だらけになっていた。帽子は警察に証拠として回収された後、廃棄処分されることになりゴミ捨て場に置かれた。
 ある日、少女がゴミ捨て場を漁っていると例の帽子を見つけた。こんな穴だらけの帽子は今まで見たことがなく、物珍しさから家に持って帰った。
 家はゴミ捨て場からほど近い五十階建ての超高層マンションだった。エントランス、エレベーター、部屋の前と、ポケットから鍵を出して扉を開けた。
 暗い廊下が真っ直ぐ伸びている。電気をつけて歩き、リビングの扉を開ける。やはり廊下と同じで中は真っ暗だった。
 リビングのスイッチを押すと寒色系の電球がついた。サラウンド設備の備わったテレビ、横長と一人掛けの二つのソファ、オットマン、ふわふわの絨毯、お洒落な照明、キッチン、ダイニングテーブルが整然と並べられている。
 どれも高そうなものばかりで、少女の家庭が裕福であるのがよくわかる。しかし、普通の家庭にありそうな家族の写真が見当たらない。かろうじて一枚、テレビの横に置かれた写真立てに小学校の門を背景に少女一人が写ったものがあった。入学式の写真でふてくされた表情をしていた。
 この時も、そして今現在も両親の姿はなかった。二人は大企業の優秀な会社員であり、しょっちゅう仕事で出張に出たため一緒に過ごす機会が少なかった。
 少女は両親といつ会ったか覚えていない。会う頻度が少ないのもそうだったが、両親からの愛情を感じなくなってしまっていたのもあった。優秀な人が親になった時にありがちだが、子供に求めるものが多く、期待に応えても褒めず当然と言った態度を取り、応えることができなかったら厳しく叱る。
 両親に束縛されるような日々は、まるで自分が操り人形になったように感じた。自分が誰なのかわからなくなる、人なのか道具なのか、生きている意味を見失いそうになる、
 そんな態度をされ続ければ、両親と会うことすら嫌になってしまうのも当然だった。今は両親が家に居ない方が嬉しい。
 持ってきた穴だらけの帽子を眺める。こうやってゴミ漁りを始めたのは両親への反発だった。親の気に食わないことをするのが、何よりも自分の意志を主張できて自由だと感じたからだった。
 この帽子をどうしようか考える。親戚のおばさんに頼んで縫って貰おうか、それともお店に行って直して貰おうか、どれも実行できそうにないと思った。おばさんには説明などのやり取りが面倒で、何か感づかれたらもっと面倒になりそうだった。お店に行って直すのもお金がかかり、少女の少ないお小遣いだけで直せそうになかった。
 そう言えば、たしか、物置に裁縫セットがあったことを思い出し楽しそうに笑った。針や刃物は触ると危ないと言われて使わせて貰えなかった過去がある。今まで使う機会がなかったが、今がその時かもしれないと思った。
 穴だらけの帽子を布と針と糸を使って縫い合わせていく。初めてで仕方ないかもしれないが、布は帽子に合ったものではなくて、元の姿をなくすほどカラフルで安っぽい仕上がりになった。それに縫い目はぐちゃぐちゃで、縫ったところは少しの衝撃で外れそうになっている。
 不出来なものにも関わらず、少女は初めての作業の割に良い仕事ができたと満足そうだった。慣れない裁縫で指が血だらけになっているにも関わらず笑顔だった。
 さっそく被って鏡を見る。似合うものではなかったが、少女は帽子を何度か被り直してはポーズを取った。一頻り満足すると、帽子をフリスビーのようにどこかに投げて横長のソファに倒れ込んだ。
 これからおばさんの家に行って夕食を食べることを考える。両親が出張に行っている間、いつもお世話になっていて、もうほとんどおばさんが少女の両親代わりのようなものだった。だが、おばさんの家は子供が多く大変で、とても少女のことを気にする余裕はなく、完全な母親代わりになったわけではなかった。
 少女はおばさんの家で過ごすのが退屈だった。おばさんのやんちゃ盛りの子供たちとは馬が合わず、一人で黙々とご飯を食べるだけだった。
 早く学校が始まらないかと思った。気の合う友達と会って話がしたい。親しい友達たちは旅行や里帰りしていて遊ぶことができなかった。
 冬休みなんて誰が決めたのだろう。ずっと学校だったら良いのに。休みなんてなければいいのに。みんな休みの間何をしているのだろう。なんであんなに楽しそうにしているんだろう。
 疑問が浮かんでは消えるのを繰り返した。結局、答えは出なかった。
 大きな窓ガラスに雪が付いては消えた。
 窓を開けてベランダに出た。
 雪の結晶が空から落ちてくる。髪や肌にひんやりと白い雪が付いて解ける。何だか体中が凍えるほどの寒さを感した。 ぶるぶる震えながらエアコンのスイッチを押して部屋を暖めるが、寒さは消えない。
 風邪でも引いたのだろうか。額を触ると酷い熱があるみたいだった。これから横になろうとどこかに投げた帽子を拾い、ふらふらとした足取りで寝室に向かった。ベッドに入り布団を被るけど、一向に寒気が治まらなかった。何故こんなに寒く感じるのかよくわからなかった。
 誰もいなくなったリビングの電話機の留守電ボタンが赤く光っている。いくつもの留守電が録音され、また少女の寝室の机に置かれた携帯電話に何通もメールが来ていた。
 全て両親からだった。両親は最近の娘の変わった様子に気が付き、なんとか連絡を取ろうとしていた。だが、やはり仕事の都合を優先してしまい、直接会うことはしなかった。
 都合がようやく付いて家に帰った時、取り返しの付かない事態になってしまっていた。
 一面真っ暗闇の中、ぼうぼうとした音を立てて炎の柱が揺れ動いていた。
 少女のいる高層マンションが真っ赤に燃えていた。
 原因は何者かによる放火らしい。だが、それだけにしてはあまりにも被害が大きかったし、不可解な点があった。最新設備が整っているにも関わらず、火災報知器、防火扉、スプリンクラーが作動しなかった。それとちょうど同時刻に大規模な停電が起きて消防車が大幅に遅れて到着したことだった。
 幸いにも多くの住人とマンションの管理人は逃げることができていた。彼らはこれらの不可解な放火事件について、マンションを建築する際に起きた近隣住民の仕業か、神社の跡地に建築した祟りと、途方もない話をしては燃える高層マンションを見ていた。
 少女の両親は停電の中、なんとかマンションに辿り着くことができ、燃えているのに言葉を失った。多くの住人の中に娘の姿を探すが、見つけることはできなかった。
 代わりに世話を任せたおばさんがいた。ぶつぶつと地面に呟きながら、マンションを見上げるのを繰り返している。流れた一粒の涙に炎がチラチラと映っていた。
 両親は心がズタズタになりながらも、管理人に娘のことを聞いた。火災報知器が作動せず、気が付いたら手遅れで住人に避難を呼びかけることができなかったと言う。両親は何も考えることができなくなって地面に泣き崩れた。
 まる一日以上かけて鎮火した後、消防士がベッドに横たわった少女の焼死体を発見した。その近くのテーブルには燃えた携帯電話と、黒焦げになった例の帽子があった。
 迂闊にも消防士が帽子に触れると、小さな音を立てて砕け散った。帽子は灰になり、風に流されてどこかに行ってしまった。

「ボロボロボロ」

 帽子はゴミ捨て場から少女に拾われ不格好に直されたが、火事に巻き込まれて黒焦げになった。消防士が触れると粉々になって砕け散り、灰になった帽子はどこかへ消えていった。
 あの帽子はもうどこにもないのだ。
 
 
 
 
 
 

帽子

帽子

ある帽子が次々と所有者を移っていって、みたいな感じです。 内容は憂鬱だと思います。

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-06-30

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 「ピカピカピカ」
  2. 「ビチャビチャビチャ」
  3. 「スカスカスカ」
  4. 「ボロボロボロ」