続・こんな読書感想文はイヤ!!
先に『浦島太郎はどうしてお爺さんになったのか?』と言うのを載せましたが、実はあれはこっちの副産物。
ミステリとして読む、太宰治の『お伽草子~浦島さん
浦島太郎という、誰しもが知る昔話には、謎がある。
浦島太郎が、お爺さんになってしまうという謎。
私は、およそ昔話のおしまいは『末長く幸せに暮らしましたとさ』の一文で結ばれるべきであると思っている。少なくとも、善人が主役である場合……。
一体、浦島太郎が何をしでかしたと言うのだろう?
彼は、亀を助けた。
間違いなく、善人。
その報いが、何故『タチマチ シラガノ オジイサン』なのだろう?
あまりに、理不尽。
確かに、浦島太郎は禁忌を犯した。
決して開けるなと言われた玉手箱を、開けた。
この『べからず』を破る話は、昔話にいくつも見られる。
『雪女』しかり、『鶴の恩返し』しかり、『パンドラの箱』しかり。
しかし――。
雪女にしても、子供哀れと男は殺されなかった。
鶴の恩返しにしても、ただ鶴は、これ幸いの潮時とばかりに飛んでいっただけ。
パンドラの箱にしても、しっかり箱の底には希望が残されていた。
けれど、浦島太郎はどうだろう?
『タチマチ シラガノ オジイサン』
謎、である。
そもそも乙姫は、何故こんな不可解なお土産を、浦島太郎に持たせたのだろうか?
太宰治も『浦島さん』の中で、この謎に行き当たる。
深い疑念にとらわれる。
そうして、なんとかして浦島太郎に救済の手を差延べようと試みる。
よく、『浦島さん』は、エセ風流人浦島太郎の的はずれな発言に亀が一々ツッコミを入れていくという、二人(一人と一匹)の掛け合いの妙を楽しむ小説と思われがちだが、私はこれを、浦島太郎という理不尽な昔語にハッピーエンドという隠された真相を見いださんとする、ある種のミステリ小説として読む。
勿論、探偵役は、我らが太宰治である。
太宰は安楽椅子の探偵よろしくこの謎に挑んでいく。
まばゆい五彩の光を放っているきっちり合った二枚貝。
所謂、竜宮のお土産の玉手箱。
亀は背中の浦島に、あけて見ない方がよいと深切(しんせつ)に忠告する。
けれども地上に戻り、生家に向かった浦島が目にしたのは『ミワタスカギリ アレノハラ』の惨状だった。
ここにおいて、さんざん迷った末、浦島は竜宮のお土産の二枚貝をあけてしまう――。
どうして浦島太郎はお爺さんになってしまったのだろう?
乙姫からの復讐や、懲罰?
或いは貴人の無邪気な悪戯?
玉手箱を、ギリシャ神話のパンドラの箱を引き合いに、太宰は考察してみたりする。
ひょっとして、玉手箱の底にも「希望」の星が残っているのではないか、と。
けれど、よしんば箱の底にそれがあったところで、浦島太郎は、既に煙を浴びて三百歳のお爺さんである。三百歳のお爺さんに「希望」を与えたってそれは悪ふざけに似ていると、その推理を打ち捨てる。
貝殻の底に、「希望」の星があって、それで救われたなんてのは、考えてみるとちょっと少女趣味で、こしらえものの感じが無くもない――と。
太宰は永い間思案する。思案して、遂に一つの結論に至る。
安楽椅子の太宰探偵は、この不可解なお土産に、貴い意義を発見する。
『タチマチ シラガノ オジイサン』
物語は、それで終わっている。
「実に悲惨な身の上になったものさ。気の毒だ。」とは書かれていない。
太宰は断言する。
そう思うのは、俗人の勝手な盲断、先入観に依るもの、三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかったのだ――と。
浦島は、淋しさから玉手箱を開けた。
どう仕様もなく、救いを求めて開けたのだ。
立ち昇る煙それ自体が、浦島にとっての救い。
太宰は次のように綴る。
年月は、人間の救いである。
忘却は、人間の救いである。
――と。
年月と忘却が、救い。
どういうことだろう?
少し長いが太宰探偵の推理――本文を引用する。
思い出は、遠くへだたるほど美しいというではないか。(中略)淋しくなかったら、浦島は、貝殻をあけて見るような事はしないだろう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救いを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよそう。日本のお伽噺には、このような深い慈悲がある。
いかがだろう?
一読し、違和感を覚えないだろうか?
『思い出は遠くへだたるほど美しい』と言っておきながら、『たちまち三百年の年月と、忘却である』だ。
思い出は、あくまでも覚えているからこそ、美しく思い出されるのであって、忘却してしまっては、そもそも思い出しようがないではないか。
これじゃあ『如是我聞』で太宰が指摘した志賀直哉の「東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套(がいとう)で丁度よかった。」と一緒じゃなかろうか?
矛盾している。
この推理は、破綻している。
太宰は、貝殻の底の「希望」の星なんて、少女趣味で、こしらえものの感じがすると書いている。けれどむしろ、この忘却こそ救いだなんて結論こそ、私にはこしらえものの感じがしてならない。
私は、ここにおいて太宰は犯人探し、希望の『ホシ』探しを放棄した――探偵役を投げ出したのだと思う。
つまり、浦島突発性老化事件(?)は迷宮入り。真相は藪の中。
そうして、ここで作家太宰が、ひょっこり顔を出し、この昔話の末尾に、そっと希望の『星』を書き加える。
要するに、『ホシ』のでっちあげ。
けれど、このでっちあげられた『ホシ』こそ、まさに希望。
末長く幸せに暮らしましたとさ、なんて昔話につきものの薄っぺらい常套句なんぞ比較にならない、何て深い慈悲に満ちた一文!
この一文によって、浦島太郎、そうして読者さえも、この昔話に、確かな希望の星を見いだすことができるのだから。
すなわち――。
おっと、私も野暮ではありません。ホシの割れたミステリ小説など誰も読みませんよね。
そこは是非とも、ご自分の目でお確かめ(亀)を。
続・こんな読書感想文はイヤ!!
『青空文庫』で読めたと思います。太宰治『お伽草子』の中の一つ、『浦島さん』です。
他の収録作は『瘤取り』『カチカチ山』『舌切雀』と、いずれも太宰なりの解釈がなされてます。
特に『カチカチ山』の兎。怖い。