あるひとりの数学者のはなし
チャイムの音で目が覚める。
「それでは、授業を終わります。」
気怠げな教室の雰囲気と国語教師の声が頭に響く。
「やっと終わった…」
国語は何てつまらないんだ。
作者の気持ち?その文字列に対する感想?
そんなのは俺の知ったことじゃない。
この世で一番美しく、この世で一番信じられるもの、
それは数列や計算式、理論のあるものだけだ。
人間も人間の感情にも根拠がない。
そんなものを信じろと言う方が無茶だ。
また、そんなことを考えながら校庭を横切り
何度目かもわからない欠伸をする。
毎日、同じことの繰り返し。つまらない。
でも、それでいい…
俺の横で黒ねこがにゃあと一声鳴いた。
毎日、学校が終わったら行く場所があった。
学校から少し行った所にある小さな喫茶店だ。
そこにはたくさんの理論書と数学書が並んでおり、
マスターの男は物静かな人で、
客はいつも俺の他に老人が1、2人しかいない。
カランカラン。
ドアベルの音とマスターの声、いつも通りだった、
はずだったのだ。
俺がいつも座る席には、先約がいた。
別に先約がいるのに驚いた訳じゃない。
栗色に揺れる髪、長い睫毛、陶器のように白い肌…
自分と同じくらいの歳の女の子だった。
目を奪われる。とても綺麗だ。
「マスター、あの子誰。」
マスターはコーヒーを挽く手を止め首を振った。
今日は、偶然にも客が多くて
相席をするにもその女の子の正面しか空いていない。
仕方なく帰ろうとしていたとき
「私の前、どうぞ」
少し高めな凜とした声に、俺の足が止まる。
しまった、話しかけられては断れない。
結局、彼女と相席をすることになってしまった。
「すいません、ありがとうございます。」
余計なお世話だったのに、
その感情は彼女の前に座った瞬間、消えてしまった。
人形のような女の子、とはこういう人の事を言うのであろう。
ずっと見ていたい。魅せられていたい。
だが、俺はその人間離れした容姿を直視できなかった。
俺は恥ずかしさを紛らわすかのように数学書を開いた。
数字の羅列、いつもなら落ち着くのに。
「何を読んでいるんですか?」
急に話しかけられ肩が震えた。
「…あぁ、アールフォルス氏が書いた数学書です。」
平静を装った、つもりだったのだが。
「そんなに緊張しないでください。」
彼女はそう言いながら微笑んだ。
お見通しなのか。俺は平静を装うのを諦めた。
「すいません、あまり女性と会話をした事がないんです。」
俺は言ってから彼女の目をみた。
優しい目だった。なぜか懐かしい気がした。
きっと、自分の母親と目元が似ているのであろう。
「私も、あまり男性とお話ししたことがないので、実は緊張しているんですよ?」
悪戯っぽく笑う彼女の八重歯に、見惚れてしまった。
あれから何時間が経ったのだろう。
彼女との会話は途切れない。
それどころか、話したいことが次から次へと溢れてくるのだ。
初めての感覚、人間とこんなに関わったのはいつ振りだろうか。
彼女が笑う度に、小さなイヤリングがキラキラと揺れる。
「綺麗なイヤリングですね。」
気づいたら声になっていた。
「このイヤリングは…昔、弟から誕生日プレゼントに選んでもらったんです。」
嬉しそうに微笑んだ彼女は続ける。
「でも、その弟とはもう…何年も会っていないんです。」
彼女は伏し目がちにそう言ってからまたいつもの笑顔に戻ると
「まあ、きっと今会っても、彼は私に気づきませんよ。」
「どうしてですか?」
思わず聞いてしまった。
「彼は、私と会わなくなってから少し後に…事故に遭ってしまって…記憶を失ってしまったそうなんです。彼は今、事故に遭ったことすら覚えてないと思います。」
「そんなこと、忘れられるんですか?」
「彼はまだ小さかったので…このイヤリングのこともきっと、忘れてしまっているでしょうね。」
悲しそうに言う彼女を見ていられなかった。
「俺…もうそろそろ帰りますね。」
席を立ち会計を2人分済ませてから店を出た。
店の方を振り返ると、外を見ていた彼女と目が合った。
にこりと微笑んで手を振る彼女に小さく手を振り返し、帰路を急いだ。
「ただいま。」
家に帰りリビングに行くと祖母と母親が笑いながら大きな本を開いていた。
「あら、おかえりなさい。」
俺の姿を見つけた瞬間、慌てて本を閉じて母は言った。
何を読んでいたのかは、あまり気にしなかった。
が、床に落ちている物を拾った瞬間、頭に血がのぼるような感覚に囚われた。
写真…撮った覚えのない家族写真だった。
今はもう離婚していない父と、今よりも少し若い母、
その母の腕に抱かれた3歳くらいの自分と…
見憶えのある、綺麗な顔立ちの女の子。
その女の子の耳には、
イヤリングが光っていた。
この時、今までの人生の疑問点が全て解けていくのを感じた。
俺に父親がいないのも、過去を語りたがらない祖母も、
アルバムを見せてくれない母も、人間的感情が欠如した自分も。
あの時感じた懐かしさも。
全て、この事実を隠す為だったのだと。
俺は写真を握りしめて、さっきの喫茶店へと急いだ。
勢いよくドアを開けると、マスターの驚いた顔とコーヒーの香り。
さっきまで自分が座っていた席には、誰もいなかった。
「マスター、さっきの女の子は!?」
初めて見るであろう俺の切羽詰まった顔にマスターは驚いていたが、
「先程、帰られましたよ。」
と心配そうに言った。
なぜ、俺は気づかなかったのだ。
彼女の存在を忘れていたから?
いや、違う。
これは、俺の罪だ。
人間的感情なんていらないと今まで思い続けてきたからこそ、
自分の中で発せられた信号に気がつかなかったのだ。
俺は先程まで自分が座っていた席に座った。
その時、自分の視界の端でキラリと光る物を見つけた。
片方だけのイヤリングだった。
それを摘み上げると、小さな小鳥のチャームがちりりと揺れた。
これを持っていたら、またいつか彼女に会えるかもしれない。
俺は小さな望みを握りしめて店を出た。
「それでは、授業を終わります。」
俺がそう言い文法書を閉じると生徒たちは気怠げに伸びをし、教室を出て行った。
「さあ、行くか。」
今日もまた、いつもの喫茶店へと向かう。
いつもは疲れて重い足取りも、なぜか今日は軽かった。
俺の横で黒ねこがにゃあと一声鳴いた–––––。
あるひとりの数学者のはなし
きっと、気付いていないだけで
奇跡は毎日起きているのです。
ありがとうございました。