Over
信じていたのは甘い世界で、期待していたのは幸せな結末。
歳を重ねる毎に分かってきたことは何事も経験してみないと分からないということ。
亮太と知り合ったのは、友達に誘われて入った社会人用のフットサルクラブだった。
飲み会の席で気付いたら隣に座っていたという感じで、それまでの経緯はよく覚えていない。
「田川です。田川亮太」
ほどよく日焼けした肌と短髪の髪が、いかにもフットサルクラブに居そうなタイプだなと思った。
「あ、本田です」
「本田、何さん?」
「茜です」
「本田茜さん。よし、覚えました」
そう言って笑った顔は、最初に見た時より幼く見えた。
「私も覚えました」
なんて返したらいいのか分からず、同じように返す。
「俺、人の名前覚えるの苦手で」
「そうなんですね。けど人数多いし、確かに覚えるの大変かも」
無意識に敬語を忘れていた。それに気付いて咄嗟に謝ると優しく笑った。
「いや。何歳ですか?」
「24です。田川さんは?」
「25です。正直、本田さんの方が上だと思ってた」
「えっ、老けてますか?」
「いやいや! なんていうか、綺麗な人だなあって」
慌てたように言われたので本心なのかは分からなかったけれど、単純に嬉しかった。
しかし真に受けていると思われるのが恥ずかしくて何ともないふりをした。褒められるのが苦手な故の、身体に染みついている昔からのクセだった。
「気を遣ってもらってすみません」
「え?俺、お世辞とか言えない人間だよ」
平然と答えたその顔に他意は見えなくて、なんだか憎めない人だなと思った。
距離が近くなるのに時間はかからなかった。亮太は誰とでも気さくに話すし、人を楽しませるのが上手で皆のムードメーカーだった。気付いたら皆と同じ様に呼び捨てで「亮太」と呼んでいたし、何でも話せる友達の1人になっていた。
私が仕事や他の用事で練習に行かない事が増えると電話を掛けてきたり、皆でイベントをやる時にも必ず声をかけてくれた。相談や仕事の愚痴も嫌な顔をせずに親身になって聞いてくれて、友達だけど頼りになるお兄ちゃんの様な存在でもあった。
バーベーキューをした帰り道、はしゃぎ過ぎたせいか皆ぐったりしていた。
それぞれのペースで、ばらばらに最寄駅に向かって歩く。1番酒を飲んでいた佐伯さんは凄く眠そうな顔をしている。それを最後尾だと思われる場所から眺めていた。
食品や道具を持ってきてくれたグループが車で横を通り過ぎて行く。
「肉、うまかったなー」
横を歩いていた亮太がぼんやりした声で言った。
「確かに。けど食べ過ぎた。眠いー」
「茜ほんとよく食べてたよな」
「食べてなんぼでしょ、バーベーキュは」
「まあ確かに」
話しながら、早く家に帰って布団にダイブしたいとかそんなことを考えていた。
隣の亮太も疲れている様で、最寄駅に着くまでそれ以上は喋らなかった。
バーベーキュー場から駅まで徒歩20分はかかる。疲れた身体に鞭を打つようなものだ。行きと帰りじゃこんなにも違うものかと思った。
電車に乗ると冷房の心地良い風のおかげで寝てしまったようで、肩を軽く叩かれて目が覚めた。
「もう着く」
亮太が私のリュックを抱っこ紐みたいに持っている。
「あ、ごめん。爆睡してた」
「俺も寝てて、自分の駅で降りそびれた」
「やっぱ疲れてたんだね」
そう言うと電車がホームに着いた。
亮太も切符を買い直すと言うので改札まで一緒に向かう。
「リュックありがと」
「うん。じゃあまた。お疲れ」
「お疲れー」
亮太と別れて駐輪場まで行くと、ポケットに入れていたはずの自転車の鍵がないことに気が付いた。もしかしてリュックに入れたのかもと思って中を開けて探す。入ってそうな場所にはない。まずいな、と思っていると後ろから声がした。
「いた」
振り返ると亮太がいて、手には鍵を持っていた。
「電車で寝てる時ポッケから落ちて。渡すの忘れてた」
「よかったあー! 鍵なくしたと思って焦ってた」
「ごめんごめん」
「いや、助かったよ。あ、電車は?!」
「次の乗るし大丈夫」
その言葉に私が申し訳なさそうな顔をすると、小さく笑った。
「大丈夫だって。じゃあ」
「本当にありがとう。じゃあね」
そう言って鍵を自転車に挿すと、亮太が何か思い出した様な声をだした。
「あ」
「どした?」
手をとめて顔を見ると少しだけこっちに近付いた。
「俺ね、茜のこと好きだから。それだけ言おうと思って」
それが亮太からの1回目の告白だった。
友達が異性に変わる瞬間てどんな時なんだろう。
どんな気持ちになって好きに繋がるんだろう。
そんな事を考えてしまうのが亮太に対する気持ちであり、答えだと思った。
断るからには今まで通りにいかないということも理解していた。前みたいに気軽に連絡しちゃいけないんだなと思うと、少しだけ寂しくなったりもした。
だけど亮太は変わらなかった。会えば話しかけてきたし、連絡だってしてくる。最初こそ気まずさがあったけど、いつもと変わらない亮太を見ているうちに何ともなくなった。そうして3カ月くらい経った頃、何の前触れもなく2回目の告白をされた。それは意図せず出た言葉みたいに思えた。
そろそろ寝ようかとベッドに入った時に携帯が鳴って、だらだらと他愛もない話しを続けていた。
「へー、前田さんやったね」
「俺もこの間会った時に聞いてさ」
フットサルクラブの3歳上の先輩に彼女ができたらしい。相手は1カ月前ぐらいから練習に来るようになった子だと言うから驚いた。
「いやー、みゆちゃん凄いわー」
「まじでね。確かに皆可愛いって言ってたけど」
「やっぱりね。ちらっとしか見れなかったけど、あれは男子が好きなタイプだよ」
「うーん」
「あ、みゆちゃんの他にも何人かいたじゃん?みんな可愛いし男子メンバー狙い定めてそう!」
「あーなんか怪しい動きしてる奴いたな」
「うわー」
「まあ良いんじゃない?もう秋だし」
「秋はそういう時期なの?」
「秋から冬はそういう時期だろ」
そこまで聞いて、なんとなくここから先は踏み込まない方がいい気がした。
それとなく話題を変える。
「あ、秋はイベントないの?」
「秋よりも冬だな」
「なに?」
「スキー、スノボ、温泉」
「絶対行く!」
「うん。その前に練習来いよ」
新しい人達が入るのと同時くらいから、仕事で疲れているのもあって練習には行っていなかった。
「気が向いたらね! もう皆に忘れられてるかも」
冗談ぽく笑いを促すように言う。
「忘れてたら電話しねーよ」
すぐに返ってきたその声は笑っていなかった。今まで、ラリーみたいに続いていた会話が静かにとまる。
「俺は茜のこと忘れた日ないけど」
返す言葉が見つからなかった。電話の向こうからは少し小さめのテレビの音が聞こえている。
「ごめん」
謝ったのは亮太だった。
「なんで謝るの?」
「なんか諦め悪いっていうか。茜は友達がいいって言ってたのに困らせて」
「いや、こっちこそ。なんか。その、ごめん」
沈黙が流れる。何をどう切り出せばいいのか、終わらせればいいのか分からない。私が話すべきなのか待つべきなのかも。
「やっぱ友達は無理かも。俺にとったら茜は女だしさ」
亮太が告げたのは、友達の終わりだった。
「わかった。私も勝手でごめんね」
それっきり亮太からの連絡はなくなった。
久しぶりに会ったのは温泉旅行だった。
バスに乗り込んで座席に向かう時、座っている亮太と目が合った。
「おはよう」って言うと「おはよー」だけ返ってきてそのまま通りすぎた。
やっぱりもう前とは違うんだなって感じて寂しかった。
旅館での飲み会ではテーブルは違ったけど、斜め前の角度で向かい合わせだったので亮太の様子が見えた。こっちの事は全く気にしていない様子で、隣に座っていた新しく入ってきた子と楽しそうに話している。女の子は、みゆちゃんと一緒に来ていた子だった。おそらく私よりも歳下だろう。2人が見つめ合っているのを見て、お似合いだなあと思った。それが視界に入らないように席を変えた。色んなテーブルから笑いが起きる。合わせて笑ってみたけど心の底からは笑えなかった。
「飲みすぎじゃない?」
声がして顔を上げると亮太がいた。
どうやら酔っ払ってテーブルに突っ伏していたらしい。
「芋焼酎ロックだもん」
「それはこうなるわ。皆そろそろ解散だってさ」
「そー」
「起きられる?」
手を取られたので咄嗟に振り払ってしまった。
「あ、ごめん。俺も部屋戻るわ」
「うん。ありがとう」
振り払った言い訳をしたかったのに出来なかった。きっと、したところで上手く言えないんだろうなと思った。歩いていく亮太に女の子が後ろから駆け寄る。前だったらあそこにいたのは自分だったのになと思った。
旅行から帰って来てから毎日、亮太の事を考えていた。あの子とは友達なのか、今何してるのか。何回連絡しようと思っても出来ずに時間だけが過ぎていく。こんなふうに考えてしまうのは気のせいだと思いたい自分もいて踏ん切りがつかなかった。
そのまま1週間経った頃、会社の帰りに、並んで歩く2人を見た。友達じゃない距離の2人を見た時、まだ消えない考えが気のせいじゃないんだと初めて自覚した。彼女が私に気付いて亮太に何か言うと、 目が合った。手を振るように挙げてこっちに向かってくる。その後ろに彼女が続く。2人が近くなるに連れて心臓の音が速くなる。
「今帰り?」
「うん。そっちも?」
気持ちを悟られないように平静を装って、鞄の中の携帯を取り出す。
「うん。あ、急いでた?」
「ちょっとね。亮太はデート?」
冷やかすように言うと隣にいた彼女が照れたように笑った。
「まあ。りなと会ったことあるっけ?」
彼女を見ながら言う仕草に胸が苦しくなる。
「 温泉のときに。あ、本田です」
「亮ちゃんから聞いてます! 佐々木りなです」
亮ちゃん。2人の仲を表しているような呼び方がたまらなかった。
「茜、時間大丈夫?」
「あ。そろそろ行くわ。じゃあまたね」
2人に背中を向けて歩きながら電話を掛けるふりをした。
そうじゃないと今の自分が惨めでやりきれない。
もちろん、2人には1%も伝わっていないけれど。
「もう茜に恋愛感情はない」
遅すぎる恋は呆気なく終わった。
次の恋に進むため、今更だって分かってるけど。言い訳を並べて伝えた気持ちは当たり前に届かなかった。彼女がいる時点で結果は見えていたはずなのに少し期待していた自分が滑稽だった。もう真っさらな友達ではいられない。恋人にもなれない。ただの知り合いでもない。失恋は何回しても慣れないなと思った。
亮太にフラれてからも練習には参加した。顔を合わせても挨拶を交わす程度で、お互いが仲間の1人として接していた。彼女と一緒にいる姿を見るのは辛かったけど避けるのも釈だという変なプライドがあった。2人が同じ空間にいる時は、いつもより気丈に、何事もなかったみたいに振る舞った。もう残されているのは、このまま少しずつ忘れるのを待つだけだと思っていた。
練習に参加したその日、お風呂から出ると携帯が鳴っていた。急いでリビングに行くと音はとまってしまった。液晶画面に不在着信の文字が表示される。
『不在着信 田川亮太』
久しぶりに見た名前にどきっとした。
すぐに掛け直すべきか。もしかしたら間違いかもしれない。考えているうちに15分が経ってしまって、まだバスタオル1枚だったことに気が付いてパジャマを着る。その勢いのまま、発信を押した。
「もしもし」
1コールですぐに声がして、はっとした。
「あ、もしもし。さっきの電話ごめん」
「こっちこそ、いきなりごめん」
一言一言にどきどきして構えてしまう。
「ううん。どしたの?」
「いや、特に用はないんだけど。元気かなって」
「元気だよ。そっちは?」
「元気、元気。てか練習で会ってるか」
「そうだよ。会ってるじゃん」
亮太が笑いながら言うから自然と笑顔になる。そのやり取りが懐かしくて目頭が熱くなった。
「だな。茜ってさ波江だよな、家」
「うん」
「今から会えない?」
「え?」
何がなんだか分からない展開だった。「駅着いたら連絡するから」だけ言われて電話は切れた。それでも体は正直で、胸は高鳴っていた。とりあえず急いで準備しないと。髪を乾かしながら何を着るか考える。本日2回目の化粧もしなくては。
突然の誘いへの戸惑いは、ほんの一瞬だけだった。
駅に向かうと黒い車の運転席に亮太がいた。近付く私に気付いて窓を開ける。
「ごめん。急に」
「大丈夫」
「乗って」
助手席か後ろか迷っていたら亮太が笑いながら助手席を指さした。
「こっちだろ」
「なんか彼女に悪いかなって」
「後ろって芸能人かよ」
「パパラッチ?」
「いいから、早く」
乗り込むと行き先も特にないまま車は走りだした。
助手席と運転席の距離に緊張して黙り込んでしまう。亮太も運転しているからか黙ったままだった。しばらくすると大きな駐車場で車がとまった。
「ここ」
「気付いた?バーベキューの」
「懐かしいね。こんなに駐車場広かったんだ」
「俺も今知った」
目が合う。こんなに近い距離で亮太と話すのはいつぶりだろう。
嬉しいはずなのに気まずさもあって目を逸らしてしまった。
「茜」
名前を呼ばれて横を向くと、唇が重なった。一瞬の出来事に体の動きがとまる。何故かまた目頭が熱くなった。
「なんで」
亮太の手が頬に触れて、親指が涙を拭う。
「もう恋愛感情はないって言ってたじゃん。彼女いるからって」
「そう言うしかなかった」
どの感情の涙なのか分からないけど、とまりそうもない。
亮太はそれをじっと見ている。
「こういうのだめだよ」
「うん」
「彼女いるのに」
「ごめん」
「謝らないでよ」
「ごめん」
唇まで流れた涙を拭うと今度は長いキスをした。このままずっと夜が続けばいいのにって、生まれて初めて思った。
罪悪感が全くないわけじゃなかった。彼女に会えば何とも言えない気持ちになったし、誰にも話せない。車だって芸能人みたいに後ろに乗って、会うのは決まって私の家だった。まさかこんなふうになるなんて、こんな恋愛をするなんて思ってもいなかった。彼女がいると分かっている人。隠れて会わないといけない関係。自分には無縁だと思っていたのに壁を越えるのはあっとゆう間だった。
「俺から言ったから。だから、りなとは別れられない。別れようなんて言えないんだ」
亮太にそう言われた時に感じたのは虚しさだった。
彼女と別れて欲しいと言ったこともないし、自分から会いたいとは言わなかった。正確には、言えなかった。自分の気持ちをぶつけたら関係が壊れると分かっていたし、最初から先を望んでも仕方ないと思っていたから。それでも心の片隅では期待していたのかもしれない。彼女よりも自分を選ぶ日が来るのを待っていたのかもしれない。それが愛しい人の言葉で簡単に崩れたのだ。涙はでなかった。ただ、自惚れながらも健気に亮太を想っていた自分が虚しかった。
「わかってるよ」
それしか言えなかった。亮太が私の髪を撫でる。そのまま肩に手を置かれたので抱きしめられるかと思ったけど、躊躇ったようにそのまま手が離れた。
「ごめん」
今まで聞いた中で、1番悲しい「ごめん」だった。
その声に今日が最後なんだと悟って、キスをした。そのまま首に腕を回して亮太の首筋に顔を埋める。
「好き」
そう言うと腰に回された腕の力が強まった気がした。
「ごめんな」
「そればっかり」
「けど、」
「最後だよ」
自分で言ったのに、言葉にするとはっきりと終わりを感じて胸が苦しくなった。亮太のことを、いつからこんなに好きだったんだろうって考えても仕方ないことが頭をよぎった。
「ずるいって分かってるけど。嫌だな」
「亮太はずるいね」
体を離して、もう1度最後のキスをした。
静かにドアが閉まった。廊下を歩いていく靴音が夜に響く。すぐに亮太だと分かるこの音を、もう聞くことはないんだと思って寂しさが増す。
「あ、傘」
ドアの近くに立て掛けていた、亮太が持ってきた傘。今週はずっと雨だった。
今追いかければ、まだ手が届く距離にいるのに。そうできないのは、気持ちの問題だけじゃどうにもならないことを分かっているから。どれだけ一緒にいたいと思っても、お互いを想う気持ちがあっても、もう続けられない。こうなることは分かっていたのに当たり前に胸は痛かった。亮太を思い出しては切なくなって、どうすることもできない気持ちを抱える日々を想像するだけでたまらなくなる。
いつもより広く感じる真っ暗な部屋を眺めて涙があふれた。
雨はまだ降り続けている。
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