雨が、雪に変わるまで

雨が、雪に変わるまで

 氷雨はしとしととアスファルトを濡らしていた。私はそんな大地と空の真ん中にぽつんと一人、立っていた。
 私の上にこじんまりと開かれたボロのビニル傘は何の役にも立ってはいなかった。心の内に降りしきる雨にも、この傘は全く無力でしかなかった。雨は容赦なく、排気ガスが微かに残していった温もりさえも、私から、大地から、空から奪っていく。
 私の隣り、同じく路傍に立ち尽くす街灯は、慎ましやかなオレンジ色の光をしっとりと道に投げかけていた。
 今宵の雨はいつにも増して冷たく、痛い。雨の一筋、一筋が鋭い針、あるいはごく細い氷柱に変わっていって、次々と身体に突き刺さってくるようだった。
 私は手袋の下のかじかんだ手を握ったり開いたりしながら、身体の持つ感触を確かめた。それから、じゅくじゅくと音がするぐらいに濡れそぼったつま先も同じようにして、どうしようもない、ともすると惨めな気さえする、指の動きのままならなさを改めて思い知った。
 しとどになった、私は幽霊。
 私に差し掛かる、一条のオレンジ色はひたすらに、いじらしい。
 空を覆う雲が作り出す昏々とした闇は、いつも通り無口で、その性質を誰にも、少したりとも恐れ入ってはいない風だった。彼らには素っ気ないと言ってやる程の愛想もない。だがそれでも、いや、それだからこそと言うべきか、いつかこの世に訪れるという終末とやらの持つ印象よりかは、どこか人間的で、優しげな感じがするのだった。
 向かいの家から漏れる話し声が、ふいに私の思考をするするとあちらへ引き寄せていった。声の主(きっと家の母親だろう)は編み物のかぎ針を繰るようにして、彼女を成す要素のひとつたる、深淵な宇宙の内へと、私の意識を導いていった。
 ……実のところは、彼女の問いはほんの他愛もない、些細なことだった。
 私は、私にはかつて母があったろうか? ということを考えていた。この自我の芽をくるんでいた、温い、厚い肉の衣のことを、私は知らなかった。そのような存在がこれまでこの世にあったことは、果たしてどのようにして知れるのだろう?
 いつしか私の頭の中では、古く、大きな振り子時計が、実に苦渋に満ちた、重々しげな仕草で時を刻んでいた。時計の針は長針も短針も坂を上る死刑囚に似ていて、恐らく宇宙百万回分の業を枷として、回り続けているに違いなかった。
 私はまた、そうして宙を漂ううちに、やや違った海域へと流れ着いた。つまり私は、久遠の日に灯された父の火について、考え始めていた。
 父の火は今もまだどこかで、燃え盛っているのだろうか? 人の意識の奥も奥、漆黒に包まれた遥か遠方で、置いてきぼりを食らった世界の始まりの炎は天に向かい、赤く輝く揺れる手を、絶えず諦めず伸ばしているのだろうか?
 ひらひらと幻より舞い上がった火の粉は、いともたやすく、間断なく流れ来る雨に掻き消されてしまった。
 雨が。
 雨が、
 雨が、降る……。
 水滴は堅く黒い床にぶつかる際、小さな輪を作る。この輪は私の傘の上にもたくさん生まれる。輪は刹那の合間だけ広がって、たちまちのうちに失せていく。だが新たな滴は空からとめどなく落ちて来るので、輪っかは無数に、どこにでも、繰り返し、出来上がってくる。輪たちは時折重なり、私の周囲をめくるめく埋め尽くしていく。
 私の吐息は、研ぎ澄まされた刃のような寒気の中で場違いにこんもりと丸く、白かった。一定の間隔で吐き出されるこうした生命の排気は、もし集中して見ることができるならば、とても趣深いものだ。先の輪っかもそうだが、生まれては消える儚さは見ていて哀しく、虚しく、そして同時に、言い知れない安心感を恵んでくれる。
 凍みた足が、痛い。足元を包むべっちゃりと浸みた布の靴は、前に、私が幼かった頃に、遠くの街で運命的な出会いの末に買ったものだった。
 目にも眩しい黄色だったこの靴は、場末じみた商店街の、さらにその端の靴屋の店頭に、右足と左足、行儀よく揃えられて並んでいた。私はそうした様子を見かけるなりすぐに店に入って、まだ血の通っていた足を、そっとこの靴に通した。試しに二、三歩歩いてみると、私の心はすっかり黄色に染まって、欠けていた一部が補完されて、完全な身体が取り戻されたような心地がした。私は瞬間的に靴と一生連れ添うことを誓い、事実、その通りにした。
 それから思えば、ああ。あれから、私は随分と長い道のりをやって来たものだ。
 咲きたての菜の花みたいだった靴は今や完全に色褪せて、今夜などは、絞れるほどに水を吸ってしおれ、熱を出した犬のごとくぐったりと俯いている。
 幾つものこまかな水の輪はあたかも、見えない誰かの無音の呟きだった。ぽつぽつ、ぽつぽつ。こんなに次から次へと、一体何を語りかけてきているのか。
 つと目を閉じて凍てつく風に身を委ねると、より多くの囁きが聞こえてきた。それらの声はどれも懐かしい、けれどもどこか殺風景な、乾き切った過去の日々のことを告げているようだった。悠久を経てきた過去は、ある特定の誰かや、何か特別なものの記憶ではないらしかった。無秩序に入り交じった思い出の数々はマーブル模様に溶け合って、ゆるやかに、なだらかに、大きな渦を巻いていた。
 傘を支える私の指はすでに感覚を失いつつあった。ただじぃんと骨の髄が痺れたような感じだけが、かろうじてここに未だ身体のあることを教えてくれていた。
 傍らを走り抜けていく風達はめいめい、世界を巡る間中、ずっと己の内だけに秘めてきたはずの内緒事をこっそり私に耳打ちしてから去って行った。そうして私はあっという間に世界の秘密の半分以上を知ってしまったわけだが、それでも私は、あまり驚きはしなかった。
 遠く遠く、何憶万もの宇宙の彼方からここへ吹いて来た風達は、私のこともずっと以前からちゃんと知っていたようだった。そしてその話を聞いた私も、彼らのことをこの世に生まれる以前から、もう十分な程に、よく知っていたのだということを思い出した。
 彼らの言葉は。
 ……幽霊だった。
 過去は、幽霊。
 幽き霊が、物語の正体だった。
 冷たい、このみぞれも語っている。
 繰り返しの意味と。
 円の無限と。
 何より終末と。
 虚無と。
 安らぎと。
 天国の場所?
 泥と水とを憑代に、マーブル模様が私の靴の上に透明な曼荼羅を描き出す。
 見上げれば私の上には、眩い光が満ち溢れていた。傘の上に溜まった水滴をプリズムに、オレンジ色の街灯の明かりがあちこちに散乱し、キラキラと輝きながら傘の曲線に沿って流れて行った。私は無意識に手を伸ばし、ビニルに触れ、思わず唸った。
 それほど昔でもない昔に、私は同じ光景を見たことがあった。恐ろしく速い車達が行き交う場所で、あの時、あの場にいたあらゆる生命の中で、私だけが生きて、仰向けになって空を仰いでいた。刹那の壮絶な事故の後、辺りに散った鉄屑と肉塊は静かに――――あんなに何かが静まり返っている様を、私は初めて感じた――――師走の雨に打たれて、夜の底に沈んでいた。それまで生きて動いていたものが一瞬のうちに虚無の中へ放り込まれてしまったという事実に唖然として、私は声も出せずにいた。
 ぱたぱた、と、やや風に煽られた雨が、私の上に偶然掛かっていたビニルシートを叩いていた。道路を煌々と照らすオレンジ色のライトが滅茶苦茶に眩しく、私は頭が痛くて、死にかけていた。足先の感覚が全くなかった。ビニルシート越しに見る夜空は不気味に滲みながら、金属とガソリンの匂いとに彩られながら、じっと暗い眼差しを私に送っていた。己の元に再び霊魂の帰ってくることを待ち侘びているかのような、そんな目がどこかで、青白く光っていた。
 ふと我に返った時、私の靴の上の模様は跡形もなく消え去っていた。代わりに、旅のしるしとも言える、泥の波打ったラインだけがつま先にじんわりと残されていた。
 私は次第に雨足が弱まって来るのを、傘を持つ腕を通して感じ取っていた。聴覚よりも鋭敏な感覚が、身体にぴったりと纏わりついていた。
 雨は徐々にこまやかに、軽くなりつつあった。
 私は肩の力を抜いて溜息をついた。正面の家の窓から、まだ少しばかり時期外れのクリスマスのイルミネーションが漏れ出ていた。チラチラと小さな赤と緑のライトが明滅する様は、私の内に不穏な、にじり寄ってくるようなさざめきを呼び起こす。
 孤独はいつも忍び足で近付いてきている。それも、どんな風よりも、時よりも速やかに、ひび割れて隙間の空いた弱い箇所を、狙い撃ちして訪れて来る。
 本当に、そんな時は、一気に壊れそうになってしまうものだった。
 私は過去という虚空に漂う、一縷の拙い自我に過ぎない。どうかすると簡単にほろりとほどけて、ひたひたの闇の大海原へと溶け行ってしまいそうになるのだ。
 闇に、虚無に、帰ることが、怖いから。私を一つに撚っている力の源であるその恐怖は、あの窓の向こう側と分かち難く結びついている。
 海原から寄せるさざ波は私の砂浜にちょっとの間だけ染みを残して、またぞろびいて帰って行った。
 私は傘を閉じた。
 雨がもうすぐ、雪に変わるので。
 間もなく花弁のような雪が降ってくるだろうと、私は不思議な確信を持っていた。全身がぴりりと騒がしく、妙に気がせいで、落ち着かなかった。
 雨に混じって、穏やかなオレンジ色が私の上に降り注いでいた。ややすると、あらかじめ思っていた通りのタイミングで、雪のひとひらが優しく舞い下りてきた。
 私は黙りこくって見慣れた夜空に目を向けた。顔を上げると、私の真上から放射状に雪が落ちてくるように見えた。雪は粉状で、乾いていた。この分では恐らく明け方には、雪の子達は道を白々と染め上げてしまうことだろう。
 私は今一度目を瞑り、頬を掠める雪片がどれだけ冷たいかを知ることに専念しようとした。そうすることで己の心が清らに、平静に保てるような気がした。例え実際には肉体の感覚として受け取れるものは皆無であったとしても、そう心掛けずにはいられないのだった。感じたいのだ、私は……。だから私は、かつてそうであったようにかじかむし、震えるし、寂しいし、恋しい。
 私は、暗い海によって寄せられた、過去の残滓だ。本来ならばうたかたとして摂理に従い流れ行くはずの存在が、些細かつ強固な執着ゆえに、溜まってしまったもの。記憶の澱。
 私は、幽霊。
 けれど、肩には雪が積もる。
 アスファルト上に敷かれたばかりのカーペットはほの白かった。降り注ぐオレンジ色は、いつもより柔らかな色味を帯びていた。
 もうすぐ何かがわかりかけている、予感。
 私はほう、と一息、あえかな生命を白く燃やした。

雨が、雪に変わるまで

雨が、雪に変わるまで

ある冷たい、雨の日に。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-27

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