勇敢なレナード

勇敢なレナード

 白ウサギのレナードは毎朝、起きて隠れ家から出ると、キョロキョロと辺りを見回してから出かけます。
 レナードの隠れ家は「賑わい横丁」のある街からあまり遠くない、こじんまりとした森の中にありました。
 レナードは時々、ひょっこりと賑わい横丁に顔を出しては、お菓子だの野菜だのを探し出して拾い、家へ持ち帰ってきます。レナードは今日もそのようにするつもりなのでした。
 レナードはぴょんぴょこと森の中を注意深く、しかしすばしっこく跳ねながら、横丁へと向かって行きます。
 道の途中でふと上を見ると、三羽の小鳥が鳴いているのがレナードの目に留まりました。小鳥たちは楽しげに翼をはためかせて、木の枝から枝へと飛び移りつつ、歌うように滑らかな調子でレナードに話しかけてきました。
「ウサギさん、ウサギさん、真っ白なウサギさん。そんなに急いでどこへ行くの?」
 レナードは突然のことにちょっと怯えて肩を縮こめ、それからおずおずと答えました。
「賑わい横丁に行くんだ」
 すかさず小鳥の一羽が言いました。
「あら。どうしてまた、そんなところへ? 私たちがいることにも気付けなかったあなたなんか、どうせドジを踏んで、あの恐ろしい人間たちに捕まってしまうのがオチよ」
「そうよ、そうよ」
 他の小鳥たちもピチチと意地悪くさえずり、はしゃいで続けました。
「やめなさいよ。あなたがあの、強ーいライオン……一度だけ街に来ていたサーカスで見た、黄金色の、あの大きなライオン……であったならともかく、あなたは臆病な、爪も牙もない、白ウサギなのだから」
「しかも森で一番臆病な、ちびウサギ」
 小鳥たちはレナードを囲ってひとしきり騒ぐと、パッと飛び立って、どこか遠くへたちまち去っていきました。
 残ったレナードは馬鹿にされたことが哀しく、しょんぼりと肩を落としました。何も言い返せなかったことが悔しくてたまりませんでしたけれど、小鳥たちが空へ逃げてしまった今となってはもう、飛ぶことのできないレナードにはどうしようもありません。レナードは仕方なくまた、ちょこちょこと草むらの中を走り始めました。
 レナードは走りながら、でも、小鳥たちの言うことももっともかもしれない、と考えていました。レナードは子ウサギの頃からずっと怖がりでしたし、確かに、全く強くありませんでした。昔、友達のウサギが街で鉄砲に撃たれて死んでしまったと聞いた時には、ぶるぶると身体中が震えて、丸一日隠れ家から出られなくなってしまったくらいでした。今も、もし忍び込んだ先で捕まって、皮を剥がれて食べられてしまったらと考えると、直ぐにでも家へ引き返したくなってきます。
 しかしそれでもレナードは、走ることをやめませんでした。どうしてかはレナード自身にもよくわからないのですが、レナードはいつも、特にこんなみじめな気持ちの時には、街へ出かけずにはいられなくなってくるのでした。実際に何度かは人間に見つかって、命からがら逃げてきたこともありました。ですがレナードはその度に、森の土とは違う、固い冷たい色んな食べ物のにおいがするレンガの道を駆けながら、妙に興奮した気分を味わうのでした。全力で走るにつれて嵐のように流れ過ぎて行く周囲の風景と、目まぐるしく形を変えていく雲と太陽の光が、レナードを他にない鮮やかな世界へ連れて行ってくれるので、その間だけは、レナードは目の前に夢中になって、怖さを忘れることができるのでした。そうして危うく命を拾ったレナードは、持ち帰ったわずかな食べ物(大抵は人間の食べ残した果物や野菜の固くなった部分や、皮などでした)をかじりながら、少しの間の大冒険を思い返して、ぶるるといつものごとく身体を震わすのでした。
 レナードはしっとりと湿った、柔らかな森の大地を蹴って進み、さらにどんどん賑わい横丁へと向かって行きました。その遥か上空では、見慣れない鳥が鳴いていました。先程の小鳥とはあまり似ていない、良く響く、甲高くてやや物寂しげな鳴き声の鳥でした。
 早朝の賑わい横丁は、ひんやりとした穏やかな静けさに包まれていました。今日の生活を始めようとする人の微かな気配がそこここからサワサワと漂ってきます。レナードは長く大きな耳を小刻みに動かして、慎重に、胸を破裂しそうなぐらいドキドキとさせながら、辺りの様子を窺いました。
 通りに並んだ家々の窓から人影が見え隠れしています。ある人は奥へ手前へ、留まることなく慌ただしく動き、またある人は、まだまだ眠たそうに、のんびりとカーテンを引いて、悠々と折り目正しくまとめていました。話し声が聞こえます。「おはよう」「もうこんな時間?」「まだ、あと少し」
 レナードはその小さな黒い鼻をひくつかせました。どうやら通りの一番奥の家から、スープのにおいがしてくるようです。そしてレナードはそれと一緒に、こんがりと焼けたパイのにおいと、甘くて澄んだ水のにおいも嗅ぎつけました。
 レナードは、ややためらってから、今朝はそこへ行くことに決めました。たくさん走ってのどが乾きましたし、お腹ももうペコペコでした。スープが作られた後にはいつだって、野菜の切れ端や皮がたくさん残されているものです。冷え過ぎていない清潔な水と、パイの欠片だって、レナードにとっては素晴らしいものです。レナードははやる気持ちを抑えつつ、サッとすきま風が吹き抜けるように通りの奥に向かって駆けて行きました。
 奥の家は賑わい横丁で、一番大きなお屋敷でした。家の正面にある門は立派で厳めしく、一年の内で開かれることは滅多にありません。とても用心深い家なのでした(もちろんそれは、門の下をくぐり抜けられるレナードには何の関係もないことでしたが)。さらに家の中にはたくさんの人が暮らしていました。レナードの手足では数えきれないほどの召使いに、やけに朝の早い料理人、サボりやの庭師。家の主人である足の悪いおじいさんと、最近めっきり病気がちになってしまったおばあさん。そして、まだ幼い彼らの孫の男の子も住んでいました。(少し前までは男の子のお父さんとお母さんもいたのですが、彼らはある日出掛けたきり、姿が見えません)
 レナードはそのうち何人かの顔は覚えていましたが、とりわけ、いつもレナードが忍び込む台所を取り仕切っている、まん丸に太った熊に似たおばさんのことは、忘れようもありませんでした。
 レナードは以前、その熊おばさんに捕まり、首をへし折られる寸前で脱出して逃げてきたのでした。レナードはもう少しで、危うくシチューに放り込まれてしまうところでした。その時はさすがにレナードも、もう二度と街へは近寄るまいと天に誓ったものでした。熊おばさんのソーセージみたいな指がレナードの首根っこを掴んだその瞬間、レナードは、全身に流れている温かな血が一気に蒸発して、凍え死んでしまうという気がしました。それは本当に恐ろしい、異様に長く感じられた、悪夢のような時間でした。レナードはそのような体験をもうしないために、横丁へは来ないと、強く、強く祈ったはずだったのですが……。
 ですがレナードは、今、再び、そんな危険な台所へと飛ぶように跳ねて向かっていました。レナードはそうした己の行動に自分でも納得できてはいませんでした。いくらお腹が減っているとしても、何もレナードを目の敵にしている熊おばさんのいる家へ行くことはないのではないか? 少しぐらい食べ物が減ってもいいから、もっと他の、物騒でない台所に行くべきでは? レナードはそう何度も考えましたが、なぜかどうしても足は止まりませんでした。
 レナードは息を弾ませつつ、震えていました。さっきまで減っていたはずのお腹は、気が付けば、緊張のあまり、全く気にならなくなっていました。走って、隠れて、また走って、レナードは裏庭を通って、台所に着実に近づいていきました。
 レナードの耳はそんなうちにも、色々な音を拾います。シュ、シュ、シュ、という大なべの中のお湯が湧く音。カサコソ、という、レナードよりもっと小さな生き物が床を這って忙しく動き回る音。パタパタと地面を伝って響いてくる、たくさんの人間が行き交う足音。やがてレナードが台所の傍にある、今は使われていない古い水場の近くまでくると、誰かが小声で、ひっそりと歌を歌っているのが聞こえてきました。
「……おいでよ、僕のウサギさん。
 青い小鳥はもう、行ってしまったから。
 おいでよ、可愛いウサギさん。
 僕はもう何にも、食べたくはないから。
 跳ねて、ちょっとずつ、跳ねて。
 こっちへ、もっとこっちへ。
 平気だよ。ここにいるのは君よりもっと、意気地なし。
 おいでよ、僕のウサギさん……」
 レナードはそろそろと、歌声のする方へと近寄っていきました。水場のすぐ隣には裏庭に通じる勝手口があります。声の主である男の子、屋敷でただ一人の子どもであるその子は、開かれた勝手口の戸にもたれかかって、どこを見るでもなく、ぽつんと佇んでいました。
 レナードは壊れた鉢植えの陰から、じっとその男の子を見つめていました。人間の言葉でしたので、彼がどんなことを歌っていたのかはわかりませんでした。ですが、何だかその声は、街に入る前に耳にした鳥の声と似て、どこかわびしく、ぴりりとレナードの心をざわつかせました。
 そのうち男の子の目から、大粒の涙が溢れてきました。涙の雫はぽたぽたと次々に垂れて、男の子の青白い頬を、たちまちびっしょりと濡らしてしまいました。レナードは男の子から漏れる嗚咽に耳を傾けながら、だんだん、とても熱い、けれど胸の苦しくなるような感じを覚えました。何か得体の知れないもやもやが身体の奥からこみ上げてきて、内側からぐいとレナードをせっついてきます。
 白っぽい日差しが荒れた庭一杯にかかっていました。男の子とレナードの間には、透き通った沈黙が、たくさんの枯れ葉の上にゆったりと横たわって、まるでまだ何も知らない赤ん坊の眠るように、安らかに息づいていました。
 足音から察するに、台所にもうすぐ今朝の食事当番の人がやって来るようです。レナードは男の子を見守りながらも、そういった気配を決して聞き漏らしはしませんでした。もっと言えば、その当番が他でもない、あの熊おばさんであるらしいことも、レナードにはちゃんとわかっていました。
 いつか見たライオンの爪と牙を、レナードは思い返していました。レナードはそれらを初めて目の当たりにした時――――きっと、誰に伝えても当然だと笑われるのでしょうが――――ライオンは自分とは完全に違う生き物なのだと、心の底から知ったのでした。例えレナードがどんなに速く駆けたとしても、ライオンからは逃げられないのだと、まず何よりも強く思ってしまいました。サーカスの檻の中から、ライオンはちらりと道端のレナードのことを見やると、大きく口を開けて、あくびをしました。サーカスの行列はあっという間に街を通り過ぎて行ってしまいましたが、金色の猛獣の強烈なにおいは、その後も長く通りに残されていました。
 レナードは一度、ぶるると身体中の毛を逆立てました。そしてそのつぶらな両の瞳で、キッと男の子を見据えました。
 男の子がもう一回、同じ歌を口ずさみかけた、その時でした。レナードはすくむ足を奮い立たせ、思いきり地面を蹴って、前へ飛び出しました。
 たん、たん、と二跳びで、レナードは男の子の前に辿り着きました。突然現れ出たレナードに気付いた男の子は、驚きで見開いた目を太陽よりも眩しく鋭く輝かせました。男の子は興奮して咄嗟に何か言いましたが、レナードにはその言葉はただの騒がしい音にしか聞こえませんでした。
 レナードはずっと、火薬のにおいに気をかけていました。男の子の奥、屋内の方を見ると、忌々しげに鉄砲を携えた熊おばさんが立っていました。もし男の子のレナードに気付くのが遅れたら、レナードは彼女に撃ち殺されていたかもしれませんでした。
 男の子は相変わらずはしゃいだ様子でレナードに語りかけ、それからやや落ち着いてきたためか、後ろを振り返って、熊おばさんに話しかけました。
「やぁ、マリア。見てよ。ウサギが来たんだ。きっと僕の歌に、答えてくれたんだよ」
 マリアと呼ばれた熊おばさんはこれ見よがしに肩をすくめると、呆れた風に言いました。
「何をおっしゃるやら。ぼっちゃん、そのウサギはね、泥棒ですよ。もう何度も台所に盗みにきている札付きの悪なんです。放っておけば増えて畑も荒らすでしょう。だから、さぁ、早くそいつを捕まえて、こちらへくださいな。今度こそとっちめてやらなきゃいけません」
 言いながら彼女が一歩踏み出すのを見るなり、レナードは今にも逃げ出したい衝動に駆られました。二人の間でどんな会話がなされているにせよ、熊おばさんの態度と口調からして、自分にとってろくなことではないとわかったのでした。
 しかし男の子は、今までの泣き虫が嘘であったかのように、きっぱりと言い返しました。
「ダメだよ。この子は、確かにマリアの言う通り、悪い子なのかもしれない。でも、それは、ダメなんだ。お願い、マリア。ダメなんだ」
 男の子の必死な声はレナードの耳の奥を通り越して、頭の中に直接響きました。その声音は川のせせらぎほどには美しい心地はしませんでしたが、冷えきった身体の中にじわりと染み入ってくる、陽だまりのような温かさに満ちていました。
 熊おばさんは不満げに顔をしかめると、何か聞き取れない言葉をぶつぶつとこぼしつつ、ゆっくりと踵を返して台所の方へと去って行きました。
 残された男の子とレナードは、しばらく何も言わずに正面から向かい合いました。徐々に熱を帯びてきた風が、一人と一匹の間を抜けて、高く伸びやかに立ち上って行きます。
 白ウサギは不意にパッと飛び立つと、直ぐに草むらの中へと姿を消しました。男の子が「あっ」と叫んだ時にはすでに、レナードは鳥よりも、ライオンよりも、この地上の何よりも速く、軽く、大地を駆けだしていたのでした。
 レナードは笑っていました。本当に怖いものは、いつの間にでしょう、どこかに消え失せてしまっていました。いつものような震えではなく、心の底から湧き上がってくるような火照りが、レナードの身体中を包んでいました。レナードはもう、この世界中のどこでも自由に走れるのだと知っていました。もう逃げるためだけに走ったりはしません。レナードは森へ帰ると、もう二度と街へは戻って来ませんでした。

勇敢なレナード

勇敢なレナード

白ウサギのレナードはよく森から抜け出て、『にぎわい横丁』へと出掛けます。人でいっぱいの、危険な『にぎわい横丁』へ、レナードはどうして向かっていくのでしょうか。レナードの怖いもの、レナードの欲しいもの、それは、本当はどこにあるものなのでしょう。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-27

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