平原君の悩み

 井戸から水をくみ上げると、田じいさんは井戸端にうまった石に腰を下ろし、白い息をはいた。今日も、寒い。もう春だというのに、この寒さはどうだ。周囲を見回してみても春の気配は感じられない。陽光は明るいが弱く、天も地もあいかわらず冷たく張り詰めている。
 急にそのか弱い光までもがあたりからうせて、じいさんは空を見上げた。井戸端のすぐそばにある豪勢な邸宅の、高く威圧的な楼閣の屋根の上に、まるでそこからわきあがったように雲が広がっていて、それが陽を隠していた。
(ふん、これみよがしに、こんなところにあんなもんを建ておってからに)
 腹立たしげに地に唾を吐きかけると、じいさんは杖を手にして立ち上がった。
 片手に水の入った桶を持ち、もう片方の手で杖をついて歩くじいさんの姿は、ずいぶん変わっている。背中を曲げ、短い足で時々つまずきそうになりながらびっこを引いてゆく。つまずきそうになるたびに、せっかくくんだ水が桶の中からぴちゃぴちゃと撥ねてこぼれた。
 少しゆくと、行く手に数人の女たちが現れた。近所の女房どもだ。彼女らもおのおの桶を手にし、何か楽しそうにしゃべりあいながらこちらにむかってくる。陽が再び顔を出し、豪邸に沿って植わる柳の、細い枝えだをすかした木漏れ日の中で、彼女らの笑みをますます明るくみせた。
 田じいさんは舌打ちをして立ち止まった。女たちが笑いながら通り過ぎてゆく傍らで、じいさんは体を堅くし、息を殺してじっとしていた。はからずも呼吸が乱れ、そのしわくちゃの顔も熱くなってゆく。
(くそっ)
 また舌打ちをして、己の奇妙な形をした足や、まとったみすぼらしい衣服をみた。そして惨めにゆがんでいるであろう自身の表情を想像した。やり場のないいらだちがじいさんをおそう。彼は自分自身が嫌いであった。他人になさけないものとしてうつっているであろう彼自身の姿が、たまらなく嫌であった。初春の陽ざしにほころんだ近所の女たちの笑顔さえ、彼には彼をあざけっているように思えるのだ。
 女たちが過ぎ去り、呼吸も落ち着くと、ようやく田じいさんは気を取り直してまた歩き始めた。しかし、その背後で笑い声がして、彼の歩みは再びとまった。振り向くと、豪邸の華美な彫刻のほどこされた窓の一つから、派手な衣装をまとった女が顔を出し、じいさんを指さしている。女は、振り向いたじいさんの顔をみると、また笑い出した。
「あはは、みて。変な顔。歩き方が変なら、顔も変なのね」
 自分の顔に血が、煮え立ちながらいっきにのぼってゆくのを、じいさんはどうすることもできなかった。手が震え、足が震え、しまいには全身がふるえだし、それでも足らず彼の怒りは行き場を求めて、その小さな体の中を暴れ回った。
 桶が彼の手から落ち、地面に水をばらまいた。転がった桶をそのままにし、じいさんは不自由なその足をはげまして憤然とその場から立ち去ってゆく。怒れば怒るほど、早くそこから去ろうと急げば急ぐほど、彼のびっこのひきかたはひどくなり、その姿をますます滑稽にみせる。それが自分でもわかるだけに、じいさんの心はますます惨めになった。
(畜生。馬鹿にしおって)
 いまにも崩れてしまいそうな、隙間だらけの小さな家に帰り着いても、彼の怒りは静まらなかった。いや、彼の衣服のようにつぎはぎだらけの、みすぼらしいその小屋の中に独りいると、その怒りはますます激しくなってゆくのだった。
(あれは、平原君の女だ)
 今に見ておれよ。と、老人は薄暗い部屋の中で目を光らせた。


 当時中国大陸では七つの大国が、たがいに戦の火花を散らしていた。すなわち秦、斉、楚、燕、魏、韓、趙の七国である。中でも後に大陸を統一することになる秦の実力がぬきんでており、隣国の魏や韓はたびたび侵略をうけていた。そんな中で、唯一秦に対抗できる国として残ったのが趙国であった。
 平原君。姓名は趙勝。趙国の公子の一人である。恵文王、孝成王の二代にわたって趙の宰相をつとめた。人材を重んじ、彼のもとには数千もの食客が集まったという。当時、趙の政治の実権は王にではなく、王族の中で最も声望の高い者、すなわち平原君にあった。しかしそんな彼の邸宅は、民家のすぐ近くにあったのである。

 ある朝、奇妙な老人がきて門番に何かわめき散らしている、という報告で趙勝は目を覚ました。寝具をはねのけて飛び起き、その老人を広間に通すよう命じると、急いで彼は衣をまとった。
「なにやらまたおもしろい人物が私を訪ねてきたようだぞ。楽しみだ」
 紗の簾のむこうにあった侍女の影が去っていくと、趙勝は振り返って言った。寝台には女が一人、寝具の上に座って彼に背を向け、髪をとかしている。女からの反応はない。
 女はちょっと手を止めたが、何も聞こえなかったようにまた、髪をとかしはじめた。趙勝が彼女のそばに寄っていく。彼の手が女の白くなだらかな肩にかかろうとしたとき、初めて女は主人に顔を向けた。皮肉な笑みが、その表情に浮かんでいる。
「そのお方とお会いになるとき、あなたは昨夜をともにした私のことを、すでに忘れているのでしょうね」
 女の頬がわずかにふるえ、その瞳から鋭い光が放たれた。趙勝はその視線をかわすように窓の外に目をやり、顎髭をしごいた。
「そんなことはない。たしかに、大勢の士が私のもとに集まってくるのは、私が彼らを愛し女を賤しんでいるからだ。だが、だからといって、そなたらなしで私は生きてはゆけぬ」
 女の口から低い笑い声が漏れた。
「ならば、その士とやらいう方々と、女と、どちらかを選ばねばならなくなったとき、あなた様はいったいどちらをおとりになりますか」
 趙勝は怪訝そうに女を見やり、腕を組んだ。考えてもみなかったことであった。今まで改めて考えてみる必要もなかったことではある。食客たちとの会話の中でそのような話が出たならば、彼はすかさずこう答えるであろう。
「それは、士をとるにきまっている」
 しかし今、一人の女と一対一で、面と向かってそう問われると、なぜかそう言いきってしまうのが、ためらわれるのであった。
「さあ、どうだろうな。時と場合によるよ」
 曖昧に答えて、趙勝は寝所をあとにした。
 広間に続く廊の途中に、数人の食客がいた。彼らは趙勝が近づいてくるのに気づくと、皆胸の前で手を組み合わせて礼をした。顔を上げて趙勝をみつめる彼らの視線はどれも、純粋で熱い。ひとたび何か起これば主人のため、趙国のために命を投げ出しもしようという、その表情である。
 丁寧に礼を返す趙勝の胸に、不思議な喜びが、わき上がってきた。
(士と女と、どちらが大事か。それは士だ。私はまちがいなく、士をとるだろう)
 彼はそのとき、迷いなくそう思った。それを頭の中で反芻してみると、彼の気分はすこぶる軽く快くなった。
 いくらかの食客たちも集まった広間に、老人が姿を現した。あちこちつぎはぎだらけの粗末な衣服に身を包み、薄汚れた顔の半分は、手入れもされていない白い髭で覆われている。曲がりくねった杖に寄りかかり、彼は落ち着きなく辺りを見回していた。
「どうぞこちらに。私が趙勝です」
 趙勝は立ち上がると、拱手の礼をし、老人に自分の側の席にくるよう丁寧にうながした。老人は返事の代わりに大きなくしゃみをし、服の袖で鼻をすすった。しばらくためらった後、その古びた杖にすがって恐る恐る歩みはじめた。そのびっこをひいて歩く姿も、はなはだ奇妙である。その日広間に集まった食客たちは皆上客ばかりであったが、おのおの軽蔑するように、その老人の近づいてくるのをみつめている。趙勝ただひとりはそれでも顔色も変えずに、やっとの事で自分の前まできた老人に、再び丁寧にお辞儀をした。
 老人はジロリと趙勝を下からにらみつけると、曲がった背を精一杯のばした。
「そもそも天下の士があなたの元に集まってくるのは……」
 あいさつもなにもなしに、いきなり大きな声でがなりだし、老人はせきこんだ。ひとしきりせきをして、それがようやくおさまったと思うとまたくしゃみを発し、鼻をすする。上客たちの冷ややかな視線に怒気をふくんだ顔をチラッと向け、そして老人は先を続けた。
「あなたのもとに士が集まってくるのは、あなたが士を重んじ女を賤しんでいるからだときいております」
 老人はそこで口を閉じた。その顔がだんだん赤くなっていく。感情の高ぶりが、彼をしてその行動の一切を、一時的に抑制せしめたのである。彼は目を伏せ自分の萎えた足をさすった。
「ごらんください私の足を。私は足が不自由で歩くこともままなりません。しかるに、あなたの後宮の女が、私の歩く姿を見て私をあざ笑ったのです」
 杖にすがりながら、この時初めて老人は趙勝にむかって拱手した。鋭い目を彼に向け、息を深く吸い、
「どうか、その女の首を頂戴したい」
 老人はそう、言い放った。
 趙勝の鷹揚な表情から笑みが消えた。その頬がひきつっている。彼も自分でそれに気づいていたが、無理に笑顔をつくろうとすると、引きつったその顔がますますゆがんだ。己の動揺をしられまいと顎をしごきながら、趙勝は思案げに老人を見、そしてチラと上客たちをみやった。先ほどまでは汚いものでもみるように老人に侮蔑の目を向けていた上客たちが、真剣な顔をして、彼の肩を持つようにうなずいていた。
 趙勝は目を閉じ、顎や頬をさすりながら己の座の周りをゆっくりとまわった。
「なんとも乱暴なお話ですな」
 目を開けると趙勝はおもむろに手を打ちならした。
 広間に入ってきた侍女になにやら耳打ちをし、彼女が出て行くと老人にむかって改めて一礼した。
「なにぶん私の後宮にいる女の数は多い。罰そうにも、私にはそれがどの女かわかりません。首をとられるとわかっていて名乗り出る者もいないでしょう。どうか、その無礼をはたらいたという女がどの者であるのか、指し示していただきたい」
 しばらくして広間に十数人の女たちが入ってくると、老人は口をポカンとあけて彼女らを見、そして趙勝を見た。彼としては趙勝の女がそんなにいるとは思っていなかったのだ。
「これが皆、あなたの女なのか」
「いえ、これはほんの一部です。この中にその者がいないのであれば、次の者たちを呼び入れましょう」
 趙勝が手を打ち鳴らすと、女たちは出て行き新たに別の女が十数人、部屋の中に入ってきた。老人の額と首筋に冷や汗が流れてゆく。彼が首を振ると、こんどは三組目の女たちが登場した。
 実は、広間に入っては出て行く女たちの中には、趙勝の妃や愛妾たちは含まれていない。老人の前に現れた彼女らは、入内以来趙勝の目に触れたこともない人々であった。その数は、すべてを合わせれば数百にものぼろうというほどのものである。
 はじめのうちは血眼になって女を捜し出そうとしていた老人であったが、十組目を相手とする頃にはもう彼の表情にも嫌気がさしはじめていた。
(そろそろあきらめる頃であろう)
 脇から老人を観察していた趙勝の顔に、ようやくいつもの鷹揚な笑みがもどってきた。しかし老人はなかなかあきらめようとはしなかった。
 二十組目も過ぎると、老人の顔色は明らかに悪くなっていた。細く短い足はガクガクとふるえ、杖にすがりつき、立っているのがやっとの様子である。しかしその両の目は、汗だくの顔の中で異様にぎらついていた。彼はまだあきらめそうもなかった。倒れたとしてもあきらめないのではないかとさえ、思われた。
 老人にやんわりとあきらめさせたい趙勝であったが、このままでは彼の身体も危ぶまれるので、かくなるうえは言をつくして何とか帰ってもらおうと、一歩前に出た。そのとき、ちょうど次の組の女たちが広間に入ってきた。
 入ってきた女たちを外に出そうとそちらに顔を向けた趙勝の背後で、突然老人が大声で叫んだ。
「あれだ。あの女だ」
 趙勝はびっくりして老人を見、そして彼の指さす先にいる女をさがした。それが女たちのどれを指しているのかよくわからない。
「あれですよ。右から三番目の、紅いかんざしをした女です」
 趙勝はようやくうなずいた。その組の中で紅いかんざしなどをしている女は、一人だけだった。年の頃は二十前後であろうか、集団の女と女の間に窮屈そうに挟まって、はにかんだように目を伏せている。何の変哲もない地味な女であった。紅いかんざしでもつけていなければとても人の目を引きつける要素のない、目立たぬ、おとなしそうな女であった。彼女は広間が静まりかえると、おどおどと目を上げ、自分を指す老人の指に気づいて頬を赤らめ、また顔を伏せた。
 本当にこの女が老人をあざ笑ったのだろうか。とてもそのようには思われない。もう一度確認してみようと老人に目をやると、彼は充血した目で趙勝をにらむ。その瞳が急に視点を失ったかと思うと、精も根も尽き果てたようにして、老人はその場にへたり込んだ。
「あの女です。あの女が私をあざ笑ったのです。あの女の首を頂戴したい。後で必ず私のもとに届けてくだされ。約束しましたぞ」
 大声でわめきたて、勝手に取り決めてしまった。やがて残った気力を振り絞って立ち上がり、趙勝の返事も聞かずに足をひきずりながら彼は広間から退出しようとした。
「お待ちください」
 趙勝は老人を引き留めようとしたが、老人は振り返ろうともしない。老人の背にあてていた視線を女にもどすと、彼女もまた茫然として老人の小さな後ろ姿をみおくっていた。
 老人が姿を消してもなお、女は虚脱したように彼の出て行った扉の向こうをながめている。その横顔は、もっと絶望的に遠い何かへ、向けられているようでもあった。彼女は恐れる様子もみせなければ、怒りもしない。ただあきらめたように、そこに突っ立っているだけであった。
「後であの者を我が部屋にこさせるように」
 重い気持ちでため息を吐きながら、趙勝は侍女に伝えた。
 夕方になって、女は趙勝の書斎に姿を現した。
 広間にいたときと同じように紅いかんざしをした控えめな女の小柄な体が、入り口の扉のところで動かなくなった。しょうがないとは思いながらも趙勝が奥にはいるようすすめると、彼女は激しく首を横に振った。
「私は、あのおじいさんを笑ってなんかいません」
 そう言って涙をポロポロと落とした。
 趙勝は女から目をそらせた。
「そなた、名はなんという」
「り、梨華と、申します」
 しゃくりあげながら、小さな声で答える。梨華のその表情をちらりと見やり、かわいらしいなと、趙勝はふと思った。これから手を下さなければならないこの女に対し、残酷な気持ちは少しもわき上がってこない。それどころか、梨華という女との新しい出会いに、喜びを感じつつさえある。大勢の中にいればわかりもしなかった。しかしこうしてみると、みればみるほど、何と愛らしい女であろうか。
 木簡をおしやって卓上に手を組むと、趙勝は身を乗り出して梨華を見つめた。その顔に自然と笑みが浮かんだ。
「君は、いくつだね」
「二十……五にございます」
 梨華は言ってから目を伏せ、顔を赤らめた。そしてまた、ハラハラと涙をこぼした。
「なぜ、そんなに泣く」
「だって、私は首をはねられるのでしょう」
 趙勝は押し黙った。さめた現実感が彼をおそった。気まずい沈黙が二人の間を流れていく。趙勝が何か言おうとすると、梨華は目を伏せたまま、ため息をついた。そして遠くを見つめるように天井をみあげた。
「ご主人様の後宮に入ったとき、私はまだ十五歳でした」
 彼女は静かに、趙勝を見つめた。その瞳は問うている。語ってよいかと。そして必死に訴えかけてもいた。語らせてほしい。これが最後というのならば、せめて、黙って死んでいくわけにはいかない。
 趙勝はしばらく梨華の、わずかに揺れる、澄んだ瞳を見つめていた。そしてうなずいた。
 梨華は再び天井を見上げ、語りはじめた。
 彼女は没落した貴族の出身だった。家は貧しく、家族は両親と彼女の三人だけであった。その両親は彼女が十五になると、無理をして娘を趙勝の屋敷に入れた。何とか家を盛りたてたいという願いがあったのだろう。しかし梨華は全く注目されなかった。何年も、何年も、浮かばれぬ月日を過ごすのである。彼女は毎日のように朝日を拝みながら想いつづけた。今日こそは何かある。何かいいことが、今日こそは、と。だが十年の間、いいことなど何も無かった。両親も亡くなった。もう今日に何かを期待するなど、気づいたらしなくなっていた。もう、あきらめかけていたのだ。このまま、この屋敷の片隅で、誰の目にもふれることなく朽ちてゆくのだと。どうせ自分には幸運はおとづれなどしないのだと。
 梨華は何かを押し抱くようにして両手を胸にあて、目を閉じた。
「しかしどういうきまぐれでしょうか。十年もたって、今日、突然あなた様の目に触れる機会が降ってまいったのです。もしかしたら、という期待が、久々に私の心の中によみがえってまいりました」
 天に祈っているような彼女の表情に、笑みが浮かんだ。頬にうっすらと、紅みがさした。
「あなた様は、私に目をとめてくださった。それが……」
 梨華の長い睫の下に涙が光り、その頬をつたっていく。閉じられたまぶたの奥に彼女は今何を見ているのだろうか。十年間何度も思い描いたであろう、満たされた豊かな日々か。それともこの屋敷に来る前にすごした、家族とのささやかで幸福なひとときか……。
 梨華は何度かまばたきをし、そして濡れた目で趙勝を見つめた。
「それが、私の命を、奪うためだったなんて」
 趙勝は顔を伏せた。そう、自分はこの女の命を、奪わなければ、ならない。
「そんな目で、私を見つめないでくれ」
 女を哀れとは思う。しかしこの女を斬らねば、食客らは彼のことを、女にめがなく士を軽んずる人物としてみるようになるであろう。食客らの信を得られなくなってしまっては、趙の平原君はおしまいである。士を大事にしてきた彼にとって、今彼のもとにいる者たちに見限られ、それ以降天下に人材を求めることができなくなってしまったとしたら、それはもはや趙勝が趙勝でなくなるということであった。
 趙勝は剣をとり、女に近づいていった。
 梨華は背を扉にはりつけて、ひたすら首を横に振っている。
「私ではありません。おじいさんを笑ったのは、私ではありません」
 そうだろう。きっとそうなのに違いない。目の前の女の、白いその顔に浮かぶ純真無垢な瞳が、どうして体の不自由な老人をいじわるく見つめるだろう。必死に無実を訴えてふるえるその誠実そうな唇が、どうして他人をあざわらうだろう。だが老人は、彼女を指し示したのだ。彼女を斬らねば自分は……。
 趙勝が立ち止まると、梨華は無実を訴えるのも、首を振るのもやめた。妙に静かなものがその全身を包んでゆく。彼女はゆっくりとその場にひざまずいた。
「どうか、せめてひとつだけ、私の願いをかなえてください」
 趙勝は、剣を投げ捨てた。
「わかった」
 一言うなずいて、彼は梨華を抱き上げた。
 翌朝、趙勝が目を覚ますと、前の晩彼の傍らにあったはずのぬくもりはすでになかった。身を起こして寝室の中を見まわしてみる。梨華はすでに身支度を調えて部屋の隅に端座していた。
 部屋に差し込む朝の薄い光の中で、化粧を落とした女の、凛とした表情が趙勝を見据えている。趙勝が寝台から立ち上がると、彼女は髪の乱れを直して一礼した。静寂な室内の空気がピンと張り詰めた。
 梨華は覚悟をきめたのだ。趙勝が彼女の側によってゆくと、彼女は顔を上げ、言った。
「もはや思い残すことはございません」
 しかし、梨華のすべてを受け入れたような静かで引き締まった表情は、趙勝の視線とまじあったとたん、たちまちにして崩れていった。彼女は趙勝にその表情を見せまいと顔を伏せ、さらに己が衣の袖で覆い隠した。その背がわずかに震えている。しばらくしてようやくふるえが収まると、袖の先で目頭を拭い、
「ああ、昨日のうちに死んでしまえばよかった」
 そう言いながら、気弱そうな笑みを趙勝にむけた。彼女は傍らに置いておいた化粧箱を開け、趙勝を見つめながら無造作に、己の唇に紅をさした。微笑してみせながらも彼女の頬には、一筋の涙がつたっていった。
「私は、欲張りな女でしょうか」
 趙勝は部屋の隅に転がっている剣に目をやり、再び女に視線を戻した。欲張りというなら、老人こそ、よっぽど欲張りではないか。ふとそんな考えが彼の胸をよぎる。顎髭をしごきながら首を振り、彼は部屋を出ていった。
 庭園に面してのびた回廊を渡ってゆくと、数人の上客がその一角にいて、趙勝に挨拶をしてきた。その中には、昨日広間に居合わせた者もいる。趙勝は曖昧に微笑んで彼らから目をそらせようとする。そのとき中から一人、進み出て拱手した。
「昨日の女の首はもう、はねましたか。士をあざ笑うとは、けしからぬやつです」
 男の後ろで、他の食客らも皆あいづちをうつ。このときはじめて趙勝は、士とよばれる彼らに対し不快感のようなものを感じた。
「あの女は、無実だ」
 低い声でボソリと言い、食客らをにらみつけた。
「そもそも、女に笑われたくらいで怒り狂って取り乱し、軽々しく人の命を所望するのが士のすることだろうか」
 誰に向かっていうでもなく、独り言のようにつぶやき、趙勝は庭の方へ目をやった。池面に反射してゆらめく光がまぶしい。その光に包まれるようにして、咲きはじめた梅の花々が微風に芳香をはっしながら、ゆれていた。
(そうだ、断じて士のすることでは、ない)
 心の中で今己の口について出た言葉をかみしめながら、趙勝は男たちに背を向け、もときたほうへもどっていった。
 部屋には梨華が、さっきと同じ場所に、さっきと同じ姿勢でまだ座っていた。あのとき彼女が無造作にさした紅が、今なぜか、水影の中で微風にひらめく梅の花のように、趙勝には思えた。
 趙勝は梨華に寄り添うと、いたわるように彼女の肩に手をかけた。
「君に、部屋をあげよう。広くてすごしやすく、そして私が頻繁に通える部屋だ」
 趙勝をみあげた梨華の頬にうっすらと赤みがさした。吐息を漏らして胸をなで下ろすでもなく、喜びに声をあげるでもなく、彼女はただ春の光に静かにほころぶ梅の花のように、徐々にその表情に生色をよみがえらせていった。
 これでよい、と趙勝は思った。

 裸の枝々に若葉が芽吹きはじめ、それは花香る街の辻々を、あっという間に新緑の柔らかな帳で包んでいった。
 趙勝はたびたび梨華の部屋へ足をはこんだ。食客たちの手前、露骨に寵愛するのは控えようと考えていた彼であったが、三日も彼女に会わぬと落ち着かなくなるのだ。彼女の部屋に入ると、いつでも浅緑の若葉と同じ初々しさで梨華が迎えてくれる。そのとき彼女は、はじめて趙勝の屋敷に連れられてきたときの、十五歳の娘のようだった。
 だが、趙勝の梨華に対する愛が深まるほど、食客らの心は彼から離れていった。
 ある雨の日、二階にある己の部屋の窓辺から、飛沫で白くもやけた柳通りを去ってゆく男たちの背を、趙勝は見つめていた。この年に入って、彼のもとを去ってゆく食客の数は、急増していた。趙勝はため息をついた。誰一人、振り返りもせずに去ってゆく。
 趙勝は外に向かって彼らの名を呼んだ。声は寂しげにあたりをつつむ雨音の中に消え、返事はかえってこなかった。
「なぜ、彼らが去ってゆくのか、おわかりですか」
 趙勝の背後にかしこまって立っている若い食客が、彼に問うた。
 趙勝は、彼に背を向けたまま黙っている。
 その額の広い食客は、いらだたしげにため息をついた。
「あのご老人に、女の首を差し出すと誓ったのに、その約束を守らないからですよ。女の首を斬らない限り、食客たちは去り続けますぞ」
「……わかっている」
「なら、なぜ女を斬らないのです」
 趙勝は振り返って、食客を見つめた。額の広く、聡明そうな顔をした、この青年。理想に燃え、ゆるぎない信念を胸に抱く、有能な食客。しかしそのような若者の視線が、今の趙勝には重かった。このような人物に、今の自分の気持ちを、どのように説明すればいいのだろう。きっと何を言っても、不純であるとはねつけられそうな気がする。
 趙勝がなかなか答えようとしないので、いらだった青年はもう一度、同じ質問を繰り返そうとした。そのとき、部屋の入り口で、物音がした。
 見ると、そこには茶器をのせた盆を持って、梨華が立っていた。
 梨華の姿を見る趙勝の表情がほころんだ。この重苦しい雰囲気の中で、何かすくわれたような気持ちになる。しかし彼の傍らにいる若い食客の顔には、みるみるうちに憤怒の表情が浮かんだ。
「おのれ。我が君を惑わす女狐め。我が君に代わって俺が成敗してやる」
 そう言って、剣を抜いた。
 食客が剣を振り上げる。
 梨華が悲鳴を上げる。
 盆が床に落ち、茶器が割れる。
「やめぬか」
 趙勝の怒鳴り声が響き、場は静まり返った。食客は剣を振り上げたまま静止し、顔だけ趙勝に向ける。なぜ。なぜ止めるのだ。疑問が、そのきょとんとした表情ににじんでいる。
「どうか先生。私のためにそのような乱暴なことはなさらないでください」
 趙勝は威儀をただし、青年にむかって丁寧にお辞儀をした。
 食客の顔には、急に白けたものがはしった。彼は剣を収めると、挨拶もそこそこにさっさと部屋から出ていった。
「ごめんなさい。私……茶器を割ってしまって」
 梨華は申し訳なさそうにしておろおろとそこに立っている。趙勝の視線に合うと、彼女はあわててかがみこみ、そこに散らばる茶器の破片を拾い集めようとした。
 梨華の傍らに趙勝もまたかがんで、破片を拾う彼女の腕をつかんだ。その細い腕は小刻みに震えている。趙勝は思わず梨華の体を抱き寄せた。
(どうして斬ることなどできよう)
 彼は思った。どうして斬ることなどできよう。自分はこの女を愛してしまったのに。この女はこんなにも、自分を慕っているのに。そのような女が生きることは、そんなにも悪いことか。彼女が生きていることを一体誰が非難できるというのだろう。生きることを否定されて当然とは、あまりに不憫ではないか。
「大丈夫だ、案ずるな。そなたは何も悪いことはしていないのだから」
 趙勝はそう言って優しく微笑んだ。
 梨華は涙ぐんだ瞳で彼を見つめ、そしてまた目を伏せた。
「もし……」
 梨華はためらいながらつぶやいた。
「もし、私のせいで、食客の方たちがみんな去ってしまったら、あなたは私を斬るのでしょうか」
 趙勝はしばらく梨華の伏せた目にかぶさってゆれる睫を見つめていた。ある程度は覚悟していたことである。食客のいくらかは去ってゆくことであろう。現に毎日彼らは趙勝のもとから去ってゆく。しかしその現象も、いつかは落ち着くであろうと彼は思っていた。だがもし本当に梨華の言うとおりになったら、自分はどうするだろう。自分のもとに一人の食客もいなくなってしまったら。それは今まで彼があえて考えまいとしていたことだった。
 趙勝は梨華から体を離すと立ち上がり、あごをさすりながら窓の外に視線を移した。出ていった者たちの姿はもう見えなくなっている。人気のない通りの、濡れた路上を漂う靄を見つめていると、なんだか胸中が冷たくなった。
「もし、そのようなことになったら……」
 趙勝の手が、自然と腰にさした剣の柄にかかる。ゆっくりと振り返るその目元に暗い影が、一瞬さした。
 梨華もちょうど顔を上げたところだった。梨華と目が合う。邪気のない彼女の目を見つめていると、なんだか恥ずかしくなった。趙勝は苦笑して剣の柄から手を離し、頭をかいた。
(そんなことにはなるまい)
 彼は思いなおす。そんなことあるはずが無い。まさか三千人の食客が、女一人のためにすべていなくなってしまうことなど。
 翌日、あの額の広い青年もまた、屋敷を去っていった。趙勝はいつものように自室の窓から、去ってゆく彼の背をじっと見つめていた。彼もまた、振り返ることは遂になかった。
 食客たちの目を気にしながらも、趙勝は梨華を殺さなかった。そして梨華にかわる犯人を捜そうともしなかった。今となっては真犯人など見つかりそうもなく、また、殺される気の毒な娘を捜すのに努力する気にもなれなかった。結果的に彼は老人の取り決めを完全に無視するかたちになってしまったが、どうしようもなかった。老人の言は彼の記憶の中で次第に薄れていった。
 深刻でいることは趙勝の中では長続きしなかった。屋敷にはまだ大勢の食客が残っている。彼らはそれぞれ様々な考え方を持っている。自分の想いを理解してくれる者もきっとたくさんいるであろう。そんな楽観的な考えの中に趙勝は埋没していった。梨華を抱き、楽観的な考えに抱かれているのは、心地よかった。

 秋、ある男が趙国にやってきた。彼の名は田文。趙の隣国斉の王族で、賢人との評判が高く、何千という食客が彼のもとに集まっていた。その名声はすでに天下にとどろいており、斉とは諸国の中で東西の対極に位置する秦が、宰相に欲したほどという。戦国四公子の一人として後の世にもたたえられることになる孟嘗君とは、彼のことであった。
 趙勝はその日、朝から興奮を抑えることができないでいた。あの田文がやってくる。そのことで頭がいっぱいだった。この日ばかりは梨華が側にいても彼女のことなどうわのそら。まだみぬ賢者の姿に思いをはせながら、はやくから広間にでてその中を落ちつきなく行ったり来たりしていた。
 田文は、趙勝が思っていたよりも小柄な人物であった。容貌も、お世辞にも美しいとはいえない。しかし彼の身体の内のどこからともなくただよってくる風格、その堂々として悠々たる物腰は、彼を実際よりも数倍大きく、美しく感じさせた。趙勝も丁重に田文を出迎え、礼を尽くしてもてなしながら、終始君子らしく鷹揚に振る舞ってはいたが、その首筋は冷や汗で濡れていた。
「私はあの人には遠く及ばない」
 田文が辞去した後も興奮をまだ残したまま、梨華の部屋に入るなり趙勝は言った。隅にかしこまって彼を見つめる梨華の存在を忘れたかのようにして部屋を横切り、窓辺へとよる。朝のさわやかな光の散る柳通りには、普段よりも大勢の人々がいきかっている。その喧噪は、いつもの倍の音量となって彼のいる部屋に伝わってきていた。
「あれらの人々も皆田文殿のお姿を一目見ようと集まってきたのだろう。すごいなあ。まるで私とあの方との徳の違いをみせつけられているようだ」
 言ってようやく振り向いてみると、梨華はどこか寂しそうにして微笑んでいた。
「あなた様は、田文様のようになりたいとお考えですか」
 そのときの梨華の声音が、趙勝には妙に遠いものに感じられた。とても久しく彼女の声を耳にしていなかった気がする。ながらく側で暮らし、ききなれたはずの女の声に、違和感すら、覚えた。
「もちろん、なりたい」
 多少とまどいながらも趙勝がこたえると、梨華は何も言わずに目を伏せた。
 群衆の流れはゆるやかに街の中心部の方へとむかっていく。そこを今頃田文が通っているはずだ。再び窓の外をみやりながら、趙勝は次第に退いてゆく足下の喧噪に、漠とした不安を、ふと感じた。
 後ろで梨華が、ポツリとこぼした。
「私は、今までの趙勝様が、ようございます」
 その声も、様々な音に混じって、どこか遠くに響いて消えた。
 趙勝に事件が知らされたのは、それから一時ほどたってからだった。田文と共に街に行ったはずの侍臣が、一人でもどってきた。
 取り乱して主人の執務室に飛び込んできた男から報告を受けると、趙勝は血相を変えて外へ飛び出していった。
 街の中心部は異様に静かであった。路を行く人の姿はない。普段は賑やかな路上には、ただ累々と人間の死骸が折り重なり、ときどき風が吹いては砂塵がその上を舞ってゆく。不気味な沈黙の中で悲しげに鳴る風の音が、まるで死者たちの声にならない呻きのようであった。
 趙勝はこの光景を目の当たりにすると、おもわず手を口にあてた。
「これを、あの田文殿がやったというのか」
 趙勝についてきた侍臣が黙ってうなずいた。
 趙勝はその場にくずおれ、地面に手をつく。
「なぜだ。田文殿がなぜこんなことを」
 砂をつかみながら呻き、顔を上げてもう一度この光景を見る。信じられない光景であった。死者の中には老人もおれば女もいる。小さな子供がしっかりと姉の手をにぎり、母親は赤ん坊をかばうように胸に抱いて、皆血だらけの体を地に横たえている。ああ、これらの人々にいったい何の罪があったというのだ。善良そうな市民らの、恐怖に染まったままこおりついた表情に目をやったとき、趙勝の視界はゆがんでそれらをまともに見ることができなくなった。
 趙勝の後ろにひかえてそれまで黙っていた侍臣が、気まずそうに咳払いをして、説明した。
「田文殿の姿を一目見ようと集まった群衆の中に、田文殿の容姿をあざ笑った者がいたのです」
 それをきくと趙勝は後頭部に打撃を受けたようにして、首をうなだれた。侍臣はまた、気まずそうに咳払いをして黙り込んだ。
 かつて彼の屋敷を訪れたみすぼらしい老人の姿が、趙勝の真っ暗になった頭の中に浮かんできた。あのとき、己の歩く姿を笑われたがために梨華の命を要求していった、あの老人……。そしてたった今、罪のない数百人の民衆を、その中に己の容姿を笑った者がいたがために虐殺していった田文。士とは、そうあるべきものなのだろうか。士に対する侮辱には、命をもって償わなければならないものなのだろうか。それは、罪のない者に対しても、容赦してはならないのだろうか。
 市井の老人だけではない。天下の人々が皆賢者とあがめるあの田文も、己の侮辱に対する報復として、この蛮行をなすにためらわなかったのだ。その事実が趙勝に重くのしかかる。それは梨華を斬ることのできない趙勝が、士の心根を解さぬ男であると天下に示すことでもあった。
 事件をききつけた役所の下吏らが、後始末のため駆けつけてきた。悲惨な静寂の中に小さいざわめきが生まれると、趙勝はよろけながら立ち上がった。その場を後にしていく彼の背を、死者のひしめく街路を渡ってきた風が、おす。斬れ。斬れ。梨華を斬れ。風はそう、趙勝にうながしているようだった。
 午後になると、数十人の食客が一団となって屋敷から去っていった。そんなに大勢の者が一度に出て行くのは今までになかったことだった。その日はその後も、日が暮れるまでに数人ずつ、あるいは十数人の集団で人々は趙勝のもとを離れていった。趙勝は彼らの背をただ茫然と見送っているばかりだった。
 その夜、趙勝はさすがに梨華と寝ることはできなかった。彼は別の女の部屋へと足をはこんだ。
 やさしく彼を愛撫する女の顔が、かすかな燭の灯りに照らしだされている。その顔には見覚えがある。いつかもこの女を抱いたことが、あった。それがいつだったかは、よく思い出せない。どうでもよいことだと感じながら、しかしそれが思い出さなくてはならないことのように思えて、寝具の中に浮かんでは消える思考の間で記憶をよみがえらせてみようとしてみる。しかしついにはそれも面倒になって、身を、女のなすがままにさせていた。
「ねえ、おぼえていらっしゃいます」
 女の声で、趙勝の遠くなりかけていた意識が呼び戻された。何のことだかわからずに女の顔をみつめていると、彼女はもう一度、言った。
「この前のこと、覚えていらっしゃいますか」
「それがどうも、思い出せないらしい」
 そうとしか答えられなかったので、そう返事をする。女はすねたように口をすぼめ、趙勝の胸をおしやった。趙勝はそんな女の頬にふれようと、手を伸ばす。しかしその手を邪険にはらい、女は、その勢いで起きあがった。趙勝をみおろす彼女の眼光の鋭さは、燭のかすかなあかりのなかでも十分すぎるほどにわかる。そしてその刺すような視線にさらされ、趙勝はようやくこの女が何者であったか、思い出した。
「あなた様は、やっぱりそういう方なのですわ」
 女はわずかに声を震わせながら、言った。
「あのとき、私があなた様にお尋ねしたことの答えを、おききしたかったのです。でも、もうお忘れなのですね」
「いや、今、思い出した」
 声を詰まらせながら趙勝が返事をすると、女は突然その裸身を彼の身体の上におしかぶせた。
「ならばお答えください。士と女と、どちらかをとらねばならぬならば、あなた様はどちらをお選びになるか」
 早口でたたみかけるように言って、そして今度はクスクスと笑い出した。何か抑えたようなその笑いは、やがてため息となって趙勝の耳にかかった。
「でももうあなた様がおっしゃらずとも、私にはわかる気がいたします。きっとあなた様は、女を、おとりになるわ」
「なぜだ」
 女の体の下で、身動きできない自分を感じながら、趙勝は彼女を見上げていた。その彼の耳元に口を近づけ、女はささやいた。
「だってあなた様は、あの娘を未だ斬らないどころか、かえってご寵愛なさっているのですもの」
 趙勝の胸の内が、かっと熱くなった。彼は激しく舌打ちをし、己にかぶさっている女の体を乱暴に払いのけた。
 女はあっと小さな悲鳴を上げて寝台から転げ落ちた。
「何をなさいますか」
 床に座りこんで趙勝を見上げ、半分泣きそうになりながら彼女は叫んだ。
「ならばあの女をお斬りになったらいかがですか。あなた様のことです。きっとあの娘のこともじきにお忘れになってしまいますわ」
 そして鼻をすすり、声を震わせながら笑い出した。その、人を小馬鹿にしたような、そしてどこか惨めな笑い声が、趙勝の逆立った感情をさらに刺激する。
 自分も寝台から降りると、趙勝は女の細い首をいきなりつかんだ。
「黙れ。黙らぬと、絞め殺すぞ」
 女は、黙った。口を開けて、泣くことも忘れ、まるでそうしていないとすぐに殺されるとでも思っているかのように、趙勝を凝視した。その目尻にたまった涙が一筋こぼれ、紅潮した頬の上で光った。
 趙勝の中で熱く熱していたものが、急に水でも浴びたようにさめていった。彼は女の首から手を離し、再び寝具の上に横になって目を閉じた。全身の力を抜き、胸の上に手を置いて、呼吸を落ち着かせる。しかしその体の中では、先ほど彼の憤激をさましていったそれと同じものが、今度は滝のように降ってきて彼の心情をかき回すのだった。趙勝は目を開け、そして体をおこし女の方を向いた。
 女はもうさっきの位置にはおらず、寝衣をまとい、こちらに背を向け机の前に正座をしていた。乱れた髪をかき上げ、その手をゆっくりと机の上の化粧箱にのばす。趙勝が声をかけると彼女は体ごと、素早くふり向いた。彼女の手もとで蒼白い光がきらめく。それは短剣だった。
「我が君よどうかお許しください。私はただ……あの娘がうらやましかったのです。私とて、あなた様にふり向いてもらえるならば……」
 女は短剣を己がのどもとにあてた。いったん口を閉じ、唾を飲み込む。それが彼女ののどを上下にゆらした。
 女が腕に力を込めようとしたとき、趙勝はすでに寝台から飛び出していた。今まさに女のか細い胸を貫かんとしていた短剣は彼女の手を離れ、再び蒼白くきらめきながら宙を舞った。趙勝の体の下になった女は、未練げに床につき立っている短剣を見つめ、そして趙勝を見上げて訴えた。
「私を殺してください。私の首を老人のもとに届けるのです。さすればあなたさまは約束を守ったことになり、去っていった方々も戻って参りましょう。あの娘も殺さずにすみます」
「そなた、命はおしゅうはないのか」
 このときはじめて、女は心からの微笑を、その表情に浮かべた。
「あなたさまにふり向いていただけるなら、私は命だって捨てましょう」
 女の言葉に、そしてその晴れ晴れとした笑顔に、趙勝は深い感動を覚えた。彼は女の体をおこし、そして彼女を強く抱きしめた。
「これでは、殺せぬ」
 士と女と、どちらかをとらねばならなくなったとき、一体どちらを選ぶのか。考えても考えても、彼にはその答えを出すことができない。今彼にわかるのは、とりあえず彼には殺せないということだった。この先彼の判断や命令によってどれだけの人々が死ぬことになるかはわからぬが、今目の前にいる女も、そして梨華も、その命を自らの手で絶つということを趙勝は拒まずにはおれなかった。いっそ憎むことができたら、どんなに楽だろう。だが彼には、憎むことができなかった。
「私は、田文殿のように、なりたいのに」
 ずっと田文のことを尊敬してきた。彼のようになりたいと願い、彼のやり方をまねしてきた。梨華を殺さなければならない。そうしなければ、彼は理想を失ってしまう。そして食客たちも、今に一人も彼の元にはいなくなってしまうに違いない。それも、耐えることはできない。そうなってしまったら彼の人生は、どんなにつまらないものになってしまうだろう。彼は、きつく目を閉じて呻いた。
「どうすれば、いいのだ」
(ならば斬れ。ためらわず、斬れ)
 どこからかまた、声が聞こえた。振り向くと田文の幻影が、彼を見つめていた。斬れ、斬れ。梨華を斬れ。そう言いながら、田文の人を惹きつけてやまないその瞳はだんだんと遠ざかり、燭の灯火にとけこんでいった。
 視線を女に戻すと、一瞬趙勝はギョッとして表情をこわばらせた。目の前にある女の顔が、梨華のそれと重なって見えたのだ。彼女は必死に訴えかけていた。斬らないでください、殺さないでください、と。
 悲しみが、趙勝の胸にこみあげた。尊敬する田文のことを思うと、彼と同じようにしなければならない気持ちになる。ところが梨華の顔を思い浮かべると、やはりその命を奪うということを、彼の感情は拒絶するのだった。
「なあ、士と女と、どうしてもどちらかをとらねばならないことなど、あるのだろうか。それらは、相容れぬものなのだろうか」
 趙勝にはわかっている。世間はそれを許さないことを。いつかはどちらかを選ばねばならないときがくることであろう。そして自分はきっとそのときが来るまで、結論を出せずにただ悩みながら無為に過ごすことであろう。趙勝は深いため息をついて、女の胸に顔をうずめた。いっそ時間が今夜のまま止まってくれればいい。そんなことを考えながら彼は眠りに落ちていった。

 梨華を殺せないままついに年が明けた。田文の事件があって後、趙勝のもとを去ってゆくものの数はさらに増え続け、年が明けて初めて雪が降ったその日には、もうほとんどの食客が彼の屋敷から姿を消していた。
 その日、うっすらと白く染まった屋敷の広い庭を、趙勝は独り歩いていた。時々立ち止まってはどんよりとくもった空を見上げ、そしてその割には妙に明るい周囲の景色を見渡す。ため息をつくたびに、雪そのままのような冷たく湿った空気が彼の口の中に入り込み、あたたかい体内にしみこんでいった。
 趙勝の足は、自然と食客たちの暮らしていた宿舎のあるところへとむかっていた。少し前までは何百何千という人々でにぎわっていた宿舎の棟々。だが今はもう、そこには誰もいない。かたく閉めきられた扉や窓にも、白い雪がこびりついている。雪に埋もれて無人のその光景。それは、つい最近までの賑わいがあまりにも盛んで、頭の中でまだ新しいだけに、ますます寒さと趙勝の心の空虚感をつのらせるのだった。彼は後ろ手をくみ、うつむきかげんになってその荒涼とした雰囲気の漂う宿舎の、扉の一つへ近づいてゆき、降りかかった雪に足跡もついていない石段の上に腰を下ろした。
 またちらほらと雪片が舞いはじめた。そのとき、ほおづえをついてぼんやりと真白い空を眺めていた趙勝の耳に、かすかな物音が、はじめてはいりこんできた。目は空に向けたまま、耳だけ澄ましてみる。それは、人の足音だった。雪を踏みしめながら自分の方へと近づいてくる、人の足音だった。
(まだ、残っている者もいたか)
 趙勝はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。心なし空気が暖かくなった感じが、した。
 足音がとまってからそちらに目をやると、そこには一人老人が突っ立っていた。
「おや、これは公子ではござらぬか。一体このようなところで何をしておられる」
 老人は雪のように真白く長い髭をなでながらたずねる。
 趙勝は彼にむかって弱く微笑んだ。
「ご老体こそ……」
 老人は趙勝に近づいてゆき、石段の手前で再びたちどまると空を振り仰いだ。
「空に何か見えましたかな、公子」
「ええ、雪が……」
 そう言って、趙勝も再び空を見上げる。老人の、白い眉に隠れてしまいそうなその目が、細くなった。
「おお、左様、左様。今日はよく降りおる。しかし何ですな、あの雪というやつは、まるでわしら人間のようではありませんか」
 言いながら、たくさんのしわの刻まれたその手を前に差し出す。差し出した老人の手のひらに雪片が舞い降り、そして溶けて消えた。
「次から次へと生まれては、次から次へと消えてゆく……。何とはかないことじゃろう」
 老人は突然その優しげな顔を趙勝にむけて、言った。
「それでも、公子は、あの娘を斬らないのですね」
 趙勝の眉間にしわが寄った。雪のかぶさり目もくらむばかりに白い庭と、それと区別のつかないほどに白い空とを悩み疲れた表情で見つめている。その色あせた瞳の表面が濡れて、光っていた。ああ、最後まで残ってくれたこの老人も、やはり殺せというのだろうか。そうしなければ去っていってしまうのであろうか。みんなみんな自分のもとから離れていった。女ひとりを殺せぬがために。今まで彼らに対し礼を失したことなど一度もなかった。心から彼らを愛し、大事に思ってきたのに!
「私は……士の心根を解さないのではない。ただ、みんな知らないのだ。あの娘は純粋で優しくて……。あの娘は殺されねばならないことなど、していないのに」
 趙勝はぐったりと肩を落とした。しばらくうなだれたまま、老人を見上げようともしない。その頭に数片の雪の塊が、風にさまよいながらひっかかっていった。
「あいつも、笑われねばならないことは、していなかった」
 老人は趙勝の隣に座り、雪をいじりながら言った。
「わしはあいつを知っている。あの体の不自由な老人は、自分自身の容姿の醜さを、とても気に病んでいた。彼はその容姿のため、長い年月たくさん悔しい思いをしてきたのだ。自分ではどうすることもできないその容姿のために。わしは、奴のことを思うと、悲しくてならん。公子や梨華殿のことを見ていると悲しくてならぬように」
 そして空を見上げ、嘆息した。
「みんなかわいそうじゃ」
 老人と二人並んで、趙勝はぼんやりと雪景色を眺めていた。白い息を吐きながら時々手をすりあわせる、彼のその胸に次第に虚しさがこみ上げてきた。
(俺は、一体、何なのだろう)
 彼は、自分は君子だと長い間思ってきた。自分は人格者であると、根拠のない自信を持ち続けてきたのだ。しかし今自問してみるに、それに首をかしげざるを得ない。目の前の光景が、今までの彼をすべて否定していた。そのただただ真白い景色は、彼がいかにつまらぬ人間か、教え諭しているようにみえてしょうがなかった。田文のように士の誇りのため非情にもなれず、この老人のように田じいさんのことを思って嘆息するような優しさもなかった。うわべだけ君子のまねごとをしていた、中途半端な小人でしか自分はなかったのではないか。自分は本当にただ、女色に溺れていただけではないのか。
 自分によいところなど、一つもないなと、ふと趙勝は自嘲した。こんな自分をどうしようもない人間だと、感じずにはおれなかった。すると急に投げやりな気持ちが、彼の胸にこみ上げた。
「先生。私は己の手で女一人刺すことのできない弱虫です。私を叱咤してください。私に、勇気を与えてください」
「公子、わしは梨華殿を殺せとあなたに言いたかったのではない。ただわしは……」
「私は十分に思い知りました。この寂しさを。私は耐えられると思っていた。でも私は知らなかった。独りがこんなにも苦しいなんて」
「あなたは、独りですか」
 老人は腕を伸ばして、さまよい落ちてきた雪片をすくった。その手のひらの中で、雪は溶けて消えた。趙勝はうなだれたまま返事をしない。老人も、あとは何も言わず黙って乳色のまぶしい空を見つめていた。
 しばらくしてようやく、老人は億劫そうに立ち上がった。去り際、彼は趙勝を振り返り、一言だけ、
「自分の気持ちに対する誠実さも失ったら、何が残ります」
 そして、去っていった。雪を踏みしめる音だけがあとに残った。
 老人の足の音もきこえなくなると、趙勝はようやく顔を上げた。地面に積もった雪をつかんで立ち上がる。その手の中の雪も、次第に溶けて彼の手のひらを濡らしていった。
 その晩、趙勝は沈鬱な面持ちで梨華の部屋へとむかった。彼の手には長剣が携えられている。扉の前で立ち止まり、一つ深呼吸してから、静かに中へと入ってゆく。しかし薄暗い部屋の中には誰もおらず、机の傍らに燭が灯っているだけであった。机の上にはなにやら木簡のようなものが置いてある。趙勝は机に近づいていってその木片を取り上げた。

  庭園の水楼にてお待ちしております

 木片にはそう書いてあった。趙勝はすぐに部屋から出て行った。
 夜になって空は晴れたが、しかし風がある。煌々と照る月の前を、薄墨色の雲が、月光をすかしながら翔るように流れてゆく。雪に覆われた庭園は、灯りなど必要がないくらいに明るい。樹も石も建物も、白い大地全体が、ぼんやりと光を発しているようだ。そこにぽっかりと穴が開いたようにして池があり、その上に白く光りながら水楼が浮かんでいた。
 水楼のなかは思っていた以上に暗かった。それだけに、丸い形の大きな窓の向こうにある絵画のような景色が、ますます白く神秘的に感じられる。梨華は、そんな窓辺の蒼白い光の中に、いた。
 趙勝はスラリと剣をさやから引き抜くと、窓の外を見つめている梨華に近づいていった。闇から光の中に彼の姿が現れても、しかし梨華はふり向こうとはしない。趙勝は彼女に声をかけようとして、一瞬ためらったが、開きかけた口を引き結び、無言のまま剣を構えた。その切っ先が梨華の白いうなじを指している。女の白いうなじに目を据え、唾を飲み込んで彼は一歩前に出た。
(さあ刺せ。この女を、斬れ)
 己を励まし剣を握る腕に力を込める。しかしそこからもう一歩を、どうしても踏み出すことができないのだった。
 そのとき、梨華が初めて振り返った。
「ためらわれますな」
少し強い語調でそう言ってから、彼女は遠くを見るように目を細めて趙勝を見つめ、そして微笑んだ。
「私はもう、十分にございます」
 そして趙勝に顔を向けたまま瞼を閉じる。そのとき流れる雲間より姿を現した月の光が窓から注ぎ込んだ。それはますます輝きを増した地上の光と一緒になって、彼女の顔を神秘的に浮かび上がらせた。
 趙勝はまたしても動けなくなった。一体、この犯しがたい美しさをどうやって壊せというのか。この白く透きとおった肌の、どこを傷つけることができるというのだ。
 彼は恐る恐る剣の先を梨華の肌に近づけていった。その鈍く光る、とがった先端が女の胸元に触れたとき、彼女の眉が、眉間にしわを寄せてふるえた。趙勝は反射的に剣を引き、咆えながらそれを窓の外に投げ捨てた。剣は一瞬きらめき、そして池の深い闇の底へと消えていった。
 翌日、梨華は屋敷から姿を消した。屋敷はもちろん街中をさがしまわったが、彼女を見いだすことはできなかった。

 冬が過ぎ、街の辻を桃色に染めた花々もあっという間に散って、そしてまた若葉香る新緑の季節がやってきた。
 冬の間閑散としていた趙勝の屋敷には、活気が戻りつつある。ほんのわずかではあるが、また彼の門下に食客が集まりはじめたのだ。ところが、趙勝は降り注ぐ明るい陽光や屋敷の活気とは裏腹に、いつも気むずかしそうな、思い悩んだ顔をしていた。食客らと話をしているときも、その愁眉が開かれることはない。彼らが不思議そうにしてたずねても、影のある作り笑いを頬に浮かべてみせるだけだった。
 そんなある日、一人の老人が趙勝にめどおりを願ってきた。あの雪の降った日、真白い空を見上げながら語り合った、白髭の老人だった。
「公子、まだ迷っておられますな」
 手を胸の前で組み合わせて一礼し、老人は趙勝の顔を見上げながら、言った。
 趙勝は眉をひそめたままうつむき、己が手のひらを、見つめた。
「これで本当に、よいのでしょうか」
 本当にこれでよいのか。彼は梨華が失踪して以来、いつも自問してきた。確かに梨華を殺さずにすんだ。食客らも戻ってきつつある。すべては丸くおさまろうとしている。しかし、どこか満足できない自分がある。この状況を安易に受け入れてはならぬと、彼の全身が叫んでいる。なぜこんなにも、心が晴れぬのだ。
 老人はにっこりとして大きく頷いた。
「その答えを、見いだしに参りましょう」
 そして再び深く頭を下げ、
「実は公子にあわせたい方がおるのです。どうか、ご足労願えぬでしょうか」
 趙勝はためらいがちにうなずいて、老人と共に広間をあとにした。
 老人は趙勝を外に連れ出した。屋敷の表門の前に待機していた馬車に乗り込み、街の郊外へと走らせる。農地や草原や林の緑に包まれながら、趙勝は一言も問いを発さず、老人も何も言おうとはしない。ただ彼らを乗せた馬車が、丘の上へつづく道をひたすらに疾走していた。
 丘の上にはもう一両の馬車が、とまっている。車両に取り付けられた蓋の下にある人影は、女のそれであった。近づいていくにつれ、趙勝の鼓動が速くなっていく。もしやという漠然とした予測が期待へと発展し、それが確かな驚きと喜びに変じていく。彼を乗せた馬車がとまったとき、趙勝はもはや彼女を見間違うことはなかった。確かに、彼女だった。蓋のつくりだす影の中から身を乗り出し、趙勝に手を振るその女性は、梨華に違いなかった。彼は馬車から飛びおりると、やはり同じく馬車からゆっくりおりたところの彼女に、駆け寄っていった。
 趙勝は丘の上まで一気に駆け上ると、息を切らして梨華と向き合った。上気したその顔に、自然と笑みがこぼれる。
 彼女の肩に手をまわしかけて、しかし趙勝はためらった。この女のために自分は食客を皆失った。この女は、自分が殺そうとした女だ。
 趙勝が女に触れかけた手をとめて、そのまなざしを彼女の額にあてていると、梨華は自分の方から趙勝に体を寄せてきた。女のか細い身体が趙勝の胸にうずめられてゆく。そのすぐに手折られてしまいそうな弱々しい存在のすべてが彼の身体にあずけられてしまうと、とまどいとともに暖かいものが、胸にこみ上がった。
 老人はにこやかにうなずいた。
「食客たちがあなた様のもとに戻ってくるようになって、それであなた様が素直に喜び満足なさっているようでしたら、わしは、梨華殿をずっとかくまっているつもりでした。しかしあなたはそうではなかった」
 明るく降り注ぐ陽光が、老人の顔を若者のように活き活きと輝かせている。老人は手を胸の前でくみ深く頭を下げた。
「公子、梨華殿をお連れなさいませ。あなたのお心はこの娘を排除することはできない。士人たちを手放すことができないように。士と女と、二つの想いの狭間でどちらも捨てることができずに、あなたはずいぶん悩みましたな。それは恥ずかしいことだったでしょうか。でもわしはそんなあなたが好きです。女一人殺すことができなかった、そんなあなたこそ、君子だと思うのです」
 彼はそして颯爽と馬車に乗り込んだ。
「あの老人にも、どうか同じ優しさをみせてくだされ。奴も、排除しないでくだされ」
 去り際、振り返って腕を上げ、ひとふりする。馬車は老人を乗せてあっという間に遠ざかっていき、光の帳の中に入って消えた。
 老人が去ってしばらくしてから、梨華は趙勝から体を離した。すぐ近くの林の中へと通じている小道を歩いてゆき、林の入り口で立ち止まる。彼女が振り返り微笑みかけると、趙勝もまた、小道を梨華について歩きはじめた。
 碧い林床には無数の日だまりが浮かんでおり、風が吹くたび大地をゆらすようにして舞っている。木陰と木漏れ日の織りなすコントラストに彩られ、梨華は口元に微笑を浮かべたまま遠くを見つめていた。その横顔に見入っている趙勝に、ときどきふり向いては微笑みかける。静謐な木漏れ日が彼女の透き通った瞳に落ち、ますますその透明度を高めた。
 風が樹間を通り抜けていき、波打ちながら林はわきたつようにざわめいた。うねりうねる浅緑の海の底にあって、趙勝は己の体もゆれる樹木の枝々と共に浮き上がってゆくのを感じた。小道の先には林の出口が小さく見えてきており、そこが明るく輝いている。どんどん広がる道の先の光と共に、こみ上げてくる予感で趙勝の胸は、いっぱいになった。
 林を抜けるとそこには野が広がっており、一面のお花畑となっていた。
「ここに、私は住んでおりました」
 お花畑の中に埋もれたようにして建っている一軒家を指して言うと、梨華は花の群れの中に身を分け入らせ、小屋の方へとかけていった。途中、体を回転させたり、手を舞わせたりしながら、そのうち、蝶のようにお花畑にとけこんでゆく。突然小屋の前に姿を現し、彼女は大きく手を振った。小屋の中から老夫婦が出てきて、にこやかに趙勝にむかってお辞儀をした。また風が吹き、趙勝の背後に広がる林が、お花畑を囲っている森が、一斉に波打ち浅緑の葉裏を見せてわいた。
(趙勝よ、偽らざる己の気持ちに身をゆだねよ)
 木々が、そう呼びかけているように感じた。その声は、さっき別れた老人のそれのようであった。
 趙勝は目を閉じ、両腕を広げて、全身の力を抜いた。深呼吸をし、風を吸い込む。今まで胸につかえていたものが、うそのように落ちていった。


 田じいさんの持つ桶の中の水に映じて、新緑の樹の枝が、水面に散る木漏れ日とともにゆれた。じいさんは桶をのぞき込み、波紋の間でゆれる己の顔を見つめ、舌打ちした。彼のすぐ側を近所の女房たちが数人、笑いさざめきながら通り過ぎてゆく。木漏れ日の眠たげにゆれる柳の下で、じいさんはじっと身を固くして、彼女らが去ってゆくのを待っていた。
 笑い声が遠ざかると、じいさんはようやく歩きはじめた。片手で杖をつきながら、びっこを引いて難儀そうに歩く、その後ろ姿が明るい日のさす路上に小さな影をおとしていた。
 自分のみすぼらしい住み家まで戻ると、その薄汚い小屋の入り口の前に、立派な身なりの男が立っていた。田じいさんは足を止め、いぶかしげな目つきで男をにらむ。すると彼はにこやかに微笑んでお辞儀をした。その腕には円柱形の木の箱が、抱えられている。じいさんは箱を見やり、それから男の顔に視線を戻して、首をかしげた。
 男は木箱を地におき、手をこまねいて再び礼をした。
「お忘れですか。趙勝めが、あなたとの約束を果たしに参りました」
「約束?」
 聞き返してからじいさんは、ああ、と大きく頷いた。忘れかけていた一年前の出来事の記憶が、突然鮮明によみがえってくる。それと同時に、当時と同じ悔しさと怒りが、沸々とまた彼の体内にたぎってきた。
「ずいぶん遅かったですな公子。ちゃんとあの女の首を持ってきてくださったか」
 不機嫌そうにじいさんが言うと、趙勝はなぞめいた笑みを浮かべ、その場にかがみ込んで木箱のふたを開けた。
 木箱の中からは首を中に包んでいるらしい白い布が現れた。布包みが箱の中から出されて開かれる。白い塩の粉が四方に崩れて散乱した。そこにはしかし何もなかった。首などかけらも姿を現さず、ただ地面に散った塩が、雪のように輝いているばかりだった。
 じいさんは口を開け、唖然と塩の散らかる地面を見つめていた。
「公子は、この老骨を愚弄するのか。戯れでも、やって良いことと悪いこととがありますぞ」
 体と声を震わせながら、彼は顔を上げ、燃えるような視線を趙勝に向けた。趙勝は老人の怒りなど意に介さぬかのように、ただ静かに微笑んでいた。
「戯れなどではございませぬ」
 建物の影から姿を現し、そう言ったのは梨華であった。梨華は数歩老人に近づいていき、彼の足下に跪いた。
「公子趙勝の後宮を代表し、あなたを侮辱しましたるものに成り代わり、深くお詫び申し上げます」
 女の香りが、晩春の葉の香りとないまぜになって老人の鼻孔をくすぐった。梨華の華奢な背やうなじ、豊かでつややかな髪に柔らかな木漏れ日が散っている。彼女が顔を上げると、その頬や額に日がこぼれて舞い、その白い肌と静かな表情の所々を優しく照らした。
 老人は後づさった。梨華を、美しいと思った。己への憐憫抜きに美しいと思ってしまった。本来己をみじめにさせるはずのものに対して、いとおしささえ抱こうとしていた。そしてそう感じたとき、彼はそんな自分をどうしてよいかわからなくなった。美しいもの、輝いているものに対する憎しみこそ、彼のよりどころだったのに!
「謝っただけですむことか」
 じいさんは、気力を振り絞って杖を振り上げた。目の前の美しい顔を醜く歪ませねば、もはや自分の気持ちは落ち着きそうもなかった。
 しかし、その前に趙勝が立ちはだかった。梨華をかばうように両手を広げ、そして趙勝もまたじいさんの前に跪いて彼を仰ぎ見る。
「打つならどうか、私を打ってください。私を打って、怒りをお鎮めください」
 じいさんは、無造作に伸びた髭をふるわせて、怒鳴った。
「公子斬ってくだされ。今すぐこの娘を斬ってくだされ」
 趙勝は静かに、ゆっくりと首を横に振った。そしてきっぱりと、言った。
「いいえ、私は、斬らぬ」
 じいさんはその手から杖を落とした。趙勝にそのような態度をとることができるとは、夢にも思っていなかったから。彼は、趙勝は自分の言うことをきかざるを得ないと思っていた。自分の主張は女という存在に対して無条件に優先されるべきものと思っていた。しかるにこれは一体、どういうことだ。意外な展開に彼は困惑した。おろおろと趙勝の目の中をのぞきこむ。趙勝の表情にはいささかのためらいも見られない。その瞳は澄み、虚空のただ一点を見つめていた。
 老人はがっくりと膝を折った。
「あなたは士を愛し、女を賤しむお方ではなかったのか。女のためにわしとの約束を反故になさるとは。あなたは女に狂い、士を賤しむのか」
 見ると、趙勝の表情はますます静かであった。木陰で碧く染まった彼の体表に舞ういくつもの日だまりが、まるで彼の体内から発せられる光のようであった。
 趙勝は優しく微笑んで梨華を振り返り、そして老人を見つめ、言った。
「私は、女を賤しまない。そして士も、賤しまない。私は……」
 晴れやかな風が通りすぎていった。若葉の香りと、土の香りと、街の雑踏の香りとが混ざり合ったその風を、趙勝は気持ちよさそうに吸い込んだ。
「私は、人を愛しているのです」                                         
                                   (了)
                                      

平原君の悩み

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更新日
登録日
2012-03-24

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