情熱の赤
目の前にお菓子がある。
おまけ付きのお菓子だ。ウエハースと一緒に特撮ヒーローのカードが入っている。現実逃避気味にぼんやりと眺める。五人五色の戦隊ヒーローが立ち並び、リーダーを中心にポーズを取っている。
俺も昔は憧れた。正義の味方になりたかった。
カッコいいスーツを着て、怪人や悪の秘密結社と戦う正義そのものに、なりたかった。
今の俺はと言えば、濃紺のスーツに身を包んだ新人サラリーマン。いや、生活に不満はない。仕事はやりがいがあるし、プライベートも充実している。
子供が育って大人になった。それだけのこと。
「ぼさっとしてないで伏せやがれ!」
興奮した様子の大声が体を叩く。血走った目と大きな牛刀の刃先が俺に向けられていた。
残業帰りの深夜のコンビニ。トイレから出てくると目出し帽の男がコンビニ店員に金銭を要求していた。客がいるとは思っていなかったのか、コンビニ強盗は金切り声で俺に伏せるよう命令した。疲労で濁る思考が整理した、俺が置かれた現状だった。
子供向けお菓子の棚から視線を外し、言われた通りに床に伏せる。強盗との距離を考えれば、そんなことせずに店外に逃げることも出来ただろう。唐突な非現実に思考が追い付かないがゆえの恭順だった。
俺が伏せると見るや、強盗は店員に振り返った。牛刀の刃先も俺から逸れる。
俺を俯瞰している冷静な俺が囁く。今がチャンスだ。逃げろ。一目散に逃げろ。
実在する俺が返答する。無理だ。
他人に本気で怒鳴られるなんて何年ぶりだろう。あんなに大きな刃物を向けられたのは産まれてはじめてだ。強盗は今も店員に牛刀を向けて喚いている。およそ理性のある人間の振る舞いとは思えない。獣のそれだ。
全身がすくみ上がっている。すっかり癖になっている貧乏揺すりとは別種の震えが、足と言わず手と言わず、小刻みに全身を支配する。
体を縫い付ける恐怖心は、俺からあらゆる能動性を奪いさった。理不尽に降りてきたこの災難が去るのをただ一心に願うしかできない。もはや強盗の恫喝は耳に入らず、自分の歯の音だけが脳内に反響する。
店員も抵抗は示さない。がなる強盗とその手の牛刀に怯えの目を向けながら、強盗が差し出した袋にレジの金を詰めていく。銀行でもあるまいし、あの作業も程なく終わるだろう。そうすれば強盗は立ち去るはすだ。店員の指に光るものが見えた。左手の薬指。どうやら店員は家庭を持っているらしい。だからどうした。関係ない。
防犯カメラは強盗の姿を捉えているはず。不埒な輩の対応は警察に任せる。それが正しい判断のはずだ。
チラと視線が出入り口に向く。ここらからでは陳列棚が邪魔になって見えないが、深夜の、通りに面してもいないコンビニ。新たな客が来る望みは薄いだろう。ついで従業員スペースの通路扉に目を転じるが、このコンビニは深夜帯に店員がひとりになることで有名になっている。だからこその強盗かもしれない。唯一の店員は、レジでお金を袋につめている。
第三者の介入も絶望的。こうなってはお金を手にいれた強盗が大人しく立ち去るのを願うしかない。
正義の味方は、来てくれない。
「………?」
他でもない、自分の思考に違和感を覚えた。
いつからだろう。
正義の味方になりたい。が、正義の味方になりたかった、になったのは、いつだったろう。
悪い人を捕まえる正義の味方になりたかったはずなのに、なぜ正義の味方の来訪を待つだけなのだろう。
お金を持って去るのを待つしかない? 一日の売り上げをなくしたコンビニはどうなる。
第三者の介入? この恐怖を他の人にも味わわせるのか。
ただの感傷だ。俺が立ち上がったところで状況が変わるわけじゃない。冷静な俺が再度囁く。ようするにこいつは俺にケチをつけたいだけなのだ。俺と強盗の違いは刃物の有無だけ。埋められない差じゃない。
意を決する。震える歯を噛み合わせる。よく見ろ。強盗はひとりだし、体格もそう大きいわけじゃない。俺とそう変わらないか、少し小さいくらいだ。ショットガンを持っているわけでも、首に刃を突き付けられているわけでもない。怯えすぎだ。
立ち上がる俺を見咎め、強盗が叫ぶ。何してる。しゃがめ。
充血した目と忙しなく揺れる刃先が俺をとらえた。俺は棚に手を伸ばし、そこの商品をひと束掴み強盗の顔めがけて投げつけた。
それはおまけ付きのお菓子だった。
勇敢な戦隊ヒーローが、非業の改造人間が、慈愛の宇宙人が、強盗めがけてとんでいく。俺も負けじと後に続いた。
予期せぬ反撃と、顔に向かってくる異物に動揺し、強盗は意味をなさない声を上げながら牛刀を振り回す。
がむしゃらに振るわれるそれを同じくがむしゃらに振り回す腕で叩き、全力の体当たりを敢行する。体格に違いはない。棒立ちも同然だった強盗は為す術なく床に倒れた。予想外の衝撃から強盗が立ち直る前に手を抑え、牛刀の使用を封じた。
機をうかがっていたのか、すかさず店員もカウンターを乗り越えて強盗を抑えに来てくれた。大の大人ふたりに押さえつけられ、存外素直に抵抗をやめた。縛り、今は警察の到着を待っている。
落ち着いてくると腕にドクドクと脈打つ鼓動を感じた。飛び掛かった際に牛刀で切ったのだろう。血が出ている。ドクドク、ドクドク。興奮のためか痛みはない。達成感が脳を痺れさせる。ひどく不格好ではあったが、今の俺は少しだけヒーローっぽくなかったか?
出血を続ける腕を上げ、目の前で手を握り、開く。映画か何かの知識だが、神経は切れていないらしい。二度三度と開閉を繰り返し、強く握る。さっきの俺はヒーローっぽかった。
体を鍛えよう。筋力を、体力をつけよう。こういうとき、もっと早く事態を沈静できるよう。
怪人や悪の秘密結社なんてものはないのかもしれないけれど、悪人がいないわけじゃない。事故だってある。その時周りの人に、さっきまでの俺のような不安や恐怖を感じさせないように。
ヒーローっぽい俺ではなく、ヒーローになれるように。
いっそのことスーツも作ってしまおうか。それもいいな。今は俺ひとりしかいないけれど、ヒーローに憧れるのは俺だけじゃない。いつか戦隊が組める日が来るかもしれない。スーツを着れば、ヒーローだとわかりやすい。
色はもう、決まっている。
情熱の赤