シューティング・ハート 紅の貴婦人

途中で、チャプター1と2が入れ替わっていました。申し訳ありませんm(_ _)m
お詫びして訂正させていただきます m(_ _)mm(_ _)m  (7月10日 2015年)
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 七月上旬。第一学期の期末テストも今日で終わり、鷹千穂学園に活気が戻ってきた。
 いつものサロンでベーゼンドルファーを弾く万里子のショパンも、その窓辺に座って遥か遠くを見つめる綾のため息も、雛鳥にとっては最高のBGMだ。
 ロイヤルアルバートのティーセットをテーブルに並べながら、微かな声で調べをなぞる。淡いピンクの花柄をあしらった茶器は、彼女の柔らかい雰囲気にピッタリだ。
「介三郎さんたちバスケット部は、今日から練習なのでしょう? 綾。後でわたくしが何か差し入れをしてもよろしくて?」
 指先には微かな乱れもなく、その奏でる音と同じ澄んだ声で、万里子は窓の方を見た。そうして時折顔をあげては苦笑する万里子を、雛鳥は不思議そうに首を傾げながら見ていた。
 窓辺に寄り掛かり、どこか虚ろな綾の長い栗色の髪が、鮮やかな初夏の陽光に照らされて金色に輝いている。
「バスケ部なら、もうそろそろ体育館へ集まるだろう。練習試合が近いと言っていた。成瀬がマネージャーの初仕事だ」
「まぁ、成瀬さんがマネージャーをなさるの。では、介三郎さんもさぞ張り切ってらっしゃるでしょう」
「張り切るならいいが、気を散らして皆の足を引っ張らねば良いがと思っているよ」
「それでは飲み物でも差し入れしましょう。綾は何がお好き?」
 窺うような視線が、美しい顔を微かに曇らせていた。綾の流し目が返ってくる。
「私のことはいい。万里子の好きにすればいいのだから、いちいち問わずともよい」
 口調は穏やかだが、向けられた視線は鋭い。
 万里子は一層苦笑してピアノを閉めると、優雅に立ち上がった。
「適当に頼んで参ります。雛鳥のお茶を飲み終えた頃には届くでしょう」
 雛鳥の開けた扉から出て行く時、万里子の苦笑が優しく変わる。雛鳥は小さく頷くと静かにドアを閉め、遠く窓辺を見つめた。
 万里子の微笑の意味は分かっていた。この部屋から購買部に連絡を入れれば済む事を、わざわざ直接行く意味も、分かっていた。
 綾が無愛想なのは、単に何か思うところが別にあるだけなのだ。こういう時は、決して彼女の邪魔をしてはいけないのだと、長い年月の間ですでに分かっている。
 雛鳥は、万里子が帰って来たらすぐお茶が飲めるように支度を整えた。器を並べ終え、最後に昨夜彼女が焼いたブルーベリーパイを取り出そうとして、あっと叫んだ。
 パイを入れた紙袋を、教室に置いて来てしまっている。
「綾様、雛鳥はうっかりしてパイを教室に置いて来てしまいました。すぐ取って参ります」
「それなら私が行こう。病み上がりのお前に、教室までの往復はさせられない」
 綾は素っ気ない口調だが、すでに戸口へ向かっている。雛鳥の身体を心配してのことだ。
 だが雛鳥は笑って首を横に振ると、扉の前に幾分綾の行く手を遮るように立った。
「大丈夫です。決して走ったりなど致しません。綾様は万里子様がお戻りになるのを待っていて下さいませ。今日のパイは本当に上手く焼けたのですもの。どうしても食べていただきたいのです」
 スラリと高い綾を見上げる雛鳥の頬は、ピンクの薔薇のように輝いている。
「雛鳥に行かせてくださいませ」
「本当に、大丈夫なのか。無理ではないのだな」
「はい」
「万里子はすぐには戻って来ない。ゆっくり歩いて行くのだぞ。お茶はおまえが戻ってくるまで待っているから」
「はい。では、行って参ります」
 尚も心配そうな表情の綾を残し、雛鳥は静かに部屋を出た。
 試験の終わった午後の校舎は、人気も少なくて寂しいが、気味が悪いというよりも清々しいといったほうがいい。
 小さな頃から身体が弱く、体育の授業すら見学するしかない雛鳥は、家同士の付き合いもある万里子や綾に守られるようにして育った。二人とも、私情故に鍛え上げられた身体の持ち主で、雛鳥を大切に扱うことは、それほどの手数でもなかっただろうし、雛鳥の存在自体を喜ぶようなところがあるので、雛鳥としては決して居心地の悪い場所ではなかった。
 だが、自分の身体がともすれば壊れたロボット以下になることを、忌まわしく思わないわけではなかった。
 教室棟へ続く渡り廊下へ差し掛かると、強い陽の光が一瞬視界を奪う。クラリと立ちくらみがして、鉄柱に寄り掛かった時、何かをぶつける激しい音が聞こえた。
 思わず耳を塞いで目を閉じたが、別段変わったことはなかった。
「なんだったのでしょう」
 キョロキョロと辺りを見回すと、どうやら建物の向こう側にある屋外用のバスケットコートに誰かいるようだ。そこは普段一般生徒が休憩時間などに使うもので、雨風に晒されたゴールは錆び付いて、板にはヒビが入っている。
 バスケット部ならば、体育館のコートを使っているはずだ。そう考えながら建物の陰から覗くと、一人の男子生徒がTシャツと短パンという格好で、膝に手を置いて身体を支え、二つ折れになった汗だくの姿で、激しい呼吸を整えていた。
 褐色の肌に邪魔にならない程度に伸ばした黒く硬そうな髪。鼻筋の通った彫りの深い顔と、印象的な鋭い瞳は、おそらく隠れファンの十人はいるだろう。長い手足とスリムな体型は、明らかに鍛え上げられたスポーツマンだ。
 雛鳥は暫く息をすることも忘れて、遠い彼を見つめていた。
 彼は、何かを振り払うように大きく天を仰いで、流れる汗を散らせながら頭を振ると、足元のバスケットボールを取って構えた。
 ゴールまではかなりある。彼の立つ位置はほぼコートのセンターライン上だろう。そこからシュートを決めるのは、こうして誰も邪魔するものがいない状態でも難しいだろう。
 だが、彼の目はゴールしか見ていなかった。
 ボールを乗せた右手に左手を添えて、軽く両膝を追って沈む。次の瞬間、伸びた全身はバネのようだ。地面から浮き上がった足先が、また重力に捕まるまでは、時間が止まってしまったかのように長い。伸ばした腕から空に散った汗は、陽光に煌いて彼の身体を取り巻く。
 そして、ボールは真っすぐゴールへと向かい、音も微かにポストへおさまった。
「まだ、甘いな」
 ため息と共に聞こえたそんな声は、低く冷たいが、何故か胸に残る響きがあった。
 まるで発作に襲われたように胸元を掴んだ雛鳥は、見事、足元の溝にはまって転んでしまった。
 いくら建物に隠れていても、大きく叫べば見つかって当然だ。
 狼狽えながら呼吸とスカートを整え、立ち上がろうともがいていると、頭上から声がかかる。
「何だ、お前」
 雛鳥が視線を上げると、無表情な口調と表情でバスケットボールを脇に抱えて彼が立っていた。
「何やってんだ」
 雛鳥がそこで何をしていたのか訊いている訳ではないようだ。彼はジッと、溝にハマった方の彼女の足を見ていた。
 雛鳥は、掠れそうな喉を両手で押さえながら、言いつくろった。
「申し訳ありませぬ。こちらで何やら大きな音がしたものですから、気になって・・・。わたくしが悪いのです。練習のお邪魔をするつもりはありませんでした――」
「――立てるのか、お前」
 ぶっきらぼうな声が、一言問いかける。
「その足で立てるのかと訊いたんだ」
「は・・・はい。大丈夫でございます」
 気圧されるように答えた雛鳥は、しかし、溝に突っ込んだ右足に力を入れた途端、短く叫んで座り込んでしまった。
 足首に激痛が走る。どうやら挫いてしまったらしい。
「大丈夫です。少し休めば歩けます。どうかお気になさらずに――」
 言葉を続けようとして、いきなりバスケットボールを渡された。使い古されたボールを抱える形になり、驚いた雛鳥が顔を上げると、今度は身体が浮き、すぐ間近に彼の顔があった。
「めんどくせぇな」
 そう言って軽々と雛鳥を抱き上げている。汗をかいた胸や腕が、間近にあった。
「あの・・・、困ります。下ろしてください・・・」
 小さくなって目前の横顔に言うと、
「こんな所でこけられる方が困るんだよ。俺しかいない所でこけるな」
 そう仏頂面で返され、有無を言わさず保健室へ運ばれた。
「保健医がいない。まったく、めんどくせぇな」
 言いながら、雛鳥を椅子に座らせ、慣れた手つきで靴を脱がすと、足首を確認する。
「あの――」
「それほどひどくはないな。まずは冷やせ」
 ぶっきらぼうに言って、勝手に保冷剤を持ってきて手近にあった三角巾で足首に固定してやると、記録簿に向かう。
「待っていれば保健医が帰って来るだろう。お前、クラスと名前は?」
 ペンを持って書く姿勢のまま、止まった。
「――名前、ないのか?」
 暫しの間を置いて雛鳥を振り返る顔が、怒っている。単純に不機嫌なのか、せっかちなだけなのか。
 雛鳥がビクついて、言いよどんだ。
「あの・・・。雛鳥です」
「――それは、本名か?」
「いえ・・・。鳥井雛子です。1-Aです」
「なんだ、隣のクラスのヤツか。どうせここを閉めに帰ってくるだろうから、あとは保健医に看てもらえ」
 そう呟きながら、大きな字で記録しているところへ、騒々しい物音が近付いて来る。
 保健医かと思いきや、彼と同じ格好の男子生徒だ。
「ここにいた! カジ! 探したんだよ。怪我でもしたのか?」
 乱暴に開けた扉から飛び込んで来た巽卓馬の後ろから、頭一つ高い速水介三郎が入って来た。
 見知った顔に、雛鳥の表情がやっとほぐれる。
「まぁ、介三郎様」
「あれ、雛鳥、ここにいたのか。よかった。綾とマドンナが探してたよ」
「ご心配をおかけしたのですね。申し訳ありません。途中で転んでしまって、こちらの方に助けていただいたのです」
 雛鳥が答えると、介三郎はつい反射的に仰け反った。
「え、カジに? ウソだろ?」
「ウソとはなんだ。ウソとは」
 仏頂面のまま突っ立っていた梶原が、低い声で突っ込みを入れる。
 介三郎が、しまったとばかりに首をすくめながらも、
「だってお前、女の子嫌いだろ」
 とブツブツと付け足した。
 一度に騒がしくなった保健室で、雛鳥は長身の男子が三人を唖然と見つめた。小柄な雛鳥には、介三郎一人でも圧迫感があるというのに、それがプラス二人である。
「集合時間になっても体育館に来ないから、怪我でもしたのかと思って来たんだ。何ともないんだね、カジ」
 どこか拍子抜けしそうなのんびりした口調の卓馬は、不貞腐れた顔で目前の怒り顔を見た。
「時間に遅れるなんて、カジらしくないから心配したよ。心配して損した」
 そう言われて梶原自身も同様に「損をした」と言わんばかりの視線を雛鳥に向けた。
「おまえ、綾やマドンナの知り合いか・・・」
 その言葉には、少なからず嫌悪があった。乱暴な手つきで、ペンも記録簿も放り投げる。
「まったく、無遅刻記録がストップだぜ。行くぞ、お前ら」
 怒気を含んだ言葉は容赦ない捨てゼリフのようだ。雛鳥が抱いていたバスケットボールを取り上げ、大きなストライドで保健室を出て行った。
「こらぁ、カジ。呼びに来たのは俺たちだって。カジってば――」
 卓馬が追いかけて出て行った。
 残された介三郎はしばらく唖然としていたが、思い出したように雛鳥を見た。
「それで、どうしたの、雛鳥。足を冷やしてるのか?」
「はい。あの方が、冷やしているようにと・・・。介三郎様、あの方はどなたですか? わたくしの隣のクラスだと言われていましたが」
「あぁ、カジのこと。梶原常史って言うんだ。1-Bだよ。バスケ部のヤツだから、見かけたことはあると思うけど。――あ、そうか。雛鳥はホコリっぽい所が駄目だから、体育館とか来ることなかったね。しかもあいつはフレンドリーじゃないから、俺と一緒にいても印象にないかもしれないな」
「わたくし、何かあの方のお気に障ることでもしたのでしょうか。手当てをしていただいたのは、悪いことだったのですか?」
 梶原の反応があまりにも激しく、少なからず雛鳥を脅えさせている。
 介三郎は保健室の窓から顔を出して見渡すと、何かと視線が合って軽く手を振った。
「カジのことは気にしなくていいよ。別に雛鳥がどうって訳じゃないと思うんだ。多分、引っ掛かるのは綾のことだろうから」
「綾様・・・ですか?」
 わからないと言わんばかりの答えに小首を傾げると、介三郎も困ったように言いよどんだ。
「ん。なんだろうね、あいつ。綾が絡むと不機嫌なんだ。藤也のそれとは趣が違うんだけどね」
 何気なく答えながら介三郎は、雛鳥の冷やしている足を確認して、「良し」と笑って納得する。
「多分、足は大丈夫だよ。今、桜と目があったから、じきに綾かマドンナに知らせてくれると思うよ」
 このまま待っているように伝えると、介三郎もまた保健室を出て行ってしまった。
 一人残った雛鳥は、まるで何かに化かされたように茫然と、ただ自分の細い足首を見つめていた。


 咲久耶市南区の西、ほぼ八島市に近い位置に、一つの私立高校があった。聖蘭学園。元は女子高であったが、5年前に男女共学となり、徐徐に規模を大きくしている。
 その校舎の一角、大きな広間の中央にリビングセットが置かれている。部屋の隅に設えられたグランドピアノの音をバックに、聞こえてくる女たちの笑い声は、どこか上品で冷たかった。
 その中心に、まるでプライドの高いシャム猫が周囲を嘲るような微笑を浮かべ、寛いでいる女生徒がいた。
 この大広間の主。聖蘭学園三年の小山内園美(おさないそのみ)である。
 しかし、彼女をこの名で呼ぶ者はなく、皆一様に『貴妃』と呼ぶ。それは彼女が単なる一般生徒ではないことを示していた。
 異様に細身の肢体を長椅子に横たえ、美人と称するほどの容姿ではないが、どこか人目を惹きつける表情は、冷酷で美しい獣のようだ。
 細く切れ長の目。紅い唇。肉感のない細く長い四肢。紅いマニキュアで妖しく光る爪と、白く細い指で、いったいどれほどの者たちの涙を搾り取ったのだろうか。
 ローテーブルの上の熱い紅茶まで、彼女の指が触れた途端に冷めてしまうようだ。
 彼女の傍には、端整な顔立ちの男子生徒が立っている。シワ一つない制服と、微動だにしない態度には、この『貴妃』を敬う以上に、恐れを抱いているのが伺える。
 その周囲で談笑している女子生徒も、一見寛いで見えるが、誰もが『貴妃』の細かな反応、果ては視線までも見逃さない。
 大きな観音扉の前に立ち、衛兵然とした男子生徒たちも、窓際に直立している男子生徒たちも同様だ。
 ピアノの音が、一瞬途切れた。
 演奏していた女子生徒が、音を間違えたのだ。
 まるで金縛りにでもあったように、周囲の者達も息を飲む。
 貴妃の妖しい瞳が、演奏者に向けられた。すでに演奏者の手は止まっている。まるで魔物でも見るような脅えた目を微笑で受け止めて、貴妃は美しく伸びた自分の爪を撫でた。
「わたしには、音の狂ったショパンが似合いと言いたいのね」
 ゆったりとした口調が、広間全体を凍らせた。誰も、何も言わない。
 物音一つたたない中で、ピアノの前に立ち尽くしていた女子生徒が、緊迫した雰囲気に耐え切れず気絶した。力を失った身体が、ちょうど鍵盤の上に倒れこみ、騒々しい不協和音が響く。
「ウルサイわね。目障りよ、早く始末して。仕置きの後は、両腕とも折ってしまえばいいわ。ショパン一つまともに弾けない腕なんて無用よ」
 煩わしげに眉をひそめて、貴妃は傍の男に命じると、その男がまた脇に控える男子生徒達に目配せを送る。床に這う女子生徒は、手首を持たれズルズルと引き摺られて出て行った。
 しばらくして、消えた方向から断末魔の叫び声が聞こえた。その場にいる者すべてが、神妙な面持ちで貴妃を見つめている。
「柏木、今日は確か上納金を納める日だったわね。もう揃ってるの?」
 まるで何事もなかったように、傍の男にそう問いかける。柏木と呼ばれた男子生徒が、恭しく礼をして答える。
「各クラブの者すべて、控えの間で、貴妃様のお声がかかるのを待っております」
 そう言って柏木は、部屋の隅に待機している男子生徒に合図を送る。それを待っていたように二人が動き、観音扉を開けた。
「まずは、空手部主将、正田一にございます」
 柏木の説明に応じるように、貴妃の前三メートルで止まり、片膝をついた。
「貴妃様にはご機嫌麗しく。先程よりお声のかかるのを心待ちにしておりました」
 正田は厳つい身体とは正反対の、流麗な言い回しで貴妃を満足させると、ブレザーの内ポケットから分厚い封筒を取り出した。
「今月の上納金でございます。お改めを」
 恭しく掲げた封筒を、控えている者が預かり、それを柏木に渡して下がる。
「空手部は、いつも優秀だ。決して前月を下回らない」
 嘲るような微笑を浮かべて柏木は札束を数え、貴妃の耳元で囁く。どうやら貴妃も、その金額に満足したようだ。
「良いじゃないの。先日の鈴宮第一との練習試合も勝ったようね」
 妖しい微笑で正田を見つめた。正田がニタリと笑う。
「は。すべては貴妃様のお陰でございます」
 先日行われた鈴宮第一との練習試合は熾烈を極めた。
 鈴宮第一高校空手部は、県下でも五指に入る強豪だ。しかも、クリーンな試合をすることでは筆頭に上げられる。しかしその正統派強豪チームの主力選手は、試合直前に怪我でリタイア。控えで望んだこれに対して聖蘭学園は、反則ワザすれすれの攻撃をかけ、ルール無用の泥仕合を展開させた。
 聖蘭学園空手部は、元々強かったわけではない。この正田以下四名が、この聖蘭に編入してからだ。本来ならば正式な試合どころか、どこの門下にも属することのできない『おたずねもの』である。
 その彼らを学園に呼び、好き放題をさせているのが、この貴妃と呼ばれる小山内園美である。
 貴妃は微笑を浮かべたまま、紅の爪を気にしていたが、軽く首を傾げて正田に流し目をくれた。
「空手界から一度は追放されたお前たちを、わざわざ我が校に呼んだのは、単に空手部を強くさせるためではないわ。仕事はいくらでもあるのだもの、心して励むのね」
「勿論です。貴妃様。聖蘭運動部は、二十を下りませぬ。そのすべてのクラブを私ども空手部の力で勝たせて見せましょう」
 大胆にそう言うと、正田は立ち上がり、再度礼をして扉の向こうに消えた。
「さすがに貴妃様が選ばれたコマにございます」
 柏木が褒め称える。柏木から封筒を受け取り、貴妃は楽しそうに声を出して笑っている。
「空手部の成績も良いが、どうやら本来の仕事も順調のようじゃない。先が楽しみね」
「この一ヶ月に行われた親善試合および練習試合は、九つの団体に上ります。どの対戦相手も主力選手を欠き、我が聖蘭学園の圧勝に終わっております。いつどのような事故に見舞われるか分からぬとは言え、我が校にとっては幸運でございました」
 空々しい笑いが、周囲に控える者たちにも薄気味の悪い優越感を与える。
「あのテの男は、何人いてもいいわ。アイツが使い物にならなくなった時のことも、考えておかないとね」
 満足そうに爪を撫でる貴妃が、どうでもいい口調で続けた。
「次は、誰?」
 それに答えようと柏木が手元の資料に目を落とした時、観音扉が外側から開いた。
「申し上げます。ただ今、玄武帝がお着きになられました。まもなくこちらへ参られます」
 座は途端に黄色い声で満ちた。女子生徒たちは貴妃を憚りながらもはしゃいでいる。
 まもなく先導が現れて扉の脇に立ち、それに迎えられるように極ありふれた容姿の男が、一人の美丈夫を伴って現れた。
 咲久耶市の北、伊和長市を拠点とする学生組織・玄幽会総帥、玄武帝こと善知鳥景甫と、宰相を務める佐久間涼である。
 貴妃はわずかに姿勢を直したが、立ち上がる気配は見せず、座ったまま、
「玄武帝。よく来たわね。貴方が来ると一度に賑やかになる」
 と笑顔で迎える。言葉は丁寧だが、明らかに貴妃は、自分が玄武帝と対等、もしくは上であることを態度で表している。
 玄武帝善知鳥景甫は、それを当然の如く受け入れて、その礼に応える。
「元気そうで何よりです、貴妃。やはり月に一度は貴女の顔を見ないと落ち着かない」
 ゆったりとした口調で、そう愛想を振りまきながら景甫は、貴妃の隣に設えられた席に収まった。
 細身の身体を背もたれに預け、肘掛に腕を預けると、長い足を組んでゆったりと貴妃の横顔を笑顔で見ている。佐久間がその後ろに立った。
「そうしていつも、玄武帝には宰相がつききりなのね。宰相ほどの美形なら、片時も離したくないんでしょうけど、玄武帝が独り占めっていうのは、気に入らないわ」
 貴妃は、自分の傍に仕える柏木を見下しながら、玄武帝の背後に控える絶世の美男子を見つめた。
 景甫が苦笑する。
「貴妃は、これほどの男女を揃えてなお、まだ佐久間を欲するのですか」
 周囲の者達が、景甫の言葉に破顔したが、それも貴妃の言葉の前では消えうせてしまう。
「どれも小物に過ぎないわよ。玄武帝の側近とは比べものにはならないわ」
 貴妃はそういって、控えている者たちを睨んだ。
 そこへまた、男子生徒が入ってきて短く告げた。
「ただ今、不破第一高校の常磐井様がお出でになられました。こちらにお呼びしてもよろしいのでしょうか」
 玄武帝の訪問とかちあったことを気遣いながら伝えると、貴妃は面倒そうに欠伸をした。
「今日は、忙しいのね」
「常磐井殿も、先日ご帰国されてから忙しいと聞いておりますが、こちらへはよく来られるのですか。貴妃」
「本当に、鬱陶しい」
「これは手厳しい」
 景甫が苦笑で言葉を添える。
 間もなく、濃いサングラスをかけた大きな男が入ってきた。
 『不破公』と呼ばれる男。常磐(ときわ)井(い)鼎(かなえ)である。
 咲久耶市の西、八島市にある不破第一高校を拠点に動いている。
「景甫、お前も来ていたのか」
 馴れ馴れしい口振りが、気分を害するほどだが、景甫はさして気に留める風もなく、呼び捨てにされても、この男に関しては構わないようだ。
「久しぶりです、常磐井殿。留学はどうでしたか」
「別に、何ということはない。ま、日本より俺の性に合うな。それより景甫。ちょっと見ない間に玄幽会もでかくなったじゃないか」
「この席に座れるくらいのものを持たねば、貴妃にも常磐井殿にも失礼というもの」
「そりゃ、そうだ。せいぜい俺の縄張り以外で遊んでくれ。俺には学生の統合なんてこたぁどうだっていいからな」
 言って、常磐井は貴妃に顔を向けた。
「ところで貴妃、鈴宮第一と聖蘭の空手の試合、どちらに賭けた?」
「もちろん、我が聖蘭に決まっているわ」
 当然という答えに、常磐井は満足して続ける。
「じゃ、儲けたクチだな。あの試合、鈴宮第一に賭けた者が大半だったが、まさに大番狂わせだぜ。何がどうなってるんだろうな。いきなり鈴宮第一の主力選手が怪我をするとはな」
「えぇ、本当に、わからないことがあるものね」
 白々しい答えが、また周囲に異様な優越感を与える。
「やはり、お二人には負けますよ」
 傍で聞きながら、景甫は笑った。
「常磐井殿も、帰国して間がないというのに精力的ですね。今度は賭博ですか」
「おうよ。ネタは何でもかまわねぇ。勝負になるものは、すべて商売道具よ。特に聖蘭が出場する競技は、貴妃のおかげで掛け金が跳ね上がる。ところで、バスケット部の練習試合が組まれてるだろう、貴妃。相手は、鷹千穂学園だ」
「・・・鷹千穂」
 景甫の口が、微かにそう動いたが、常磐井は気付いた風もなく続けた。
「鷹千穂は、中学バスケを沸かせた三羽烏がいて、先月のインターハイ県予選で準決勝までいっている。片や、地区予選3回戦消えの聖蘭だ。さぞいい値がつくと踏んでるんだがな」
「それは、聖蘭が負けると言ってるの」
「貴妃、もしこれで聖蘭が勝てば、とんでもない額が舞い込んでくるという話をしているんだ。現時点で、聖蘭が勝てる率は低い。ってことは、聖蘭が勝てる見込みはない。見込みがなくて、聖蘭に賭ければ損をする」
「不愉快じゃ」
 呪いの文句でも唱えるように低い声が響いた。常磐井が肩を揺らして笑う。
「いいじゃねぇか、貴妃。ようは儲けの話だ。聖蘭が勝てばいい。せいぜい大金を賭けてくれ。景甫、お前も一口乗らないか」
「そうですね。それで、鷹千穂には現在どれほどの掛け金が集まっているのですか」
 景甫は困ったように肩をすくめると、背後の佐久間を見た。佐久間は微笑を崩さず静かに立ち、貴妃と常磐井の様子を見つめている。
「鷹千穂は盛況だよ。あまり儲けはないが手堅いところだろうな」
「玄武帝、鷹千穂のことなど聞いてどうするの。本当に不愉快ね」
 あからさまな嫌悪の表情に、景甫が伏し目がちに苦笑する。
 常磐井が面白そうに大きく足を組み替えた。
「まぁ、貴妃。そう目くじらたてることはないだろう。万里子に敵対するのは勝手だが、あれは俺の人形だ。もう少し穏やかになってもらいたいもんだぜ」
「人形とは笑止なことね。まったく相手にされていないと聞いてるわ」
「まぁ、見てろ。で、景甫、お前はどうする」
 濃いサングラスを景甫に向けて、常磐井が答えを促した。
 サングラスの奥の視線は図りかねるが、景甫は特に気遣う様子もなく視線を落として微笑した。
「では、僕は鷹千穂に賭けよう」
「何故。我が聖蘭に賭けるのが筋ではないの」
 今にも掴みかからんばかりの貴妃が、景甫を見据える。侮辱するにも甚だしいというところだ。
 しかし景甫はニコリと微笑むと、深く椅子に沈んだ。
「これで面白くなるでしょう。僕に恥をかかせてくれることを祈っていますよ。貴妃」
 澄んだ声を聞きながら、貴妃の双眸が澱んでいく。
「ならば、天でも動かせて見せるわよ。玄武帝は黙ってみてればいいわ」
 期待通りの答えを受けて、景甫はゆったりと構える。
「じゃ、俺は聖蘭に賭けるぞ。いいな、貴妃」
 常磐井は口元を歪め、景甫を見つめた。その表情の端には、明らかに玄武帝に対する侮蔑の念がある。
 貴妃もまた、しばらくその睨み合いに加わっていたが、おもむろに身体を横たえ、妖しい微笑を浮かべた。
「それは良いわ、常磐井。大金を賭けなさい。儲かるわよ」
 貴妃はひとしきり肩を震わせて笑うと、指先で柏木に命じた。

 鷹千穂学園高等部の東南の一角に建つ体育館は、熱気充分だ。
 地上三階、地下一階の構造は、真新しく最新設備が整っていた。
 今、体育館一階のバスケットコートは、威勢のいい声と、激しいボールの音が響いている。
 鷹千穂学園高等部一年生にして生徒会長の鷹沢綾は、コートを見渡すように立っていた。
 目前では、男子バスケット部がコート狭しと練習している。
 先月のインターハイ県予選で準決勝敗退。その時点で三年生が引退した。鷹千穂学園では原則三年生の部活動は一学期で終わる。
 主将を引き継いだ日下陽司は、コート上で皆に指示を出している。
 二年生チームと一年生チームに分かれての時間無制限の紅白戦だ。県予選まで進んだチームだ。二年生チームは平均して技術的にも体力的にも安定している。
 一方で、一年生チームは5人のうち二人は激しく入れ替わりながらも、突出して残り三人が目立っていた。
 速水介三郎は、百九十センチの長身と長い手足でディフェンスを主に担当しながら、時折鋭く切り込んでダンクシュートを決めていた。少々間の抜けた表情が頼りなく、相手を脅すネタにはならないが、反面それで敵の意表を突くこともある。
 巽卓馬が、飄々とパスを出し、相手ディフェンスを崩していく。次の動作を読ませない独特の動きと雰囲気が、着実に一年生チームを有利にしていく。
 そして梶原常史は、まるで「気に入らない」と言わんばかりに相手を蹴散らしながら、次々とシュートを決めていく。
 二年生チームも意地とばかりに喰らい付くが、五分五分が精一杯だ。
 この調子でいけば、ウィンターカップはもっと上まで狙えるだろう。
 先日よりマネージャーで入った成瀬愛美が、先輩マネージャーの横で他の部員たちと同様に声援を送っていた。
 綾は、さして表情を変えることなく眺めていた。
「珍しいじゃないか。ご多忙な生徒会長が、こんな所で油を売ってるのか」
 ぞんざいな物言いで近づいてきた今泉藤也が、相変わらず奇麗な顔を不愉快そうに歪めている。手にカメラを持っている。
「部活か、今泉」
「次の新聞部の記事に、バスケ部の練習試合を載せるらしい。それで写真部に依頼が来たんだ。まさかお前がいるとは思わなかったよ」
 来るんじゃなかったと言わんばかりの口調だが、綾はさして気に留めた様子もなく、また視線をコートに戻した。
 点差が離れてきた。二年生が押されている。
「日下」
 日下が近くに来たのを呼び止め、綾は小さく何かを伝えた。日下が一瞬目を丸くするが、苦笑で肩をすくめて承知したような表情を見せ、コート上の味方に指示を出した。
「お前、本当に可愛くないな。綾」
 藤也が呆れた表情で綾を見る。その意味は、すぐにわかった。
 日下の指示で、二年生のガードが二人梶原についた。マンツーマンでは抜かれたものが、目に見えて梶原の動きが止まった。
「お前、どうしてあいつに厳しく当たるんだ。おかげでこっちは、とばっちりばかり受けるんだぞ」
「言っている意味が分からないぞ、今泉。ただあいつが、他の二人に比べて反射神経が鈍いからだ。梶原は頭で考え過ぎる」
「本能全開の介三郎や卓馬と比べることはないだろう」
 言っているうちに、梶原が持っていたボールが二年生にカットされた。
「今の判断も一秒早ければ介三郎にボールが回っていた」
「どこまで貪欲なんだ、お前は」
 呆れて絶句した藤也は、しかしふと表情を変えて声を潜めた。
「ところで、次の練習試合は聖蘭学園だそうだな。綾。お前が組んだのか?」
「いや、向こうから直接部活顧問に話しがあったと聞いている。どうした、今泉、何かあるのか」
「お前、『貴妃』は知ってるのか」
「あぁ、万里子にライバル心を燃やしているどこかの令嬢というくらいは知っている」
「そんな程度の女じゃないんだがな。・・・意外におまえ、周辺の学校に無頓着だな。ま、守備範囲が違うと言えば違うから仕方ないか」
 意味深な言葉でつなぎ、藤也が続けようとした時、体育館の戸口に一つ影が覗いた。桜だ。
「今泉、その話の続きはまただ」
 綾はそう言い残すと、さっさと体育館を去って行った。


 桜に促されて、万里子のサロンに向かった綾は、そこでついぞ見たことのない万里子の姿を見た。
 いつものベーゼンドルファーの前に座ることはおろか、ソファに腰を下ろすこともせず、ただ部屋の中を歩き回りながら、何か険しい表情で俯き呟いている。
「どうしたのだ、万里子は」
 傍に控えている蛍に問うが判然としない。
「ご様子がおかしいので、何度か声をおかけしましたが、何もお答えにはならないのです。ずっとこの調子で歩き回られるので、お嬢様をお呼びしたのですが」
 いつもは万里子の傍でお茶の支度をしている雛鳥は、先日足を挫いた為の発熱で休んでいる。元々弱い身体の為、用心してのことらしい。
 意味もわからず唖然と見つめる綾に気付かない様子で、万里子はひたすら歩いている。
 美人と称して間違いない容姿と、均整の取れた肢体。軽くウェーブの掛かった長い髪をゆらゆらと揺らせながら、美しい足取りでひたすら歩く。戸口から始まって窓辺へ寄り、また戸口へ向かう。この動作を幾度となく繰り返しながら、次第に万里子の表情は硬くなっていく。
「万里子、いい加減に歩き回るのを止めたらどうだ。鬱陶しいぞ」
 綾はため息をもらしながら、メガネ越しに呆れて言った。
 一瞬、万里子の足が止まるが、しかしまた歩き始める。止まらないのだ。この落ち着きの無さは、尋常ではない。
「雛鳥の心配なら無用だろう。単なる用心の為の欠席だと言っていた。明日には登校してくるだろう。それとも介三郎の心配か。成瀬がしっかりマネージャーで監視しているぞ」
 だが、返答はない。
「まったく、何を困っているのだ。飛水が家出でもしたのか」
 真行寺一家の若頭の名前を出すと、やっと立ち止まって振り向いたのはいいが、すこぶる機嫌が悪い。
「どうして飛水が家出をするのですか」
「――だから、どうしたというのだ」
「・・・わからないのです。この気味悪さ。この感覚は、滅多にあるものではないわ」
 一点を凝視し、肩を庇うように掴んで震えるその形相は、とても尋常とは言えなかった。何かを恐れているというよりは、何かを憎んでいるという目だ。
 そこへ、ノックの音が重なり、女子生徒が入って来た。
「ただ今、不破第一高校の常磐井様と仰る方が、万里子様にご面会をと――」
 有り体に告げる女子生徒には、勿論何の罪もないだろうが、悲鳴のような声を飲み込み万里子は怒鳴った。
「あの男! この気味悪さはあの男だったのね! 冗談ではないわ。会うはずがないでしょう。とっとと追い返してしまいなさい」
 いつも聖母の如く神聖視している万里子の怒鳴り声は、電撃にも似た衝撃で女子生徒を打ちのめした。絶句で立ち尽くし、目には涙まで溜めている。
 見かねて綾は近寄った。
「いい加減にしないか、万里子。関係ない者にまで、そのような態度をとることはあるまい。脅えているではないか」
 万里子の正面に立ち、眼鏡越しに見つめている綾の瞳が、微かに光っている。
 その瞳を見つめた者は、一部ないし完全に記憶を失ってしまうが、万里子に向けられたその瞳は、そのような効力は発していない。それでも万里子の感情を少し落ち着かせるだけの力はあったようだ。
 万里子は謝罪するように目を伏せると、女子生徒に近づいた。
「ごめんなさいね。わたくしが悪かったのです。貴女には咎はありませんのに。どうか、気を悪くなさらないで。速やかに訪問者を追い返してくださいな。わたくしは本当に会いたくないのです」
 まるで懇願するように言う万里子に、女子生徒は一層震え上がった。
「それが・・・。すでにこちらに向かって来られています」
「なんですって」
 言っているうちに、金ボタンの鮮やかなブレザーを来た、体格のいい青年が入ってきた。
「常磐井・・・」
 万里子は絶句で、女子生徒に下がるよう手で合図をすると、数歩下がった。
 まるで天敵にでもあったようだ。
 綾は少し遠巻きにそれを見ながら、初めて会うこの男を確認した。
 背丈は男子の平均より少し高く、横幅がある。髪はボサボサでまとまらない。顔は濃いサングラスで隠され、面立ちは分からない。頬にあばたが目立つ。付き人を二人従えているが、どちらも上品とは言い難い男子生徒だ。服装は乱れている。
「万里子、久しぶりだな。相変わらず好い女じゃないか」
 と澱んだ声と邪まな口調だ。
 確かに一高校の番を張るほどの雰囲気を持っているが、それは威厳というものとは少し違うようだ。強いて言えば、黒い闇に満ちていると言ったほうがいい。
「さっさと出て行きなさい、常磐井。ここにいるべきではないでしょう」
「何がそんなに気に入らないのだ、万里子」
「貴方がわたくしの前に現れないという約束の期限まであと一ヶ月ありますわ。約束を違えることは、真行寺に泥を塗るのと同じこと。その意味がわかるなら、早々に立ち去りなさい」
「たかだか子分の傷一つのこと、この常磐井や真行寺の重さに比べれば、蟻よりも軽い。そんなことで、この扱いは可笑しいだろう」
「聞きたくありませんわ。出ていかないというなら、針金を投げますわよ。その醜い姿が、ヤマアラシのように棘で覆われるように」
「――醜いとは、聞き捨てならないな」
 万里子はどこからか取り出した針金を構えて、目の前を見据えた。
 常磐井の低い声が、空気を濁らせる。おもむろに外したサングラスが、懐に仕舞われるまでの間、微かな緊張があり、常磐井が次に顔を上げた時、一層空気が一変する。
 『不破公』とは別の呼び名『西都の怪物』といわれるだけのことはある。万里子の持つ静謐な空気をも駆逐するような澱んだ空気は、確かにこの男の内面にあるものだ。さして見栄えのする面立ちではないが、明らかに常人とは異質の目つきをしていた。理性や品性、道徳すらも感じられない禍々しい光がある。
「腕ずくで組み強いてもいいんだぞ、万里子」
 言いながら一歩踏み出そうとする常磐井に、万里子は針金を構えた。
「待て。戯言はそこまでだ」
 厳しく諫めるような低い声が、二人の間を引き離す。ゆっくりと綾が歩を進めた。
「この鷹千穂でいざこざを起こされては迷惑だ。そちらの御仁にはお引取り願い、万里子はその手のものを収めよ」
 静かな声が、万里子と常磐井の間に入り、万里子を背に悠然と立った。
「お前は、誰だ」
「この学園の生徒会長だ」
「ほう」
 常磐井は、目前に立つ女子生徒の全身を舐めるように見ると、少し楽しそうに鼻を鳴らした。万里子とはまったく異質の雰囲気と態度。だが、常磐井にはどこか、これと同じものを別の人間に感じたことがあった。
 数名の警備員が入ってくる。
 その後から普段万里子のピアノを聞きに訪れる一般生徒の幾人もが心配そうに様子を見、その最後尾に桜の姿があった。警備を呼んだのは彼女だろう。
 常磐井はしばらく立ち尽くしていたが、そのまま尊大に構えてサングラスをかけなおす。
「今、事を荒立てる気はない。万里子、また会おう」
「いいえ。二度と会いたくありませんわ。今度わたくしの前に現れたら、間違いなくヤマアラシにして差し上げるわ」
 激しく言い捨てる万里子に、もう一度何かを言おうとした常磐井を、綾が制する。
「客人のお帰りだ。失礼がないように正門まで送って差し上げろ」
 そう警備員に指示を出すと、警備員の数人が常磐井とその側近を取り囲み、一人が恭しく礼をして扉へ促す。暫くサングラス越しに見つめた常磐井の視線を正面から見据え、綾もメガネ越しに無言で返した。
「行くぞ」
 常磐井は言い捨てて、側近二人を従えその場を去った。
「ご無事ですか、お嬢様」
 小さな声で近づいた警備員の一人に、門を固めるようにと小さく指示を出し、桜に目配せすると、綾は万里子を振り返った。
 唇も肩も異様に震わせて、万里子は男の出て行った戸口を見据えて、手に持っていた針金を一本柱に投げた。
 綾が大きくため息をつく中で、さっさとピアノの前に座った万里子は、狂ったようにベートーベンを弾き始めた。


 美しい眉月が、冴え渡る東天にのぞいた頃。
 真行寺邸の釣殿では、恰幅のいい中年の男が、杯をあけていた。
 真行寺一家の八代目当主である。
 代々この屋敷の周辺と歓楽街に広大な土地を有し、財界にも顔の利く極道一家の組長だが、昔気質の任侠道で、どちらかといえば、警察組織よりは裏の組織に疎まれていた。
 若衆が数名、末席に侍り居住まいを正して見守っている。
 そして、真行寺に酌をする美丈夫が、一家の若頭である五十嵐飛水である。まだ三十歳には届かないはずだが、その立ち居振る舞いからは、若さよりも落ち着きが感じられる。
 均整の取れた体型に、シワ一つない背広を着込み、地味なネクタイをし、長く伸ばした髪を毛先あたりで一つに結んでいる。
 顔の彫りは深く、目は切れ長だが優しかった。ただ、その左頬の十文字の傷だけが痛々しい。古いもののようだ。
 飛水は微笑を浮かべながら、酌を続けていた。
 池の中に立つ釣殿に、爽やかな夜風がピアノの音を運んでくる。
 月夜にベートーベンの『月光』は似合うだろうが、どうやら今日の『月光』は一味違うようだ。
 真行寺が苦笑で杯を止める。
「万里子は何をあんなに苛立っているんだ。ベートーベンが血相を変えて怒鳴り込んでくるほどの荒っぽい『月光』ではないか」
 八代目の呟きに、末席に連なる若衆は笑いを堪え、飛水は困ったように笑った。
「常磐井のご子息が、帰国早々お嬢さんに会いに行かれたので、腹を立てておられるんです。ハリネズミにするところを、鷹沢の令嬢に止められたようで」
「常磐井の・・・。あれは万里子には会えないことになっていたと思うが」
 何かを思い出すように視線だけ上げた真行寺に、飛水は微かに顔を曇らせた。
 ポーカーフェイスのこの男には、珍しいところだ。
「おっしゃる通り、約定ではあと一ヶ月は会えないはずですが、元よりあのご子息ならば、そんな約定が通用するとは思えません。この十年間、顔を会わさなかったのが不思議というもの」
「あれの父親も、性懲りも無く縄張り荒らしをしているようだからな。言っても仕方あるまい。いずれ万里子との縁組話を持ってくるだろうが、さて、何を土産に差し出すかは見ものだ」
 真行寺はそう笑って杯をあけると、また飛水に酌を求めた。どうやら娘の意思に反して、常磐井親子の動きを楽しんでいるようだ。
 飛水は無言で酒を注いだ。何の変わりもない飛水の動作に、末席の若衆たちの表情が心配そうだ。
 『月光』が、激しい不協和音を響かせて、終わった。
「潰れたな」
 満足そうに微笑を浮かべる真行寺に答えるように、母屋から渡って来た若衆が、飛水のほうを見て膝をついた。
「すいやせん、兄貴。お嬢さんがピアノの前に座り込んで動こうとなさらないんで。どうか御休みになられるよう、説得しておくんなせい」
 情けなく頭を下げる若衆に答える様子はなく、飛水は真行寺に酒を注ぐ。
 お願いしますと繰り返す若衆に、見かねて真行寺が口を挟んだ。
「酌はいい。面倒だろうが、行って説教の一つでもして来い」
 言われて、飛水はやっと立ち上がった。若衆たちがホッと胸を撫で下ろす。
 控えている若衆の一人に酌を命じる飛水の背中に、真行寺が苦笑で呟く。
「あれから十年とは早いものだ。だが、何年経とうと、お前の頬の傷が癒えようと、常磐井に対する万里子の気持ちは変わらぬであろうな」
 その口調には、笑み一つ見当たらない。
 酌を代わった若衆に酒を注がせ、また眉月を見上げた真行寺は、大きく息をついた。
 十年前、泣き叫ぶ娘の元に驚き駆けつけると、部屋に血が飛び散り、うずくまる飛水を庇うように万里子が小さな手を大きく開き、常磐井鼎の前に立ちはだかっていた。常磐井鼎の手にはナイフが握られており、それは鮮血で汚れていた。
 父親に連れられてこの屋敷を訪れていた常磐井が、何故飛水に切りかかったのかは、分からなかった。万里子も飛水も、そして常磐井もその事については、決して話そうとはしなかったからだ。
 ただ、父親同士の間で、十年間は決して合わせないという取り決めだけは作った。当時の常磐井興産は、一介の暴力団が会社の形を辛うじて取っている弱小企業。真行寺に刃向かうことができる力関係ではなかった。常磐井の父親は、息子に向かってキツク約束をさせ、十年間の約束を守らせた。
 だが、その約定もあと一ヶ月。しかも常磐井鼎の動きは、真行寺の耳にも入る程に派手で汚い。それが、今日の万里子の反応であれば、父親として考えざるを得ないだろう。
「俺は、可愛い娘の嫌がることをする親にはなりたくねぇな」
 八代目の言葉に、サイレントで騒ぐ若衆たちを、まったく気にする様子はなく、飛水はただ端然と母屋に向かって渡って行った。


 真行寺邸の母屋の一角の洋室に入った飛水は、思わず大きく肩を落としてため息をついた。
「なんて格好をしているんですか」
 ピアノに覆いかぶさるように寝そべっている万里子の振袖が、裾も肩も大きくはだけている。
 こんな教育はしていないのだがと自問自答した飛水は、傍まで寄るといつもの低く無表情な声で、万里子の肩口に話しかけた。
「お嬢さん、寝るのなら、自分の部屋へ行ってくださいよ。こんな所で寝られると、若いのが困るじゃありませんか」
 だが、それほどのもので起きる様子はない。
「鷹沢の令嬢に見られると、笑われるだけでは済みませんよ」
 ポツリと呟くと、万里子は突然立ち上がり、鍵盤を激しく叩いた。
「綾が悪いのですわ。止めてくださらなければ、思う存分常磐井を痛めつけてやれましたのに」
「過激な発言はいいですから、さっさと寝所へ行ってください」
「まぁ、飛水は綾と同じ考えなのね」
「この頃、暴れすぎですよ、お嬢さん。おしとやかという言葉を教えたはずですがね。なんだって、そんなに常磐井の若さんに対して感情的になるんですか」
「どうしてかですって! 飛水。貴方はわからないとでも言うの」
 正面から見返す万里子の視線が、飛水の左頬に集中する。
 飛水の左頬の傷が疼いた。
「貴方の顔を傷つけて、良心の呵責もないあのような男を、冷静に見ろというの」
 あの日から、万里子が常磐井を憎まない日はなかったのだろう。年齢よりは大人びて、落ち着いた物腰の彼女が、唯一冷静に対処できない男。
「そうです。冷静に見て欲しいものです。感情的になるのは、危険ですよ。たかだか私の顔の傷くらいで、そんなに怒らなくてもいいでしょう」
「怒らずにいられないわ。わたくしは・・・わたくしは、貴方を守れなかったのですよ」
 十年前、親に付き添ってこの屋敷を訪れていた常磐井の相手をしていた時の何気ない会話。美しい顔立ちの飛水が運んできたお茶を、常磐井は跳ね除けて間髪入れず懐から取り出したナイフで切りつけた。万里子を庇って矢面に立った飛水の左頬を、ナイフが無情に切り裂いたのだ。
 大人達が駆けつけ、状況説明をするようにと問い質したが、万里子も飛水も、また常磐井も何一つ答えなかった。真行寺はこれを重く見て、常磐井親子に十年、万里子の前に現れないことを約束させた。
「私の役目は、お嬢さんを守ることですよ。私が守られていては駄目でしょう」
 呆れた口調で答える飛水に、万里子はまだ釈然としない。
「そういう問題ではないでしょう」
「どういう問題があるんですか。とにかく、ご自分のお部屋にお戻りください。こんな所で管を巻いていられては、若いものが困りますので」
 埒が明かない会話に辟易した表情を見せ、飛水は敢えて恭しく礼をすると、万里子の居室の方へと促した。
「飛水。お父様は、あの者をどうする気でいるの」
「さぁ、それはご自分でお聞きになったほうが良いでしょう。私は存じ上げないので」
 飛水の答えに、何か小さく呟いて、万里子は飛水に背を向けた。
 飛水はそれを見送りながら、左手で顔を半分覆った。十文字の傷が、疼く。
 あの日、避け切れなかった刃は、万里子だけでなく飛水自身にも戒めとして深く刻み込まれている。


 


部活が終わり、行き着けのラーメン屋で腹ごしらえをしている間にも、話題はバスケのことだ。
 こういう時は、レギュラーも補欠もない。皆が同じ顔で、バスケの話に夢中だ。
 そうして皆が一服したところで、部員は各々の方向にグループを作って解散となった。
 介三郎は勿論愛美と同じグループだ。その横で梶原が不貞腐れた顔で歩いていた。
「本当は綾も心配なんだろうな。県予選準決勝敗退って言っても、そのレギュラーはほぼ三年生で、一学期で引退。日下さん達は試合経験はあるけど補欠だったし、部員の比率は一年生が半分以上。実力的には、県予選時に比べれば数段低くなる」
 介三郎は珍しく、練習を眺めていた綾の視線を思い出しながら、呟いた。
「でも、日下さんと石岡さんは、しっかり主将と副主将をしてるわ。試合経験だけじゃ、わからないわよ」
 愛美が答えると、まったく違う声が返ってくる。
「なんでアイツは、お前の肩ばっかり持つんだよ」
 梶原はそう唸っている。日は暮れて、外灯の灯の下を歩く時だけ、梶原の表情が伺えた。お世辞にも、優しい横顔とは表現できない仏頂面だ。
「何言ってるんだ、カジ」
 目を丸くして介三郎が梶原を見るが、梶原は口の中で、何か悪態をつくだけだ。
「梶原くんって、綾が好きなの?」
 愛美が問うと、突然、梶原が獣のような咆哮を上げた。
「誰が! あんな冷血女のことなんざ、頼まれたって願い下げだぜ」
 あまりの形相に、思わず愛美は介三郎の背中に隠れてしまう。
「おい、カジ。成瀬が怖がってるじゃないか」
 介三郎が血相を変えて咎めると、鋭い流し目が返ってくる。
「悪かったね、凶暴で。どうせ俺は嫌われ者ですよ。女どもは俺を見ると脅えるし、教師も俺の顔色を見て話す。どこに行っても腫れ物扱いだ」
 当然だ。
 梶原はいつもこの調子だ。怒ったような口調と表情。思ったことを捻じ曲げて、ドスの効いた低い声で捨て台詞。その言葉は辛らつで、とてもじゃないが、女の子は近づけない。
 それは決して『嫌い』という感情ではない。誰もがこの少年の実力と努力を認めている。それが梶原には理解できていないだけだ。
「お前、そういうところはタクを見習って、穏やかになったほうがいいよ」
 介三郎は困った顔をする。
 梶原と卓馬とでは、本質は同じなのに、表現がまったく正反対なのだ。それは、二人のプレーによく現れる。梶原はとにかく突っ走る。その迫力で相手を圧倒し、シュートにまで持っていく。反対に卓馬は、その存在を風のように流して、巧妙にボールをパスする。このコンビ故に、介三郎は安心して動けるのだ。
 梶原の冷めた眼差し。
「介ちゃんよ。俺にタクの真似ができると思ってるのかよ」
「いや。思ってないけどさ」
 極真面目な顔で答える介三郎の後頭部を、梶原のラリアートが直撃した。
「ふざけるんじゃねぇ」
 また怒らせて、介三郎は頭を撫でた。
「でもさ、綾もマドンナも、いつだってお前を褒めてるよ。正直にそう言ったって、お前は否定してしまうだろ。だから言わないだけだよ。先輩たちだって、お前のオフェンスを信頼して、フォローに回ってるだけだ。腫れ物扱いなんかしてないよ」
「そうそう。女の子だって、梶原くんを狙ってる子って沢山いるのよ。バスケット部の三羽烏と言えば、人気があるのよ。中でも梶原くんはダントツなの」
 すかさず愛美がフォローする。
「梶原くんって、いつも素敵だけど、バスケやってる時なんてとっても格好良くて、女の子たちが騒ぐの、私分かるわ。乱暴な口調も、荒っぽいプレーも、私大好き」
 つい力を入れてそう言うと、介三郎の顔色が無くなっている。
「本気で言ってるの?」
 梶原の感情をまったく無視した問いかけに、愛美の方が頭を抱えた。
「介三郎くん、私情は後にして」
 我に返った介三郎が梶原を見ると、彼はすっかり機嫌の直った表情で、介三郎を見ていた。
「まったく、お前を見てると、怒る気が失せるぜ」
 苦笑も映える二枚目は、軽く介三郎の頬を小突くと、大股で先を急いだ。おもむろに挙げた手が、「さいなら」と言っている。
「カジ、気をつけて帰れよ」
 大きく背中に声をかける介三郎の横で、ぼんやりと見送る愛美がいた。
 今立ち去って行く恵まれた少年が、どうしてよりにもよって冷たい恋をしているのか、理解できなかった。
 完璧主義を絵に描いたような少年だ。外見も能力も、必要以上の努力を惜しまないその精神力も、すべてが突出している。同じ学生服でも、彼は決してその他大勢に紛れることはない。男らしい彫りの深い顔立ちと、ほとんどの男子生徒が見上げる背の高さなどは、些細なことだ。何より彼の持つ独特の雰囲気が、人を引き付けてしまう。
 だが、それをすべて払い除けて歩く理由が、彼の中にはあるのだ。
 そしてその『理由』は、違う形で愛美にも大きく圧し掛かっていた。
 鷹千穂バスケット部三羽烏は、一年生の初夏にしてかなり有名である。『追っかけ』をしている者は少なくない。
 その中で、梶原と卓馬に比べれば、介三郎を追いかける女子は少ない。一重に、介三郎が生徒会長のお気に入りであることが、公認となっているからだ。
 しかし反面、介三郎に想いを寄せる女子は、一途な子が多いということも事実だ。
 愛美は時折不安になる。そしていつも見せ付けられる。
 介三郎は、綾と万里子にとって、宝物同然なのだ。何故そこまであの二人が介三郎を想うのかは、梶原同様、愛美にも分からなかった。
「怒ってるの、成瀬」
「え・・・」
「水無月祭で、俺が言ったこと」
 水無月祭の後夜祭で、二人フォークダンスを踊ったが、その時介三郎はつい口が滑ってしまい『成瀬の胸ってでかい』と言ってしまったのだ。まるで、女の子の胸にしか興味がない言い方をした。
「あのことか・・・」
 愛美は思い返して、肩をすくめた。
「どうせ、私は太ってるわよね。背も低いし、髪も天然だし、顔なんてマドンナと比べられると月とスッポンだもんね」
「そんなことないよ、成瀬は可愛いって。まんまるムーンフェイスも、クリクリ目玉も、低い鼻も、俺は好きだよ」
「・・・・・・」
「髪だって俺はそのクルクルのほうが好みだし、スタイルなんて上から八十五、五十八、八十八なんてさ、充分魅力的だよ」
 愛美の表情が冷めていくのを気付きもせず、介三郎は勢いあまってそこまで捲くし立てた。
 愛美は介三郎の息が切れるのを待って、冷たい流し目を送る。
「さっきから聞いていると、褒められてる気がしないんだけど」
 その口調で、介三郎はまたしても自分の失言を認識した。
「それに、どうして私のスリーサイズが分かるのよ」
「そ、それは・・・・えっと・・・」
「正直に答えなさいよ。まさか密かに測ってるんじゃないでしょうね」
 介三郎は激しく首を振りながら、大きく手で否定した。
「違うよ。藤也が言ってたんだ。あいつ、女の子のサイズは、見ただけで分かるから」
 介三郎の答えは、すこぶる不評のようだ。
 愛美は自分のカバンを介三郎に押し付けて、荒っぽく歩き出した。
「まったくロクなこと考えないのね、男の子って。今泉くんも今泉くんだわ。あんな奇麗な顔の下は狼くんだなんて、信じられない。きっと、校内に出回ってるミス鷹千穂のランク表に、彼が関わってるって噂は本当ね」
 暴力的な歩幅が、彼女の心中を物語っていた。
 介三郎は、自分の親友の奇麗な顔を思い浮かべながら、スタスタと歩く愛美の後ろを二つのカバンを抱えてついて行く。
「でも、男ってたいがい狼だと思うんだけどな」
 小さな抵抗は、愛美の一睨みで消えた。どうやら今日は、二人並んで仲良く歩く雰囲気ではないようだ。
 介三郎は黙って荷物もちに専念した。


「聖蘭との練習試合か。三年が引退して初めての試合だもんな。」
 そう言って、日下は大きく背伸びをした。細い眉月がビルの上から笑っている。
 その横で鼻歌を歌っている卓馬も、つられて背伸びをした。
「鷹千穂は、三年生のクラブ活動は一学期までですもんね。どのクラブもこの時期に二年生に主将が引き継がれるわけだから、日下先輩、頼みますよ」
「どうかな。俺たち二年生は試合経験が浅い。お前ら三羽烏の方が場数をこなしていると思うよ」
「頼りにしてますって、先輩。カジはすぐ暴走するし、介はたまにヌケるんですから、先輩がビシッと締めてくださいね」
 無邪気という表現がピッタリの顔に笑顔を浮かべ、卓馬はケラケラとおどけた。口調も態度も後輩らしくないが、なぜか憎めない少年である。
 日下も、
「そうだな。梶原にはどうやらブレーキがいるらしい。介三郎のおっとりも、あいつにだけは通じないようだ」
 人気のない薄暗い通りに、二人の明るい声が響いた。ここを通り抜ければ、日下のアパートはすぐそこだ。卓馬はそこから五分ほど歩く。
 しばらく無言で歩いている間、日下は卓馬の横顔をそれとなく窺った。
 曇り一つない無邪気な笑顔が、街灯の下で生き生きと浮かんで見える。
 そうして何度か窺った後、日下はおもむろに問うた。
「まだ、家出したままなのか。卓馬」
 辺りを憚るような問いに、返す卓馬は晴れやかな笑顔を浮かべている。
「帰る家なんてないですよ。奨学生の上に特待生だから学校には困らないし、一応オヤジが仕送りしてくれてるし、冴子さんのアパートって家族向けだから部屋数はあるんですよ。だからずっといて良いって、言ってくれてるし」
「彼女、社会人だっけ」
「そ。俺、ツバメちゃんなんです。末はヒモかパラサイト、ストーカーってのもありかな」
 あっけらかんとしているこの少年が、かつて両親の離婚問題でグレていたなどとは、想像もつくまい。
 結局、卓馬が高等部入学と同時に両親は離婚してしまい、どちらも彼を引き取らなかった。卓馬自身、父とも母とも相容れなかったようだ。
 その頃、都築冴子という女性と知り合い、アパートに転がり込んだ。すっかり明るくなった卓馬に、冴子との関係を冷やかすことはあっても、それ以上の私事に踏み入る者はいなかった。
 勿論、日下も他意があって話題にしたのではなかった。
「学校のほうは、バスケで活躍している以上、心配ないだろうから、身体だけは気をつけろよ。お前がいなきゃ、三羽烏もなりたたんからな」
「任せといてよ、日下さん。丈夫だけが取り柄なんだ、俺」
 優しい瞳を卓馬に向ける日下に、可愛い後輩は大きくVサインを見せた。
 その時だ。
 明るい通りを目前に、長い影が数本、二人の行く手を阻んだ。
「なんなの、いったい」
 惚けて訊いた卓馬の後ろに、同じ影が一つ、来た道を塞いでいた。
 尋常でない雰囲気に、日下は気色ばんで卓馬を庇うように立った。
「お前ら、何なんだ」
 大きく問い質す日下に、影の一つが問い返す。
「鷹千穂のバスケ部員か」
 その声には、明らかに殺気が含まれている。
 卓馬の澄んだ目が、鋭く光った。
「先輩、気をつけて。こいつら、ヤバイよ」
 小さな卓馬の声は、宙に浮いた影たちの咆哮に霞んでしまった。



「介三郎、いるか」
 大きく叫んで、梶原が走りこんでくる。介三郎が朝の挨拶をしようと口を開けたが、それはそのまま間の抜けた顔として固定されてしまった。
「お前、知らないのか。タクが・・・。卓馬と日下先輩が昨夜襲われたって。今、病院だって」
「襲われた?」
 介三郎は事態を飲み込めず、梶原の顔を見つめた。直情型とはいえ、あくまで二枚目を崩さない梶原が、すっかり取り乱した顔をしている。
 周囲の目など気にせず、青ざめている姿は、そうそうお目にかかれるものではない。
「病院って、どこなんだ。カジ」
 辛うじて介三郎は問うた。介三郎もまた、傍から見れば、とても冷静とはいえない形相だ。いつもの間抜け顔が、幾分凛々しく見える。
 梶原が答えようとしたところへ、不意に別の声がかかった。
「咲久耶中央病院だよ、介」
「藤也」
「さっき、綾が連絡を受けて向かった」
 いつの間にか傍に立っている今泉藤也が、厳しい目で二人を見上げた。その表情からするとかなり重症のようだ。
 梶原は絶句のまま、教室を出て行った。いてもたってもいられないのだろう。
「待てよ、カジ。俺も行く」
 慌てて声をかけたが、おそらく届いてはいない。
「ごめん、藤也。俺とカジの担任に言っておいてくれないか。病院行ったって」
「綾が、理事長の車を借りてくれた。授業はいいから、追いかけて来いって、あいつからの伝言」
 嫌々告げると、少し落ち着いた表情が返ってくる。
「そうか。じゃ、行って来る」
 介三郎は短く答えて手を振ると、全速力で梶原を追った。
 咲久耶中央病院に着くと、受付ですぐ卓馬の病室を教えてくれた。個室だ。
「タク、大丈夫か」
 梶原が勢い込んで駆け込むと、ベッドサイドに立った綾が、卓馬の顔に顔を近づけて何かしている。
「何してんだよ、お前ら」
 心配顔が一転鬼面に変わり、梶原が怒鳴ると、綾が無表情で顔を上げる。
「欠損状態を見ていたのだ」
 と軽くあしらった。
 ベッドに横たわっている卓馬が、笑ってこちらを見ている。
 身体を起こして座っていることはできるようだが、その左腕を固定し、顔や肩口には絆創膏が貼られている。
「相手のパンチを避け切れなくて、前歯が折れたんだよ」
 そう言いながら口元を指差す卓馬は、とても元気そうで、後から走り込んだ介三郎はホッと息をつく。
「元気そうで、良かった」
「血相変えて飛んで来たのが、バカみてぇじゃないか。藤也の顔色じゃ、重症だと思ったのによ」
 安心したのか、途端に口調が荒れた梶原は、ベッドサイドに腰を下ろすと踏ん反り返って腕を組んだ。
 介三郎もニコリと笑ったが、しかし、卓馬の表情は強張る。
 綾が窓辺に寄りかかり、梶原を避けるようにそっぽを向いて、言った。
「梶原。卓馬は左腕にヒビが入っている他は軽い打撲と小さな傷だ。バスケはともかく、すぐに退院できる。しかし、日下は思った以上に重い」
「先輩が・・・」
 異口同音で唸った介三郎と梶原に、卓馬はただ頷いただけだった。
「右肩の粉砕骨折、つまり骨が粉々になっているのだ。右腕と左足は複雑骨折。肋骨二本が骨折、うち一本は肺に刺さっている。おまけに頭部打撲で意識不明。重体だ」
 日下は今、集中治療室で手当てを受けている。たとえ元通り完治したとしても、おそらくバスケットの選手生命は絶たれるだろうと医師は言った。
「先輩は、俺を庇って殴られたんだ」
 卓馬が小さく呟いた。いつもの軽快さはさすがに一縷も見当たらない。
「何とか応戦したんだけど、やたらに強かったんだ。それに多勢に無勢じゃ、勝ち目はなかったんだ」
 場数を踏んでいるはずの卓馬でさえ、この通りだ。ケンカなどしたことはないであろう日下には、せめて卓馬の盾になる以外なかったのかもしれない。
「誰なんだよ、お前らを襲ったヤツは」
 もどかしげに梶原が唸る。
「わからないよ。黒ずくめで顔を隠していたんだ。ただ、空手を習ってるヤツだってのはわかったよ。中にはテコンドー混じりのヤツもいたけど。とにかく普通じゃなかった」
「でも、何でタクと日下先輩が狙われたんだ。恨みを買う覚えでもあるのか」
 介三郎が、卓馬の折れた歯や顔のアザを点検している。大事には至っていないが、さすがにアザはひどかった。
「ないよ。昔の因縁はとっくに清算してるし、第一あんな汚いやり方をする奴らは知らないよ。どうやら鷹千穂のバスケ部に用があるらしいんだ」
「バスケ部が・・・」
 そう呟いたのは綾だ。氷のような表情が一層冷たく固まった。
 卓馬は思い出すように唸ると、そうだよと付け加える。
「俺、闇討ちだと思ったんだ。聖蘭との練習試合が終われば、ウインターカップの予選が始まる。ウチはインターハイ県予選で良いところまで行ったし、次はもっと上を狙えるだろ。ただ、それだけなら、あそこまで執拗に日下先輩を痛めつけることはないと思うんだけどな。試合に出さない為だけなら、手足の骨折だけですむよね? だけどあいつらは、確かに楽しんでいたんだ」
「楽しんでいたって、・・・人を半殺しにすることをか?」
 信じられないと言わんばかりの介三郎の後ろで、綾の表情が微かに変化したことを、梶原は見逃さなかった。
「おい、綾。お前は犯人が分かっているのか」
 梶原は凄んだ。
「知ってるなら教えろ。仲間やられて、黙ってらんねぇからな」
 その迫力にさして動じた風もなく、綾は介三郎を見た。
「早々に、他の部員に注意するよう伝えろ。今後のことは学園に帰って考えるが、一先ずは頼む」
 梶原の気持ちは軽く流されて、卓馬に短く言葉をかけると、綾は出て行った。
「何だよ、あれは」
 無性に苛立つ梶原が、大きく吠えた。
「カジ、あまりムキになっても仕方ないよ」
 卓馬はぼんやりと天井を見つめたまま、悠長に構えた。
「うるせぇな。俺はムキになんかなってねぇよ」
 思わず相手がベッドに寝ていることも忘れて怒鳴り散らす。介三郎は困った顔で止めた。
「やめろよ、カジ。タクは怪我人なんだ。それよりも、学校へ戻ろう。皆、心配してるし、綾の伝言も伝えなきゃならないんだから」
「そうやって、お前はなんでもあいつの言う通りにするんだな」
 感情剥き出しの言葉をどう取ったのか、介三郎はいつもの茫っとした顔を真面目にして、真っすぐ梶原を見返した。
「当たり前だろ。タク達を襲った奴らがバスケ部を狙ったものだとすると、他の部員にも注意するように言わなきゃ。また誰か襲われたら、日下先輩が嘆くよ。綾もそう思うから動くんだ」
「あぁ、そうですか。公認のパートナーさんには、よくお解りのようで」
 すっかり卑屈になって言い捨てる梶原を理解できず、介三郎は小首を傾げて卓馬を見た。分からないことは、考えない主義だ。この点に関しては、介三郎は徹底している。
「ゆっくり休んで、怪我を治すんだぞ、タク。ウィンターカップまでには間に合わそうな」
「俺は大丈夫だよ、介。悪いけど、冴子さんに連絡してくれるかな。俺の携帯、壊れたんだ。昨日、俺が帰らなくて心配してると思うんだ」
「分かったよ、タク。さ、カジ、行こう」
 だが、梶原はすっかり不貞腐れているようで、そっぽを向いている。
「先に帰れよ。俺は後から帰る」
「何言ってるんだよ。一人で動くなよ、カジ。危ないって分かってるだろ」
「俺の心配なんかいいだろ。部員への連絡は、携帯使えばできるだろ。俺はそういうのは向かないんだ。いつもやり慣れてるヤツがしろよ」
 あくまでそっぽを向いているつもりらしい。介三郎は、いつものマヌケな顔で梶原と卓馬を交互に見ると、
「わかった、やっとくよ。とにかくカジ、気をつけて帰って来いよ。タク、また来るから。ゆっくりしてろよ」
 梶原の一方的な態度を気にした風もなく、介三郎はいつもの惚けた顔のまま、病室を出て行った。
 卓馬が大きなため息をつく。
「カジってば、介に八つ当たりすることはないじゃないか。大人気ない」
 呆れてものが言えないとでも言いたいようだ。それに向かって、凄みを増した切れ長の目で睨む梶原は、こらえ所のないガキ大将さながらだ。見事な長身がもったいない。
「お前はなんとも思わないのか。介はいつでも綾の言うことは『はい、わかりました』で片付けるんだ。だいたい綾は、お前らをこんな風にした奴らを知ってて、教えないんだぞ」
「そりゃ、そうだよ。カジに言えば、見境なく突っ走るじゃないか。綾は、介にもカジにも危険なことはさせないよ」
「そうして、あいつばかりが危険を背負い込むんだ」
 そう呟いた梶原に、憤り以外の感情が見え隠れする。おそらく心の中では、もっと激しい何か別の感情が燻っているのだろう。
 卓馬はそんな横顔を眺めながら、ため息ばかりついた。
「綾がカジを遠ざけるのは、カジが綾の身代わりになろうとするからだよ。俺を庇ってくれた日下先輩のように身を挺してまでもね。だけど介は、綾の立場を理解しても、サポートするだけだ。決して身代わりになろうなんて考えないよ。綾の立場は、誰かが代わってやれるようなものでないことを、本能的に知ってるんだ」
「俺が知らないとでも思っているのか。鷹沢に関係するすべてのものを動かしているのは、理事長ではない、あいつだ。大勢の部下を持ちながら、危険はすべてあいつが背負うんだ。何故そこまでしなきゃならないんだ。鷹沢を守ろうとするなら、後継者のあいつを守るのが第一だろ。なのに、あいつが一番危険な役回りじゃないか」
「そんなこと、綾に言ったら殴られるよ、カジ。他の人間が危険な目に合うくらいなら、自分が危険な方がいいって、綾は必ず言うよ。だから黙って見物するしかないんだよ。何の力もなく、また持とうともしない俺たちなんかにはね」
「・・・俺には、ただ見てるなんてことはできないよ」
 暫くして、梶原は小さく呟いた。今はそれが精一杯の抵抗である。
 卓馬は大きく息をついた後、にっこり笑って歌うように言った。
「それがカジのいいところ」



 大きな窓から入る心地よい風が、少し息苦しく感じる部屋で、雛鳥は座ったまま慣れた手つきでお茶の支度をしていた。足首の捻挫は軽く、少し熱を出したが、歩けないほどではない。もう一日休むようにと両親に諭されたが、どうしても登校したかった。
 ベーゼンドルファーを前に微動だにしない万里子と、ソファで腕時計の針ばかり気にしている綾がいた。
「遅うございますね。何か不都合でもあったのでしょうか」
 綾の前のテーブルに、茶器を四客並べて、雛鳥は心配そうに綾を見た。
 綾が視線を上げて微笑む。
「案ずるな、雛鳥。あやつはちょっとやそっとでは壊れぬ」
「そりゃどうも。過大な評価をアリガト」
 綾の言葉に重なるように、扉も荒々しく入って来た美少年が、憤慨した様子で呟いた。
 万里子が、安堵した表情で目を細めた。
「待っていたのですよ、藤也さん。どうやら望みの情報を得られたようですわね」
「まったく。マドンナのおかげで、すっかりここの常連になってしまった。友達付き合いがやりにくくてしょうがない」
 今泉藤也は御面相とは正反対の粗雑な物言いで、綾の前の椅子に座った。
 小柄の上、細身のスタイルと隙のない身だしなみが、数倍色男に見せるこの美少年が、いつの頃からか情報屋として重宝されているとは、親友である介三郎とここにいる三人以外には知らぬところだろう。
 藤也は雛鳥から紅茶を一杯もらうと、何も加えず一口含み、視線だけ上げて綾を見た。
「相変わらず涼しい顔だな、お前。砂漠のど真ん中に放り出してやりたいよ」
「万里子の言う情報とは、私の顔と関係があるのか、今泉」
「お前に関係あることで、どうして俺が動かなきゃならないんだよ」
「藤也さん、レアチーズケーキとショコラでは、どちらがお好きですか?」
 飽くなき口論に雛鳥が割って入り、水入りとなる。
 藤也も、この少女には逆らわないようだ。
「甘くない方を頼むよ」
 真顔で一言言うと、また紅茶を含む。
「それで、藤也さん。お願いした件は、突き止められましたの?」
 万里子はおもむろに立ち上がり、上座の肘掛け椅子に座る。右手に綾がいて、左手に藤也がいる。
 雛鳥が、三人の前にレアチーズケーキを置き、自分用にショコラを持つと、綾の横に座り、置物のように落ち着いた。
「もしかして、情報は得られなかったのですか、藤也さん」
 その口調には少し不安が見えた。バスケット部の二人が襲われたと聞いた時から、察しがついていた。ただ、それが違えば良いがと思っていた。
 藤也はそんな言葉を感情的に受け止めて、色っぽい流し目をくれた。
「俺は、用もないのに時間を指定するような暇人じゃありませんよ、マドンナ」
「そうですわね。謝りますわ」
「どうも」
 学園内の誰もが一目置いているであろうこの女生徒に、まったく臆面もなく言い返すのは、彼くらいであろう。
 二人のやり取りに、雛鳥が微笑を浮かべる。
「さて、ゴタクは終わりにして、情報というのは何なのだ。万里子と藤也とくれば、おそらく次は介三郎だろう。とすれば、襲われた卓馬と日下に関わることがわかったのか」
 綾がカップを片手に話を進める。
 藤也は大きくため息をつくと、さも嫌気が差したと言わんばかりに椅子に沈んだ。
「カンが良すぎる女は嫌われるぞ、綾。面白みがないじゃないか」
「勿体ぶっている場合ではないだろう」
「本当に、バスケット部に関わることなのですか。他の方々も危険なのでしょうか」
 雛鳥が身を乗り出すようにして藤也を窺う。その真摯さに少したじろいで、藤也は綾を見た。
「てめぇの為じゃないからな」
 綾に前置きすると、黙って静観していた万里子の方を向いた。
「マドンナの察しの通り、常磐井は帰国早々動き始めたよ。獲物は運動部。大会だろうと練習試合だろうと構わない。試合とつくものに倍率をかけて現金を動かすんだ。先日の空手の試合も、かなりの金が動いている。なんたって大穴の聖蘭が優勝したんだからな」
「聖蘭というと、貴妃も動いたのですね」
 万里子はそう確かめて俯いた。
 聖蘭学園の『貴妃』と呼ばれている女生徒のことは、色々と耳に入ってきている。しかもその女生徒が自分を敵視しているらしいということも承知の上だ。
「もし常磐井と貴妃が組んでの八百長ならば、その大穴というのも当然ですわね」
「だろうな。優勝候補筆頭の鈴宮第一は、試合前夜にレギュラーが怪我をして、試合はすべて補欠の出場になったんだ」
「藤也さん、まさか怪我というのは」
「勿論闇討ちですよ、マドンナ。鈴宮第一の方は学校の対面を図って単なる偶然ということにしているが、その怪我は明らかに襲われたものだ。中には選手として再起不能にまでされたヤツもいた」
 実際その怪我人を見たのだろう。藤也の表情には美しいが故に背筋が凍るほどの冷気が漂っていた。
「で、まさか、その貴妃が、この度の卓馬と日下を襲ったことに関係しているというのか。今泉」
 おもむろに問いかける綾に、万里子はじれったいと言わんばかりの瞳を向けた。
「綾、貴女らしくありませんわ。貴女もそれなりに調べているものと思っていましたのに。聖蘭との練習試合は今週末ですわ」
「たかだか練習試合に、あそこまで惨いことをするのか。日下は今、生死を彷徨っている状態だぞ。卓馬も当分部活は無理だ」
「言っただろ。試合と名前がつくものは、すべて賭けのネタになっていると。実際、賭けられてるんだよ、聖蘭と鷹千穂は。しかもかなりの差でな」
「差?」
「聖蘭は地区予選三回戦敗退。鷹千穂は県予選準決勝敗退。実力的にはかなりの差だ。その差が、賭けに反映しているとすれば――」
「聖蘭に賭けて、聖蘭が勝てばとても儲かるということですか、藤也さん」
「そうだよ、雛鳥」
「それで、どうすれば良いのだ。まさか介三郎たちバスケ部全員に、護衛をつけろとは言わないだろうな」
「まぁ、つけてくださらないのですか。綾」と万里子。
「お前に美人をつけるよりも有意義だろ」と藤也が言い返す。
 呆れて椅子に沈んだ綾の視線が藤也の肩口に向けられた。
「あら、今泉くん。今、私を美人と認めたわね」
 いつの間にか桜が、藤也の横で澄ましていた。鷹千穂の制服に身を包み、その両手に銀色の篭手を嵌めている。細身の長身で、短めの髪と凸凹の少ない体型が、時折性別を怪しくさせる。美少年と言って過言ではない藤也と並ぶと、なお倒錯的だ。
 藤也が憮然として反論した。
「誰がお前の事を言ってるんだ。もう一人の方だよ、染井。それよりお前、影だろ。マドンナや雛鳥はともかく、軽々しく俺の前に出てきていいのかよ」
「まぁ、同志じゃないの、私達。仲良くしましょ」
「バカ野郎。誰が同志だ、違うだろう、染井」
 あら残念と、さも残念そうな素振りだけ見せて、染井佳乃は綾と万里子に一礼した。
「ただ今、蛍が貴妃を探っておりますが、それまでの報告を私から」
 桜の報告は、ほぼ藤也のものと同じであった。ただ一つ、付け加えることがあった。
 鷹千穂と聖蘭の賭けに、『玄武帝』が一枚噛んでいる、と。どちらに賭けているかまでは分からないが、それが呼び水となり、かなりの額が動いているという。
「とにかく、綾。すぐに対策を立てろ。貴妃の名は、裏では結構有名なんだぞ。常磐井同様、親の資産の上に胡坐をかいているだけでは済まず、多くの人間があいつらに傷つけられている。何をしてくるかわからないんだ」
「それは、バスケット部の全員が危険だということなのですか、藤也さん」
「どの範囲なのかは、俺にも分からないよ。雛鳥。ただ、何をしてくるか分からないことだけは確かだ」
 言い切る藤也の言葉を、雛鳥は胸で繰り返しながら綾を見た。
 どうする?
「合宿に切り替えよう。研修棟の準備をして警備を強化、周囲を固めろ。バスケット部員のみでなく、すべての学生に危害が及ばないように動くぞ」
 おもむろに立ち上がり、綾は桜に指示を出す。では、と一言礼をしてまた桜は消えた。
「合宿でしたら、わたくしも何かお手伝いできますわね。綾」
「ほどほどにな、万里子。週末までのことだ。雛鳥、お前も気をつけろ」
「あの・・・。わたくしも何か、お手伝いをさせていただいても良いでしょうか」
「? どうした雛鳥。何かあるのか。さっきからおかしいぞ」
 雛鳥の反応を、不思議そうに眺めた綾が一言問うが、答えは中々返ってこない。
 見かねて藤也が立ち上がりながら、口を拭った。
「雛鳥、もし何かをする時は、必ずマドンナか俺、もしくは桜と一緒に頼むよ。決して一人で行動しないようにしてくれ」
 もうこの前のような心配はゴメンだと付け加えて、藤也はケーキの礼もソコソコに出て行った。


 閑静な住宅地の一角。
 周囲の建物とは一線を画すように建てられた高い塀の中で、蛍は息を潜めていた。
 塀を乗り越えることはどうにかできたが、この屋敷が持つ雰囲気は異様だ。
 何の変哲もない西洋風の住居であるが、ただ大きいというだけではないようだ。人の気配は感じないが、しかしまとわりつくようなねっとりとした空気が、蛍の身体を重く包んでいる。
 木陰から建物の様子を伺い、取り付く場所を考えながら、両手の中の武器を念じるように握り締める。相手を絡め取るように動きを封じ、ともすれば『魔女』と見紛うばかりの光で自分自身を包む糸。この糸で、蛍は『魔女』の影武者としての役目を果たしてきた。
 どこかで微かに呻き声が聞こえる。
 特殊な訓練を積んできた蛍でさえ、その肩口に何か冷たいものを感じる音だ。
 周囲を確かめながら、気配を殺して動くと、視線の先で階下の窓が一つ開く。開けたのは男の腕であるが、姿は分からない。窓は開いたまま、直に人の気配もなくなった。
 いつまでもじっとしている訳にはいかない。鷹千穂で、皆が『貴妃』の情報を待っている。
 蛍は意を決してその窓まで近づいた。確かに、人の気配はなかったはずだ。
 しかし次の瞬間、蛍は首を鷲掴みにされ、その窓の中へ引き摺り込まれてしまった。
しまった、と思った時には遅かった。
 暗い部屋の床に背中から叩きつけられ、光が差し込んでいた窓が、大きな音を立てて閉じられた。咄嗟に指を動かして、糸を繰り出そうとするが、その指を大きく硬い手で押さえつけられた。
「動くな」
 間近にある瞳が、冷たく蛍を映している。
 蛍を組み敷く形のまま微動だにしない男が、蛍の動きを許さない。
 ふと、蛍は自分の横に横たわるものがあることに気付いた。血の匂いがする。
 視線をそちらに向けて、息を飲んだ。
 血にまみれた人間が数名、折り重なるようにして横たわっている。
 死んでいる訳ではないようだが、しかし虫の息だ。投げ出されている手足に力はなく、半眼で虚ろな目が、ジッと蛍の方に視線を向けている。
「いいか。声を出すな。生きてここから出たければ、俺の言う通りにするんだ」
 やっと聞き取れる程の小さな声が、耳元で囁く。低く、冷たい声だ。
 窓から入る薄暗い陽の光が、男の顔を照らした。少し頬が張っており、青白い奇麗な肌と薄い唇が仮面のように無機質だ。ただその瞳が、組み敷く蛍を見て揺らめいた。
 それ程長い時間ではなかったはずだ。物音一つない薄暗い部屋の中で、二人はお互いを確かめるように見つめていた。
 足音が近づいてくる。
 男は蛍の身体を軽々と引き起こし、部屋の隅のクローゼットの中に押し込んだ。
「俺が部屋から出たら、すぐにここから離れろ。貴妃は、すべてを壊す者だ。その足元に横たわっている奴らも、貴妃にやられた。容赦はない。特にお前のように美しい女は、なぶりものになるだけだ。いいな、すぐにここから離れるんだ」
 足音は複数だ。
 早口でそれだけ言い、男はクローゼットを閉めて窓を一つ開けると、横たわっている血まみれの身体の傍に立った。
「水木、まだここにいたのか。貴妃様がお前を呼んでいる」
 入ってきた数人のうち、一人がそう声をかけた。
 水木と呼ばれた男は、小さく返事をすると、目覚める様子のない足元の身体を一つずつ引き摺り上げると、
「始末しておけ。ここで死なれては、後が面倒だ。死なぬ程度に手当てをしてな」
 と入ってきた男達に押し付ける。
「しかし、水木。こいつらを助けたと知られたら、貴妃様に何を言われるか――」
 おののく様に震えて反論する男達を一蹴し、水木は表情で制して戸口へ促した。
「その心配はいい。既にこの者達のことなど歯牙にもかけてはおられぬ。どうなろうと貴妃様は何も言わない。言ったとしても、すべて俺の指示だと言えばいい。わかったらさっさと出ろ。俺を待っておられるのだろう」
 有無を言わせず、水木はそのまま皆を部屋から押し出すと、後ろ手で扉を閉めた。カチャリと音がする。鍵をかけたのだ。
 薄暗い廊下を進みながら、水木は横目で窓の外を見た。先程組み敷いた影が、陽の光の中で一瞬横切る。長く伸びた髪が陽光に映えて、細身の四肢がしなやかに風を切る。
 美しいその横顔を確かめて、水木はまた現実に視線を戻す。
 前を行く数人の男に引き摺られて行く血に塗れた者達。単純に気晴らしの楽しみで傷つけられる者。どれほどの数をこうして見つめてきただろう。止める術もなく、ただ見てきた自分の中の何かが腐っている。
 入り組んだ作りの廊下を進み、途中一人別の方へ横切ると、重い扉の前で立ち止まった。
「お呼びだそうで」
 そう短く挨拶をしながら入ると、ソファに座って側近に爪の手入れをさせている貴妃が、一瞥をくれる。
 小山内園美。何不自由なく育った彼女は、多くの取り巻きに囲まれ、すべてを思うがままにしてきた。
 その彼女が、水木を『飼い犬』と呼ぶ。
「遅い」
「申し訳ありません。何か、ご用でしょうか」
 水木は低く静かな声で、視線を落として答えた。あからさまに気に入らないという表情が返ってくる。
「用がなければ呼ばぬ。お前に働いてもらうわ」
 反対の指先を差し出しながら、出来上がったネイルの出来を確かめている。先程肉を裂いた爪の先が、何事もなかったかのように美しく飾られていた。
 貴妃は、一枚の用紙を放り投げた。
「そこに書かれている者を消して来なさい。一人残らず」
 拾い上げて見ると、鷹千穂学園バスケ部の部員名と写真が数名載っている。その中に、介三郎や梶原常史などの一年生の顔もあった。
「鷹千穂・・・ですか。かの真行寺万里子が通っている学校ですが、この者達をどうして。確か、昨夜何名かの者が襲われて大怪我を負ったばかり。襲ったものの所在を突き止めて、その者達にやらせてはいかがですか」
 故意に聞き返しているのがわかる口調だ。水木はさも興味が無さそうな顔をして、貴妃の返事を待った。
 貴妃がイライラと声を荒げる。
「飼い犬の分際で、いらぬことを。お前は私が命じたことをすれば良いのよ」
 水木には察しがついていた。
 先日、聖蘭学園空手部の部員が、鷹千穂学園の者を襲ったことは知っていた。しかし、成功したのは一度きり。その後試みようとしたが、何者かに阻まれて、貴妃の命令通りの成果が上がっていないのだ。
 水木は言わば、尻拭いの役割である。
 先程の血まみれの数人についても、貴妃が楽しむ間、水木はその刃へ羊を追い込む役目をする。飼い犬だ。
 水木は目を閉じて、「仰せのままに」と答えた。
 貴妃は、するどく尖った爪を大切そうに撫でながら、機嫌を直したようにソファから離れ手水木に近づいた。
「私の飼い犬の中で、お前ほど確実に私の命令を遂行できる者はいない。でもね、水木、先程ネズミを一匹逃がしたのはどういうことなの」
 蛍のことだ。
 貴妃の視線が水木を捉えている。水木のどんな反応も逃がさない目が、間近で見上げていた。
 水木は特に態度を変えることなく、ただ淡々とした口調で礼をした。
「取るに足りないものと判断いたしましたので・・・」
「取るに足りないもの・・・とな」
「はい」
「そのような判断は、わたしがするのよ。勝手は許さないわ」
 美しく光る爪の先を水木の首筋に当ててなぞると、赤い血の筋ができる。
「幼い頃から餌を与えて養ってきた飼い犬のお前が、私に逆らうなどということは許されないのよ」
 そう言い捨てると、側近の方へ指を出す。側近は即座に侍り、血で汚れた爪を恭しく拭ってまた下がる。
「いいわね。そのリストにある全員を、今週末の練習試合に出られないようにするの」
「・・・」
「大金が掛かっているだけではないわ。真行寺万里子に負ける訳にはいかないのよ。分かったら、さっさと行きなさい」
 水木は無言で、首筋の血を指先で拭い、部屋を後にした。


 バスケット部が急遽合宿に入ることは、介三郎を通して全部員に連絡が入った。
 卓馬と日下が何者かに襲われたことで、全員が緊張感を持っていた。
 合宿準備は、放課後までにほぼ学園側が整えた。
 介三郎は二年生の石岡と、合宿スケジュールを立てている。食事や朝練のメニューや注意事項、入浴や掃除の当番を、数日間とはいえ立てて、生徒会に提出しなければならない。
 マネージャーになりたての成瀬愛美も、忙しく立ち働いていた。
 卓馬と日下はどちらもポイントガードだ。主に試合中指示を出していた二人を欠いた形となり、その補強に苦慮しそうだ。
 梶原は、不機嫌な顔を隠そうともせず、無言で練習メニューをこなしていた。
 他の部員も、それに触発されるように黙々とこなしている。
 万里子はさっそく差し入れと言って、飲み物を持って来た。雛鳥も一緒だ。
「急なことで大変でしょう。何か、足りないものがあって」
 傍に来た監督の沢村に、万里子は声をかけた。沢村は軽く会釈をして傍に立った。鷹千穂の卒業生で二十九歳の独身は、苦笑で恐縮した。
「充分ですよ、マドンナ。いつも差し入れ、ありがとうございます」
「日下さんと巽さんが欠けて、状況はどうですか。週末の練習試合、勝てそうですか」
「正直、苦しいですよ。それよりも、他の部員に確認しましたが、日下達の他にも襲われそうになった者がいましたよ。そちらは通行人に助けられたようで、大事にはいたらなかったわけですが、しかし確かに狙われているようですね、ウチの部員は」
 『通行人』に思い当たるが、それは言わず、万里子は部員を見渡した。状況が状況だけに、気がそがれている部員も幾らかいた。
「そうですか。試合まで、気が抜けませんわね」
「えぇ、梶原と速水が元気なのが救いですよ。あの二人は、一年生で既に中心選手なので、今度の試合も核になるでしょう。特に攻撃的な梶原が練習を引っ張っていますよ。ただ、ここで問題は、日下と巽がポイントガードだったことで、この二人が司令塔になって攻撃を組み立て、梶原と速水を動かしていたので、二人がいないということが、どれほど影響があるか考えると、頭の痛いところですよ」
「そう・・・。敵の狙いが当たったというところですね」
 万里子は少なからず怒気を含んで、小さく小さく呟いた。
 雛鳥は万里子から離れ、飲み物を携えて、皆から少し離れて座る梶原に近づいた。
「あの、梶原様。いつぞやは本当に・・・」
 噴出す汗を拭っている梶原は、雛鳥に一瞥をくれると、すぐに視線を外して立ち上がった。
 言葉を交わすことも拒むような態度に、雛鳥が怯む。敵意と呼んでもおかしくない拒絶を、これまで向けられたことはなかった。
 梶原は、あくまでも頑なだ。
「どうでもいいよ。やりたくてやったことじゃない」
 雛鳥の感情など、意に介さない。その細い手で差し出される飲み物さえも疎んじるように見ようともしない。
「梶原くん、飲み物足りてる?」
 他の部員に飲み物やタオルを渡しながら歩いている愛美が、梶原の分を持って近づいた。
「あれ、雛鳥さん。梶原くんと一緒って?」
 雛鳥に笑顔で問うが、雛鳥の表情は曇ったままだ。
「どうしたの? 顔色が悪いわ。大丈夫?」
 自分の持っていた飲み物とタオルを梶原に押し付けて、愛美は心配そうに雛鳥を覗き込んだが、答えは背後から返ってくる。
「そんなヤツはどうでもいい」
「どうでもいいって、梶原くん、どういうこと」
 小首をかしげて後ろを振り返ると、梶原の仏頂面が鬼面に近くなっている。
「――また怒ってるの」
 愛美は「また」にチカラを込めた。
「皆がピリピリしてるんだから、不用意に怒るのはやめてよ。それに、雛鳥さんは、バスケ部の為に来てくれてるんだから、言葉に気をつけて」
 梶原の不機嫌さも物ともせず言い返すところは、愛美らしい。さすがに梶原も分が悪い様子だ。受け取ったタオルで汗を拭いながら、周囲を見渡した。
「成瀬、介はどうしてる」
「綾の所だと思うわよ。書類持って出て行ったから」
 あえて雛鳥に付き添うように立っていた愛美の答えに、
「また、あいつか」
 と一言呟くと、梶原はとっとと部員が集まっている一群に向かって歩いて行った。
「本当に綾が好きなのね」
 呆れるほどに。
 心底呆れながら、愛美は呟いた。分かりやすいが、あまり関わりたくない感情だ。介三郎の鈍感さを見習いたくなる。
「綾様を・・・ですか?」
 雛鳥が愛美を見た。自分を拒絶することと、愛美の言葉がどう繋がっているのか分からない。
「あんまり気にしない方がいいわよ、雛鳥さん。梶原くんて、結構乱暴だから。雛鳥さんが、気にする人じゃないしね」
 愛美は軽く流してそう言い切ると、梶原が向かった一群に紛れて、甲斐甲斐しくマネージャーの仕事に専念した。
 取り残された雛鳥は、遠く騒々しい一群を、ただ見つめていることしかできなかった。


 中央館三階の生徒会長室で、綾は一人パソコンを睨んでいた。
 バスケット部の合宿についての書類は、先程介三郎が持ってきた。とにかく周囲の警護は固めてあることは告げ、練習試合に専念するようにだけ伝えた。
 病院からの報告によれば、日下は命の危険は脱したが、まだ集中治療室から出れる状態ではないという。
 卓馬は左腕のヒビ以外は傷も軽く、精密検査の結果も問題なかった。明日には退院するだろう。ただし、試合に出ることは難しい。
 綾はひたすら、画面に出てくるまったく関係のないデータを睨みながら、頭の片隅で考え込んでいた。
 外は既に日が落ちている。
 ノック一つで、一人の青年が入って来た。
 地味な背広に隙のない身のこなし。特に存在感も感じさせない立ち居振る舞いが、今は少し違和感がある。
「何をしている。父上から離れるなと、いつも言っているだろう」
 視線を上げた綾の言葉を物ともせず、傍まで一直線に近づくと、綾の横に立ち、パソコンの画面を見つめた。
「旦那様の傍には、警備をつけてあります。元より、今危険なのはバスケ部でしょう。襲われた二人以外にも狙われていたようですが、そちらは私の方で未然に防ぐことができた。ただ、その分、合宿中が危険でしょうね」
 常に鷹千穂学園理事長にして鷹沢グループ会長鷹沢士音の傍にいる秘書の中津守弘は、綾の肩口から覗くようにパソコンの画面に出るデータを見つめた。
「御前の所有する企業はまだしも、三家は目に見えて業績が下がっている。早晩、鷹沢のお荷物になるでしょうね」
 呟く中津に、綾は横目をくれた。表情が険しい。
「単純にそうなれば、鷹沢の力で三家を封じ込められる。だが、そう易々とはいかないだろう」
「そうでしょうね。強欲の権化のようなあの三家のことです。おそらく、御前を使って鷹沢に揺さぶりをかけてくるでしょう。どうかわしますかね」
「あの子を守ることが最優先だ。その為にすべてがあるのだから」
「ですね――」
 ふいに、中津は顔を上げた。
「警備をすり抜けて入るとは、中々のモノですね」
 あらぬ方向を見やりながらそう呟くと、綾がパソコンを切って立ち上がった。
「確かに、中々だな」
「私が行きましょう」
「お前は父上の傍に戻れ。どこで誰が狙っているかわからないのだ。気をつけろ」
「少々気がかりなこともあるのでね。行きますよ」
 中津が先に立ち、扉を開けた。

 水木は鷹千穂学園の敷地内に忍び込むと、暗がりを選んで歩を止めた。確かに警護は固めてあるが、水木にとっては造作もない。
 既に周囲は暗く落ち込み、人の気配は感じられない。
 バスケット部の合宿が行われている研修棟は、水木の見つめる前方、鬱蒼とした木立の先にあることは確認済みであった。貴妃から渡されたリストは手元にある。
 だが木の影に寄り掛かり、リストに上げられているバスケ部員を確認しながらも、先に進む気にならなかった。
 貴妃の命令に背くことは考えていないが、反面、率先して実行しようとも思ってはいなかった。抗うことなどできるはずはないが、心のどこかにブレーキがかかっている。
 どうすればいいのかわからなかった。
 親に捨てられ、引き取られた施設で孤独を感じながら育ち、ある家へ引き取られた。名目は貴妃の家に仕える夫婦の子供だが、実質は貴妃の下僕であり、玩具であった。
 不当な仕打ちや理不尽な命令の中で、自我を持つことを否定され、服従することのみ強いられた。
 このまま獣のように飼われ、やりたくもない事をし続けなければならないのか。
 水木は不意に、先日会った間者を思い出した。
 仄暗い明かりの中で間近に見つめた美しい女。誰かの命で動いているのであろう彼女は、どんな想いで陰惨な屋敷に忍んで来たのだろう。
 押さえつけていたか細い手首の感触が、手の平によみがえる。
「お前、何をしている」
 鋭く問いかける影が、水木の影に重なった。
「よそ者が、何をしているのかと訊いている」
 立ちはだかるように現れた桜は、月光に銀の籠手を照らして構え、再度そう問い質す。
 水木は答えず、桜の次の動作を待った。
 まったく構えを取らず、ただ立ち尽くしているように見える水木だが、桜は少し躊躇した。踏み込む隙がない。ただ・・・先に仕掛けてくる気配はない。
「答えないのであれば、力ずくで――」
 問いに怯む様子もない男に、桜が動く。
 銀の籠手が、微かな光に映えて弧を描く。
 桜が打ち込む拳を寸前でかわしながら、水木は退くことなくその場に留まった。
 水木は難無く桜をしのいだ。武器も持たず、繰り出される拳をものともせず、水木は単純にかわした。
 桜の苛立ちが募る。
 かつて、玄幽会宰相と相対した時、押されながらも確かに手ごたえがあった。だが、今対峙しているこの男は、手ごたえがないというよりも、捉えようがない。反面、纏わりつくような薄気味の悪い雰囲気があった。
 その色はまだらで、定まらない。ネットリと纏いつく血の匂いの向こうに、何ものをも映さない虚空があるようだ。
 桜は、身体を沈めて力を溜めた。
「このまま先へ進ませるわけにはいかないわ」
 合図のように銀の籠手を合わせて高い音を響かせた。大きく一歩踏み出し、拳を振り上げた。男の頬を捉えたと思った。
 その時、突然桜の前に、金色の陰が立ちはだかった。
 一瞬の光を放ち、水木から桜を引き離す。
「待って、桜」
 両手から妖糸を繰り出し、水木との距離を取りながら、蛍は桜にすがった。
「桜、引いて」
「――蛍。そこをどきなさい。危ないわ」
 桜は突然の制止に、戸惑った。
 蛍・・・。水木は自分に背を向けて立つ、肩より長い髪と細い腕と指先を見つめた。
 桜と水木の間に立つ蛍は、明らかに水木に対して無防備だ。それどころか、挑む桜に対して、身を挺して懇願している。
「桜、お願い。この人のことは、私に任せて。貴女は引いて」
「どうしたの、何故・・・。この男は鷹千穂の生徒を傷つけに来たのよ。それをどうして見過ごせるの。理由を言いなさい、蛍」
 激しい問いに、蛍の表情が苦痛に歪む。
 喉に、手に、身体に、目前の男の重さが残っている。耳元で囁かれた低い声が、心臓をえぐる。血の匂いに混じる男の存在が、肩口に纏わりついて離れない。
 蛍は、そのすべてを振り払うように首を振り、桜に懇願した。
「お願いだから、引いて――」
 叫びにも似た声が上がった瞬間、水木は動いた。
 蛍に詰め寄る桜に向かって打ちかかった水木は、怯んで下がった二人を引き離すように、もう一度桜を威嚇すると、体勢を崩した蛍の肩に手を伸ばし――弾き返された。
 空気を裂くような甲高い音と、一瞬目を背けずにはいられない光が、水木を退ける。
「お嬢様・・・」
 倒れこんできた蛍を抱きとめて、桜は目を見張った。
 蛍と水木の間に立ったのは、綾だった。
 綾は両手を下げて端然と水木を見つめていた。メガネの奥の瞳が揺らめき、背を覆う真っすぐ伸びた栗色の髪が、夕風に揺れる。
「ウチの者に手を出されては困るな」
「・・・・・・まさか・・・魔女」
 少し目を見開いて見つめた水木の呟きを、綾は聞き逃さなかった。
「ほう・・・。いい目をしている」
 綾の口元が微かに上がる。
「無駄だろうが、訊いておこう。お前は、誰の元にいるのだ。誰の指示で動いている。何の為に、この鷹千穂へ来た」
 返答があるとは思っていない口調だ。
 桜は綾と水木を交互に見ながらも、両腕で掴んでいる蛍の肩を放さなかった。一瞬でも気を抜けば、蛍は主君と不審者の間にその身を晒すだろう。
 水木はこの状況を静かに見つめていた。
 蛍と呼ばれた彼女と、それを引き止める銀の籠手の女。この二人の主が目前に立つ長い髪の女なのだ。
 一縷の隙もない。
 しかし攻撃的な雰囲気は微塵も感じられない。ならば踏み込めばよいのかもしれないが、それは許さないだろう。
 暫くそのまま無言で立ち尽くした。



「いつまでそうして見つめあっている気だ」
 男の声が、膠着した空気を四散させる。
 両腕で蛍の身体を支える桜が、木立の影に視線を向ける。
 蛍もそれを確認するように振り返った。
 中津守弘はゆっくりと進み出て、綾と水木の間に立ったが、特に構えは取らない。双方の動きを感じながら、ただ端然と微笑を浮かべて立っているだけだ。
 そして、まるでスキャンするように水木の足元からゆっくりと視線を上げ、その瞳と交錯したところで止めた。
「無防備で殺気もないが、その身体に染み付いた血の臭いは醜悪だな。お前の主は、よほど血のシミが好みらしい」
 小さく冷めた声は、しかし確実に届いている。
 水木は微かに怯むように顎を引き、左足を半歩下げた。
 中津は表情を変えず、綾を背にするように立つと、
「どうする。目的を果たす為に、ここで一戦交えるか。それとも――」
 と、流し目で水木に問うた。微かに動いた右手の親指が、小さく孤を描く。
「――ここで退けば、俺を見逃すのか」
 水木は周囲を確認した。いつのまにか数人の気配が暗がりに点在している。
 警備の者だ。中津は水木にも分かるように、周囲を制止するよう左手を上げて手の平を広げた。
「攻撃して来ない者をいたぶる趣味はない。このまま退くならば、見送るだけだ」
「・・・」
「それから、一つ、――今の状況を変える気はないのか」
 何気ない中津の言葉に、水木は眉を顰めた。
「・・・何を言っている」
 意味がわからない。
 黙って聞いている綾の表情が微かに動き、驚いたように目を見開いて中津を見つめる桜の傍で、蛍が水木の答えを待った。
 中津は特に表情を変えず続けた。
「今、お前が置かれている状況を、変える気はないのかと問うている」
 何の抑揚もない低い声だ。答えなど必要としていないような、低く冴えた声だ。
 水木は一瞬躊躇した。その視線が蛍のものと重なる。
 あの時。
 屋敷に忍び込んで来た女を組み敷く寸前までは、単に脅して逃がせば済むと思っていた。自分が傷つけることなく、・・・二度と会うこともない――。
 こうして再会するなど、思っていなかった。
 だが・・・。
 変わる・・・。
 何を変えるというのだ。
 水木は中津を見返した。登ってきた月光に、やけに鈍く光る目だ。
「俺は、飼い犬だ。命じられるままに、何の罪もない者を数え切れないほど傷つけてきた。そんな俺に、どう変われというんだ」
 その言葉には、誰にも向けようのない自身への蔑視があった。
 蛍が桜の腕を振りほどこうと足掻いたが、それは綾が制した。
「それならば、ウチの者に関わるのはやめてもらおう」
 はっきりと言い切る綾が、中津をも下がらせて水木の正面に立った。
「お前の主の気まぐれに付き合う気はない」
 月の明かりの中で、風のない空気に長い髪が揺らめく。
「どこで誰が何をしようと知らぬ。だが、この鷹千穂に害を為すものは、決して許さない。それが誰であろうと、だ」
 しばらく、水木は綾の姿を見つめていたが、おもむろに踵を返すと、一人暗がりから現れた警備が促す方向へ足を進めた。背を向ける一瞬、蛍に何かを言いかけたが、言葉は飲み込んだ。
「何もせずこのまま帰って、お前は大丈夫なのか」
 ふいに、綾は呟いた。呟いたことを悔いるような表情だ。
「魔女は、取るに足らないものの心配までするのか」
 水木の皮肉げな口調が、少し笑っていた。
 つられて綾も苦笑する。
「いや、お前の心配をしているのではない。お前の心配をするウチの者が心配なだけだ」
小さく「すまないな」と付け加えて、綾は水木に背を向けた。
 遠ざかる水木の背中を見送って、蛍は桜に謝るように顔を伏せると、力を抜いて一歩引いた。
 その姿を無言で見つめていた綾は、傍に寄ってきた中津を振り仰いだ。
「中津が気にしていたのは、蛍のことか」
 気がかりなことがあると言っていた。
「様子がおかしかったのでね。ま、気がかりがなくなった訳ではないですが」
 中津は苦笑で主人を見た。綾が疲れた顔を見せる。
「珍しいな、中津。お前が興味を示すとは」
「さて、どうしたものでしょうか。それよりも、姫様がお待ちでしょう。このように遅い時は、大概お部屋に引き籠ってしまわれる。早く、帰ってさせあげては。あとは、『影』のこと」
 からかう様な口調で答えると、おもむろに腕時計を見やった。
 綾自身、携帯で時間を確かめた。いつもなら、屋敷に戻りあの小さな子の傍で過ごしている。慣れてきたとは言え、まだ気が抜けない。
 綾は中津に「早々に父上の元へ帰れ」と命じ、桜にはあまり蛍を責めないよう短く伝えると、蛍に微かに目を伏せて小さく口の中で呟き、水木が立ち去ったのとは別の方角へ消えた。
 それを見送り、中津は蛍を見返った。
「蛍、お前はどうしたいのだ。何故、あの男を庇う」
 その言葉に、蛍は即答できなかった。
 どう言えばいいのだろう。どう言えば、この胸の奥に燻る感情を説明できるのだろう。
「あの方に、助けていただきました。貴妃の屋敷で・・・」
「貴妃の・・・。あの男は、貴妃の元にいるのね、蛍」
 では、ここへ現れたのはバスケット部に何かを仕掛ける気であったのか。
「では、このまま放っておいては、介三郎さん達が危険だわ。あの男が何もせず引き下がるとは思えない」
 少し焦った桜が、すぐにも追いかけんと気色ばむが、それは中津に流された。
「今日は良い、桜。無用な争いの為に我らがいるのではない」
 月が中天を目指す中、中津は蛍を真っすぐ見つめた。
「問題は、蛍。お前はあの男を、どうする気でいたのだ。まさか、ヤツがその主の命令通りに、鷹千穂の者を傷つけるがままにさせる気でいたのか」
 口調は柔らかいが、その視線は蛍のどのような言葉も聞き損じることがないように隙がない。
 蛍は怯んだ。
「『ガーディアン』・・・」
 中津の裏の名前。『守護者』と名づけられた男は、表向きは、鷹千穂学園理事長であり、綾の父である鷹沢士音の秘書であるが、実質は『影』全体に影響力を持つ統括的な役割がある。その為の『ガーディアン』である。
 中津は容赦しなかった。
「お前が鷹沢に引き取られ、『津を名乗る』ようになって何年になる」
「私は、・・・」
 蛍は言いよどんだ。
 『津を名乗る』とは、『影となる』ということだ。
 鷹沢はある家系の傍系にあたり、代々『影』の役割を果たす中で、鷹沢の為に身分を隠し密かに動く一族がある。その姓に『津』が入っている。時代が変わり、一概には区別がつけられなくなっているが、蛍の姓の『津賀』にも、『ガーディアン』と呼ばれる『中津』にも、裏にはそんな意味が含まれていた。
 事実二人は、幼い頃に鷹沢に引き取られ、その一族の中で育てられたのだ。
 研究者として鷹沢グループに勤める両親の元で育った桜とは、生い立ちが違う。
「私は、お嬢様をお守りする為におります。その事に変わりはありません」
 幼いあの日、現理事長と共に施設を訪れた綾に選ばれた日から、蛍の気持ちは変わっていない。
 あの頃、大勢の中で感じた孤独を、今の環境で感じることはなかった。
「ならば何故、あの男を庇うの。単に助けられたからなの。それだけでその身を晒してまで庇うの」
 桜が叫ぶ。一つ間違えば、誰かが傷ついていた。相手が攻撃してこなかったからと、それで喜んで済むことではない。
「桜、あまり蛍を責めるなと、さっきお嬢様に言われたばかりだろう」
「しかし――」
「蛍が心配で怒っているのは分かっている。だが桜、あまり蛍を責めるな。それから蛍、感情はどうでもいい。一つだけ、その骨に叩き込め。我らは『守るもの』だ。それだけは忘れるな」

 壁に投げつけられたカップの破片が水木の頬を掠め、飛び散った熱い飛沫が首筋を流れる。
 壁際に立ち、通り一遍の報告をした水木へ、罵声が飛ぶ。
「どうするつもり、手ぶらで帰ってきて」
「護衛が厳しく、近寄れませんでしたので――」
「だからお前を行かせたのよ。役に立たないわね。もう、いいわ。お前は下がっていなさい」
 水木の言葉が終わるのを待たず、貴妃は傍に控えていた男に命じた。
「柏木を呼んで」
 命じられて下がる男と入れ違いに入ってきた男が、貴妃の前で膝をついた。
「貴妃様、少々お耳に入れたいことが」
「何、鬱陶しいわね」
 苛立つ貴妃に怯むことなく男は続けた。
「かの魔女が鷹千穂にいるようだという噂があるようです。その噂、玄武帝も真偽を確かめる為に動いていた節があります」
「景甫が?」
「噂の真偽については、判然といたしませんが、あそこには真行寺万里子がおります。まさか彼女が魔女では」
 男の報告に、暫し貴妃は値踏みをするように黙った後、キッパリと言い切った。
「あの女ではないわ。『魔女』はもっと別のものよ。でももし、鷹千穂に魔女がいるとすれば目障りね」
 そして、本当に目障りだと言わんばかりの視線を、立ち尽くしている水木に向けた。
「何をしているの、お前は下がりなさい。鷹千穂の件については、お前はもう用済みよ。当然、仕置きは受けるのよ。命令通りにはできなかったんだから」
 激しい口調だが、水木は表情一つ変えることはない。いつものことだ――、そうだったはずだ。
 しかし、今の水木は何かが違った。揺らぐような視線が、割れて散乱した陶器に落ちる。
 『魔女』の『影』が脳裏に浮かぶ。微かに肩が震えた。
「聞こえなかったの、水木」
 訝しむように眉を顰めた貴妃の表情に気付き、一礼して部屋を出た水木の背を見据えながら、貴妃は目前に膝をつく男に命じた。
「おかしいわ。見張って」


「あれ、えっと・・・、なんだっけ」
 月光で出来た木立の影に立ち尽くす蛍を見つけた介三郎は、いつもの間の抜けた顔で笑いながら名前を思い出そうとしていた。
 かなり遅い時間だ。研修棟は非常灯と廊下の灯り以外は消えている。消灯時間は過ぎたのだろう。
 蛍はその顔を眩しそうに見つめて、苦笑した。
「蛍です、介三郎さん。どうされたのですか、もうお休みになられたかと」
「眠れなくて、つい。蛍はどうしたの、こんな時間に。見張りは警備に任せたって綾から聞いてたけど、まさか綾も残ってるの?」
 そこからは見えないが、中央館3階の生徒会長室のある方向を見た。
 今は特に行事のない期間だ。次の『秋の文化祭』の準備に入るのは、この度の練習試合が終わってから。それまではバスケット部に専念できると思っていた。
「私が勝手をしているのです。お嬢様はお屋敷にお戻りになられました。姫様がお待ちでしょうから」
「そうなんだ。お姫さんか、当分会ってないな」
 介三郎が無邪気に笑う。つられて蛍も笑った。
「練習試合は、どうなりそうですか」
「やってみないと分からないよ。試合は、どれもね。できることをやるだけだ。卓馬と日下先輩の分も、やりきらないと。蛍たちにも守られてるわけだし、綾やマドンナにも助けてもらってるわけだから、目一杯張り切らないとね」
 蛍は微笑で、この丈高い屈託ない笑顔を見つめた。
「介三郎さんは、お優しいですね」
「?」
「介三郎さんは本当に、あるがままにそのままに、何もかも受け止めることができる。私のような影に生きている者にも、普通に接してくださる。本当に、・・・お嬢様が傍にいらっしゃる理由がわかります」
 中等部入学以来、介三郎はずっと綾の傍にいた。綾に付き従う蛍の存在を知った後も、介三郎は変わらなかった。気を遣い過ぎて蛍の呼び方を悩むところも変わらない。
 殺伐とした日常の中で、ポッカリと温かいものがあった。
「・・・、何かあったの? 蛍。辛いの?」
 真顔でそう尋ねる介三郎の顔が、心配そうに覗き込む。
 蛍は視線を逸らすと、小さく小さく呟いた。
「本当に、お優しい」
 月が中天にある。
「介三郎くん、そんなところでどうしたの。誰と話をしてるの」
 成瀬愛美が研修棟から出て来た。
「成瀬こそどうしたの」
 彼女も眠れない様子で出て来たようだ。
 少しにやけた口元を押さえながら、しかし介三郎は傍らを気にした。『影』である彼女が、愛美に姿を見せることがどうなのか。
 だが、蛍は敢えてその場に留まっている。
「まだ校内に残ってる人がいたの? もうこの時間では、正門は閉まってると思うけど」
「あぁ、いいんだ。えっと・・・」
 どう呼べばいいのか躊躇っていると、蛍が微かに首を横に振って笑った。
「ご心配なく、もう帰りますから」
 愛美に向かってニコリと笑うと、ゆっくりとした足取りで木立の中に消えていった。
「あの人、綾や介三郎くんと同じクラスの津賀さんよね。介三郎くんは、よく話すの?」
「いや、名前が覚えられないんだ。成瀬はよく知ってるな」
「だってあの人、あんなに奇麗なのに、目立たないっていうか、何故か存在感がないっていうか、影が薄いっていうのかな。でも、気になるのよね、誰かに似てるからかな」
「誰に?」
「綾」
「綾に?」
 愛美の答えに固まりながらも、介三郎はスラリと返した。
「似てないよ。綾はあんなに美人じゃないし」
 ふーん、と大きく息をついて、愛美は介三郎の顔を見た。
「じゃ、津賀さんは美人なのね。それならマドンナはどうなの? 美人?」
「マドンナは、美人だよ」
 至極当然のように介三郎は答えた。愛美が顔の端で納得しながら、
「じゃ、介三郎くんから見て、綾ってどうなの?」
 と続けた。
 どこか容赦がない。何の意味があるのかわからないまま、介三郎は単純に思ったことを口にした。
「どうって・・・、綾は、・・・綾かなぁ」


 屋敷に戻った綾に、執事の伊集院がその後方を気にかけた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。蛍は、ご一緒ではないのですか」
 いつも付き従う影がいないことを、不思議そうに問う。
 綾はそれには答えず、居室で服を着替えると、真っすぐある部屋へ向かった。
「あの子は?」
「姫様は、お部屋でございます。少々――」
「少々、なんだ」
 鋭い切り替えしに、伊集院は軽く咳払いをする。
「今日は穂積の若様がおいででしたが、同じ時刻に三家の方々の訪問がありまして」
「――三家が来たのか」
 歩く速度を緩めることなく、淡々と報告する声を聞いていた綾の足が止まった。
「あの子に会わせたのか」
 咎めるような口調の女主人を気遣いながら、伊集院は続けた。
「いいえ、姫様にはすぐにお部屋の方へ移動していただき、屋敷の者すべて集めて対応いたしましたが」
「それで、三家が引いたのか」
 引くわけがないだろうがと、表情を引きつらせて綾が呟く。三家は元より鷹沢を蔑んでいる。この屋敷の者がどれほど立ちはだかろうと、歯牙にもかけまい。
 伊集院も苦笑で、この女主人が思っていることを流しながら、明るく返した。
「穂積の若様が三家を退けられました」
「宗春が?」
「はい。脅える姫様をご覧になり、庇ってくださいました。もし三家が姫様に、無理にでも会おうとするなら、御前様に言いつけると」
「あの坊やが」
 鵜呑みに出来ない様子で、綾が繰り返す。その表情を嬉しそうに見つめ返して、伊集院は満面笑顔である。
「はい。あの姫様よりも一つ年下で小柄な若様が、毅然として立ちはだかっておられました。あの三家の当主と奥方など多勢に囲まれても怯みもせず」
 その様子が小気味良かったのか、伊集院は我が身のことのように得意げだ。
「意外だな。いつもあの子の後ろをついて歩いているだけの坊やが、な」
 綾も険しいながら一抹の安堵が見えた。しかし、それでは済まない。
「お察しの通り、姫様はお部屋に籠られたきりでございます。傍に近江がついております」
 声を落として先を促す伊集院に応えるように、再び綾は歩き始めた。
 止まる前よりも速い。
 角を曲がり、白い漆喰と鮮やかな調度類で飾られた廊下へ出ると、メイドが数名一礼し、大きな白い扉を開けた。伊集院は扉の外側で綾から手渡されたメガネを持って立ち止まり、天蓋付きの豪奢なベッドサイドから離れたメイドの近江が、一礼して女主人と入れ替わるようにして部屋を出ると、扉は閉じた。
 部屋の中は、ベッドを囲むレースが淡く浮かび上がるように照らされるのみで、所々に間接照明があるが光を抑えており、白と淡いピンクが基調の家具が薄っすらと見える程度である。
 ベッドの上で、黒く長い髪が、艶やかな光を放っている。眠ってはいない。震える四肢を強張らせて、うつ伏せで丸くなっている。
 何度、このような光景を見ただろう。この小さな少女が泣き叫び、脅えて眠ることすらできない日々が、どれほど続いただろう。
 やっと落ち着いてきたと思っていたが、すべてを拭い去ることはできないということか。
 風のない部屋の中で揺らめく栗色の髪が、徐々に金色を帯びる。その手が、暗がりの部屋で淡く霞む。そしてその双眸が、淡い光を放つ。
 綾はベッド脇に座り、目前の長い黒髪に手を伸ばすと、強張る小さな身体を掬い取るように抱き上げた。
「何も考えなくていい。傍にいる。ここにいるのは、お前を守るものだけだ。もう大丈夫だ。だから、忘れてしまいなさい」
 淡い光が少女を包むように拡がる。泣き濡れた顔を上げた少女は、静かに見下ろす瞳と一瞬視線が合うと、まるで寝入るように緊張を解いた。



 当日。
 鷹千穂学園と聖蘭学園両校のバスケット部の練習試合が、区立体育館で行われた。
 単なる練習試合としては大袈裟なほどの観客数であり、四方を客席に囲まれたコートは、両校の応援団や高校バスケファン、そして場違いな一群が続々と集まった。
 聖蘭側応援席には、『貴妃』こと小山内園美が、取り巻きに囲まれる形で座っていた。その数席あけてもう一人。不破第一高校の『不破公』こと常磐井鼎がいた。やはり後方に側近を従えている。
 そして、もう一人。
 『玄武帝』こと善知鳥景甫は、宰相佐久間涼と軍師渋谷宜和を従え、少し離れた場所から眺めていた。
 不破公が胴元の賭けに乗った景甫は、鷹千穂の勝ちに一口100万を賭けた。聖蘭にその倍を賭けた貴妃へのはなむけだと笑いながら・・・。
「練習試合とは思えない盛況ぶりですな、玄武帝。しかも県内屈指の名を持つ者たちが勢ぞろいです。なにやら寒気を覚えるようだ」
 渋谷はいたって温かみのある穏やかな表情で、会場を見渡した。目当ての女性は早々に見つけている。
「景甫さま。何かお飲み物でもお持ちしましょうか」
 佐久間が問うと、景甫は片手で制して、視線を正面に向けた。
「マドンナが正面にいる。相変わらず美しい。その隣りは天光寺の香取と夜叉だな。さぞ、不破公は不機嫌だろう」
「真行寺万里子と香取省吾は、以前より交流があるようで、最近は頻繁に行き来しているようです。香取もあれであなどれません」
 まるで褒め称えるような口調の渋谷は、そう言って一礼すると、ふいっと席を立って離れた。
「軍師殿は、時折不可思議な言動をされますね。まるで何もない所から何かを拾い上げるというような・・・」
 美しい瞳を見開いて、大きな背を見送った佐久間が感嘆していると、景甫は背もたれに深く沈んで、一笑にふした。
「佐久間、渋谷は何も不思議な所はない。知っていることをありのまま言っているだけだ。その言葉が、微妙な意味合いを含んでいるように見えるので惑わされるだけのこと。素直に聞けば何のことはない。当たり前のことを言っているのだ」
 それより・・と、景甫はコートに視線を落とした。
「今、コートの左で練習している鷹千穂のメンバーの中にいる男。あれはいつか見た男だろうか」
 丈高いメンバーの中でも引けをとらず、しきりにシュートを入れる男・・・梶原常史がいた。
 佐久間がうなずく。
「ゼッケン7番の男ですね。東都ホテルの最上階で会った青年二人のうちの一人です。もう一人は、ベンチで腕にサポーターを巻いている彼でしょう」
「では、あの美しい少年も、鷹千穂だろう」
 女装して『マドンナの身代わり』を務めた美少年の声と鋭い瞳が思い出され、微笑を誘う。
「景甫さま。客席の後方、大きな荷物を肩にかけている小柄な少年が見えます。おそらく彼でしょう。真行寺万里子と何か話している様子・・・。どうやら景甫さまに気付いたようで」
 何か合図でもあったかのように、万里子、香取省吾、香取寧々、そして今泉藤也の視線が一斉に景甫に向いた。もちろん貴妃や不破公の手前、万里子も香取兄妹も苦笑をかみ殺したが、藤也は客席後方なのをいいことに、そっぽを向く瞬間・・・舌をチロリと出した。 ばぁーか。
 景甫が肩を震わせた。佐久間が苦笑する。
「本当に、イイメンバーだな」
 景甫はそう呟いた。佐久間もそれに同意する。
 鷹千穂のメンバーにかけられる明るい応援の声の中。万里子や寧々も大声で手を振っている。それに返すコートのひときわ高い青年が、パスを顔面で受けて会場の半分は爆笑した。
「対照的な光景でございますね。景甫さま」
 眼下に見下ろす貴妃と不破公の不愉快そうな横顔。聖蘭側のコートの沈んだ空気。覇気のないメンバー。それを冷ややかに見つめる賭けに乗った各校の面々。どれもが鷹千穂を包む空気と違っている。
「おそらく、実力も対照的だろう。佐久間、もし鷹千穂のレギュラーが無傷であれば、・・・比ではない」
「と、申されますと。景甫さま。やはり鷹千穂レギュラーの事故は偶然ではなく・・・」
「故意だ。決まっている」
「では、やはり、この試合、聖蘭に・・・・」
 佐久間の小さな問いに、景甫は答えず目を閉じた。
 聞くところによれば、レギュラーのうち、主将とポイントガードが負傷したとのこと。思った以上にダメージはないように見えるが、それが曲者というものだ。試合中に何が起きるかわからない。見れば、チラリチラリと貴妃を窺う数人の男が客席後方からコートを見下ろしている。
「感謝するよ。このようなお膳立てをしてくれた、貴妃と不破公に・・・な」
「・・・景甫さま」
 微かに震えている景甫の左手を思いやるように、佐久間が景甫の表情を覗き込むと、景甫は普段見ることなどない熱っぽい視線を遠くへ向けていた。
「彼女が来る。必ず、来る。・・・やっと会えるのだ」
 その言葉を楽しむように繰り返し、景甫は拳を握りしめた。



 その頃、体育館前に乗り付けたベンツから降りた鷹沢綾の目前に、真っ赤なコルベットが停まった。
 運転席から真行寺一家の若頭、五十嵐飛水がゆっくりと降り立つ。
「珍しいな、飛水。学校の領域に姿を見せるとは」
「えぇ、親父さんの指示ですよ。鷹沢のご令嬢。今日の試合の結果を報告しなきゃならないんでね」
 礼をすると、綾と並び体育館へと促しながら歩く。
「ウチの親父さんと常磐井社長が、この試合に賭けましてね。鷹千穂が勝てば、お嬢さんの希望通りになるって話なんですよ」
 飛水は、肩をすくめる。
「――希望通りというのは」
「常磐井の息子を遠ざけること。鷹千穂が負ければ、おそらくお嬢さんは発狂するでしょうね」
「そんな大事なことを、この練習試合に賭けてもいいものなのか」
 綾は呆れたが、飛水は楽しそうに笑顔を向けると、
「ま、何か理由が必要なんでしょう。何か、ね」
 と思わせ振りに付け足して、一礼すると綾から離れた。
「なるほど。では、ますます負けられないということか」
 肩をすくめて苦笑する綾の後ろから、ジーンズにTシャツというラフな服装の少年が声をかけた。巽卓馬の友人のケンジである。
 二人は以前、卓馬が別の件で入院した時、顔を合わせている。
「卓馬があの腕で試合に出るって、本当なのかい」
「いや、試合に出るのは無理だろう。ただ、あいつの試合感覚は他にないからな。監督もそこをアテにしているようだ。ベンチにいるだけで心強い」
「大丈夫なのか。卓馬のヤツ」
 並んで会場に入りながら、ケンジはひたすら心配していた。
 見れば、卓馬の恋人の都築冴子も心配そうに、客席の前方で身を乗り出すように見つめている。
「大丈夫だ。卓馬なら心配いらない。うまくやるだろう」
 こちらに気付いた卓馬に目でうなずき、綾は近付いて来る藤也に一瞥をくれた。決して視線を合わそうとしない藤也のしぐさから、何かある・・・とは見た。
「気をつけろ。貴妃に不破公、おまけに玄武帝がいる。目立つなよ」
 すれ違い様、言って離れる藤也に小さく『分かった』と答え、綾は正面に見える聖蘭側応援席を見た。
 一目で異質と分かる貴妃と不破公の後方に、あの男がいた。
 『魔女』を『半身』と呼ぶ男。冴え冴えとした銀色の月を思わせる冷めた面差しと、何か引き付けるような雰囲気を持つ男。
 コートの上の介三郎が大きく手を振っている。それを苦笑で受け止めて傍を見ると、梶原が客席を仰ぐようにこちらを見ていた。目立たぬように・・・とは難しい。
 綾は一般生徒のふりで、客席の最後尾の通路、柱の影になるようにして身を隠した。
「なんだか、凄い観客ね。怖そうな顔の人が沢山いる」
 愛美がコートサイドから客席を見上げると、口をアングリと開けた状態で一通り見回した。正面に見える相手側の応援席には、場所に不釣合いな派手な一群と柄の悪い連中が混在している。
 変に慣れている介三郎と、観客などものともしない梶原と、いつも変わらない卓馬の三人は平然としているが、さすがにこの会場の異様な雰囲気に他のメンバーは顔を引きつらせている。
 背後を見上げると、万里子の傍に番長連合の香取省吾がいた。少しホッとすると、ふいにとびきり明るい顔が頭上にあった。
「愛美。マネージャーやってるって聞いたよ。元気そうだな」
 香取の側近、二浦克己は、客席から身を乗り出すようにして下を覗き見て、愛美と介三郎に声をかけた。
「あっ、二浦さん。来てくれたの」
 愛美もつられるように満面笑顔になり、低い背丈を目一杯伸ばして手を振った。
「香取総長のお供でね。夜叉も一緒だよ」
 『夜叉』と呼ばれる香取の妹の寧々は、玄幽会の一件以来、香取と共に万里子の元へ時折遊びに来る。愛美とも何度か話をしたことがあった。姐御肌という点では、万里子とも綾とも通じる所があるような女性だと、愛美は密かに思っていた。
 二浦は、愛美の笑顔に一層つられた形で笑うと、そのすぐ脇にある介三郎にも声をかける。
「速水、試合頑張れよ」
「はい。頑張ります」
「聖蘭は激しいアタリが売りだから、怪我に気をつけてな」
「了解です。気をつけます」
 素直に答えて頭を下げる介三郎と、その横で笑顔で手を振る愛美に、二浦もまた満面笑顔で返した。


 試合開始までもう少し時間がある。
 寧々は自動販売機に向かってお金を入れると、暫し何にするか考え込んだ。
 さて・・・。と、ボタンを押そうと手を伸ばす肩口から太い腕が伸びて、リンゴジュースを押された。
 振り仰ぐと、優しい微笑の温和な顔が見下ろしている。
「やぁ、寧々。元気そうだな」
 渋谷宜和は無邪気に笑って、自販機の口からジュースを取り出した。
 寧々と血の繋がりのある渋谷は、しかし玄幽会に属している。番長連合総長香取の妹として過ごす寧々とは、出会う機会も皆無に等しい。だが、久しぶりに会ってみれば、やはり懐かしい雰囲気を持っている。渋谷と香取がどことなく似ているからかもしれない。
「そっちも元気そうじゃないか・・・。ところで、玄幽会は貴妃側についたのかい」
 ジュースを受け取りながら、寧々が問う。答えの如何で寧々と渋谷の立ち位置が変わる。
「いや、どうだろうな」
 渋谷が思わせ振りに言いよどむと、寧々が肩をすくめる。
「ま、ウチの兄貴はマドンナ側につくつもりだけどね」
「の、ようだな」
「で、どうしてリンゴジュースなんだい」
 勝手に押されたリンゴジュースを示すと、
「好きだと聞いたが、違うのか。他のものがいいのかね」
 そう言って渋谷は小銭を取り出して自販機に入れ、選ぶように促すと、寧々は躊躇わず缶コーヒー無糖を押した。
「はい。これしか買わないって聞いてる」
 真顔で差し出されて、渋谷は苦笑した。
「よく知ってるな」



 それぞれの思惑を胸に、試合開始のボールが上がった。
 最初にボールを持った鷹千穂の石岡が、梶原にボールを回した直後に接触。梶原も強引なプレスに阻まれてシュートに持ち込めない。聖蘭のボール回しはそれほど早いものではないが、いかんせん鷹千穂のフォーメーションが崩れている。ポイントガードを欠いた為の連携不足だ。
 梶原も介三郎も、本来の動きではなかった。
 しかも、聖蘭のプレスは強く、ファウルになる事を前提に仕掛けてくる。鷹千穂はその圧力に押し切られる形で、集中力を欠いた。
 次第に点差はひらいていく。
 聖蘭側の客席が沸く。声援とも罵声ともつかない声が、体育館に響いた。その中で、スポーツとは無縁と思われるような観客たちに嘲笑が漏れる。おそらく常磐井が胴元の賭けで、聖蘭に賭けている者たちであろう。
 そしてその喧騒の中で、貴妃と常磐井はゆったりと椅子に寄りかかり、コートを見下ろしていた。
 蛍は何気ない素振りながら、試合の音を遠くに聞きながら、通路を歩いていた。柱の影やコインロッカーの周囲など、不審なものはないかを確認しながら進む。
 貴妃と不破公がいる側の通路には近づかないように、綾から指示が出ていた。何かあればインカムで連絡しあうことになっていた。
 すれ違う香取の配下の者が、律儀に礼をして通るのを、視線を伏せて礼で返しながら歩く。
 ふいに、間近で人の気配がしたと思い顔を上げると、暗がりに引き込まれた。
 誰かはすぐに分かった。貴妃の元に忍び込んだ時と同じ手だ。
 少し奥まった場所で、触れるほどに間近にある水木の顔を見て、蛍は息を飲んだ。
 頬に裂傷がある。よく見ると、口元や目の端に青あざがあり、その首筋は皮膚が赤くただれたようになっていた。
「どうしてこんなひどいこと・・・」
 蛍は思わず首筋を覗き込むように背伸びをし、指で確認するように皮膚に触れて確かめると、制服のポケットから薄いポーチを出し、中から大きめの絆創膏を出すと、首筋の赤くただれた部分を塞いだ。
「蛍・・・だったな・・・」
「この傷は、どうしたのですか。貴方ほどの腕の方が受ける傷ではありません。まるで、無防備なまま殴られたような・・・」
 もう一つ小さめの絆創膏を取り出し、頬の裂傷に貼ろうとする手を、水木は止めた。
 いつか触れた白く細い指を握り締め、水木はしばらく無言だった。
 二人が潜む暗がりの傍を、一般の観客が数人通り過ぎる。
 蛍は間近にある男の頬を、首筋を、自分の手を握り締めている手を、腕を見つめた。頬の裂傷だけではない。目に付く限りの場所に傷跡がある。
 だが、そんな無数の傷跡よりも、間近にある眼差しの方が痛々しい。
 あの日、貴妃の屋敷で組み敷かれた時、間近にあった瞳が微かに揺れたのを今でも思い出す。今、目前にある瞳は、あの時よりも狂おしい。
「蛍。貴妃に『魔女』のことがバレるぞ」
 水木の声は切迫している。
「すぐに『魔女』から離れろ。貴妃はすべてを思い通りにしなければ気が済まない方だ。お前が『魔女』の傍にいるなら、俺はお前を・・・」
「私は、お嬢様のお傍を離れるわけにはまいりません。貴方がお嬢様に危害を加えるというのなら、私は盾になります」
 蛍の答えは、揺るぎがなかった。水木がそれを振り払うように視線を背ける。
「お前は惑わされているだけだ。力でお前を縛り、意のままに操られる人形・・・」
「それは、お前自身のことだろう。貴志」
 ふいにかかった声に二人が視線を向けると、明かりを背にして寧々が立っていた。
「惑っているのもお前の方だ。いや、やっと目が覚めたというところか」
 壁に寄りかかるようにして立ち、視線を水木に固定したままの寧々は、微笑していた。
 蛍は、水木から離れ、二人を交互に見つめた。
「・・・寧々様。ご存知なのですか、この方を・・・」
「あぁ・・・、とは言っても、会うのは何年ぶりかな。噂は聞いていたよ、貴志。どこか裕福な家に引き取られたことはね。それからも時折、お前らしい噂が入ってきたよ。誰かの下で汚い仕事をしてるって」
「久しぶりに会って、説教か。寧々」
 一転、冷めた声で水木が返す。だが、寧々は引かない。
「モノを壊すが如く人を壊す者の下で、お前は何をしているんだ。そんなことの為に、強くなりたかったわけではないだろう」
 決して視線を外さず、ゆっくりと水木に近づき、寧々はスカートのポケットに両手を突っ込んだまま、蛍を背に正面に立った。
 女にしては長身の寧々が、少し見上げて好戦的な表情を見せる。
「あたしとやるか」
「お前とやり合う気はない」
「じゃ、引いてもらおうか。彼女はあたしの友人なんでね、ヘタなヤツに手を出されては困る。まして今のお前のように、両足泥沼に突っ込んで監視までついてるヤツにはね」
「俺に・・・監視が・・・」
 水木は気付かなかった。貴妃が単なる飼い犬である自分の動きを、気にするなどとは思わなかった。
 茫然とする水木を置き去りにするように、寧々は冷たく、
「なんとか誤魔化すんだね。お前の事に、彼女を巻き込むな」
 それだけ言うと、寧々は蛍の背に腕を回し、半ば強引に明るい方へ向かった。
 寧々と共に立ち去りながら振り返った蛍の肩越しに、後に残った水木が苦しそうに立ち尽くす姿が映った。
 途中、通路に座り込んでいる学生がいた。聖蘭学園の制服を着ている所を見ると、貴妃の手の者のようだ。
「怪しい動きをしてるのを見かけてね。まさかお前が貴志といるとは思わなかったよ」
 遠く離れた明るい場所で、寧々は周囲を確認して蛍を放した。蛍も同じように見回した。周囲に隠れることができるような場所はなく、目の届く範囲に人影はない。
「寧々様、あの方は――」
 寧々にだけ届く小さな声で、蛍は答えを待った。
 明るく光を浴びて立つその姿を眩しそうに目を細めて見つめ、寧々は口元に微笑を浮かべて答えた。
「一時期、私と兄貴は施設にいたんだ。そこにアイツもいてね。あたし達はけっこう仲が良かったんだよ」
「施設・・・ですか。何故、あの方はそこにいらしたのですか」
 蛍の表情が微かに曇る。寧々はその瞳を受け止めるように、少し声を下げる。
「貴志の両親は、アイツが物心付いた頃には既に離婚していてね。アイツを引き取った父親は酒びたりで、アイツは暴力の中で育ったらしい」
 その後、父親は再婚したが、その女からも暴力を受け、結局保護される形で施設に入ったという。
「でも施設にいる間は、結構楽しくやってたよ。あたしたち兄妹も、アイツも、強くなりたくて必死でね。そのうち、あたしと兄貴は渋々引き取ってくれた親類の所へ行き、しばらくしてアイツも、どこかへ引き取られたと聞いたんだ」
「まさか、それが貴妃の所ですか」
 水木は自分自身を『飼い犬』と言っていた。目の当たりにした無数の傷跡。強張った表情の奥の瞳。
 ふいに、大きなため息を聞いて顔を上げると、寧々の微笑があった。
「奇麗になったな、蛍」
「・・・・・・」
「お前は美しい。ただ、その美しさにはどこか陰りがある」
「寧々様。私は、今の自分を憂いてはいません」
「分かっている。その陰りはもっと昔から、図らずもお前が持たざるを得なかったものだろう。そしてその陰りは、貴志の中にあるものに似ている」
「・・・」
「お前が哀しまなければいいと思っている。おそらく、お前の主も、そう願っていると思うよ」
 蛍の肩にかかるインカムのイヤホンを摘まんで示すと、
「主が心配しているだろう」
 またな、と加えて寧々はゆっくりと背を向けた。
 急いでイヤホンを着けると、少し抑えたような静かな声で、大丈夫かと綾が何度か繰り返す。
 幼いあの日、施設の片隅で、大勢の子供たちの中で感じた孤独から、蛍を掬い取った静かな声だ。
「蛍です、お嬢様。鷹千穂側観客席裏の通路は、特に問題ありません。香取様の配下の方が数名おられるのみです。守りを固めておられる様子です。――移動します」


 第一ピリオドが終了し、聖蘭が十五点差をつけて鷹千穂に勝っている。
 梶原のシュート決定率の高さと、石岡のスリーポイントで追い上げたが、中々差は縮まらない。
 タオルや水分を受け取ってベンチに座っている介三郎たちの呼吸が荒い。
 プレッシャーの為か、いつもより疲労が濃いチームメイトに、沢村監督の指示を確認して卓馬が話す。いつもならコート上でメンバーを動かしている卓馬にとって、ゲームに参加できないのはもどかしいが、外から見る分、いつもとは違う見方もある。
「まず、介はもっと周りを見て、いつも出来ていることがまったく出来てないよ。ゾーン広げて、パスしっかり回して。ウチの部員は全員、内からでも外からでも攻撃できるんだから、すべて使ってよ。それからカジ、ダサいから易々とカットされるようなパスは出さないでよね。ドリブルで切り込んでシュート打つ。相手が中へ入ったら、外からスリーポイントで決める。練習、できてるでしょ」
「ダサくて悪かったな」
 梶原が気分を害するが、そんなことに構ってはいない。
「悪いよ、ホントに。一人でやってるんじゃないんだから、もっと頭を使って。カジ、わかったね。それから――」
 言いよどんで左腕を抱えて苦痛に歪む唇を噛んだ。
「どうした、卓馬。腕が痛むのか」
 石岡が、表情を曇らせた卓馬を窺う。卓馬の横で、沢村監督も眉間にシワを寄せている。他の部員も、その表情を推し量るように次の言葉を待った。
 卓馬は小さく首を横に振ると、相手チームを静観しながら声のトーンを落とした。
「第一ピリオドで分かったと思うんだけど、聖蘭は正直、試合をしてるって感じじゃない。俺たちを潰そうとしているって感じなんだ」
 それは部員全員が感じていることだ。不必要なプレスが多く、ファウルをとられることを前提に仕掛けてくることが多々ある。目に余るほどだ。
「だから皆、気をつけろ。接触は極力避けるんだぞ。怪我だけはするな」
 沢村監督は念を押すように言った。あくまでもこの試合は、練習試合だ。ウィンターカップに向けてこれからが大事だ。既に主将の日下が復帰不可能だ。卓馬の怪我は1ヶ月程度で完治するだろうとは言われているが、これ以上のダメージは避けなければならない。
 インターバルが終了し、主審の笛が鳴る。
「とにかく、気をつけろ。いいな」
 沢村の言葉に、コートに戻る五人が一様に頷き、試合は第二ピリオドに入った。


「万里子、どうみる」
「どうでしょう。貴方はどう」
 香取がニヤリと笑った。
「お前が贔屓にしている奴らが、こんなもので終わるとは思えない・・・というところだな」
「嬉しいわ、香取。でも、そうなると、黙っていない方々が動くのでしょうね」
 正面の貴妃と常磐井に目立った動きはない。却って、不気味だ。
「さて、どう出るかな」
 香取の視線は、二人から少し離れて座っている景甫に移った。
 玄武帝と呼ばれる彼と会ったのは、香取自身が玄幽会に捕らえられていた時だ。あの時いた美丈夫が、今も傍に控えている。
 そして――。
「兄貴、ちゃんと応援してるのかい。負けてるじゃないか」
 戻ってきた寧々が香取の隣に座ると、椅子に沈んで足を組み、正面に見える客席を嘲るように見た。
「醜悪な顔だね。あの顔が、負けて苦痛に歪むのを見てやりたいよ」
「どうした、寧々。やけに機嫌がいいな。何かあったのか」
 惚けた口調の香取を尻目に、寧々は無言でコート上に視線を落とした。


 桜は、試合の状況を客席の一番後ろから見つめていたが、ある方向へ目を向けて絶句した。見ると、少し離れた所でカメラを構えている藤也も、その姿を認めたようだ。
 雛鳥は、身を隠すように客席の後方、大きな柱の影にいた。極力見つからないようにと気を配っているようだが、目ざとい者の多いこの場では、無駄な抵抗だ。
 離れた場所でカメラを構えていた藤也も、気付いていた。
 すぐさま駆けつけた桜は、雛鳥の体調を窺いながら、諫めるように言った。
「どうされたのです、このような所へ。お身体のことをお考えください」
「桜、お願い、ここでいいわ。この試合が終わるまでは、ここにいさせてください」
 雛鳥は懇願するように桜を見上げた。その心は既に、コート上に散らばる選手の一人を追っているのだろう。その事が、更に桜には引っ掛かった。
「しかし、先日も捻挫から熱を出されたばかりです。さ、帰りましょう」
 有無を言わさぬ桜の強引さに、雛鳥は必死に抵抗する。
「待てよ、染井。試合を見るくらいはいいだろう」
 割って入った藤也は、桜の手にカメラを渡し雛鳥から引き離した。
「染井。お前も写真部なんだから、部活しろよ」
「何を悠長なことを言っているの、今泉くん。部活どころではないでしょう。私には仕事があるのよ」
「仕事って、無駄に綾についてることだろ。あいつは殺しても死なないよ。マドンナには、番長連合の香取がついてる。その側近も周囲を固めているんだ。お前がいなくても大丈夫だよ。何なら本人に聞いてみろよ。そのインカム、無用の長物だろう」
 言われて桜がインカムのマイクのスイッチを入れて藤也の言葉を繰り返すと、イヤホンから苦笑が聞こえる。
 腑に落ちない答えに、桜は渋々ながら従った。
 それみたことかと藤也は桜に一瞥をくれると、雛鳥を促す。
「染井の負けだ。ただ、雛鳥はマドンナの傍に行ってくれ。今、離れて行動するのは危険だ。貴妃や不破公がどう動いてくるかわからない。部下の動きもおかしい」
「藤也さん。まさか皆さんが狙われているのですか」
 コート上の選手たちと四方を取り巻く客席の雰囲気。確かに、何か――単なるバスケット部の練習試合とは言い切れない物々しい雰囲気がある。中でも正面に見える二人は、突出して異色だ。万里子や香取とは、まったく真逆のものがある。
「そうだよ、わかるだろ。だから雛鳥、マドンナの傍に行け。染井、お前はカメラで不審者がいないか見てろ。いざとなれば、お前は影として動くんだろ。大事な仕事だ」
 客席の最前列でカメラを構えていた椎名優紀にも声をかける。
「いいな、染井も。見逃すなよ。標的になるのは、コート上のバスケ部員だ」


 第二ピリオドは、早々に介三郎が動いた。コートを目一杯使ってパスを出す。梶原の動きも呼応するように上がる。石岡がリバウンドを制し、山路と王野が外から攻める。
 聖蘭の阿久津もセンターの成田も防戦一方となり、ガードの宮崎は翻弄されるばかりだ。
 点差はあっという間に縮んできた。
 貴妃の前の席で、柏木が微かに動いた。
 濃いサングラスで表情を隠す常磐井の口元が、大きく歪んで嘲笑を漏らす。
 コート上で、大きな声が上がった。
 石岡がボールを掴んだ所へ、聖蘭の阿久津が横から滑り込み、ボールを奪う形で肘を振り上げた。その肘が、石岡のこめかみに入った。
 吹き飛ばされるように仰け反った石岡の身体が、コートに叩きつけられる。
 場内が騒然となった。
 貴妃や常磐井の表情は、場違いな程に小気味いい。
 反して、万里子や香取など、鷹千穂サイドにいる者は一様に心配そうに身を乗り出した。立ち上がれない石岡の周りを、鷹千穂の選手が取り囲んだ。
「石岡先輩。大丈夫ですか」
 介三郎が問うと、微かだが反応はある。ただ、頭部の衝撃が大きいのか、はっきりと答えることはできないようだ。こめかみの出血も多い。
 試合は中断し、担架が用意された。
「これは」
 万里子が気色ばみ、憤怒の形相で立ち上がりかけた。
「どうする気だ、万里子」
「試合を止めます」
 香取は万里子を止めた。
「やめろ。これも試合のうちだ」
「しかし、これでは怪我人ばかりです」
「止めれば、あいつらが動くぞ」
 香取は視線で正面の客席を示した。
「ボードを見ろ。今止めれば、聖蘭の勝ちだ。あいつらの思う壺だぞ。万里子、常磐井がいることを忘れるな。あいつがどれほど常軌を逸しているかは、お前が一番知っているのだろう」
 起き上がれない石岡の傍で心配そうに声をかける鷹千穂バスケ部をよそに、聖蘭の選手たちはゆったりと構えて水分補給や汗を拭っている。
「今は耐えろ。コートの中の奴らを信じろ」
 万里子はすぐには納得できない表情で、怒りに震えた。香取とは反対側に座っていた雛鳥が、万里子の腕に手をかける。寧々は腕を組み、微動だにしない。
 香取は側近の柱谷と二浦を呼ぶと、短く指示を出した。二人は素早く礼で返し左右に散る。
「香取様、何をなさるのですか」
 その指示を聞き、雛鳥が不安そうに香取を見た。柱谷と二浦の指示が徐々に番長連合配下の者に浸透していく。それを背に、香取は毅然として正面を見据えた。
「何もされないようにするんだ」
 ベンチの脇に綾の姿があった。沢村と卓馬、愛美に何かを指示している。沢村は即座に審判席に行き、選手交代を告げた。卓馬は担架に乗せられる石岡の所まで走り寄る。
「石岡先輩はすぐに医務室へ。代わりに志田が入るよ」
 卓馬は早口で動きの確認を行い、
「とにかく接触しないように離れて動いて。相手の動作に巻き込まれないように」
 と加えた。
 担架と一緒に愛美は医務室へ向かい、コートから出た卓馬と入れ違いに審判の笛が鳴った。石岡が倒されたのは、聖蘭の阿久津のファウルとなったが、聖蘭の部員すべてが、してやったりの顔だ。
「これが、バスケの試合なのか」
 怒気を含んだ梶原の呟きが、一瞬の隙を作る。
「カジ、危ない」
 再開早々回ってきたボールを受け取り、ステップで一回り小柄な宮崎をかわそうとした梶原の足元が、宮崎の出した右足で大きく体勢を崩して捻った。
「大丈夫か、カジ」
 走り寄った介三郎に、大丈夫だと答えたが、しかし立ち上がることができない。
 梶原は介三郎と志田の肩を借りて、ベンチの後ろへ下がった。
 左の靴と靴下を脱がすと、少し赤みがあった。卓馬が右手で触れると、梶原の顔が痛みに歪む。
「捻挫かな・・・、微妙だな。動けないかな、カジ」
 これで梶原が抜ければ、おそらく追いつけない。救急箱を開けながら、卓馬は考えた。
「テーピングで出れれば――」
「卓馬、私がやろう。お前のその左腕はまだ動かすな」
 ベンチ後方で見ていた綾が、卓馬の場所に座り、テーピング一式を受け取る。
 半信半疑で見つめていた卓馬に、綾が問う。
「卓馬、お前にはもう策はないのか? ここで負けるのか?」
 その口調に、少なからず卓馬が憮然とする。
「いや、何言ってるの、綾。まだ終わってないし、勝てる確立の方が高いと見てるよ、俺は」
 自信満々に言ってのけた卓馬の視線が、チラリと意地悪く梶原に向いた。
「ただし、カジの動き如何だね」
 目前で痛めた足首に手を当て卓馬と会話している綾に釘付けの梶原の頭を叩いて不敵な笑みを返し、卓馬はしっかりと綾を見た。言わんとすることはわかった。
 綾が苦笑で返す。
「こちらは引き受ける。卓馬は皆に指示を。決して負けないように」
 その言葉に卓馬は短く返事をして、介三郎たちが集まっている一群に加わった。
 無言で見つめていた梶原が、足の痛みに我に返ると、綾が無言で梶原の足にテープを巻いていく。慣れているのか、手際がいい。
 綾がこれほど梶原の傍に近寄ることはない。梶原は暫く唖然とした。
「どうしてだ、綾。お前が、俺を・・・」
 言いかけた梶原の言葉は、冷たく遮られた。
 綾は、足の状態を確認しながら、あくまで淡々と手を動かしていた。
「この試合に多くの人間が関わっている。鷹千穂は勝たねばならないのだ」
 試合再開の笛が鳴った。梶原の変わりに大塚がコートに入った。
 理由はどうあれ、どれ程の者がこの試合の勝敗を見つめているか・・・。
 だが、そんな綾の様子が、梶原にはもどかしい。何故何もかも背負うのか。細く冷たい指先を左足に感じながら、梶原の顔が苦渋に歪んだ。
「こんなもの、試合じゃない。ケンカだ」
 梶原は、吐き棄てるように言い切った。
「それは負けを認めて、試合を投げ出すということか。梶原」
 咎めるように返しながらも、綾は決して梶原を見ない。淡々とテーピングをする。
「違う。だから、これは試合じゃ・・・」
「これくらいの荒れた試合は、普通にあるだろう」
「・・・・・・」
「それともお前は、奴らのスピードにも技術にも劣るというのか」
「・・・・・・」
「動け。ボールを回して、早い展開でシュートに入れ。攻撃力は鷹千穂の方が断然上だ。たとえお前の足がこの状況でもな」
 テーピングを終え、梶原から離れる間際、
「勝ってみせろ」
 一言呟く。
「綾、介たちにもそう言ったよ。カジ、靴はいたら出るよ。カジは外から攻める。中に切り込む介と大塚さんの動きを生かして。スリーポイント外さないでね。相手に責めさせないで、置いてけぼりにしてきてくれよ」



 第三ピリオドは、拮抗した。鷹千穂は満身創痍ながらも、技術の違いでジリジリと得点に繋げていく。得点は並び、そして追い抜いた。
 山路が退き、交代で入った梶原は、徹底してスリーポイントシュートと相手を翻弄するパスで貢献した。足の捻挫を見越して聖蘭がプレスをかけてくるが、梶原は難無くかわした。左足首はしっかりと固定されており、動きに遜色はない。梶原からマークを外すように介三郎と志田が動き、大塚がドリブルでシュートに繋げる。
 聖蘭の選手は焦っていた。どう動いても優位に立てない。点差は広がるばかりだ。
 阿久津の視線が、時折貴妃に向かう。案の定、貴妃は不愉快そうに片肘をついてコート中央を見据えている。
 あと五秒でインターバルだ。
 傍に立つ介三郎にボールが回った。おそらくドリブルから切り込んでシュートに出る。
 そう踏んで、阿久津は仕掛けた。
 石岡を倒した時と同じ動作で、介三郎に一歩寄った。ほんの一瞬のことだ。避ける動作を取ったとしても、足がもつれて倒れるだろう。
 そう、阿久津は思った。
 だが、取りに行ったボールは視界から失せ、振り上げた肘も空を切る。その上、引っ掛けてやろうと伸ばした足が滑り、阿久津自身が転倒してしまった。
 何が起きたのか、阿久津には分からなかった。
 気付けば長身の間の抜けた顔が自分を見下ろしていて、遠くでゴールが鳴りシュートが決まる音がした。
 会場がドッと沸く。
 単純に、介三郎が阿久津の動きに反応して避けただけで、ドリブルには入らずそのまま梶原にパスを出し、梶原がスリーポイントを決めたというだけだ。
 香取が、感嘆符を打ちながら椅子に寄りかかる。
「よくあんな紙一重の避け方ができるな。万里子、お前のお気に入りはどうなってるんだ。堅気だろ」
「そうですわね。貴方なら、避けるのはやめて受けるでしょ」
「避ける選択肢はないよ。万里子。避けきれないと分かるから受けるんだ。だが、ヤツはそんなことも考えてないだろ」
「えぇ、介三郎さんですもの」
 それが最高の褒め言葉のように言って万里子は笑った。
 当の介三郎は、インターバルに入る笛の音を聞いて、傍に座り込む阿久津に手を差し出した。
「大丈夫ですか。足、捻ったんじゃないですよね」
 極普通に話しかけてくる相手に、阿久津の方が微かに脅えている。目前の手を取れば、貴妃にどう見られるか分からないという恐怖も追い討ちをかけた。
 だが、介三郎にはわからない。
 それぞれがベンチに帰っていくのを気にしながらも、つい言ってしまった。
 この試合が始まってから、ずっと頭の隅にあった言葉。
「これ、バスケですよね。コートの中で喧嘩しても勝てませんよ。やることが違いますから」
 中々手を取ってもらえなくて、おまけに大きく見開いた目で見つめられ、多少照れ臭そうに笑って阿久津の腕を引き上げた介三郎は、阿久津の身体に痛めた箇所がないのを確かめるように眺めて満面笑顔になった。
「よかった。どこも怪我していませんね。最終ピリオドもいけそうだ」
 それだけ嬉しそうに言うと、鷹千穂ベンチに下がった。
「どこにいても、ボーヤだね」
 寧々が苦笑する。


「どうする、貴妃。これでは先がないぞ」
 さも面白そうに常磐井が腕組みをして、大きく足を組んだ。まるでこの状況を待っていたかのような小気味よさが、その口元にあった。
 貴妃は一層不愉快そうに、正面に見える万里子を見据えると、低く呟くように命じた。
「もう要らないわ、こんな試合。ぶち壊しなさい」
 一列前の席にいた柏木が、小さく礼で返す。
 常磐井が舌なめずりをした。試合がどうなろうと、常磐井にとってはどうでもよかった。聖蘭が勝とうが、鷹千穂が勝とうが、常磐井が損をすることはない。
 そう計算されていた。


 佐久間は会場全体のざわめきを見渡した。
「慌しいですね」
「あぁ、さて、貴妃はどう動く」
 さも楽しそうに、景甫が笑う。
「本当に、面白いですな」
 渋谷も満足そうに付け加える。
 佐久間は一人、呆れ顔だ。
「軍師殿まで、そのような・・・。この一方的な試合と、客席の不穏な動きの、どこがそんなに楽しいのですか」
 少し離れた位置にいる貴妃と常磐井は、それぞれ側近を動かし何か仕掛けようとしている。一方で、向かい側の客席を見れば、香取の部下が要所を固めるように散開する。
「おや、宰相殿は楽しくありませんか。この光景、咲久耶の学生組織の縮図がここにあるんですよ。さて、玄武帝、この先が一層見ものですな」
「そうだな」
 景甫の視線がコート上に戻る。


 第四ピリオドは、圧倒的な運動量で鷹千穂が凌駕している。
 聖蘭の選手は、どれほど交代しようともう足がついていかない。強くプレスをかけようにも、鷹千穂の動きに翻弄されるばかりで、一方的に置いていかれていた。
 すでに勝負は決していると言っても良かった。
 だから、気が抜けない。
 傷めつける為だけに、壊す為だけに動いてくる。
 椎名優紀と藤也と桜は、カメラを駆使して不審な者がいないか、目を凝らしていた。
 ベンチの奥に隠れるようにしていた綾の視線が、中二階の機械室の窓から漏れた微かな光に反応する。
「蛍」
 インカムに短く伝えると、蛍が動く。敢えて無防備に空けておいた機械室は、蛍の位置から近い。
「充分です、お嬢様」
 蛍は両手を固く握り締め、機械室に飛び込むと、暗がりに潜んでコートを見下ろしている巨躯の男に向かって腕を振り下ろした。
 聖蘭学園空手部の正田が、何かに囚われるように四肢を強張らせて仰け反る。
遅れて綾が蛍の横に立った。
「な・・・なんだ、お前ら・・・」
 蛍の妖糸に囚われながら、背後に見える二人の女に怒声を向け、尚も手に持つものを構えようとする。左手に握っているのは単なるパチンコを改良したもののようだが、大きさや形状からかなり遠くまで物を飛ばすことができるだろう。そして右手に握っていたのは突起が無数についた鉛球の塊だ。もし人間に向けて放てば、大怪我となるのは明らかだ。しかもその鉛球を無数に持っている。
「その手のものを放せ。でなければ、失うぞ」
 蛍の妖糸は、正田の身体中を捕らえている。空手で鍛えた巨躯に、糸は食い込んでいく。武器を持つ両手は、抵抗すればするほど糸が食い込み筋状の出血となる。
 綾は正田に近づこうとして、隅の暗がりに鋭く視線を向けて瞬時に構えた。
 暗がりから二人の学生が綾めがけて手刀を繰り出す。蛍が正田に絡まる妖糸を引きながら後方へ下がり、綾も軽く身をかわして一人を肘で、一人を回し蹴りで退けるが、その程度では倒れない。
 正田も力任せに糸を断ち切ろうと抵抗する。
 綾が再度構えようとしたが、突然乱入した学ラン二人が両者の間に割って入った。
「香取総長からの指示でね。周囲は俺たちが取り囲んでる。何が起こっても、聖蘭側に反撃はできない」
 柱谷が満面笑顔で久しぶりに会った綾に言いながら、向かってきた一人を殴り倒す。その隣で、二浦がもう一人を打ち据えた。蛍も手首を捻って正田を黙らせる。
 大きな音が響いた。
 試合は終わりに近づいている。選手たちは、周囲のことなどまるで気にしていない。ただ無心にボールを回す。
 機械室のすぐ脇、ゴールの後ろの客席で、五十嵐飛水が楽しそうに全体を眺めている。
 万里子の隣で、香取が悠然と腕を組んでいる。寧々もさして気に留めている風もない。
 だが、貴妃は一層不愉快そうに目前の側近を見下し、常磐井は少し強張った口元を歪めた。そして、彼らから離れた場所で景甫の視線がまっすぐ機械室を見つめている。
 椎名の視線が止まった。
「今泉くん、あの人おかしいわ」
 藤也が椎名の示す座席の男を望遠一杯で捉える。貴妃のナナメ前の席。柏木だ。
 瞬間に、藤也の美しい顔が修羅の形相になる。
「あいつ、あの持ってるのは、まさか・・・」
 サイレンサー付の拳銃。
 本物かどうかなど、今は詮索している場合ではない。その銃口は確実にコートに向けられている。
「染井、綾に連絡させろ」
 景甫の動きを見つめていた桜は、インカムを藤也に投げると、その場を離れた。
 そちらは気に留めず、藤也の抑えた小声がインカムから綾に届く。
「綾、そこから見えるか。貴妃のナナメ前」
 隠れるようにして客席を見た綾の位置からも、柏木の動きははっきりと見えた。
 客席の影に隠れるようにしながらも、確かに銃口はコートの中、ある一点に集中しようとしていた。
「綾、止めろ」
「また無茶を言う。今泉、介三郎と梶原を動かせ。二人が標的だ」
 言いながら気絶させた正田の手からパチンコと一粒の鉛球を拾い上げると、ゆっくりと構えた。
 コート上、スリーポイントラインでボールを持つ梶原と介三郎が交錯し、そこへ阿久津が走りこむ。
 藤也が大きく身を乗り出して叫んだ。
「介、ゴール下――走れ。カジ――」
 その声に呼応するように介三郎はゴール下を目指し、ボールを構えた梶原に阿久津がブロックショットに入った。
 銃を構えた柏木の照準が、梶原に合う。
「カジ、フェイダウェイ」
 卓馬がベンチから大声を上げた。
 柏木の指が引き金を引く直前で、綾の指が動いた。
 梶原が指示通りやや後方へジャンプし、美しいフォームでシュートを打った。
 ゴールへ向かいボールに視線が集中する中で、綾の打った鉛球が柏木の手の甲を貫き、反動で引いた引き金の為、コートに向かった弾丸は、外れた形で阿久津の太ももに当たった。
 ボールは吸い込まれるようにゴールへ入り、カウントの笛と終了の笛が鳴る。
 スコアボードは、鷹千穂の圧勝だった。


 試合は終わった。
 貴妃と常磐井の席を取り囲むようにして見ていた客達は、勝敗が即ち賭けの結果である為、文字通り悲喜こもごもだ。ただ、割合は喜ぶ者の方が少ない。
 太ももからの出血を抑えながら、阿久津はメンバーに抱えられるようにして、早々にコートを去った。
 貴妃の目前では、柏木が腕の痺れを押さえながら、目的を達することができなかった事への制裁に脅えた目で小さくなっていた。
「不愉快だわ。こんな負け方なんて、許せない」
「そうだな、貴妃。これは、いただけない」
 常磐井も忌々しい表情を苦笑いの中に含めて、立ち上がった。傍にいた側近が呼応するように指示を待った。
 しかし、指示はでなかった。
「常磐井の若さん、試合は終わりました。鷹千穂が勝った以上、このアタリで引いていただきます」
 いつの間にか、常磐井の側近たちに囲まれる形で、飛水が微笑を湛えながら、悠然と常磐井の正面に立ち塞がった。
 長い髪を後ろで一つに束ね、左頬の傷を隠すこともせず、飛水はすっきりとした背広姿である。
「あまり取り乱しておられないところを見ると、単純に儲けの勘定をされているだけなのでしょうか。もしかして、お父上からこの試合の結果如何でどうなるか、お聞きではないのでしょうか」
「何のことだ」
 その反応は、やはり知らないようだ。
 飛水がニコリと微笑を浮かべた。
「鷹千穂が勝ちましたので、今後、真行寺の関わる土地での賭け事は、一切お慎みいただきます。もちろん、ウチのお嬢さんに近寄ることも、やめていただきます」
 飛水の流麗な説明に、常磐井の厳つい顔の輪郭が歪む。
「そんな約束はないだろう」
「いえ、ございます。この試合の勝敗に、あなたのお父上が聖蘭学園の勝利にすべてを賭けられた。おそらくご子息たる貴方様に賭けたのでしょうが、・・・残念でしたね。相手が悪かった」
 飛水の言葉は、一つ一つ常磐井の表情の歪みに呼応している。益々、常磐井の顔が忌々しさに歪む。
「真行寺がそれほどのものだと?」
「貴方が相手にしたのは、真行寺だけではないのですよ」
 常磐井と貴妃が立つ客席とはコートを挟んで向かい側を示した。
 万里子が遠く飛水を見つめ、その周囲を番長連合の香取や寧々、その側近が立ち、四方の客席の最後尾を取り囲むように、天光寺高校の制服を着た剛の者が後ろ手に控えた。
 貴妃と常磐井の側近たち、また取り巻きと言えるその他の観客が、常磐井と対峙する飛水を取り巻くように色めき立つが、比ではなかった。
 飛水が、悠然と微笑する。
「言っておきますが、二度と十年前のような不意打ちには屈しませんよ。もちろん、誰も、貴方に傷つけさせません。私を含めてね」
 あの日、一瞬の間合いが避けられず、頬に受けた傷が疼く度に、心に誓った。
 美しい女主人に「守りきれなかった」などと、二度と言わせない。
 聖蘭のバスケ部員は、早々に片づけを行っているが、介三郎たち鷹千穂のメンバーは、頭上で交わされる視線を、内容が分からないまま見つめていた。
 常磐井が失笑する。
「お前如き虫けらの分際で・・・」
 元々常磐井は、飛水を蔑んでいるが、今は恨みに近い声だ。
 だが、飛水は怯まない。
「残念でございました。虫けらにも魂がございます。貴方のような方には見えない魂がね」
 そして、常磐井の後ろにいる貴妃と、その横で手首を押さえながら控えている柏木に視線を移した。
「あぁ、それから。ご友人が物騒なものをお持ちのようですね。何か関わりでもあるのですか。であれば、こちらも相応の対応をさせてもらわなければなりませんが、如何ですか」
 柏木が持っていた拳銃は、既にどこかに隠したのか、それらしいものを持ってはいない。周囲に目を凝らすが、容易にはわからない。無理矢理踏み込むことまでは、できそうになかった。
 常磐井は、これ以上話す気はない様子で踵を返すと、鼻で笑った。
「お前のような虫けらと話しても埒が明かないな。帰るぞ」
 最後は側近たちに言い、飛水に背を向けた途端顔面を引きつらせて小さく短く指示し、常磐井は横柄な態度で観客を退けながら姿を消した。
 残った貴妃は、特に飛水に興味はない様子で、コートを一瞥すると、無言で柏木を促し常磐井に続いてその場を離れた。


 暫くポカンと眺めていた鷹千穂のバスケ部も、戻ってきた愛美からの報告で吹っ切れた表情に変わった。
 石岡の頭部の傷は思ったよりも小さく、ひとまず落ち着いているという。入院中の日下はICUから一般病棟へ移ったと報告が入った。
 客席から降りてきた香取と二浦が、愛美に声をかける。
 卓馬は都築冴子とケンジに、左腕は問題ないことを告げると、ぼんやりとベンチに座っている梶原に近づいた。
「カジ、足はどう。早めに手当てしといたほうがいいよ」
 無茶をさせた分、捻挫が気になった。動かない梶原の足元に膝をついて左足に触れようとすると、梶原は思い出したように我に返り、足を引いた。
「いや、いいよ、タク。たいしたことはない」
 卓馬は驚いた。身体のメンテナンスには神経質な梶原の答えとは思えない。
「駄目だよ、カジ。ちゃんと手当てしようね」
「後で自分でやるから、いいって」
 あまりに頑なに拒まれ、卓馬は思わず流し目をくれる。
「・・・まさか、綾に巻いてもらったテーピングは外せないとか言わないよね、カジ」
 見透かすように見つめると、狼狽えた顔で赤くなる親友がいた。
「だっ、誰も、そんなこと言ってないだろ」
「・・・だよね」
 やれやれと心の中で大きくため息をついて、卓馬は踏ん反り返った。馬鹿につける薬が欲しい。
 バツの悪い顔で不機嫌を装う梶原は、話を逸らすように周囲を見渡した。
「介は?」
 お互いを労いながら帰り支度をしているチームメイトの中に、一番丈高く、間延びした顔が見当たらない。
 卓馬も言われて周囲を確認し、上の客席を見上げて小首を傾げた。
「あれ、いないね。どこ行ったんだろ」


 貴妃は、側近たちが震え上がる程の険しい表情で、体育館の出口へと急いでいた。
 試合は負けた。賭けも同様だ。しかも、自分が命じたことが何一つ実行されなかった。こんなことは、容易に受け入れられるものではない。
「貴妃様、阿久津の怪我ですが、如何いたしますか。あれは公にすれば色々と不都合が起きるでしょう――」
 一人が貴妃の背後からその指示を仰ぐ。
 阿久津の怪我は、柏木が撃ち損じた弾丸のせいだ。病院へ行き手当てをするならば、何故このような怪我をしたのかと問われるだろう。それなりの覚悟がいる。
 あらゆることを考えながら声をかけたつもりだった。しかし、返ってきたのは激しい苛立ちと研ぎ澄まされ凶器となる指先だ。声をかけた側近の頬から顎にかけて、いく筋かの裂傷ができた。
「そんなことは、お前たちが考えなさい。こんな結果、許せるはずがないわ」
 低く唸るような声が、周囲に控える者たちを引かせる。
 またその様子が、貴妃の癇に障った。尚も叱責しようとする貴妃を止めたのは、介三郎だった。
 急いで走って来たのだろう。肩で息をしながら貴妃に声をかけた。
「聖蘭の方ですよね。背番号4番の方が足を怪我してたと思うんですけど、大丈夫なんでしょうか」
 間の抜けた顔で長身を前屈みにして問いかける介三郎は、貴妃にとっては異質なものだ。初対面でこのように、何の抵抗も感じず自分に話しかけてくる者など皆無だ。
 焦った側近たちが介三郎の前に人垣を作る。
「お前はなんだ。何故、阿久津のことを訊く」
 阿久津の怪我の真相を知る者たちにとって、それを詮索されることは恐怖でしかない。何より、ただでさえ貴妃はすでに不機嫌だ。この上、どのような制裁があるか知れない。
 だが、介三郎にとっては、至極当然な質問だった。
「いや、ウチと試合して怪我されたんなら、心配するでしょう。出血してたみたいだし――、でも医務室には行ってないみたいなんで」
 介三郎なりの理由を並べるが、貴妃はすでに聞いていない。側近も介三郎の相手より貴妃の機嫌の方が大事だ。一様に背を向けて立ち去ろうとしている。
 尚も誰かに問いかけようとする介三郎の腕に、長い指がかかった。
「綾・・・」
 驚いて振り返ると、綾が静かに立って苦笑している。
「皆がお前を探しているぞ。心配させるな」
 そう言いながら、立ち去る貴妃に視線を向けると、貴妃も一瞬、視線だけ振り返り綾の姿を確認したようだ。しかし立ち止まることはなく、そのまま去ってしまった。
「怪我した選手がいただろ、気になってここまで来たんだけど、何もわからなかったよ。大した事なければいいなと思って」
 大勢の側近に囲まれて去っていく冷たい背中を見つめながら、介三郎は何か引っ掛かるように何度か口の中でそう繰り返した。
 その横顔を見上げ、綾は静かに皆の方へ促すように視線を伏せた。
「お前は本当に、困った奴だな」


 景甫は、機械室から貴妃の側近に何かが打ち込まれた瞬間立ち上がり、そのまま機械室のある方へとゆっくり移動していた。何かに囚われているようだ。
 佐久間と渋谷は、無言でその背中に従っていく。
 景甫は、まるで何かに引き寄せられるように通路を歩いていたが、その前に桜が立ち塞がった。
 立ち止まった景甫が、その姿を冷たく見据えた。
「君か・・・。君に用はないよ。それとも、君の主から何か言付かっているのかい」
 その視線を真正面に受けながら、桜は制服の腕を捲くり、両腕の籠手を軽く打ち重ねる。攻撃的なその仕草に、呼応した佐久間を抑えて、渋谷が一歩前に踏み出した。
 しかし、打ち合いにはならなかった。
「あるわけないだろ、玄武帝。貴妃や不破公とツルんでるヤツに、何を言うんだ」
 桜の後ろから姿を現した藤也が、低く冷たい声で答えた。
 景甫の表情が緩んだ。
「やはり、鷹千穂の者だったね」
 小柄で美しいその容姿を、景甫は苦笑で見つめた。いつか面と向かって自分を諫めた女装の美少年は、あの時と変わらず真っすぐ自分を見つめ返してくる。
 藤也は辟易しながらも、視線を外すことなく唸るように続けた。
「お前、あの二人と手を組んで、咲久耶を荒らすつもりなのか」
「さぁ、その件については答えられないよ。ま、そうだと言えば、君はどうするつもりだい」
 不似合いなほどの軽い口調で景甫が問い返すが、藤也は不機嫌この上ない。
「信じないだろうが、玄武帝。俺は真っ当な一般生徒だぞ。質問する相手を間違えてるだろ」
「そうかい。まぁ、いい。君の学園が勝ったおかげで、儲けさせてもらったよ」
「悪趣味だな。悪いのは、女の趣味だけじゃないのか」
 あまりに明け透けな物言いに、佐久間は少々景甫の反応を心配し、傍の渋谷は肩を揺らして笑った。
「これは、してやられましたな、玄武帝」


 駐車場。赤いコルベットの傍で、万里子は飛水を待っていた。
「どうなさったんですか、お嬢さん。あまりお好きではないこの車に、乗って帰りますか」
「先程、常磐井に言っていた事は本当ですか。お父様が約束されたのですか」
 明らかに万里子の表情は安堵を通り越して放心に近い。よほどあの男を嫌っているのだろう。
 飛水は苦笑交じりに女主人を見つめると、咳払い気味に呟いた。
「なんて顔をしてるんですか、お嬢さん。相手は常磐井ですよ。あの親子が、約束を守ると思ってるんですか」
「飛水」
「何度も煮え湯を飲まされているのを、忘れたわけではないでしょう」
 笑っている飛水の左頬の傷が、少し引きつる。
「個人的には、常磐井の存在も良いかと思いますよ。お嬢さんには、多少怖いものがある方が、抑止力になるでしょ」
「飛水は意地悪ね」
「お嬢さんほどじゃありませんよ。もちろん、約束がある以上は、力ずくでも従わせる気ではありますがね。しかし、ここで拳銃が出てくるとは思いませんでしたね。アレの出所が気がかりです」
 以前、鷹千穂学園の生徒が関わっていた改造拳銃があった。中でも試作品と呼ばれるものの元となった精巧な改造拳銃。それについては、鷹沢も真行寺も突き止めることはできなかった。
「同じものなのですか」
「遠目でしたので、はっきりとは言えません。回収できれば良かったのでしょうが」
 追いきれなかった。
「もし、貴妃が関わっているのであれば、常磐井も――と考えるのが妥当でしょうね」
「そうでしょうね」
 万里子の深刻さを軽く流して、飛水はコルベットに乗り込んだ。
「一先ずは、親父さんの賭けが勝ったということで良しとしましょう。お嬢さん」
 コルベットのエンジン音が響く。
 万里子は少し思案顔で飛水を見たが、一つ大きく息をついていつもの微笑を浮かべると、助手席に乗り込んだ。


「御前が動くぞ」
 鷹沢邸の一室、鷹沢士音は報告書を片手に表情を強張らせた。
「三家が、自分たちの所有する会社の損失を、鷹沢に補填させるよう御前に進言した。早晩、命が下るだろう。これで鷹沢の力が大きく削がれることになるだろう」
「三家の業績が下がっているのは、三家の経営力に問題があるのです。それを無視して、単純に鷹沢の財力を三家に分散させることは、何の効力もありません。御前傘下の企業にとっても、鷹沢の力が削がれることは大きな損失にしかならないと考えますが」
 中津の答えを至極当然という顔で受け止めながらも、士音は首を横に振ることしかできなかった。
「本当の狙いは、そこにはない」
 先日、何の前触れもなく三家がこの屋敷を訪れたのは、ある意図を持っているからである。
「三家は元より、御前の後継の座を得ることしか考えていない。三家のうちの誰かが『後継者』に選ばれれば、御前の所有する力はおろか、この鷹沢までも掌握できると考えている。その為に『必要』であり『邪魔』なものが、あの小さな姫君だ。あの子を掌中に『収める』か、もしくは『消す』か。常に三家は、その狭間で蠢いている」
「では、姫様を御前の元に戻す布石・・・ということでしょうか」
「そうだ。その為に、お前ならどうする」
 年端もいかない少女一人を、どうすれば意のままに動かすことができるか・・・。まずは、できるだけ傍に置く――。その為に、目障りな者は排除する――。
 一番、目障りな者・・・。
「まずは、姫様よりお嬢様を引き離します」
「だろうな。私が彼らでも、まずそうする。そしてそれをする為に、鷹沢の力を削がなければならない。その為には御前を動かす。どんな理由を使ってもだ」
 士音の脳裏には、今でもあの時の光景が焼きついている。
 場違いな落胆と喧騒が満ちる部屋の隅で、生まれて間もない小さな赤子を抱き上げている我が子がいた。
「もしあの小さな子を御前の元に返せば、今度こそ命がないだろう」
 士音の表情が苦悶に歪む。
 大切な娘が、その身を削るようにして守ろうとしている小さな命。その命を脅かすものが何であるのか、はっきりと分かっていて尚も、危険が付きまとう状況を拭えない現実が突きつけられる。
「姫様が命を狙われていることを、御前にお伝えしては如何でしょう。そうすれば、姫様を傍に置きたいとは思われないのでは」
 この屋敷に引き取る前、彼女は何度も命を狙われていた。『影』の働きで、未然に防ぐことができたが、彼女の身に起きたことはすべて、御前に知らせてはいない。
「知れば、尚更あの幼い子を囲い込んでしまい、却って危険にさらすだろう。御前にとって、あの子は溺愛していた末娘の忘れ形見だ。そして三家はご自分の身内。その三家が、まさかあの子の命を狙っているとは思わないだろう」
 それ程に、感情の制御が取れなくなるのだ。名家に生まれ、政財界に名を知られ、莫大な富と権力を握る男が。
 『御前』にとっては、鷹沢こそが――、鷹沢士音こそが憎むべき対象なのだ。
 もう一人の後継者とみなしていた娘を奪った男。代々『影』を担う家柄の頭領が、主家の娘を娶った。この許しがたい現実を、娘の懇願により了承せざるを得なかった反動が、残った末娘への溺愛に繋がった。
 だが、親の想いとは裏腹に、この末娘も親の意に添わない男の元へ走った。探し出して引き離し、何とか連れ戻した時には身籠っていた。
「どうされるのですか、旦那様。鷹沢については、『影』がおります。たとえ今回どれほどの力を削がれようと、時間が経てば回復するでしょう。ただ姫様については、お嬢様から引き離されれば、守ることが難しくなります」
 御前の元にも、三家にも『影』は仕えている。しかし、それらすべてを中津が掌握しきれているワケではない。中には『影』の主である鷹沢を良く思わない者がいることは分かっていた。その者たちが、三家の意向に従って動けば、どうなるか。
「綾の傍に置いておければ良いが、それができない時は・・・」
 苦渋の決断を迫られることになるだろう。
「中津、とにかくあの子らを守る為の備えを、お前に頼む」


 灯りを落とした部屋の隅、ソファに寄りかかりながら爪を気にしている貴妃に、膝をついて報告する側近の声が低く脅えていた。ソファの後ろに並ぶ者たちは、一様に無表情で控えている。
 機械室で倒された正田と空手部の部員は、今頃どこかで制裁を受けているだろう。柏木はその持っていたものと一緒に、常磐井の側近が連れて行った。どうなったかは知らない。足を撃たれた阿久津も同様だ。
 貴妃はそれらの報告を聞きながら、ジッと一点を見つめている。
 正面に座っていた真行寺万里子。それを取り囲むように香取省吾たち番長連合の者たち。だが、何より不愉快だったのは、どこか見えない所から見透かされるような幾つもの視線だった。
 何かが、邪魔をしている。その一端を、貴妃は極身近で感じていた。
「貴妃様、水木の始末はいかがなさいますか」
 側近の声が恐る恐る窺うように問う。
 常に貴妃の言いなりであった男が、まるで用を成さない。何か、歯車が壊れかけているような気がする。
 それが貴妃にも感じられるのか、それともまるで意に介さず単純に不愉快なだけなのかは、側近には分からなかった。
「水木は使える程度に制裁を。それで、何かわかったの」
 特に興味もない様子で、貴妃が先を促す。
「はい。どうやら女がいるようです。鷹千穂の者のようです。しかも『魔女』に繋がる者かと――。水木は頑なに口を閉ざしておりますので、はっきりとは言い切れませんが、正田たちがやられた状況から見ても、監視につけていた者からの報告にも、鷹千穂に『魔女』がいるのは確かなようです」
「そう」
 無言で下がるように命じると、貴妃は傍にあるスタンドの灯りを凝視した。
 虫唾が走った。鋭く研ぎ澄まされた爪が、ソファの布に食い込む。
「女・・・、目障りな女・・・」


「あのね、綾。私がいなければいいなと思ったこと、ある?」
 綾に寄りかかるようにして座り、ホットチョコレートの入ったマグカップをもてあそんでいた少女が、ポツリと呟く。
 紅茶を口に運んでいた綾の手が止まる。広い居間のソファに、寄り添うようにして座っている長い髪の二人を、執事とメイドが見守っている。
 綾は脇に寄り添う奇麗な黒髪を見下ろして、暫く小さな少女の言葉を待った。その小さな手に持っているカップの中のチョコレートに、少女の憂い顔が微かに映る。
 豊かで真っすぐに伸びた長い黒髪と、白い頬、黒曜石を嵌め込んだような瞳は母親譲り。綾が幼い頃、よく遊んでくれた明るくて華やかな女性のものだ。
 綾は、背後に控えている執事の伊集院や、メイドの近江に視線で何かあったのかと問いかけたが、二人は微かに首を横に振るだけである。同様の心配顔で少女を見守っていた。
 先日の記憶は、彼女の中にはないはずだ。
 ただ『三家』に関することすべてを、記憶から消すことはできない。
 この屋敷に引き取って以降は、少女には極力会わせないように計らっているとはいえ、それまでの記憶の中で、この縁者らに対する恐怖心は小さな身体の奥深くまで根付いてしまっている。その名を聞き、気配を感じるだけで身体を硬直させてしまう。
「どうしたのだ。誰かが、何か言っていたのか」
 柔らかい口調の問いかけに、少女は小さく首を横に振った。
「そうではないわ。ただ、もし私がいなければ、綾はもっと『違う』のかと思ったの」
「違う?」
「綾は強いでしょ。でも強くなる為に、守弘や蛍たちと戦っているでしょ」
「――」
「もし私がいなければ、そんなことしなくてもいいのかと思ったの。私がいることで、綾はつらい思いをしてるのかと思う」
「それで?」
「私がいない方が、良かった・・・」
 消え入るようなか細い声になり、少女は黙ってしまった。
 傍で聞いていた伊集院と近江は、黙って主の答えを待った。
 綾は艶やかな黒髪をゆっくりと撫でると、顔を上げた少女に優しく微笑んだ。
「たとえお前がいなかったとしても、私の状況は変わらないだろう。父上には助けが必要なのだ。私以外では務まらないような、な。だから、お前が気に病む必要はない。こうして傍にいればいい」
「綾は、つらくないの?」
「つらいと思ったことはない。お前が元気で大きくなれば、それでいい」
「姫様、お嬢様は本当にそう思っておいでですよ。ですから、もう二度と姫様がいなかったらなどと、おっしゃらないでくださいませ」
 綾の背から、伊集院が付け加えると、近江も少女の脇に膝をついた。
「そうでございますよ、姫様。元気で大きくならないといけません。その為には、お嫌いな野菜もしっかり食べていただかないといけません。お嬢様も、姫様のお手本となるように、野菜嫌いを克服してくださいませ」
 間近で優しく語り掛ける近江の微笑に引き摺られるように、少女は笑った。
「綾も、一緒ね」
「そうだな」
 綾は苦笑で少女に笑うと、近江を見て苦笑した。
「野菜が嫌いでも、ちゃんと育つぞ。近江」
 その言葉に、近江が頬を膨らませて叱るよう反論し、綾と少女は顔を見合わせて肩をすくめると、楽しそうにカップの飲み物を飲み干した。


                           完

シューティング・ハート 紅の貴婦人

シューティング・ハート 紅の貴婦人

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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