小夜嵐に鵺が鳴く
足元にじわりと広がる朱《しゅ》に一つの終わりを悟った。何度も願ったその時がようやく俺にも訪れたのだ――と。
指先を伝ってまた一つ。
滴《したた》る雫は熱く紅く、ただひたすらにとめどなく。
やがて赤黒く変化して、どろりと澱《よど》む窪《くぼ》溜り。
人の死とは、かくも穏やかで優しいものだったかと知る。
どうか、どうか――このまま緩《ゆる》やかに全身を巡る熱を奪って欲しい。
もう目を開けたくないんだ。
ここにはもう……。
いたくない…。
1.白い部屋
早朝、若い女が一人死んだと聞いた――。
詳しいことは知らない。どうせ聞いたところで分からない。
ただ、こんなことは玉蟾山ではそう珍しいことではなかった。
正式名称は玉蟾山・龍光院瑞石寺。あまりに長くて言いづらいので、世間では『玉蟾山』とだけ呼ばれている。文字どおり、寺の所有する山全体に数々の関連建造物が点在する巨大寺院だ。
「シャオ、検査の時間だよ」
日が暮れて、本院の夕諷経が流れてくると、いつもこうして迎えがやってきて、俺は『施薬院』と呼ばれる建物の別棟にある真っ白な部屋へと連れていかれる。そこで簡単な身体と体力の検査を受け、最後には細い注射器一本分の血を抜き取られる。
これは一体何の検査なのかと以前何度か尋ねたことがあるが、もうやめた。訊いたところでまともな返事なんか戻ってこないからだ。
単なる健康診断だとか発育調査だとか――そんな理由のはずはない。その証拠に、ここにいる数十名の子どもたちの中で、こんな扱いを受けているのは俺一人だけなのだから。
そして、どういうわけか、俺にそんなふうに答えてくる大人たちは皆例外なく緊張している。
緊張――?
いや、違う。あれは怯えているんだ。何でもないふりをしているが、全身が奇妙に硬直しているのが分かる。
「シャオはとりわけ体が弱いからね、我々は君のことを心配しているんだよ…?」
別に弱くない。人並みだと思う。いい加減な奴らだ。
この寺には、十五歳ぐらいまでの子どもばかりを集めた『碧落院』という施設がある。下の村々で時折起こる小競り合いや戦争などで親を失った子どもが、自立できる年齢になるまでの間、寺が積極的に引き取っているのだ。
俺も、物心ついてからというものずっとここで暮らしている。
記憶に残る親はいない。いない理由もよく分からない。きっと他の子どもたち同様、戦争孤児か捨て子なのだろうと思う。
ここで当たり前に呼ばれる『シャオ』という名――これだって本当に自分の名前なのか分からない。いつだったか、シャオというのはこの国の古語で『小さい』とか『幼い』とかいう意味だと聞いた。だが、日々成長してゆく子どもに対し、果たして親がそんな名前を与えるだろうか…?
本当は、ここに軟禁されているのかもしれない――。
心身の成長とともに知識や知恵が多少身についてくると、自然と俺はそう考えるようになっていった。
とはいえ、俺は――もちろん碧落院で一緒に暮らしている他の子どもたちも――四六時中閉じ込められているわけではない。朝の『勤めの時間』以外なら、比較的何をしていても文句など言われない。但し、この寺の敷地から外へ出ることは固く禁じられている。
実は何度か脱走を試みたことがあるが、山の中腹にある石門を乗り越えただけで、どこからか追手がぞろぞろとやってきて包囲されてしまった。そんな経験も一度や二度ではない。
お陰でここ数年は、俺にだけ見張りらしきものがつけられたようだ。ちゃんと見たことはないが、どこかでいつも俺を見ている何者かが確実にいる。姿はなくとも気配だけは微かながらに感じられるのだ。
しかし、一体何をそう警戒しているのか分からない。身寄りのない数十名の子どもの一人がいなくなるってだけのことが、そんなに問題なのだろうか?
午前中の『勤めの時間』は、読み書きを覚えたり心身の鍛錬を行う時間だ。どちらも、およそ十名程度の子どもにつき一人か二人の大人がついて丁寧に指導を施す。指導の内容は日によって異なるが、どれも年齢別に発展的な内容が組まれていて、学問でも体術でも、子どもたちが無理なく身に付けられるよう工夫されている。山の下の村に住む子どもたちよりも、もしかしたらこの点については恵まれているのではないかと思うほどだ。
「…ねえねえ、シャオはどっちだと思う?」
隣で瑠華(るか)が囁いている。
「こっちの字とこっちの字、どっちが合ってる?」
差し出された誌面には、
――フクシュウ。
その横に薄く彼女の下手くそな字で、
『復習』
『腹習』
二とおりの熟語が書かれていた。
無言で正解の方に印をつけてやると、瑠華は頬を少し赤らめて笑った。
「やっぱり『復習』かあ…。良かったあー。えへへー」
「……」
つか、腹で習ってどうする。
「さっきの試験ですっごく迷ったんだ。でもちゃんと合ってたよー」
そう言ってまた笑う。
俺より四つも年上のくせに、瑠華はちょっと抜けている。
…というか彼女に限らず、ここの奴らはなぜかそういうのが多い。文字でも計算でも、至極簡単で些細なことがなかなか覚えられない。だから同じことを何度も聞かされなきゃならないし、繰り返し同じ練習もさせられる。集団の指導だから、俺も含めて一緒に勉強をしている者全員が一斉に同じことをさせられるわけだ。
(やれやれ…)
退屈のあまり、俺は窓の外ばかり眺めていた。他にすることがないのだ。
なのに――。
「では、この問題が終わった者から終了とする。だが、シャオは少しここに残りなさい」
+ + + + + +
「ね、さっきの何だったの?先生、何だって??」
やっと解放されて部屋を出たところで今度は瑠華に捕まった。
「ああ…なんか……。来月から上の組に変わるか、って」
「ええー!?この間こっちに来たばっかじゃない!」
「うん、そうなんだけど…」
「だって、まだ半年も経ってないぜ!?」
一緒に待っていた北斗(ほくと)も目を丸くしている。彼も俺より年上――瑠華よりも一つ下の十三歳だ。今いる組は、十二歳から十四歳ぐらいの少年少女で構成されている。
「でも、どうしてなのかな。シャオだけこんなに早く進級なんて…」
どことなくしんみりとした素振りの瑠華だ。
どうしてって、理由なんか分かってる。この組の学習内容には、もはや俺が習得すべきものがないからだ。だが、ここで馬鹿正直にそれを口にするのは気が引ける。彼らの目に俺が嫌味に映ったり生意気に見えてしまうのは困る。
「いつもちゃんと話を聞いてないから…かな…」
「いや、できるからだよ。シャオ、賢いもんな」
「で、上の組に…行くの?」
「うーん…」
授業時間中の暇っぷりを思えば、確かにそのほうが良いのかもしれないが…。
「あっちに行けば、また知らない奴ばっかになるだろ。今度は人数もずいぶん少ないし」
「そっか…」
「うん…それはそうよね。私だったらやだなあ…」
もう一つ上の組に行くということは、また同じ組の連中と年齢が離れるということだ。齢が上の奴は、自分たちと同じことができる下の者を基本的に敬遠する。例えこちらが目立たないように振る舞っていても何かと気にされてしまうし、そうなると何をしてもいけ好かない奴と受けとられて除け者にされてしまう。これまでだって、そんなことは嫌になるほど経験してきた。
大体、この二人ともやっとの思いで親しくなったというのに――。
「あ!そういえばさ、また一人亡くなったんだって。女の人だって。なんかこの頃多いよねえ…」
唐突に北斗が言った。今朝方、噂になっていたあの話だ。
「ああ、施薬院の?」
「そう、あそこの離れに入ってた人なんだって」
あまり気味よい話でもなかったので最初は殆ど聞いちゃいなかったが、施薬院の離れといえば、例の真っ白な部屋がある建物のことだ。
「うん、あそこには病気でもう長くない人がたくさん集められてるって話だよ。俺、偶然遺体を運び出すとこ見ちゃってさあ…」
「え!?あそこ近付いたら駄目なところじゃなかった??」
「あ…まあ、そうなんだけどさ…。あの裏山、クワガタいっぱいいるんだよな…」
「わーるいんだぁー」
「おま…っ、先生に言うなよ!?」
「えー。どーしよーかなぁー?へへへー」
――病気で長くない人。
その言葉にどきりとして口を噤んだ。
入院しているわけではないが、俺も毎日あそこへは行っている。あそこで延々と胸糞の悪い検査を受け続けている。
ということは、ひょっとすると…。
思わず、俺も――とまで言いかけてやめた。
彼らは何も知らない。そもそも俺自身、自分がそんな大病を患っているとは知らされていない。
しかし、あの離れが本当に終末期患者のための施設というなら、まずはそれが事実かどうかを確かめるべきだと思った。それが確認できたなら、あの毎日の検査のことも姿の見えない見張りのことも納得がいく。それに…白い部屋の大人たちがいつも怯えている理由も分かるかもしれない。
でも、どうして俺は入院もせずに普通に暮らしていられるのかな…。
+ + + + + +
「さ、検査の時間だよ。おいで、シャオ」
今日もきっかり七時に迎えがやってきた。
諷経の声が風に乗って漂う中、俺は背の高い若い男に連れられて碧落院を出た。ふと見上げると、今日の迎えはいつもとは別の見たことのない男だった。
「――いつもの人は?」
そう尋ねると、男は苦く笑った。
「ああ、今日から担当が替わったんだ。僕じゃ嫌かい?」
男は俺の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。こんなふうに俺に接してくる大人は初めてだ。正直、少し驚いた。
「ううん…」
首を横に振ると、
「そっか――なら、良かった。これからよろしくな、シャオ。僕は華瑞。最近よその国からここへ来たばかりでね、分からないことだらけなんだ。良かったらここのこと、色々と教えてくれないか?」
照れたように微笑む華瑞という男は、とても優しそうだった。こんな温かな大人の顔を俺は知らない。皆、俺と話すときはどこか怯えたように顔を引き攣らせていたからだ。
それから華瑞は、施薬院に着くまでの十数分の間にたくさんの話を聞かせてくれた。ここに来た最初の日に寺の山門の場所が分からず二時間近くも迷子になってしまったこと、以前いた国では心理学の研究に長く携わっていたこと、実は祖国に俺よりも小さな息子を二人も残してきたということ、そして――。
「さあ、着いた。明日はシャオの話を聞かせて欲しいな。どんな話でもいいからさ」
「え…?俺の…??でも…」
これには本当に驚いた。俺の握力や肺活量を知りたがる大人ならいても、俺の話を聞きたがる大人なんか見たことがなかったからだ。
突然のことに戸惑っていると、華瑞は再び人懐っこい笑顔を見せた。
「何だっていいんだ。勉強の話でも友達の話でも…。もちろん好きな女の子の話でも構わないよ?」
「……っ!!」
「はは、冗談、冗談!でも、君のことをもっとよく知りたいんだ。今日から僕らは友達になろう」
そう言って、華瑞は白い部屋の扉を開けた。中にいたのはいつもと同じ顔触れの医者数名とその助手だ。なんだ――と、がっかりした拍子にふと思った。
(俺…華瑞って人と話して楽しかったんだな…。こいつらと同じ大人なのに…)
華瑞はどうも助手の一人であるらしかった。
たびたび医者に指示を仰いでは、てきぱきと器械の準備をしたり薬を運んだりしている。でも、白い部屋の中の華瑞は終始忙しく動き回っていて、まったく笑顔を見せなかった。それどころか目も殆ど合わない。いや、ひょっとすると合わせないようにしていたのかもしれない。
やがて検査が始まり、俺は素直に大人の言葉に従う。最初は身長、体重、視力、聴力ときて握力、背筋力に肺活量、柔軟性等…と、続くのがお決まりの流れだ。その次は、体中に電極を繋がれて中庭を何周か走って――少しの休憩の後、血液を抜かれて終わり。なんらいつもと変わらない。
採血中、ふと視線を感じて目を向けると、華瑞が作業の手を止めて呆然とこちらを見ていた。ひどく悲しそうな残念そうな…何とも言いようのない複雑な表情に、俺は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。こんな姿は見られたくない――なぜか強くそう思った。
碧落院へ戻る道すがら、華瑞は思いつめたように立ち止まり、いきなり俺の左の袖をめくり上げた。
「かわいそうに…。こんなにされて…」
袖があるお陰で普段は見えはしないが、毎日針を刺されている腕の内側には青黒く変色している箇所がいくつかある。
華瑞は、まだ赤く血の跡の残る部分をそっとさすった。
痛みなんかほんの一瞬で殆どないし、血だって少し出るだけですぐ止まる。別に平気だ。こんなのはなんでもない。
なのに…。
「君はこんなに普通の子…なのにな…」
ぽつりと漏れ聞こえた言葉に、独りでに涙がこぼれた。
泣きたいわけじゃないのに、どうして…?
「……」
慌てて腕を振り払い、瞼をごしごしと擦った。
「シャオ…」
伸ばされた温かな手が頬に触れるその前に、俺は彼から逃げ出していた。
(なぜ…?どうしてこんなに――!)
胸の中が激しく掻き乱される。
頭の中がめちゃくちゃに混乱している。
とにかく今は、それが怖くて仕方がなかった。
こんな気持ちは初めてだった…。
2.魔窟
華瑞は、昨夜の俺の態度をどう思っているのだろう?
ずいぶん失礼な奴だと――なんて不躾で、なんて可愛げのない子どもだと思ったのではないだろうか…?
本当はあの時、自分の体のことを訊いてみたかった。
もしかしたら俺は、重い病にかかっているのではないかということ。
実は俺の命は、もうあまり長くないのではないかということ。
あの人になら訊けると思った。
あの人なら、ちゃんと話をしてくれると思ったのに…。
ああ、もうすぐ勤めの時間が始まる――。
(こんなんじゃとても勉強なんか…。身が入らないや)
その日、俺はこっそりと碧落院を抜け出した。裏手から薄暗い山中へ分け入る。
麗らかに晴れた朝だった。木々の梢を透かして降り注いだ陽光が、下草の緑をまばらに煌めかせている。
今からでは、もう完璧に授業には間に合わない。かさかさと足元の草葉を踏みながら、俺はどこで時間を潰そうかと思案していた。できるだけ人のいない場所がいいと思った。
(久しぶりに西の岩場へ行ってみようかな…)
そこには、ほんの少し崖を下るだけで降り立つことのできる狭い岩棚が突き出ていて、その奥には、細い裂け目のような洞門がひっそりと口を開けている。崖からの見晴らしは文句なく良いし、雨風を凌げる場所もあるし――そもそもこんな絶壁になんか誰も来ない。一人きりになるには絶好の場所だ。
但し、こういうひと気のない場所へ来れば、例の見張りの気配が俄然濃くなる。碧落院にいるときや、大勢の人間に囲まれているときは殆ど消えてしまう彼(彼女かもしれないが)の気配は、俺が一人になるときには、それこそ肌でびりびりと感じられるほど鋭く強くなるのだ。それだけ警戒しているということだろう。
これまで雨宿りにしか使ったことのないあの洞窟に、今日こそは足を踏み入れてみようと思っていた。あの細い入口は、どう頑張っても子どもぐらいしか入れない。それもせいぜい俺ぐらいの体格が限界だと思う。
つまり、例の見張りには入れないはずなのだ。
昨日の一件からずっと心の中にもやもやが居座っている。
今まで知らなくても良かったことを今すぐ全部知りたいと思う気持ちが突然湧いて、うずうずと体の底で焦れている感じだ。それは多分、俺がずっと昔に諦めてしまったもの――。それが、あの華瑞とかいう異国の人間と出会って一度に蘇ってしまった…。
そして、もう一つ。
俺はあの時――華瑞のもとから逃げ出してしまったあの時、本当はあの男に甘えたかったんだと思う…。
あのままじっとしていたら、きっと華瑞は俺のことを抱き締めてくれただろう。でも、そうしたら今までの俺は壊れてしまう。これまで決して大人たちに心を許さず、必死に頑なに自分ただ一人を匿い続けてきたこの俺の心は、一瞬で脆く崩れ落ちてしまうだろう――そんな気がしたんだ。
あいつらは味方じゃない。
大人は本当の俺を見てはくれない。
(でも華瑞は…。俺の話を聞きたいって…そう言ってくれた…)
そんなことを考えるとまた頭の中がおかしくなる。頭の中が熱くなって、むしゃくしゃして――この手にあるものを全部放り投げて逃げてしまいたくなる。
(とにかく一人になりたい…。何も考えずに…一人でいたい)
無性にそう思った。
岩場に蹲った俺を今も見ている誰か――一体どこから見ているのか…。ちりちりと焦げ付くほどに注がれる視線を感じる。
意を決して立ち上がり、俺は洞窟へ向かった。
途端に入り乱れる気配――。
(焦っているな。でも…見張り役は一人じゃないのかも…?)
しかし、こんな子ども一人に複数の見張り――尋常とは思えない。そこまで俺に執着する理由は何なんだ…?
急に恐ろしくなった俺は、慌てて裂け目に滑り込んだ。
視界が一転、深い闇に包まれる。まだ入ったばかりなのに、入口が狭いせいか中は殆ど光の差さない漆黒の空間だった。
すかさず、懐に忍ばせてきた蝋燭に火を点す。
ひんやりとした岩肌が炎にちらちら揺れている。一歩踏み出すごとに自分の足音が妙に大きく耳に響いて、真っ暗な洞窟の天井へと吸い込まれてゆく。不思議と暗闇に恐怖は感じなかった。
それよりも、今頃表で地団駄を踏んでいるであろう見張り役のことが、俺は気掛かりでならなかった。
以前この寺から脱走しようとしたときは、この見張り役があっという間にそこら中の僧侶を掻き集めてきてしまった。でも今思えばこれも納得がいく。彼らがこんなふうに複数いたのであれば、きっと造作のないことだったろう。
恐らくまたあの時と同じように、この俺を捕えるべく人員集めに奔走しているはずだ。しかしいくら人を集めたところで、子どもがやっと入れる僅かな隙間を彼らはどうやって越えてくるのだろう。
灯りを頼りに更に奥へと進む。
外から見るよりもずいぶん深そうだ。それに広くて肌寒い。
天井から滲み出た水が、吊り下がった剣のような岩の先からぽたり、ぽたりと滴っている。雫は、下から突き出た奇妙な岩の杭をぬらりとなぞって流れ、辺りをぎらぎらと濡らしていた。上下のそれらがつながって一本の柱になっているところや、それらがびっしりと並んで一面の壁と化している場所もあった。地上とは全く異なる幻想的な世界だ。
次々に照らし出される夢のような光景に見とれつつ進んでゆくと、突然前方の様子が変わった。開けた場所に出たようだ。
蝋燭の灯を向けると――。
「わあ…!」
ため息が漏れる。
吹き抜けのがらんどうに、巨大な棚田のようなものが広がっていた。
近くに寄ってよく目を凝らすと、階段状に並んだ白い畦が壁を駆け上がって幾重にも重なっており、畦の内側にはどれも透明の水がいっぱいに湛えられていた。あたかも鏡のように磨かれたその水面は闇に溶け込み、音もなくひっそりと静まり返っている。そこへそっと炎をかざせば、器の底に光の影がゆらゆらと漂うのが見えた。そうして時折、天井からの雫がその鏡面を乱して緩やかな波紋をさざめかせる――と、まるで辺りの空気まで反応して一緒に揺らめいているように感じられた。
水と空気と空間とが、見事に一体を成して人知れず厳かに鎮座している――そんな圧倒的な存在の中へ、いきなり自分ただ一人が呑み込まれてしまったかのような…。
軽い眩暈を覚えるほど不思議な錯覚に誘われるまま、俺は暫し呆然とその場に立ち尽くすのだった。このひとときだけは本当に、頭の中の何もかもが消し飛んでしまっていた。
しかし、そこに隙ができたのだ。
背後から忍び寄る気配を、この時俺はまったく感知していなかった。そう、例の見張りがすぐ傍に――驚いたことにそれは、これまでにないほどすぐ近くに迫っていた。俺が気付いた時には、既にぴったりと寄り添うほどの距離にそいつはいたんだ。
「!!」
驚いた拍子に持っていた蝋燭を取り落すと、あっという間に夢の世界は深い闇の底に沈んだ。
何も見えない…。
途端に押し寄せてきた恐怖が俺の体を支配する。
足が竦んで動けない。
怖くて声も出ない。
胸が…。
ひと際大きく騒ぎ始めた鼓動が痛い――!
気配の主から伸ばされた手が、俺の手首に触れたその時だった。突然全身の戒めが一気に解けた。
「きゃああああ――!」
即座にその手を振りほどき、俺は狂ったように悲鳴を上げて逃げ出した。どこを向いているのかも前方に何があるのかもまったく見えないのに、ただ空を闇雲に掻き、掴まれるものを探す。
何も見えないのは相手も同じらしかった。
手の届く距離に俺がいるはずなのにそれができずにいたからだ。いくら視界を欲していても、あちらだって迂闊に灯りなど点けられない。そんなことをすれば俺に位置を知られることになるし、そうなればはっきりと姿を目撃されることになる。何故だか分からないが、これまで頑なに姿を見せようとしなかったこの人物が、結局そこを妥協することはなかった。
手探りでようやく壁を見つけた俺は、あたふたと岩肌を伝い気配から少しでも距離を取ろうとしていた。
(逃げなきゃ!早く、逃げなきゃ…!)
とにかくそのことで頭の中がいっぱいだった。
と――。
「あ…!」
不意に俺は何かに蹴躓き足を取られてしまった。しかし、転倒した先には、どうやら縦穴が口を開けていたらしい。重力に抵抗する間もなく、俺はもんどり打って穴の中へと滑り落ちた。
さほど大きくもないらしい穴の内側は、ところどころに突き出た部分があり、俺は何度も体のあちこちを打ち付けながら、ごろごろとどこまでも転げ落ちてゆく。それでも、どうにか落下を食い止めようと必死になって手を伸ばしてみるが、濡れた石で手が滑ってうまく掴むことができない。だが、そうしてもがけばまたそこへせり出た岩がぶつかり、そのあまりの痛みに俺は再び悲鳴を上げるのだった。
もうどれほど落ちたのか分からない。どこかに引っかかっては岩が崩れ、何かを掴み損ねてはまた滑る。そんなことを繰り返すうちに、いつしか痛みを感じなくなった。頭にはぼおっと熱を帯び、口の中では鉄の味が充満していた。それでももう何も感じない。
ただ何となく…。
(ああ、俺は死ぬんだな…)
そんなことを考えていた。
ほんの十年の命――その短さを恨む気も嘆く気もなかった。どうせ何もない人生だった。一つところに囚われの、まるで籠の中の鳥のような俺だった。悲しむ者もない…。
そのまま落ちるに身を任せていると、次第に意識が遠のいていった。その後のことは覚えていない…。
+ + + + + +
あれからどれほど経ったのか――。
ふと目を開けると、ぼやけた視界にごつごつとした岩の天井がゆっくりと炙り出されてくる。
どうやら俺はまだ生きている。
しかもまだあの洞窟の中にいるらしい――というか、いるにはいるらしいが、ここはどうしてこんなに明るいのだろう…?
不思議に思いつつ体を起こそうとした途端、体中がぎゅっと強張った。激痛が雷のように全身を駆け巡る。
「…っ!!」
声さえ出ない痛みに顔が歪む。すると、独りでに涙がこぼれた。こんなことなら目なんか開かないほうがよかった。あのまま死んでしまえばよかったのに――。
「だいぶ痛むか…?」
掛けられた声に聞き覚えはない。
恐る恐る目を向けると、薄汚れた毛布に身を包んだ人物が横から俺を覗き込んでいた。声から判断して多分男だろうと思う。なぜそんなふうに思うのかと言えば、ほとんど顔が見えないからだ。胸の前で固く合わせた毛布から僅かに覗く右目は丸く大きく見開かれてはいたが、その顔全体が包帯でぐるぐる巻きになっていて、表情さえ分からない。
俺は寝台の敷布の上に寝かされていた。
「ここは…どこ…?」
そう尋ねると、
「…びょうの中だよ」
『びょう』――?
『びょう』って何だ??
わけが分からず黙り込むと、毛布から伸びてきたひどく細い手が頬に冷たい手拭いを宛がってくれた。
「少しでも…腫れがひけばいいが」
毛布の男はそう言って額や首を優しく拭ってくれた。布が擦れるたびに、ぴりぴりとした痛みを感じたが、それでもひんやりとした手拭いの感覚はとても心地よく感じられた。
「君はね、突然あそこから転げ落ちてきたんだ。皆、本当にびっくりしたんだよ」
男の指した岩の天井に丸い穴が開いている。そしてそこには金網が嵌め込まれていたらしく、すっかり拉げてしまった薄い鉄の網がその下に立て掛けられていた。どうやらここは、例の洞窟の一部に人の手を入れて改装された場所のようだ。
何とか目だけを動かして見渡すと、この男と同じように毛布ですっぽり全身を隠した人物が、部屋のあちこちにじっと蹲っているのが分かった。壁際にいくつか設えられた寝台も見える。
「皆で…ここに住んでるの…?」
男は頷いた。
「ああ、そうだ。もうずっと、ここに…ね。そうだ、少し水を飲むか?口の中が血だらけで気持ち悪いだろう?」
男は、右腕だけで器用に俺の体を抱き起して壁に凭れさせると、空の器を手に部屋の隅へと向かった。見れば、壁から染み出た水がちょろちょろと流れる箇所がある。その水を汲み取ると、男は俺の口元にその器を運んだ。
「傷に沁みるかもしれないが、少しずつでいいから飲みなさい」
気遣わしげに唇に流し込まれた水は、ひんやりと冷たくておいしかった。何度か喉を鳴らして水を飲み、俺は深いため息をついた。
何となく男の右目がほっと微笑んだような気がした。
その時俺は気付いた――この男の左腕が失われていることに。少しばかりはだけた毛布の内側にちらりと覗いた左の袖は、だらりと布が下がっているだけでその中には何もない。
「おじさん…左手ないの?」
そう口にした途端、男ははっと目の色を変え、素早く毛布の端を合わせた。放り出された器が乾いた音を立てて床に転がる。
思わず俺はびくりと小さく肩を揺らした。
「あ…ああ、驚かせてごめん…。そうなんだ…腕はこっちしかないんだ」
「どうして…隠してるの…?」
「どうしてって――」
男はおもむろに目線を散らし、言葉を濁した。
まずいことを訊いてしまったか――と思ったがもう遅い。戸惑っていると、
「それは君が…」
細く開いた包帯の隙間で、男の乾いた唇が戦慄いたように見えた。
「君が…あんまり綺麗だから…」
「え…」
何のことを言っているのか、意味がよく分からなかった。
「こんなに醜い自分が、恥ずかしくて…。悔しくて…妬ましくて恨めしくて……堪らなくなるから…!」
そこまで言い終えて、突然男は自分の包まっていた毛布を引き剥がした。今まで隠されていた男の全身が目の前に露わになる。
部分的に黄ばんだ衣服には、どす黒い染みのようなものがいくつも浮いていた。襟元から覗く首筋に貼りついた細かな血管――そのやけに黒っぽい青が、時折生き物のように蠢いて男の全身を小刻みに震わせている。そして、長いズボンの裾からむき出しになった男の右足は赤黒く変色していて、とても人間の肌とは思えぬ異様さを醸し出しているのだった。
「ここにいる者は皆そうだ。皆どこかが欠けている。もう俺たちは一人前の人間じゃないんだ。生まれたときはちゃんと五体満足な体だった…はずなのに…!」
俺を見る男の瞳に、いつしか狂気が宿り始めている。たちまち俺は凍り付いた。
「あ…。ああ……」
呻きのような声を漏らし、俺は震えていた。恐ろしさで、声が思うように言葉にならない。溢れる涙がぼろぼろと頬を伝う。
「皆ここで死んでゆく…!俺ももう長くは生きられない!いろんな部位がどんどん朽ちて崩れて…腐って落ちて…。どんどん…人の形じゃなくなってゆく。こんなはずじゃ…俺たち、ほんとはこんなはずじゃなかった…」
わなわなと声を昂らせ、男はぐっと拳を握った。
気付けば、いつの間にか俺は男の仲間にぐるりと取り囲まれてしまっていた。
彼らを包む毛布が自身の手で次々に剥がされてゆく。
彼らは――。
「!!」
確かに男の言うとおり、体の様々な箇所が欠けていた。
両足が付け根から失われ腕だけで地を這う者。
鼻が中ほどから抉れ前歯がむき出しになっている者。
肘から下の骨が歪み、あり得ない方向に捻じ曲がっている者。
眼球が抜け落ち、ぽっかり穴の開いている者――。
そして、彼らの肌はやはりそれぞれがどこか奇妙に変色していて、どう見ても普通の人間の状態ではなかった。
「っ……!」
男たちがじっと俺を見下ろしている。
どこにも不自由のない体を持つ俺を、無表情に、ただひたすらに見つめている。
ただ、その視線が突き立てる理不尽な憎悪の念が、今にも俺を射殺そうとしているようで――。
一体何を思ったか、鼻のない男がいきなり近寄ってきて俺の腕を掴んだ。
咄嗟に振りほどこうとしたが、体中に打撲を負っているせいでうまく力が入らない。
「や……!!」
とてつもなく怖かった。
逃げたいのに――逃げ出したいのに、体がどこも動かない。
それなのに、全身の震えは一向に止まらない。ぎゅっと縮まった心臓が、胸を突き破らんと暴れている。
その時だった。
「――シャオ!!」
居並ぶ男たちの向こうから、聞き覚えのある声が俺を呼んだ。部屋の片隅にあるたった一つの鉄の扉――その小さな覗き窓が開いている。
「どうして…!なんでこんなところに君が!?」
慌てて鍵を回す音がして、飛び込んできたのは――。
「か…華瑞――」
ほっとした拍子にまた涙がこぼれた。
ところが、何故か男たちは俺の名を耳にしてにわかに色めき立ったのだ。
「シャオ……。シャオ…だって…?」
「こいつが……」
突然男たちが我勝ちに手を伸ばし、俺の服や髪を乱暴に掴んでくる。そして俺は、彼らに揉みくちゃにされながら無理やり寝台から引き摺り下ろされた。
「や…!やめて…!」
転がされた床の上で俺はぎゅっと体を丸めた。今の俺にできる抵抗は、こんなことしかなかった。
「やめろ!その子に触るな!!」
懸命に男らをかき分けて、華瑞がここへ来ようとしているのが見える。しかしその姿は、異形の男たちの陰ですぐに見えなくなってしまった。
「こいつが…シャオか…!」
「いや…だっ…!離……」
最初に出会った包帯の男が俺の髪を掴んで吊り上げる。一瞬、男の瞳がぎらりと煌めいたように思えた。
「ならば、こいつの血を――」
囁いてほくそ笑む。すると、別の男の手が俺の喉元へ伸びて――。
「やめろおおおっ!」
ようやく辿り着いた華瑞が、男の手から俺の体を引き剥がした。その腕に抱きとめられた途端、戦慄く口から独りでに叫び声が上がった。
「きゃあああああああ……!!」
全身から全霊で絞られた声は断末魔の叫びに似て甲高く、俺を抱きかかえた華瑞が部屋を飛び出した後も、自分ですぐに抑えることはできなかった。
すると突然胸がぎゅっと締め付けられるように痛み――。
「…シャオ!?シャオ!どうした!?しっかり……」
浅く喘ぐ吐息の狭間で、華瑞の声が次第に遠ざかってゆく…。
苦しい…。必死に息を吸おうとしてるのに吸えない。指先からじわりと上ってきた痺れが全身へ回り、唇をぶるぶると震わせ始める。
朦朧とする意識の中で、俺はあの男の言葉を思い出していた。
『ならば、こいつの血を――』
あれはどういう意味だったのか…。
(俺の血に何がある――?)
俺はそのまま気を失った。
3.鬼を喰らう子ども
「…こんなことにならないようにと、あれほど………固く申しつけておいたものを…!一体今まで…貴様は……何を…!」
「……」
「たまたま今回は無事…幸いだったが………もしもこんなことが…また……!」
「……」
「謝って済む問題ではない!これは………のだ!!万が一にもまたあれを………なれば……!!」
「……」
「奇し御魂はもう……しれんのだよ!今やあれは………唯一の…」
「……」
「皓魂廟……霹靂はどうした…?」
「……」
「そうか……だな…」
「……」
「あとは任せる…」
+ + + + + +
温い微睡の中で、ひどくしゃがれた男の声を聞いた。どこからか届くその声はどうやら一人ではなく、その上、時に強くなり弱くなり――まるで打ち寄せては返す波の揺らぎのように途切れ途切れに耳に届く。
それらを浴びせられている人物のほうは、声はすれども言葉までは聞き取れない。その声音の細く繊弱な感じから察するに、女であるように思えた。
ため息をついて瞼を開けた先には、真っ白な天井があった。
ここがいつもの――毎日の検査を受けているあの部屋だと気付くのに、さほどの時間は要らなかった。擦り剥いた額と胸と右腕が包帯に包まれている。だが、あちこちに残る体の痛みは、随分ましになったように感じた。
普段は注射器を刺される左の腕に、点滴の針が刺さっている。針に繋がる細い管に沿って目を移すと、寝台の横に吊り下げられた瓶から透明な薬液が滴っているのが見えた。
まるであの洞窟で見た天井の雫みたいだ…。
そのまま暫くぼんやりとしていると、小さく扉の開く音が聞こえた。
入ってきたのは華瑞だった。
「――やあ、シャオ。気が付いたかい?」
華瑞は手にしていた金属製の角盆を俺の枕元に置いた。するとその上に乗せられていたものが小さく音をたて、俺はそこにいつもの注射器が二本乗せられているのを知った。
「胸はもう苦しくない?打ち身がけっこうひどいから、まだ当分はあちこちが痛むと思うけど…」
そう言って華瑞は俺の体を抱き起こし、そっと髪を撫でた。
「また血……採るの…?」
「…ああ」
空になってしまった点滴の針を手早く外し、華瑞は採血の準備をしている。心理学を研究していたと聞いたはずなのに、この時、彼がやけに手慣れた様子なのが気になった。
「俺の血…あそこの人たちにあげるの…?」
「え…?」
駆血用のゴムを巻く手が止まる。
「あの人たちに俺の血をあげると…どうなるの…?」
「違うよ、シャオ。君の血液はこの後検査に回して、君がちゃんと健康でいるかどうか――」
密かに望んでいたささやかな期待は裏切られた。華瑞ならきっと本当のことを話してくれると信じていた。
なのに――。
(結局、華瑞も他の奴らと同じことを言うんだ…)
そう思ったら、ちょっと優しくされたというだけで、いとも簡単に大人を信用していた自分自身に腹が立った。
こいつも同じだ。
大人なんか皆同じなんだ。
そっちがその気なら、今日こそは絶対に本当のことを訊きだしてやる――。
俺は唇を噛み締めた。
「あの人たち、俺の血を欲しがってた」
いっそ今この胸の中にある疑問を、全部ここでこいつにぶつけてやろうと思った。
「俺のじゃなきゃだめなの…!?」
「ちょっと…少し落ち着きなさい、シャオ」
華瑞はずっと困ったような表情を浮かべて笑っている。
きっとまた、何か適当なことを言ってごまかそうとしているのだと思った。
子どもの俺がこんなに生意気な口をきいているのにそれを咎めもせず、大人である華瑞が終始笑顔を絶やさないのがその証拠だ。おまえは何か誤解している、おまえの思ってるようなことじゃない――そうやって笑い飛ばすことで、また俺を欺こうとしているんだ…。
「あの人たち、どうしてあんなところに閉じ込められてるの?」
俺は疑問をぶつけ続けた。胸の中は、信頼を裏切られた怒りでいっぱいだった。
「なんであんな体になってしまったの?あの人たち、前はあんな体じゃなかったって…!!」
突然――。
またも締め付けられるような痛みが走り、俺は胸を押さえた。
ぐらりと崩れかけた体を、血相を変えた華瑞が抱き留める。
「大丈夫か、シャオ!?どうか落ち着いて…!」
「なんで…なんで俺…。俺……!!」
「しゃべらなくていい…もう大丈夫だ。大丈夫だから…」
そうやって優しく俺を宥めながら、華瑞は盆の注射器のうちの一本を片手でそっと取り出した。
「かわいそうに――。怖かったね…」
そうじゃない。そんな言葉が聞きたいんじゃない…!!
さり気なく被せられた布団の陰で注射針が密かに刺されようとしている――。そのことに気付いた俺は、咄嗟にその手を払いのけた。
――ガシャン!
その衝撃で跳ね上がった盆や注射器が、床の上にばら撒かれる。
「皓魂廟ってなに!?」
「シャオ…」
「あの人たちのいたところ!?」
さっきから急に激しさを増した鼓動がずっと胸を叩き続けている。騒ぐ胸を握り締め、俺はじっと華瑞を睨みつけた。
やがて――。
「……ああ、そうだ」
華瑞は、躊躇いがちに口を開いた。
「あそこにいるのは、もうあまり長く生きられない連中だ。彼らは――」
この話には聞き覚えがある。
確か…この施薬院の離れには、病気でもう長くない人がたくさん集められている――と、北斗に聞いた。つまり、もしもあの岩屋の男たちがそうであるなら、あの場所はこの建物のどこかということになる。
「病気…なの?」
「ああ…まあ、そうだな」
ということは…。
やはり、俺も彼らと同じなのか…?
「じゃあ俺は?俺も病気…?」
「いいや、君は違う」
この言葉に少しほっとした。
でもそれなら俺は、どうして毎日ここであんな検査なんか受けているんだ…?
それに、なぜ彼らは俺の血なんか欲しがるんだろう?
「俺の血で…あの人たちは助かるの?」
そう尋ねると、華瑞は首を横に振った。
「それはないだろう。彼らはもう手遅れだからな」
「あの人も――。左腕のないあの人も、自分はもう長くないって言ってた…」
なのにあの時、あの男は俺の名を聞いて確かに――。
「彼なら…さっき死んだよ…」
「!!」
再び胸をずきりと貫く痛みを感じ、俺は胸に当てた手に力を込めた。
「君がここでが眠っている間にね…」
「ど…して?どういうこと?さっきは…あんな――」
どう考えても急すぎる。あの時の男の様子、その言葉――それらを思えば、こんなのはあまりに早すぎる。あの時俺の髪を掴んで吊り上げた手は、決して瀕死の人間のものなんかじゃなかった。
「……」
華瑞は続く言葉を詰まらせていた。
「何でなの!?」
「……」
「どうして!?黙ってないで教えてよ…!」
「……」
喉の奥から、ひゅうひゅうと笛のような音が微かに漏れる。何だかひどく息が苦しい。それでも俺はむきになって渾身の力を絞った。
「華瑞……ッ!!」
すると、少しの沈黙の後――。
「君を襲ったからだ…!!」
華瑞は苛立ちを吐き捨てるように答えた。
「大切な君を…傷つけようとしたからだ!その報いを受けて彼は――いや、あそこにいた者は残らず全員殺された!!」
「こ、殺さ…」
声が震えた。恐ろしかった。施薬院は病気や怪我を負った者を治療するための施設のはずだ。その場所で殺人が行われているなんて…!
「そうだ。でも、どの道あそこに送られたんじゃ時間の問題だ!彼だって、ほんの数か月、命が短くなったにすぎない」
「俺のせい…?」
「それは違う、シャオ!君のせいなんかじゃない…!だけど君は特別なんだ。君は、僕らにとってもっとも貴重な――」
俺が特別?
俺が貴重だって…??
どういうことだ?
『僕ら』って一体誰のことなんだ…?
言ってることが一つも分からない。
大体、そんなはずないじゃないか。
だって俺は――。
「違うよ…俺は。だって、華瑞は俺に…普通の子だって…。そう言ったじゃないか」
俺は、瞼にじわりと涙が溜まり始めるのを感じていた。
「シャオ…。君はね、ここで生まれた子なんだ。他の孤児たちとは違う」
(俺が皆と違う…?)
嘘や欺瞞に満ちたこの場所で、明らかに他の子どもたちと違う扱いを受けていながら、ずっと周りの子どもと同じ振りをしてきた。
本当のことが知りたい、本当のことを教えろと何度も口にしておきながら、これまで無理に信じ込ませられてきたこと――それこそが真実であって欲しいと、どこかで密かに俺は願っていた。
「君はここで生まれて問題なくちゃんと育ってる、たった一人の普通の子どもなんだよ…」
「何なのそれ…。分かんないよ…」
「今まで君は不思議に思わなかったのかい?勉強でも運動でも…何をしても、君は誰よりもずば抜けてよくできただろう?」
皆と違う普通の子ども――こんなおかしな言葉があるのかと思った。
俺だって薄々は気付いていた。俺だけじゃない。きっと瑠華も北斗も――他の奴らも。だからこそ俺は『おまえは皆と同じだ』、『皆と変わらぬ普通の子だ』と…ずっと大人に、そうはっきりと言って欲しかったんだ。
なのに…。
溢れた雫が頬を伝って落ちる。
「体こそまだ小さな子どもだが、君の中にある能力は計り知れない。この調子で発達を続けていけば、ほんの数年と経たないうちにここにいるすべての大人たちをも凌いでしまいかねない。この頃では…特に君の知能に関して、急成長の兆候があるという報告が、碧落院からも上がってきている。大人たちが君と接するのにまるで腫物に触れるような反応を見せるのはそのせいだ」
「……」
「君から発せられる気は、強力かつ完璧すぎる。見える者が見れば、そのあまりの眩しさに目が開いていられないほどだそうだ。その大きさも総合的な均衡も、この世に在りながら、あり得ないぐらい優れすぎている。
恐らくこれは君の生い立ちに起因するものだ。だがいくら同じことを試しても、君のような子はこれまで一人として生まれなかった。それどころか、あの実験で生まれてきた子たちは皆、人の形ですらなかった」
華瑞は深く息をついた。
「ただもぞもぞと蠢くだけの肉塊だ。中には声のようなものを発したり、ばたばたと跳ねて見せるものもあったそうだが、多少強い気を放ちこそすれ、そいつは殆ど身動きさえできない血肉の塊。君のようにまったく人と変わらぬ姿をした者は皆無だった」
恐ろしくて堪らない。怖くて悲しくて、苦しくて――。
でも、そうか…。
やっぱり俺は違うんだ。俺の血も…この身体もこの命さえも…全部何かの実験で造り出されたものだって――そう言うのか…。
「俺は……俺は人間じゃないの…?」
「そうとも言えるし違うとも言える。正確には半分だけ人間だ。ちゃんと人間の腹から生まれてきたんだから」
また一筋、もう一筋――次々に涙が伝った。
体の震えが止まらない。
息が苦しい…。
「シャオ――君の母親はね、ここの人体実験に使われた孤児だった。彼女は孤児ながら、とても優れた気の持ち主でね、何度となく実験に敗れ疲弊を極めていたここの医師たちからも多少なり期待をされていたようだ。この地で採掘される『夜来香』と呼ばれる神秘の鉱物。それを体内に取り込み、それでも体のどの部位も失わずにごく普通の人の姿のまま生きていられる――そんな資質を初めから奇跡的に備えていた…。
医師らの読みは当たり、彼女は体に夜来香を埋め込まれながらも、暫くは普通の子どもとして生きていた。今の君のように、この場所で他の孤児たちと一緒にね」
俺の知らない俺の過去をひどく淡々と語る華瑞の姿が悲しかった。
華瑞は、俺のこと知りたいって言ってくれた――。そんなふうに言ってくれた、ただ一人の大人だった。
だけど、俺の事なんか何でも知っているじゃないか。
俺自身よりずっと…。
「だが十五歳を迎えたころ、彼女は徐々に異常をきたし始めた。明晰な頭脳は人並み以上の水準を保ちながら、まだ発育途中であるはずの彼女の身体が急速に衰え出したんだ。このまま放っておけば、あと数年もしないうちに貴重な彼女の命は失われてしまう。医師らは、彼女の遺伝子を後世に残し、この研究を継続しようと考えた。それも、もっと強力な気を宿したもっと強い子どもで――」
「……」
「かつて、ここの僧侶の中に、厳しい修行で身に付けた力で念を練り上げ人造の妖を生み出すことのできる者がいた。その妖を使って生身の人にはでき得ないことを可能にしてしまう――そんな禁断の術を操る者が実在したんだ。その術と夜来香の力を借り、やがて医師らは彼女の胎に小さな鬼を宿らせることに成功した。
でも、その時――まだほんの齢十五だった少女の胎には、既に人間の赤ん坊が息づいていたんだ。処置後にそのことが判明して、一度は失敗かと思われたこの実験だったが、そうではなかった。こちらの予想に反して、胎内の赤ん坊が順調に成長していったからだ。
ただ…赤ん坊と言っても、恐らくそれは人ではない。まだ発生したばかりのか弱い人間の赤ん坊は、念で造られた小鬼に取って喰われてしまったのだろう――そう考えられていた。当時の担当医師が残した記録には、検診の際の心音は常に一つだったと記載されている」
改めて華瑞は俺を見据えた。じっと注がれるその眼差し――そこに一瞬宿った光は、あの時、岩屋の男が見せた狂気の色とどこか似ていた。
「しかし、ようやく生まれてきた赤ん坊は、驚いたことに人間の姿をしていた。彼女の中に確かに宿したはずの小鬼の姿はどこにもない。医師らは首を捻った。だがそうして悩んだところで結論なんか一つしかない――そう、逆だったんだ。この人間の赤ん坊こそが、あの小鬼を喰ってしまっていたんだよ!
その時、話を聞いて駆け付けた例の僧侶が言った。この赤ん坊から発せられる凄まじい白銀の気には、あの小鬼の気配が確かに存在する…と。どうやらこの赤ん坊、正確には鬼を喰ってしまったわけじゃない。赤ん坊は、小鬼と一つの体を共有する道を選んだのだ、と――」
「お、お…れ…」
激しい戦慄が全身を痺れさせる。いくら堪えようとしても、唇の震えが止まらない。
胸が――。
胸が苦しい…!!
「そうだ。全部君のことだよ、シャオ。君の名――皆が君を『シャオ』と呼ぶその理由、それはあの小鬼を指す『小鬼』という言葉からきているんだ」
「は…」
俺は胸を押さえて屈み込んだ。
また息ができない。まるで誰かに心臓を鷲掴みにされているように――!
「はっ…はあっ……」
指先からどんどん体温が失われてゆくのを感じる。目の前がぐらりと歪む。
「!」
顔色を変えた華瑞が、俺の背中を腕に抱くようにして支えた。
「はあっ…はあっ、は…あっ…」
「――シャオ!シャオ、落ち着いて!ゆっくり息を…!」
「……か…」
「もっとゆっくり…。そうだ、ゆっくり息を吐いて…」
このまま俺もあそこの連中のように死んでしまうのだろうか…?
でも、そうなら…。
「か…さん…。おれ…の、かあ…さん…は…?」
逢いたい――。
たったひと目で構わない。
「どこに…?」
「君を産んで暫くして…亡くなったそうだ」
「…っ!!」
とっくに俺には何もなかった。
もうどうなっても構わない…!
嫌だ。
大嫌いだ、華瑞も、ここも…何もかも…!!
「あ…あ…!」
「シャオ!」
「俺…も…」
涙が止まらない。
ここにはいたくない。
こんな何もない世界には、もう――。
「大丈夫だ、君は!!君は僕が必ず守るから…!大丈夫、ちゃんとここにいるから…!」
「俺に触るなッ!!」
背中の手が肩を抱き竦めてしまう前にその手を撥ね付け、俺は白い部屋を飛び出した。
もう俺に誰も構うな!
もう誰も俺を呼ぶな…!!
「信じ…ない…!もう…俺は…。だ…れも…っ!」
でも――。
結局逃げ出すことはできなかった。
何度も発作を起こして、もはや息も絶え絶えだった俺は、扉を出たところで頽れ、そのまま意識を失ったのだった。
小夜嵐に鵺が鳴く