雨
音が、ない。
静かに、雨が降っている。
下界の喧騒が聞こえてこないのはいつものことだけれど、今日は重たい雨がカーテンのように窓の外を包んでいて、ここだけ世界と切り離されているような気がする。
まるで分厚い壁で、閉じ込められているような感覚。
――閉じ込められている?
閉じ込められてなんかいない。
僕はいつでも好きなようにドアからでて、どこへでも行ける……はず。
なのに。
息苦しいほどの、閉塞感。
僕は、カッターシャツのボタンを留めていた手を止め、窓の脇に腰を掛けた。
ぼんやりと肘をついて外を眺める。
別に遅刻するほどの時間ではないけれど、登校する生徒が一番多い時間帯に登校するのなら、さっさと用意して出なくちゃいけない。
頭の隅でそれは判っているのだけれど、動く気が起きない。
僕が居なくても、授業は普通に行なわれて、誰も気になんかしない。
きっと出席を取るまで居ないことに気づきもしないだろう。
僕の存在は、なんの意味もない。
そんなこと、判っていることなのに。
誰かと話したい。
そういえば、高校に入ってから特定の誰かと話をしたりとかの記憶がない。
友達も作らなかった。
きっと卒業するまでこのままでいるだろうし、それでいいと思っていたのだけど、何故か今は。
誰かと話したい。
別になんでもいい。つまんないことを話したり、笑いあったりしたい。
そんなこと、今まで思ったこともなかったのに。
雨が、重い。
しっとりと、ずっしりと、重石のようにのしかかって息が詰まる。
この雨を抜けたら、なにかあるのだろうか。
この世界から出られるのだろうか。
出たい。
外に出たい。
急激に湧き上がってきた衝動に、僕は急いでボタンを留めて通学鞄を引っ掴んだ。
傘が見当たらなかったが気にせず家を飛び出す。
1階フロアから外に出た途端に、生暖かいまとわりつくような湿った空気に包まれる。
強くはないが、細かくて密度の高い雨が僕の前に分厚く立ち塞がっている。
逃れたくて走り出そうとしたその時、不意に雨が止んだ。
「――え?」
顔を上げる。
僕の周りだけ止んでいる雨。
僕にさしかけられた見覚えのある傘。
傘を持つ白い手。
その先の、華やかな笑顔。
「おはよう、島村くん」
灰色の世界の中で、そこだけライトが当たっているかのように鮮やかに見える。
「今日はちょっと遅かったね。急がないと遅刻しちゃうよ」
口を開くが、空気だけが出て声が出てこない。
何を言おうとしたのかも判らなかったけど。
「こないだ貸してもらった傘、返す前に雨降っちゃったね」
「……トモエ…」
ようやく声が出た。
そうだ、ついこの間雨が降って、彼女に傘を貸したから家に無かったんだ。
傘を受け取り彼女にさしかけると、トモエはごく自然に僕の脇におさまって歩き出す。
「今日の体育、体育館かなあ」
今日の授業のこと、もうすぐ始まる期末テストのこと。
何気ない会話。
いつもの。
そうだ。
僕たちはいつもこうして話をしているじゃないか。
どうして誰とも話をしていないなんて思ったんだろう。
「ねえ、見て。紫陽花が綺麗」
「ほんとだ」
「やっぱり紫陽花と雨って似合うね」
「うん」
さっきまでの重苦しいカーテンは、今は花を輝かせる恵みの雨に変わっていて。
「ね、今日、中庭に行けないから、久しぶりに学食で食べない?」
「うん。いいよ」
僕の横でふわりと揺れる長めの髪、その髪を留める赤いカチューシャ。
僕はいつからこんな風に彼女を見ていたんだろう。
なんとなくトモエの方を見ていると、彼女が不思議そうに首をかしげて僕を見あげた。
「どうかしたの? 島村くん」
「いや、なんでもない」
彼女の肩が濡れないように傘を少し傾けて、僕はトモエに微笑んだ。
20150622_HARUKAITO
雨