由香とトイ2

由香とトイ2

由香が朝子に出会ったのは、学校の授業で看護体験研修を行った時である。由香が担当した患者の一人が朝子だった。朝子は由香を知っていた。朝子の家は由香の家から近所にあったのだ。「あら、ゆかちゃんじゃない。あ、私を覚えてない?あなたが小さい頃だったから覚えてないかもねえ。お母さん元気?」「母はとても元気です。すみません、覚えていません。どちらさまですか?」「谷村朝子です。3区の公民館近くに白い家があるじゃない?あそこに住んでいるの」「ああ、知っています」「びっくりしたわー、知り合いが来るなんて。たまに姿を見ていたけど大きくなったねぇ」といって朝子は笑った。何の病気で入院をしているか由香が尋ねると「大丈夫よ。ただの検査入院だから。おいしいものが食べられなくてつまらないけど」といって、朝子は笑った。朝子は高血圧で検査入院していた。3日後には退院できる、という事だった。朝子は由香が血圧を測っている間ずっとしゃべり続けた。検査入院くらいで家族を呼ぶのは悪いと思って誰にも言わなかった。都会に娘夫婦と孫が住んでいる。少しぼけてしまった白い猫を飼っている。その猫は検査入院の間に知り合いに預けていて心配だ。といった内容だった。由香は谷村さん凄く退屈しているなと感じた。教えてくれている看護師は凄く忙しく、てきぱき雑務をしていた。由香は、あんな風に自分はとてもやれそうにない、看護士には向いていないなと思ったのであった。看護体験の後、学校から帰宅した由香は母に朝子が入院していたことを話した。「全然知らなかった。お見舞い行ったほうがいいかな?」「でももうすぐ退院だって、検査入院だし元からたいした事はないみたいよ?」「そう、それはよかった。では退院祝いに何か持っていけばいいわね」その週の土曜日、友達の知子の家から帰ってきた由香は、母親から近所にしいたけを配って来るように言われた。しいたけは親戚のおじさんが栽培したもので、結構な量をもらっていた。「自分が行けば」と由香が反論すると、「夕飯の支度があるから忙しいの!それくらいやりなさい!」と由香の母は返した。「チェッ」「ちょっと遠くなるけど谷村のおばあちゃんの所にも行ってきて。昨日退院したみたいだから。場所は公民館の隣だから」と由香の母は付け足した。「わかった。行ってくる」由香は近所にしいたけを配りつつ、朝子の家に向かった。朝子の家は築何十年と経っていそうな木造の古い家で、玄関は引き戸だった。ブザーがないので由香は玄関をたたいて言った。「ごめんください」しばらくしてエプロンをつけた朝子が玄関を開けて「あら、由香ちゃんじゃないの?」と言った。少し遅れてトイプードルが顔を出した。それは紛れもなく喋る野良犬トイだった。トイは由香の顔を見ると明らかにマズイという顔をした。由香はびっくりしつつも会話を続けた。「母が退院祝いに、という事でしいたけを持ってきました」「まあ、悪いわね。退院なんて大げさなものではないのに。ありがとう。ちょっと待っていて、今何か持ってくるから」「いいですよ、隣近所にあげていますので」「そういうわけにはいかないわ、ちょっと待っていてね」といって朝子は家の中に入っていった。由香はトイに向かって「なんでトイさんがここにいるのよ」と小声で言った。トイは聞こえていないふりをして、尻尾を振りながら「わん」と返した。由香は「私を見てマズイって顔したじゃない、何をごまかそうとしているの?」と言ったが、「わん」トイはあくまでも普通の犬のように振舞うらしい。由香がもう一言言おうとした所で「お待たせしてごめんなさい。知り合いにもらった柿だけど持っていって」と言って朝子が玄関に現れた。手に柿の入ったレジ袋を持っていた。「すみません、ありがとうございます」由香は柿を受け取った。そして由香は「猫は元気ですか?」と尋ねた。「猫なら大丈夫よ。奥の座布団で寝ていて元気、元気。ボケだけど食欲はあるからね」と朝子は答えた。続けて由香が「猫のほかに犬も飼われているのですか?」と聞いた。「違うわよ。このワンちゃんは野良犬みたいなのだけれど、時々ふっと家にやってくるの。人懐っこくてついついおやつを上げてしまうのよね」といって朝子は笑った。トイは無邪気な顔でこちらを見ながら、尻尾を振って大人しくしていた。次の土曜。由香は知子の家に向かおうと準備していた。由香は学園祭用の編み物を終わらせるべく、先月から足繁く通っていたのだった。歯を磨いていると救急車の音が聞こえた。音は近くを通り、そしてそれほど遠くないところで止まった。由香の母は「すぐ近くね、外に出て見てくる」と言って外に出て行った。次いで由香が外に出ると救急車は朝子の家の前に止まっていた。救急隊員が2人いて周りには母や近所の人たちが集まっていた。由香が朝子の家の近くまで行くと、ちょうど朝子が出てきて、救急隊員の人に肩を貸してもらいながら救急車に乗りこむところだった。そして朝子を乗せた救急車はそのまま病院へと行ってしまった。由香は母に何があったのか尋ねた。近所の人が玄関に倒れている朝子を発見して病院に電話した、ということだった。朝子が病院に行ったことで、近所の人は次々に帰って行った。その中、由香は白い猫がさ迷うように歩いているのを見つけた。由香はピンと来た。あれは朝子の飼っている猫なのではないかと。朝子は前に白くて少しぼけてしまった猫を飼っていると言っていた。保護しなきゃと、由香は白い猫にそろりと近寄った。白い猫は危険を察したのかさっと逃げ出し、茂みの中に隠れてしまった。困っていた由香の所に声をかける者がいた。「由香、久しぶりだな」知り合いの喋るトイプードルである。「あら、トイさん。トイさん朝子さんが」トイプードルは鼻をクンクンさせながら「ああ、朝子さんが病院に運ばれる一部始終を見ていたよ。それと朝子さん所の白い猫が外に逃げ出してナ」「やっぱりあの白猫は?」「見かけたのか。白百合。朝子さん所の猫だよ。由香、ひょっとして白百合を保護しようとしてくれているのか?」「うん、朝子さんが戻った時に居なくなっていたら嫌だろうなと思って」「助かる。僕が預かろうとも思ったが、言うことを聞かなくてナ。そういうことなら2人で協力し合おう。僕が白百合を匂いで見つけるから由香が捕まえてくれ」「わかった」トイの鼻があっても、ぼけたとはいえ素早い猫を捕まえるのは骨が折れた。由香とトイはそれから30分ほど白百合を捕獲しようとしたがうまくいかなかった。「由香、いい加減にしろよ。チャンスで何回逃がした」「トイさんだって、ちゃんと見つけてよ。ここだって言っても、いないこと多いじゃない」「文句を言うな。相手は移動するから匂いで追うのは大変なのだゾ」などと言い争いながら追跡していると、匂いの元は朝子の家に戻って来ていた。「結局、戻ってきちゃったね」「なんのための追跡だったのか」白百合は朝子の家の倉にいるようだった。倉の扉は少しだけ開いていた。由香たちが倉の中に入ると、白百合は白い綺麗な箱の上に寝ていた。由香はほっとして、寝ぼけている白百合を抱きかかえ家に帰ろうとした。朝子の家の玄関で由香は車から出てきた男に鉢合わすことになった。男は由香を見てじろりと睨み、「なんだ、お前は」と怒鳴った。男の言い草にむっと来たが「近所に住む由香という者です。あなたこそ誰なのですか?」と返した。男は怪しんだ顔をしながら「谷村朝子の、息子の健太郎だ。ここで何をやっている?」と言った。「朝子さんが入院なさったので、飼われている猫が気になって私が一時預かろうかなと」「お袋は猫を飼ってなかったと思うが?本当はうそじゃないか。何か金目の物を盗みきたのだろ?」「違います」男は疑り深い性格で、由香の名前や住んでいる所を何度も確認し、メモすると、「今日のところは、警察は勘弁してやる。何か盗まれていたら直ぐに報告するからな」と言い放った。由香は頭に来たので、何も言わず家に帰った。トイは、「由香?白百合はどうする?」と聞いた。「朝子さんの息子があんな人とは思わなかった。あんな人に任せられないでしょ、家で預かる」トイは「わかった。頼む」とだけ言って狭い路地に消えて行った。由香は母に事情を説明して、白百合を預かることになった。何も食べてないだろうと、餌を買ってきて、白百合にあげてみるとすごい勢いで食べてしまった。次の日、由香は母と一緒に朝子の見舞いに行くことにした。白百合は家に閉じ込めて餌を置いて行った。病院に行くと、警察官が病室に来ていて待つことになった。少したって警察が帰り、由香たちは朝子の病室に行くと、朝子は「まあ、悪いわね、美沙都さんに由香ちゃん。この前入院したばかりなのに、すぐに出戻ってきて恥ずかしいわ」と言って笑った。由香の母が、朝子に何があったか尋ねた。朝子が土曜日の朝方にトイレに起きたところ眩暈がして、階段を転げ落ちてしまった。意識はあったが腕と頭を打ち付けて痛みで動く気力がわかなかった。たまたま知人が尋ねてきてくれて発見されたということだった。頭を打った時の傷と、腕を無理についた時の骨折で全治1か月。骨折の手術は明日行い、明後日には退院できるようだった。由香が白百合を預かったことを話すと、「ありがとう。美沙都さん本当に申し訳ありません。お見舞いに来てくれただけでなく、白百合まで預かって頂いていたとは思ってもみなかったわ。白百合はね、ここにいる間気になっていたのよ。私の娘が世話をしに来てくれているから、後で美沙都さんの所へ娘を迎えに行かせるわね」その日の夕方。お見舞いから帰った由香は、家のリビングで編み物の続きをしていた。そこへ朝子の娘の亜由美が訪ねて来た。朝子の言うとおり猫の引き取りに来たのだった。「お久しぶり。美沙都さん。このたびは母がお騒がせしまして」「あら、亜由美さん。お久しぶり」「なんでも母の猫を預かっていただいたそうで」「ええ、由香、ちょっと猫ちゃん連れてきて」「母がものすごく感謝していました。これはほんのお礼です」と言って亜由美は菓子折りを差し出した。「いえ、お礼なんていらないのに」「いえ、そう言わずに。母からのお礼なので受け取ってください」「ありがとうございます。頂いておきます。亜由美さんも大変ですね。ご家族の方も一緒に?」「いえ、突然だったので一人で」「弟さんは」「健太郎は会社が大変なことになっているみたいで、いろいろ大変らしいで」「まあ、それじゃ一人で?大変ですね」「ええ。でも連休中でしたので、まだ」「そうですねぇ」由香が白百合を連れてくると、由香の母と亜由美はそのような話をしていた。亜由美は猫を受け取り、「ありがとうございました」言って頭を下げた。次の日、由香が家で編み物をしていると、外から犬の吠える声がした。もしかしたらと由香が外に出ると、トイが玄関の前にいた。トイは由香をいつもの空き地に連れて行くと言った。「おととい朝子さんの家にいた男を覚えているかい?」「うん。息子さんの健太郎さんだっけ?」「さっき、奴が朝子さんの家に来てナ。倉から物を何点か持ちだしていった。朝子さんがいないことをいいことにナ」「え、それって泥棒じゃ。前みたいに警察に通報する?」「いや、確か親子関係の間では窃盗が適応されないから(*本人が告訴しない限りは)まずは本人に伝えなくては駄目だ」「そうなの?トイさん、犬なのになんでそんなに詳しいの?」「それは僕がてんさい」「ああ、でも今日は朝子さんが手術する日だったし。どうしよう」「娘さんが帰っているだろう?その人に伝えたらどうか。昨日と同じなら夕方には帰ってくると思う」「そうだね。後でちょっと行ってみる」「ああそうだ。朝子さんの退院はいつになるって?」「無事にいけば明日だって」「わかった。じゃあ由香。娘さんに連絡頼むよ。僕はちょっとすることがあるから」と言うと、トイは茂みの中へ入って行った。その日の夕方。由香は朝子の家に行き、亜由美に健太郎が倉の物を持ちだしていたことを話した。亜由美は困った顔をして「わかりました。教えてくれてありがとう。ここからは、うちの家族の問題だから。ね」と言って由香を帰らせた。次の日。朝子は手術に成功し、亜由美に付き添われて退院した。トイは朝子の家の前で待ち、朝子の退院を迎えた。「あら、いつものワンちゃんじゃないの」といつものように朝子が声をかけ、トイは朝子の家にお邪魔することになった。亜由美が、洗濯やお昼の支度やらをし、朝子が縁側でトイや白百合におやつをあげた。トイは聞き耳を立ててふたりの会話を聞いた。要約すると、次のようなことだった。亜由美は今日の午後には自宅に帰らなくてはならないが、洗濯物はしまってからにすること。夕飯用にお弁当を買ってきてあるから食べてということ。亜由美の子供が、水泳部でレギュラーを取ったこと。亜由美の旦那が昇進すること。健太郎が朝子の見舞いに一度も来なくておかしいこと。そして亜由美が、健太郎が倉の物を持っていった事を話すと、朝子は困った顔をして言った。「最近は持ちだしたりしてなかったのにねぇ。困ったねぇ。中には別にろくなものが入ってないから問題ないけど、大事なものがあったからねぇ。ちょっと亜由美。倉の中から白い箱があるか確認しに行ってくれない。ああ、そう。その箱、ついでに持ってきて」亜由美は倉の中から、白い箱を持ちだして来た。トイは前に由香と一緒に白百合を捕まえようとした時に白百合が上に寝ていた箱だということに気が付いた。「懐かしいね。それ、あたしたちの卒業文集とかが入っている奴でしょう?」「そうよ。懐かしい。昔は二人共可愛かったわねぇ。ありがとう。そこに置いておいて」朝子が何か話したがらなかった様だったので、亜由美はそれ以上その話をするのは止めた。二人はテレビを見ながらご飯を食べて、亜由美の旦那のダイエットの話、朝子の友人がブドウ狩りに出かけて、ブドウを沢山もらったので、ブドウジャムを作った話、朝子の友人たちと温泉旅行に行く予定の話、腕が治るまで大変だね、母の一人暮らしが心配だから家に来たらという話、をした。亜由美は洗濯物をしまうと「また来るから」と言って帰ろうとした。「ああ、帰るならこれを持っていって。一人じゃ食べきれないから」といって朝子はしいたけや柿、ブドウ、ブドウジャムを亜由美に持たせた。「急いで帰ってご飯作らなきゃ。今日は人が来るから」と、亜由美はあわただしく帰っていった。亜由美が帰って朝子は慣れない左手で片づけをした。ふいに電話が鳴り、朝子は携帯電話にでた。「はい、健太郎?今どこにいるの?」「うん。知っているわ」「でもねぇ。もう私に貯金なんてないのよ」「下村さんは、よくやってくれていたわ。亡くなった方をひどくいうものではありません」「わかったわ。今週の金曜日に家にいらっしゃい。母さんが何とかします」電話を切ると、朝子は白い箱を開けて卒業文集を取り出した。そのまま縁側に持っていき、眠っている白百合の背中をなでながらページを開いた。「あの子はこれには目もくれなかったのね」といって文集のページをめくった。「昔はあんな子じゃなかったのにね」と寂しそうに笑った。しばらくそうして考えた後、朝子は知り合いに電話をした。「決心がつきました。悪いのだけど今いらしてくれる?」知り合いは10分後に朝子の家を尋ねてきた。朝子と同年代の男性だった。「朝子さん、すぐ退院できてよかったなぁ。年取ると骨がもろくなるからなあ。この後も気をつけんとだめだよ」「田崎さん、ありがとうございます」「だからなぁ。毎日散歩しなさい。それと煮干し持ってきたから食べなさい。骨を強くする」「ありがとう」「今日は急にどうした。気が変わったのか?」「ええ、息子の会社がね。どうにもうまくいってなくて」「ああ、それとなく聞いているよ。不景気なのはどこも一緒だな」「もうこれしかないと思って」「朝子さん」「はい」「考え直しなさい。そんなことまでせずに、さっさと会社を潰せばいい。あんたが被ることはないぞ。ここで助けてもまた同じ事になるかも知れんし」「それでもいいです。あの子は変わってしまった。もうお金もありませんし、これを最後に親子の縁を切ります」「はぁ。あんたがそこまで言うとは。事情はわかった。朝子さんがあれだけ色々手助けしたのに、本当、だめな奴だな」「親の心子知らずで」「しかし朝子さん。あんたはこの後どうする?」「娘夫婦の所にいきます。実は前から言われていたのですよ」「そうか。わかった。もう心が決まっているなら何もいいわせん。息子にできる限り高い値で買うように言うよ」「無茶ばかり言いますが、今週の金曜日までに少しでも何とかしてもらえないでしょうか?」「ああ、いいよ。金の事は心配しなさんな。うちの会計士に頼むわ。あんたの望むようにやらせるよ」「ありがとう。田崎さん。いつも頼ってばかりで」「気にしなくていい。娘さんはたしか○○市に住んでいるよなぁ」「はい」「そうか、簡単にあえなくなるな。寂しくなるなあ」それを聞いたトイは静かに闇の中に消えて行った。一か月後。近所の人たちと由香と由香の母親は、朝子の家だった場所に来ていた。皆は次々に朝子に話しかけ別れを偲んだ。由香も「短い間でしたけど、楽しかったです。さよなら、白百合もさよなら」と言いお別れをした。朝子はニコニコ笑いながら「来てくれてありがとう。私も楽しかった」と言った。迎えの車が来て、最後に「今までお世話名なりました」と白百合を抱いた朝子はお辞儀をして皆に言った。迎えの車に乗り込む前に、朝子はもう一度かつて自分がすんでいた家を見た。玄関には例のトイプードルがいて朝子を静かに見ていた。まるで別れを偲んでいるようだった。朝子は「ワンちゃん。ごめんね。さよなら」と言ってすこし寂しそうに笑って、手を振ると車に乗り込んだ。

由香とトイ2

由香とトイ2

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-23

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