暁に恋して
1
「てめえ、今実佳のスカートの中覗いたろ!」
隣を歩く有里の声に、私はようやく気がついた。
私達は、仲間で固まって音楽室へ向かう階段を上っているところだった。
今時の女子高生なら、制服のスカートはマイクロミニ。当然下着も見せパン。だから見られてもどうってことはない。階段の上り下りに気取って手や鞄なんかで隠す子がいるけど、隠すくらいなら最初から穿かなきゃいいのにって思うから私は隠さない。
親友を自認する有里は隠さないけど、覗かれることには敏感で、気がつくとすぐに相手に咬みつく。でもそれはほとんどが自分のためじゃなく、私や友達のためなんだけど。
別にいいんだけどな、なんて思いながら私は振り返った。だけど有里が襟首を締め上げているその男の顔を見たとき、私の心臓は大きな鼓動を打たないわけにはいかなかった。
霞大吾――同じクラスの窓際に座る彼の顔の右半分を、私は毎日眺めている。私の目は、どこにいても彼の姿を探して彷徨う。
見た目は全然おしゃれじゃない。黒いままの髪は無造作に長くいつでもボサボサで、制服はもちろんどノーマルのままで皺だらけ。クラスメイトと打ち解けて話す様子もなく、授業中クラス全体に笑いの渦が湧き起こっても一人ぼんやり佇んでいる。クラブにも入ってないし、運動も勉強も取り立てて出来るわけじゃないみたい。要するに、女の子にモテる要素が全くない男ってこと。なのに――。
「後ろからこっそり覗いてんじゃねえよ、このムッツリ野郎!」
相変わらず口の悪い有里が締め上げる手に力を込めて恫喝を加えても、彼は無言のままニヤリと笑っただけだった。
そのときまた、私の胸は高鳴った。
そう。私が気になっているのは、あの目の色だ。いつもぼんやりとしていて、何を考えて生きているのか全く判らないように見えるのに、時折彼の目はまるで子供のようにキラキラした輝きを放っていることがある。私はそれが気になっている。それをまた見たくて、いつでも彼の姿を探している。
結局、彼が否定も肯定もしないため、有里は舌打ちして、「さっさと消えちまえ」なんて言って彼を追い払った。
彼は無言のまま私達を追い抜いて、先に音楽室へと消えた。
「全くムカつくよなあ、ああいうヤツ。ああいう無言のムッツリが一番キモいよ」
有里はそう吐き捨てた。心底そう思っているみたいだ。
「じゃあどういうのがいいの? 堂々と『パンツ見せて』って言いに来る奴?」
先を歩く倫世が混ぜっ返した。
「その方が全然マシじゃねえ?」
「そうかなあ。それもちょっと怖いよ」
「パンツの問題じゃねえよ。興味があるなら、正面から口説いてみろってことさ」
「それって何か、話ずれてなくない?」
クククと笑いながら階段を上りきったとき、私は思い出していた。私が彼を気にするようになったきっかけは、これだったんじゃないかと。
いつだったか、ちょっと前の昼休み。教室の中で、軽音部のミッキーとタクちゃんがみんなにせがまれてギターを弾いていたときのことだ。
学祭に向けて、彼らは毎日学校にギターを持って来ては部活で練習していた。その彼らに、
「ねえ、ちょっと今弾いてみてよ」
なんて誰か女の子が言ったもんだから、昼休みの教室内はにわかライブハウスになっちゃった。
教室でアンプは鳴らせないからアコースティックだったけど、近頃チャート驀進中のロックバンドの曲だったから、みんなノリノリになっちゃってた。
だけど霞君だけは、窓際の机に突っ伏して寝てた。
ミッキーもタクちゃんも、みんながノってくれるもんだから舞い上がっちゃってガンガンに弾いてたんだけど、そのうち霞君一人だけ寝ているのに気がついたんだ。ミッキーはそれが気に入らなかったらしくて、演奏中に霞君の席まで歩いて行って、寝てる頭に膝蹴りしちゃったんだ。「よお、ちゃんと俺らの音楽聞けよ」って。
驚いたのは私だけだったみたい。そのとき既に教室内は「このノリについてこない奴は仲間じゃない」みたいな雰囲気に支配されていたから、そう出来ない奴は膝蹴りされても仕方がないとみんな思っていたのかもしれない。私ははらはらしながら、事の成りゆきを見つめていた。
彼は跳ね起きると、頭頂部の痛みに顔をしかめながら目の前のミッキーに驚いた視線を向けた。ミッキーはそんな彼に、ギターを弾いたまま、「よお、お前も一緒に盛り上がれよ」と言った。教室内の他のみんなも、同じ言葉を視線に含ませて投げていた。
すると彼は、「痛えな」とか「うるせえな」とかじゃなく、たった一言こう言ったのだ。
「ロックだけが音楽じゃねえだろ」
ミッキーは、咄嗟には何を言われたのか判らなかったみたい。一瞬ポカンとしていたけれど、でもすぐに青ざめて、「何だと、てめえ」と霞君に掴みかかった。演奏は中断され、重そうなギターがストラップに吊されて、ミッキーの身体でぶらぶら揺れていた。
霞君はミッキーの手を振り解くでもなく言い返すでもなく、深い溜息をついただけだった。「しょうがねえな」っていうよりももっと悲しげで、残念そうな感じに。
それを最大級の侮辱に感じたミッキーは拳を振り上げかけたけど、みんなの視線に気がついて、「やめやめ! テンション下がっちまったい。みんな、続きは学祭のステージでな」と言って、ギターのストラップを肩から外した。みんな、「頑張ってね」とか「楽しみにしてるよ」とか言いながらまたちょっと騒いだけれど、霞君は再び机に伏して寝てしまった。
その日から、彼は空気を読めないマヌケ野郎扱い。誰もが何となく距離を置くようになった。でも彼はそんなことは意に介さず、毎日普通に登校して来てはぼんやりとしているのだった。
私はその日以来、みんなより彼の方を向いている。あのとき彼がミッキーに放ったあの一言は、一体彼にとってどんな意味があったのだろうと考える。そのとき彼が瞳に宿した色が今まで自分の周りになかったもののように思えて、また見たいと思う。
でもそれがどんなときに表れるものなのか、まだ私には判らない。
2
学校はいつだって恋愛とエッチの話題でいっぱいだ。教科書は本能を理性で抑制するよう要求するが、そんなことに一体どれほどの効果があるというのだろう。
自分の身体が大人の性に目覚めれば、当然異性のそれにも興味が向く。それが恋愛感情に変わることもあれば、そうでないこともあるけれど、自分の身体の変化と共に発生する感情を抑えられるわけがないと思う。抑えられずに溢れ出し、右往左往することが私達の年代には大切なような気がする。完璧に抑えきってしまった人間は、きっと大人になって暴発してしまうんじゃないかしら。
放課後も昼休みも登下校も、ケータイでのやり取りも、話していることは大体同じ。誰と誰がくっついたとか、次のデートに着ていく服がどうとか、とうとう彼としちゃったとか。誰だって未知の領域に足を踏み入れるのは少し怖いから、未経験の子ほど熱心にそういった話に耳を傾ける。
先行して詰め込んだ沢山の知識と半熟な身体をもってして、私達は競争を始めている。他人よりも早く異性を知ることに私達は憂き身をやつす。恋愛感情はその先にある肉体を体感するための手続きとしてしか扱われないこともあり、ときとして手続き自体省略されることもある。
「ねえ実佳、ちょっと聞いてよ。最悪! 超ムリ! 黒西のヤツ!」
放課後校門を出ると、理子が突然憤慨して言った。一緒に歩きながらもそれぞれケータイのキーを打つことに夢中になっていた有里も倫世も、その手は止めずにちらりと振り返る。
「何かあったの? 体育の時間」
と、私は訊き返した。黒西は体育の教師だ。私は今日見学だったけど、見ている限りでは特に何の問題も起きていなかったはずだ。
「何? 胸でも触られた?」
と有里が茶化すのに、理子が「それよりひでぇよ、マジで」と吐き捨てたものだから、「ウッソー、なになに?」と倫世まで目を輝かせる始末。倫世は特にこの手の話が大好きなのだ。
「後片づけで用具入れにいたら、黒西が『ちょっと話がある』とか言って入って来てさ。ほら私、前に骨折して一ヶ月くらいずっと体育休んでたじゃん。で、『お前下手すると進級ヤバいよ、実技テストとか全然受けてないし』って言うわけ。それは確かにヤバいから、『じゃあどうすればいいんですか?』って訊いたんだ。そしたらアイツ、何て言ったと思う?」
私達は理子が答えを期待していないのを判っているから、無言で話の先を促した。
「『個人的につき合ってくれるなら、考えてやってもいい』だってさ! 信じられないでしょ? 何考えてんだ、あのバーコードハゲ。あーっ、もう、ムリムリムリムリ!」
「えーっ! 何それ?」
「マジで? 超ありえない」
私達は驚きの声を上げたが、そこには「教師のくせに生徒にそんなことを言うなんて」というのと共に、「授業中にそんな下手くそな方法でアタックするなんて」という意味も込められていた。
私達の年代は異性の視線にとても敏感だ。ある意味それを沢山浴びたくて化粧をしたり、可愛いピアスを身につけてみたり、人よりスカートの丈を短くしたりしているわけだから、ちょっと考えれば気づかないわけがないってこと判るはずなのに、男って意外にそういうことに鈍感だ。本人はさりげなく見つめているつもりでも、女の子には簡単に見抜かれちゃう。
黒西が理子にだけ特別な視線を注いでいるのに、私達はずっと前から気がついていた。理子にも前に注意するように言ったことがあるのだが、本人はすっかり忘れてしまっていたようだ。
「で、あんたどうしたの?」
「まさか『いいですよ』なんて言ったんじゃないよね?」
「冗談! 言うわけないじゃん」
「じゃ、何て?」
「もう私完全にキレちゃってさ。『何考えてんだ、ふざけんなこのエロオヤジ!』って怒鳴って逃げちゃった」
「へえ、言ったじゃん、理子」
「キンタマ蹴りくれてやりゃあよかったのに」
「でもさあ、アイツが私の体育の成績つける権限持ってるのは事実じゃん。このことで嫌がらせされて、マジで進級出来なかったらどうしようって、ちょっと心配になっちゃってさ」
「そっかあ」
「アイツなら、やりかねないよね」
「大丈夫よ」
と、私は言った。
「追試くらいやってくれるでしょ。もしやってくれなかったら、みんなで黒西のところへ行って、『用具室での話、聞いてました。それって犯罪じゃないですか。校長や教育委員会に相談しましょうか』って脅せばいいのよ。四人もの女生徒が証言すれば、アイツの首なんか簡単に飛んじゃうわよ」
「そうか。そうだよね、さすが実佳」
「もしこれ以上何かされたら、私達協力するからね」
「うん、ありがとう」
ちょうどこの話題が終わった頃、私は三人と別れた。彼女達はこのまま駅前のケーキ屋へ行こうと誘ってくれたけれど、今日はバイトの日だったから一旦家に帰ることにした。
それにしても、教科書の内容を伝達するのが仕事である教師ですら、授業中に生徒を口説こうとするのだ。彼らは身をもって、立場も年齢も関係なく相手を手に入れたいと思うことが恋愛の本質だと教えてくれている。こういう生きた教材から、私達は少しずつ本当のことを学んでいくのだ。
暁に恋して