絵本

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「それでね、その新人の女の子は忘れ物を取りに、この図書館に戻ったのよ」
 ひっそりとした戸倉の声が、図書館の暗い事務室に響く。
 生唾を飲み、彼女の話に真剣な面立ちで耳を傾けるのは数人の新人職員たちで、伊川サユリもその中の一人だった。
「でも、夜の図書館なんて不気味じゃない。だから彼女はさっさと用事を済ませようと、足早に事務室へ向かったの」
「じっ、事務室って、ここじゃないですかぁ」
「や、やめてくださいよぅ」
 黙って拝聴していた数人が、思わず非難の声を上げる。しかし戸倉はそんなことはお構いなしに話し続けた。
「みんなも知ってのとおり、ロビーを右に折れたらすぐにここに着くじゃない。でもね、なぜか彼女は辿り着くことができなかったの。ずっと同じところをぐるぐる回るだけで、最後には、帰り道すら解らなくなっていたのよ」
 戸倉がにやりと気味の悪い笑みを浮かべ、それを見た何人かが身を震わせた。
「ふと気が付くと、彼女は児童書のコーナーにいたわ。昼間は子供たちが散らかしている絵本も、その時間は閉館後なわけだし、ちゃんと整頓されていたの。でもね、その中に一冊、うつ伏せに開いたままの本があって……彼女はそれを見てしまったのよ」
「み、見てしまった、って……」
「その人は何を見たんですか?」
 恐る恐る、だが、怖いもの見たさで新人職員たちは問う。
「それはね……」
 戸倉が口を開こうとしたその時、部屋の電気がパッと灯った。驚いた新人たちが「ひっ」と悲鳴を上げ、蛍光灯のスイッチのあるドアの脇を見やった。明かりを点けた人物を確認すると、今度は戸倉が悲鳴を上げる番だった。
「戸倉さん、またキミかい」
 そう言って戸倉を睨むのは、僅かな乱れもなく背広を着こなす中年の男だった。
「か、館長……」
「そうやって新人を怖がらせるのも、いい加減にやめてくれないかね。そのせいで辞表を出す新人だっているんだよ」
 館長は小さくなった戸倉に苦言を呈し、続いて新人たちに笑顔を向けた。
「変な話を聞かせて気分を悪くさせてしまったようだね。申し訳ない。だが、この図書館にそんな逸話はないから、安心して業務に集中してくれたまえ」
 新人たちは「はぁ」とか「そうなんですか」とか気の抜けた返事を零し、ぞろぞろと部屋を出て行った。
 外はもう薄暗く、職員たちも帰宅する時刻であった。
「……逸話ねぇ」
 事務室に残った戸倉がぽつりと零すが、
「戸倉さん?」
 同じく残っていた館長に睨まれ、慌てて口を閉ざした。
「今日の最終管理は誰だったかね?」
 館長の問いに、戸倉は手を挙げて答えた。
「私と伊川です」
 
  
 最終管理とは、その名のとおり、閉館後、最後に行う管理作業のことである。書棚の整理、利用者数の統計や返却日を延滞している人のリストアップ、新たに入庫した本のパソコン入力や会員向けの広報作成もしなければならない。担当日は十日に一度程度回ってくるため、通常、月に三日は最終管理を行うことになる。
 ベテランの戸倉は手馴れたもので、どんどん仕事をこなしていくが、新人のサユリはもちろん要領など解るはずもなく、彼女についていくことで目一杯だった。
「伊川さん、そっちの書棚の整理、お願いできる?」
「あ、はい」
 教わったとおりに本を並べながら、サユリはふと気になって戸倉に訊いてみることにした。
「あの、戸倉さん。さっきの話なんですが」
「さっき? あぁ、怪談話ね」
 手を休めないまま、戸倉は返事をよこす。彼女に遅れをとるまいと、サユリも目の前の書棚と格闘しながら続けた。
「その人は、何を見てしまったんですか?」
 すでに外には闇が訪れ、戸倉がいなければ、自分もまたその話の女性と同じ状況なのだ。抑えようとしても、心臓の鼓動はどんどん大きくなっていく。
 しかし、戸倉は何かを思い出したように薄く笑って、「忘れちゃった」と答えた。
「だって、さっき話そうとしてたじゃないですか」
「仕方ないでしょ。忘れちゃったものは忘れちゃったんだから」
「そ、そんなぁ」
「はいはい、それより仕事だよっ。ほら、手が動いてないわよ」
 戸倉に指摘され、慌てて作業を再開する。
「でもね……」
 戸倉が言う。
「一人で残らないほうがいいよ、ここ」
 
 
 最終管理が終わり、時計を見やる。針は九時を少し回っていた。
「さて、帰ろうか」
 戸倉に促されて揃って図書館を出ると、ひんやりした空気が身体を包んだ。
「うわ、さすがに外はまだ肌寒いですねぇ」
 春とはいえ、島国の北方に位置するこの土地は未だに北風が身に染みる。
「む、いかん」
 戸川の声に、「どうしたんですか?」と返すと、彼女は自分のバッグをサユリに手渡し、図書館に戻っていった。
「え、ちょ、ちょっと。戸倉さん?」
「ごめん、トイレ。すぐ戻るから待ってて」
 そう言い残し、彼女は図書館の奥に消えていったのだった。
 
 
 どのくらい待っただろうか。
 目の前の信号が五回赤になったところまでは数えていたが、あまりにも遅すぎる。
「どうしよう」
 サユリは呟く。
 戸倉のバッグを預かっているため、先に帰るわけにもいかない。入口に置いておくには無用心が過ぎるし、何より彼女が気付くかどうか解らない。彼女の携帯電話に二回かけてみたが、どうやら電源を切っているらしく繋がらない。メールアドレスはまだ聞いていないため、メールを送ることもできなかった。
「トイレって、一階のだよね……」
 わざわざ階段を上がる理由もないだろうし、とサユリは入口を見やった。
「場所も解ってるし……い、いいよね」
 彼女は図書館へと入っていった。
 
 
 当然のことだが、館内は真っ暗だった。等間隔にオレンジの非常灯が灯ってはいるが、これほどあてにならないものはない。
「と、戸倉さーん?」
 呼んでみるが、返事はない。広いロビーに自分の情けない声が空しく反響するだけだ。
 しばらくここで待っていようとも思ったが、それでは外で待っているのと変わりはない。仕方なく、サユリは歩を進めることにした。
 歩きながら、先ほどの戸倉の話を思い出す。
「確か……同じところをぐるぐる回るのよね……」
 最終的には帰り道さえ解らなくなる、と言っていた。壁にかけられた風景画や、脇に置かれた消火器などを確認しながら奥へと進む。手洗いまで辿り着いたとき、サユリは思わず安堵の溜め息を零した。あとは戸倉をつれて出るだけだ。
「戸倉さん?」
 闇に向かって声をかける。
「と、戸倉さん?」
 やはり返事はない。おかしい。彼女はここにいるはずなのに。
 そうだ、と壁を確認する。明かりを点ければ彼女がいるかどうか解るはずだ。と、そこまで考え、はっと気付く。戸倉はなぜ、明かりを点けなかったのだろう。良からぬ考えが頭を駆け巡る。
 そうしているうちに、スイッチの場所を探り当てた。すかさずスイッチを入れる。
 
 カチッ。
 
 冷たい音が響いた。
「あ、あれ?」
 電気が点かない。焦りながら、何度もスイッチを押す。
 
 カチッ。カチッ。カチッ。
 
「な、何で……」
 やはり反応はなかった。
「と、戸倉さぁん……」
 哀願するように、涙目で名前を呼ぶも、戸倉の返事は聞こえない。
 サユリは震える足を恐る恐る踏み出し、個室の一つ一つを調べていった。
「ここは空いてる……ここも空いてる……」
 ドアの開閉を手探りで確認していくと、とうとう一番奥の個室に突き当たった。
「あ……」
 何もないはずの空間に、固いものが触れる。ドアだ。この個室だけ、ドアが閉まっているのだ。
「戸倉さん……」
 小さくノックを数回。しかし、やはり返事はない。少し力を込めて叩いてみたが、結果は同じだった。
「意地悪しないでくださいよぅ……」
 と、その時。
 カチリ、と鍵を外す音が鳴った。
「と、戸倉さん……?」
 
 ギ、ギ、ギ……
 
 軋む音と共に、ドアがゆっくり開いていく。
 ゆっくり。ゆっくり。
 サユリの背筋に冷たいものが走った。
 違う。これは――戸倉さんじゃない!
 そう思うも目が離せない。金縛りにでも遭ったかのように、視線はゆっくり開かれていくドアの奥を凝視したままだ。
 そして、何かが見えた――その時、
「こっちよ……」
 背後から声がした。小さく、か細い声。途端、ドアの呪縛から開放される。
「と、戸倉さんっ?」
 声は確かに手洗いの外から聞こえた。サユリは逃げ出すように、その場を走り去った。
 
 
「戸倉さんっ!」
 声を張り上げる。一刻も早くここを出なければ、大変なことになる。サユリの直感がそう告げていた。
「戸倉さんっ! 戸倉さんっ!」
 名前を連呼し、ひたすら走り回る。さっきの声からすると、そんなに遠くではないようだ。早く彼女を見付けださねば。
 そして、彼女は気付いてしまった。
「あ、あれ?」
 壁にかけられた風景画を見やる。それは、先ほど手洗いへ行く途中にあったのと同じ物だった。足元を確認すると、思ったとおり消火器が備え付けられていた。
「何で……?」
 息を切らし、一時呆然とそれを眺める。
「同じところをぐるぐる……」
 口にすると、不安が増した。慌てて頭をぶんぶんと振り、嫌な考えを追い出す。
 それより、今は戸倉だ。彼女を見付けることが先決なのだ。
 サユリは再び走り出した。
 
 
「う、嘘……」
 目を見開くサユリの前に、大きな書棚が佇んでいた。
 棚の横のジャンル名には、こう記されている。
 
『児童書』
 
「そ、そんな……」
 今の今まで廊下を走っていたはずなのに。
 愕然と膝をつくサユリの手に何かが触れた。見下ろすと、そこにはうつ伏せに開いたままの本が転がっていた。
「ひぃっ!」
 手を引っ込め、悲鳴を上げる。
「ま、まさか……そんな……」
 非常灯に照らされたそれをよく見ると、どうやら絵本のようだった。幼児向けの可愛らしいイラストが描かれている。
 鼓動が早くなる。今にも飛び出してきそうな心臓を片手で押さえ、空いた手でその絵本に手を伸ばす。そして手が触れようとするその時――
 
『ジャンジャンジャンジャン!』
 
 ズボンのポケットに入れておいた携帯電話がけたたましく鳴り響き、サユリは文字どおり飛び上がった。パニックになるのを何とか堪え、携帯電話を開く。なんと戸倉からだった。
「もっ、もしもしっ」
『あー、戸倉だけどー』
 普段と変わらない彼女の声が聞こえてきた。
「戸倉さん、今どこにいるんですかっ?」
『いや、伊川こそどこにいるのよ。さっきからずっと待ってるんだけどー』
「え? だ、だっておトイレに……」
『とっくに済ませてるわよっ』
 彼女の声にノイズが混じる。恐らく風の影響だろう。どうやら外にいるらしい。
「だ、だって……私、今……館内ですよ……」
『はぁ? 何やってんのよ』
「い、今……私の目の前に……え、絵本が……」
 そこまで言うと、電話の向こうで息を呑む音が聞こえた気がした。
『それを見ちゃダメよっ!』
 緊張した戸倉の声。彼女が本気であることが解る。
『早くそこから逃げなさい! とにかく走って!』
「こ……腰が抜けて……」
『バカっ! 死にたいのっ?』
 その言葉がサユリの身体を大きく震わせた。
 死――
「い、嫌ですっ! 死にたくなんか……」
『だったら――』
 
 ザザ……っ
 
 再びノイズが混じり、それは次第に大きくなって、戸倉の声を掻き消した。
「と、戸倉さんっ?」
『ザザ……』
「戸倉さんっ!」
 叫んだ瞬間、ノイズが晴れた。安堵し、戸倉に話しかける。
「戸倉さん、ここ、本当に……」
『……ちよ……』
「……え?」
 小さな、しかし明らかに戸倉ではない、別の声が聞こえた。
 
『……こっちよ……』
 
 今度ははっきりと聞こえた。一瞬で背筋を凍らせるような、冷たい女の声だった。
 悲鳴を上げ、思わず携帯電話を放り出すサユリ。
 しかし、
『……こっちよ……』
 まるで脳内に直接響いてくるかのように、その声はサユリの耳を浸食する。
「やめて……やめて……っ」
 耳を塞ぎ、目をぎゅっとつぶる。身体を丸くして、声の去るのを待った。
 そして、いくらかの時間が過ぎ、室内に再び静寂が訪れた。声はもう聞こえない。
 サユリは助かったのだ。
 耳から手を離し、涙を拭う。身体は未だ震えていたが、もう大丈夫なのだと自分を安心させた。
 早くここから出よう。せっかく受かった職場だが、明日の朝一で辞表を出そう。こんな思いはもう二度としたくはない。
 そう思って顔を上げると――
 絵本がまだ落ちていた。
 違うところは、今は仰向けであること。そこに赤い液体がぽたぽたと落ちているということ。
「そ、そんな……」
『……こっちよ……』
 声が降り、思わず見上げる。
 そこには、女が浮かんでいた。いや、ぶら下がっているのだ。天井から吊るしたロープを首に巻きつけて。
『……こっちよ……』
 女が口を開くと、そこから鮮血が溢れ、あごを伝って落ちたそれが絵本にいくつもの斑点を作っていく。
 サユリと目が合った女は、にいっと哂い、そして言った。
『……みぃつけた……』
 
 
 翌朝、館長が出勤すると、事務室にはすでに戸倉がいた。色のあせた、古い新聞を読んでいる。
「キミがその記事を読んでいるということは、つまりそういうことなんだね?」
 館長はその新聞の内容を知っているような口振りで、戸倉に声をかける。
 戸倉は新聞から目を離さないまま、「えぇ」とだけ返す。
 新聞の記事は、今から七年ほど前のものだった。
 とある図書館で児童書を読んでいた母子がいた。子供がトイレに行くと言うので、母は一人で行かせたらしい。しかし、いくら待てども子供は戻ってこない。母は子供が楽しみにしていた読みかけの絵本を続きのページでうつ伏せてテーブルに置き、我が子を捜しに行った。子供はすぐに見付かった。しかし、ほんの数分前からは想像もできない姿だった。一番奥の個室で、全身を切り刻まれて死んでいたのだ。犯人は精神的な異常者で、間もなく摑まった。だが、それから母は気が狂い、ある日、その図書館に忍び込んで首を吊った。読みかけの絵本をテーブルに置き、子供の後を追ったのだった。
「その本は捨てられないのか?」
 館長が言う。
「無理ですよ。何回捨てても戻ってくるんですから」
 もう諦めたとでもいうように、戸倉はそう返した。
 それから新聞を畳んで机に置き、
「それじゃあ、館長。今回も口裏合わせ、よろしくお願いしますね」
「あぁ。辞表も作っておくとしよう」
 そして、事務室を後にするのだった。

絵本

絵本

「一人で残らないほうがいいよ、ここ」

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-21

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