あしたも、きみと

あしたも、きみと

 春。外では桃色の花吹雪が一斉に舞い踊り、新しい一年の、そして中学生活最後の一年の始まりをぼくにいやというほど気づかせてくれている。
 通い慣れた文化部棟のほこりっぽい階段を上り、三階へ。
 やがて目的の部屋の前に着く。汚い字で『美術部』と書かれた紙がドアに画鋲でとめられている。
 ここに足を運ぶのもあと一年。いや、今年は受験生だから、あと半年くらいなのかな。
 古びた鉄製のドアノブに触れると、バチッと静電気が走った。反射的に手を引っ込めて、それから今度は恐る恐る指先で突っついてみる。よし、もう大丈夫みたいだな。それでも指先だけでつまむようにしてノブを回してドアを開ける。
 すると、背後からくすりと笑い声がした。
「相変わらず弱虫なんだね、とーくんは」
「……慎重派なだけだよ」
 そう返してから振り返る。
 背の高くないぼくよりひとまわりちいさな少女。色素の薄いボブに、あどけない顔立ち。特徴的な大きな瞳をいまはおかしそうに細めて、ぼくの失態を眺めている。そして、
「久しぶりだね、とーくん」
 少女――篠塚千早はぼくに飛びついた。
「わ、やめろって! 誰か見てたらどうするんだよっ」
「だってやっととーくんと同じ中学に入れたんだもん。嬉しいんだもん」
 はしゃぐ千早をなんとか引き剥がし、彼女のひたいに人差し指を突きつける。
「その、とーくんって呼び方はやめろよ。もう小学生じゃないんだから」
 千早はぼくが小学校四年生のときに近所に越してきた。ひどく気の弱い転校生は、いじめっ子たちのかっこうの的だった。彼女がぼくと同じ委員会に入っていなければ、ぼくはきっと彼女とかかわることも、顔を知ることもなかっただろうと思う。でも現実はそうじゃなかったから、ぼくは千早を助ける側にまわったんだ。
 それでも彼女はそんなぼくにちょっとずつ心を開き、ぼくが小学校を卒業するころにはすっかり打ち解けてくれていた。まぁそれも限度ってものがあるんだろうけどね。
「いいか、千早。ここはもう中学なんだ。ここではぼくのことは先輩って呼ぶんだぞ?」
「うん。わかったよ、とーくん先輩っ」
 ……まるでわかってない。
「えーと、それで? この部室の前にいるってことは……」
「もちろん入部希望だよっ。よろしくね、とーくん先輩」
 
 美術部とはいっても、そんなに大した絵を描くこともないちいさな部活だ。
 部室には一応キャンパスや木炭、イーゼルなんかも揃ってはいるけど、ぼくはもっぱらスケッチブックに水彩絵の具を使っている。部員は八名。内三人は三年生で、本格的な受験戦争の始まる二学期半ばには引退する。つまりはぼくも、そのくらいしかこの部室で残された時間はないわけで。
 それを知ってか知らずか、千早は今日も騒がしかった。
「とーくん先輩、見て見て。すごくうまく描けたんだよ」
「どれどれ……って、これなに?」
「知らないの? ドラえもんっていうんだよ」
「知ってるよ。じゃなくて、なんで美術部員がドラえもんなんか描いてるんだよ」
「むー、ごめんなさい。ドラミちゃんのほうがよかった?」
「……あー、そうだね」
 すっかり脱力して生返事を放ってやると、「そうだよね、ドラミちゃんはしっかり者だからね」なんて言いながら鼻歌まじりに自分の席へと戻っていった。ひょっとすると彼女は美術というものをナメているのかもしれない。まるで筆の進まないぼくが言うのもなんなんだけど。
 部活が終わると、千早は決まってぼくと一緒に学校を出た。
 桜はすっかり葉桜となり、ほんのちょっと前まで通学路をその色に染めていた桃色の花びらはすでに一片も見当たらない。長く伸びた互いの影を眺めながら、ぼくたちはとりとめのない話をする。担任の先生の失敗談、校庭に紛れ込んだ犬、さいきん聴いている音楽、漫画、そして小学校のときの思い出。
「あのとき、わたしがみんなにいじめられてたとき、とーくんが助けてくれなかったら、今のわたしはなかったかもしれないね」
 懐かしむように、千早は笑った。
「だからさ、わたしはとーくんにすっごく感謝してるんだよっ? ありがとうね、とーくん」
「別にいいよ、そんなこと」
「あー、でも嬉しいなぁ。こうしてまたとーくんと同じ学校に通えるなんて夢みたい」
「同じ学区内なんだから当然だ。それに同じ学校って言ったって一年だけだぞ」
「いいもん。そうしたらまた同じ高校に行くもん」
「こう言うのもなんだけど、ぼくわりと成績いいほうだぞ?」
 定期テストでは常に学年十位以内に入っている。もちろん志望校もそれなりにレベルの高いところだ。
 すると千早は急に泣きそうな顔になって、「わたしじゃ無理?」なんて訊いてきて。
 そういえばこいつ、むかしから勉強も運動も苦手だったな。
「ま、まぁ今からしっかり勉強すればなんとかなるかもしれないけどね」
 あわててフォローしてやると、途端に笑顔になって、
「えへへ、ありがと。とーくんはやっぱりやさしいね」
 そう言って――コケた。びたんっと痛そうな音が響く。
「お、おい、大丈夫か?」
 バンザイのポーズで顔からダイブしたせいもあって、助け起こしてやると、ちいさな鼻の頭がちょっと赤くなっていた。
「なんで何もないところでコケるんだよ。どこでそんなアビリティを取得したんだ?」
 制服の前をはたいてやりながらもう一度顔を覗き、ぼくははっとした。
 千早は泣くのを我慢していた。
 でもそれは、痛みを我慢しているというより、まるで別の苦しさを無理やり抑えつけているような表情で。眉を下げ、下唇を強く噛んで、にぎった両手はちいさく震えていて。
 ぼくが何も言えずにいると、彼女はちょっと悲しそうに微笑んで、
「えへへ、痛かった」
 言い終わるより早く、ぼくの胸に顔をうずめて泣いた。
 ぼくはそんな彼女の背中をさすってやるだけで、やっぱり何も言葉をかけてやれなかった。
 しばらくして顔を上げた千早は、すっかりいつもの笑顔に戻っていた。
「ねぇ、とーくん。わたしね、とーくんが卒業するときに絵をプレゼントするよ」
 後日、彼女は自分の席を部室の端に移動した。理由を訊いてみると、製作過程をぼくに見られたくないからだという。はいはい、好きなようにやってくれ。描いているのがせめて漫画のキャラクターじゃないことを祈りつつ、ぼくは懸命に筆を走らせる彼女をぼーっと眺めていた。
 衣替えも終わり、初夏の日差しがすっかりまぶしくなっていた。
 さいきんの千早は前にも増してよく転ぶようになっていた。相変わらず何もない平坦な道でだ。一度、階段を降りている最中に転びそうになったことがある。そのときはぼくが腕を掴んで事なきを得たが、下手をすれば大惨事だった。ぼくは彼女に、歩くときは足元をしっかり確認するようにキツく言い聞かせた。
 千早の絵は順調に進んでいるようだった。スケッチブックに描いて、帰りには持って出てしまうので、ぼくはまだその絵を見たことがない。頼んでもけして見せてくれないし、いたずら心で覗いてやろうとしても、彼女はすばやく反応して隠してしまうのだ。別にいいけどね。
 
 そしてそんなある日。夏休みまであと一週間と迫ったその日、千早は急にいなくなった。
 部室に顔を出さないだけならまだいい。でも、学校にも来ていないみたいだった。
 彼女のクラスメートに訊くと、その子は言いづらそうにして、やがてこう言った。
「篠塚さん、入院したんです。なんか、その、重い病気らしくて」
 それからぼくは放課後を待って彼女の家へと走った。
 夏の迫る通学路。千早と並んで歩いたその道を、ぼくはひとりで、必死に駆けた。
 ぼくが到着したとき、ちょうど彼女のお母さんが家を出るところだった。ぼくを見つけてにこりと、悲しそうに微笑む。
「あの子ね、もう治らないかもしれないの」
 お母さんは言った。
「さいきん特にふらふらしてて、この間あの子を説得して病院に連れて行ったのよ。なんともなければそれで安心できるからって言って」
 あいつがよく転んでいたのを思い出す。
「でもね、安心なんてできなかった。あの子は助からないかもしれないの」
 ハンカチを取り出して目元を押さえるお母さんに、ぼくはやっぱり、千早があの悲しそうな顔を見せたときと同じように、やっぱり何も言えなかった。ただただ心が苦しくて、真っ暗で、泣きたくなって。でもお母さんの前で泣くわけにもいかなくて。
 あぁ、ぼくはいま、きっと同じ顔をしている。あのときの千早と同じ顔をしている。
 一学期が終わり、夏休みが始まった。
 千早の家族はどこか遠くに引っ越してしまった。有名な医者がいる病院に移るためだと聞いたけど、それだけだった。
 それだけで、ぼくの前から千早は消えてしまった。
 
 それでも季節はめぐり、ふたたび春がやってきた。
 ぼくは元の志望校よりランクをふたつ落とした高校に入学が決まっていた。
 千早がいなくなってもう半年が経つ。
 悲しいことだけど、でもそれより悲しいのは、そんな生活に慣れてしまった自分だ。
 そしていつかは彼女のことも忘れてしまうのだろうか。それはひどく残酷で、恐ろしいことに思えた。
 卒業式が終わり、誰もいなくなった校舎をぶらぶらと歩く。
 文化部棟の三階。ほこりっぽい階段を上がって部室のドアを開ける。
 教室の端にひとつだけ離れて置かれた机。そこは彼女の指定席。
 椅子を引いて座る。彼女はここで、ぼくにプレゼントする絵を描いていた。そう。彼女はここにいたんだ。
 何気なく机の中を探ると、見慣れたスケッチブックが現れた。
 見慣れた、彼女のスケッチブック。
「なんであるんだよ……。忘れていくんじゃねーよ……」
 ぼくは困った顔で笑い、それを開けた。
 瞬間、ぼくの視界いっぱいに、桃色が飛び込んできた。
 スケッチブックいっぱいの――桜吹雪。
 あたたかな日差しのもと、桜の木の下で一組の男女が手をつないでいる。
 それはとてもやさしくて、ひどく悲しい景色だった。
 用紙の右下にちいさく一言、
 
『とーくん、卒業おめでとう! 先に高校で待っててね』
 
『とーくんが大好きな千早より』
 
「ばかやろう……」
 涙はとめどなく溢れ、流れ、落ちた。
「待っててって……おまえ、いないじゃないかよ……」
 その日、ぼくは卒業した。
 
 
「今年の一年、かわいい子いるかなぁ」
 鼻の下を伸ばした中畑のぼやきを、ぼくはとりあえず無視することにした。
「なにシカトしてんだよ、徹。お前だってかわいい子が入ってきたら嬉しいだろう?」
「別に付き合えるわけでもないだろうに。まぁお前はがんばれ」
 読みかけの漫画を閉じて手を振ってやると、中畑は「おうよ、任せとけ!」なんて無駄にテンションを上げていた。皮肉のつもりだったんだけどなぁ。
 まぁ高校生活もあと一年。悔いの残らないようにやってくれ。
 ぼくは漫画本をかばんに入れて、さっさと席を立った。
「おい、徹。もう帰るのか?」
「部室に寄ってく。入部希望者が来るかもしれないからな」
「いるわけねーよ。美術部なんてそれほど流行らないって」
「帰宅部に言われたくねーよ。じゃあな」
 そしてぼくは教室を出て、部室へと向かう。
 しかしまぁ文化部ってのは何でどこでもこう古臭い校舎に集められるのかな。たしかに運動部みたいな華やかさはないけど、それでももうちょっと考慮してほしいものだ。
 ぶつぶつ言いながら通い慣れた廊下を歩く。
『美術部』のプレートが掲げられたドア。そのドアを開けようとして――
「あつっ」
 静電気の不意打ちに思わず手を引っ込める。それから今度は指先で突いてみて、つまむようにドアを開ける。
 そういやあのときも……三年前も、同じようなことがあったっけ。
 あのときはあいつがいた。
 懐かしい顔を思い出す。
 そうだ。あいつはあのときこう言ったんだ。
 思い出す。
 思い出して、口にするより早く、答えは後ろからかけられた。
「相変わらず弱虫なんだね、とーくんは」
 これこそ不意打ちだった。
 懐かしい、ぼくがずっと待ち望んでいた声。
「あれ? そういえば先輩って付けるんだっけ? あわわ、ごめんね、とーくん先輩っ」
 慌てる彼女に振り返り、ぼくはぎゅっと、彼女を抱きしめた。

あしたも、きみと

三題噺「静電気」「卒業式」「通学路」

あしたも、きみと

「相変わらず弱虫なんだね、とーくんは」

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-21

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