自販機くん

1.

 和彦は、夜の散歩に出た。
 日中は契約社員で忙しく働き、夜間はコンビニのバイトに出ているが、今日は休みだ。明日も休み。勤務時間調整だかなんだか知らないが、生活費がカツカツの財布事情には、あまり有り難くない休日だ。
 いつもならアパートでのんびりアニメでも見ているが、なにやら蒸し暑く、涼しげな外気に誘われて、イソイソと出掛けたのだ。
 和彦のアパートは、丘の上にある。それほどの勾配はなく、緩やかな坂道が海へ向かって下りている。散歩にはうってつけだ。
 古い住宅地を抜けて海岸へ向かって坂道を下っていくと、少し開けた場所がある。そこは街灯が少なく、人通りも滅多にない。車の通りもない。
 ガードレールの向こうは崖だが、吹き上げる風が心地いい。その向こうには海に臨む平地に街が密集している。
 その眺望を見下ろすように、ガードレールを背に、場違いな自動販売機がある。
 かつて酒屋があった場所だというが、酒屋はとっくに店を畳み、古びた家屋は取り壊されて、この自販機だけが残ったらしい。
 今日は何か飲もう。
 いつもは素通りするが、今日は何か飲みたい気分だ。
 自販機の明かりに照らされながら、何を飲もうか散々悩み、結局コーヒー無糖にした。
 出費はできるだけ避けたいが、たまにはいいだろう。
 自販機の背後に回り、ガードレールに寄り掛かって遠くを見ると、坂の下の町の灯が綺麗だ。都会のネオンほどの数ではないが、山に迫られ海に臨む町は、暗闇の中で開けた宝石箱のように集中していて、一層光が協調される。
「ヒマだな」
 不意に声がして、辺りを見回したが、誰もいない。
 気のせいか。しかし――。
「あぁ・・・・。ヒマだ」
 また、声がした。飲み掛けの缶コーヒーを持ち替えて、自販機の前に回ったが、誰もいない。照らされるのは、和彦の姿だけだ。
 ふと、足元を見ると、小さな三毛猫が一匹、こちらを見上げていた。
「・・・猫かな」
 まさか、猫が「ヒマだ」と言ったのか。
 覗き込むようにして猫を見つめると、猫は「ニャァ」と一声鳴いて、変わらずこちらを見上げている。
 やっぱり、猫は猫か。では、空耳か・・・。
「よぉ、ミケ。今日は、何か楽しいことがあったか」
 違う。確かに頭の上から声がした。
 和彦は自販機の上を見上げて、絶句した。
 いつの間にか自販機の上に人がいる。青年だ。トシの頃は二十歳過ぎ。Tシャツにジャージ。片足を立ててナナメに座り、猫を見下ろしていたが、ふと視線をスライドさせた。
 和彦と視線があった。
「あれ、まさかコイツ、俺が見えてるのかな・・・。見えていると思うか、ミケ」
 確かに視線は合っているが、現実味がない。和彦を見ながら言っているようだが、和彦に話しかけているわけではないようだ。
 ミケと言われた猫が、自販機の上と前の二人を交互に見つめてニャアニャアと鳴く。
「あぁ、そうか。わかった、ミケ。試せばいいんだな。よし、ニイチャン、俺が見えてたら右手を上げてくれるかな」
 真顔で真っすぐ見つめられ、和彦は唖然としながらも、言われた通り右手を上げた。
 確かに、見えているからだ。
 自販機の上の青年は、絶句で怯んだ。
「俺が見えてるのか・・・。可哀相に」
「可哀相って、どういうことですか。っていうか、そんな所に上ってると危ないですよ。降りてきたらどうですか」
 よくわからないが、反射的に言い返すと、自販機の上の青年は不貞腐れたように口をすぼめた。
「ヤダよ。ここ、居心地いいんだ。それよりニイチャン、霊感あるんだ」
「いや、ないですけど・・・」
「ないって――。俺が見えている時点で、あると思うんだけどな」
 物憂げに言いながら、自販機の上で器用に寝そべる。そんなスペースはないはずだが、なんともゆったりと寛いでいる姿勢が滑稽だ。
「本当に、幽霊なんですか。しっかり見えてますけど・・・」
「俺、七日前に死んだんだ。よく覚えてないけど、なんだか突然弾き飛ばされた感じでさ。気がついたらフヨフヨ浮いてた」
「なんだって、自販機の上にいるんです。しかも、この自販機の・・・」
 周囲で事故が起こったとは聞いていない。何の変哲もない単なる自動販売機だ。立っている場所が、崖っぷちのガードレール沿いで、見晴らしがいいのが利点かな。
 自販機の上の青年が、月のない空を見上げて少し考えた。和彦から見れば、自販機の光の強さで星は見えにくいが、自販機の上の彼から見れば、多くの星が見えてるかもしれない。
 自販機の上の青年は答えを見つけたのか、和彦を見下ろして肩をすくめた。
「俺さ、生きてる時に母ちゃんから『死んだら明るい方へ行きなさい』って言われてたからさ、死んでそれ思い出してさ。それで、明るい方を探したんだ。ま、『上の方かな』と思って上へ向かってたんだけど、ついもっと明るい光があると思ってわき見したら、コイツに引き寄せられてさ」
 自販機を指して『コイツ』といい、べったりと腹ばいになった青年が、一層だらける。
「魔が差したっていうヤツかなぁ。成仏し損なったんだろうね、俺」
 ほとんど『他人事』口調で話す青年は、単なるお気楽なプー太郎にしか見えない。
「ま、俺のことは気にしないで、ゆっくり飲んでいってくれ」
「・・・飲めっていっても、僕の金だし。それとも、霊力でジュース出せますか?」
「そんな芸があるわけない」
「・・・使えないですね」
 自販機の上の青年の即答に、素っ気なく返し、和彦は缶コーヒーを飲み干した。
 足元で、三毛猫が小首をかしげて和彦を見上げていた。
「ミケも、毎日ご苦労だな。俺がここに来てから毎日、様子を見に来てる」
 膝を折って三毛猫の頭を撫でていた和彦は、気持ち良さそうにグルグル言っている小さな身体を両手で抱き上げて肩口に乗せた。
「こいつ、ミケって名前は三毛猫だからですか?」
 よく考えれば幽霊と会話をしているワケだから、そんなに悠長にしている場合ではないと思うが、何故か和んでしまっている。
「いや、本名はミケランジェロっていうらしい。飼い主は、三丁目角の高塚さん。俺は面倒くさいから、ミケって呼んでる」
 三丁目の角の高塚さんと言えば、和彦も時折通りですれ違い挨拶をする中年夫婦だ。いつも家の塀に猫が数匹まどろんでいる。
「飼い猫はミケだけで、他の猫はミケの友達らしい。ミケは見ての通り美人で大人しいから、モテるんだ。ニイチャンのことが気に入ったらしい」
 プチ情報を聞きながら、肩口の柔らかい毛並みを撫でる。普段、猫だの犬だの生き物に触ることは極力避ける和彦だが、通訳付きのせいか、抵抗なく馴染んでいる。
「ミケは、女の子ですか?」
「いや、ミケランジェロだから男の子。見ての通り美少年だ。好みだろ?」
「それは、単純に『可愛い猫だから好み』なんですか、それとも『美少年だから好み』と言いたいんですか?」
 一瞬、何かに引っ掛かり問い返すと、自販機の上の青年は興味を失くした顔で天を仰ぎ、ゴロリと寝返りを打って和彦に背を向けた。
「そんなこと考えながら言ってるわけないだろ、ニイチャン。物事は、いろんな方向から見ればいろんな面白みがあるだろうけど、いつもそんな見方をしなきゃいけないってワケじゃない。あるがままに、ないがままに。気楽にいこうぜ」
「はぁ・・・」
 いきなりな切り替えしに戸惑ったが、肩口のミケの肉球がペタペタと和彦の頬を気持ち良さそうに叩いて我に返った。
「ミケが『落ち込むな』って言ってる」
 ちゃんと通訳をしながらも、もう和彦の方を向く気はないようだ。
「ずっと、そこにいるんですか」
 自販機の上に向かって問うが、明確な答えは返って来なかった。
 夜も遅い。
 ミケが和彦から飛び降り、自販機の上に向かってニャアと鳴く。帰るよ。
「おう、お疲れさん」
 自販機の上の青年は、軽く手を挙げて柔らかい口調で答えた。
 和彦も、ミケに促されるように自動販売機から離れる。
 アパートに向かって坂道を上り、坂のカーブで自動販売機が見えなくなる瞬間に振り返ると、何事もなく夜を照らす自動販売機があるだけだ。その上に、人の姿があるワケではなかった。
 夢オチか・・・。ありうる。

2.           

 夕方は涼しく、凌ぎ易くなってきた。
 和彦は、少し不満げに口をへの字に結んだまま、いつもの散歩に出掛けた。
 通りすがりの通行人に聞こえない程度の独り言が、夕方の空気に紛れていく。
 今日は、職場で二回呆れた。一回目は自分より年配の新人が、仕事のやり方を聞きに来た割には「それは気に入らない」と反論して仕事放棄した。もう一回は、昨日男にふられたお局様が突然キレて、そのとばっちりを受けた。仕事が山積みになった結果、サービス残業を二時間させられた。
 ヘトヘトだ。
 坂道を降りて来ると、少し開けた所に自動販売機がある。沈む夕陽を背に、皓々と光る明かりは、その存在を主張しすぎていた。
 そして、今夜もいた。
 自販機の上で、Tシャツとジャージで片足を立てて坂の下に見える街を眺めている。
 先日会った時も、同じように自販機の上にいた。あれから一週間程度経ったか。
「よう、ニイチャン。相変わらず俺が見えるのか」
 言ったのは自販機の上の青年。本人曰く、幽霊だという。
 からかう様に和彦を見下ろしている。
「まだ成仏しないんですか」
 適当に問うと、
「できたらしてるよ」
 と苦笑で返してきた。
 幽霊は和彦の足元にいる美しい猫に話しかけた。
「今日は、報告か、ヴァンス」
「ヴァンス――」
 和彦が繰り返して足元を見ると、青みがかった灰色の毛並みの良い猫がいた。短毛で艶があり、フニャリとした触感が体言されたゴツイ顔の美しい猫だ。その目は大きく、自販機の光で一層青く光っている。時折見かける野良猫だ。
 猫は呼応するようにナァゴと一声鳴き、和彦よりも視線を上げてもう一度鳴いた。
 ナァゴ。
「お前に挨拶してるよ。こいつは、探偵。俺は、ヴァンスって呼んでる」
 ヴァンスと呼ばれた猫は、ナァゴナァゴと何やら呪文でも唱えるように鳴いている。
「へぇ、石田さんちの奥さんは、箪笥の上から三段目、下着を入れてる引き出しの奥にヘソクリ貯めてるのか。青森さんちの爺さんは、サロンで知り合ったお高さんって婆ちゃんと文通ねぇ。幾つになっても元気だね。あぁ、矢部さんは不倫か――、え、連れ込んだの。大胆だねぇ」
 ヴァンスは少し得意げに鳴いていて、それをニコニコと頷きながら自販機の上の青年が通訳する。
「・・・それは探偵ではなく、のぞきですよ」
 口を挟むと、猫と青年が同時に和彦の方を見て、面白くなさそうな表情を浮かべる。
「そうなのか――。気晴らしにはなるけどな」
 青年の意見に同意するように、ヴァンスがニャアゴと声を上げる。
「いや、そういう遊びは、やめてください」
 真顔で制して、和彦は周りを見回した。
「最近ミケランジェロを見ませんが、どうしたか知ってますか」
 相変わらずヴァンスは行儀良く座って和彦を見上げているが、和彦の足元には他に数匹の猫が群がっている。見かけたことのある猫ばかりだが、三毛猫のミケランジェロの姿がない。
 ヴァンスがニャアゴと、自販機の上に向かって鳴いた。
「ミケは、売られたってヴァンスが言ってる。なんだか高い金で取引されたらしい」
 青年が通訳する。
「美少年であることに価値があったらしいぞ」
 やや語弊がありそうな発言だが、まぁ深くは突っ込むまい。
 そうして立ち話をしていると、いつの間にか足元は猫だらけだ。
 白くふわりとした短毛の雌猫が、和彦の足に身体を摺り寄せてじゃれるのを横目に、トラ柄の腹が垂れ下がっている雄猫が、和彦の足の上にふてぶてしく乗っている。
「ニイチャン、好かれてるじゃねえか。ハナもバーソロミューも、ニイチャンが好きだよ」
 白い猫を左腕に抱え、重量のあるトラ柄の雄猫を右肩に抱えるようにすくいあげると、自販機の上から面白そうに声がかかる。
「そいつらは、結構人見知りするんだぞ」
 頭上からの言葉を確認しようにも、この馴れ馴れしく人の両肩でそれぞれまったりしている二匹のどこにも『人見知り』などという言葉は見当たらない。しかし――。
「ハナはわかりますが、トラ柄のコイツはバースですよ。武富さんちの」
 和彦は反論した。この二匹の飼い主ははっきりとしていた。名前も知っている。
 トラ柄はバース。タイガースファンの武富さんちのじい様がつけた。
「バーソロミューのがいいだろ、かっこよくて」
「いや、呼びたいように呼ぶのも、ほどほどにしてください。混乱するんで」
「そうか。結構気に入ってるよ、バーソロミューは」
「――ヒマですよね、本当に」
 羨ましいくらいに。
「当たり前だろ。幽霊が忙しかったら、生きてる奴らはたまったもんじゃないぞ。生きた心地がしないだろ」
 ワケのわからない理屈を言って、青年は笑った。
「お前はやけに疲れてるよな」
 指摘されて、今日の顛末を伝えると、青年は大きく息をついてしみじみと和彦を見た。
「ヴァンスの言うところの『真面目』が出てるねぇ」
「なんですか、それ」
「お前は、ここらのどの猫や犬に言わせても『真面目』で通ってるよ。いいじゃないか、ちゃんと生きてるんだから」
「生きてますよ、誰でも」
「――俺、死んでる」
 そうだった。つい生きてるヤツと同じ感覚で話してしまい、状況を忘れてしまっている。
 少々ばつが悪い。つい別の話にもっていこうとして、グチになった。
「ウチの親は、放任主義で、社会人になるのと同時に家を追い出されたんですよ。いきなり『一人で生活しろ』って言われても、途方に暮れるだけですよ」
 というと、
「それでも、そうできてるならいいだろ。俺は、いつまでも親のスネをカジってトロトロしてたから、ニイチャンのようなヤツは拝みたくなるよ」
 いや・・・幽霊に拝まれても・・・と、内心後ずさりしながら、和彦は苦笑した。耳元でハナのグルグルと鳴く心地よい音が優しい。
「何かするだけが愛情じゃないだろ」
 遠く町の灯りを見下ろすようにして、青年は自販機の上に寝そべった。
「若い時から親が何もかも手を貸してたら、年寄りになった時困るだろ。親は自分より年寄りだぞ。自立することを覚えてるほうが得だ」
「そうかな」
「ただ『見てる』ってのは、結構骨の入ることだぞ。ニイチャンもやってみろ、ツライぞ」
 まったくツライ様子はない。単純に適当に流しているだけのような言葉だ。
 だが、不思議と得心がいった。
「ま、ヴァンスもだけどさ。ニイチャン、人間付き合いは盛んじゃないが、この界隈の犬猫にはめっぽうウケがいいぞ。散歩の合間にそいつらが話す内容を聞けば、なるほど納得するけどな」
「なんですか、それ」
「犬猫たちだって、世間話はするだろ。ウチの主人はガメツイとか、あそこの子供は乱暴で厄介だとか。で、聞いていると、ニイチャンの噂話も結構あって――」
「・・・犬猫の、でしょ?」
「そうだよ。人間のする噂話よりも真面目で面白いぞ」
「そんなもの聞いて、楽しんでるんですか」
「あぁ、だってヒマだもん」
 満面笑顔でピースして見せるが、和彦にとってはまったく面白くない。
「・・・いつ成仏するんですか」
「だから、成仏できるならしてるって」
 残念でした、と付け加えて、幽霊は完全に自販機の上で仰向けになり、会話は終了。
 バースが何を思ったか、和彦の頬を肉球でフニュフニュと押す。
 結構な圧迫感にバランスを崩しかけ、押さえるようにバースの頭を鷲掴みで撫でてやり、和彦はしばらく自販機に背中を預け、両腕に抱えた猫の重みを堪能した。

3.                      

 賑やかな子供の声が道路から消え、夕陽が落ち、あちこちから夕餉の匂いが漂い始めた頃、和彦は強張った顔で坂道を下りて来た。
 理不尽だらけの職場に嫌気が差した。
 仕事を『しない』『できない』同僚の分まで、仕事が回ってくる。当たり前に――。狭い職場の中で、ゆったりと構え、取り留めのない話を延々と続けている同僚の傍を、すり抜けるように走り回る。時間一杯。
 何故、それが当たり前なのか理解できず、上司に文句を言うが、まともに取り合ってはもらえない。
 理不尽だ。
 坂道の途中の自販機の周りには、いつも集まっている猫たちの影はなく、遠く密集している街のまばらな明かりを背に、傍に立つ倒れかけた木製の電柱が物悲しい。
 が、和彦には何もかもが腹立たしい。
 怒りの持って行き場はなく、前のめりに突き進んで立ち止まった自販機を睨んでも、その中に欲しい飲み物はなく、握り締めた小銭を拳ごとポケットにしまう。
 いつまでこんな思いをしなきゃいけない。
 ただただ怒りにまかせて自販機を蹴ろうとして、自販機に怒られた。
「おい、こら。俺を蹴るなよ」
 相変わらず自販機の上で寛いでいる青年が、顔だけ和彦に向けて咎めた。
 まだ、いた。
 和彦も自販機の上から覗く多少垂れ目がちな顔を見返して、いつになく低く凄んだ。
「蹴らなきゃ、気が済まない」
「蹴ったからって済むもんじゃないだろ」
「わかってますよ」
 と、口で言いながらも足が上がる。
 和彦の動作に呼応するように上体を起こして、自販機の上に胡坐をかいた。
「わかってるなら、蹴るな。他を考えろよ。時間がもったいないだろ。お前だって、蹴りゃ痛いし。俺だって、蹴られりゃ痛いし」
 当然のように反論する青年に、訝しげな視線を向ける。
「痛みを感じるんですか、幽霊が」
 疑うようなあからさまな問いに、青年が少し口角を上げてあやふやな顔を見せる。
「多分な。わかんないけど」
「じゃ、試しに蹴ってみて――」
 尚も和彦が蹴るフリで足を上げると、
「だからやめてくれ。痛かったらどうしてくれるんだよ」
 と、自販機の上の青年は喚く。
「とにかく蹴るな。どうして蹴りたいか、理由を言え。蹴られるのは御免だが、お前の言い分は聞いてやる」
 両手を降参するように挙げて、青年は交渉に出た。
 暫し、流し目で自販機の上を見ていた和彦は、諦めたような大きなため息を一つついて、話し始めた。
 外灯に浮かぶ和彦の半身に、耳がピンと立ち、毛が長く、まるで豪奢な白い襟巻きを巻いたようなメス猫が擦り寄る。この界隈のメス猫の中でも一番のモテ娘のサリーだ。
 和彦の感情を抑えた声に合わせるように、和彦の足に身体を擦りながら円を描くように回っている。まるで堂々巡りの和彦の思考のようだ。
「生きてりゃ、色々あるさ」
 和彦の話が途切れて暫く沈黙が流れた後、胡坐に片肘を乗せていた青年が、労わるようにそう呟いた。
「ずっと・・・このままかな」
 纏わり付いているわりに、抱き上げようとすると嫌がるように一声鳴いた柔らかい体を肩口に置いて、和彦は大きく息をついた。
 自販機に背を預ける和彦から視線を逸らし、海を挟んで浮かぶ島の影に視線を向けた。
「ずっと・・・は、ないな。死ぬし」
「それって、いつか――でしょ」
「俺も、いつか――だと思ってたよ。どちらかと言えば、死なないとも思ってた。俺は、憎まれっ子だったから、世に憚るだろうって言われてたしさ。殺しても死なないって。――でも、死んだよ」
 やけにあっさりとそう言う青年の顔を仰ぐと、満面の笑顔が返ってきた。
「ま、悩んだ時は、『誰でも出来ること』と『いつでもできること』なんかは放っておくんだな。『今しかできないこと』と『お前しかできないこと』を考えろ」
「持論ですか」
「あぁ、俺のオヤジがよく言ってた。『死ぬのは、いつでも誰でもできるからな』って、必ず付け加えてさ」
「――どういうことです」
「さぁ、オヤジは知ってたのかな。俺が死にたがってたの」
 色々あったんだよ、俺も、と続ける青年の表情からは、微塵の悲壮さも感じない。
「だからって、今、死んでるのは、自殺じゃないからな」
 サラリとそう言った後、
「ま、あきらめるのはいつでもできるからさ。何でもいいからやってみれば? 生きてるんだし。何もしないよりはマシだよ」
 そう付け足した青年は、ふと言葉を切って虚空を見つめ、かなりな時間固まったまま動かなかった。
「あぁ、だから・・・これまで自分で死なずに生きてたぞ。・・・じゃあ、これはどういうことだ」
 独り言のように呟く言葉を聞きながら、肩口でグルグルと甘えた声を出すサリーの額に顎を乗せて次の言葉を待った。
 自販機の上では、ああでもないこうでもないと独り言が続いている。
「確か、自転車こいでて、それから・・・どうしたっけな・・・」
 指折り数えて確認するように呟いていた言葉が、ふいに明るく変わる。
「そうだよな。お前と話す力があるんだ。その残ってる力全部使って、成仏するよう努力してみるのもいいかもな」
「成仏の仕方、わかったんですか」
 目を丸くしている和彦の質問には答えず、おもむろに自販機の上ですっくと立ち上がると、青年は晴れやかな顔で和彦を見下ろした。
「お前、何かやりたいこととかないのか」
 突然訊かれてしり込みをしたが、答えを促すような微笑に引かれるように、頭の右側で考えた。
「特に、何かやりたいなんて、考えたことありませんが」
 そう答えながら、和彦はふと思った。
 『やりたいこと』がないわけではなかった。だが、『やりたいこと』が『生計をたてられること』に繋がらないのではと、ずっと思っていた。
 和彦の親の口癖は、『親は知らん。好きにしろ』だ。
 大学まで出て、今更親に援助してもらうのは気が咎めた。もちろん、何がしたいわけではないが、やってることにとやかく口を挟まれるのは嫌だ。ならば、自立するしかない。
 で、どうするか問われているわけだ。
 ふいに、ある考えが思いついたが、口元まで出て・・・飲み込んだ。
 それに気付いたのか、気付かなかったのか。
「多少、気は晴れたか」
 問われて答える言葉は見つからないが、そんな和彦の思いを理解しているかのように、自販機の上の青年は自信に満ちた視線を天空へと向けて、大きく腕を広げて深呼吸した。


 和彦は、引っ越す決心をした。中身が無理なら、まず形から変えてやれ。
 決めてしまえば、動きは早い。とっとと、職場に退職願いを出し、文句を言われながら身辺整理をし、親に一言愚痴られながらも『元気でいなさい』の餞別に誕生日と正月分だと言って小遣いをもらった。
 引越し業者に荷物を託して、駅まで歩く道すがら、いつもの坂道を下りて行くと、自販機の傍に、バースを抱いている中年男性がいた。
 痩せこけた身体にラフなシャツとスラックス。無精ひげが野暮ったい、少し童顔気味の男だ。
「よぉ、ニイチャン。元気か」
「?」
「なんだ、覚えてないのか。あれだけ仲良くしたじゃないか。このバーソロミューとも」
「そいつは、竹富さんちのバース・・・、って、バーソロミューって・・・」
 バースをバーソロミューと呼ぶのは、
「この自販機の上の幽霊」
「やっと思い出したか」
 その笑顔は、確かに自販機の上の青年に似ている。しかしそれほど年配とは思えないが、かと言って『青年』と言えるほど『若い』とも言えない。しかし・・・。
「まさか・・・」
「そ、俺、幽霊だったらしい」
 無精ひげの年齢不詳男は、腕の中で伸びをして肉球でバシバシ頬を叩いてくるバースをもみくちゃにしながら、現実味のない話をした。
 目が覚めたのは、管だらけの体を横たえた病院のベッドの上だったという。
 たまたま面会に来ていた友人が、いきなり開いた目に驚いて、フロア中に響く叫び声を上げた。そいつが言うには、
「俺さ、自転車こいでたら、横からバイクがぶつかってきて、吹っ飛んだらしい。それから昏睡状態のまま百日過ぎたとこだってさ」
「百日って言ったら、ちょうど初めてここで会った頃ですかね。良かったじゃないですか。皆さん、喜んでくれたでしょう」
 百日間も眠っていたとすれば、もうそろそろ目覚めることはないと諦めていたかもしれない。
「それがさ・・・」
「?」
「無茶苦茶怒られたぞ。親なんて、『逝く順番が違うだろ』って、顔見るなり殴るしよ。友人知人は、『遅い』って頭ごなしに説教飛んでくるしよ。途方に暮れて目を閉じると、無理矢理瞼こじ開けられるしよ。いたたまれなかったぞ」
「それだけ心配かければ、当然でしょうね」
 楽しそうに不満を言っている男の顔を見ながら、和彦は肩をすくめた。
 どこから嗅ぎ付けてきたのか、猫のハナとサリーが競うように和彦の足元に纏わりつく。
 暫く、お互い黙ったまま、ひたすら抱いている猫の体を撫でていた。
「俺、引っ越すんですよ、遠くへ」
「へぇ、そうか。やりたいことができたのか」
「いえ、それはまだ分かりませんけど、とにかく変わってみようかなと思って」
「そうか」
 短い言葉を返し、バースを両手で抱え上げる。
「何でもやってみればいい。俺くらい時間かければ、また何か違ってくるからさ」
「――どのくらい時間をかけたんですか」
「大学卒業して・・・二十数年」
「二十数年って・・・」
 単純に足し算をしても、和彦の倍。
「幽霊だった時は、もっと若く見えましたよ。二十代後半とか」
「今だって若いよ。俺、五十だもん」
 『若い』の基準がおかしいぞ。
「ま、五十にしては若く見えますが」
 一応、とってつけてみた。
 オッサンは、上機嫌だ。
「だろ」
 バースが短く鳴くと、ふわりと地面に着地して和彦を見上げた。
 またな、と言われている気がして、
「元気でな、バース」
 と声をかけると、一瞬ニヤリと笑うようにヒゲを震わせて坂の上に去って行った。
「じゃあ、俺も行くわ」
 無精ひげがやけに似合う笑顔を向けて、片手をヒラヒラさせながら、バースの後に続く。見送る背中は細くて猫背だが、不思議と力強くて頼もしい。
 和彦は、傍にある自販機の上を仰いだ。このなんの変哲もない自販機の上で寛いでいた幽霊が、今、足音でリズムを取りながらゆっくりと遠ざかっていく。
 この非現実は、しかし、確かに何かを変えている。
 和彦も、一歩、次に向かって踏み出した。
「今度お迎えが来たら、真っすぐ成仏してくださいね。自販機の明かりなんかに惑わないでくださいよ。傍迷惑なんで」
 和彦の軽口に、童顔の中年男が小気味良く笑った。
「大丈夫だ。光の射す方へ向かって行けば、いつか目的地に着いてるもんさ。俺も、お前もな」



                             完

自販機くん

自販機くん

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 1
  2. 2
  3. 3