Ash

専門学校時代に、課題で書いていた物です。

1

幼い俺が、火の海に佇んでいる。泣くわけでもなく、ただただ必死に。
熱い。人が焦げる臭いがする。
ふと振り向けば誰もいなかった。誰も残っている訳がなかったのに。
足首が何かに引っ張られ、倒れる。いつもは冷たい床が熱い。足首に纏いついた手の痕が、火傷のように痛く残っているような気がした。
「っ、」
呼吸が止まり、目が覚めた。呼吸を整えてみると、何故か自分の左頬に触れて温度を確かめていることに気が付いた。自分の手の感触に嫌悪を思いだし、はっきりと目が覚めた。現実に頭が戻らない。が、戻りたい。
手元の目覚まし時計を見れば、午前三時二十分。きっと今日は、眠れない。仕方なく、コーヒーメーカーに豆と水をセットした。
未だにあの、火の中なのに乾いてはいない皮膚湿りや、様々な物の焦げた臭いが繰り返し思い出される。
“アイツ”は夢の中の産物である。おぞましくも俺の中に住み着いている。
けたたましい音に、我に返る。コーヒーが出来たようだ。俺はカップを棚から出してコーヒーを入れる。
頭が醒めなくてぼんやりと眺めていると、その黒い液体が血液に見えて、コップを投げてしまいたい衝動に駆られた。牛乳を入れて色を変えることする。
香りがなくなってしまったコーヒーは途端に飲む気がなくなる。だが仕方ない。
俺はふと、先程触れた頬にもう一度触れていることに気が付いた。無意識のうちにやってしまう癖だ。
何もないのに。
夢を見た後、必ず触れてしまう。夢の中では足以外、掴まれていないはずなのに。
あぁ、このままだと今度はノイローゼになるな。
不本意だが、病院でもらった精神安定剤をコーヒー牛乳で流し込む。
まだまだ夜は、開けないようだった。

2

今日から企画展示が始まる。少し早めに出勤して、来館者に説明するマニュアルに目を通し、じっくりと絵を眺めていると、「今回は、どう?」と館長夫人が品を感じさせる笑みを浮かべ、落ち着いた声音で声を掛けきた。
真っ直ぐに癖のなく伸びた白髪混じりの髪に、笑むと目尻に寄る皺。年齢は四十代前半くらいに見える。歳を聞いたことはない。容姿だけでなく落ち着いた品のある喋り方や雰囲気も、彼女の年齢を感じさせる。
俺が働いている吉森美術館(よしのもりびじゅつかん)は一応市営の美術館である。現在館長である吉野慎司さんは、設立に立ち会い、そのまま館長を任された。夫人の咲子さんも館の企画担当であったらしい。
古い、だけど品のあるレンガ張りの外壁と、それを少し囲む四季の花々、館に入ってみれば作品を際立たせるような白い壁と大理石の床。平衡感覚を失うほどの一定空間。それを見て俺は、学生時代就活中ここを訪れたとき、ここにしようと決めたのだ。
「えぇ、今回も、相当見応えのある企画展だと思います」
「藤村くんは、モネが好きなの?」
咲子さんは、今俺が前にしていた絵画を見てそう言った。クロード・モネの『レインスブルグ近郊のチューリップ畑と風車』である。俺は、絵を見るために外して手に持っていた眼鏡を掛け直し、咲子さんを見る。
「この前も見ていたでしょう?『かささぎ』」
「まぁ…はい」
「私もモネは好きよ。今回の展示も、あなたが好きそうだなぁと思ってたの」
「ええ…そうですね」
モネの色彩感覚と何とも言えないありふれた風景から感じる光。俺は、それがわりと好きだ。
「まだ開館まで時間はたくさんあるから、他の作品も是非、じっくり見てね」
「はい」
咲子さんは受付カウンターに戻って行った。仕事のためにも、確かに見ておく必要はありそうだ。
とりあえず軽く全てを見てみたが、どれもいい絵だった。モネの作品も何点かあった。が、特に惹かれるというわけでもない。元々、それほど好きかと言われれば、どれも等しく感動はする程度である。
確かに綺麗だ。印象派、モネの色彩は特にそれを感じる。だが絵なんて、火にくべてしまえば結局灰になるのだ。
開館してから俺は、何人かの客に『レインスブルグ近郊のチューリップ畑と風車』や、『睡蓮』など、主にモネの解説をした。
「藤村さん、」
閉館の音楽が流れ始めた時だった。後輩の山崎真梨が静かな駆け足で駆けてきた。俺の肩下にある視線を見下ろす。山崎は背が低い。大きな目で俺を見上げる姿は、まるで小動物である。
そんな山崎の後ろに、長身で体格のいい、顔をにやつかせた男がいた。
「あの、熊谷先生という方がお見えです…」
露骨に嫌な顔をしないように、山崎に視線を戻した。俺が礼を言うと山崎は、そそくさと下を向いて去ってしまった。
「よう、ずいぶん嬉しそうな顔してくれんじゃん」
どこがだ。
幼馴染である熊谷孝信は軽く右手を翳すと、ニヤニヤしたまま歩み寄ってきた。
「何、」
「なんだよ、つれないな」「まだ仕事中なんだけど」「もう終るだろ」
仕事場にまで来やがって。
孝信はわざとらしく、俺の背後にあるカウンターの方へ微笑み、「どうも~」と、従業員に挨拶をした。
孝信をわざとらしく避けるように真横を通り、事務所へ入る。

3

孝信は小山田総合病院に勤務している。要するに医者だ。そのせいか市の公務員である俺よりも多忙に見える。少なくとも、市の規定に沿って5時に閉まる美術館よりも閉院時間は遅いはず。
では、どうして今ここにきているのか。
それは、ここに来ることが仕事であるからだ。
わざわざ時間をかけて帰宅準備をした。とは言っても着替えだって、上のジャケットくらいしか指定があまりない、つまりほとんど私服みたいな服装で仕事をしているから、時間がかからないのだが。
「お疲れさまです」
山崎が上がってきた。「お疲れさま」と返すと、ロッカーを開け、なにかを取り出してテーブルに置いた。
観光名所などのお土産に使われている箱に、一つ一つ小さな袋に包装されたクッキーだった。見た目的に手作りだろう。形や焼き色が一つ一つ違う。
「よかったら食べてください。昨日作ったんです」
山崎はたまにこうして手作りで菓子を作って事務所に差し入れする。趣味なのだそうだ。
「前回藤村さん、甘さ控えめな物が食べたいって行っていたので、甘さ控えめにしてみました」
そういえばそんなこと言ったような気がする。
ちょうどいいや、ちょっとゆっくりしていこう。
「紅茶でいい?」
「え?あ、はい」
ちょっと戸惑った様子だ。
茶漉しに茶葉を入れ、急須に湯を注ぐ。
山崎が着替えもせずに椅子に座っていたので、「紅茶はちょっとかかるから、着替えたら?」と促した。
「あ、そうですね。
…藤村さん、お急ぎじゃないんですか?」
なるほど、それで着替えなかったのか。
「あー、あいつ?いいよ。勝手に来ただけだし」
「…」
「まぁ絵でも見てるだろう」
ふと、山崎は勢いよく立ち上がり、更衣室に入った。
「急がなくていいよ?」
「いえいえ、紅茶冷めちゃいますから!」
相変わらず、可愛らしい後輩だ。
二人分の湯飲みを用意して椅子に腰かけた。
急ぎめに着替えたのか、私服の、胸元のリボンが少し斜めになっている。山崎が椅子に座った。紅茶を入れてやりながら、「リボン、曲がってるよ」と教えてやる。
嬉しそう紅茶を受け取ったかと思うと、「えっ!あ、ホントだ!」と、慌てて直し始めた。
山崎がリボンを直したところで、クッキーを一袋貰った。
「いただきます」
「はい、どうぞ!」
一袋に三つほど入っていた。ウサギとクマと星型。ウサギの形のクッキーを食べる。
「あれ?」
ほんのりと紅茶の味がした。
「紅茶味のクッキーなんです…」
「ふっ…!」
思わず笑ってしまった。
「ちょっと言い出しにくかったんですけどねー…」
「うん、おいしいよ」
「よかったです」
山崎も自分で食べてみる。 満足したのか一回頷いた。
「さて、そろそろいくよ。ごちそうさまでした」
「いえいえ、こちらこそ紅茶ごちそうさまです。なんか引き止めちゃったし…。あ、湯飲みは洗っておきますよ!
お疲れさまです!」
「ありがとう。お疲れさま」
山崎の言葉に甘え、事務所の、連絡事項が書かれているホワイトボードを確認して事務所を出た。孝信と目も合わさずに、従業員に挨拶をしつつ先に外へ出た。孝信も後について来て、外に出るなりマルボロに火を点ける。

4

「通りがかったんでな」
通りがかったなんて白々しい。仕事場まで来ておいてなんだ。
「ドライブでもどうだ?」
「病院に?」
「個人的に」
よく言う。本当は閉院前で、患者のところに行って来るとでも言ってきているくせに。
孝信は煙草の煙が上って行くのをぼんやりと見送っている。見送っても、どうせ拡散してしまうというのに。
「帰りは家でいいか?どうせ歩きで来てるんだろ?」
煙草が減ってきた頃、ふと言う。こうして俺の色々な細かい事まで把握されていることが不快だ。
「…いいよ」
孝信は火を消して煙草の吸殻を携帯灰皿に捨てる。
駐車場まで歩いていくと、探す前に孝信の白いメルセデスが目立って分かった。
鍵に付いているボタンを押すと、離れた位置でもロックが外れる。
車のドアを開けて薫る、きつすぎない香水が妙に落ち着く。確か金木犀の香水だ。孝信は車内では煙草を吸わない。この香りと車内を守るためだ。
「随分楽しそうだったな」「…今週は病院に行ったけど」
「今の俺は個人だ。
俺はお前の事を心配しているんだ。お前がこうして人と接する仕事を普通にこなしているのを見て、良かったって思ってる」
心の底が、嫌なほど言葉に浮上していることに気付いているのだろうか。
いつもそうだ。お前にとって俺は“可哀想な奴”なんだろ?そう言い切ったお前の顔、自尊心で歪んでいるように見えるのは気のせいか?
「…じゃぁ睡眠薬をくれよ」
「お前なぁ、」
「眠れねぇんだよ」
狼狽えた孝信を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「そういうんじゃねぇよ。大丈夫、馬鹿なことはしない」
俺は死ねない。自分を殺してやるほど自分を許していない。
「…催眠作用の強い安定剤に変えることを検討しておく」
そして少しの間が生まれた。こんな時、コイツに言ってやりたいことなんて山程あるのに、まだ言うまでの確信がない。
「…雪史(ゆきひと)」
ふと呼ばれたその声に、何とも言い難い慈悲っぽさが滲んでいる。眼を見なくても、どんな表情をしているのが分かる。だから眼を見て話すことなんてしない。
「何だよ」
「あの子、何て名前だ?」「あの子?」
「ほら、さっきの」
「あ、ああ。山崎か」
「あの子、いい子じゃないか」
「…だから?」
だからと聞かなくても分かっている。横目で見た顔がにやにやとしていた。
「どうなんだ?」
「は?」
「あーゆー子、いいと思うんだけどなぁ」
「いい子だよ。だけど別にそういうんじゃない」
「多分あっちはそうでもないぜ?少なくとも先輩後輩以上でみてる、あの目は」
こいつは俺の優位に立とうとしてお節介を焼くクセに、何も知らないんだ。
イライラする。
そんなんで俺が何とかすると、本気で思っているのか、コイツは。馬鹿みたいだ。そんなもので俺が過去から解放されると思っているのか?

「なあ、雪史、」
「着くまで眠らせてくれよ」

お前の話なんてもう、聞きたくない。

だけど、寝たら寝たできっとまたあの夢を見るんだ。

それでいい。俺は忘れちゃいけないんだ。これは罰だ。あの焼け付くような火の中。その日からの鎖だ。

ただ眼を閉じた。またあの日を繰り返すと分かっていながら。

5

襖を少しだけ開けた向こうをのぞいている。ああ、この景色。俺は一度経験し、何度も見た事がある。
女と男の、妙に鼻から抜けた甘ったるい声がする。裸の男女が絡み合っている。女の方は、母だ。男の方は、見た事のない人物だ。
おぞましい。人間とは何て汚いんだ。急に吐き気がして後退ろうとすれば、背中に何かが当たった。見覚えのある制服のズボン。これは兄だ。
無表情で息を殺した兄が、ただじっとその行為を見ていた。俺の見上げた視線に気付くと、視線を下げ、頭に優しく手を置く。いつも穏和に微笑んでいた兄がその時はただ無表情で、目だけが激しい狂気のような怒りを映していた。
兄はそれから、俺の頭に置いていた手を離し、その手で襖を勢いよく開ける。母と男は驚いてこちらに視線を寄こした。
「優里」
兄は無言で二人のところまで歩み、母を蹴飛ばした。男は後ずさるも、腹を蹴り上げられ、蹲った。
兄はそれから母の髪を引っ掴み、壁へ投げ飛ばす。断末魔のような奇声を発する母の腹を散々に蹴ったり踏んだりしていた。
「アンタがそんなんだから父さんに見捨てられてんだよ」
囁くように静かに言う兄の声には、憎しみが蠢いていた。俺は恐怖のあまり泣くことも出来なかった。そのうち男は服を持って俺の横を通り逃げ出した。俺に目もくれない。多分気付く余裕がないんだ。
この時初めて、兄が母さんと話しているのを見た。こんな凶暴な兄を見たのも始めてだ。俺が物心付いた時には、母さんは兄の存在を認知していなかった。兄は、母さんの前の夫との子供なんだと、父が話していた。だから、今の父さんと母さんから生まれた俺は、8歳も離れていた。
これが、兄の暴力の一番初めだった。

6

「来週は水曜日に来てくれないか?」
孝信は、俺が車から降りるとそう言った。普段は火曜日である。何か用でもあるのか。
「ああ、分かった」
返事をすると、メルセデスが走り去った。
夢から覚めてもまだ、話は頭の中で進んでしまう。
父は、母の浮気をいいことに、浮気していた。
自分がまた頬に触れていることにふと気が付いた。
あれから兄は目指していた六大に入るための勉強をやめた。そして母や俺に毎日のように暴力を奮った。
父はほぼ帰ってこない。母の浮気をいいことに、自分も浮気をしていたのだ。
父が帰って来る日は、兄は自室に籠るようになった。 母はもともとの育児放棄と恐怖とで兄には話し掛けない。父も、そんな母にも兄にも呆れて何も言わなかった。
部屋についても明かりは点けないままベットに倒れ込んだ。
ぼんやりと、右手を上に翳して眼を閉じてみる。夜の静けさと頭を巡る記憶が胸の中で炎を燃やす。

めらめらと燃える火はやがて、家と家族を燃やして灰にしてしまった。
兄に熱い手で足首を掴まれ、倒れた。兄はそれから馬乗りになって俺の首を絞めた。
柱に頭をぶつけて気絶した兄。俺が押し飛ばしたんだ。最期に兄は、俺に言葉を掛けたのに。俺は一切聞かなかった。
兄が点けた火は、全てを灰に変えた。俺から、奪ったんだ。それと同じく、呪縛が生まれた。
俺は一人で逃げたんだ。誰一人助けようとなんてしなかった。
「何でお前なんかが生きてるんだ」
兄にそう言われている気がしてならない。
そんなの、俺だって分かんない。

7

火曜日、山崎に飲みに行かないかと誘われた。丁度今日は診察もないし、その誘いを受けた。
山崎とはたまに、飲みに行くことがあった。そして、絵について語ったり、世間話をしたりする。
いつもは面倒なのでカウンター席に座るが、今日は珍しくカウンターから少し離れたテーブルへと掛けた。 着いてすぐに山崎はカシスオレンジを頼んだ。俺は取りあえずビールを頼む。
何だろう。今日は少しだけ雰囲気が違う気がする。景色が違うからだろうか。
いつも通り絵の話を始めた山崎は、どことなく落ち着かないような気がする。話の本質は別にあって、それまでの繋ぎのような気がする。まだ一杯目だが、心なしかペースが早い気もする。
俺は、会話に出来た間に、話を振ってみることにした。
「何かあったの?」
「…」
山崎は通りがかった店員にビールを頼んだ。ビールなんて珍しい。
「いつもと違うからですか?」
「ああ、まぁ…」
「…」
少し沈黙が流れると、すぐにビールが来た。それを流し込むように山崎は飲む。どうやら酔うのを待っているらしい。
「別に話したくないなら、いいよ?」
「優しいですね」
まさかそう返されるとは思っていなくて、俺は押し黙った。俺はてっきり、仕事の愚痴か何かを勢いで喋る気なのかと思っていたので対処に困ってしまった。
「初めて藤村さんを見たとき、この人には何か翳があるのだと、思いました」
「翳?」
「だけどいつも緩やかで、優しいんです。私の話は聞いてくれても、自分の事は話さない。それが藤村さんの優しさだと思ったら、少し悲しくなりました」
何を言おうとしてるんだ?山崎は、純粋に何かを考えているような表情だ。
「好きなんです、藤村さん」
…そう言うことか。

俺の中で組み上がった疑念が確信に変わった。
孝信だ。診察が一日ズレたことも、ヤケに山崎が真実を含んでいることも。
「ごめん」
だが山崎は、特に表情を変えない。ずっと必死で泣きそうな顔だった。
「俺には昔、家族がいた。だけど火事で、三人とも急にいなくなってしまったんだ」
耳の奥で、炎が燃え尽きる音が蘇る。いまだに鮮明に思い出せる情景。
「俺は、三人を置いて逃げたんだ。助けようとも考えなかった」
「藤村さん、」
「本当の事を言うと、火が上がった混乱の中で、皆死んじまえって思ったんだ。浮気を繰り返す両親と暴力を揮う兄に対して、むしろそのほうが幸せなんじゃないかとさえ思った。自分勝手な思い込みだ。一人逃げている途中、兄に足を掴まれた。兄が馬乗りになったとき、俺は薄れていく意識の中で、あぁ、兄が火を点けたのかと察した。何故そう思ったのか、原因があったのだろうけど、覚えていないんだ。起きたら病院のベットだったんだ。
そして施設に入った。それからかな、孝信がよく接してくるようになったのは。ただのクラスメートだったのに、俺を哀れんだ」
俺が友達を作ってもあいつはよくついてきた。そしていつの間にか、その友達たちは離れて行った。たまに、それでも遊んだが、何となくあいつ側について、俺を下に見ていると分かった。
あいつの事だからどうせ、「あいつはいろいろあったんだ」とか言って容易に話のネタにしたんだろうと思う。

8

俺は山崎の目を見た。こんな時に泣く女なんて当てにならないと、山崎以外の女に対してだったら思うだろう。だけど山崎は、自分の誇示や優越感もないように見えた。俺はそんな奴らとばかり出会ってきたんだと気が付いた。
「ごめん」
俺もあいつも誰も、ろくでもないものだったんだと思う。
「分かっていました。
本当は今日、この話を出すのをやめようと思っていました。あなたに想いを伝える引き合いに出したようになってしまった自分を、情けなく思いました。
でも、居た堪れなくなってしまって、腹が立ちました。腹が立つ自分に、初めて気付いて、気付いたら、今日一日が何かもやもやしたんです」
「…そう」
あまりにも、真っ直ぐだ。
「いつも通り、話をしてくれますか?」
「うん」
そう返事をすると山崎は、今度は本当に嬉しそうに笑った。
俺が断った女は、今まで彼女以外にいなかったんだと、この時初めて気が付いた。

9

その夜、夢に変化が表れた。
俺は逃げている。足を引っ張られて倒れ、うつ伏せだった状態から力強く仰向けにされて。
兄が伸ばしてきた手が怖くて目をきつく閉じたのに。熱い手が俺の頬を包むように触れてきて目を開けた。
昔みたいに優しく微笑んだ兄の眼には、決心が浮かんでいるような気がして。俺は兄が全てを壊してしまったことを悟った。
「ゆき、」
最期に一言を残して、兄の背後に焼け落ちてきた柱がぶつかった。それを見て俺の意識はなくなった。だけど気付いた時は病院のベットで、髪や、荷物を入れる籠の中に入っていた自分の衣服には血が付着していたのだ。
ああそうだったんだ。どうしてずっと忘れていたんだろう。そして、ずっと記憶を捏造し続けた。
その方が楽だったんだ。自分を正当化出来たから。兄のせいにすれば、どうにか自分を許せる気がしたんだ。
縛られていたんじゃない、縛っていたんだ。
兄は一緒に死のうとしていたのではなかったんだ。
夜の闇が染みる。反射的に頬に触れても、涙の気配はなくただ冷たかった。
泣けなのはもう随分前から知っていた。泣いたところでどうにもならないということが身に染みているからだろうか。
なぁ兄貴。俺はあんたよりも遥かに年を取ったんだよ。
手を額に当てると、甲がひんやりとしていた。

10

「おう、やっと来たな」
診察室に入り、時計をちらっと見ると、午後六時を十分ほど経過していた。六時三十分には診察が終了する。まあいい。話すことはたった一つだ。
遅れたことを謝りもせずに俺は目の前に座る。向き合った孝信は、いつも通り職業と自己が入り混じったような眼をしていた。
「今週、何か楽しい事はありましたか?」
「いいえ、別に」
「食事は摂りましたか?」「いつも通り、昼を」
「睡眠は?」
「昨日、夢を見た」
孝信に夢の話をするのは初めてだ。これが、最初で最後だ。
いつもと同じはずの壁の白や白衣の白がとても眼に付いた。孝信の、サービス業の笑顔や優越。これで、充分だった。
「どんな?」
「昔の夢。事件前の変化と事件を、繰り返し繰り返し俺は何度も見てきたんだ」「昔の…火事の?」
「そう。
でも不思議だよな。夢では確かに見ていて意識もしているのに、もう兄の顔なんて現実では覚えていないんだ」
兄と過ごした時間よりも、一人の時間の方が長いからだ。何年も前から気が付いていたのに。
「どういう、夢なんだ?それは、はっきりとしているのか?」
「ああ。昨日の事のようにな。だけど、俺には抜けがあったんだ」
「抜け?」
「…なぁ孝信。お前、昨日は用事でもあったのか?行きなり診察の日を変えるなんて」
いきなり投下した関連性のない質問に、孝信は面食らったような顔をしたが、すぐに考えて、「別の人の診察をしてたよ」と答えた。
「昨日、お前が言っていた山崎と飲みに行ったよ。山崎に誘われてな」
「ほお、どうだった?」
「好きだと言われた」
「あぁ、へぇ!で、で?」「断った。
なぁ、お前に聞きたい事があるんだ。俺からは“死臭”がしたりするか?」
「と、言うと?」
「彼女はなぜだか、俺の過去を詳しくではなかったけど知っていたんだ。誰にも話したこともないしそんな素振りも見せていないつもりだったのにな」
調子を変えて孝信にカマを掛けてみる。そう、それはまさしく患者そのもののような態度に写るように。孝信は、眼を見据えて口元で笑い、「へぇ」と短く言った。
「死臭が漂ってないと言えば、嘘だな。だがその変化は、俺くらいにしかわからんと思う。お前は、普通に暮らせてるよ?病状だって良くなってる。それはお前だって感じているだろう?」
ああ、そうやって“俺のお陰”みたいな顔しやがって。偽善のような笑みも下手なシラの切り方も。俺は十年以上もそれを見てきたんだ。
「俺は兄を殺したんだと思っていたよ。だけど違った。兄は事故死だった。思い出したんだよ。俺はそんな兄すらも捨てたんだ、あの火の中で。
…どうやって俺が、あの状況で病院まで運ばれたのか、そこはずっと疑問ではあったがそこまで考え込まなかった。だが、昨日夢の中で起きた変化で、分かったんだ。
兄は最期、俺の頬に手を当てたんだ。俺の記憶や夢では、あの時首を絞められた気がしたのに。そして兄は最後に一言言った。「逃げな」って死にそうで泣きそうな顔してさ」
俺はずっと、逃げてるというのに。
兄は逃げた。父を継がねばならないという教育の圧力と、実の父と別れて教育することに飽きた母に無視され続ける理不尽から。
そして兄は、俺にも逃げることを許した。しかしそれが俺にとって呪縛になった。
「その背後に柱が落ちてきたんだ。俺をかばった形になった」
だがきっと、意識があったんだ。だから俺が助かり、兄は死んだのだ。
「もういいよ、分かったから」

11

孝信は、まるで可哀想な物を見るような眼で俺を見て、自分に酔いきった哀愁の笑みを浮かべた。
「自分を責めるな。そんなお前を見ている、俺が辛いよ」
「お前はいいなぁ。いい奴だよ、お前」
ぞんざいに嘲笑うように言ってやると、微笑みは一変、息を飲み込んだのが見えた。俺は皮肉な目で孝信をまっすぐに捉えた。
「お前を支えたのは、俺の事件なんだな」
「…雪史?」
「俺はな、そうやって俺を哀れむお前を見ていて吐き気を覚えていたよ」
見る見る顔色が変わっていく。ああそう、終わるんだ。
「お前みたいな自己満野郎、大嫌いだよ、ずっと」
孝信は呆れたような、驚いたような顔をしたが、すぐに怒りと少しの焦りを見せた。俺は何も言わない。ただ、空気だけが語る。
「そんなっ」
「山崎に話したんだろう?」
「…俺は、お前を想って」「違う」
そう言うと、空気は固まったまま二人の距離を測った。今度ははっきりと、眼を見て「違うだろ?」と、自分でも驚くほどに落ち着いて哀れみを含んだ冷たい口調で言葉を吐き捨てた。長年の付き合いがある相手に、こんなにも慈悲がない言葉が出るものかと、少し悲しい気もした。
「…じゃぁ、これで」
二度と会うことはない。
孝信が呼び止めた声は、俺が閉めたドアに消された。

病院の外に出ると、とても空気が澄んでいるような気がした。遥か彼方が、燃えるように紅い。あの太陽は、燃えている。
俺は、一つ静かに深呼吸をしてみた。茜と紫と紺が混じる空気を吸い込む。
『もしもその日に炎がなかったら、どうしていましたか?』
山崎に聞かれた言葉を思い出す。それには答えなかった。山崎も、もう起こってしまったことに返答なんて待っていなかった。
紫色の落日。そろそろ夜が全てを支配する。何度、何億日この景色を見ても、それは変わることがない。流れて、辿り着くだけだ。
一息吐いて、俺は駐車場へ歩き出した。
もしもあの時助けてくれたのがあんただったなら。
そう思えるだけで、ほんの少し楽になる。だが、今まで以上に悲しかった。
立ち止まって一度眼を閉じてみる。あの日の若い背中に、紅紫の夕陽を感じた。
風が頬に触れ、体温を奪っていくような気がした。

Ash

3年ほど前に書いたものを編集しました。
課題提出した際に、作家の先生からいただいた書評(それほど大それたものでもないのですが)や手直しを元に再構成しました。
3年ほど書くことから離れていたのでなかなか進まず…。リハビリのような結果になりました。

ダークが揺らがない、というお言葉をいただきました。いかがでしょうか?

Ash

短編 完結済みです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-06-20

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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