魔術師と刀使いの少女

0 ラファ=ベルクーレのプロローグ

   1


 ――もう、ダメかもしれない。

 僕と両親を乗せたキャラバンは、魔物の襲撃を受けていた。
 周囲を見渡しても助けてくそうな人なんて何処にもいない。何をとっても緑、どこまでも自然が広がる山の中。キャラバンが走っていたのは目的地への道のり、その難関の一つである山道だった。
 魔物が出るのは分かっている。だからこのキャラバンは、しっかりと傭兵も雇っていた。
 ……それでも、ダメだった。
 物量攻めと言えば分りやすいだろうか。最初に車体を引く陸竜が襲撃され、機動力を失われたところで総攻撃された。雇った冒険者にした依頼は護衛。傭兵として雇われていた彼等は、当然の如くその襲撃に対応していた。

 ――でも、さすがにこの数は無理だった。

 目の前に広がるのは死体の群れ。キャラバンに乗っていた人々の亡骸。身体を引き裂かれ、あるいは叩き潰され、見るも無残な姿で地に横たわっている。鼻を突くのは、頭がおかしくなるくらいの死臭。少しでも気を抜けば、あまりの臭いに意識を失ってしまいそうな程だ。
 あるいは。
 もう、全てを諦めて、全てを投げ出して、ここで意識も手放してしまった方が楽になれるのかもしれない。
 お母さんは殺された。お父さんも殺された。殺され方なんて思い出したくもない。思い出したくないのに、その光景が瞼の裏に焼き付いて取れそうもない。
 動悸が早い。心臓が跳ね上がるたびに、胸の周囲が強く痛む。腕も脚も震えがひどい。歯の根が合わず、カチカチと音が鳴る。
 視界の先では、巨大な豚が棍棒を握ってこちらを見据えていた。
 巨大な豚――正確に言うなら、人型の体格を持つ豚面の化け物だ。
『オーク』、と言えばなんとなく想像はつくかもしれない。端的に言って肥満な体型。身体の表面を覆うブヨブヨした灰色の皮膚。血の臭いに負けず劣らない酷い体臭。歪んだ顔つきに、口からはみ出た鋭い牙。
 この世界を闊歩する『魔物』の一種だ。
 奴らにキャラバンの人達はみんな殺されてしまった。身体に、棍棒に、返り血を浴びたオークどもはそれぞれ醜い顔面を笑みの形に歪め、僕を見てくる。
 ――このままだと僕も殺されてしまう。
 狭窄した視野の中、どうしようもなくがむしゃらに動かした手が何かに触れて、カランという硬質な音を響かせた。
 視線を向ける。そこにあったのは、キャラバンが雇った冒険者が振るっていた得物の一つ。刃渡り六〇センチメートル程のブロードソードだった。
 息を呑む。
 このまま黙っていればオークどもはすぐにでも僕をなぶり殺しにするだろう。その事実は揺らがない。

 それなら。
 何もしないでただ死を待つくらいなら。
 せめて、抗ってやろうじゃないか。

 ブロードソードの柄を強く握りしめる。それを杖のように扱いながらゆっくりと立ち上がり、全霊の殺気なるものを込めた視線を投げ付ける。
 七歳の身体にとって、このブロードソードはかなり重たい。持ち上げて構えるのがやっとかもしれない。満足に振るうことはおろか、上段に振りかぶるすら出来るか分からない。
 だからなんだ。
 奴らに一矢報いることが出来ればそれでいい。
 オーク共は剣を構えた僕を見て一瞬怯んだが、すぐに「どうせガキだ」とでも言わんばかりに一層深い笑みを浮かべる。
 ――震え、止まれ。
 走り出す。ブロードソードの切っ先で地面を削りながら、オーク共の先頭に立つ個体を睨み付ける。狙いは脚。ブヨブヨな肉がついた太い脚だ。
 低い、呻き声とも咆哮とも言える声を発したオークは、僕の小さな身体目掛けて棍棒を振るった。左肩から右腰を両断する軌道の一撃。

「うああああああああああああああああああああッッッ!!!」

 僕はそれを全力で身を捻って避け、その回転の勢いのままブロードソードを斜めに振るった。鈍色の剣閃が宙を駆ける。半ば剣の重みに振り回されるようになりながら、僕は力任せに斬撃を叩きこんだ。
 ズンッ! という低い音が炸裂した。
 同時に、僕の腕へと重たい衝撃が帰ってくる。
 確かな感触を覚えながら、ブレていた視界をオークの脚へと定める。

 ブロードソードの刃は、オークの脚に数センチメートルだけ食い込んで止まっていた。

「……ッ!?」

 動揺している暇はなかった。
 空を切る音が聞こえた瞬間、横っ腹に強い衝撃と痛みが走る。視界がズレ、口から空気と共に液状の何かが噴き出る。赤い。これは、血か。体感速度がスローモーションに感じる中、こっちに向けられたオークの太い脚が目につく。
 そうか。
 蹴られたのか。
 身体が吹っ飛ぶ。
 物凄い勢いで風景が通り過ぎていく。

「あがっ!?」

 再び背中に強い衝撃を受けて、肺から空気が絞り出された。樹にぶつかったらしい。
 そして、遅れて強烈な痛みが全身に襲いくる。

「あばっ!? ぐぇ、ぶあっ!!? おぇ……ッッッ!!!?」

 痛い、イタイ痛イいたいッ!!?
 まともに声を上げることが出来ないレベルの痛み。激痛と言って申し分ない。全身を覆いつく引き裂くような痛みは、視野を真っ白に染め上げた。
 何も考えられない。そんな余裕はない。
 意識が薄れていく。白色のベールが掛けられた視界の奥では、オーク共が僕を見て嘲笑っているようだった。
 もう、それを嫌に感じることもない。
 だって僕は、もう――




 ――意識が途切れる直前、黒い暴風がオーク共を包み込むのを見た気がした。



   2



 暗闇から引き上げられるような感覚を覚え、ゆっくりと瞼を持ち上げた。霞んだ視界に映るのは、見た事のない木の天井。焦げ茶色のそれをぼんやりと眺めながら、僕は自分の身に何が起きたのかを考える。
 オークに蹴り飛ばされた僕は樹に直撃。
 あの時あの場所において、気を失うというのは死に直結する状況だった。
 その上で意識を保つことが出来ず、僕は目を閉じた。
 ならここは何処なんだろう? もしかすると、『あの世』というものなんだろうか?
 いや、それはおかしい。身体に掛けられた気持ちいい毛布の感覚は鮮明だし、焦げ茶色をした木の天井も現実味を帯びている。それに気を失う直前に見た、あの黒い暴風。渦巻くようにしながらオーク共を包み込んだ、正体不明の旋風。あれは一体、なんだったんだろう?
 霞んでいた視界が正常に戻りつつある。

「……ん?」

 天井がハッキリと見え始めたとき、視界の隅に何やら別の影が入っていることに気が付いた。倦怠感を思いつつ、瞳の動作だけでその影へと焦点を合わせる。
 ――影の正体は、綺麗な女の子のものだった。
 とはいっても、七歳の僕からしてみれば何歳も年上の女の人だ。断言することはできないけれど、見た目だけで判断するならおよそ一四歳から一六歳くらいじゃないだろうか。透き通った緑色の長い髪、前髪から覗く真っ赤な色の眠そうな瞳。顔立ちは端正に整っていて、まるで作り物を思わせるような容貌だった。
 誰、なんだろう。
 死んだ僕を迎えに来てくれたのかな?
 ……そもそも、僕は今どういう状況なんだろう。

「目、覚めたんだ」

 女の人の口が小さく動き、綺麗な声が耳に届く。落ち着いた、そして凛とした、耳が幸せに感じるような声だった。
 おそらく僕に掛けられた声なのだろう。
 ゆっくりと口を開く。

「……はい。あの、ここは、何処なんですか?」
「ここはわたしの家だよ」
「い、え……? あの世、とかじゃないんですか?」
「きみはなにを言っているの?」

 あまり機微のない表情で、それでも分かるくらい『訳が分からない』という意思を浮かべる女の人。その反応を見て、僕も無意識に首を少し傾けた。
 反応を見る限りだと、僕の考えは見当違いだったということだろう。つまりここは、あの世でもなんでもない、現実だということだ。
 オークに襲われ、血の惨劇の中、両親が殺されていくのを見ている事しか出来なかったのも全て、現実だということだ。
 天才だなんだと褒めそやされても、所詮僕はただの子供でしかない。肝心な場面で何も出来ない、弱虫でしかなかったのだ。
 夢であってほしいとは思う。でも、それはあり得ない。なにより僕は、過去にこの女の人を見た事もないのだから。

「ちょっと待っててね。いま、あたたかい飲み物をとってくるから」

 女の人はそう言うと、ゆっくりとした足取りで部屋から出て行った。僕はそれを見送った後で、奥歯を噛み締める。
 目元が熱い。視界が歪む。涙が零れ、頬を伝う。
 ……もう、お母さんにも、お父さんにも、会うことができないんだ。

「うっ、ぐ……」

 きっと、たった七歳の僕が魔物を相手に出来る事なんてなかったのかもしれない。恐怖に足をすくませ、ただ惨劇を見ている事しか出来ないのは、普通の事だったのかもしれない。
 それでも、やっぱり。
 何も出来ず、惨めに泣いてしまう弱い自分が、悔しくて仕方なかった。



「はい。これ」

 部屋に戻ってきた女の人が持ってきてくれたのは、何やら温かいスープだった。コップの上から中をのぞいてみると、うっすら橙色をしている。他にも野菜などの具が少し入っていて、匂いも美味しそうだった。

「ありがとうございます」

 一言でお礼を告げ、猫舌の僕は息を吹きかけながらゆっくりとそれを口に含む。スープの熱が身体を温めていくのを感じながら、一口を飲み込んだ僕は小さく息を吐いて、言う。

「……温かい。美味しいです」
「そう。よかった。だれかに何かをつくるの、ひさしぶりだったから」

 そういって彼女は、感情の薄い表情に喜色を灯した。
 綺麗な人だ。と、そう思った。
 まだ子供の癖に何を言っている、と思われるかもしれないけれど、僕が生きてきた中で断トツに美しく、儚い。
 緑色の髪の毛だって見た事がなかったけど、凄く綺麗だった。

「あっ、その、助けて頂いて、ありがとうございます」
「別にいいよ」

 口角を緩く持ち上げた女の人は、ベッドのすぐ側にあった椅子に腰を掛けた。
 ――聞きたいことが、いくつかある。

「あの……質問しても、いいですか?」
「ん。いいよ」
「じぁ、じゃあ、ここはお姉さんの家
「!!!?」

 最後まで言い切る前に、目の前の女の人がビクリと身体を痙攣させた。その表情にはありありと「驚愕」の二文字が描かれている。……なんで驚いているんだろう? 訳が分からなくて寧ろこっちが驚いたんだけれど。

「ハッ!? ごめんなさい。それで、なんだったっけ?」
「え、えと、この家は、どこにあるのかな、って」
「『お姉さん』って、言ってくれないの?」
「……はい?」
「わたしのことは『お姉さん』って呼んで?」
「は、はい……? わ、わかりましたけど」
「ん」

 話が飛んだというかよく分からない状況だけれど、取りあえずこの人のことは『お姉さん』と呼んでおこう。さっき、スープを美味しいと言った時よりも嬉しそうな顔をしているし。

「しつもんの答え。ここはきみがたおれていた山のなかだよ。人目につかない、深いところだけど」
「そう、ですか……」

 あの森……魔物が多く出る森の中なんだ。そんな場所に建っていて大丈夫なのかなと思ったけれど……、

「……あの、黒い風は、お姉さんの魔術ですか?」
「そうだけど……見てたんだ」

 確認するような言い方をするお姉さんだが、特に怒っていたりする訳ではないようだ。
 やはりあの風を生み出したのはこのお姉さんだったらしい。確かにあれだけ強力な魔術を使えるとなれば、この立地でも問題ないのだろう。
 魔術。如何なる物理法則をも超越した、魔力による超常。まるで慣れ親しんだかのような言い草だけど、それほど近しい存在だった訳じゃない。まだ子供の僕は、あれほどの攻撃魔術を間近で見た事はなかった。

「……、」
「……、」

 沈黙。
 僕は口を開くことが出来ないでいた。これ以上お姉さんに聞くことだってない。あるとすれば、この山の降り方くらいだけれど、そんな気力だって湧き上がってこない。どうせなら、あの場所で死んだ方がマシだったのかもしれないとさえ思えてくる。……そんな事、助けてくれたお姉さんには口が裂けても言えないけれど。
 だが、そんな感情が顔に出ていたのか、お姉さんは少し悲しそうな顔をして言う。

「死んだほうがマシだなんて、おもっちゃだめだよ」

 小さな掌が伸ばされ、僕の頭の上に乗っかる。灰色の髪の上でぎこちなく揺れる。

「そんなかなしい事、かんがえないで?」

 その言葉に。
 僕は、僕を助けてくれたお姉さんへの申し訳なさと、自分の浅慮に後悔の念を覚えた。

「……ごめんなさい」
「うん」

 死んだほうがよかった。そんな訳がない。きっと僕の両親だってそんなことは望んでいないはずだ。お父さんはオークの攻撃から僕を守って殺された。お母さんは僕を逃がそうとして殺された。二人とも、僕を生かそうとして犠牲になった。……それを、死んだ方がよかっただなんて。そんな訳、ないじゃないか。
 ナーバスになっているのかもしれない。そう思い、自分の両頬を掌で張る。
 とはいえ、現状、僕はどうしようもない。
 山を下りるという点に関しては、お姉さんに少し力添えしてもらえればなんとかなるだろう。この山に住んでいる彼女なら、最適ルートを教えてくれるに違いない。
 でも、そのあとはどうなる?
 僕には行く宛ても、一人で生きて行く(すべ)も持ち合わせていない。
 俯き、考える僕に、頭から手を退けたお姉さんは尋ねてくる。

「君はこのあと、どうするの?」

 丁度僕が考えていたことだった。いや、僕の表情や雰囲気を読み取って、この話題を持ち出したのかもしれないが。
 だから僕は答えに窮した後、小さく首を振って言った。

「……分かりません。どうすればいいのか、どうしたらいいのか。僕は一人じゃ、なにもできない」

 事実、あの時も何も出来なかった。僕はまだ、いや或いはこの先も、一人じゃ何もできない『子供』のままなのかもしれない。

「――なら、わたしと一緒にここにすむ?」
「え?」

 その言葉はちゃんと耳に届いていた。その上で思わず聞き返す。

「住む、って……」
「うん。君、かえる場所がない……んだよね? それなら、ここに住みなよ」
「い、いいんですか……?」

 恐る恐る、そんな表現が似合う様子で尋ねた僕に、お姉さんは小さく頷きながら、

「いいよ。わたしも丁度、ひとりでいるのがたいくつになっていた頃だったから……君がいやなら、強要はしないけど」
「嫌だなんてそんな! そんなこと、ないです!!」

 お姉さんが少ししょんぼりした顔をするのを見て、条件反射的にそう返す。

「……よかった」

 そして、薄らと顔をほころばせるお姉さんを見て、これでよかったと思ってしまうのだ。

「自己紹介がまだだったね。わたしの名前はシュトゥルム。シュリィお姉さんってよんで?」
「シュトゥルム……シュリィ、お姉さん」
「ん。いい子」

 そう言いながら僕の頭を撫でてくるシュリィお姉さんの顔はとても満足げだ。頭から伝わるお姉さんの手からは、失ってしまった温かさを感じられるような……そんな気がした。

「君のなまえは?」
「……僕はラファ。ラファ=ベルクーレです」
「そっか。よろしく、ラファ」
「はい。よろしくお願いします、シュリィお姉さん」

 そして、僕はお姉さんの下でお世話になる事となった。

 ――彼女が黒風のシュトゥルムと呼ばれる魔女だと知ったのは、そのすぐ後である。


   3


「僕に魔術を教えてください」

 時刻はお昼前。キャラバンがオーク達に襲われ、シュリィお姉さんに助けてもらった翌日。身体の調子はすこぶる良い。とはいっても、昨日正式にここに住まわせてもらうことになってから、つい一時間程前まで眠っていたんだけど。そのおかげか、寝起きのちょっとした気だるさを抜けばほぼ快調だ。
 森の中の家はとても静かだ。僕が住んでいた町だと、この時間帯にもなればそれなりの喧騒に包まれていた。でもここは違う。静謐。時折聞こえてくる鳥や動物の鳴き声が心地よい。どういう理由かは分からないけど、ここには魔物が近寄ってこない。きっとシュリィお姉さんが何かしらの魔術を使い、魔物の接近を阻んでいるのだろう。
 そんな事を考えながら、貸し与えられた部屋から外を見ている内に思い至り、僕はシュリィお姉さんにお願いしたのだ。
 魔術を教えてほしい、と。
 この世界で、僕みたいな脆弱な人間が一人で生きて行くのは難しい。勿論、無理ではない。両親に、知能の発育が良く天才だと言われていた僕だ。勿論、そんな肩書きをもらってつけあがる様な事はしてないけど。
 だからきっと、戦わずして生きて行く方法もあるのだろう。
 でも僕は、力が欲しいと思った。
 力があれば、この先、大切に思う人を守ることが出来る。
 いざとなれば、シュリィお姉さんだって助けることが出来るだろう。
 助けてもらった上、こうして養ってもらうのだから、その恩は一生掛けても返せるかどうか分からない。
 ならせめて最低でも、自分の身くらいは自分で守れるようにならなければいけない。
 そんな訳で、僕は早速シュリィお姉さんにお願いしたのだが――

「……きっと無理だとおもう。わたしは、たぶん、人におしえるなんてきようなこと、出来ない」

 ――返答はあまりよろしいものではなかった。
 彼女が魔女だということは先日聞いた。気を失う直前にあの黒い風を見た時から、お姉さんは凄い魔術師なんだとは思っていたけど、まさか魔女だとは思っていなかった。
 魔術師はある一定の力量を越えると別の名が与えられる。男の場合は魔導師。女の場合は魔女だ。聞きかじりの知識なので詳しいことは分からないが、彼女が魔女を名乗る以上、かなりの使い手なのだろうと予想できる。
 教えてくれた際の歯切れの悪さは少し気になったけど……きっと謙遜とかだと思うし。
 とはいえ、シュリィお姉さんから魔術を伝授してもらうのは難しそうだ。
 どうしようか悩んでいると、不意にシュリィお姉さんは言ってくる。

「わたしには無理だけど、魔術についてのほんならいくつももってる。それを使うといい」

 言いながら彼女はすぐ側の棚から何冊かの本を取り出し、僕の前に差し出す。黙ってそれを受け取った僕は、あまりの重さに取りこぼしそうになるのを必死に堪えた。
 ありがとうございます、と一言お礼を言い、部屋を出て行こうとしたその時だった。

「――そう言えば、ラファのてだすけになりそうなものがあったような」

 言うや否や、シュリィお姉さんは読んでいた本を机に置いて立ち上がる。
 ……手助けになりそうなもの?
 部屋から去っていく彼女を見送りながら、取りあえず渡された本を近くの机に置いて辺りを見渡す。
 今僕がいるのは、おそらくこの家にある全ての本が集まった、いわゆる書庫みたいな部屋だ。壁一面を覆うように並べられた本棚には、ぎっしりと本が並べられている。……どれもこれも読んでみたい。
 ともあれ、今は渡された本に目を通しておくべきだろう。
 床に座り込んだ僕は、『魔術の基礎』なる単純明快なタイトルの本を選び抜き、床に座ってページをめくる。
 そこには、今現在の僕が知る『魔術』についての情報の他に、様々な概要が載っていた。

 曰く、魔術――別名『術式』を発現するにはいくつかの過程を越えなければならない。
 まず初めに『魔力練成』。身体の内部にある魔力、もしくは空間中にあるマナを魔力に変換し、術式演算をするための準備をする事を指すらしい。
 次に、『術式演算』。そもそも『術式』という言葉は、定義上『魔術』と同じ意味合いを持つが、『魔術と呼ばれる超常現象を引き起こす為の計算式』の役割も持っている。数学術的な表現だが、分かりやすい。要は、『炎を生み出す』という〈答え〉を求める為の〈公式〉が『術式』に相当するのだ。そしてこの『術式演算』とは、その公式――計算式を解く事を指しているのだろう。
 三つ目に、『魔力充填』。その名の通り、一段階目で練成した魔力を術式に込める事だ。
 そして最後、『術韻詠唱』。使用する魔術の銘を言葉――言霊に乗せて告げる動作。これは絶対に必要な過程ではないらしい。もっとも、あるかないかで術式の威力は変化するらしいが。

「……ふぅ」

 続けて、いくつかの魔術についての知識も頭に詰め込んでいく。
 そこまでして、僕はある事に気が付いた。

「……、」

 シュリィお姉さんの帰りが遅い。推測するに何かを探しているみたいだけれど、一体何を探しているんだろう。
 そんな疑問を浮かべていると、部屋の外からこっちに近付いてくる足音が聞こえた。

「みつけたよ、ラファ」

 扉を開けて入ってきた彼女の手には、銀色の装飾が綺麗なブレスレットが握られていた。

「これは、装着者の魔力に反応して勝手に術式を構築してくれる法具」

 その言葉を聞きながらまじまじとブレスレットを見る僕に、シュリィお姉さんは説明を続ける。
 ……魔術の話になると声の雰囲気が変わった気がするけど、それは置いておこう。

「あ、法具っていうのは、術式が付与された道具の事だね。武器、防具、日常生活で使うものにも法具はたくさんあるから、覚えておいて」
「はい」
「それで、これ。ラファがこれを手に付けて魔力を込めれば、勝手に術式が展開される」
「魔力を込めるだけで……?」
「そう。正確には、本来ラファがするはずの術式演算を代理してくれるの。とはいっても、あくまで演算をするのはラファの体だから、術式演算をしているという感覚はある」
「つまり……それで感覚をつかめ、ということですか」
「うん」

 さっきの本にも『最初は術式演算の感覚を掴み辛いかもしれない』と書いてあった。自分の感覚とは無関係に術式演算を代理してくれるこのブレスレットは、かなり有用な代物だろう。
 ……僕の場合、『魔力を込める動作』の時点で突っかかりそうな気もするけれど。
 とはいえ、物は試しだ。

「これ、外でやった方が良いですかね?」
「大丈夫。それが代理演算するのは水を生み出すだけの術式だから」

 それなら家の中でやっても問題ないかもしれない。……ん? 床が濡れてしまったりするのは問題ないの?
 少し疑問に思ったけど、シュリィお姉さんがそう言うからには何か理由があるのだろう。
 ブレスレットを受け取り、右手に嵌める。

「なっ」

 思わず声を上げる。手首に嵌めたブレスレットは、まるで僕の為に作られたかのようにフィットした。きっとこれも魔術の力なのだろう。今まであまり『魔術』という存在と触れ合った事がなかったからか、驚きは大きいものだった。
 キツくもなく緩くもない、絶妙な大きさに縮小したブレスレットに感嘆しながらも、僕は魔力をイメージする。
 もっとも、魔術を使ったことがない僕は、魔力の存在を鮮明に認識することはできない。あくまで想像。ほとんど『力を込める』のと変わらない動作。それを『強いイメージ』をもって修飾する。
 ――右腕から手首へと流れる様に、仄かな熱が走った。
 次の瞬間、ブレスレットが水色の光を放つ。

「……っ!?」

 身体に起きた頂上には一瞬で気付いた。ブレスレットがその特性を発揮し、僕の身体を使って術式を代理演算したのだ。魔力錬成、術式演算、魔力充填の感覚が駆け抜ける。
 そして、僕の指先からいくつもの水の玉が浮かび上がった。

「これが、魔術……」
「ん。どう?かんかくは掴めた?」

 僕の隣ではシュリィお姉さんが薄らと笑みを浮かべてこちらを見ていた。僕は頷いて答える。

「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、それは消すね」

 言うや否や、彼女は水玉に向けて軽く手を払う仕草をとった。途端、空中に浮かんでいた水の玉が振動を始め、やがて破裂し消えていく。小さな水滴になって地面に落ちたのではない。存在そのものが消滅していた。

「今のは?」
「術式の核を潰した。その程度の魔術なら、術式に介入して『魔術という超常現象』を無かったことに出来る。具体的には、術式に余計な魔術記号を割り込ませて黄金比を破壊したりだね」
「なるほど……」

 理屈はなんとなく理解できた気がする。要するに、出来上がっている数式に余計な文字を組み込む事で解けなくする、という事だろう。それが魔術師なら誰でも出来る事なのか、あるいは超難易度なのかは分からなけれど。
 身体に残る魔術行使の感覚に意識を研ぎ澄ます。さっきの一回だけでものにしてみせる。
 ――よし。

「ブレスレット無しで試してみます」
「え?」

 言いながらブレスレットを外し、シュリィお姉さんに手渡す。彼女はそれを、キョトンとした表情で受け取りながら、小さな声を上げた。
 そんな声が、外から聞こえる鳥の鳴き声が、木のざわめきが聞こえなくなるくらいに意識を集中させる。実戦で使うとなれば、こんな悠長に精神統一をする事は出来ないだろうが、初めての時くらい構わないだろう。
 感覚を、呼び起こす。
 ――魔力練成。ついさっき魔術を行使した時から、身体の中に流れる『魔力』というエネルギーは強い存在感を放っている。意識しなくても分かるくらいに、熱く滾っている。何の問題もない。感じた通りに、繰り返せばいい。
 ――術式演算。あの『水を生み出す』術式は脳裏に刻みこまれている。シュリィお姉さんの言うとおり、簡単な術式なのだろう。僕でも容易く解く事が出来た。
 ――魔力充填。練成した『術式用の魔力』を術式に出力していく。超常を生み出す為のエネルギーを注がれた術式が、明確な力を帯びていくのを感じ取る。
 ――術韻詠唱。自然と頭に思い浮かんだその言の葉を告げればいい。

「【成水(リオネス)】」

 その言葉に、魔術的な作用が働いていたのが如意に伝わってきた。
 天井へと向けられた掌の上数センチメートルの場所。ついさっきの魔術行使時よりも多くの水玉が浮遊していた。
 ――成功、した。
 術式に意識を割いたまま小さく嘆息する僕の側で、シュリィお姉さんが驚いた様子で口を開く。

「……たった一回でせいこうさせるなんて」
「え……?」

 一回で成功させたことに驚いている……? ということは、もしかすれば、今僕がやった事は結構凄い事なのだろうか。そう考えると少し楽しくなってくる。魔女と呼ばれるほどの人を、魔術を使って驚かせることが出来たのだ。楽しく感じるのも無理はないだろう。

「凄いよ、ラファ。たった一回の代理演算で術式を読み取り、それを自分の手で再現するなんて」
「そ、そうですか?ありがとうございます!」

 褒められることが嬉しくて頬が緩む。それを隠すように、僕は頭を下げた。

「つきはなすような言い方になるけど、君ならひとりでまなべるとおもう。力になってあげられなくて、ごめんね」
「いえ、そんなことないですっ。こうして本を貸してくれるだけで凄く有り難いんですから!」
「そういってくれると、うれしい」
「はい!頑張って凄い魔術師になってみせます!」

 そして僕の魔術の修練の日々が始まった。



   4



 時は過ぎて七年後。
 俺は依然として、森の中にある姉さんの家に居候をさせてもらっていた。勿論タダで住まわせて貰っている訳じゃない。最近では周辺の魔物退治や食料調達など、色々な役回りを請け負っている。
 ――魔術の腕も随分と上がった。
 姉さんと出会い、魔術師を志してから今日まで。腕を高める為に欠かすことなく毎日の修練を続けた。結果、今では魔女である【黒風のシュトゥルム】すら認める魔術師になった。……勿論、「一四歳にしては」という前置きが付くけども。
 そして……魔術師として認められた時。

「ラファは天才だけど、バカだね」

 と言われた。解せぬ。まず天才という点だが、これは幼い頃からちょっと物わかりが良かっただけで、両親が勝手に言い始めた事だ。そういう理由も相まって、魔術の上達も早かった。だから天才というのはちょっと過剰表現なのだ。
 ……まあ、元々の身体性能が高いという点は認めざるを得ない。自分ではよく分からないが、俺には姉さんが驚くほどの魔力量が備わっているらしい。
 おかげで一日に出来る魔術の修練時間も増え、上達も早まった訳だ。

 さて、バカと言われる理由についてだけど……。
 前提として、魔術には様々な体系が存在する。例えば、魔術としてはもっとも基本的な『攻性術式』『付与術式』『結界術式』『治癒術式』の四つ。他にも、俗に呪術や幻術、錬金術や占星術と呼ばれる術など、細かく分ければ両手では数えられない程術式は存在する。無論名前が区別されているだけ、という訳ではない。そのシステムや術式の形などがそれぞれ異なっているのだ。

 ……それを俺は要領悪く、『全て会得しようとした』。
 姉さん曰く、類を見ないバカらしい。普通の魔術師は、一つ――多くて二、三の道を選び、それを極めるという。そうした方が効率が良いからだ。
 結果を言えば、俺は大体何でも出来る様になった。しかし、その術たちの威力や効力は決して高いとは言えない。
 普通に魔術を学んでいればもっと凄い魔術師になれただろうに、とは姉さんの言だ。

 故に、バカと呼ばれるのである。

 こういう奴の事を、俗に『器用貧乏』というらしい。まったく、タメにならない言葉だ。覚えなくてもいいだろう。どうか明日には忘れていたい。

 そんな事を考えながら、今日も今日とて書庫の本を漁る。かなりの間この家に住んでいるが、未だにすべての本を読み終えていない。勿論、一日に何冊も読む訳じゃないし、読まない日だってあるのだから当たり前だけど。

「……ん? これ、何の本だろう?」

 まとめておいた未読の本の中から、真っ黒いカバーのタイトルも著者名も書かれていないものを見つけ出した。厚さで言えば指の爪くらいの、萎びた本だった。
 それを見て、俺は不思議と興味を揺さぶられた。

「今日はこれにしよう」

 本を片付けたあと、俺は貸し与えられた自室に戻った。ベッドに腰を掛け、表紙をめくり、そこに記された文字に目を走らせ、息を呑んだ。

「降、霊術?」

 今までみたことも聞いたこともない魔術の名がそこにあった。字面から判断するに、死霊の類いを呼び降ろすものだろう。
 ……あれ?

「もしかして……これがあれば」

 ――また、父さんと母さんに会えるかもしれない。

 心の中で呟いた直後、部屋の扉がノックされる。考えるまでもなく姉さんのものだ。七年間ここで暮らしてきたが、俺は姉さん以外の人と会ったことはない。
 返事をするとゆっくりと扉が開かれ、姉さんがちょこんと顔を出す。
 俺も今では姉さんより身長が高くなった。身長が並んだときには「今、ラファがこれいじょうおおきくならない呪いをかけた」とか言われてゾッとしたものだ。魔女が言うと冗談に聞こえないから本当に勘弁してほしい。これ以上身長が伸びなかったらどうしてくれるのだろうか。もっとも、八年以上姉さん以外の人と話したりあったりしていないので、常識というか平均が分からない節もある。あれ、今の俺の身長って平均と比べてどうなんだろうか? 157センチメートルって小さい?
 ……まあいい。で、姐さんは一体どうかしたのだろうか?

「きょうは狩りにでなくていいよ。おやすみね」
「あ、分かりました」

 業務連絡だったらしい。姉さんの言葉に頷きを返す。その様子を見て満足げな顔を浮かべた姉さんは扉を閉めようとして、俺が手に持つ本の存在に気が付いたようだ。目を見開いて言う。

「……その、本は」

 丁度良かった。確かめたかったことを魔女である姉さんに聞いてしまおう。
 期待に高鳴る胸をなだめながら、俺は尋ねた。

「あの、姉さん。この本……『降霊術』ってあるんですけど、これがあればもしかして俺の両親を」
「――無理だよ」

 ……期待は、その一言に砕かれた。
 質問を最後まで聞くことなくその意図を悟った姉さんは、首を振りながら俺の質問を一蹴する。
 彼女は人差し指を立てながら言った。

「『降霊術』。その魔術の使い方は二種類ある。まず一つは、過去の英霊をその地に残る『歴史』を参照して呼び降ろし、その力を付与する使い方」

 姉さんは続けて中指を立てながら、

「二つ目が、正式な依り代に死霊をの魂を降ろして、一時的に『ゾンビ』化させる使い方」
「正式な依り代……?」
「そう。つまりは、降ろす死霊の『体』」

 ……つまり。俺の父さんと母さんを呼ぶためには、その肉体が必要になるということ……なのか?

「じゃあ、もうなにもかも手遅れ……ってことなんですか?」
「……そう。ラファの両親のからだは、もう存在しない。ラファも、それはわかっているでしょ?」

 分かっている。忘れるはずもない、姉さんに助けられてすぐ、俺は自分の手で両親とキャラバンの人達を埋葬した。それが七年前。もう、体は原型を留めていないだろう。

「それに、ゾンビ化した魂に意思も意識も存在しない。あるのは、自分の身体性能の限り、術者の命令に従うシステムだけ。だからラファの望みは……叶わない」
「……そう、ですか」

 姉さんの言葉を聞いて、いつの間にか椅子から持ち上がっていた腰を降ろす。全身から脱力感を覚えながらも、辛うじて前を見る。

「教えてくれてありがとうございました」
「……別にいいの」
「その本、貸してもらってもいいですか?」
「いいけど……会得するきなの?」
「はい。いつか、役に立つときが来るかもしれないので」

 ゆっくりと差し出された本を受け取り、部屋を出ていく姉さんを見送ってから、俺は本と向き合った。


 その夜。
 森の中の家から出た俺は、すぐ近くの丘までやってきていた。雲一つない夜空から降り注ぐ月明かりのおかげで視界には困らない。ただひたすら目的地を目指し、歩きなれた道を進んでいく。
 やがて見えたのは、景色が開けた丘の天辺。結構な広さを持つその場所は、眼下に広がる森や平原を一望できるベストスポットだった。
 だから俺は、この場所に両親とキャラバンの人達の墓を作った。
 小さい頃に作ったものなので出来栄えは決して『良い』とは言えないが、それでも俺が思いを込めて作ったものだ。
 およそ一か月に一回この場所にやって来ては花を添え、手の平を合わせる。今日も同じように。
 目を閉じ、数秒間の間祈りを捧げた後、俺は一歩下がって両親の墓石を眺めながら呟く。

「父さん、母さん。もしかしたらまた会う事が出来るかもしれないと思ったけど、無理だったよ」

 返事なんてある訳もなく。ただ、遮るものが何もない開けた空間を走る風の音が、静かに耳を叩く。
 今はそれを心地よく感じながらも言葉を続ける。

「本当はもう一度二人に会って、あの時何も出来なかった事を謝りたかったんだ。そして、助けてくれた……お礼もしたかった。結局俺は見ている事しか出来なくて、守ってくれた二人に何かを言う事さえ出来なくて。それが今でも心残りで」

 あの日のあの時、俺が何かをできた訳じゃないという事は既に理解できている。何かをしたところで、ひ弱な七歳の身体じゃ状況は覆されなかっただろう。そんな自問自答は夢に出るほど繰り返してきた。その上で、理解は出来ても納得は出来ていない。心の中に、しこりとなって残り続けている。

「もしあの『降霊術』を使って二人に会う事が出来たなら、それを言おうと思っていたんだ。でもそれは叶わない。きっと、永遠に。だから分かったよ。この思いは、俺が背負い続けなければいけないものなんだって」

 自分の弱さが原因で生まれてしまったしこりを、簡単に解そうなんて傲慢だ。そんなのはどこまでも甘えでしかない。

「だからこの思いは、俺が背負うべき十字架。手放してはいけない思いなんだ」

 噛みしめるように言いながら空を見上げる。

「俺、もう負けないよ。どんな困難にぶつかっても、絶対に立ち向かって、抗って、勝ってみせる。大切な人を、大切なモノを守るために」

 父さんと母さんの死を乗り越えて、俺はこれからも前に進み続ける。
 もう失敗はしない。
 大切なものを守れるように。
 そうだな……取りあえずは姉さんに何かあっても助けてあげられるくらい強くなろう。第一目標が『魔女の救済』だなんて、それこそ傲慢で高いハードルかもしれないけれど。どうせ目指すなら、それくらいの方が格好いいだろう。

 ――さあ、帰ったら『降霊術』の復習だ。

1 風見 飛鳥のプロローグ

   1


 ――それは、ある日突然現れた。

 頭の良さで言えば中の上といった普通の高校に入学した私こと風見飛鳥は、ようやく新しい学園生活に慣れてきたという頃に摩訶不思議な出来事に遭遇した。
 それを見て最初に思い浮かべたのは、宇宙にあると言われているブラックホール。とはいえネットで検索を掛ければ出てくる画像には、周囲に星々が輝いている為、それは上手い表現とは言えないか。
 正真正銘の『闇』。
 光なんて一切存在しない、何処までも純粋な黒色。
 そんなものが、私の帰り道に立ち塞がった。

 逃げる事が出来たのではないのか?

 無理だった。なぜならその『闇』は、私が危険を感じて立ち去ろうとした時には襲いかかってきたからだ。ゾッと背筋を凍らせた私は、本能が叫ぶままに自転車のペダルを漕いだ。それはもう、今までにないくらい必死に、全力で。
 でも、無理だった。
 そもそもあの『闇』には距離の概念なんてなかったのかもしれない。どれだけ自転車を走らせてもその距離は変わらない……むしろ、近くなってさえいた。
 このままじゃ追いつかれる。冷や汗が頬を伝ったその時にようやく、周囲に全く人気がない事に気が付いた。
 スッと、頭が冷えていく。

 これは、今の状況は、明らかに『普通』じゃない。

 そして私は諦めた。
 ペダルを漕ぐ足を止め、逃げる事をやめる。
 だって、こんなのは、無理だもの。今私がいるのは町の大通り、そのど真ん中なのに、車のひとつも通っていないのよ?道を行く人さえ一人もいない。こんなのはおかしい。非現実的すぎる。
 非現実に、現実が抗うなんて無理だ。非現実は、非現実にしか対処できない。私では、それが出来ない。

 『闇』が、走るのをやめた私に急接近してくる。
 その様子を見て、『映像をコマ送りにしたような動き方ね』なんて冷めた頭で思いながら、目を瞑り――

「あぁ。死んじゃうかな、これ」

 ――私は、一瞬で意識を手放した。



「……ハッ!?」

 胸が全方位から圧縮されるかのような苦しさを覚え、私は目を覚ました。同時に、知らない間に横たえていた身体を起こす。
 死んでいなかった。あの『闇』に飲み込まれたのは間違いない。それでも、私の身体は確かに生きていた。
 手で身体のあちこちに触れ、その感触を確かめながら、私は視線を周囲に走らせた。
 そして、唖然とする。

「どこ……ここ……?」

 全く見た事のない風景が広がっていた。枯れた赤茶色の大地に、薄らと霧がかかった空間。
 ついさっきまで私は都会のど真ん中にいた筈なのに、気付けば全く知らない自然に投げ出されている。
 どう考えてもおかしい。『非現実』的だ。
 それならきっと、これもあの『闇』の仕業なのでしょう。考えられる原因は、あの『闇』に飲まれた事くらいだし。

「……いつまでもここに座り込んでいる訳にもいかないか」

 自分に言い聞かせるように口にしながら、立ち上がろうとした私は身体の異変に気が付く。
 ――苦しい。その感覚を具体的に表現するのは難しいけれど、息が乱れ、胸が痛みを発していた。酸素が極端に少ない空間に投げ出されれば、同じ症状を発症するかもしれない。
 必要なものが足りていない。
 漠然と、私の身体はその状況を訴えてくる。

「な、によ……これ……っ」

 呼吸が乱れる。一度は立ち上がった脚がガクガクと震え、やがて立っていられなくなって崩れ落ちる。
 カラン、という音が響いた。
 霞んでいく意識の中、音の発生源に目を向ける。そこにあったのは、真っ黒い鞘に刃を隠した一振りの刀だった。
 どうしてこんな所に刀があるの……? いやそもそも、ここは一体どこで、何が起きているの? 私の身体はどうなってしまったの?

 そんな疑問も空しく、ついに私は上体を起こしておくことさえ出来なくなってしまった。酷く辛い。どうしようもない無力感とじわじわと体を蝕む苦しさに、心が弱っていく。
 苦しい、苦しい、嫌だ、嫌よ、死にたくない。
 圧倒的な絶望を見せ、心を弱らせてゆっくりと殺される。そんなことなら、あの『闇』に呑まれた段階であっさりと死んでしまえればよかったのに。

 ――悲劇はそれだけではなかった。

 唸り声が耳に届く。それはまるで獣の喉鳴らしのようだった。対象を威嚇するための行為。それを聞いた時点で私は、どうかその対象が私で無いように、と心の中で願っていた。
 やがて、横に倒れた視界に入ってきたのは大きな黒い犬。いや、『犬』だなんて可愛らしい表現は似ても似つかない。それは、犬に似た化け物だった。真っ黒い毛並は逆立ち、金色の眼光は私を一心に見据えている。鋭い牙が覗く口からはだらしなく涎が垂れ、荒れた大地を濡らす。

「い、や……」

 こんな終わりは嫌だ。心は完全に弱り切っていた。訳も分からない状況に放り出され、訳も分からない症状に苦しみを覚え、挙句最後は化け物に食い殺される? ふざけないで。
 立ち上がって逃げなければいけない。この化け物どもから。しかし身体はそんな意志とは相反し、力が抜けて今にも意識が零れ落ちそうになる。
 ダメ。もうダメだ。力が入らない。苦しい。怖い。死にたくない。でもどうしようもない。どうしようもなく、助かる道筋が見えない。

「あっ……、げほっ」

 溢れるような息を吐き、急速に意識が落ちていく中。

 私を囲む化け物どもの向こうから、一直線にこっちに走り寄る影を見た。

 白に近い灰色の髪の毛に、エメラルドのように透き通った碧色の瞳を持つ、中肉中背の少年。

 黒を基調に、白と緑で彩られたコートを翻し、彼はその手をこちらに向け――

【駆刃】(ソ-ドスキップ)

 無数の風の刃を生み出したところで、私は完全に気を失った。



   2(ラファ=ベルクーレ)



 姉さんが突然家を出ると言い出してから三年が経った。なんでも知り合いに会いに行くらしく、数年の間家を空けると言われたのだ。それも唐突に。
 まあ俺としてもいい機会だったので、あの森の家を出て街に行き、長年鍛えた魔術の力を駆使して冒険者になった。
 今日で丁度三年目。一七歳になった俺は、冒険者ギルドの依頼で辺境の荒れ地までやって来ていた。
 見渡す限りの荒野。多少霧が掛かっているため視界良好とは言いがたいが、この程度はどうとでもなる。
 というより、依頼はもう完了しているため今は帰り道なのだ。勿論油断はしない。帰り道で気が抜けて全滅しかけたパーティがあるとも聞く。赤茶色の地面を踏みしめながら、常に全方向に注意を張り巡らせていた。

 だからこそ、その存在に気がつくことが出来たのかもしれない。

 視界の端。かなりの距離が空いているが、その霧の向こうに幾つかの影を見つけた。白いもやの中でも分かるくらいの黒い体。あれはおそらく『ブラックドーベル』のものだろう。巨大な体を持つ四足歩行に金色の瞳が特徴的な、この周辺によく現れる魔物の一種。今の俺なら手間を掛けずに倒すことが出来る奴等だが、数が多いと面倒なことには変わりない。
 見る限りだとその数は六から七匹。あれくらいなら大した問題もないが……どういう訳か、奴等の意識は全く別のものに向けられているらしかった。
 俺がここに来たときには他に冒険者の影は見られなかった。それほど時間を掛けずに依頼は完了させたし、意識の対象が人間だとは思えないが……。
 となると、魔物が興味を引かれる他の何かがある?

「行ってみるか」

 何が起きても対処できるように、演算を済ませた状態で術式を待機させながら歩き出す。
 これもここ数年で確立させた技術だ。魔力を充填せず、演算した直後の状態を保つ。結構疲れるスキルだが、疲れと命を天秤に掛ければ圧倒的に命が重い。

 ゆっくりと、存在を認知されないようにブラックドーベルの集まりに近づいていく。
 分かったのは、群がるブラックドーベルどもが何かを取り囲んでいるという事。数に誤りはなかった。得物を見つけた時特有の、勢いよく尻尾を振る仕草をしながら、何かを一心不乱に見据えている。

「一体何を見て……」

 目を凝らし、気が付いた。
 人。
 見た事のない格好に、見慣れない顔立ちの少女が、剣の様なものを抱いて倒れている。彼女を囲うブラックドーベルは、今にも飛び掛かる勢いで身体を低く構えた。

「まず――ッ!?」

 言い切る前に走り出す。同時に、待機状態にしておいた術式に魔力を充填。狙いをブラックドーベルに定める。
 どうやら奴らは、彼女が完全に意識を失うのを待っていたようだ。苦しそうな表情を見るに、何かの病気を患っているのかもしれない。
 ――いや、今はそんな事どうでもいいだろう。
 一瞬で標準を定め、俺は術韻を詠唱する。

【駆刃】(ソードスキップ)

 俗にいう、『汎用術式』。魔術の世界において基準となる、普遍化した術式の一つだ。
 伸ばした掌を起点に、透明の刃が無数に放たれた。奴ら全ての脚を切り裂く軌道。大気を歪ませながら疾駆する無色のそれは、地面すれすれを通ってブラックドーベル達の足を切断。動きを完全に封じ込む。寸分違わない、狙い通りの結果だ。勿論あの少女にあたる事はない。俺が制御する術式は、彼女に傷一つ付けることなく消滅する。
 遅れて、悲鳴とも呻き声ともとれる絶叫が耳に届いた。重い音を立てて地面に身体を倒した奴等は、何とかして立ち上がろうとする。だがそれは叶わない。脚を無くしたブラックドーベルは、身体の向きを変えるので精いっぱいだ。
 意識の方向を少女から俺に向けなおす。鋭い眼光には「諦め」の二文字なんて欠片も映っていない。大した精神力だ。全ての脚を切り落とされて尚その顔を浮かべられる事は賞賛に値する。やはりここら辺に現れる魔物は、豚鬼(オーク)小鬼(ゴブリン)とは違うな。
 上から目線で考えながら、俺は一体づつトドメを刺していく。無論、奴らに抵抗の術などない。飛び掛かる、噛みつく、その二つしかできないブラックドーベルは、「あし」を奪われた時点で戦う方法なんて無いのだ。
 だからと言って、悠長に時間を掛けて息の根を止めるなんて真似はしない。
 倒れる少女の顔色が悪すぎる。
 何の病気かはわからないが、早く診てあげなければならない。
 全てのブラックドーベルを殺した後で、俺は彼女に駆け寄る。黒い髪に長い睫毛。見た事のない服を纏う、俺より年下に見える少女だった。
 どこから来たのだろう。そんな疑問を放り投げ、刀を胸に息を荒げる少女を抱き起した後で額に手を当てる。

「……熱がある訳じゃないな」

 他にも色々と彼女の身体を調べてみるも、原因は全く分からない。あまり得意ではない治癒術式も試してみたが、効果は見えない。
 なんだ……なんの症状だ? 本を読みふける半生を過ごしていたから、病気や薬などについての情報も一定量存在する。その上で分からないとなると、もう俺の手には負えないんじゃないか?
 舌打ちをして、改めて彼女を見る。
 ――ん?

「待て。おかしい。この子……魔力が、無い?」

 そう。彼女の身体からは魔力を一切感じられなかった。

 大前提として、人の身体には必ず魔力が備わっている。なので、魔術を使えない・適性がない=魔力を持っていない、とはならないのだ。
 そのはずなのに、この少女の身体には魔力が備わっていない。
 一言で表せば、異常だった。

「何が起きているんだ……?」

 彼女を苦しめているのは間違いなく『魔力がない状況』だろう。だが、そうなる理由が分からない。
 息苦しさを思わせる症状。必要なものが足りていない。大量の汗。顔色の悪さ。病気。魔力が身体に備わっていない状況……欠乏?

「――マナ、欠乏症?」

 ほぼ無意識に言った後で、その言葉に見覚えを感じ取る。確か姉さんの家の本にこの症状について載っていたはずだ。
 何らかの理由で体内の魔力が失くなってしまった人に起こる症状。生命活動の一端を担う魔力が底を尽いた時、人は強い苦しみを覚え、そのまま衰弱していき――死を迎える。勿論、体内に魔力が戻ればその限りではないのだが。
 もしも、原因がマナ欠乏症なら……、

「俺にも、なんとかする事は出来る」

 方法はすぐに思いついた。この少女の身体に俺の魔力を送り込む方法を、一つだけ。
 『印刻術』。その名が示す通り、魔法紋を印刻することで超常を発現する、魔術体系の一つである。その中に、自分と対象を魔道(パス)で繋ぎ、一方からもう一方へ魔力を流し込むものがあったはずだ。俺が魔力を送り込めば、少女は無事症状を解消できるだろう。
 ……デメリットは一つ。
 これによってまず間違いなく戦闘力が落ちる事だ。俺の魔術の威力は、そのほとんどを膨大な魔力量で補っている。底を尽きないのは以前使ってみた時に分かっているが、弱体化は逃れられない。
 だからきっと、そこまでしてこの少女を助けようと思う人は、他にはいないだろう。
 命を背負い、かつ魔力を譲渡し続ける。
 それはとても重い、足枷だ。

 ――ま、そんなものはどうでもいいか。

 思い出せ。俺があらゆる魔術に手を出したのは、どんな状況にも対応して、大切なものを守るためだ。そして、姉さんが俺助けてくれたように、困ってる人を助けたかったからだ。だから、目の前で苦しんでいる彼女を助けない道理は存在しない。
 ああ、もう後悔はしたくないんだ。
 先の事は後で考えればいい。大丈夫。俺があらゆる魔術を会得してきたのは、不可能を潰す為だろ?

 人差し指と中指を伸ばし、術式を演算する。
 印刻を刻む場所はなるべく心臓に近い場所が良い。となると胸か背中になるのだが、どう考えても後者だ。雑念は押しつぶす。距離的に考えても、倫理的に考えても、常識的に考えても背中の一択だ。

「ごめんな」

 苦しむ少女に一言告げてから、態勢をうつ伏せへ。見た事のない服だったので、脱がすのに四苦八苦しながらもなんとかはだけさせる。と思ったら、今度は胸当ての様なものまででてきた。

「なんだこれ……どうすればいいんだ?」

 非常に邪魔くさい。
 くそ、この……あ、取れた。

「なるほど、ホックになっていたのか」

 呟きながら、丁度心臓の裏と思われる場所に二本の指先を当てる。
 術式の演算は完了している。あとは、学んだとおり、印刻を刻みつけるだけだ。
 白く輝くその指先で、まずは俺の身体に魔紋を描いでいく。左胸。心臓の真上に。指が通った軌跡は同様に白い光を灯し、完成に近づくにつれて魔術的な力を帯びていく。熱いけれど辛くはない、そんな感覚を覚えながら紋様を描き終えた。
 同様に彼女の背中にも刻印した俺は、術韻を紡ぐ。

「結べ、【繋道】(ルートパンプ)

 紋様が一際眩く輝いた。白い光が視界を染め上げるのと同時、俺と彼女の間に明確な『繋がり』を得た事を感じ取る。
 魔力が、少女へと流れていく。

「……成功だ」

 はぁ。
 なんだか妙に疲れたな。人の命が掛かっていたからだろうか。
 印刻術にも失敗はあるし、下手に時間をかけて少女が先に死んでしまっては元も子もなかった。
 なんにせよ、助けることができて良かった……。

「さて、と」

 のんびりしてはいられない。ここは魔物が現れる外のど真ん中。この子をつれて宿に急がないと。
 軽く身体強化の付与術式を自分に施した後、衣類を直した少女を抱えて、俺は拠点を目指して移動を開始した。



   3(風見 飛鳥)



 ゆらゆらと、揺り籠に揺らされているような感覚。肌に伝わる温かさと、身体の内側に流れ込んでくる温かい何か。それを覚えたころには、全身を蝕んでいたあの苦しさは綺麗さっぱり消え去っていた。
 これは……誰かに抱きかかえられているのかな。
 気を失う直前の出来事は鮮明に覚えている。ゾッとするほどに息苦しくて動けなかったあの時。私を囲んでいた巨大な黒い犬の向こうから、一人の男の人が駆け寄ってきた。
 ということは、私を抱えているのは、あの男の人なのかな。
 灰色とも銀色とも言える髪の毛に碧色の瞳。どう見ても、日本人の顔つきじゃなかった。
 それに、あの手から飛び出たいくつもの刃。あれは一体なんだったんだろう。
 ――あれ、とても、眠たくなってきた。
 ごめんなさい、助けてくれた人。もう少し、眠らせてもらいます……、



「ん……」

 意識が覚醒する。ゆっくりと瞼を持ち上げ、視界に入ってくるのは知らない天井。心のどこかで、一連の流れは全て夢だった、という希望を持っていたのか、途端に倦怠感が全身に襲いかかってくる。
 長く細い溜め息をついていると、男の人の声が耳に届く。

「なんだか、俺が姉さんに助けてもらった時みたいだな」

 苦笑交じりの声だった。視線を巡らせると、記憶に残っている男の人と同じ容姿の――もう、同一人物で確定だ。灰色の髪の毛に碧眼を持ったあの人が立っていた。
 やはり私を運んでくれたのはあの人だったらしい。という事は、あの巨大な黒い犬をなんとかしたのもこの人なんだろう。
 取り合えず、お礼をしなければ。

「私を助けれくれたんですよね……? ありがとうございました」
「ああ。いいよ気にしなくて。それより具合の方はどうだ?」

 心配した様子でコップを手渡してくる男の人。……男の人、という言い方をしているけれど、私の歳とそう変わらないのかもしれない。見た目も声もまだまだ若いし。
 またお礼をしながらコップを受け取る。湯気が立つそれを一度眺めてから、息を吹きつけて口に運ぶ。……美味しい。

「あ、大丈夫です」
「そうか、よかった」

 笑みを浮かべる男の人を見て、心が安らぐのを感じた。
 警戒心なんてなかった。正直いって、私はあの時死んでいても何らおかしくはない状態だった……だろう。そんなところを助けに来てくれた人なのだから、警戒心なんて生まれるはずもなかった。
 どうせ今の私には動ける力なんてない。もしこの人が悪人だったとしても、私にはどうすることも出来ないのだ。なら、彼を信じるしかないだろう。
 ……そんな考えを持つ自分に辟易しながらも、私は尋ねる。

「すいません、ここは一体……」
「あっと、敬語はもういいよ。そういうのなんか気になるし」
「わ、わかりま……わかった」

 年上に思える人に敬語無しは私の精神衛生上あまりよろしくないけれど、それを望まれているならば応じるべきだろう。

「で、ここが何処かという質問だけど……はは、本当にあの日の焼き直しみたいだなぁ。ここはアニエスの町にある宿の一室だ」
「は、はぁ……」

 全く分からなかった。アニエスの町? そんな町の名前は聞いたことがない。まず大前提に、日本の町の名前じゃないという事は分かる。少なくとも、近くにあんな荒野や巨大な黒い犬が出てくる場所はない。となると外国だと推測できるけど……って、考えるだけ無駄か。
 聞いた方が早い。
 と、その前に、自己紹介をしなければ。

「私の名前は風見飛鳥(かざみあすか)。いや、外国人が相手ならアスカ=カザミかな……?」

 ――ちょっと、待って。
 この男の人、やけに日本語が流暢じゃないかな? あまりに流暢すぎて疑問に思わなかったけれど、こんなに綺麗な日本語をしゃべれる外国人なんているの……?

「ああ、俺はラファ=ベルクーレだ。ラファでいいよ、アスカ」

 外国人なのは確定した。やっぱり、違和感が残る。

「えと……ラファ。貴方が使っているのは何語? 日本っていう国は知っている?」

 我ながら頭のおかしい質問をしているのは分かっている。でも、尋ねずにはいられない。今の状況は、あらゆる点で不可解だ。
 対して、男の人――ラファは答えた。 

「何語……って。標準語だけど。ニ、ホン? は知らないな」

 日本を知らない? 標準語というのはよく分からないけど、いまどき日本を知らない外国人なんているのかな……。いや、決めつけるには早計だ。世界は広いんだから、知らない人がいても何らおかしくはない。

「なら――あの巨大な黒い犬を倒したのは、なに?」

「……? なにって、そりゃあ――」

 ラファは、私の質問に心底疑問を抱いた様子で続ける。

「――魔術だよ。汎用術式【駆刃】(スキップソード)だ。知らないのか?」

 ああ。
 どうやら私は、想像以上に異常な事態に巻き込まれているらしい。



「別の世界だって……?」

 ラファが眉を寄せて首を傾げる。無理もないだろう。私だってそうした気分なのだから。
 『魔術』なんて言葉が自然と出てきた時点で分かった。ここは私が今まで生きてきた世界ではない。なによりラファの言葉の最後。「知らないのか?」と、まるで知っているのが常識の如き言い分で発覚した。
 私は魔術なんて知らない。一種のオカルトで名前が出てきたり、最近のライトノベル等で題材にされているため、名前は聞いたことがあった。でも、それを実行している人は見た事がない。
 そんな私の考察をラファに伝え、今に至るという訳だ。

「でも、待てよ……? 確か、姉さんの本にそんな話が出ていたような気もするぞ。なんでも、世界は一つじゃなくて、全く別の世界から『迷い人』がこっちにやってくるとかなんとか……」

 ――ふむ。
 どうやら、それっぽい何かの伝承がこちらに伝えられているらしい。
 予測を立てるとしたならこうだ。日本で突如現れ、私を追いかけまわしたあの『闇』。あれが私をこの世界へと誘い、何らかの理由で苦しんでいる私を助けれくれたのがラファ、と……。
 なるほど。なるほど……。
 これは、もう、家族に会う事は出来ない、と思った方が、いいのかな。
 一度は生を諦めた。二度目は生きたいと祈り、ラファに助けてもらって存命した。そうだ、私は幸運なんだ。何も悲しむことはない、生きているだけでめっけもん。
 でも……やっぱり、寂しいなぁ。

「ならアスカは、別の世界からやって来た迷い人、って事なのか……? それなら、魔力がなかったことにも頷ける、か……」

 ラファはなんだかぶつぶつと呟いている。
 そうだ、ここで涙を流してこれ以上彼を心配させるわけにはいかない。決壊しそうになる涙腺を気合いで押さえつけ、私は言う。

「たぶん、その『迷い人』ってやつなんだと思う。だから、アニエスの町っていうのも、魔術っていうのも、何もわからないの。教えて欲しい事が、いくつもある」
「……そうか。分かった。何でも聞いてくれ。俺が答えられる範囲で、教えられることは教えよう」

 そして私の、質問が始まった。


 簡潔にわかったことをまとめよう。
 私がやって来たこの場所は、日本における漫画や小説などで題材にされる『ファンタジーな世界』らしい。魔術と呼ばれる超常現象が存在し、魔物と呼ばれる凶暴な化け物が存在する、そんな場所。あの巨大な黒犬と、ラファの手から出てきた風の刃がそれらに当たる……と。
 言葉が通じているのも、なんらかの超常的な力が私に働いたからなのではないか、とのことだ。
 正直、俄かには信じられない。
 でも信じないわけにはいかない。状況が私の思考を圧迫する。

 そうだ。
 ここはもう私が知っている場所とは違って、それを受け入れてこの先生きていかなきゃいけないんだ。
 ……切り替えよう。

 その他の文明レベルについては、おいおい知っていけばいいとして……、もう一つ、ラファに聞きたいことがあったんだ。

「ラファ。私はあの時、身体がとても苦しかったんだけど……今はすっかり収まっているんだよね。あれは何か、分かる?」
「……、」

 私の質問に、ラファは沈黙を返してきた。
 その反応の意図が全く読めない。ラファはなにやら申し訳なさそうな表情を浮かべている。あの症状は治まっているというのに、どうしてそんな顔をするのだろう。……もしかして、何か危ない薬を使ってしまったとか……?

「ど、どうしたの? ラファ」
「……アスカ。言っておかないといけない事があるんだ」

 明らかに『良い話』をする様子じゃないラファを見て、思わず息を呑む。これ以上、一体どんな不幸が起きるというのだろうか。正直、現状でどん底だと思っていたのだけれど。

「まず一つ。アスカが苦しんでいた原因は『マナ欠乏症』っていう症状の所為だ」
「マナ欠乏症?」
「ああ。アスカの世界では違うだろうけど、この世界だと人の身体には魔力が宿っていることが一般常識なんだ。マナ欠乏症は、何らかの理由で身体から魔力が無くなった人に起こる。アスカは異世界人だから、魔力を持っていなくてこれを発症したんだろう」
「ちょっと待って。なら、過去に現れた迷い人達も、私と同じようにマナ欠乏症を起こしたの? もしそうなら、書き記されていると思うけど」
「……いや、そんな記述は見ていない。となると考えられるのは、過去の迷い人達は魔力を持っていた――そういう世界からやって来た可能性。もう一つは、アスカがイレギュラーという可能性だけど……これについては考えても無駄だと思う」

 ラファの言う通りだ。自分で言いだしておいてなんだけれど、これについて深く考察したところで得るものは何もない。

「マナ欠乏症を直す方法としては、逆説的に考えて、対象の魔力を回復させる事だと思った。魔力が無くて苦しんでいるなら、魔力を送り込んでしまえばいいと」
「……、」
「『印刻術』。魔術体系の一つだ。この中に、【繫道】(ルートパンプ)っていう、魔力を送り流す術式がある。俺はそれを、アスカに使った」

 淡々と、彼は続ける。

「俺とアスカに魔道(パス)を繋いで、俺の魔力を常時お前に送り続けてる。ほんの少しづつだけどな。恩着せがましい言い方になるけれど、そのおかげでアスカは存命しているという訳だ。ここまでは、理解できるか?」

 ――その話を聞いて思いついた事柄は二つ。
 ラファは、私に魔力を送り続けても大丈夫なのだろうか。マナ欠乏症というのは、魔力が無くなった者に発症する症状のはずだ。ならラファも、私に魔力を流すことでそれを発症してもおかしくはないはずだ。

 ……でも、彼はそんな事を口に出さない。はたしてそれは、全く問題が無いからなのか、私を心配させないためなのか。後者だとしたらお人好しが過ぎるけれど、今の私にそれを追及する事はできない。
 そう、思いついた事柄の二つ目。
 私は今も尚、現在進行形で、彼に命を救われているという事だ。ラファが自分の魔力を私に流してくれているから、私は生きている。彼の力なくして、私の命は成り立たない。
 考えている間にも、ラファの話は進んでいく。

「つまり、俺が『印刻術』を解けば、アスカはまたマナ欠乏症を起こす。勿論、いくらか体内に蓄積されるだろうからすぐにとは言わないけど、それも時間の問題だ。そして多分、アスカに印刻術を施してくれるような人は、ほとんどいないと思う」

 ラファはそこまで言った後、ベッドのすぐ側にあった椅子に腰を掛けつつ話を続ける。

「師匠の話によれば、なんでも俺の魔力は規格外らしい。だからアスカに印刻術を掛けてもあまり問題はないんだけど……他の人も同じって訳じゃないんだ。だから、なんていえばいいんだろうか」

 言葉を探すように視線を巡らせ、やがて申し訳なさそう顔をしていった。

「アスカの人生を、俺が縛り付けることになってしまった」

 あろうことか、謝罪の言葉だった。
 それを聞いて私は、心の底から「何を言っているんだろうこの男は」と思ってしまう。だってそうだろう? ラファは私の命の恩人で、自分の魔術の威力に関わる魔力を常時私に送りつけている。それは相当な戦力低下だろう。
 なのに、謝罪? 助けてもらった身で言うのもなんだが、甚だおかしい。

「いや、アスカが望むなら、印刻術の効果範囲がどれくらいか実験して、その上で俺から離れていってもかまわない。書物に書いてなかった事項だから、試してみないとわからないんだ。もしかしたら何処まででも大丈夫かもしれないし、試す価値はあると思う」

 ……どこまでも、お人好しな人だなぁ。
 ラファの提案を聞きながら俯く私は思わず笑みを浮かべながら、その提案を遮って言う。

「――必要ないよ」
「え?」

 きょとん、という顔をするラファにまた笑いながら続けた。

「謝罪も、実験も、必要ない」

 ベッドの上で、寝起きの態勢から端に腰掛ける態勢に移動。ラファに向かい合うようにしながら、私は私の心中を告げた。

「貴方は私の命の恩人。今もずっと、私を助け続けてくれている。私は貴方に恩返しがしたい」

 心の底から出てくる言葉。つっかえることもなく、すらすらと出てくるその言葉に自分でも驚きながらも、だからこそ本心なんだと分かった。

「私のせいでラファの戦う力が落ちたなら、私が貴方の剣になり、貴方を守る盾になる。私が貴方の力になる」

 ベッドの横に立てかけられていた、何故か私の傍に落ちていた刀を手に取りながら、

「ラファがいないと生きていけない。だから、側にいさせてほしい。貴方と一緒にいさせてほしい」

 刀の扱いか……。当たり前だけれど、生粋の日本人である私は刀なんて振るったことはない。実用レベルになるには時間が掛かるだろうが、やるしかない。私には選ぶ道なんて存在しないのだ。
 間違いなくそのことで、またラファに迷惑をかけてしまうだろう。でも、恩は私が一生賭けて返せばいい。ラファが死ねば私も死ぬ。そんな、私の一方的な運命共同体。だからという訳じゃないけれど、心の底から恩義を感じるこの人を、私は守りたい。

「う、あ、えと……」

 ――なんて考えている私の前でラファはというと、盛大に赤面していた。
 あれ、ちょっと待て、私今何を言った!? 普通に命の恩人に恩を返したいという旨を伝えただけのはずなんだけど。他には、見捨てないでほしいっていう懇願とか。
 ………………確かに思い返してみると、さっきの文面はちょっとあれだったかもしれない。
 それにしても、ふーん、ふふ、年上の男の人ってイメージが強かったけれど、意外とウブなのね。
 別に私がそういう方向に長けているって訳じゃあないけれども。

「そ、そういうことなら、俺としては大歓迎だ」
「よかった。ありがとう。これからよろしくね」
「お、おう」

 なんだか。
 本当は怖くて泣き叫んでうずくまる様な状況なのかもしれないけれど。
 どういうわけか私は、『これから』が少し楽しみな気分だった。
 

魔術師と刀使いの少女

魔術師と刀使いの少女

タイトルかっこかり。プロトタイプ。 結構前から、普段やらないスマホ執筆で書いてた作品を公開してみる。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-19

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