常磐線の力士

これは僕が大学三年生だった時の話だ。その頃の僕は写真サークルに入っていて、授業が終わってから、よく夜中まで暗室にこもっていたりした。

そんなある日のことだった。その日も暗室に入っていて、電車で帰るころには二十三時を過ぎていた。それは上野発土浦行の常磐線だった。僕が乗った車両にはほとんど人が乗ってなく、僕以外には二人組の女性がいるだけだった。僕は乗車口寄りの端っこの席に座ると、次第にうとうととして、浅い眠りについた。

どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。ボソボソと小さな話し声が聞こえてきた。その声で眠りから覚めたが、まだなんとなく眠かったので目は開けないでいた。どうやら電車が動いていないので、どこかの駅に停まっているらしい。そのうちにその小さな声は向かいに座っている二人組の女性たちの会話だということが分かってきた。なんとなく話している内容に耳を傾けてみると、なんだかよく分からないことを話している。
「ねぇ、リキシだよ。ねぇ、リキシ。」
リキシが一体なんのことだか、さっぱり分からなかった。話しかけられている女性の方も何故か同意している。
「本当だ、リキシだね。」
この二人はすごく興奮していた。どうやらリキシなるものが大変珍しいようだった。僕はこの二人の会話が気になって、ゆっくりと目を開いた。

そこには、力士がいた。

正確には僕の向かいの乗車口が開いていて、その先のホームに力士がいた。力士はテレビで見ているような、裸に廻しをつけていて、髪もきちんと結っていた。そしていわゆる、“はっけよい”のポーズをとっていた。力士は顔を上げて、目線はしっかりと前を見据えていた。

まぁいいだろう。生きていれば、時には力士に遭遇することだってあるだろうさ。むしろこのような形で我が国の伝統競技の様式美を間近で見ることが出来たことを喜ぶべきだろう。そんなことを考えていたのだから、かなり動揺していたのだろう。そして、さらに僕はあることに気づいてしまった。

今はいいだろう。力士がホームで“はっけよい”のポーズをしている限り、乗車口という境界線によって僕と力士との間には決定的な溝があるのだ。しかし、力士がもし“のこった”をしてしまったらどうなるだろうか。力士が大人しく椅子に座るならまだ良いが、もし車内でいきなり僕に絡み出したらどうしたら良いのか分からない。それに常磐線の快速は駅の感覚が長いので、次の駅で降りるとしても最低十分間は一緒にいなければならない。僕は頭の中で力士がとる行動をいろいろと考えてみたが、どれもろくなことにはならなそうだ。そうなると、僕に出来ることは一つしかない。僕は祈った。神様、どうかこの力士が“のこった”をしないよう僕に力をお貸し下さい、と。

しかし世の中にいる大体の力士がそうであるように、一度“はっけよい”をしてしまえば、その後に“のこった”が来るのは必然というものだ。ついに力士は両手を地面から離し、体の重心を前に傾け、開いた乗車口に突進してきた。僕がもう駄目だと諦めかけていたその瞬間に、突然プシューっという音が聞こえてきた。力士が乗車する直前で、ガコンッという音と共に乗車口のドアは閉まったのだった。

電車はゆっくりと走り出し、“のこった”の姿勢のままの力士を残して去っていった。僕はそれから、しばらく呆気にとられていたが、やがて再び浅い眠りについた。

常磐線の力士

常磐線の力士

これは僕が大学生の時に実際に起きた不思議な出来事で、今はもう夢だったような気もする話です。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-17

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