水童し( みずわらし )

水童し( みずわらし )

煩雑な現代社会。 混沌とした人間環境の中で見失ってしまった『 対話 』。
それは周囲の人たちとではなく、家族の中にすら、あるのではないでしょうか。
話しをするだけが、対話ではありません。 一番、身近な存在である家族に対しては、『 抱き締める 』だけでも、最善の対話になると思います。

未来を担う子供を育てる環境にある、若い母親層・・・ そんな彼女たちを、雑誌の記事で取材する機会に触れました。
悩める彼女らの視点・・・ この作品は、彼女らの『 目の高さ 』で創作してみました。

1、帰郷

 涼子の心は、乾いていた。

 優しい言葉や親切心などでは、到底、癒されない、吐き気を感ずるような乾き。
 自身に対する嫌気と、周囲からの期待・プレッシャー・・・ 煩雑な日々の仕事に加え、思うようにならない、家庭への憂鬱・・・

 脳裏に映るのは、閉鎖された狭い空間に立ち、外へ出ようとする自分の姿だ。
 しかも、頭上に両手を伸ばし、掴もうとしている外界の明かりは、心躍る未来を象徴するような明るいものではなく、
 どんよりとした閉め切った部屋のような明かり・・・
 逃れても、現在の状況と、さほど変わらないような気がしてならない。

 涼子は、行き場の無い乾きに、もがいていた。
 乾いた心に、ツメを立てるが如く、声の無い叫びを発していた・・・


「 大婆さまの家って、ホント、久し振りに行くよね? お母さん 」
 列車の車窓から、外の景色を眺めながら、8歳になる娘、千早( ちはや )が言った。
 対面の座席に座っていた涼子は、窓枠に肘をつき、指先で、こめかみ辺りを触りながら面倒臭そうに答える。
「 前に行ったのは、いつだったかしらね・・・ 千早が、幼稚園の頃だったかな・・・ 」
「 ゆり組の時、だよ? お隣の綾ちゃんに、カブトムシ、持って行ってあげたもん! 」
「 ・・そう 」
 消え入りそうな返事をし、ぼんやりと外の景色を眺める涼子。
 列車が緩やかにカーブし、徐々に、日の光が涼子に当たって来た。
 涼子は、眩しそうに目を細めると、言った。
「 カーテン、引くわよ。 お母さん、疲れてるから、ちょっと寝るわ・・・ 」
「 ああ~ん、ダメだよぉ~! お外が、見えなくなっちゃう~ 」
「 何の変哲も無い、ビルばかりでしょ? 」
 千早の言葉を無視し、涼子はカーテンを引いた。
 つまらなさそうに、千早が言う。
「 ・・もう、お母さん、勝手なんだから・・・! 」
 ほっぺたを膨らましながら、不服そうな顔の、千早。
 涼子は、そのまま腕組みをすると、目を閉じた。

『 君の仕事に、意見するつもりは無い 』
 数日前の、夫、誠一との口論が思い出される。
『 じゃあ、もっと自由にやらせてよ! 来月から始まるプロジェクトは、あたしにとって能力を試されている、大事な仕事なのよ? 』
『 僕が言っているのは、家庭だ。 ただでさえ、僕の仕事は、出張が多い。 この上、君が毎日、夜中に帰宅していて、誰が、千早の面倒を見るってんだ! 』
『 やっぱり、あたしを束縛してるじゃないっ! 女は、家庭に従事してろって事? 』
『 そうは言ってない! 僕のサラリーで、充分やっていけるんだ。 千早が、孤独にならない程度の仕事にしてくれないか、と頼んでるんだよっ! 』
『 もう、いいっ! 』

 目を閉じながら、涼子は、ため息をついた。
 ・・・涼子だって、好きで、千早を放っている訳では無い。 ただ、自分を評価してくれる今の会社に、社員として最大限、貢献したいのだ。
 千早も、2年生。 事情は、理解出来ているはずだ・・・
 口論の翌日、夫、誠一は、無言のまま、北海道の出張に出掛けて行った。 自宅に戻って来るのは、1週間後だ。
 そんな時、母親の実家である長野県 大泉村 御諸の大姑、三方 ヤエ からの電話があった。
「 涼子ちゃんか? 久しいのう。 チーちゃん連れて、たまには来んかね? もう、夏休みじゃろが 」
 ヤエは、確か今年、82歳だ。 涼子の母親である淑子が、ヤエの三女にあたる。
( たまには、田舎で過ごすのも良いか・・・ )
 涼子は、千早を連れ、列車に乗ったのだった。

 母親の淑子は、涼子が高校2年の時、乳ガンで亡くなっていた。 享年、39歳。 若過ぎる他界である。
 その後、母親の温もりを知らずに育った、涼子・・・
 何事も、自分の力でやって来た。
( その気になったら、女でも、自分の道は切り開けれるのよ・・・! 自立心の無い人間は、女も男もダメ。 子供に必要なのは、甘やかした愛情より、自分でも出来るんだ、と言う『 チャンス 』を与えるコトなのよ。 それが、親としての務めだわ )
 自分の経験から、そう悟った、涼子。
 母親となった現在、千早と接する時にも、その意志は、反映されているのだった。

 列車を乗り継ぎ、ローカル線に乗る。
 辺りは、一面の田園風景。 田に伸びるイネの緑が、目に鮮やかだ。 遠くの山々が、淡い藤色に霞んでいる。 コトコトと、一面の緑の中に敷かれた単線路をゆっくり走る、1両編成のディーゼルカー。
 やがて線路は、山間部へと入って行った。
「 お母さん、見て見てっ! 川を、お船が渡って行くよ! 」
 窓に、へばり付くようにして外を見ていた千早が、叫ぶ。
「 川なんて、ドコにでもあるでしょ? ・・・早く、お弁当、食べなさい 」
 先程の、乗り換え駅で購入した駅弁を食べながら、外も見ずに答える、涼子。
 普段、山のある景色を見ていない千早は、目を輝かせながら言った。
「 あっ、牛さんだ! 牛さんがいるっ! お~い! もお~、もお~! 」
 窓ガラスを、ペチペチ叩きながら、はしゃぐ千早。
 外の景色に目をやりながら、呟くように、涼子は言った。
「 ・・変わらないわねえ、この辺りは・・・ 」
 箸先で煮物を掴み、口に持って行きつつ、涼子は続ける。
「 千早。 大婆さまのお家に行ったら、ナンにも無いからね? 」
 へばり付いていた窓から手を離し、座席に座り直すと、弁当のフタを開けながら、千早は言った。
「 ゲームセンターも? 」
「 当たり前でしょ。 田舎なんだから 」
 弁当の漬物を、ポリポリと食べながら答える、涼子。
「 レストランは? 」
「 無い 」
「 本屋さんも? 」
「 無い 」
「 ふ~ん・・・ 前に行った時のコトは、忘れちゃった。 そんなに、何にも無かったかなあ~? 」
「 千早は、小川で遊んでたから、覚えて無いんじゃないの? 」
 割り箸を、ペチッと割りながら、答える千早。
「 そう、そう! お魚が、い~っぱい、いたんだよ? まだ、いるかなぁ~? 」
「 ・・そりゃ、いるでしょ。 田舎なんだから 」
 素っ気無く答える、涼子。
 千早は、ワクワクしながら言った。
「 やった! ・・・ねえ、お魚、捕まえてもいい? 」
「 千早なんかに、捕まえられるワケ、無いでしょ? 」
 食べ終わった駅弁のフタを閉じ、缶入り緑茶を飲みながら、涼子は言った。
「 捕まえられるよ! あたし、手、大きくなったもん! 」
 もみじのような、小さな手を広げて見せる、千早。
 涼子は、小さく笑いながら、憂鬱そうな目で、外の景色を見た。
 ・・・青空に映える、緑の山々が眩しい。 その山々の木々を見ながら、ふうっと、ため息をつく涼子。
 時折り、ディーゼルカーは、短いトンネルに入った。 トンネルを出る度に、目に映る景色からは、都会の煩雑さを象徴させるモノが、消し去られて行く。 商業看板、近代建築の民家、工場・・・ 道路標識すら、あまり見かけなくなって来た。 目に映るのは、青い空と山、川・・ 時折り、古いたたずまいを見せる、旧家のような家屋・・・
 山間に見える、細く白い農道を、編み笠を被った老人が、クワを担いで歩いていた。
( 時間が止まっているみたいね、この風景は・・・ みんな、何の目標も持たず、ただ生きているだけなのかしら・・・ )
 自分は、違う。 やるべき事・・・ 自分をステップアップする指標が、自分にはある・・・!
 ゴンゴンと、鉄橋を渡るディーゼルカーの振動を感じながら、涼子は、そう思った。


『 みもろ~、みもろ~ 御諸に到着です。 お忘れ物など無いよう、お願い致します~ 』
 運転手のアナウンスが、車内に流れた。
「 着いたわよ、千早。 暑いから、ちゃんと帽子被って 」
 赤いリボンの付いた、小さな白い帽子を被り、千早は言った。
「 さっき、川があったよ! お魚、いるかな? 」
「 知らないわよ、そんなの。 ・・・さあ、早くして。 行くわよ 」
 ガコン、という音と共に、ディーゼルカーが停止する。 プシュー、というエアーの抜ける音がし、扉が開いた。
「 とうっ! 」
 千早は、車両の出入り口のわずかな段差を大げさに飛び、無邪気にホームに降り立つと、早速、ホームの隅に向かって走り出した。
「 ドコ行くの! コッチよ、千早! 」
「 お母さん、バッタがいるぅ~! 見てぇ~、ほらぁ~! 」
 ホームの囲いの、脇にある草を指差し、千早が言った。
「 そんなの、ドコにだっているわよ。 早く、来なさいってば! 」
 プシューという音と共に、扉が閉まり、ディーゼルカーが動き出した。
 薄いベージュ色の車体が、涼子を追い越して行く。
 車体上部から薄い排煙が上がり、川沿いに続く単線路を緩やかにカーブしながら、ディーゼルカーは、駅から20メートルほど先にあるトンネルに入って行った。
 列車の音と交代に、周りに茂る木々から蝉の声が聞こえて来た。
 夏の日差しに、ジリジリと照らされたプラットホームの朽ちかけたコンクリート。 ムッとするような草の匂い・・・
 涼子の額には、汗がにじんで来た。
 手荷物を手に、駅の出口の方へと歩き出す、涼子。
 駅と言っても、30メートルくらいのプラットホームがあるだけだ。 木製の長ベンチと、その上に、ひさし程度の小屋根があるだけのホームである。 当然、無人だ。
 古い木材と、錆びたトタン屋根で出来た、駅の改札口・・・ U字を伏せた形をした真鍮製のパイプが、ヒビ割れたコンクリート製の階段を数段降りた先に埋め込まれているだけの簡素なものである。 夏の強い日差しが、白く照りつけ、トタン屋根の影とのコントラストを、より強く演出していた。 改札口の影の向こうに、青々とした稲が、夏風に揺れている・・・
 都会の駅で、よく見かけるポスター類などの広告物も、何1つ無い。 改札横に、錆びた鉄パイプで出来た掲示板があり、唯一、盆踊りの案内が張り紙してあった。
『 御諸水神大社 納涼盆踊り 』
 横目でその案内を見流し、手荷物を持ち直した涼子は、ふと、改札口の向こうに、1人の老婆が立っている事に気が付いた。 モンペに割烹着姿。 低い身長に、少し小太り気味の体型。 頭には、白い布巾を被っている。
「 ・・大婆さま! ご無沙汰してました。 わざわざ、迎えに来て下さったのですか? 」
 涼子が言うと、老婆は、シワだらけの顔をクチャクチャにして笑いながら言った。
「 久しいのう~、涼子ちゃん。 はるばる、ようこんな田舎に来てくれたのう~ 」
 涼子は、まだホーム脇の草むらでしゃがみ込み、虫を突付いている千早の方を振り向き、呼んだ。
「 千早ぁ~! 大婆さまが、お迎えに来て下さったわよ~? ご挨拶なさ~い! 」
 持っていた草の葉っぱを放り出し、涼子の方へ駆け寄って来た千早。
 ヤエは千早を見ると、シワで隠れた細い目を更に細くし、言った。
「 おう~、おう~! チーちゃんかね? 大きくなったのう~ 」
 お行儀良く、ぺこりと頭を下げ、千早は言った。
「 大婆さま、こんにちは! 千早です。 お世話になりまっす! 」
「 ん~、ん~、ん~・・・ お利口さんじゃの~ ご挨拶、出来るんかい? 婆じゃ。 よう来たのう~ 」
 千早の頭を撫でながら、嬉しそうなヤエ。
 千早が、目を輝かせながら言った。
「 大婆さま、バッタが沢山いるねえぇ~! 殿様バッタ、いないかなぁ? 」
「 こんなトコじゃのうて、原っぱに行きゃ、沢山おるぞえ? 」
「 ホントっ? 凄い、凄ぉ~い! 」
 ワクワク顔の、千早。
 涼子が、苦笑いしながら言った。
「 3・4日、ご厄介になります 」
「 ん~、ん~・・・ 何日でも、いたらええ。 なぁ~んにも、無いトコじゃがのう~ 」

ヤエは、曲がった腰の後に両手を組み、改札口から続く小道を、トコトコと歩き出した。

2、脱却

 割れんばかりの、蝉時雨。
 乾いた未舗装の農道が、駅から緩やかに蛇行しながら、白く続いている。
 暑い夏の日差しが照りつける、田舎道・・・
 山に囲まれた、小さな平地は、全て、田んぼか畑である。
 段々畑や、田に水を引く小さな水路からは、絶え間無く、水の音が聞こえていた。

( ホント、何も無いわねぇ・・・ )
 涼子は、改めてそう思った。
 青と緑、上下2色のキャンバスに、まるで誰かが白い絵の具を筆に付け、上から下へ描いたような彩色風景である。 目に映るのは、水を引いた田に育つ、青々としたイネの緑と、真っ青な空の蒼・・・ そして、白く乾いた農道の白さのみだ。
 小さなバッタが、涼子たちの気配に気付き、草むらから飛び立って行く。
「 バッタだ~! お母さん、バッタが沢山、飛んでくぅ~! 」
 指を指して言う無邪気な千早に、涼子は何も答えず、小さく苦笑いをして済ませた。
 自然が織り成す天然色の感動も、無邪気な千早の可愛さも、今の涼子には、感じ取る事は出来なかった。 ただ単に、暑い・・・
 それだけだった。

 澄んだ水が流れる、小さなせせらぎに掛った木橋を渡る。
 やがて、緩やかな上り坂になった農道脇に立つ、大きな栗の木が見えて来た。
( 記憶にあるなぁ・・・ あの木。 お母さんに連れられて遊びに来た時、よく木登りしたっけ )
 涼子は、千早に言った。
「 千早。 あれ、栗の木よ? 」
 千早が、目を輝かせながら答えた。
「 栗? 栗って・・ あの栗? ケーキに乗ってるヤツ? 」
「 そうよ。 青いトゲトゲの塊、見えるでしょ? 秋になったら、実るのよ 」
「 凄い、凄ぉ~い! 秋になったら、また来ようね、お母さん! ねっ? 」
「 ・・またね 」
 素っ気無い返事を返す、涼子。
 栗の木の脇には、古い水車小屋もあった。 千早が駆け寄り、格子窓に手を掛けて興味津々で言う。
「 水車だ、水車だ~・・! 」
「 勝手に触らないの、もう! 怒られるでしょ! 」
 千早を、たしなめる、涼子。
 朽ちかけた木戸の隙間から小屋の中を窺い、千早が言った。
「 ん・・・? コレ、動いてないよ? 」
 先を歩くヤエが、振り向きながら答えた。
「 秋になって、イネを刈ったら、水を入れて突くんじゃよ。 コットン、コットンってな 」
「 ふ~ん・・・ あっ、でっかいクモ! 」
 水車に掛かった、大きなクモの巣を見つけた千早。
「 そんなモノ、触らないで、千早! コッチに来なさいっ! 」
 額に浮いた汗を、ハンカチで拭いながら涼子が言った。

 しばらく行くと、農道脇の畑で、農作業していた老婦人がいた。 ヤエと同じようなモンペを履き、頭に被った麦わら帽子の上から、手拭いを巻きつけている。 ヤエが会釈すると、彼女は、曲がった腰を伸ばしながら尋ねた。
「 孫かね? ヤエさ 」
 ヤエが答える。
「 高山の、形代さァトコ嫁いだ、淑子の娘さね 」
「 おおう・・! ほうかね。 淑子ちゃんの、娘さんかね 」
 手拭いの端で汗を拭きながら、老婦人は言った。
 形代( かたしろ )とは、涼子の旧姓である。 母親の淑子は、ここから、高山にある形代家へ嫁いだのだ。 現在は、父親も亡くなり、一人娘だった涼子も結婚して家を出た為、血は途絶えている。
 老婦人は、涼子を見ると会釈した。 涼子も、会釈を返し、挨拶をする。
「 水谷 涼子です。 こっちは、娘の千早です。 夏休みなので、しばらく大婆さまの所に、ご厄介になろうかと思って・・・ 」
「 ほうかね、ほうかね 」
 老婦人は、再び、汗を拭きながら答えると、千早の顔を見ながら続けた。
「 淑子ちゃんの小さい頃に、そっくりじゃなあ~ ええのう、ヤエさは。 こんな可愛い曾孫がおって 」
「 千早でっす! こんにちはぁっ! 」
 小学校の教室内のように、元気良く挨拶する千早。
「 おお~、おお~! 元気な子じゃわい。 はっはっは! 」
 老婦人は、嬉しそうに笑った。

 小さな沢伝いに、細い小道を入ると、ヤエの家がある。 築、120年の旧家だ。 現在、ヤエは、1人でこの家に住んでいる。
 薬医門のような立派な門をくぐると母屋があり、離れや農機具小屋、門の脇には馬小屋まである。 かつては、馬も飼っていたのだ。 現在は、馬はおらず、干した藁などの置き場になっている。
「 わあ~、お庭、広いねえ~! 」
 門を入った千早は、嬉しそうに、庭を走り回り始めた。
「 大人しくしてなさいってば! もぉう・・! 」
 ハンカチで首筋の汗を拭きながら、涼子が、千早をたしなめるが、千早は、お構いなしのようだ。 両手を水平に広げ、飛行機を模した格好で走り回っている。
 小さなため息をつき、諦めたような表情の涼子。 庭を横切り、玄関の方へと歩いて行った。
 母屋は、平屋だが、どっしりした旧家である。 広い庭で、放し飼いにされているニワトリが数羽、地面をついばんでいた。
( ・・ここも、ホント、久し振りね・・・ )
 早くに母親を亡くした、涼子。 20歳の頃、父親も事故により、この世を去った。 涼子にとって、唯一の身近な親戚であったのが、ヤエである。 就職の為に上京するまでは、ここへはよく来ていたが、都内で1人暮らしを始めてからは、疎遠になっていた。 結婚した後も、新婚の年の盆に挨拶に来て以来、2年に一度くらいの頻度でしか訪れておらず、最近は4年間ほど、全く来ていない。
 涼子は、磨りガラスの嵌った、年季の入った格子戸の前に立った。 先祖は、室町時代の落ち武者だとの事だ。 確か、奥の居間の床の間には、先祖代々の、古い甲冑が置いてあった記憶がある。
 ヤエが言った。
「 さあ、入りなさい。 スイカが、冷えとるからの。 今、出すで、待っとれや 」
 広い、土間の玄関。 少々、薄暗いが、ひんやりとして心地良い。
「 お邪魔します 」
 靴を脱ぎ、線香の香りがする居間に入る。
 涼子は、そのまま、真っ直ぐ居間を横切り、続き間の部屋に入った。 大きな仏壇が置いてある。 その前にあった紫色の座布団に座り、鐘を1つ叩くと手を合わせた。
 千早も、涼子の横に座る。
「 お母さん、お数珠が無いよ? 」
「 無くてもいいから、手を合わせるの。 ご先祖様への、ご挨拶なのよ? 」
「 千早のコト、知ってるの? その人たち 」
「 いいから、手を合わせなさいってば 」
 居間に涼子たちが戻って来ると、切ったスイカを盆に乗せたヤエが入って来た。
「 大っきな、スイカ~! 」
 千早が言うと、ヤエは目を細めながら言った。
「 婆が、作ったんじゃぞえ? ここの縁側で食ったらええ 」
 ヤエは、縁側の板の間に盆を置くと、蚊取り線香を取り出し、火を付けた。
 早速、スイカに噛り付く千早。
 涼子が言った。
「 汁をこぼさないでよ、千早。 ちゃんと、お行儀良く。 ・・ほらっ、板の間に、タレてるじゃない! 」
「 板の間なんぞ、どうでもいいわい。 綺麗なべべを、汚したらアカンぞえ? 外で食え、外で 」
 ヤエが、ニコニコしながら言った。
 千早が聞いた。
「 お外で、食べてもいいの? 」
 ウチワで、涼子に軽く風を送りながら、ヤエは答えた。
「 日なたは暑いから、軒下でな。 そこに、ゾウリがあるじゃろ? 」
 軒下にある大きな石の上に、古ぼけた草履が置いてあった。 それを履き、軒下にしゃがみ込むと、千早は、スイカを食べ始めた。 涼子も、1つ摘み、食べる。
 ウチワを扇ぎながら、ヤエが言った。
「 幾つになったかの・・・ 小学校かえ? 」
 種を、掌に出しながら答える涼子。
「 8歳です。 もう、やんちゃで困ります 」
「 はっはっは! 子供は、やんちゃの方がええ。 淑子も、女子だてらに、よう、木に登ったモンじゃ。 ついでに、ブチ落ちてのう~・・・ 右手を、折りよったわい 」
 幼い頃、手の骨を折った事は、涼子も、母から聞いていた。 しかし、骨折の理由が、木から落ちた事であったかどうかは、もう記憶に無い。
 千早が言った。
「 種、種~! 」
 盆に、種を出そうとした千早。 ヤエが、ニコニコしながら言った。
「 タネなんぞ、そこいらに捨てたらええ 」
「 え? いいの? 」
「 構わんて 」
 庭先に向かって、ぺぺぺっ、と種を吐き出す千早。 放し飼いのニワトリが、コッコッ、と鳴きながら寄って来て、種をついばみ始めた。
「 ニワトリが、種、食べちゃったぁ~! 」
 ニワトリを指差し、嬉しそうな、千早。 早速、スイカを頬張り、次の種を出す。 ココッ、と鳴きながら、他のニワトリも寄って来て、ついばんだ。
「 ほ~れ、プッ! こっちも、プッ! お前、さっき食べたろ? この子にも、食べさせなよ。 プッ、プッ! 」
 ニワトリと、じゃれ合う千早の姿をしばらく見たあと、ヤエは言った。
「 ・・涼子ちゃん。 ナンか、難儀しとるんじゃないかえ? 」
「 え・・・? 」
 涼子は、ヤエを見た。
 ウチワを扇ぎながら、じっと涼子を見つめる、ヤエ。
「 ・・・・・ 」
 無言の、涼子。 ヤエは、涼子の心情を察しているようだった。
 しばらくして、涼子は答えた。
「 仕事が忙しくて・・・ でも、忙しいのは、能力を認められているって事なの。 頑張らなくちゃ 」
 ヤエは言った。
「 本当の悩みは、もっと、違うトコにあるんじゃないかのう・・・ 」
「 ・・本当の悩み? 」
 ヤエは、何の事を示唆して言っているのだろうか。 確かに、夫の誠一とも口論はしているが、そんな家庭内の事は、ヤエは知らないはずだ。
 ヤエは言った。
「 ワシには、よう分からんが・・・ 涼子ちゃんの顔は・・ ナニかに悩んで、疲れておる顔じゃ。 ここでゆっくり、自分を見たらええ。 何せ、自分たち以外、ここには、な~んも無いでのう 」
 優しく笑う、ヤエ。
 家庭内の事は、どこにいても、考える事くらいは出来る。 自分と、誠一との間の話である。 ここに滞在したところで、その解決策が、そう易々と見つかるとは思えないが、優しいヤエの言葉に、涼子は救われる想いを感じた。
「 ・・ゆっくり、休養させて頂きます・・・ 」
 涼子は、とりあえず、ヤエに答えるように、力無く笑って見せた。

3、みなかみ

 水田にそよぐ夏風が、青い稲を穏やかに揺らせている。
 小高い草原へと続く、緩やかに曲がった農道。 真っ青な空には、ぽっかりと白い雲が浮かんでいた。
 段々畑の向こうには、赤レンガで積み上げた線路の橋脚が、何本も並んでいる。
 ジンジンと聞こえる、セミの声。 照りつける夏の日差しに蒸された、草の匂い・・・
 千早は、自然風景に誘われるかのように、1人で、夏の田舎探検に出掛けた。

 ヤエの敷地に向かう小道から更に山側に歩くと、隣村へ通じる峠越えの山道になる。 水神大社の古い木製の鳥居があり、その脇に、樹齢300年は越えているであろう杉の大木があった。 神社脇に続く杉木立とつながり、大きな日陰を作っている。 杉の大木の根元には、苔むした道祖神。 赤い頭巾の上に、お盆前の季節としては、気が早いかと思われるトンボが止まっていた。
「 あ! トンボさん・・・! 」
 そうっと、手を伸ばす千早。
 トンボは、千早をあざ笑うかのように、ついっと、飛び立ってしまった。
「 ・・あん、もう! 」
 杉木立に沿って、小さな沢があった。 綺麗な水が流れている。
「 冷たいかな? 」
 草むらにしゃがみ、緩やかな流れに、手を入れる千早。
「 キモチいい~! ・・あっ、お魚だ! 」
 数匹の小さな魚影が、千早の目に映った。
 サンダルを脱ぎ、沢に入る。 水深は、30センチくらいだろうか。 丁度、千早の膝下辺りである。
「 つ・・ 冷たぁ~い! おしっこ、出そう・・・! 」
 両手でゲンコツを作り、ぶるるっ、と振るえる千早。
 足の冷たさは、すぐに慣れた。 沢の底は、小さな砂利である。 足の裏が刺激され、心地良い。
「 じゃっぶ、じゃっぶ、じゃっぶ・・! 」
 両手を振りながら、行進するように足踏みをする。
 また数匹の魚影が、千早の足元を上流に向かって過ぎった。
「 あ、お魚さ~ん 」
 腰をかがめ、魚を探す千早。
 体長15センチくらいの魚だ。 よく見ると、かなりの数がいるようである。
 千早は、ワクワクしながら、そのまま、沢を上流に向かって歩き始めた。
 沢伝いに小道もあったが、千早はサンダルを片手に、愉快に沢の中を歩く。 都会では味わう事の出来ない経験だ。 強い日差しも杉木立に遮られ、木漏れ日のようになって沢に注いでいる。 清らかな水の音が心地良い。
「 探検、探検~ 千早の、探検隊で~す 」
 無邪気に、沢を歩く千早。
 突然の訪問者に驚いたカエルが、石の上から沢に飛び込んだ。
「 あっ、カエルさんだ! お~い、ドコ行くの~? 」
 スイスイと、水面を泳ぐカエル。 千早が捕まえようとすると、慌てて沢の中に潜り、底の砂利の中に頭だけを隠し、じっとしている。
「 えへへ~~~、見ぃ~つけた、カエルさん! 」
 水が透明なので、訳も無く目視出来る。
 そっと手を入れ、カエルのお尻を突付く千早。 カエルは、びっくりしてもがき、大きな石の下に隠れてしまった。
「 あはははっ! カエルさん、びっくりしてるぅ~! 」
 やがて、小さな池に辿り着いた。 沢は、ここで終わりのようだ。
「 池だ~・・・ 」
 近くに神社の社のような建物があり、幾分、小さく聞こえる蝉の鳴き声の他に、チチッと言う野鳥のさえずりが聞こえる。
 しばらく、池の周りを見渡す千早。 池の中心の水面が、わずかに盛り上がっている。
「 ? 」
 千早は、そうっと近付いてみた。
 ・・・水が、涌いているのだ。
 ここはどうやら、池ではなく、沢の水源地らしい。 透明な水の中で、水底の小さな砂利が、まるでダンスをしているように踊っている。
「 ・・・面白ぉ~い! 」
 よく見ると、1ヶ所ではなく、数ヶ所から清水が涌いている。 全ての個所において、小石のダンスが見られた。
「 きれ~い・・! こんなの、初めて見たぁ~・・・! 」
 音も無く、水の中で踊る小石。
 それらは、水が湧き出ている中心ほど小さな小石で、中心から離れれば離れるほど、多少に大きな小石になっていた。
 まさに、自然の造形である。 無機質だが、まるで創られたような自然の美しさ・・・! それらには、どことなく人間味のような暖かさをも、かもし出していた。
 清水が湧き出ている部分を足で押さえてみると、少し脇から、新たな清水が噴出する。そこでもまた、美しい小石のダンスが始められた。
「 面白ぉ~い・・・! 」
 静かな空間・・・
 しばらく千早は、美しい自然の造形と戯れていた。

  「 何してるの? 」

 ふと、声を掛けられた千早。
 顔を、見ていた水面から上げると、池の辺に、1人の少年が立っている。
 優しそうな表情・・・ 歳は、千早と同じくらいだ。
「 石の踊りを見てたの。 面白いね、これ 」
 足元を指差しながら、千早は言った。
 少年が言う。
「 この清水は、何百年も、枯れた事が無いんだよ? 」
「 へえ~、そうなの。 凄いんだね! お洗濯や、お茶碗を洗う水道代、要らないね! 」
 少年は、微笑みながら言った。
「 飲んでも大丈夫だよ? この村の人たちは、みんな、ここいらの井戸水を飲んでるんだ。 中でも、ここの水が、1番おいしいんだよ? 」
「 ホント? 飲めるの? これ 」
「 ああ 」
 じっと、足元の水を眺める、千早。
 ・・・水道以外の水を、飲んだ事が無いのだ。 確かに綺麗だが、やはり躊躇する。
 少年は、池の辺にしゃがみ、水をすくって飲んで見せた。
「 ほらね? 大丈夫だよ? 」
 少年に則され、千早は、そっと湧き出ている辺りの水を、手ですくった。 木漏れ日に反射し、キラキラと輝く清水・・・ 千早の小さな掌から、宝石のような輝きを発しながら、雫が水面に落ちる。
 千早は、ちらっと少年を見た。 少年が笑って答えた。
「 ・・だぁ~い丈夫だよ! 疑い深いんだなあ~ 」
 千早は、恐る恐る口に持って行き、飲んでみた。
「 ・・・・・ 」
「 飲めるだろ? 」
「 おいしいっ・・! 」
「 だから言ったじゃないか! 」
 もう一度すくい、イッキに飲み干す千早。
「 おいしいねっ! お水って・・ こんなに、おいしかったんだ・・! 」
 満足そうに微笑む少年。
 何度も飲み、濡れた口の周りを腕で拭いながら、千早は言った。
「 ジュースなんかより、コッチの方がいいね! タダだし、いっぱいあるもん! 」
 少年が言った。
「 この水はね、霊験あらたかな、水神様の霊水なんだ。 ご利益、あるよ? 」
「 ・・みずがみ・・ 様? 」
 少年は、社を指しながら言った。
「 この村の、守り神さ 」
「 ふ~ん 」
 千早は、少年の服装が気になった。
 着物のような服である。 襟の無い丸首に、無地の白い服・・・ 袖の繋ぎ目は開いており、ヤエが履いているモンペのような、膝下までの白いズボンを履き、口元を紐でしばっている。 足は素足で、草履を履いていた。
 千早は言った。
「 あたし、千早って言うの 」
 少年は答えた。
「 僕は、水神 」
 聞き慣れない名前に、千早は聞き直す。
「 みなかみ・・・? 」
「 うん。 そこの、神社の子だ 」
 木立の間から見える社を指差しながら、少年は言った。 どうやら神主の子供らしい。 夏になると、神社では、夏の神事が行われると言う事だ。 母親の涼子からそう聞いていた千早は、納得した。 おそらく、その神事の練習をしているか、手伝っているのだろう。
 少年は尋ねた。
「 千早は、この村の子じゃないね? 」
「 そうだよ。 大婆さまが住んでるの。 お母さんの、お婆ちゃんなのよ? 」
「 ふ~ん 」
 少年は、傍らに生えていた笹の葉を取り、笹船を作ると、それを千早に渡した。
「 湧き出ている流れに、乗せてみなよ。 面白いよ? 」
「 へええ~! 上手に作るんだぁ~ 」
 少年から手渡された笹船を、早速、水面に浮かせる千早。
 湧き出る清水に揺られ、しばらく、クルクルと廻りながら揺れていた笹船は、思い出したように、つい~と清水を離れると、まるで意志があるかの如く、ゆっくりと下流に向かい始めた。
「 面白ぉ~い! ね、みなかみクン。 あたしにも、お船の作り方、教えてよ! もっと、いっぱい流そうよ! 」
「 よし! やるか? 」

 大きな笹船、小さな笹船・・・ ぎこちなく作ってあるのは、千早の作である。
 池には、沢山の笹船が浮かんでいた。
「 千早。 穂先の切れ目が大き過ぎるんだよ。 このくらいで、いいからさ 」
 見本を見せながら、少年が、千早にレクチャーをする。
「 ああ~ん、破れちゃったよ。 みなかみクン、天才だね! 」
「 見ろ見ろ、千早! 帆掛け船だぞ? 」
 枯れ葉を、帆に見立てた『 力作 』を披露する、彼。
「 あ、凄ぉ~い! ね、ね! 早く、浮かべてみて! 」
「 よし・・・ ほら、千早。 吹いてみなよ 」
 浮かべた笹船を指差し、千早に言った。 ほっぺたを膨らまし、ふう~っと、息を吹き掛ける、千早。 笹船は、水面を滑るように移動した。
「 凄い、凄ぉ~いっ! 早い~っ! アメンボみたいに進むねぇ~! 」
 上機嫌の千早。
「 コッチに来たぞ。 そらっ! 」
 吹き掛けられた息で、スイスイと、水面を滑る笹船。
「 今度は、あたしっ! ・・・あ~ん、曲がっちゃった! 」
 静かな池に、2人の歓声がこだまする。

 千早は、その日、暗くなるまで、池の辺で遊んでいた。

4、風鈴

 静かな、山間の夜・・・
 虫の音をバックに、時折り、軒下に下げてある風鈴が夜風に鳴っている。
 夕食は、蕎麦と山菜の天ぷらだった。 蕎麦は、もちろん、ヤエの手打ちである。 コシのある、素朴な味わいが素晴らしい。
 遊び疲れた千早が、居間の隣にある、明かりを落とした六畳部屋に吊った蚊帳の中で、スヤスヤと寝息を立てている。
 涼子が、千早の方を見ながら言った。
「 朝まで起きないわ、あの子・・・ 困ったわ。 お風呂、どうしよう。 薬湯湯に、入れなきゃならないのに 」
「 沢で遊んでたらしいから、大丈夫じゃろ。 汚れとりゃせんわい。 寝かしておいてやれ・・・ 」
 居間の傍らで手拭いの繕いをしながら、ヤエが言った。
 涼子は、ため息をつくと言った。
「 アトピーなんですよ、あの子。 背中やお腹・・ 太ももや、ふくらはぎの裏側とかに、発疹が出来るんです。 学校のお友だちにも、何人かいましてね・・・ 今、多いんですよ? 」
 糸を歯で切りながら、ヤエは言った。
「 難儀じゃのう~・・・ 最近の子は 」
「 アレルギー性のものだから、特効薬が無いんですって。 たいていの子は、中学生くらいで治癒するそうなんですが、中には、大人になっても、そのままの人がいるみたい 」
 手拭いを叩きながら、ヤエは答えた。
「 昔は、少なかったんが・・ 今、増えとるんじゃろ? どっかに、悪さする原因があるはずじゃ。 ま、空気の悪い都会におれば・・ どっか、体がおかしくなるのも、ムリ無いわのう~ 」
 苦笑いで答える、涼子。
 また、風鈴が小さく鳴った。
 ヤエがたたむ手拭いを見て、涼子が尋ねる。
「 ・・大婆さま。 お裁縫って、難しいですか? 」
「 はあ? 裁縫? 」
「 ええ。 袖の、ほつれを縫ったり、小さな引っ掛け破れを直したり・・・ 」
 ヤエは、すぐ横にある、ちゃぶ台の上にあった魔法瓶を手に取ると、冷えた麦茶をコップに注ぎながら言った。
「 繕いのコトかね・・・ まあ、丈を直したり、半袖を長袖に付け替えたりすりゃ面倒かもしらんが、そう難儀なコトじゃないぞえ? ワシは、いつもやっとる 」
「 教えて下さい。 あたし、何にも知らないんです。 服は、破れたら捨てるものだって思ってますし・・・ 」
 コップの麦茶を、グイッと一飲みすると、ヤエは、笑いながら言った。
「 ふあっはっはっは! 現代っ子じゃのう、涼子ちゃんは。 よしよし、ナニから教えたモンかのう? 」
 涼子は、着替えの入ったカバンの中から、千早のシャツを引っ張り出した。
「 圧倒的に、千早の服が多いんです。 あの子、すぐ破って帰って来るんです。 もう、困ったものだわ。 ・・・コレなんか、買って1日目で脇の下、破って来たんですよ? 目立たないので、室内用に使ってますけど・・・ 」
 シャツを受け取ったヤエは、一笑しながら言った。
「 こんなモン、破れたウチに入らんのう。 ほつれただけじゃ。 ええか? ここは、こうしてのう・・・ 」
 早速、針を通す、ヤエ。
 『 裁縫教室 』は、その日の夜遅くまで続けられた。


 翌朝。
 板の間を走り回る千早の足音で、涼子は目が覚めた。 外では、既に蝉が鳴いている。
 目を擦りながら、枕元に置いてあった携帯電話の時計表示を見た。
 10時53分。
「 ・・いっけないっ! もう、こんな時間! 会社に・・・ 」
 タオルケットを跳ね除けた涼子の目に、障子と畳が映った。
「 ・・・・・ 」
 ここは、ヤエの家だった。
 次のプロジェクトが始まる来週まで、溜まっていた有給を申請し、千早と共に、ここに来ていたのだ・・・
 やっと、昨日までの記憶を思い起こした涼子。 それにしても、寝過ぎだ。 もうすぐ、お昼にもなろうとしている時間である。
( いつものマンションだったら、暑くて寝苦しいから、自然に目が覚めちゃうんだけど・・・涼しいから、寝過ぎちゃったのね )
 旧家は、朝から暑い夏の日でも、午前中は、随分と過ごし易い。 午後からでも、外から入って来ると、家の中は、驚くほど快適である。 実際、このヤエの家には、扇風機すら無い。
( 久し振りに、『 熟睡した 』って感じだわ )
 布団から起き上がり、大きな伸びをする涼子。 肩や首から、ポキポキと音がした。

 障子を開け、居間に行くと、軒先で野菜を洗っているヤエを見つけた。 庭先の井戸から汲み上げた水を、大きな木製のタライに入れ、洗っているようだ。
「 大婆さま、すみません。 こんな時間まで寝てしまって・・・! 」
 ヤエは、振り向くと、笑いながら言った。
「 よう寝とったでのう~ 起こさずに、畑( はた )へ行ってたんじゃ 」
 昨夜は、かなり遅くまで『 裁縫教室 』をしていたはずだ。 それでもヤエは、いつも通り起き、畑で一仕事して来たらしい。
 採れたてのキュウリを持って、千早が嬉しそうに言った。
「 見て見て、お母さん! あたしが採ったんだよ! 」
「 千早も行ったの? 」
「 うん! トマトとかね~、ナスビとかね~、いっぱいあったんだよ? 」
 あくびをしながら、縁側に腰を下ろした涼子が言った。
「 ふぁあ~・・ 千早・・・ 野菜なんか、食べないじゃない 」
「 神社の川でね、洗ってさ、塩を付けて食べるんだよ? おいしいよ? 」
 自慢気に言う、千早。
「 ドレッシングかけても食べない、千早が~? 」
 一笑する、涼子。
 千早が言った。
「 もう、2つもキュウリ、食べちゃったよ? おいしいんだから、これ! 」
 ヤエからもらったらしい喉薬の空き缶を出し、中に入っている塩をキュウリの先に付け、ポリッと、かじって見せる千早。
 ・・これには、涼子は驚いた。 何しろ、大の、野菜嫌いの千早だったのだ。 それなのに、塩だけでキュウリを、ボリボリとかじっている。
 あっという間に、大きなキュウリをたいらげた千早に、涼子は目を丸くした。
「 ナスビも、おいしいのかなぁ~? 」
 ヤエが洗ったナスビを手に、千早は、興味津々の様子である。
「 ・・まてまて、チーちゃん。 これはな、煮て、軟らかくしてな・・ 冷やして、味噌を付けて食べるんじゃ。 夕餉( ゆうげ:夕食の事 )に、婆が作ってやるでな、待っとれ。 うんめぇ~ぞおぉ~? 」
 何か、いかにも美味しそうな言い方である。
 千早は、ワクワクした目で涼子の方を見ると、言った。
「 お母さん! お味噌だって・・! ナスビって、お味噌汁の味、するのかな? 」
「 ナニ言ってんの、千早ったら! 」 
 笑う、涼子。
 何とも、愉快な気分である。
 今日は、会社に行かなくても良いのだ。 ゆっくり寝て、自然がいっぱいのヤエの家で、採れたての野菜を手に、談笑している自分の姿・・・
 こんな経験は、久しく忘れていた。
 ・・・蒸し暑い、都会のアスファルト・・・ 期待の声に靴底を減らし、頼られる自分に、虚勢を張る・・・!
 期待されているとは言うものの、はたして、本当にそうなのだろうか? うまくおだてられ、利用されているだけなのでは無いのだろうか・・・?
 自分は期待されている、とでも思っていなければ、やっていけないような状況であったように思われる。
 『 今日は、会社に行かなくても良い 』
 正直に、そう安堵した自分に、やはりどこか、疑問を感じながら仕事をしていた自分を認識した涼子。
( 今の、自然な笑い・・・ ホント、久し振りだったような気がする )
 涼子は、そう思った。

 田舎の昼下がり。
 そうめんを食べた3人は、涼しい居間で昼寝をした。 広い畳敷きの居間で、思い思いに寝転び、昼寝をするのだ。
 軒下に下げられた風鈴が、時折り吹く夏風に鳴っている・・・
 涼子の傍らでは、エビのように丸まった千早が、スースーと寝息を立てていた。
 仰向けに寝転びながら、顔を横に向け、千早の寝顔を眺めていた涼子。
( 平和ね・・・ こうしていると、仕事のコトなんか、どうでも良くなって来ちゃう・・・ )
 開け放した障子から、アゲハチョウが1匹、居間に入って来た。 天井の鴨居に止まり、羽をゆっくり動かしている。
( 千早が起きていたら、大騒ぎしてたかもね・・・! )
 目に浮かぶ情景を想像し、クスッと笑う、涼子。
 そのまま、涼子は、まどろみの世界へと入って行った。

5、注連縄

「 切れちゃったよ~、大婆さまぁ~ 」
 再び、無邪気な千早の声で、涼子は目が覚めた。
「 チーちゃん、もっとこうしてな・・ 捻るんじゃ。 そうそう、うまいぞえ? 」
 ヤエの声も、聞こえる。
 顔をよじり、声のした方を向く涼子。 玄関の土間にしゃがみこみ、千早とヤエが、藁で何かを作っているようだ。
 むっくりと上半身を起こし、尋ねる涼子。
「 千早・・・? なに作ってるの? 」
 眠そうに、目を擦っている涼子に、千早は言った。
「 注連縄だよ? 神社に付けるの! 」
「 しめなわ・・・? 」
 ヤエが、藁をこよりながら答える。
「 もうすぐ、みずがみ様の夏神事があるんじゃ。 今年は、ワシが作る番なんじゃよ 」
「 水神大社の・・・ 」
 土間に下りて来た涼子が、その様子を見ながら、ヤエに尋ねた。
「 そんな大事なものを・・・ 千早に手伝わせていいんですか? 」
 ヤエは、笑いながら言った。
「 子供は、無心じゃからのう~ 水神様も、お喜びになるじゃろうて 」
 千早が、細くこよった藁を涼子に見せ、自慢気に言った。
「 見て、見て、お母さん! ワラで作ったヒモだよっ? どう? 」
 ・・・結構、いびつに捻ってある。 こんなものを使用して、いいのだろうか?
 心配になった涼子が言った。
「 大婆さま。 ホントに、大丈夫なんですか・・・?」
 ヤエは、笑いながら答えた。
「 大丈夫じゃよ。 何本も合わせて縄にするんじゃ。 多少のコブは構わんて 」
 縒った藁を束ねながら、ニコニコ顔のヤエ。
「 要は、キモチじゃよ。 ・・おお~ 随分、長く出来たのう~、チーちゃん。 うまいぞえ? 」
「 へっへ~! 」
 得意顔の、千早。
 ヤエは、立ち上がると言った。
「 さて、締め込むとするかね。 丁度、人足も1人、増えた事だしのう・・・! 」
 3人がかりで、こよった藁の束を編み込む。 もちろん、涼子にも初めての経験である。 ヤエの指導の下、段々と、注連縄が出来上がっていく。
「 へええ~・・! 注連縄って、こうやって作るんですね。 それらしく、出来て来ましたよ? 」
 感心する涼子。
「 昔は、草鞋( わらじ )もカゴも、作りよったモンじゃ 」
 2メートルくらいの長さの、注連縄が出来上がった。 その中心と、30センチくらい離した両側の所から、藁が数本、垂れている。
 ヤエが言った。
「 この垂れておるワラには、意味があるんじゃ。 向かって左から、3本。 真ん中が、5本。 ・・一番右が、7本じゃ。 子供神事の、七五三にも由来する説があるそうじゃぞ? 」
「 へええ~・・! なるほど。 知りませんでした 」
 いたく感心する、涼子。
 ヤエは、あらかじめ作っておいた、たんざく状の白い紙を2つ、その間に付けた。 紙四手と呼ばれるものだ。 神社の境内で良く見かける、あれだ。
「 出来たねぇ~! 大婆さま~! 」
 嬉しそうな、千早。
「 うむ、うむ・・・ 3人でやったから、早よう出来たのう~ 」
 ヤエも、仕上がりに満足のようだ。 立派に出来ている。 とても、素人の女性と、8歳の子供が協力して作ったものとは思えない。
「 早速、明日の朝一番に、付けに行くかのう 」
「 あたしも行くよ、大婆さま! 」
「 よし、よし 」
 無邪気に言う千早の頭を、嬉しそうに撫でる、ヤエ。
 涼子も笑っていた。

 陽が大きく西に傾き、赤く染まった夕日をバックに、カラスが飛んで行く。
 ムクムクと沸き立った入道雲が、その縁取りを金色に輝かせている。
 美しき、夏の田舎の夕暮れ・・・
 杉林の方からは、ヒグラシのかん高い鳴き声が、幾分、物悲しげに、山間にこだましている。
 どことなく飛来したコウモリが、母屋の屋根の上辺りを飛び回り、庭の脇の草むらからは、虫たちの鳴き声が聞こえ始めていた・・・

 また、風呂に入らずに、寝てしまった千早。
 蚊帳の中で寝ている千早を見ながら、涼子が言った。
「 夕方、びしょ濡れで帰って来たんですよ? この子・・・ 」
 かまどのある台所で、野菜を塩漬けにしながら、ヤエが答えた。
「 水神様の沢で、遊んどったんじゃろ? あそこは浅いし、ナニも危ないトコは無い。 遊ばせておけ 」
「 でも、お風呂くらい入れないと・・・ 」
 大きなカメの上に漬物石を乗せ、塩の付いた手を、流し台の水で洗いながら、ヤエは答えた。
「 清水で、泳いで遊んどったんなら、どこも汚れやせんわい。 放っておけ。 逆に、ご利益があるかも知れんて 」
 苦笑いしながら居間に戻り、昨夜、ヤエから教えてもらった裁縫を始める涼子。
 ヤエも、台所から居間に上がって来た。
「 どっくら・・ しょっと 」
 涼子が、肘の破れた千早のシャツに、針を通しながら言った。
「 千早と同じくらいの歳の男の子と、遊んでいるんですって 」
「 この村の子かえ? 」
 涼子の傍らに座り、濡れた手を割烹着の裾で拭きながら、ヤエが聞いた。
「 神社の子らしいですよ? みなかみ、って言う名前だそうです 」
 ヤエは、天井を見上げ、不思議そうに答えた。
「 ・・・はて? 水神様ンとこは、榊さんじゃがのう・・・? 夏休みで、孫でも来とるんかいの? 」
「 着物を、着てるそうですよ? 宮司さんの、親戚のお子さんなんじゃないかしら 」
「 ・・・・・ 」
 無言のヤエ。 何か、じっと思案をしているようだ。
 やがて、静かに言った。
「 ・・・水童しでも、出たかの・・・ 」
「 みずわらし・・・? 」
 裁縫の手を止め、ヤエに聞き直す涼子。
 じっと涼子を見つめながら、ヤエは言った。
「 水神様の子供じゃ。 明王童子と言ってな。 純粋な心を持った者にしか、見えんそうじゃ 」
「 ・・・・・ 」
 きょとんとしたままの、涼子。 やがて、裁縫の手元に視線を戻すと、一笑しながら言った。
「 あの子が・・ 水神様の子供とお話しした、ですって? それはまた、有り難い事だこと 」
 ヤエが言った。
「 水童しは、子供と遊ぶのが大好きなんじゃ 」
「 あはは! やめて下さいよ、大婆さま。 そんなの、いるワケないじゃないですか 」
 再び、一笑する涼子。
 ヤエは、真面目な顔で続けた。
「 御諸の水神様には、古い呼び名がある。 水神、と書いて『 みなかみ 』と言うんじゃ 」
 ・・・確かに、沢の上流の部落は、みなかみと言う字名である。 沢が流れ込む本流は、みなかみ川と言う・・・
 千早が、一緒に遊んでいる『 みなかみ 』と言う名の、少年の存在・・・ ヤエも知らない少年らしい。
( ・・・・・ )
 少々、不思議な感じはする。 もしかしたら・・ 本当に『 明王童子 』とか言う、神の子なのだろうか。
( まさか。 そんな事は無いわ )
 現実的には有り得ない、伝説の世界での話しだ。 たまたま、ヤエの知らない子供がいる、と言うだけの事である。
 涼子は、笑いながら言った。
「 夏神事の時期に、水神様が、天界からこの村にお帰りになる、って話しね? お母さんから聞いたコトがあるわ 」
 ヤエは、裁縫道具の入った手箱から針を出しながら言った。
「 水神様は、袒姿( あこめすがた:神官が着る、衣装の1つ )じゃそうな。 水童しも、似たような着物を着てるはずじゃ 」
 涼子は、笑って答えた。
「 明日、注連縄を奉納する時に、私からも、お礼を言っておかなきゃね・・・! 」
 その夜の『 裁縫教室 』も、前夜に続き、遅くまで続けられた。


 翌日の早朝。
 空は、今日も晴天だ。 朝霧が漂う、山間の朝・・・
 凛とした、清々しい空気が心地良い。 毎朝の出勤時と同じ、6時頃ではあるが、やはり田舎だ。 爽やかな感じがする。
 千早とヤエ・涼子の3人は、注連縄を持って水神神社へ行った。 眠そうに、あくびを連発する涼子ではあったが、意外と、頭は冴えていた。 気分も良い。
 無邪気な千早は、朝から元気一杯である。 道端の、草に付いている露を足で払い、スキップしながら先行して行く。
「 ♪ 冷た~い、冷た~い、つゆが冷た~い。 ぴしゃ、ぴしゃ、ぴしゃっ! ♪ 」
 即興自作の、意味の分からない歌を歌っている。
 涼子が、たしなめた。
「 千早。 足が濡れちゃうでしょ? 大人しく歩きなさい。 ・・ほら! 足、草だらけじゃない 」
「 お池で洗うから、いいも~ん! あ、この辺の小川も、ちょっと深くてさ、丁度、洗い易いんだよ? 」
 農道脇の、小さな用水を指差しながら言う千早。
 涼子は言った。
「 そんなトコで、洗わないの! お百姓さんに、怒られるわよ? 」
「 あ、バッタがいる! バッタさ~ん! 」
 涼子の注意など、全く、聞く耳を持たないようだ。 慌てて飛び立つバッタを捕まえようと、夢中になっている。
 やがて、木製の古い鳥居が見えて来た。
「 コッチだよ! 早く、早く! 」
 勝手知ったるように手招きする千早。 細い参道を、どんどんと先行して行く。
 何脚も並ぶ、古い石灯籠・・・ 神社の歴史を、物語っているようだ。 青地に白で『 御諸水神大社 』と染め抜かれた幟が、朝霧の中に何本も立っており、訪れた者を、結界により浄化された厳粛な世界へと、いざなうような雰囲気である。
 しばらく歩くと、木立に囲まれた本殿が現れた。 古い木造造りで、小さいながらも神楽殿もある。
( ここへ来たのは、いつだったかしら。 子供時代よね )
 朝霧を突き抜けて立つ、大きな杉の木を見上げながら、涼子は、幼少の頃を思い出していた。
 飴色のそよ風に舞う、桜の花びら。
 夏神事の、かがり火。
 枯れ葉の溜まる境内。
 雪を被った、石灯篭・・・
 全てが、昨日の事のように、想い起こされる。
( 小学校の頃だっけ。 夏神事の屋台で、お母さんに買ってもらった綿飴・・・ 甘~くて、美味しかったなぁ・・・ )
 過ぎ去った昔の記憶に、心を馳せる涼子。 今はもう、その母もいない・・・
 小さなため息をつき、涼子は、社の正面へと続く石畳の上をゆっくりと歩いた。
 手洗いで手を清めたヤエが、三方( さんぽう:供え物などを乗せる台 )に盛った米を賽銭箱の横に置き、柏手を打つ。
「 千早も、来なさい 」
 常夜灯に、へばり付いていたコガネムシを、草の葉先で突付いていた千早に、涼子は声を掛けた。
 持って来た小銭を賽銭箱に入れて本殿に二礼し、手を打つ、涼子。 千早も涼子の横に立つと、涼子のマネをしながらお辞儀をし、小さな手を打った。
 しばらくの、静かな合い間・・・
 涼子が、手を合わせたまま言った。
「 ・・千早が、ご厄介になっています 」
「 誰に、ご挨拶してるの? お母さん 」
 不思議そうに尋ねる、千早。
 涼子は、もう一度、一礼しながら答えた。
「 神様よ 」

 ヤエが、神社脇にあった掃除道具入れの小屋から、小さな脚立を出して来た。 それを本殿前に立て、持って来た注連縄を吊るす。 あらかじめ、クギが打ってあるらしい。 注連縄の両端を、それに掛けるのだ。
「 出来た、出来た~! 」
 掛けた注連縄を見上げ、満足そうな千早。 ヤエも、嬉しそうである。
「 ちい~と、掃除でもするかね・・・ 」
「 手伝います、大婆さま 」
 ヤエと涼子は、掃除道具入れの小屋から竹ボウキを出すと、境内を掃除し始めた。
 ・・・静かな、境内・・・
 時折り、野鳥のさえずりが聞こえる。
 早朝に、こんな所を掃き掃除するのも、新鮮で良い。 涼子にとっては、初めての経験である。
( ・・・平和なものね・・・ 都会での、繁忙な生活からでは、想像もつかないわ )
 雀が2羽、チチチッと鳴き声をたてながら、涼子の頭の上を横切った。 その内の1羽が手洗い石の上に降り立ち、チョンチョンと、石の上を動き回っている。 もう1羽が手洗い石の上に舞い降り立つと、先に降りていた1羽は、短く鳴きながら飛び立った。 後の1羽も、それを追うように、社の上へと飛び立って行った。
( 平和と言うより・・・ 心が、満たされていく感じ・・・ )
 境内の地面に、幾重も付く竹ボウキの跡を見ながら、涼子は、そう思った。
 何も無い、田舎の暮らし・・・
 昨日だって、どうやって時を過ごしていたのか、あまり覚えていない。 それは都会でも同じかもしれないが、ここでは、それを思い出す必要が、全く無いのだ。 やり残した事があれば、明日、やれば良い・・・ そう、過ぎ行く時間を、ゆっくりと味わいながら・・・
( ただ、のんびりしてる訳じゃないんだ・・・ 時間を、贅沢に使っているんだわ )
 涼子は、そう思った。
 そう言えば、昨日の朝、目覚めた時以降、時計を見ていない。 テレビも、ヤエの家にはあるが、この2日間、全くつけていない。 千早も、いつも夕方のアニメ番組を欠かさず見ていたのに、口にすら出さないのだ。 毎日、外で、虫や魚・トンボなどと戯れ、夜になると遊び疲れて寝てしまう。
( 本来の、子供の姿なのかもしれないわね・・・ )
 細く、無機質に造形されたホウキの跡。 固く固まった自分の心を、優しく撫でる心境・・・
 ゆったりと流れる時間に、心が和らぐ感覚を覚える涼子であった。

 ひとしきり掃除をすると、千早の姿が見えない。
「 千早~? 帰るわよぉ~? 千早~? 」
 辺りを呼んでみたが、返事は無い。
「 1足先に、帰ったかのう 」
 ヤエは、別に心配そうな素振りも見せず、そう言った。
「 千早~? 」
 もう一度、呼ぶ。 だが、やはり返事は無い。 涼子は、にわかに心配になった。
「 千早ぁ~っ! 」
 少々、焦ったような口調で叫ぶ涼子。
「 大婆さま、私、裏の清水を見て来ます・・・! 」
「 おう。 じゃ、ワシは、帰っとるでな 」
 ヤエは、全く心配の無いような口調で、そう言った。
 都会では、毎日にように、幼児の誘拐事件が起きている・・・ 誘拐だけでは無い。 事件・事故など、日常茶飯事なのだ。 のんびりしたヤエの態度に、少々、腹が立つ心境すら覚える涼子。
 とりあえず涼子は、神社裏の清水を見に走った。

「 千早ぁ~ッ・・! 」
「 なあに? お母さん 」
 拍子抜けするように、千早の声が返って来た。
 やはり千早は、清水の所にいた。 ズボンとTシャツを辺脇の大きな石の上に脱ぎ、下着姿で泳いでいる。
「 そんなトコで、泳がないのっ! もうっ・・! 怒られるでしょっ! 」
「 だって、みなかみクンが、泳いでもいいって、言ったんだもん。 冷たくて、気持ちいいよ? 」
「 早く、上がんなさい! 帰るんだから 」
「 え~? もっとココに、いたいよ~ 」
「 上がんなさいっ! 」
 真剣に怒る涼子に、千早は渋々、水から上がった。
 ズボンとTシャツを手に取り、サンダルを履く。
「 じゃあね、みなかみクン! ご飯食べたら、また来るからね 」
 誰もいない向こう岸に、手を振る千早。
 涼子は尋ねた。
「 ・・みなかみ君って・・ ドコにいるの? 」
 千早が、あっけらかんと答えた。
「 そこにいるよ? 」
 静かな、清水涌き・・・ 涼子の目には、人らしき姿など、どこにも見えない。
「 ・・・・・ 」

  『 水童しでも、出たかの 』

 ヤエの言葉が、涼子の脳裏をよぎる。
 背筋が、ぞっと寒くなった涼子。
「 ・・は、早くしなさい・・・! ほら、早くってば・・・! 」
 千早の手を引き、逃げるように涼子は、その場を離れた。

6、我が子

「 水童しは、ナニも悪さはせんから心配無い。 放っておけ、涼子ちゃん 」
 畑で採って来た野菜を、軒先で仕分けながら、ヤエは言った。
 それを手伝いつつ、涼子が言った。
「 でも、気味が悪くて・・・! あの子、頭が、おかしくなっちゃったんじゃないのかしら・・・! 千早、『 そこにいる 』って言うんだけど、誰もいないんですよ? 」
 ヤエは、ナスのヘタを包丁で切り落としながら答えた。
「 子供にしか見えんのじゃ。 仕方あるまいて。 大人は、まず警戒して物事を見るからのう・・・ 」
 ヤエは、『 みずわらし 』の存在を信じているかのような言い方である。
 涼子は、そんな迷信より、千早の身が心配になって来た。 どうやら千早は、また、沢に行ったようであるが・・・ 足を滑らせ、頭を打つ危険だってある。 迷信への気味悪さに加え、現実的な情況にも、不安が募って来た涼子。
 ヤエが尋ねた。
「 チーちゃんは、また、沢に出かけたんか? 」
「 ええ、多分・・・ 」
 玉ねぎを、藁で束ねながら涼子は答えた。
「 ほうか 」
 ヤエが、ナスのヘタを、トンと切り落とす。
 涼子は言った。
「 その・・ 『 みなかみ君 』って、着物を着ているらしいんだけど・・・ 浴衣みたいなのとは、ちょっと違うらしいんです 」
「 ・・ほう。 どんな着物じゃ? 」
 包丁の手を止め、ヤエが尋ねる。
「 千早が言う事ですので、あまりアテにはならないんですが・・ 何か、丸首で・・ 背中に、菊の花のような飾りが2つあるそうです 」
 ヤエは、しばらく考えてから答えた。
「 そりゃ、水干じゃ 」
「 ・・すい・・ かん・・・? 」
「 昔の、お公家様の着物じゃよ。 菊閉じ、と言う飾りでな。 相撲の、行司の着物の背中にもあるぞえ? 」
 ヤエに言われて、大相撲を思い出してみる涼子。 そう言えば、そんな飾りがあったような気もする。
 ヤエは続けた。
「 男の子の晴れ着、として使われておった着物じゃよ 」
「 ・・・・・ 」
 やはり、水童しなのだろうか・・・?
 涼子は、更に不安になって来た。 得体の知れないモノが、千早の身近にいるらしいのだ・・・! 玉ねぎを束ねながらも、心、ここに有らず、と言ったような表情をしている涼子。
 ヤエは、そんな涼子の顔をしばらく見ていたが、やがて言った。
「 いい顔じゃ、涼子ちゃん 」
「 え? 」
 次の、ナスのヘタを切りながら、ヤエは、再び言った。
「 母親の顔じゃ 」
「 ・・・・・ 」
 意味がよく分からない涼子。
 しかし・・・ 考えてみれば、千早の身を心配した事など、あまり無い。 勉強の出来を心配したり、塾の選択に悩んだ事は度々あったが、身を心配した事など、心当たりが無いのだ。 せいぜい、外出する時に、車に気を付けるようにと言っていた程度である。
( 今まで・・ じっくりと、あの子と話す事も無かったわね・・・ )
 涼子が自宅に帰って来ると、既に、千早は寝ている事が多い。 朝、朝食を取っている時に言葉を交わす程度の日が、ほとんどである。
 母親としての存在意義が、あまりに希薄だった事を後悔する涼子。 後悔心と共に、ムクムクと沸き立つように起こって来る不安・・・ そして、千早には見える『 みなかみ 』と言う少年の存在・・・!
 涼子は、高まる不安を押さえ切れなくなって来ていた。
( 散々、放ったらかしにしておいて・・・ 今更ながら、千早の身を心配するなんて・・・私って、母親失格ね・・・! )
 自分で、何でも出来るようにと、あえて世話をしなかった涼子。 会話も、助言くらいで済ませていた。 ある意味、それも親子愛であろう。 しかし、それが日常となり、自分の仕事が忙しいのを理由に、段々と、千早と言葉を交わさなくなって来ていたのだ。 最近は、会話する事さえ億劫に感じて来ていたのが、正直な気持ちだ。 そんな事より、仕事の方が優先だと・・・
 子供との会話が、少なくなって来ていた現状は、涼子にも分かっていた。 それが、あまり良くない事である事も・・・
 ただ、自分の忙しい生活にかこつけ、『 何とかなるだろう 』と言うような発想に逃げていたのだ。
『 本当に、このままで良いのだろうか? 』
 今まで、仕事優先の意志とは別に、心の片隅で、いつも無意識に自問自答していた涼子。そんな自分の心情を、今、再認識する。
 ・・・答えの出ない、苛立ちと焦り・・・
 ヤエは、そんな涼子の心の葛藤を、どことなく察していたのだろう。
 無言のままの涼子に、ヤエは言った。
「 チーちゃんと、話しをするんじゃ。 あの子にとって大切なのは、母親の存在じゃ。 甘えたい盛りなんじゃ。 いつまでも、そんな年頃じゃないぞえ? いつかは、涼子ちゃんの元を離れる。 厳しくしつけるのは、それからでも遅くは無いぞえ? 」
「 ・・・・・ 」
 ヤエの言葉には、人生の重みが感じられた。
 確かに、そうだ。
 早くに、母親を亡くした涼子。 その寂しさは、誰よりも理解出来る。
( ・・・お母さんに、逢いたかった・・・! 誰よりも、そう思っていたのは自分なのに・・・ いつから私は、勝手に決め付けた解釈を信じ、千早と向き合い始めていたの・・・? )
 子供の頃、心底、母に甘えたいと思っていたのは自分だった。 こんな寂しい想いは、自分の子には絶対させない。 そう思っていたのに・・・!
( あの子を・・ 千早を、抱きしめなきゃ・・・! 今、しないと・・ もう、私の手の届かない所に行ってしまうかもしれない・・・! )
 涼子は、いても立ってもいられない衝動に駆られた。
( 千早・・・! 私の、千早・・・! )
 そんな時、無邪気な千早の声が聞こえた。
「 ただ~いまぁ~! 」
 千早の声に、弾かれたように振り向く涼子。 スボンとTシャツを片手に、また下着姿で、千早が帰って来ていた。
「 ・・千早っ・・・! 」
 迷子の我が子を、見付けた時のような口調で、涼子は叫んだ。
「 また泳いじゃった! えへへっ・・ 」
 前髪から、雫をポタポタと垂らしながら、千早は言った。
 思わず、濡れた千早の体を抱き締める涼子。
 ・・・抱き締めた千早の体は、小さかった。 こんなに・・・ こんなに、小さかったのだ。 こんなに・・・!
 涼子は、千早の首筋に頬擦りしながら、搾り出すような声で言った。
「 ・・早く・・ 着替えなさい。 ピンクのシャツ、縫っておいたから・・・ 」
「 ホント? わ~い! あのシャツ、お気に入りだったんだ! 」
「 安物・・ じゃない・・・ 」
「 だって、一緒に、お買い物に行った時に、お母さんが買ってくれたんだもん。 ・・お母さん? ナンで、泣いてるの? 」
 指先で、涙を拭いながら、涼子は言った。
「 ・・・玉ねぎが・・ 目にしみたのよ・・・! さあ、早く着替えて。 体、冷え切ってるじゃない。 風邪ひくわよ? 」
「 は~い 」
 ヤエは、笑っていた。

 昼食を、卵焼きや、そうめんで軽く済ませると、千早は虫かごを取り出し、今日を含めた、ここ3日間の『 成果 』を、涼子に披露し始めた。
「 コレが、カミキリ虫でね~ コレが、ショウリョウバッタだよ? あれ? テントウ虫もいたのにな? ドコ行った? お~い、テントウ虫さ~ん・・ あ、いたいた! こんな隅っこにいた! ほら見て、お母さん! 」
 虫かごの隅を指し、涼子に見せる千早。
 千早は、何でも涼子に見せたがる。 多分、それを機に、母親と、話がしたいのだろう。珍しいものを見つけ、それを見せる事により、母親から誉められたいのだ。
『 よく見つけたねえ~! 凄いよ~? 』
 子供にとっての、その言葉は、自分を最高に絶賛する言葉である。 また、親から認められ、特別に与えられた勲章にも等しい。
 涼子は言った。
「 ナナホシテントウ虫ね。 黒い点が、7つあるでしょ? 数によって名前が違うのよ? 」
「 へええ~・・! じゃ、1個っていうのも、あるの? 」
 涼子も、その辺りはよく分からない。
「 さあ? お母さんも、見た事ないわねえ~ 帰ったら、図鑑で調べてごらん? 」
「 うん! でも、まだ帰りたくな~い 」
 虫かごの中を覗き込みながら、千早が言う。
 悪戯っぽく笑いながら、涼子は言った。
「 お友だちの、綾ちゃんたちと・・ 遊びたくなって来てるんじゃないの~? 」
「 そんなコト、無いよ! だって、ここにいた方が、お母さんと、たくさんお話し出来るもん! 」
 千早の言葉に、涼子はドキッとした。
「 千早・・・! 」
 声を詰まらせながら、涼子は、千早を抱き締めた。 虫かごを持ったままの千早が、涼子の背中越しにポツリと言った。
「 お母さん・・ あたし、トンボさん欲しいの 」
 涙が出て来た、涼子。 千早に気付かれないように、そっと指先で拭い、千早の肩を両手で掴んで離すと、あどけない千早の顔を見ながら言った。
「 ・・よしっ・・・! お昼寝して・・ 涼しくなったら、採りに行こうか! 」
 ワクワクしながら、目を輝かせる千早。
「 うんっ! 行こ、行こっ! 」

 その日の、昼下がり。
 畳敷きの広い居間で、仲良く昼寝する、涼子と千早の姿があった。
 枕を頭に、横向きに寝ている涼子。 その涼子の腕を枕に、虫かごを抱いたまま眠る、千早・・・
 時折り鳴る、風鈴。 蝉時雨も、いつになく、優しく聞こえるようだ・・・
 そんな姿を、ヤエは、微笑みながら見ていた。
「 ・・親子じゃのう・・・ 」
 スイカを、井戸に放り込む。
「 どれ・・ ワシも、一眠りするかね 」
 そう呟きながら、居間に上がった、ヤエ。
 しばらくすると、静かな寝息を立て始めた。

7、童心

「 お母さん! そっち、そっち! あ~、そこに止まってるぅ~! 」
 川沿いにある、畑続きの野原。
 膝位に伸びた夏草をかき分け、涼子と千早は、網を片手にトンボを追い廻していた。
「 えいっ! 」
 へっぴり腰で、網を振り回す涼子。
「 捕れた? お母さん、捕れた? 」
「 入ってる、入ってる、千早っ! 早く、虫かご持って来て! 」
 虫かごを、肩から袈裟掛けに下げた千早が、涼子の横に、ちょこんと座る。
 涼子が言った。
「 大きいわよ? オニヤンマね! ほらっ 」
 網の中から取り出したトンボを、千早の顔の前に出して見せる涼子。
「 おに・・ やんま・・? わあ~、凄い、凄い~っ! 大っきな目~! 」
 体長、7センチくらいはあるだろうか。 羽を摘ままれた涼子の指先で、手足を動かしている。
「 この大きな目はね、複眼と言って、沢山の小さな目が集まって出来ているのよ? 」
「 へえぇ~・・ いっぺんに見たら、ワケ分からないね! 木にぶつかっちゃうかも 」
 涼子の説明に、無邪気に答える千早。
 虫かごに入れたオニヤンマは、しばらくバタついていたが、やがて虫かごの網に掴まり、動かなくなった。
 しげしげと、それを眺めながら千早は言った。
「 ・・すっごいねえぇ~、お母さ~ん! 大きな羽根、4つもあって、すっごいキレイだねえぇ~・・・! あ! 赤いのが、飛んでるう~! 」
 2人の横を、すいっと横切ったトンボを指差し、千早が言った。
「 赤トンボね! どっかに、止まらないかなあ・・・! 」
 額に浮いた汗をハンカチで拭きながら、赤トンボの行く先を目で追う、涼子。
「 見て、見てっ、お母さん! 青いのがいるっ・・! キレーだよっ? ほら、ほらっ、あそこ! 」
 傍らの、出揃わないススキの穂先に、体に青い色の筋が入ったトンボが止まっている。
「 シオカラトンボよ。 ・・よ~し、見てらっしゃい・・・! 」
 腰をかがめ、そろそろと近付く涼子。 ゆっくりと、網を構える。
 千早は、ワクワクしながら涼子を見守った。
「 ・・えいっ! 」
 振り下ろされる、網。
「 入った、入った! 千早っ! 」
「 わああ~! お母さん、天才~! 見せて、見せてぇ~! 」
 狂喜する、千早。
 ギンヤンマ、ナツアカネ・・・
 千早の虫かごは、トンボでいっぱいになった。

「 ほ~ら、見てごらん? アブラゼミの抜け殻よ? 」
 水車小屋から、少し山に入った所にある楠木の大木に付いていた抜け殻を摘み、涼子が言った。
「 見せて~、見せて~! 」
 両足で、ピョンピョン跳ねながら言う千早。
 涼子が手渡すと、目を丸くしながら、千早は言った。
「 ・・よくデキてるねえ~、お母さ~ん・・・! おもちゃみたいだねえぇ~! ちゃんと、足まであるよ? コレ 」
 涼子は言った。
「 セミはね、7年も土の中で暮らすのよ? やっと出て来て、空を飛べるのは1週間くらいで、あとは、死んじゃうの 」
「 ふ~ん・・・ お空を飛ぶと、疲れるのかな? 」
 涼子は、笑いながら答えた。
「 そうかもね。 でも、思いっきり鳴いて空を飛べたんだから、満足なんじゃない? 」
 抜け殻を摘み、横から見たり、縦にして見たりしながら、千早は言った。
「 これ、脱ぐ時・・・ 痛いのかな? 」
 再び笑いながら、涼子は答えた。
「 痛いワケ、無いでしょ? 『 早く、飛びた~い! 』って、ウキウキしながら脱皮するのよ? きっと 」
「 ふ~ん、そうかぁ~・・・! 」
 妙に納得した様子の、千早。

 農道脇に生えていたススキの葉を1枚取り、それを小さく、幾重にも丸める。 出来上がった葉っぱの筒の一方を、軽く指先で潰し、そこを口にくわえて吹く。
『 ビーッ、ブイーッ! 』
「 わあ~、面白ぉ~い! あたしにも、やらせてぇ~! 」
「 千早の息の力で、鳴るかなあ・・・ 」
 草笛を、千早に渡す涼子。
「 小さい頃、大婆さまに教えてもらったのよ? 」
 千早は、早速、口にくわえ、見よう見真似で息を入れてみる。
『 フー! フー・・! 』
 息が出るだけだ。
 涼子は言った。
「 唇で、葉っぱを押さえるのよ、千早。 息の入り口を狭くするの。 そうすると、葉っぱが振動して・・ 」
『 プピー! 』
「 鳴ったっ! お母さん、鳴ったよっ! 」
 目を輝かせ、嬉しそうな千早。
『 ピー、ピー、プピー! 』
「 そうそう! 上手よ? 千早。 良く鳴るじゃない! 」
 涼子に誉められ、有頂天で、盛んに鳴らし続ける千早。 息切れをして、ハアハア言っている。
 涼子は、笑いながら言った。
「 吹き過ぎよ、千早。 頭、クラクラするわよ? 」
 涼子は、あと2つ、草笛を作ると、それを同時にくわえ、鳴らして見せた。
『 ビョー! ブビョー! 』
「 音が、2つ鳴ってるぅ~! 」
「 葉っぱによって、音が違うのよ? 」
「 あたしも、作るぅ~! 」
 早速、ススキの葉を取ろうとする千早。 涼子が、たしなめた。
「 気を付けて取るのよ? ススキの葉は、フチがギザギザになってて、指、切っちゃうから。 ・・ほら、ほら! 足元、気を付けて。 そんなトコに乗らないの! グラグラして危ないでしょ? 」
 畑との境にあった木の囲いに乗り、葉を取ろうとした千早を、涼子が注意する。
 涼子は、気が付いた。
 ・・・いつもだったら、『 やめなさい、怒られるでしょ? 』と、注意していたはずだ。
 危ないから、注意する・・・ それが、本来の趣旨だ。
 近所で、子供たちが建築資材を仮り置きしてある所で遊んでいると、顔見知りの主婦たちは、一様に『 怒られるわよ? 』と叱る。 本当は、『 危ないでしょ? 』が、正解のはずだ。
( みんな・・ どこか本質を忘れているのかしら・・・ その中でも、私は最たるものだったのかもしれない )
 気付かせてくれたのは、何だったのだろう。 のんびりした時間? 豊かな自然? それとも、無邪気な千早の存在・・・?
 答えは、分からない。
 ・・・いや、答えの源を求める必要は無いだろう。 理屈では無いのだ。 大切なモノに対する執着といたわりがあれば、それは自ずと、ごく自然に、言葉となって出て来るものなのだ。 一辺倒な考え方や、自分に固守した、こだわりだけを持って接すると、当たり前の事も見えなくなって来る。 そして、どこか不自然な・・・ 理不尽とも言える感情が葛藤となり、自我に苦しむ事になるのだ・・・
 千早と共に、童心に帰って自然と戯れた今、涼子は、心に懲り固まっていた痞え( つかえ )が、微塵も無く消え去っている事に気が付いた。
 見えない出口を見つけるのは、簡単なコトだったのだ。
( そうよ・・・! 出口なんて、元々、どこにも無かったのよ・・! )
 自分で虚偽の壁を作り、その中で、勝手にもがいていたに過ぎない。
 元々、虚像だった、心の壁・・・ その虚像に気付いた今、解放されたが如く、心の周りに分厚く取り巻いていた壁は、いつの間にか消滅していたのだ。
( 私は・・ 自分で、自分の首を締めていただけなんだわ・・・! )
 草笛を鳴らす千早を見つめながら、涼子は、そんな事を考えていた。
「 用水の水で、先っちょを濡らすと、良く鳴るよ! あたし、アタマいいでしょ~? 」
 自慢気に言う千早。
 涼子はニッコリ笑うと、千早を抱き上げ、両手で抱き締めた。
( こんなに可愛い、大切な千早が・・ 私には、いる・・・! )
 千早に頬擦りしながら、涼子は言った。
「 お母さんね・・・ 千早のコト、大好きだよ・・・! 」
 千早も、ぎゅっと涼子にしがみつくと、言った。
「 あたしもだよ? お母さん、大好きっ! 」
 千早の、自分を呼ぶ『 お母さん 』という響き・・・ 何という、嬉しい響きであろう・・・!
 また、涙が出て来た、涼子。
 こんなに、可愛い千早を・・ いままで、どうして放ったらかしていたのだろう。 もちろん、仕事も大事だ。 期待されるならば、それに応えるのも大切な事である。 でも、それ以上に大切なモノに気が付いた涼子。
「 お母さんにだっこしてもらうの、久し振り~! あっ、アゲハチョウだぁ~! 」
 草笛を鳴らしながら、涼子の胸の中で、はしゃぐ千早。
「 ・・だっこなんて・・・ これから・・ いくらでもしてあげる・・・! 」
 消え入りそうな、涼子の声。 はしゃぐ千早には、聞こえていないようだ。

 目に映る水田のイネ、限り無く蒼い空、湧き立つ入道雲、セミの声・・・
 いつもと変わらぬ、白く乾いた農道が、穏やかな曲線を描きつつ、段々畑の間を登っている。
 涼子は、千早を抱き締めたまま、白く乾いた夏の田舎道を、宛ても無く歩いた。 千早に気付かれないよう、何度も、涙を指先で拭いながら・・・

8、みずわらし

「 ・・ひゃあ~! 冷たいね~! 」
 水神大社脇の沢で、手を洗った涼子が言った。
 手首から腕、肘・・・ きれいな水で、満遍なく洗う。 汗で濡れたハンカチも出し、すすいだ。
 透明な水面に、揺れる日差しが、キラキラと輝いている。 川底には白い小石が、まるで並べられたかのように敷き詰められていた。
 サラサラと、小さな水音を立てて流れる、清らかな水・・・
「 ・・・足も、入っちゃおうかな? 」
 千早は、既に、沢に入って魚を追いかけている。
「 つ・・ 冷た~い・・! 」
 サンダルを脱ぎ、沢に入った涼子。 ワンピースの裾をたくし上げ、手で、膝辺りに水をすくって掛ける。
「 気持ちいいね、千早~! 」
「 でしょ~? あたし、毎日、入ってんだからぁ~! 」
 ハンカチを絞り、ほてった顔を拭く涼子。
 沢の両岸に茂った木々が、心地良い木陰を創っている。 蝉の鳴き声と、沢の水音・・・ 都会とは、まるで別世界だ。
 何度もハンカチをすすぎ、額や首筋を冷やす涼子。
 千早が言った。
「 この川、神社の裏まで続いてるの。 お池に、水が涌いててね。 小石のダンスが見れるのよ! コッチだよ、お母さん。 案内してあげる! 」
 ジャブジャブと、沢を上る千早。
「 そんなに急がなくても、大丈夫よ。 転んで、石に頭ぶつけたらどうするの? もっとゆっくり行きなさい。 ・・あ、ほら、魚がいるわよ? 千早、そっちに行ったわよ! 」
 千早の足元を、数匹の魚が泳いで行く。
「 あ、魚さ~ん、待ってぇ~! 」
 捕まえようと、手を伸ばす千早だが、魚影は、千早をあざ笑うかのように、スイスイと沢を上って行く。
「 あ~ん、食べないからさ~、待ってよぉ~! 」
 涼子は、笑いながら言った。
「 千早、食べるつもりだったの? 」
「 だって、大婆さまが、塩焼きにして食べるとおいしいって言ってたもん 」
 涼子は、再び、笑った。

 愉快だ・・・!

 こんな開放的な気分になったのは、久しく無い。
 音楽も、映像も無い。 ただ有るのは、清らかな清流の風景。 蝉時雨と、沢の水音・・・
 遊具がある訳でも無い。 ただ有るのは、自分と最愛の娘のみ。 そして、無尽蔵な自然の恵みと、満ち足りた時・・・
 自然の恩恵を受ける喜びが、こんなに素晴らしい事だったとは、涼子には、思いもつかなかった。
 キラキラ光る水面を掌ですくい、喉の渇きを潤す涼子。
( ・・・おいしい・・・! )
 続けて、2度3度、清らかな冷たい流れをすくい、飲み干す。
 天を仰ぎ、大きく息を吐き出す。
( 体が・・ 浄化されていくみたい・・・! )
 深呼吸をし、再び水をすくうと、何度も、顔にピシャピシャと掛けた。 泳ぎたくなる千早の心境が良く分かる。
 涼子は、ふうっと息を出すと、千早のあとを追いかけ、沢を上った。

「 ほら、ほら、見てぇ~、お母さん! 小石のダンスだよ~? キレイでしょ~っ? 」
 誇らしげに、水底を指差す千早。
「 まあ・・ 綺麗っ・・! 清水が、涌いているのは知っていたけど・・・ こんな風になっていたとは、知らなかったわ・・・! 凄いわねえ~、千早~! 」
 腰をかがめ、涼子は言った。
「 でしょ~? あたしが、見つけたんだよ~? 」
 音も無く、永遠に踊り続ける小石たち・・・ 絶え間無く沸き続ける清水に吹き上げられ、まるで命ある・・ 生きているモノのようにさえ、涼子には見えた。
「 何百年・・ 何千年も掛かって、こうなったんだね、千早・・・ 凄いね 」
 感動する涼子に、千早は言った。
「 ここの水、飲めるんだよ? ほら! 」
 そう言って千早は、足元の水を小さな掌ですくい、飲んで見せた。
「 そう言えば、千早・・ ここに来てから、ジュース、って言わないね? 」
 涼子の問いに、千早は、あっけらかんと答えた。
「 いらないよ。 お水の方が、おいしいもん! いつも飲めるし、タダだし・・・! こんなにいっぱい、あるんだよ? どんどん、涌いて来るし! 」
「 そっか 」
「 そうだよ。 お母さんも、飲んでごらんよ! 」
 先程、もう喉を潤した涼子ではあるが、その事には触れず、無言のまま、両手で水をすくう涼子。 チラリと千早の顔を見ると、悪戯そうな笑みを浮かべ、すくった水を、千早の顔にピシャッと掛けた。
「 えいっ! 」
「 わぷっ・・! 」
「 あははっ! 」
「 冷たぁ~い・・! やったね~? お母さん! ・・えいっ、えいっ! 」
「 きゃあ~! 冷たい、冷たいっ! それっ、それっ! 」
 反撃して来た千早に、ザブザブと水を掛ける涼子。
「 きゃあ、きゃあっ! 」
 はしゃぎながら、逃げ回る千早。
 愉快だ・・・!
 こんなに愉快にふざけ合うのは、おそらく、子供の頃以来だろう。
 涼子は、童心に帰って、千早と戯れた。
 水と戯れる親子に、木々は柔らかな木陰を、そっと提供していた・・・

「 あ・・ みなかみクン! 」

 千早が、ふと、岸辺に佇む少年に気付き、声を掛けた。
 丸首の古風な着物を着た少年・・・!
 涼子は、濡れた前髪から雫を垂らしながら、千早に水を掛けていた手を止め、そのままの姿勢で、じっと少年を見つめた。
( ・・神社の・・ 子・・・ )
 涼子に微笑む、少年。
 よく見ると、胸の辺りにも、菊閉じと呼ばれる飾りが付いている。
 千早の方に向き直ると、少年は言った。
「 千早。 夏神事が終わったから、僕は、帰らなければならないんだ 」
 千早が答える。
「 え~? 帰っちゃうの~? もう、逢えないの? 」
「 うん。 今度は、秋の大社祭かな・・・ 」
 少年は、そう言った。
 千早は、顔に付いた水を指先で払いながら答えた。
「 そっか~・・・ じゃ、お母さんと、また来るね! 」
 微笑む、少年。
 涼子は、かがめていた腰を伸ばし、少年に一礼すると言った。
「 ・・・千早が・・ お世話になりました・・・ 」

 もしかしたら・・・ この少年が、ヤエの言っていた『 水童し 』なのか・・・?

 一見、普通の少年だ。
 だが、その表情からは、どこか現代感の無い、一般とは、一線を画する雰囲気が感じられる。 そう・・ この世のものとは思えない、何か、不思議な印象だ。
 涼子の挨拶に、少年は答えた。
「 注連縄を有難う。 禍神を、よく防いでくれました。 各、家神たちも、訪れ易かった事と思います 」
 ・・・少年の言葉は、涼子には、よく理解出来なかった。
 だが、注連縄を奉納した事を、この少年は知っている・・・! 確か、今朝、奉納した時は、誰も境内にはいなかったはずである。 ヤエが今年の当番で作るのを知っていたとしても、なぜ、涼子が奉納しに来た事を知っているのか・・・?
( ・・・やっぱり・・ 水童し・・・! )
 では・・ なぜ自分にも見えるのか・・・?
 情況が判らなくなり、涼子は、口を開けたまま、その少年を見つめ続けた。
 少年は、涼子に微笑みながら言った。
「 童( わらべ )は、自分の幼き頃の、誠の姿です。 決して、離してはいけません。 いつも、一緒にいなくてはなりませんよ? 」
「 ・・・・・ 」
 推察出来る少年の年齢からは、到底、考えられない口調・・・
 少年は続けた。
「 愛おしい者に触れるという事は、すべからく、触れた者への愛情となります。 哀惜の情にも似た心情は、触れられた者の心に永遠の記憶となり、相留まる事でしょう 」
 涼子は、返す言葉も見つからず、ただ、呆然と少年を見つめている。
 再度、千早の方に向き直り、少年は、微笑みながら言った。
「 お母さんが遊んでくれるようになって、良かったな、千早 」
 にっこりしながら答える、千早。
「 うん! お母さん、大好きなの、あたし! 」
( ・・千早・・・! )
 池の中を千早に寄り、その濡れた頭に手を置く、涼子。 千早もまた、涼子に天使のような笑顔を見せると、腰の辺りに抱きついて来た。
 少年は言った。
「 いつまでも、その心を大切にね・・・ 千早 」
 千早は少年に対し、迷いの無い、清らかな瞳で頷いて見せる。 再び、目頭が熱くなって来た涼子は、思わず千早を抱き締めた。
 音も無く、こんこんと湧き出る、清水・・・ その、静かな・・ 2人だけの泉の真ん中で、涼子は改めて、我が子を抱き締めた。
 千早への愛おしさが、足元から無尽蔵に湧き出る清水の如く、涼子の心に涌いて来る。
 乾き切っていた涼子の心は潤わされ、今や、みずみずしく、その生気を満たしていた。愛する我が子への、溢れんばかりの愛情・・・!
 宝石のような雫が、2人の体から、ポタポタと水面に落ちる。
「 ・・お母さん、お洋服・・ 濡れちゃったね・・・? 」
 涼子の胸の中で、千早が言った。
 千早を抱き締めたまま、震える声で答える涼子。
「 ・・いいのよ、そんな事・・・ 今は、千早と遊んでるんだから・・・! 」

 再び、涼子が少年の方を見た時、彼の姿は、どこにも無かった。

9、親子

 泉の辺から飛び込んで来た小さなカエルと、千早が戯れている。
 涼子は、辺にあった石の上に腰を下ろし、そんな、無邪気な千早の姿を見守っていた。
 ・・・子供にしか見えないと言われる、『 水童し 』・・・
 あの少年が、その水童しだったのだろうか。 では、どうして、涼子にも見えたのか・・・?

『 純粋な心を持ったモンにしか、見えんのじゃ 』

 ヤエの言った言葉が、涼子の脳裏に甦る。
( ・・千早と遊んでると、ホントに楽しい。 何も煩悩が無い、小さな頃に戻ったようだわ・・・ )
 石の脇から生えている草の葉の上に、小さなアマガエルが乗っている。
 それを見つけた涼子が、組んだ右足の先で、葉先を軽く突付く。 アマガエルは一瞬、ピクリとし、モジモジと手足を動かしたが、再び、動かなくなった。
( 家庭の事も、仕事の事も忘れてた。 だから、見る事が出来たのかしら・・・ )
 涼子は、そう思った。
 本当に、水童しを見たのかどうかは、定かでは無い。 もしかしたら、2人とも幻を見ていたのかもしれないのだ。 本当に、神社の子であったとも考えられる・・・
 しかし、涼子は、満足だった。 そう・・ 心ゆくまで、千早と遊べた・・・
 時間に囚われる事も無く、伸び伸びと、同じ時を共有したのだ。 その事の方が、水童しの存在有無を問う事より、涼子には重要だった。
( 今からでも、遅くないわ。 寂しかった私の経験は、千早には、決してさせない・・・!何も、難しい事じゃ無いわ。 いつも、一緒にいてあげれば、それで良いんだから )
 出来れば、もう1人、子供が欲しい・・・ そんな事すら、涼子は考えていた。
『 お母さ~ん、この子、笑ったよ~? ああ~っ! オシッコ、しちゃったあぁ~! 』
 千早の声が、聞こえて来るようだ。
 勝手な想像に、クスッと笑う、涼子。 ここに来る前までは、考えもしなかった事である。
( ・・御諸に来て良かった・・・! 何も無い所だから、自分が良く見えるのね。 大婆さまが、言われた通りだわ。 ここでは、虚勢を張る必要も・・ 時間を考える必要も無いのね。 自然のまま・・ その大切さを感じながら、生活出来るのよ・・・ )
 その日、涼子は夕暮れまで、神社裏の池で、千早と遊んだ。

 夕方。
 仲良く手をつなぎながら、神社裏から帰って来た涼子と千早を、玄関先で、ヤエが出迎える。 ニコニコしながら、ヤエは言った。
「 2人して、水遊びかえ? あれまあ~・・ 涼子ちゃんまで、びしょ濡れじゃのう~ 」
「 お母さんに、小石のダンスを見せてあげたの! 」
「 ほうか、ほうか 」
 何度も頷きながら、ヤエは答えた。
 千早は続ける。
「 大婆さま。 みなかみクン、帰っちゃうんだって 」
 千早の言葉に、ヤエは涼子を見た。 真剣なヤエの表情に、涼子は小さく微笑み、頷く。
 ・・・暗黙の了解である。 全ての経緯を了解したらしい、ヤエ。
 再び、微笑むと、千早に言った。
「 運が良けりゃ・・ そうさなあ~・・ 秋の大祭の時に、また逢えるぞえ? 」
「 うん! そう言ってた 」
 嬉しそうに答える、千早。
 涼子が言った。
「 千早。 一緒に、お風呂に入ろ! 大婆さまの家のお風呂、大きいのよ~? 」
「 ホント? 凄いねえぇ~! お風呂屋さん、出来るねぇ~! 」

 離れの脇にある、風呂場。
 木の板を張った広い脱衣所の隅に、籐で編んだ古い籠が置いてあった。 涼子の記憶では、確か野良着を入れる籠である。 曇りガラスの引き戸の向こうが、湯船だ。 神社裏から清水が引かれて来ており、タイル張りの大きな湯船には、いつも綺麗な水が張ってある。 昔は竈( かまど )で、薪を焚いて湯を沸かしていたが、最近は、プロパンガスだ。 先程、畑から戻ったヤエが一風呂浴びた後なので、丁度良い湯加減である。
 着替えを持って、涼子は、千早と脱衣所に入った。
「 あ! こんなトコに、コガネムシがいるぅ~! 」
 脱衣所の壁に張り付いていた、小さなコガネムシ。 千早は指先で摘み、涼子に見せた。
「 ほらほら、お母さん、見て~! 」
 棚の上に置いてあった樹脂製の脱衣カゴを取り出し、涼子は、笑いながら言った。
「 お外に、帰してあげなさい。 きっと迷い込んで、出れなくなってたのよ? 」
「 そっか~、お前、迷子なんだね? 迷ったら、お巡りさんトコ、行くんだよ? いい? 」
 コガネムシに説教しながら、格子窓から外へ逃がす千早。 その格子窓の枠の上を、カミキリムシが移動中であった。 目ざとく、それを見つけた千早が、涼子に報告する。
「 お母さ~ん! カミキリムシがいるぅ~! あ~、入って来るぅ~! 」
『 そんなもの、放っておきなさいっ! 』
 今までの涼子だったら、そう言っていただろう。 しかも、怒りながら・・・
 涼子は言った。
「 噛み付かれると、結構、痛いわよ? 背中辺りを突付きなさい。 びっくりして飛んでいくから 」
 涼子のアドバイス通り、カミキリムシの背中を突付く千早。
「 ちっとも、びっくりしないよ、この子。 調子、悪いのかな? 」
 涼子は、笑いながら言った。
「 お腹の調子が、悪いのかしらね? 」
「 ・・あ、飛んでった! 」
 カミキリムシが飛び去った方を、格子越しに、背伸びしながら見送っている千早。
 涼子が言った。
「 さあ、千早。 コッチ来なさい。 濡れた服、脱がなきゃ 」
「 は~い 」
 木の板の上を、トトトっと、涼子に走り寄る千早。
「 ? 」
 濡れた服を脱がせ、千早の体を見た涼子は、気が付いた。
( ・・・発疹が・・ 無い・・・ )
 アトピーだった千早には、背中や腹・足など、体中のあちこちに発疹があった。 ところが、それが・・ どこにも見当たらないのだ。
 涼子は言った。
「 千早・・・? 赤いボロ・・ 消えてるよ? 」
 千早が答える。
「 うん。 腕のボロも、何か、無くなっちゃったよ? わあ~! 大きな、お風呂~! 」
 発疹の事など、全く関知する事も無く、早速、湯船に取り付く千早。
 涼子の方を向いて、言った。
「 お母さん! 木の板が浮かんでるぅ~! ナニ? これ 」
 濡れたワンピースを脱ぎながら千早の方を向くと、涼子は答えた。
「 その板の上に乗って、入るのよ。 千早の体重じゃ沈まないから、お母さんと入るの。 鉄の部分には、触っちゃダメよ? 熱いから、ヤケドするからね? 」
「 へええ~・・! 変わってるねえぇ~! お母さんと一緒じゃないと、入れないんだ~・・・ ふ~ん・・・ ねえ~、うちのも、こういうのにしようよぉ~! そしたら、いつも、お母さんと入れるもん。 ねえぇ~、ダメぇ~? 」
 タイル張りの湯船の縁に、ちょこんと座り、小さな足をプラプラさせながら、千早が言った。
 涼子は、笑いながら答えた。
「 これからは、一緒に入ってあげるから・・・ 」
「 ホント? ホントに? 約束だよっ? ね? 」
 嬉しそうに、涼子に抱きついて来た千早。 涼子は、そのまま、千早を抱き上げる。
「 ・・今まで、放ったらかしにしててゴメンね? 千早・・・! 」
 千早は、何も答えず、涼子の胸に顔を埋めた。
「 さあ、入ろうか 」
 千早を抱いたまま、涼子は、そうっと湯船に入った。 お湯が、湯船の縁を越え、ザアーッと流れる。 木の桶が、湯に流され、音を立てた。
「 洪水だ、洪水だ~! 」
 無邪気に喜ぶ、千早。
 温かな湯の中で涼子は、千早を抱き締めたまま、千早の小さな首筋に唇を当てた。
( ・・私の、千早・・・! )
 愛おしさが、込み上げて来る。
 また、目頭が熱くなって来た涼子。 小さな千早の背中を、優しく、いたわるように擦る。
 ・・・柔らかな湯の音・・・
 千早が、ポツリと言った。
「 お母さん、大好き・・・ 」
 何も言えなくなった涼子。
 湯の中で、千早を抱き締めたまま、その首筋に再び、唇を押し当てた。 千早に気付かれないように、そっと指先で、涙の雫を払いながら・・・

 格子窓からは、夕日の明かりが、赤く、美しく差し込んでいた。

10、夏瓜

「 ボロが、無くなったって? 」
 ヤエが、涼子に言った。
「 ええ。 薄っすらと、跡があるくらいなんです・・・ 」
 夕食後、蚊帳の中で寝てしまった千早を見ながら、涼子は答えた。
「 水神様の、ご利益かのう・・・ 」
 ちゃぶ台を布巾で拭きながら、ヤエが言った。
 人間の体は、そのほとんどが、水である。 病気になる根源として、摂取する水質の悪さを指摘する学者もいるほどだ。 一説によれば、綺麗な水を飲ませれば、アトピーは治るそうである。 とある皮膚科病院では、電解させた水素が多量に含まれる還元水を飲ませ、確実に、患者の皮膚病を治癒させているそうだ。
 メキシコ トラコテ村の水。 インド ナダーナの井戸水。 七年は腐らないと言われる、ドイツ ノルデナウ村の水。 フランス ピレネー山脈にある、ルルド村の水・・・ これら、世界各地に点在し、治癒不可能な病気をも治すと言う『 奇跡の水 』。
 この『 奇跡の水 』が、こうした電解還元水素水の成分と酷似しているとの説が、学会でも取り上げられ、話題にもなっている。 多少の、プラシーボ効果( 信じ込ませ、精神的安定を図る心理療法 )も、あるかもしれない。 だが、水は、生命の源である。 アトピーが押さえられた千早の背景には、これら、水を含む、何らかの要因があったと考えられる。
 ・・・確かに、ここに来て以来、千早は、ジュースを飲んでいない。 神社の清水か、井戸水で作った麦茶だけだ。 しかも、食べ物は、畑で作られたものだけである。 元々、野菜嫌いだった千早。 それが今は、何の障害も無く、ヤエの畑仕事を手伝う傍ら、生のまま、毎日、ボリボリと夏野菜をかじっている。 食生活の改善が、まずは、一番の理由と考えられるだろう。
 それと、摂取していた、綺麗な自然水・・・
 千早は、1日のほとんどを、神社裏の清水涌きで過ごしていた。 もしかしたら、あの清水には『 奇跡の水 』に近い成分が含まれているのかもしれない・・・
 スヤスヤと、寝息を立てている無邪気な千早の寝顔を見ながら、涼子は言った。
「 仕事の得意先で、電解還元水素水の浄水器を販売している会社があるんです。 今度、資料を取り寄せてみます。 千早には、安全な水を飲ませてあげなくちゃ・・・! 」
 ヤエは、笑いながら言った。
「 デン・・ デンカイ・・? ナンじゃ、そら。 都会の暮らしは、難儀なモンじゃのう~ 」
 涼子は、苦笑いをしながらヤエに答えると、言った。
「 大婆さま・・・ 私、ここにお邪魔させて頂いて、本当に良かったと思います・・・ 」
 ちゃぶ台の足をたたみながら、ヤエが言う。
「 そうかえ? そう思ってくれるんなら、ワシも、ここへ呼んだ甲斐があったと言うモンじゃ 」
「 ・・・大切な事に、気付く事が出来たんです。 親子としての、大事な・・・ 言ってみれば、当たり前の事だったんですが・・・ 」
 ヤエは、涼子の横に座ると、ウチワを扇ぎながら言った。
「 最初、ここに来た時の涼子ちゃんは、死人みたいな顔をしておった。 ナニやら、悩んでおる様子じゃったなあ・・・ 」
 涼子は、無言のまま、千早の寝顔を見つめた。
 しばらく何も言わず、ウチワを扇ぐ、ヤエ。
 ・・・軒下の風鈴が、暮れ行く夏空に鳴った。 コオロギの声も、聞こえているようだ・・・
 千早の寝顔を見つめながら、そんな情景の音に、過ぎ行く夏と、小さな秋を感じた涼子。
 蚊帳の垂れ具合を直しながら言った。
「 私・・ 仕事は、辞めません。 でも、それ以上に、千早と一緒にいる時間を、大切にしようと思うんです 」
 何度も頷く、ヤエ。
 涼子は、ヤエの方を向き直ると続けた。
「 さっき、お電話をお借りして、会社に電話したんです。 プロジェクトの責任者を辞退しようと思って・・・ 」
 無言で、ウチワを扇ぎ続けるヤエ。
 涼子は続けた。
「 そしたら、アドバイザー的にでもいいから、関わって欲しいと言われました。 ・・意外でした。 てっきり、外されると思っていましたから 」
 ヤエが答える。
「 わしゃ、会社のコトは、よう分からんが・・・ 涼子ちゃんは、会社から期待されとるんじゃろ? だったら、デーンと構えてりゃイイんじゃ。 向こうから、頼んで来るわい 」
 少し笑いながら、涼子は言った。
「 これからは・・ なるべく夕飯は、私が作れるように、残業を控えます。 大婆さまにも、色々、教えてもらったし・・・ 」
「 ふぇっ、ふぇっ、ふぇっ・・! 田舎料理なんぞ、いつでも教えてやるぞい? 」
 笑いながら腰を上げたヤエは、台所の隅に置いてあった瓜を持って来ると、新聞紙を敷き、包丁でむき始めた。
 甘酸っぱい香りが、部屋中に広がる。
 ヤエの手元を見つめながら、涼子は、呟くように言った。
「 子育てって・・・ 子供と、同じ視線に下りて行かなければ、ダメなんですね 」
 むいた瓜を、小さく切りながら、ヤエが言った。
「 一緒に、遊んでやるコトじゃ。 チーちゃんの年頃は、それでええ 」
 種を取り、切った瓜の1つを涼子に渡しながら、ヤエは続けた。
「 母親なんてモンはな・・・ 子供と一緒に、成長して行くモンじゃ。 一緒にいなけりゃ、母親も成長せんのじゃよ 」
 ・・あの少年も、そんなような事を言っていた。
 頷きながら、ヤエから渡された瓜を受け取り、口に入れる涼子。
「 ・・・美味しい・・! 」
 ヤエは、笑いながら言った。
「 メロンより旨かろう? それと、同じじゃ。 上品な甘さじゃなく・・ 素朴な甘さの方が、子供には良いんじゃ。 のう? 涼子ちゃん 」
 自分も、1切れ食べるヤエ。
「 おおう~・・! みずみずしいのう~! 今年は、天気も良い。 スイカも、よう出来とる。 ここいらの水を吸って出来たモンは、皆、旨いんじゃ。 水神様のお陰じゃのう~ 」

 ・・・みなかみと、みずわらし・・・

 ヤエの言葉に、涼子は、清水で見た少年の事を、再び思い出した。
 あの少年は、本当に水神の子、水童しだったのだろうか・・・? 今となっては、知る由も無い。
( そう・・ あの少年は、水童しだったのよ・・・! )
 涼子は、そう思う事にした。
 乾き切り、ヒビ割れていた、涼子の心・・・ それを潤す、きっかけを作ってくれた、あの清水。 そして、不思議な印象を残したまま消えた、あの少年・・・ 少々、気味が悪くも感じるが、涼子に、大切な事を気付かせてくれるきっかけとなった事には間違い無い。
( 水童しは、私に、忘れかけていた大切なモノを諭してくれた・・・ そして、御諸の豊かな自然は、千早の体を治し、私に、母親としての喜びをも教えてくれた・・・! )
 再び、千早の寝顔を見入る涼子。
 また風鈴が、夜風に鳴った。
 ・・潤された心に染み入るような、山あいの、夏の夜の静かさ。 時すらも、ゆったりと流れて行くようである。
 独り言のように、涼子は言った。
「 千早・・・ 明日は・・・ 何して、遊ぼうかしらね? 」
 千早の無邪気な寝顔に、微笑む涼子。
 寝返りを打ちながら、千早が寝言を言った。
「 ・・カナブンがいるぅ~・・・ お母さ~ん 」


                                        〔 水童し  完 〕

水童し( みずわらし )

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
毎年、初夏から真夏の季節になると、自前の作品ですが、ふと読み返したくなる小品があります。 それが、この作品です。
加筆・修正を加え、再連載を繰り返している作品ですが、初回に比べ、稚拙な文章力ながらも、それなりに情景描写なども読み易くなったように思えます。
この作品を通し、記憶の片隅にある、美しき夏の情景などを思い起こして頂ければ幸いです。

                                  夏川 俊

水童し( みずわらし )

古来、清らかな清流には、水神( みなかみ )と呼ばれる神が棲む、と言われます。 そんな水神伝説が残る田舎へ、仕事と家庭に疲れた涼子は、1人娘の千早( ちはや )とやって来ます。 無邪気な8歳の千早と、豊かな自然。 田舎の暮らし・・・ 不思議な少年、『 みなかみ 』との出会いを通し、忘れかけていた母親としてのあり方、考え方に気付く、涼子。 千早と共に自然を満喫し、童心に還った涼子に、やがて『 みなかみ 』は、静かに諭します・・・ 良き日本の田舎の情景を、夏の風情と共にお送り致します。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1、帰郷
  2. 2、脱却
  3. 3、みなかみ
  4. 4、風鈴
  5. 5、注連縄
  6. 6、我が子
  7. 7、童心
  8. 8、みずわらし
  9. 9、親子
  10. 10、夏瓜