フューシャピンク—業火—
長い間、戦っている。
火薬と鉄を使うゾフィーアと、魔法を使うグラーシュ・カストル。
両者二国は、なぜこの戦争を始めたのか、戦渦のただ中にいる人々すら忘れてしまうほど、長い戦いへ命を費やしていた。
初め、銃が主な戦力だったゾフィーアは、魔法を使うグラーシュ・カストルに劣勢気味だったのだが、ここ十年でその力の差は同等、いや、もしくはそれ以上となって我が国を飲み尽くそうとしていた。
長く、鉄と火薬だけが主戦力だった彼らに、突如、俺たち魔法使いと似て非なる者が現れるようになったのだ。
ある者は口を開き歌うように唇を動かしたかと思えば、立ちはだかる者の耳を破壊する。
ある者は何の予告もなく、どんな動きも予兆すらもなく人間をただの肉塊に変えてしまう。
ある者は、目から血の涙を滴らせながら手を振りかざし、人を天へ浮かべたかと思えば地へと突き落とした。
――――戦争は、刻々と姿を変えていった。
魔法ではない、人知れぬ何かの「力」に魔法使いたちは怯え、戸惑った。
それを防ぎようがないという事実に、太刀打ち出来ない自分たちの力に、及ばなく至らない魔法に、絶望した。
グラーシュ・カストルの魔法使いたちは、まことしやかに口々に語る。
『魔法使いの血を抜いて人間に飲ませ、あの化け物を作ったらしい』
『体は鉄と火薬で出来ているが、何十人もの魔法使いの肉と血を注ぎ、アレが生まれるそうだ』
実態の掴めないものに対する不安が、皆の口から口へ伝える速度を速めているかのようだった。
分かっているのはこうだ。
俺たちが「化け物」と呼んでいる彼らには、「女性」が圧倒的に多いこと。
とても強い力を持つ者と、自分の力をコントロール出来ない者がいるということ。
「化け物」たちは彼らの言葉で「カリスタ」と呼ばれており、「ゾフィー」という上位のクラス、「グラル」という下位のクラスがいるということだ。
「ゾフィー」とは国の名前「ゾフィーア」の元にもなった「鉄」という意味のはずだった。そして「グラル」は「火薬」を意味する。
「ゾフィー」には女性が多く、「グラル」の大半は男性だった。それらの単語、名称が何を示しているのかはまだ分かっていない。
魔法の国、グラーシュ・カストルは、大国ではない。
日々が魔法で溢れ、穏やかに慎ましやかに暮らしを営む、そんな国だった。
戦火を我が国に放ったのはゾフィーアと聞いている。だが、それを信じている魔法使いたちはあまりいなかった。
彼らの国土は広大で、資源が豊富であると聞いている。
かわって、グラーシュ・カストルの国土はゾフィーアの半分にも満たない。
特筆すべき資源もなく、国民たちは貧しくはなかったが裕福でもなかった。
彼らが我が国に戦火を放つとは考えにくい。
それでも、王が「そう」だと命じる限り、信じなければ戦えはしなかった。
物心つく頃には息を吸うように自然に魔法が使えるようになる我々が、戦いの際にそれらを人殺しの手段とするまで時間はかからなかった。
無論、俺も例外ではない。
精霊の力を借りて呪文を引き金とし、魔法の元となる元素を集めていく。
そうして指先から生まれる美しい青い炎は、流れるように兵士たちに絡み付き、鮮やかな桃色へと変わっていった。
人を焼けば、俺を中心にして空へ大きな桃色の火柱が上がるのだ。
ぶつぶつと覚えた呪文を詠唱しながらひたすらに動くものを焼き払っていく。全てを、燃える火の玉へと変えていく。
暫しの後、ようやく自分の周りに敵の姿がちらつくこともなくなり、滴り落ちる汗を拭って一息入れていると、耳慣れた鎧の音が響いてきた。
辺り一面は焦土と化しており、大地と死体の境目がよく分からない。真っ黒く炭になった頭や手足が無造作に転がっている。
堅牢な音は徐々に近くなり、ぴたりと俺の隣に寄り添って、止まった。
変わり者の多い魔法使いたちが集う駐屯地でも、一際異質な成りをしているジャック。
長いローブを身にまとって戦う魔法使いの中で、唯一の銀の鎧。腰に差すのは杖ではなく、長い鋼の剣。
ジャックは魔法が使えない、一切の魔力を持たないがために。
生まれ落ちてから魔力を失うことがないこの国の人間の中で、唯一と言ってもいい。
それぐらい、ジャックは珍しかった。
自分だけが周りと違うということは、どういうことなんだろう。
「今回も派手にやったな、マルキアール」
撫で付けられた彼の前髪は乱れ、一房、二房と額に垂れている。
俺の名前を呼ぶ声は、低く、沈み込むように暗い。
ジャックは、俺がこうして人の命を根絶やしにすることをあまり快くは思っていないようだった。
俺も、王の勅令でなければ、こんな胸くその悪い所へ赴くことなど一生ないと思っていた手合いだ。
ジャックもそうだろう。
好き好んで人を殺す人間がそうそういてたまるか、俺は足下に転がる炭化した腕に目をやる。
――――物事には例外があって、つまり、この場合の例外というのは、自主的に人を殺す者も「いる」ということだ。
殺すことが好きで戦場に立つ者がいる。
それは正気の沙汰ではない。もはや人間とは言えないのかもしれない。
戦場に立てば渦巻くのは狂気と恐怖の坩堝。気が触れてもおかしくない命のやり取り。
ある者は死んである者は生きる。そこに時別なルールは何もない。
力がある者が敗れ、斃れることもある。
神々が無造作かつ無作為に命を摘み取っていくのか、はたまた純然なる運に過ぎないのか、それは人に解き明かすことの出来ない謎だった。
俺自身は、戦地に立って敵兵を根絶やしにすることに、胸くそ悪い心地と罪悪感は常にまとわりついてきたものの、迷いはといえば、なかった。
殺さなければ死ぬ、明確な択一の選択でしかなく、それは常に目の前に示されていたからだ。
俺は死にたくはない。死にたくないのならばやることは決まっている。
「ジャック、この戦いは一体いつ終わるんだろうな」
何度となく交わしたやり取りだったが、ジャックはその度に悲しげに目を伏せて笑う。
「俺たちがこうして生き延びているのは、よっぽど強運なんだろうな、マルキアール」
土と肉の焼けた匂い。
死屍累々、焦土の上に立ち尽くした俺とジャックの頬を乾いた風が撫でる。
「不味い飯が待ってるぞ、行こう」
強烈なむなしさを覚えて遠くを眺めている俺の腕を、ジャックは引いていく。
彼の剣もまた、血で汚れてぬらりと光っていた。
駐屯地のテント村では数少ない食料で拵えた、日に一度だけの食事が振る舞われていた。
味のないスープ、水分を失いぼそぼそとしたパンに少ない水を加えて作った粥状のもの、傷んだ部分を切って除いた林檎。
手の施しようがなく傷ついたものに食事は与えられなかった。
代わりに痛みを和らげる麻酔薬か、苦しまずに死ねる毒薬のどちらかが渡された。
白い粉薬であるそれらは匂いも特徴もなく、一目で麻酔か毒薬の区別はつかなかったせいか、麻酔すら飲むことを躊躇う者がいた。
麻酔ではなくいっそ毒薬をくれという者には迷わず与えた。
次第に麻酔薬は底を尽き、選択肢は毒薬のみとなった。いずれその楽に死ねる毒薬ですら尽きるだろう。
悲惨な地で、人々は言葉少なに黙々と食事を摂り、眠った。
俺も例外に漏れず、そうした。
酒や女、煙草といった恐怖や疲労を癒す娯楽品もなく、戦いに明け暮れるせいか精神を病んでしまった者も少なくはなかった。
陰で少年兵への暴行がひどくなっているという事実もある。彼らは娯楽品の代わりとして夜ごと輪姦されているようだった。
容姿が上等な者は特に、傷付いた兵士たちの世話をするという口実で戦場へは出兵されなかった。
正義感だけでは、明らかに劣勢である戦況や、この悲惨な現実を変えることは出来ない。
美徳も尊厳もドブの中へと沈んでしまって久しかった。
「今日も不味いな」
無言で食事を咀嚼していたジャックが、ぽつりと呟いた。
その苦々しげな声に、俺は思わず薄く笑ってしまう。
辺りは相変わらず、戦への罵倒や負傷兵たちの呻き声で埋め尽くされていたが、ごく僅かでも笑う気力が俺たちにはまだ残されていたようだ。
「マルキアール、………お前はいずれ名を残すような偉大な魔法使いになるだろう」
唐突に、何の前触れもなくジャックがそう口にした。
まだ一兵卒でしかない俺に対して励ましのつもりだろうかと目を瞬かせたところ、彼の緑色の瞳は一切の曇りがなく、真摯だった。
「……ジャック?」
その眼差しに疑問を感じた俺は名前を呼んだ。すると、彼はハッと我に返ったかのように瞳を震わせ、緩く首を振りながら「忘れてくれ」と笑った。
明らかに様子のおかしい彼を前にして追求することも出来たが、お互いに疲弊が影を落としていることが分かり、それ以上言い及びはせず目を伏せて話を終えたのだった。
ジャックは戦場に出てからというもの、わずかに人格が変わってしまったように思う。
それは俺も同じことかと思ったが、元々感情の起伏の少ない俺と、表情の豊かな明るいジャックとでは種類が違うと感じていた。
以前から時折考え込むような仕草を見せることはあったが、戦地へ赴いてからそれは一層ひどくなっているような気がした。
ジャックは何を考え、何を思って日々を暮らしているのだろう。
俺と同じように、生きたいと願っているのか、死にたくないと思っているのか、俺は近頃それだけが気がかりだった。
――――ジャックとは、古い付き合いになる。今年17を迎えて徴兵された俺には、母がいない。
幼い頃に母は亡くなり、母の知己であったジャックが俺を引き取って育ててくれたらしい。
父親は消息不明で、連絡がつかないと聞いている。
かつてグラーシュ・カストルでは王家が発端となった動乱があり、そのさなかに母親は亡くなり、父親は行方不明となった。
まったく覚えていないが、俺はその際に左目を失っている。
眼窩にはまっているのはただのガラス玉だ。見えていない。
そのせいか、ジャックは俺の視界を庇うように左に立つことが多かった。
ジャックは、歳にしてちょうど20ほど上だったように思う。
少しくすんだような金の髪を後ろへ撫でつけ、深い緑の瞳を瞬かせる。
両耳には透明な滴を模したピアスを付けていた。銀の細工も施されたその石は、彼の耳たぶでキラキラと揺れ動き、明らかに女物であるから不釣り合いも甚だしい代物だった。
何度かからかったこともあると思う。それでも、彼がそれを外しているところを見たことはなかった。
大事なものだと分かるようになってからは、面白半分でそれを口に出すことはなくなった。
彼は、町の人々へ自衛手段の一つとして剣術を教えていたが、魔法の使えないジャックに対する差別は少なくはない。
それでも人当たりの良さや明るさで好いてくれる人も多く、それは俺もそうだ。育ての親同然でなくとも、俺はジャックを好きになったろう。
この戦では、そんな小さな町の繋がりである、何人もの知り合いや友人を失った。
父親、夫、息子の全てを失ったという娘もいるというが、別段珍しくなかった。
国に残るのは歩けないほど高齢となった男、戦に出るにはあまりに幼すぎる子供たち、そして女。
前線には、健やかな男子は皆例外なく駆り出され、そして日々誰かしら死んでいく。
それでもここで食い止めなければ、国に残る全ての命は潰えてしまうのだ。
あまりそのことは考えないようにしている。自分の命を守ることで必死だった。
長く続く戦に皆疲弊している。心と体を削り、命を張ってそれでもなお、まだこの戦の終わりは見えない。
心を病むものがいてもおかしくはない。
ジャックは日々仲間たちに声をかける。
夜には武器の手入れをして、戦場では俺の隣に立ち、共に戦った。
ジャックの糸が切れてしまわないか、俺はそれだけが気がかりだった。
弱音を吐かず、脆さを見せない背中。
俺はまだ、ジャックに守られてばかりだ。
ある晩のこと、戦の汚れを落とすために川べりへ向かった時のことだった。
流れ矢に射たれて、虫の息になっている小さな黒い猫が道中で横たわっていた。
「可哀想に……」
側に跪くと、急に猫の瞳がぱちりと開いた。ガラスのような、黄味がかった緑の瞳が俺を見て細くなる。
「矢を抜いてくれ、そこの魔法使い」
驚きはしなかったが、誰の使い魔だろうかと思わず考え込んだ。
「おい魔法使い。お前木偶の坊か、聞いているんじゃろ、早く抜いておくれ」
急かす声が愛らしかったが、紡ぐ言葉はおおよそ、その子猫じみた風貌に似つかわしくはない。
似つかわしくはなかったが、催促の声で俺はようやく彼か彼女か分からない猫へ手を翳し、突き出ている矢の部分を焼いた。
軽く触れてみると、矢の刺さった辺りの肉は固く締まっており、刺さってから時間が経過していることが分かった。
「怪我したのは今じゃないな?急に抜けば血が噴き出してしまう」
「この辺りの戦が長引いていると聞いてな、様子を見に来てこの様じゃ……まさかこのような目に遭おうとは思わんじゃろ、なあ」
呑気な声に焦れったくなったが、時間が経過すれば更に矢は抜きにくくなるだろうことは容易に想像がつく。
この猫の形態(ある程度力のある使い魔であれば人間の形態へ変化するのは難しいことではない)のままでは矢を抜く激痛に耐えられそうにもないこと、施術する技術が俺にないこと、この場所では施術した後で休ませることも出来なそうなことと複数の要因があり、猫の体を軍医の元へ運ぶことを決めた。
「軍医の元へ行こう、矢はそれから安全な方法で抜くんだ。良いね?」
静かに声を掛けると、頷く代わりにか猫は静かに目を閉じた。
なるべく振動がいかないよう注意を払いながらも、早足で駐屯地へと向かうと、戻るなり、俺は軍医のアーリルの姿を探した。
中央にあるテントには医者がいることを示す、大木が枝葉を広げたような紋章が描いてある。
「アーリル、いるか?」
ばさりとテントの布を潜ると、赤毛の巻き毛が机に流れているのが見てとれた。軍医は激務だ。少しでもその疲労を癒すため、休んでいるに違いなかった。
起こすのは忍びなかったが、俺が抱えている猫の衰弱も激しく、体温は急激に下がっているようだった。事は一刻を争う。
「アーリル、済まない、怪我人だ」
二度三度、空いている方の手で揺さぶると、彼はゆっくりと起き上がった。
起き上がるなり、眼の色が違う両の瞳で俺を視認する。片目には鉤爪で裂いたような傷跡があり、眼窩に嵌っているのはガラスの義眼だ。
同じく隻眼の自分を見ているようで時折辛かったが、そんな思いを知るはずがない彼は常に俺に親しげに悪態をついてよこした。
「おいおいマルキアール、怪我した哀れな美少年でも連れて来るなら目の保養にもなったものを。……誰の使い魔だ?」
前半の語りに無視を努め、後半の問いかけには知らないと首を横に振る。
「矢は燃したのか、……ふむ。おいお前、名前は?」
「……儂か。アルフィじゃ。ルク・ソアール・アルフィエル…名前ぐらい聞いたことはあろうよ」
東方に偉大な魔法使いがいた。
その魔法使いは、金の炎を操る女の魔法使いだった。彼女が死ぬ間際従えていたという使い魔が、ルク・ソアール・アルフィエルだと言われており、使役した人間に絶大な力を及ぼす伝説の悪魔の化身とも言われた。
「馬鹿な……なぜ「金色の炎」の使い魔がこんな所に……」
俺は呆然と呟いた。アルフィエルの話は半ば伝説と化しており、その「金色の炎」の魔術師の存在も古代史のような著色で語り草になっている程度でしかなかったからだ。
「シューシュアールの使い魔は儂ではないよ。彼女は生涯セリンという名のユニコーンと連れ立ったんじゃ、儂のような若輩者が入れる隙も無かったものよ」
切れ切れに息を吐き出しながら難儀した様子で猫は言うと、そんなことはどうでも良いと言う風に耳をパタンと倒して見せた。
「アルフィ、人間になれる力は残ってるか?その猫の体のままでは手術は難しいぞ」
驚きを隠せない俺とは対照的に、猫が話している間も湯を湧かし、洗面器や木綿の手ぬぐいをてきぱきと用意するアーリルは顔色一つ変えていない。
今彼が気にしていることは、この猫の体力がもつうちに体に刺さった矢を取り除ききることが出来るかどうか、その一点のみに絞られているようだ。
「そうじゃなぁ、……おいそこの木偶の坊。ネルの実が残っているようなら用意しておくれ」
ネルの実とは食べると滋養強壮効果が得られる果実の一つだ。生のものを干しても効果が変わらないことから、ドライフルーツのように天日干しにしたものを備蓄し、携帯している兵士は多かった。
俺もその例に漏れず腰袋に入れて持ち歩いていたため、その乾いて小さく薄くなった果実を猫の口の中に一つ放り込んでやる。
ゆっくり咀嚼してから飲み込んだ後、猫は尻尾を軽く振って人間の少年の姿となった。
切り揃えられた黒髪と緑の瞳を縁取る長く細い睫毛、小さな唇は色を失って青ざめてはいたが、いわゆる美少年の姿であることに違いはなかった。
白いシャツと黒い七分丈のズボンを纏う体躯は、シャツの腹部がべったりと血に濡れて赤黒く光っている。
「おう何だ、野郎だったかよ。……しかしお前さん、目の保養には文句なしだ」
手術道具を火で炙って殺菌しながら、アーリルはにやりと口元を引いた。
「冗談言ってる場合かアーリル。……手伝うことは?」
焦れったさに思わず諫めると、アーリルは緩く首を振ってから更に手の平を「しっしっ」とまさに猫を払うそれで俺に示してみせた。
冗談を口にしてはいるが、仕事はきちんとこなしてくれる彼の事だ。俺が再び川で汚れを落として戻って来る頃には、恐らく矢は除去出来ていることだろう。
そう思い、邪魔にならないよう静かに彼のテントを後にした。
術後、やがてアルフィは徐々に体力を回復させていき、一週間が経った頃には補助魔法の効果もあって随分元気になったようだった。
彼はこの軍に慣れ、仲間に慣れ、命の恩人であるアーリルに慣れ、俺に友情を感じているようだった。
特になついたのは、ジャックにだった。
常に後ろにまとわりつき、まさしく猫なで声で「にゃあ」と鳴く。
それが一体なぜなのか、俺にはよく分からなかった。魔力のない男になつく使い魔など、その前例を聞いたことがない。
「アルフィはジャックによくなついているな」
駐屯地内の見回りをしていた時のことだ。夜警に水を差し入れた後、どこか異常はないか、ぐるりと歩きながら確認していく。
ランプの芯が尽きていたものがあり、替芯を入れて油をさした。
長い戦の中で、夜襲を受けることもあった。
灯りは絶やしてはいけない。
持っていたランプの火屋を外して、芯を取り替えた方へ火を移す。
暫しの間黙って俺の様子を見ていたアルフィは、人間の、少年の姿でにやりと笑った。
その笑みが気になり、俺は思わず首を傾げる。
「……何かおかしなことを言ったか」
「――――いいや。お前は、何も知らないのじゃな」
「……何のことだ?」
不意に返された言葉に面食らって、思わず沈黙してしまう。
不穏な笑みを浮かべるアルフィが、一体何の事を指して「知らない」と言っているのか、皆目検討もつかなかった。
「あの男は儂に近い、側へ寄ると心地よくてなあ」
何の気もなしにさらりと述べられた言葉に、俺は石で殴られたような衝撃を覚えた。
歩いていた足が自然と止まる。
それは、ジャックの体が、その魂が、もはや人のものではないことを示していた。
魔法使いに使役される使い魔たちは、媒体となる生き物を依代に、悪魔の力を宿している。それは術者が、呪文や道具を使った契約の末に成り立っていた。
一度悪魔の力を宿した命は、生き物であって生き物ではない。
その命は悪魔に捧げられているからだ。
「……マルキアール、覚えておけ。あやつの命を救うことは出来ても、その魂には呪いの根が絡み付いている。お前一人の命を懸けたところで救えるものではないとな」
「それは、一体……、」
気がつけばその場に膝をついていた。呼吸が乱れて言葉を続けることができない。
「お前の命が尽きることはない、マルキアール」
頭上から降る声は、少年らしいあどけなさを含むが柔和ではなく、断言するようそう言った。
喘ぐように首をもたげてアルフィの言葉に耳をそばだてる。
「お前はあやつには聞けないだろうよ」
そう言って、少年はすいと俺の側から離れて消えた。
アーリルのテントへ向かう道に、小さく動く塊が見え、ああ、猫になったのかとぼんやり思う。
アルフィの言葉は正しかった。
過ぎていく日々の中で、彼に言われたことを俺からジャックへ問うことはなかった。
俺は若くて、とてもじゃないがそんな意気地はなかった。
『お前はなぜ悪魔と契約したのか』……魂を捧げてまで成就したい願いとは一体何だったんだ。
何度も聞こうと口を開くが、そのことごとくが、たわいない会話にすり替わってしまう。
今まで俺にさえ秘密にしてきたその願い。
尋ねたい気持ちは日に日に膨らむのに、それを感じるたび、自らの胸に石を投げ入れるようだった。
共に過ごしてきた歳月が、急に色褪せてしまったように感じたのは、俺の幼さゆえだろう。
青く、苦い、それでも、掛け替えのない一時。
この時の俺には、まだ予感すらなかった。
「銀の鍵のルク・ソアール・アルフィエルじゃ。グラーシュ・カストルに仇なす全ての敵を、この「青嵐の炎」マルキアールが討ち果すじゃろう」
戦いの前の、僅かに恐怖の影が忍び込む厳かな静寂の中、群衆の前に立って杖を翳すアルフィの姿があった。
少し掠れたあどけない声には不釣り合いな古めかしい語り口に、人々は雄叫びを上げて応える。
どういうわけか、アルフィは俺の使い魔となった。
ある日少年の姿のまま神妙な面持ちで俺の前に立ったのだった、「お前の使い魔になってやろう」と。
最初は冗談でも言っているのかと思い、お前の主がいるだろうと何度も尋ねたが、彼の気持ちは揺るがなかったようで、俺は悟った。
彼の主人はこの世から離れてしまったのだと。
俺に特定の使い魔はいなかったため、特に躊躇う必要も理由もなかった。
契約はすぐに終わり、以降、彼は俺の優秀な使い魔として働いている。
背中はアルフィが守ってくれる、それもあってか沢山の仲間を救えた。
アルフィの持つ「銀の鍵」は、ゾフィーアの兵隊たちの暴走を止めた。
彼が鍵を翳すだけで兵隊たちはぼんやりと宙を眺めるのだ。
「その鍵は一体どうなってる、アル」
干し肉をぶちぶちと食いちぎりながら、ある夜にアーリルが尋ねた。その声に彼はくすくすと笑うばかりで、答えてはくれなかった。
特別な力を持つということが一体どういうことなのか、俺たちにはまだ何一つとして分かっていなかった。
アルフィが俺の使い魔となり、軍に絶望的な影を落としていた戦況は刻々と変わっていく。
死ぬ者と傷付く者が減り、戦場に横たわるのは圧倒的にゾフィーアの兵士たちになった。
守る事は時として奪う事でもあると、まるで痛烈な皮肉のように実感したのはこの時だった。
戦況が変わっていくと駐屯地に蔓延っていた言いようの無い暗黒や、それによってもたらされる仲間内での暴力行為も減り、以前よりも雰囲気は圧倒的に良くなったと言って良いだろう。
俺は戦況を変えてくれたアルフィに感謝した。
とにかくこの不毛な争いを終えたい一心で敵を殲滅し、夢中で仲間を守り、青い炎を携えて戦場を駆けた。
無我夢中で戦う内に俺はいつの間にか軍の中で英雄視され始めていた。
それを知ったのは「青嵐の炎」と二つ名を囁かれ始め、その二つ名が定着した大分後のことだったが、今はこれで良いと思えた。
俺の二つ名とその功績が人々の絶望を拭い去り、活力になるのであれば構わないと思えたからだ。
だが、英雄が現れるのは俺たちの軍だけでは無かった。
「極彩色の死神」と呼ばれる圧倒的な力を持った女が、敵国ゾフィーアの先陣を切って駆け出したのだった。
一体どうなってる、と掠れた声で低く唸るアーリルは明らかな焦燥に駆られていた。
「僅か七日間だぞ。そのたった七日間の活動、しかも相手は女一人だっつうじゃねえか。その娘一人に俺たちはこのザマだ!!!」
アーリルのいるテントは以前の様相を取り戻し、端から端まで怪我人で溢れた。
俺は自らの力の無さに愕然としたが、戦陣を切って戦っているというその「極彩色の死神」と遭遇したことはなかった。
それが幸運なのか悪運なのかは分からず、アルフィも表情に僅かな翳りを見せるばかりで、今は何の手だてもないようだ。
「アーリル、恐らくその「極彩色の死神」とやらは相当な使い手じゃ。魔法とは違う力を使うあやつらのことを儂らは何も知らないばかりか、新しい者が現れてはこうして兵を、士気を消耗する」
がりり、と桜貝のような淡く繊細な爪先を噛む少年の姿に、アーリルは応えるように唇を噛んだ。
「魔法の力であれば、対抗しようがあろう。しかしあやつらのそれは、儂らの使う魔法の力とはまた違う」
カリスタ、と呼ばれる彼らの存在。
王はいつまでこの不毛な戦を続けるつもりなのか、と思いはしたが、ここで引けば最後、敵国に攻め入れられ国を落とされるのは明らかだった。
だがしかし……このまま戦い続けて元々少ない国民の数を悪戯に減らし、存続に関わる事態になるのも時間の問題。
どうすればいい、どうすれば……。
目の前に迫る危機に立ち向かう術も持たず、立ち尽くす俺たちが道を失っているのは明確な事実だった。
恐らく、俺の前でもアーリルの前でもいい、絶対的な力を持つ悪魔が一人現れたなら、二人とも喜んで命を捧げ懇願しただろう……、それが禁じ手と分かっていても……、
「――――……マルキアール、何を考えておる。お前は道を外すべきではなかろう」
アルフィはまるで俺の頭の中を覗き込んだかのように、その迷いもろとも断つような声できっぱりと告げた。
勝てない戦に、分からない相手。
下がる一方の士気、少なくなっていく物資、兵糧……。
全てが私たちの行く道に希望はないと、そう、まるで悪魔が道を塞いでいるかのようだった。
悪魔の力をも借りる魔法使いが、その行く手を阻まれるとは。
僅かでもいい、情報が欲しかった。
魔法を使って敵地を覗き見ようと何度も試みたが、光の壁のようなものに遮られ、何も得ることはできなかった。
「このままでは部隊は壊滅だ、何とかそれを打破したい。が、敵に対しての情報が少なすぎる……、これは、もはや危険を承知で潜入するしかないかもしれないな」
そうするしかないことは、もう誰もが分かっていただろう。
国交が断絶した国の情報を得るためには、自分から入っていくしかない。
しかし、その判断は本来王が下すべきだ。王でなければ直参が、それでもなければ将軍が、率いる誰かが。
しかし悲しいことに、そういった「肩書きがあるもの」は此処にはいない。
全員が全員、魔法使いで編成されている大隊だった。
魔法の力に胡座をかいて、今までまともな軍隊を養成しなかったのだ。
そもそもが、国が戦慣れしていない。
軍隊としての統制など、ほとんど取れている訳がなかった。俺たちが知っているのは、魔法を使っていかに効率良く相手を殲滅するかだ。
戦い方など、戦争の仕方など、知っているものはいなかった。
戦いに命を費やす内に、自然と戦場で覚えた勘が俺たちを生かしている。
「…………、マルキアール、王は俺たちにここで死ねと仰っているんだ」
アーリルが渋い声で言い放つ。
そんなことは、もう、「皆知っている」。
「それで?俺たちがここで皆死ねば、国は守られるのか?不当に仕掛けただろう戦は過ちでした、王がそう言えば奴らは「許してくれる」のか?違うだろう、……そうじゃないだろう!?」
一帯を重苦しい絶望と沈黙が包む。
「俺たちは一体何のために戦っている!?何を守るためにここにいる!?俺たちが今まで何人もの命を奪い、何人もの仲間を見送ってきたのは、王の言うがまま、ここで死ぬためか!!!!じゃあ俺たちはどうしてここにいるんだ、一体何のために、殺し、殺されてきたんだ!!!」
言い終わる頃には肩で息を繰り返していた。
皆一様に、ここで死ぬためだけに始めた戦とでも言いたいのか。胸中に込み上げる憎しみで爪の先がびりびりと痺れた。
玉座から引きずり下ろして見せてやりたかった。
言ってやりたかった。
「お前のために戦っているわけじゃない」と。そこに座り続けてもらうために皆ここで血反吐を吐いているわけじゃないと。
命を捧げる相手は、皆決まっている。
死ぬときになれば、年若い少年兵も、歴戦の壮年兵も、皆「その相手」を思って涙を流し名前を呼ぶのだ。
母を、父を、恋人を、妻を、子供を、掛け替えのない守りたかったものを呼ぶのだ。
どうしようもなく、やりきれない。
それでも、此処で歯を食いしばって戦い続けなくては守りたいものは守れないまま奪われてしまうのだ。
もう誰も死なせたくない、そのためには多くの命を奪わなくてはいけない。
「畜生……」
玉座の王がこんなにも遠く、こんなにも憎いと思ったことはなかった。
召集の声に怯える若い魔法使い、呪いを刻む魔法使い。
英雄を一人殺せばまた新たに現れる英雄。
どうすればいいのか、全く見当もつかなかった。
一瞬気を取られたその瞬きの最中だった。
少年兵を庇ったその隙に、俺は初めてその女と対面した。
二つ名で呼ばれ、恐れ崇められる「極彩色の死神」と。
「マルキアール、駄目だ引け――――……!!!」
僅かに離れた場所からアルフィの掠れた声が響いた。振り絞られたその声は焦燥と驚愕に駆られ、驚く程の強さを持って俺の耳をつんざいた。
しかし四肢は凍り付いたように反応を示さず、足と言えば、まるで大地に根付いてしまったかのようにその場所に留まり続けた。
俺が庇った少年兵が、視界の端で細かな赤い霧となったのが見えた。
純粋に恐怖した。
目の前にいるその女が、悪名高い「極彩色の死神」とは思えなかった。
小さな、華奢な女性。光をしっかりと浮かべる瞳は利発そうな印象があり、緩やかなウェーブを描く金髪が女の頬を包んでいる。
戦場に不釣り合いな純白のワンピースの襟ぐりには、形の不揃いなバロックパールが縫い付けられており、清らかな彼女の姿をより引き立たせていた。
纏うワンピースには一滴の血の汚れもなく、この戦場に降り立った天使と言われれば信じたかも知れない。
「あなたに恨みはないけれど……、私は約束してしまったの。だから、……せめて、安らかに」
囁くような声でそう紡ぎながら、両手を滑らかに動かす様はまるでそう、指を使ってレース編みをしているような仕草だった。
彼女の体は煌めく様々な輝きで彩られたが、その光はどれも禍々しい死者の姿を象っていた。
ワンピースの裾をな靡かせながら、彼女は空気を「編んで」いく。
輝く七色の死者たちは苦しげに顔を歪めながら、その編まれた空気を睨んでいた。
ぴん、と彼女はその編んだ空気を私の方へ指を使って投げて来る。その仕草と言ったら、雑作も無い、というような単調な動き。
驚愕した。
編んだ空気に引かれて、死者たちの魂がこちらに迫ってくるのだ。
(これは死神なのか……?)
亡者たちの姿を眺めながらぼんやりと俺は思った。美しく不気味で、壮絶な亡者たちの悲しみに彩られ、目を逸らす事すら出来ない。
恐らく、俺はあの亡者たちに取り込まれるのだろう、と直感的に思ったその時だった。
「マルキアール!!!!!!」
怒号が聞こえた。
それは、ジャックの声だった。
そして、ぱん、と空気を裂くような音と共に、俺の前に小さな二つの光が立ちはだかったのだ。
二つの光は、「ぱりん」と呆気無い音で割れた。と、共に光が爆発し、亡者たちの姿を掻き消したと思った瞬間、矢のように鋭く尖ってその「極彩色の死神」の胸を一息に貫いたのだ。
「……最後の契約じゃ、マルキアールよ」
眩い光に耐えきれずに、アルフィが顔に腕を翳しながら私の隣に寄り添って立つ。
俺は何が起こっているのか全く把握出来ずに、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。
完全に思考能力はその機能を停止していた。
『契約ハ成就シタ。是ニテ「ジャック・アロール」ノ魂ヲ貰イ受ケルモノ也』
地を震わせるような声と共に現れた黒縄に亡者は残らず縛り上げられ、突如空間が割れたかと思えばその隙間に残らず吸い込まれて行く。
「待て……!!!彼らをどうするつもりだ!!!」
俺は力の限り怒鳴ったが、それに答える声はなく、不気味な低い笑い声が辺りに響くばかりだった。
足下にはジャックがいつも身につけていたピアスが粉々に砕けて落ちている。
それが何を示すかは明白だ。
「極彩色の死神」に視線をやると、地面に倒れている彼女の顔色は紙のように白くなっており、死んでいるのは誰の目にも分かる事実だった。
華奢な、力を入れれば折れてしまいそうな腕は、血の色がすっかり失せている。
こんな女までもが戦わなければいけなかったのか。
彼女を巻き込んでいったこの不毛な争いに激しい憤怒を覚えたが、今は弔うことすら許されない。
「畜生!!!!」
俺はジャックの声がした方を必死に探す。
「ジャック!!!どこだ!!!」
近くで声がしたはずが、彼の姿は一向に見つからない。
それどころか、応える声の一つもなく、俺の胸は焦燥と憎悪とに燃やし尽くされそうだった。
息苦しく、喉がひどく乾く。胸を叩く鼓動が徐々に大きくなっていくのが自分でもはっきりと分かった。
「マルキアール、こっちじゃ」
アルフィが導く声に、俺は反射的に駆け寄る。
「ジャ……ック……?」
そこには、大地に五体を投げ出して、薄く呼吸を繰り返すジャックの姿があった。
鎧は砕け、露出した肌には締め付けるように黒い縄の模様が浮かび上がっている。
「……良かった。生きているな」
ぜいぜいと喘ぐような呼吸の合間に、ジャックの掠れた声が言う。
何が、良かったのかまったく理解ができない。
なぜ、魔力を献上した。
なぜ、こんな契約をした。
どうして、俺を助けたんだ。
「……あの不格好なピアスとも、お別れだ。似合わなかったろう?」
軽口を叩くジャックを睨みつけ、震える足のまま近くにくずおれた。
「馬鹿野郎、待ってろ、すぐにアーリルを……、」
「俺の命は軍医が助けられる類じゃない……、そこの猫に聞いただろう、俺は、契約を結んだんだ……、」
「『魔力全てを捧げ、この肉と骨、髪の一本にいたるまで全てを捧げる』」
アルフィが——おそらくかつてジャックがそうしたように——そう言って、猫の姿で彼の胸の上に乗る。
「引き換えに、マルキアールの命を救う、そういう契約をした。生まれながら、お前には、死の宣告があった……んだ……俺はそれを、どうしても、避けたかった」
何を言っているのか分からない。
なぜ、母の知己であるお前が、俺にそこまでする必要がある。
「なぜ……、」
やっとのことで声を振り絞ったが、その後に続く言葉は涙に潰された。
ジャックを見ていたいのに、溢れる涙に遮られて何も見えない。
「おいおい、泣くな、……マルク」
その愛称は、俺がほんの小さな、幼かった頃に母と父が使っていた愛称だ。
ジャックが母の友人だとしても、知るはずのない愛称だ。
「……なぜ、それを……」
答える声はなく、アルフィが胸元から降りた瞬間、ジャックの体は大地から現れた無数の腕に引き込まれていった。
「ジャック!!!!」
止めようと前のめりにする体を、少年の姿になったアルフィががっちりと掴んで側へ行かせないようにする。
「離せ!!!!」
「無駄じゃ。契約は消失しない。今触れようものならお前もろとも引き入れられるぞ」
その細い体躯のどこにそんな力があるのか分からないほど、強固な力で押さえ込まれ、俺は彼の方へ一歩も近づけなかった。
既に地面の上にジャックの姿はなく、無数の腕も痕跡なく消えていた。
「ジャック!ジャック!!!」
叫び声に気が付いてか、辺りにいたであろう魔法使いたちが俺の方へ駆け寄ってくる足音がする。
「ジャック、ジャック!!!!嫌だ、ジャック!!!!」
子供のように泣き叫んで必死に駆け寄ろうとする俺を一人で押さえていたアルフィに、他の魔法使いと、普段は駐屯地から離れないはずのアーリルが加勢する。
「マルキアール!!どうした、一体何があった!」
「俺にはジャックしかいない!!!なぜこんな、嘘だ、嫌だああ……!」
家族がいない俺の、唯一の。そう、唯一の拠り所だった。
暖かな陽だまりのような、糸のように細い縁(よすが)。
「ジャック!ジャック!!!う……、う……っ、なぜ……」
四肢から急に力が抜け、俺はその場にしゃがみ込んだ。
頭の芯が熱に浮かされたように熱いのに、体は震えて仕方がない。
「ジャック………!置いて行かないでくれ……!!!!」
自立出来ない俺の体をアーリルと何人かの男たちが支えながら駐屯地へ運んでいく。
もはや、何も考えられなかった。
テントの天井を見ながら、俺は手のひらに炎を宿した。
青く冴えた光が、ゆらゆらと揺れながらテントの中を照らしていく。
「目が覚めたか、マルキアール」
光に気付いたアーリルが、隣接しているテントから俺の横たわるベッドの方へと近づいてきた。
俺は炎を握り潰してアーリルを見上げる。
「迷惑かけて、すまない」
「迷惑かけられてナンボの仕事だよ、俺は」
間髪入れずに言ってくる彼に、力なく横たわったまま数度頷く。
「茶でも淹れてくるから、待ってろ」
俺の顔色を伺ってから、アーリルは間仕切りの布を潜って隣のテントへ歩いていった。
ジャックは、「死んだ」とは言えない。
体と魂は、契約を交わした際に既に滅んでいるのだ。
例えば俺が禁忌を冒してジャックのように何か契約を結んで彼を取り戻したとしても、それはもう彼ではない。
別の何かだ。
頭では分かっている、それなのに、どうしてもジャックがいなくなった事実を受け入れられなかった。
眼の奥から湧き出る涙は、熱を伴いながら次から次へと頬を伝って枕に落ちていく。
なぜ、どうして、と答えが出ない自問で埋め尽くされていく心。
ジャックはそれで良かったんだろうか。
母の「友人」として俺の側に立ち、長きに渡って俺の友人でもあり続けた。
常に近くで見守り、自分の「正体」については決して口を開かなかったジャック。
最期のその時、俺を愛称で呼んだのは、やはり寂しかったからではないのだろうか。
俺に一度も「父親」として扱われず、近しい友人として過ごした長い間、彼は一度たりとも迷わなかったと言えるのだろうか。
彼の魂も体も今生を離れている今、その問いへの答えはない。
「マルキアール」
ばさ、と間仕切りが動いてアーリルが入ってくる。簡素なトレイには金属のカップが二つ載っていた。
「茶だぞ」
短くそう言って、ベッドの側へ椅子を引き寄せたアーリルは、トレイを持ったままゆっくりと腰掛ける。
体を起こしてカップを受け取ると、茶と言うよりは白湯に近いそれを、一口飲んだ。
「守られてばかりだったな、俺は」
僅かに自嘲する声に、アーリルはズッと茶を啜る。
「俺に一体何ができるんだろう」
続けざまに言う俺に、アーリルは黙ったまま眼だけでこちらを見ている。視線を合わせている訳ではなかったが、注意深くこちらを観察している気配がした。
その気配を感じた上で、俺は独白じみた声を重ねる。
「もっと力が、」
「――――マルキアール」
制するような凛とした声に、俺はついに顔を上げた。
色の違う両の瞳が、強い光をたたえてじっとこちらを凝視している。
俺もアーリルも、その目でたくさんの死を見てきた。仲間と言わず、敵と言わず、多くの屍を見送ってきた。
「お前は死ぬな。それだけでいい」
静かな、しかし強い声でそう言って、彼はテントから出て行った。
アーリルの後ろ姿を見送った後、カップをサイドボードに置いて、再びベッドへ横になり目を閉じる。
瞼の裏の闇に映る残像は、積み重なるたくさんの屍。その中に、ジャックはいない。
この世の理から、離れてしまったジャック。
それでも、俺もいずれ地獄に堕ちるのだ。
この肉体はいずれ滅びていくが、たくさんの命を葬り去った俺が極楽浄土に行けようはずがない。
その時にまた巡り会うだろう。
明日から再び、戦場へ立つ。
心の中に宿った灯は、いずれ俺を燃やし尽くすだろうという確かな予感がした。
命を奪えば奪うほどに燃え盛る美しい炎は、人を焼けば青から鮮烈な桃色へ姿を変える。
俺の炎は、一番近い者の命を奪い去っていった。
生きた証を何も残さないまま、ジャックは二度と手の届かない場所へいってしまったのだ。
魂と肉体の全てを懸けて、俺の命を守ろうとした。
それは愚かだったろう、それでも、ジャックはそうまでしてこの俺を守り抜いてくれたのだ。
死の呪縛から俺を遠ざけてくれた。
これは俺の業だろうか。
どうやっても償えず、購えない。
しかしながら、戦争はまだ終わりそうになく、泥沼のままの食い合いが続いている。
そうして俺はまたこの炎で、人の命を奪っていくのだ。
戦わなければもはや自分すら守れず、死んでいくしかない。
抗わなければ、自らが落ちていくより他に選択肢はない。
凍てついたような悲しみと憎悪を胸に宿したまま、俺は屍と焦土を踏みしめて進んでいく。
昏い道を、燃やし尽くして歩いていくしかない、奪われないために。
――――長い間、戦っている。
〔了〕
フューシャピンク—業火—