たかが千円

かわうそまつり

 梅雨の時期になると、思い出してしまう出来事。

 たかが千円。
 毎年この梅雨の時期――僕は千円札を見るにつけ、必ずあの出来事を思い出す。


 その日、すごい雨だった。
 車軸を流すような、大雨。

 にもかかわらず、いや、だからかもしれない。
 僕の家を、赤い傘をさした一人の女性が、訪ねて来た。

 メガネをかけた、三十代前半とおぼしきその女性は、玄関で応対に出た僕を見るなり、柔和な笑顔でこう言った。
「タオルを買って頂けませんか?」
 それも、三枚。
 そのお金をA国の恵まれない子供たちの為に、役立てるのだそうだ。

 僕は突っ立って、その女性の話をぼんやり聞いていたのだが、その態度が、疑ってでもいるかのように映ったのだろう、すかさず、女性は身分証を提示してきた。
 僕は、軽い失望を覚えながら、それでも提示された身分証を手にとると、まじまじ目を通す振りをして、それから、微笑を添えてそれを女性へ返した。
 
 目の前の、肩を濡らしたこの女性は、立派な人なのだろう。
 A国の子供たちを救うのに、必死なのだ。
 この人は、悪くない。
 素より、僕は彼女を疑ってなどいなかった。
 ただ、そのように女性に思わせた、僕の態度がいけなかったのだ。
 きっと、これから払う僕のお金は、間違いなくA国の子供たちのために、有益に使われることだろう。

 僕は、この時点でよほどの金額でないかぎり、タオルを買う気になっていた。
 僕だって、多少なり義侠心はあるつもり。
 告白すれば、僕はすでに、A国の子供たちなんてどうでもよかった。
 ただ、豪雨の中、わざわざ訊ねて来てくれたこの女性を、無下に追い返すことなど出来ないと思ったのだ。
 要するに、彼女は美しかったのだ。

「いくらですか?」と、僕は聞いた。
 三枚で、千円だと言う。
 気軽に払える額だった。
 とりあえず、現物を見せてもらう。
「……」
 それは特撮ヒーローがプリントされた、ハンカチサイズのタオルだった。

 欲しくなかった……。

 そのタオルを見せられて、一瞬で、気持ちが萎えた。
 千円札が、欲しくもないタオル三枚に化けるのが、バカらしく思えた。

 野口英世が、惜しい!

 すると、どうだろう。
 何だか、何もかもがウソっぱちに思えてきた。
 きっと、A国の子供たちの話なんて、ウソだろう。
 身分証も、騙すための小道具なのでは?
 そもそも大雨の日に訪ねて来たのも、計算なんじゃないかしら?
 眼鏡も、伊達に思えて来た。
 ああ、もう何もかもが、疑わしい。

 結論、これは古典的な詐欺であり、女性は、ひっきょう詐欺師である。
 これはもう、確定である。
 
 千円、払うべきではない。
 
「……すみませんが、他をあたってくれませんか?」と言って、僕は抜かりなく身構えた。
 きっとこの女性は、口八丁手八丁、何とかして僕にタオルを売り付けようと、騎虎の勢いで迫ってくるに違いない。
「そうですか……。分かりました。どうも失礼しました」
 女性は一礼し、先程と変わらぬ笑顔を見せた。
 
 さっと血の気の引いて行くのを感じた。
 これは違うのではないか?
 詐欺じゃないのでは?
 この女性は、やはり当初僕が思った通り、立派な人なんじゃあるまいか?
 
 だから僕は、
「すみません」と、謝罪した。
 女性に。
 A国の子供たちに。
 それから、僕の義侠心に。

 ――でしたら、タオルを買って下さいませんか?

 そう言ってくれたなら、僕はきっと救われた。
 喜んで、千円札を差し出した。
 それで僕は、全てに贖罪出来たと思う……。

 ところが、女性はどこまで潔く立派な人で、なにも言わず玄関を後にした。

 僕は玄関に突っ立っている。
 外は相変わらずの大雨だ。
 バチバチバチと、女性の赤い傘に、雨粒弾ける音がした。
 しかしそれも、程なく他の雨音に同化する……。

 結果として、僕は千円払わずに済んだ。
 けれど僕は、毎年この梅雨の時期、千円札を見るにつけ、決まってこの出来事を思い出し、身悶えしてしまう。

 たかが千円、されど千円である。

たかが千円

 太宰治の『未帰還の友に』という小説に、正しい義侠心のすがり方が出てきます。
 

たかが千円

梅雨の時期になると、思い出してしまう出来事。 1787文字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-16

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