ムーンランニング

 誰しも通勤や通学に使う道や時間帯は、およそ決まっている。その為、同じ人間と何度も出くわすというのは、よくあることだろう。
(また、あいつだ)
 富岡は前方から走って来る男に気付き、すぐにそう思った。
 いや、『前方から』というのは富岡から見ての話で、その男は何故かいつも後ろ向きに走っているのだ。
(よくあんなスピードで後ろ向きに走れるもんだ)
 もちろん、時々は首を捻じ曲げて後方、いや、進行方向を確認しているのだが、普通のジョギング以上のスピードで走って来る。
(まさか、おれに見せつけて、テレビに出ようという魂胆か)
 富岡は、テレビの情報番組などを手掛ける製作会社に勤めていた。もっとも、画面に映ったことなどはなく、あくまでも裏方である。顔を知られているはずもない。
(うーん、気になるなあ。今日はまだ時間の余裕もあるし、ちょっと聞いてみるか)
 好奇心を抑えきれず、富岡はその男に声をかけてみることにした。
「あのー」
「はい?」
 その場で後ろ向きに足踏みしながらも、男は富岡を見てくれた。
「ランニング中にすみません。時々あなたをお見かけするのですが、どうして後ろ向きに走っていらっしゃるのですか?何か理由があるのでしょうか?」
 怒り出すのではとヒヤヒヤしたが、男は笑った。
「まあ、普通に走るより体の負担が少なくて、しかも、カロリーは倍以上消費するらしいと聞いて始めたんですが、何しろ気持ちいいんですよ。ウソだと思うなら、やってごらんなさい。ただし、交通量の少ない安全な道でね。それじゃ」
 男は颯爽と後ろ向きに走って行った。
 富岡が会社に着いてネットで調べてみると、確かに『膝の負担が軽く、カロリーは二倍消費する』と出ていた。『ムーンランニング』というらしい。
 自分でもやってみて面白かったので、早速番組で取り上げると、意外にも大反響が巻き起こった。あちこちで『ムーンランニング教室』が開かれ、解説本も多数出版された。公園などでジョギングしていた人々は、今やほとんど全員がムーンランナーに転向していた。ムーンランニングの大会も開かれた。
 『後ろ向き』という言葉は流行語となり、もはや世間では、いい意味と感じられるようになった。

 会社では上司が部下に。
「きみは、どうして物事をもっと後ろ向きに捉えんのかね」

 国会では総理大臣が。
「その問題につきましては、後ろ向きに善処いたす所存でございます」

 恋人同士は。
「ねえ、そろそろ結婚のこと、後ろ向きに考えてよ」

 あの日以来、富岡は忙しすぎて通勤時間が不規則になり、なかなかあの男に会えなかった。だが、ブームがそろそろ下火になる頃、通勤する道で再び男に出会った。男は後ろ向きに走るのはやめたらしく、前向きだったが、手と足の同じ側をそろえて走っていた。
(おわり)
(作者註:ムーンランニングの効果はあくまでも個人の感想です)

ムーンランニング

ムーンランニング

誰しも通勤や通学に使う道や時間帯は、およそ決まっている。その為、同じ人間と何度も出くわすというのは、よくあることだろう。(また、あいつだ)富岡は前方から走って来る男に気付き、すぐにそう思った。いや、『前方から』というのは富岡から見て…

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-15

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