ボンビエリのナイフ

相村 彰

夜の礼拝を終えて堂を出た時、既に天は星月で満ちていた。
為すべきことも無し。私は門番に軽く会釈をして、夜の街に繰り出した。
石畳の街路には霜が降りていた。

明日で私は十九になる。十九になれば学校を旅立って各地をまわらなければならない。
幼少、親に捨てられて以来、学長の神父様が私の親代わりだった。友と別れるよりも、父のように慕った神父様と今生の別となる方が私には辛い。

街は夜を深めていよいよ活気を帯びてきた。電気、車、蒸気。石炭が燃えて、地上にも星が満ちる。
だが地上の星に温もりを感じないのは何故か。私が地上で最も清い温もりを知らないからだろうか。私が父母との格別の想い出を一切持っていないからだろうか。

行くあても無く夜道を彷徨っていると、その内よく分からない路地裏に出た。左右は煉瓦屋で、道は男二人が横並びになれるかどうか。
おや、こんな道があっただろうかと首を傾げた。とにかく引き返そうと思った矢先、道の先、暗闇の奥にぼうっと丸い光が浮かんだ。

暖かそうな光、小さなランプーー幼い子供が夜こっそりとベッドの中で冒険譚を読みふけるための光だ。 行き過ぎた好奇心は罪であると神父様は常々仰っている。だが気がつけば私はその光に向かって歩き出していた。
近づいてみるとなんということはない。ただの露天商だ。見れば、珍妙なガラクタばかり並んでいる。中には異教徒の礼具らしきものもある。
私は思わず顰めっ面になった。
露天商は藍色の頭巾を深く被って、こちらからでは顔を伺うことは出来ない。だがランプの側に伸びている皺だらけの小さな手が露天商を年老いた女だと教えてくれた。

「売れるか」と私は聞いた。

ところが老女は肩を小さく震わせるだけだった。どうやら笑っているらしい。
老女はただ笑って、その枯枝のような指で小さな、ガラスの小瓶を指し示した。ランプに照らされて鈍い輝きを放つ小瓶に私は目を奪われた。

「これは何だ」と私は言った。
「これはもう一人の自分を揺り起こす香さ」

老女の返答はいまいち要領を得なかった。もう一人の自分とは誰だ。理性の光から漏れ出した欲望の影のことか。ならばそのような怪しげな薬に頼らずとも、祈りがあればいい。私は胸に手を当て、老婆に向かって言った。

「私には必要ない。欲を捨てるも鎮めるもただ、日々の糧と祈りがあればいい」

教え通りの回答だった。老女は先ほどよりも激しく身を揺らした。
その軽薄な態度が私の癇に障った。

「お前に敬虔たれ、と説法するつもりはない。だが私の信仰が疑われたならば、私はお前を十字路に引き晒さねばならない」

私の脅しに老女は答えなかった。
代わりにその小瓶を指でつまんで、私に掲げてみせた。

「もう一人の自分とは欲望ではない。そんなものを鏡に写したければ、市井を歩き、人々の幸と不幸を眺めればいい。そうすれば身の内に巣食う線虫が首をもたげて出てくるだろうさ」
「ならば誰のことを示しているのだ」

老女はまるで諭すように言った。

「幼いお前さんだよ。物心という仮面を得る前の純粋無垢なお前さん。本人がとうに忘れてしまった在りし日のお前さんだよ」

幼い私、と私は反復した。幼い私。それは神父様に引き取られる前の私か。今となっては思い出せるものは何一つないわけだが、それらを思い出せるわけか。
ふと道の奥を家族連れが通った気がした。無論幻覚だ。暖かな幻覚だ。

「これはお前さんにやろう。祝いだと思ってくれ」

そう言って老女は私の手に小瓶を握らせ、そのまま店を畳んで夜の街に姿を消した。
残ったのはこの小瓶とランプの残光だけだった。
幼い私、幼い私にも幸福な時間はあったのだろうか。あったとして、それらを手に入れたいと願うことは好奇心の罪に値するのだろうか。
小瓶の冷ややかな手触りを転がしながら、私は学内の宿舎に帰った。

部屋に入ると友人は既に寝ていた。私は友人を起こさないようゆっくりと外套を脱ぎ、椅子に腰掛けた。小瓶は横の机に置いた。机の上は乱雑に本が置かれているだけだった。
椅子の背もたれに寄りかかりながら、私はじっと老女の小瓶を眺めた。老女の発言の真偽はどうでもいい。

暖かな過去、それは厳格な法でも敬虔な祈りでも決して得ることの出来ないものだ。だが待て。そもそも父母は私を捨てたのだ。そんな私にはたして幸福な時間というものがあったのだろうか。
小瓶は指で小突くと危なげに揺れた。終いに私は力を込めすぎて倒してしまった。倒れた小瓶はそのまま机の上を転がって、床に落ちて割れた。
しまった、と思ったが遅い。小瓶の中に詰められた煙は割れたガラスをぬって這い出てきた。私は堪らず窓を開けて換気を試みた。
冷たい夜風が頬に刺さった。

白の窓布がはためいて音を立てた。

その時、私の視界に確かに草原が見えた。草影に男女が寝転がっていた。いや、二人の間に子供が一人いる。すやすやと寝息を立てている。男はゆっくりと起き上がると優しげな笑顔を浮かべて子供を抱きかかえた。女が子供の髪を撫でた。
そのまま三人は何処かへ歩いて行った。

だが、その後ろを黒い布を口元に巻いた男が追っていた。男は腰に剣を差し、狡猾な蛇のように三人に迫った。
まず腰の剣で後ろから女を切り殺した。
抵抗した男も組み伏せて、喉元をかき切った。男は二人の死骸を漁って、財布に時計、宝石を奪い、最後に子供に目を遣った。泣き叫ぶ子供の首に手をかけようとしたが、その手は首ではなく胴元に伸びた。

そして子供を抱きかかえたまま、煙のように走り去っていった。
男が去る間際、一陣の風が吹いて口元の布を飛ばした。

二人を殺した男の顔は、見間違うはずもない、私の神父様そのものだった。

また風が吹いた。

気がつくと、私は椅子の上で寝てしまったようで、窓の外には朝日が山際から顔を出しつつあった。
私は涙を拭って、部屋を見渡した。確かに昨日落としたはずの小瓶は欠片も無く、友人はあいも変わらず寝息を立てて寝ていた。

私は机の引き出しの一番奥から、小さな短刀を持ち出してきてくるくると回した。
鈍く輝く刃を眺めながら、私はこれからのことを思い巡らした。くるくると刃は回り、私の頭の中で答えを探し回っていた。
夢か現実か。決して答えの出ない迷路の中であの優しげな三人の笑顔だけがはっきりと形を持っていた。

どれだけ経った頃だろうか。私はおもむろに立ち上がって、部屋の外に出た。そして神父様の部屋に向かった。神父様の部屋の扉をノックすると中から返事があった。
私は扉を開けた。

その時、朝を告げる鐘が鳴った。

ボンビエリのナイフ

ボンビエリのナイフ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-14

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