竜の胎教

竜の胎教

獅兜舞桂

           * 1 *
 

「…愛してる……」
モネの背後で、男の声が低く呟いた。
「…だったら……」
か細く震える別の男の声が、
「許して…お願い……」
取り縋る。
「…無理だ……」
「…お願…い……。誰にも、言わないから……」
「無理なんだ! 秘密を知られた以上、お前を殺すしか、オレが生きる道は無いんだっ! 」
 直後、耳をつんざくような悲鳴。
 至近距離からのその奇声に、モネは心臓を突かれ、ビクッ。
 一呼吸分の間を置いて、低い声の主と、か細い声の主の、爆笑。
(あー、ビックリした……)
モネは、ドキドキ言い続ける胸の鼓動を静めるべく、深呼吸。
(まったく……。それって、何ゴッコ? )
 6時限目・数学2の授業中、教室中央より少し後ろのモネの席からは、お揃いのブレザーに身を包んだクラスメイトたちのうち半数が、いつもどおり、てんでバラバラ、好き勝手なことをして過ごしているのが、よく見える。……モネの左斜め前の席の男子は、まだモネが学校で習った憶えの無い意味不明な内容の参考書を、机の下でこっそり開き、どうやら前の席の女子も膝の上で何やら内職中。左隣の席の女子は、その更に左隣の席の女子およびその周辺の数人と一緒に、菓子パーティーを開き、右隣にいるべき男子は、どこかへ出張中。モネから見える範囲の窓際に座る人たちは、春の午後の優しい陽を受けて一様にウトウト。教室内の騒がしさから想像するに、残り半数……モネの死角は、きっと大変なことになっている。
 数2担当の教師は教師で、一方的に教科書を読み上げて黒板を書き、モネも、きちんと前を向きノートをとってはいるが、実は頭の中では、放課後に行う予定の作業の手順を確認していた。
 放課後に行う予定の作業、とは、明後日の生徒会行事・新入生を迎える会で披露する、各クラス持ち時間5分のステージでの出し物の準備のこと。
 モネのクラスは、クラス委員であるモネが1人で手品をすることになっている。
 LHRの時間を、ごく短時間使って決まった、モネにとってもクラスメイトたちにとっても、最良の決定だ。


                                  
            *



 放課後の、ひと気の無くなった教室。
 モネは、一番後ろの席1列を前に寄せて作ったスペースに、床を汚さないよう新聞紙を敷き、高さは自分の胸くらいまで、幅は自分の倍くらいの大きさのハリボテのニワトリと、その10分の1の大きさのヒヨコのハリボテ7つに、絵の具で色を塗る作業をしている。
 色塗りが終われば、手品で使う物の準備は、ほぼ終了。今日は、そこまで終わらせ、明日の朝、少し早めに登校して仕上げ、明日の放課後は、まるまる練習に費やしたい。 
 塗り方に多少ムラがあっても、どうせ遠目には分からない。モネは、5センチ幅のハケを手早く動かした。



 モネの陣取っている、すぐ横、教室後部出入口のドアが開いた気配に、モネは一瞬だけ手を止め、目をチラリと動かして相手を確認した。
 「ごくろうさん」
軽めの言葉と共に顔を覗かせたのは、モネのクラス担任である20代後半の男性教師。
 担任が教室に入って来、前に寄せてある席の椅子のうち1つを出してモネのほうを向いて座るのを気配で感じながら、モネは作業を続けた。
 担任が、真面目な調子で口を開く。
「吉川、1人でやってて、楽しいか? 」
 モネは、
(は? 何 言ってるの? 意味わかんないんだけど……)
手を休めることなく、視線もそのままに、心の中で小さく笑った。
 担任は続ける。
「発表は1人でするにしても、やっぱり、準備はクラス皆でやるべきじゃないかな? 吉川はクラス委員なんだから、皆をまとめて引っ張っていかないと」
(うるさい……)
手伝いなら歓迎するが、無駄話をして邪魔するだけなら出てってよ、と、モネは思った。
 モネが1人でやることは、モネ自身もクラスメイトたちも納得の上でのことなのだから問題ないではないか、と。
 大体、クラス委員なんだから、って?  
 クラス委員の仕事は、1・月1回の定例会に出席、内容をクラスに伝達 2・生徒会行事時の生徒会役員の補助 3・学級会における司会進行 4・授業開始終了時の号令、と、生徒手帳の中の、生徒会会則第7項・各係の役割について、に明記されている。
 確かに、この学校に通う全ての生徒が何かしら1つは担当している数ある係の中で、クラス委員は、生徒会役員に次いで仕事量も多く拘束時間も長い大変な係だとは思う。
 だからと言って、そんな、人の上に立つような権限まで持てない。と、言うより、大変な係だからこそ、これ以上の余計な仕事、しかも、まとまりの無い、まとまる気も無いクラスをまとめるなどという重労働を、その仕事として増やされたくないと言うか……。
 別に、クラス委員自体、嫌々やってはいない。部活にも所属していない、バイトもしていない、進路について高望みもしていない、クラスで一番暇な自分が大変な係を担当することは自然な流れのように思う。別に楽しくもないが、与えられた仕事として、キチンとこなそうと考えている。
 だから、目の前の仕事をキチンとこなすため、邪魔しないでほしい。…担任の理想は分かった。だが、理想は、他人に頼らず自分で叶えてほしい……。
 担任の視線を感じながら、ただ黙々と作業を続けるモネ。
 担任は溜息をひとつ吐き、教室を出て行った。


                                   
            *



 完全下校の6時半を知らせる校内放送が流れた。
 モネは予定通り、ニワトリとヒヨコの色塗りを終えたところだった。後は一晩おいて、塗った絵の具を乾かし、明日の朝、色画用紙で既に作ってある目とクチバシとニワトリのトサカをつければ完成だ。
 明日の朝は早く来る予定のため、ニワトリとヒヨコ、前に寄せた机の列はそのままに、もう使わない道具だけを片付け、電気を消して、カバンを手に教室を出た。



 外は、気持ち暗くなり始めている。
 昇降口から正門へと通じる前庭は、全くひと気が無く静かだ。
 部活をしていた人たちが出てくるには、時間が早いのだろう。校舎を、ちょっと振り返って見れば、まだ、その半数の窓に明かりがともっている。


 校門を出たところで、
(! )
突然、地面が下から突き上げられたように揺れた。
(地震っ? )
直後、モネの足下の舗装された道路が、バカッ。大きく裂けた。
(! ! ! )
咄嗟のことで避けられず、裂け目に落ちるモネ。反射的に身を縮める以外、何も出来なかった。
 裂け目は深く、底が見えない。
 モネの目の前に、モネ作のハリボテのニワトリとヒヨコが完成予定の姿で現れ、やたら楽しげな舞を披露してから飛び去った。
 取り残された空間は、ただ、真っ白。
 落ちて、落ちて、落ちて……。
 どこまでも、どこまでも、どこまでも……。
 真っ白な空間には次第に影が差し、やがて、真っ暗になった。



          * 2 *


 ホットミルク・目玉焼き・野菜サラダの並ぶ食卓に制服姿で着き、平日朝のテレビの情報番組を何となく眺めながらトーストをかじるモネに、母は、はい、お弁当、と言って、手製の弁当を食卓の隅に置き、
「モネ、今日も、帰り、遅くなるの? 」
 返してモネ、
「うん、もう明日が本番だからね」
 母は、ふーん、と頷き、軽く笑みを作って、
「まあまあ、頑張って下さい」
小馬鹿にしているようにも面倒くさくて早めに話を切り上げようとしているようにもとれる口調で言う。
(…何、それ……? )
馬鹿にしているにしても面倒くさいにしても、そんなふうにしか返せないなら、初めから話しかけなきゃいいのに……。何だか、まともに答えた自分が馬鹿みたいに思えて、モネは、ほんの少し腹が立つ。
 が、これが母の話し方なのだと分かっている。
 それが証拠に、物心ついて以降、母と会話した回数分だけ、モネは似たような腹の立て方をしてきた。
 怒っていても仕方ない。嫌な気分が続く分、自分が損するだけだ。
 モネは小さく息を吐き、心の中で、
(いいけど……)
と呟く、いつもの方法で、ムッとした気分の消化を試みる。



 朝食を終えたモネは、カバンに食卓の上の弁当を入れ、玄関へ。
 いつもどおり玄関まで見送りに来た母の、
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
いつもどおりの言葉を背中で受け止め、いつもどおり、行ってきます、と小さく短く返してドアを開ける。
 すると目の前に、正方形の白いパネルを組み合わせた天井と、むき出しになっている長型の蛍光灯が現れた。
 何故か、いつの間にか、モネは横になっていた。
(……? )
モネは今ひとつ状況が掴めないまま、ゆっくりと起き上がりつつ、懸命に記憶を辿る。
(…そうだ。私、地面の裂け目に落ちて……)
しかし、体はどこも痛まない。
(その後、家に帰ったっけ……? )
寝ていた場所は、白いパイプベッドの上。掛敷布団とも清潔感のある白いシーツが掛けられている。
(…帰ってない、よね……? うん、帰ってないよ……。じゃあ、さっき家で朝ゴハン食べたのって、夢か……)
 確信してから周囲に目をやれば、ベッドの頭側すぐと足側の少し離れた位置に白い壁。右手側に白く塗られた木枠に囲われた大きめの窓。その向こうには手入れの行き届いた緑豊かな庭が見えた。左手側には、白いパイプの枠に白い布が張ってある、つい立。
 学校の保健室のような雰囲気の部屋だが、モネの通う高校の保健室ではない。
(ここ、どこ……? )
 モネは、ふと、つい立の向こうに人の気配を感じ、ベッドから木の床に下りつつ、ベッドの下に揃えて置かれていた自分の靴を履き、2歩ほど歩いて、つい立の向こうを、そっと覗く。
 そこには、壁に寄せた机に白衣姿で向かい、何やら書き物をしている、短く刈り上げた黒髪の見知らぬ20代後半くらいの男性の端正な横顔。
 モネがたてた微かな足音に気づいたのか、男性は、手にしていたペンを置き、モネを振り返った。 
 その正面から見た顔に、
(……っ? )
モネは固まった。
 男性の額の中央に、黒くハッキリと、2センチ四方に収まるくらいの大きさの、文字のようにも子供の落書きのようにも見えるものがあったためだ。
(何か、アブナイ、人……? )
 男性は立ち上がり、小さく笑んでから、
「気がついたかい? 」
モネのほうへ、ゆっくりと足を踏み出す。
 その笑みは、実際には実に爽やかな笑みだったのかも知れない。額の、字のような絵のようなものさえ無ければ……。
 モネは警戒。男性が1歩踏み出したのに合わせて、1歩後退る。 
 モネが警戒していることに気づいてか、男性はそれ以上、モネに近寄ろうとせず、距離のあるまま少し姿勢を低くし、
「僕は、サナ。医者だよ。大丈夫、怖がらないで。ここは、僕の養生所だよ」
モネを窺うようにしながら口を開く。
「君は、発電所近くの林の中を通る道で倒れてたんだ。眠っている間に簡単に診せてもらった分には、怪我も無いし、他の異状も特に見られなかったんだけど……。一体、どうしたの? どうして、あんな所に倒れてたの? 」
 モネは、また、もう1歩、後退る。
 サナ、と名乗った男性は、困ったように、一呼吸分おいてから続ける。
「ゴメン、目覚めたばっかで、こんな色々言われたって、困るよね? とりあえず、もう1度、ちゃんと診せてくれる? 倒れてたからには、やっぱり、何かあるはずだから」
 と、そこへ、サナの背後のドアが開き、
「サナ、改築の件だけど、玄関前の階段の3分の1はスロープにして、手摺とか……」
作業着の上下のようなものを着た大柄で日に焼けた肌の男性が、筒状に丸めた大きめの紙を手に、大声で言いながら入ってきた。
 サナより少し若い感じの、その男性は、ふとモネに目を留め、
「あ、ゴメン。診察中? 」 
足を止める。
 サナは男性を振り返り、
「ああ、シイ。いいよ」
シイ、という名前らしい彼に歩み寄ると、
「見せて」
と、シイが手にしていた紙を受け取り、机へと歩いて、その上に広げた。
 シイは、チラチラとモネのほうを気にしている様子で、紙を見ているサナのすぐ傍まで歩き、
「どこの子? 見たこと無い子だけど、種族は? 」
モネにハッキリ聞こえてしまっているが、一応小声らしい声で聞く。
 シイの額中央にも、サナのものとは形は違うが、同じく黒い字のような絵のようなもの。
 モネは、サナとシイを、きっと何か変な宗教の人たちだ、と思った。
 …怖い……。
 額中央の字か絵のようなもの以外には特に変わったところが無いあたりが、余計に怖い。
 何故なら、そんなものが額についていることが、彼らにとっては当たり前だということだからだ。
 それに、自分は学校の前で地震によって出来た地面の亀裂に落ちたのに間違いないと、モネには自信がある。
 学校の近くに発電所や林など無い。
 サナの言っていることは、明らかにおかしい。
 倒れていたモネを、医者であるサナが本当にただ純粋に助けるために、ここに連れて来たのだとしても、あまり関わり合いにならないほうが身のためのような気がした。
 息を止めるようにして、じっとサナとシイを窺い、考えを巡らすモネ。
 その視線の先で、シイは急に目を見開き、チラ見をやめて、モネを凝視。
(…何……? )
怖すぎる。
 シイと見つめ合う形になってしまい、モネは視線を逸らしたいが、体が、視線さえ、貼りついてしまったように、動かせない。
 シイが、モネを凝視したまま声をかすれさせ、
「…族印が、無い……。サナ、まさか、この子……」
呟く。
 返してサナ、
「うん、人間だと思うよ。さっき、発電所で急患が出たって連絡が入って、動かさないほうが良さそうな状況だって判断したから、出掛けたんだよ。幸い大したことなくて、その場で処置を済ませて帰る途中、林の中で、この子が倒れてるのを見つけて、運んできたんだ。で、たった今、目を覚ましたとこなんだけど……」
特に何の感情も込もっていない感じで、ごく普通に説明した。
 シイ、
「そんな! 」
サナに向き直り、ムキになった様子で声を荒げる。
「サラッと言うなよ! 大変なことだろっ? 」
 サナは、まあまあ、と、宥めるようにシイの肩を軽く叩きながら余裕のある穏やかな笑みを浮かべ、
「分かってるよ。連れてきたのは、倒れている人を助けなきゃっていう医者の立場からだけじゃなくて、族長の立場から、監視する目的もあってのことだよ」
(…監…視……? )
その言葉に、モネは、サナが自分を帰す気が無いのだと知る。
 自分の置かれている状況を、ハッキリと理解する。
 自分は、このアヤシイ人たちに捕まってしまっているのだ、と。
(でも……)
 話に夢中な様子のサナとシイ。モネに意識が注がれていない。
 今だったら、ここを抜け出せるような気がする。
(…この隙に……)
モネは、まず、ベッドの向こうの窓に目をやった。
 見える景色から、その窓が少し高めの位置にあるのだと分かる。窓から外に出るのは無理だ。 
 それ以外には、シイが入ってきたドア。他にドアは無いから、あのドアは、直接ではなくても必ず何らかの形で外に通じているはずだ。
 モネは、サナとシイに注意を払いながら、ドアへと移動しようとする。
 が、足がガクガクと言うことをきかない。
 無理に動かそうとしてバランスを崩し、転ぶ。
 サナとシイに気づかれたのではと、モネは息を詰めるが、彼らがモネの動きに気づいた様子はない。
 ホッと胸を撫で下ろし、転んだままの低い姿勢、四つ這いで、サナとシイを窺いつつ、ドアを目指すモネ。
 あと少し、あと少しで、ドアだ。
 モネの注意が、サナとシイから逸れた。 
 瞬間、
「おいっ! 」
(! )
モネは、反射的に声のほうを向く。
 シイが大股でモネのほうへと歩いて来、腰を屈めてモネに向かって腕を伸ばした。
(っ! )
ビクッと身を縮めるモネ。
 シイがモネの右腕を掴み、真上に向かって吊り上げる。
 モネの足が床から離れた。全体重が肩の関節にかかって、
(…痛…い……! )
「どこ行く気だっ? 」
シイが、至近距離からモネを見据える。
「シイ! 」
サナが叫んだ。
「乱暴なことは、やめて! 」
 シイは舌打ちをしながら、モネを床に放り出すようにして手を放す。
 放り出されたはずみで床を滑り、モネは、つい立のところまで逆戻り。
 離れた位置から真っ直ぐにモネを見下ろすシイ。
「お前、人間だろ? どうやって、ここへ来た? 目的は? 」
 モネには質問の意味自体が分からない。
(……人間だろ、って…見ての通りだけど……。どうやってここへ来た、って…アナタと仲間らしい、そっちのサナって人が連れて来たんだって話を、今、聞いたよね……? 目的は、って…目的って、何……? 何て答えたら許してくれる? 解放してくれる……? )
どう返していいか分からない。それ以前に、声が出ない。…怖くて……。
 無言でいるモネに、シイは詰め寄って来る。
(誰か、助けて……! )
心の中で叫ぶモネ。
 叫んでおいてから、ハッとする。
(…誰か、って、誰……? )
どこの誰が、今、モネがこの場所で、こんな状況にあるのを知っているだろう。
 モネは学校から1人で帰ろうとしていた。学校の中には、その時、まだ大勢の人が残っていたと思うが、たまたま、モネが校門を出る時には、周りに、人も車も全くいなかった気がする。そして、校門を出たところで地震が起こり、地面が裂けて、その裂け目に落ちた。……そこまでは、憶えてる。その後、気づいた時には、もう、ここにいたのだ。モネの知る限りでは、誰も知らない。
 仮に誰か知っていたとしたら、助けに来てくれるだろうか? 助けに来ないまでも、110番くらいしてくれるだろうか? 
 …無理な気がする……。
 何故なら、モネならしないから。
 巻き込まれたくないから、何もしない。
(…どうしよう……)
 すぐ目の前まで来たシイが、モネの襟ぐりを掴む。
「聞いてんだから、答えろよ! 」
 その言葉に被せるように、
「シイっ! 」
サナが叫びながら モネとシイの間に割って入り、シイの手を掴んでモネの襟からはずす。 
 サナは両膝を床について、モネと目の高さを合わせ、労わるように、
「ゴメンね」
 シイは、忌々しげに大きく息を吐き、背を向けて、モネとサナから離れた。
 その時、モネの指が、何か、床とは違う、冷たくて固い感触の物に触れる。つい立の脚だ。
 モネは、そうだ、と思いつく。
 失敗した時のことを思うと、怖い。腕だけで吊り上げられたり 襟ぐりを掴まれたりするだけじゃ、絶対に済まない。
(でも……! )
モネは1度、深呼吸。腹にグッと力を込め、足裏をしっかりと床につけてみて、先程はガクガクしていた足に、今度こそ大丈夫かと伺いをたて、シイが自分に背を向けていて自分ともドアとも距離があることを、チラリと見て確認した。
 そして、素早く立ち上がりざま、つい立をサナに向けて勢いをつけて倒すと、ドアへと走る。
(待ってても、助けなんて来ない! 自分で逃げなきゃ! )

 

 ドアを出ると、右手側に、真っ直ぐ奥へと続く薄暗く冷たい感じの廊下。左手側に、長椅子が並ぶ病院の待合室のような場所が見えた。
 その待合室のような場所の向こうが、他の場所に比べて少し明るい気がした。
 ここからは見えないが、すぐ近くに出口があるかも知れない、と思い、左手側に走るモネ。
「いけない! むやみに外に出ちゃ……! 」
後ろから、サナの声が聞こえる。続いて、モネに向かってくる足音も。
 モネは振り向かない。確認しなくても、追ってきてることくらい分かる。
 とにかく、必死で走った。


 前しか見ないで走って、突き当たり、モネは、磨りガラスの窓がはめ込まれたドアを右手に見つけ、開ける。
 そのドアの向こうは、外だった。
 しかし、モネの望んでいた外の世界とは、大きく様子が違っていた。
 モネの開けたドアの真正面数メートル先に、学校の校門のような、古そうなレンガで出来た大きくて四角い柱が2本建つ門。その両脇から、養生所という名称らしいこの建物を囲う形で両側へと続く、やはりレンガで造られた塀。その向こう側には、ごくありふれた雰囲気の住宅地が見える。
 ……そこまでは、いい。
 大きく違っていたのは、ドアの前の広めの平らなスペースを置いてすぐの、5段しかない階段の下に、門から溢れ出てしまうほど大勢の人がいたこと。ごく普通にそれぞれ自分の近くにいる人と喋ったりなどしている、その大勢の人々の額中央には、サナやシイと同じような黒い文字のような絵のようなものがある。
 あまりのことに、モネは反射的に1度大きく息を吸い込んだきり、呼吸が出来なくなってしまった。
 人々の視線がモネに集中。
 一瞬、辺りが静まりかえり、そしてすぐ、ザワつく。
「人間だ」
「な? 言ったとおりだろ? オレ、見たんだよ。サナ先生が、人間をお連れになって養生所に入られるとこを! 」
「ああ、確かに人間だ」
「うん、人間だ」
との声。
 突然、拳ほどの大きさの石が、モネに向かって飛んできた。大勢の人々のうち誰かが投げつけたのだ。
 モネは、すっかり固まってしまっていて、動けない。ただ、ギュッと目をつむる。
 と、
「危ない! 」
サナの声。
 グイッと手首を引っ張られ、モネは、強引に、何か温かいものの中に包み込まれた。
 直後、ゴッ、と鈍い音。
(……? )
モネは、恐る恐る目を開ける。
 下向き加減だったモネの視界に真っ先に入ってきたのは、白衣の裾と、足下に転がる、自分に向かって飛んできたはずの石。それから、たった今、視界を上から下へと縦断してきて足下を濡らした1滴の赤い液体。
(! )
モネは驚いて顔を上げる。そこには、額の上のほう、生え際あたりから血を滴らせ顔を歪めるサナ。
 サナは、モネと視線が合うと、フッと目を優しくし、気遣うように、
「大丈夫? 」
 モネは、石が当たろうという、まさにその瞬間、サナの胸の中に庇われたのだった。
 辺りが、また静まる。
(…この人……)
どうして自分を庇うのか、と、モネは驚き、混乱する。
 養生所の中からシイが飛び出して来、サナに駆け寄った。
「サナ! 大丈夫かっ? 」
 サナは、シイに、大丈夫だ、といったように手のひらを見せる。
 その時、
「サナ先生は、人間の味方をなさるのですかっ? 」
一様に口をつぐみ、ただモネやサナ・シイに視線を向けている大勢の人々のうち、最前列にいた20代前半くらいの女性が沈黙を破った。 
 サナは女性のほうに顔を向け、
「何、言ってるの? 」 
それまでモネに見せていた優しい表情とは、うって変わった険しい表情。
 女性は、ビクッとして黙り込んだ。
 代わって、女性の周囲の人々が、殺気立った様子で女性を押し退けるように、1歩、前に進み出、それぞれ片手のひらをモネとサナ・シイに向けて突き出す。
 その手のひらから、何やら白いものが凄い勢いでモネとサナのほうへ伸びて来、モネは、再びサナの胸に庇われた。
 モネの視界の隅で、シイは、素早く身を伏せる。
 モネとサナの体スレスレのところを人々の手から放たれた白いものが通過し、2人の背後の外壁や開け放ったままだったドアに穴を開けたのを目の端に見て、
(っ? …何? 今の……)
これが体に当たっていたら、と、モネはゾッとする。 
 壁に開いた穴の周りが濡れていた。何の道具も使わずに、手のひらから伸びた白いもの。…これは……。 
(…水……? )
そういえば、だいぶ前にテレビで見たことがある。……何かの工場で、高圧の水を使って硬い金属を切断する光景。
 そのため、水など液体で壁に穴を開けられるのは分かるが、どうして手から……?  モネは、怖いのとワケが分からないのとで、呆然。
 サナはモネを放し、モネを背に庇うようなかたちで階段の下の人々に向き直る。
「皆、聞いて! 」
 そこへ今度は、手のひらから水らしきものを放った人々の少し後ろにいた人々が、モネたちのほうへ手のひらを向ける。
 シイが身を起こし、階段を飛び下りて、大勢の人々と向き合う格好で地面に片膝をつき、サナを振り仰いで、
「サナ、今は何を言っても無駄だ」
早口で言い、地面に両手をついた。
 シイの視線も意識も、地面に集中。ゴゴゴ……と地鳴り。地鳴りに伴い、シイと大勢の人々との間の地面が、生き物のようにムクムクと動き、空に向かって少しずつ少しずつ盛り上がっていく。
 モネ・サナ・シイへと向けられた複数の手のひらから炎が噴き出した。
 固まるモネ。
 直後に、それまで生き物のように動いていた地面の土が、いっきに空へと伸び、両側面の塀から塀にわたる、平屋建ての養生所の建物の倍の高さはある土の壁が完成。炎を防いだ。
 その土壁はシイが地面に手をつくことで作り出したものだと、モネは分かった。…分かったが、分からない……。手のひらから水のようなものを放った人々といい、炎を出した人々といい、土壁を作るシイといい……何がどうなってそうなるのか、もう本当にワケが分からず、混乱しきる。
 シイは立ち上がり、サナを振り返った。
「とりあえず、逃げよう。1度、診療所の中に入って、裏口から抜ければいい」
 サナは頷き、モネの手をとる。
 少しボーッとしてしまっていたモネは、軽く、ビクッ。
 と、先程と同じ水のようなものが、シイの土壁を貫いた。
 シイは舌打ち。
「あんまり、もちそうにねえな。急ごう」
 サナは、もう1度頷き、先に立って、モネの手を引いて養生所内へ。シイも、すぐ後からついてくる。
 モネは、ワケが分からないまま、手を引かれるまま。サナとシイの言動が、自分の存在さえも、何だか遠く感じられた。



 廊下を真っ直ぐ走って数秒後、モネ・サナ・シイは1つのドアに突き当たった。そのドアのノブにサナが空いているほうの手を伸ばした、その時、足下が震動。 
 シイが、
「クソッ、もう崩されたか! 」
歯ぎしり。
「これじゃあ、すぐ追いつかれちまうぞ! 」
「とにかく、外に出よう。僕に考えがある」
ノブを回し、サナはドアを開ける。
 そのドアは、少し前にシイが言っていた裏口だったのだろう。開けた先には洗濯物が干してあったりして、生活感が漂っていた。


 裏口を出ると、サナは、シイに、自分たち3人が入れるくらいの穴を掘ってくれるよう頼む。
 シイ、
「こんな所に穴掘って隠れたって、すぐ見つからないか? 」
 サナは、いいから、と短く返す。
 シイは首を傾げながら、地面に手のひらを向けた。すると、ボコッという音とともに、一瞬のうちに、直径1・5メートル程の円形、深さ3メートルほどの穴が地面に開いた。
 サナ、シイに、その穴に入るよう促す。
 シイは納得いかない様子のまま、穴の中に飛び下りた。
 続いて、
「さ、君も」
サナは、モネにも穴に入るよう言う。
 それまでワケが分からないまま、ただ、そこにいたモネは、突然直面させられた自分で動かなければならない場面に、急に、今のこの状況を身近な現実と感じ、躊躇った。サナの言葉に、そのまま従っていいものか分からない。それを抜きにしても、3メートルは結構深く、怖い。
 モネが飛び下りずにいると、サナは、
「シイ、受け止めて! 」
穴の中のシイに声を掛けるなり、モネの背を押した。
 (! )
モネはバランスを崩し、反射的に身を硬くしながら穴に落ちる。 
 実際に落ちている時間というのは、ほんの一瞬だったはずなのに、恐怖からとても長く感じ、シイに受け止められた時には、その腕の中が安全かどうか分からないにもかかわらず、安堵の息が漏れた。
 シイがモネを自分の腕から穴の底面に下ろしたところへ、サナも飛び下りて来、底面に着地すると、すぐさま人指し指で頭上を指す。
 つられて頭上を見るモネ。
 と、穴の上部、入口に、微かに揺らめく柔らかそうな質感の無色透明の蓋が出来た。そして、みるみるうちに、その無色透明の蓋に周囲の土が混ざり、茶色く濁る。どうやら、水のような液体で出来た蓋のようだ。
 その蓋はサナが作ったのだと、モネは分かる。モネの感覚は、何だか麻痺してきていた。手のひらを地面に向けるだけで大きな穴を掘るのを見ようが、頭上を指さしただけで水のようなもので蓋を作るのを見ようが、いちいち驚かなくなってきていた。
 モネと同じく頭上を見上げていたシイが、感心したように口を開く。
「サナ、すげえ頭いい! これって、穴の外からじゃ、水溜りにしか見えないよ! 」
 サナ、ワザとらしく胸を張り、
「でしょ? 」
 シイは大きな溜息を吐き、
「頭、いいのになあ……」
その場にしゃがみ込んで、頭を抱えた。
「どうすんだよ、これから……。…って、オレもだけどさ……」
それから、しゃがみ込んだまま顔だけを上げ、サナを仰ぐ。
「サナの考え方はオレも分かってるけどさ……。でも、あんな堂々と人間を庇うなんて、さすがに不味過ぎるだろ? 」
 サナは沈んだ表情で俯き、
「…ゴメン……。シイまで巻き込んで……」
 シイは大きく息を吸い込みながら立ち上がり、サナの肩に手をのせ、
「まあ、過ぎたことは仕方ないさ」
意識してのことと思われる軽い調子で言ってから、考え深げに、
「問題は、これからどうするか、だな」
 サナは沈んだまま、
「皆が落ち着くのを待って、ちゃんと説明すれば、分かってもらえないかな? 」
 その言葉に、
「説明? 」
シイは、呆れた、といった口調。
「人間を庇うなんて行動につながった、サナの考え方を? そりゃ、火に油だ」
 「そう、だよね……」
サナは小さく息を吐く。
 シイはサナから視線を逸らしながら、投げ出すように、
「分かんねーけどな」
 黙りこむサナとシイ。
 今はあの大勢の人々に見つからないよう隠れていなくてはならない、という程度にしか状況を理解しようがないモネは、ただ黙ってサナとシイを見比べながら、その会話を聞いていた。分からないことが多すぎると、考えようと思わなくなる。……シイはともかく、サナに対して、いつの間にか、怖いと思う気持ちが消えていたから、余計かもしれない。
 しかし、怖く感じなくなったとは言え、
「ねえ」
不意に自分に向かって声を掛けられたりすると、やはり、ビクッとしてしまうモネ。 
 声を掛けた側のサナは苦笑しつつ、最初に聞くべきなのに、まだ聞いてなかったよね、と前置きし、
「君、名前は?」 
 モネに向けられた、答えを待つ眼差しは優しい。モネの心が、フッとほどける。答えやすい質問によって、久し振りに発したために掠れた声が導き出された。
「…吉川、モネ、です……」
 サナ、ホッと息を漏らしながら笑み、
「やっと、口をきいてくれた……。モネ、か。いい名前だね」
 モネの胸が、1度、トクン、と、大きく脈打った。父以外の男性に下の名前で、しかも、こんなに優しく呼ばれたのなんて、初めてだ。モネは、思わずサナを見つめる。と、サナの生え際から額、目の横へと伝った乾いた血液が目に留まった。胸が、今度は、キュウッと締めつけられるような感じがした。
(私を、庇ったから……)
 モネはポケットからハンカチを出し、サナに差し出す。
「これ、よかったら……。オデコ、血が ついてるから……」
 サナは、ちょっと驚いた様子で、
「ありがとう……。でも、汚れちゃうよ? 」
 モネは、何だか急に恥ずかしくなった。お節介だと思われたかも、と。普段は自分からハンカチを貸すなんて 絶対しないのに、どうしてそんなことしてしまったのだろう、と、後悔。どうにもいたたまれなくなって目を逸らし、ハンカチをサナの胸元へ押しつけるように渡して、
「いいから、拭いて! そのままにされてると、何か、私のせいだって責められてるみたいで嫌なの! 」
言ってしまってから、庇ってもらったのに言い過ぎた、と、口元を手で押さえ、サナを窺う。
 「何だよ、それ! 」
横からシイが怒った。
 モネは、ビクッと竦む。
 「お前を庇ったせいで、サナが どれだけ……! 」
 「シイ! 」
当のサナは怒った様子はなく、大きな声でシイの言葉を遮ってから、静かに、
「いいんだよ。僕が、僕自身のために、僕の責任でしたことだ。モネは何も悪くないよ」
それから優しい笑みを浮かべ、モネの目を覗く。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ」
 (この人って……)
サナの優しさが痛くて、モネは、目を サナのハンカチを持つ手のほうへと逸らした。
 シイは大きな溜息を吐き、モネとサナに背を向ける。
 サナが片手でハンカチを握ると、ハンカチが濡れた。濡らしたハンカチを軽く絞って、傷口を避けて血液を拭き取る。
 拭き終えたハンカチを自分の手から出る水で濯ぐサナ。数十秒後、濯ぐ手を止め、とても気にした様子で、濯いだが、やはり血液だから汚れが落ちないと、謝る。
 汚れると分かっていて貸したんだから気にしないで下さい、と、モネは上の空気味に返し、ハンカチを受け取った。上の空なのは、考え事をしていたから。
(…言いたい。…でも……)
と、迷っていた。あんな言い方をしておいて、今さらこんなことを言ったら、馬鹿みたいだと思われるかもしれない、と。胸がキュウキュウと苦しい。 言ってしまえば、どんな結果が待っていても、楽には なるだろうか? ……そう考え、モネは思いきって、サナに向けて、まっすぐ顔を上げ、
「ありがとう。庇ってくれて」
言った。
 ハンカチのことで申し訳なさそうに俯いたままだったサナは、驚いた表情でモネを見る。 
 モネは緊張する。
 少しして、サナはニッコリ。
「どういたしまして」
 モネは、気持ちがスウッと楽になった。
(…言って、よかった……)
 

 「ところで、さ」
サナが急に笑みを消し、緊張さえ感じられる真面目な顔で口を開いた。
「モネは、ここに来れるってことは、人間って言っても、何か、次元を越えられるような特別な能力を持ってるってこと? 」
 (? )
モネは、質問自体が理解できない。サナ自身が、モネを、ここに連れてきたはずなのに、と。そう、モネが言うと、サナ、
「ここ、って、養生所のことじゃなくて、人間の世界から、この国に来れたのが、ってことなんだけど」
 (? ? ? )
言葉を付け加えられても、やはり分からないモネ。
 サナは、注意深くモネの心を探るように、モネの目の奥を見つめた。
「もしかして、ここが竜国(りゅうこく)だってことも、分かってない? 」
 「? リュウコク……って? 」
 「竜族(りゅうぞく)が暮らしてる国だよ」
 「リュウゾク……? 」
 サナは驚いて、
「竜族を知らないの? 」
 モネが頷くと、サナ、
「そっか、知らないんだ……」
小さく息を吐く。
「じゃあ当然、さっき、表にいた人に石を投げつけられたりした理由も、わからないよね? 」
 サナの説明によると、竜族というのは、モネと同じ人間。ただ、水や大地、火、風などを操る能力を持つという違いがあり、外見的にも、額に、その能力によって分類される種族の、族印(ぞくいん)、と呼ばれる印が生まれつき刻まれているだけ、とのこと。モネは、さっきから、額に字か絵のようなものを書いてあるという変なところはあるにしても人間にしか見えないサナやシイ、表にいた大勢の人々が、モネを指して、人間、と言うことが引っかかっていた。今のサナの説明を聞いて、更に疑問は深まった。同じ人間だと思うのなら、違いはあっても、だけ、の違いだと思うのなら、何故、モネを人間と呼んだのか、と。
 サナの答えは、
「そう思ってるのは僕だけだからだよ」
聞けば、サナ以外の竜族の人々は、皆、今から156年前の出来事が原因で、自分たち竜族と人間を完全に分けて考えているのだという。
「今から156年前、この竜国は、まだ存在してなくて、竜族の先祖は、人間たちと一緒の世界で暮らしていたんだよ。人間の持たない能力を持っていることで気味悪がられ、恐れられていることを理解し、受け入れ、当時生きていた先祖たちの、もっと前の先祖の時代から、竜族は、人里離れた山奥で人間たちとは距離をとって生活してきた。そうして何事も無くやってこれたんだけど、ある日、たて続けに大きな地震が2つも起こってね。竜族は、皆で自分たちの持てる力を合わせて、自分たちの村を守った。その甲斐あって、村は人的にも物的にも何の被害もなかったんだけど、無事だったことで人間たちから疑われたんだ。地震を起こしたのは竜族じゃないか、って……。人間たちは、大勢で、竜族の村を襲ってきた。まともに戦えば、長い目で見れば無理でもその場は勝てたかもしれないけど、当時の王族(おうぞく)の長(おさ)……って、簡単に言うと、竜族の中で一番偉い、指導者的立場の人なんだけど、その、王族の長が、戦うことを拒否したんだ。そうでなくても地震によって大きな被害を受けた人間たちを、これ以上傷つけたくない、って……。当時の竜族は、自分たちは人間に嫌われていると知っていながら、人間が好きだったんだろうな……。村を離れ、更に山奥へと入って身を隠し、戦いを避けた。頃合いを見て村に戻ると、人間たちによって建物は破壊しつくされ、逃げ遅れた竜族は変わり果てた姿になっていた。王族の長の考えを汲んでのことか、抵抗した跡は全く見られなかったらしい」
 (…そんなことが……。全然、知らなかった……)
竜族の存在自体知らなかったのだから当然だが……。サナの話を聞いていて、モネは、何だか居心地の悪さを感じた。竜族にそんな仕打ちをしたのは、モネではない。だが きっと、表にいた人々、サナやシイにとっても、一括りに、人間、なのだと思えたから……。
 サナは話し続ける。
「その出来事で悲しむ竜族の前に、現在も僕たち竜族が崇拝する神であるリュウシンが現れたんだ。リュウシンは、平和に暮らせるようにって、人間たちの住む世界とは別の次元に竜族の暮らしていける環境を整え、人間に襲われた村の竜族だけじゃなく、人間の世界各地で同じように人間たちと距離を置いて暮らしている他の村の竜族も、その別次元の環境に呼び寄せたんだ。それが、竜国の始まりだよ」
 (…ちょっと待って……)
モネは、サナの話の中の、ある一部分をきっかけに、それ以降の話が全く頭に入っていかなくなっていた。
(人間の住む世界とは別次元に整えられた環境……って? マンガなんか読んでるとたまに出てくる、異次元とか異世界とかいうもの、みたいな……? )
それは、そもそもフィクションであるマンガのために作られたものであるため、当然、何の根拠にもならないが、マンガの中の一般常識で考えると、
(普通に歩いたりバスに乗ったり電車に乗ったりして帰れない場所、ってこと? )
モネは青ざめる。
(私、帰れない……? ) 
 サナの話は続く。
「どうして僕が、そんな150年以上も昔のことを知っているかっていうとね、竜国では、子供時代に、学問所ってところで教育を受けることが義務づけられてるんだけど、今、話したことは、その学問所で教えられることだからなんだ。だからもちろん、竜族なら皆、知ってる。しかも、事実として淡々と教えられるんじゃなくて、人間を憎むように憎むようにってふうに教えられるんだ。それを教わっていた当時は、僕も、その教え方について何の疑問も持ってなかったけど、今から5年くらい前にも1度、人間の男の人が竜国に来たことがあって、彼は見つかるなり、人間だという理由だけで、よってたかって攻撃されて殺されてしまった。……その場面を目の当たりにして、僕は、この国の教育に疑問を持つようになったんだ。歴史的事実を語り継ぐことは大事だけど、憎しみまで受け継がれていくべきじゃないんじゃないか、って。人間の世界で竜族のことが語り継がれていないらしいことには驚いたけど、それはきっと、人間にとっては、156年前のことも竜族の存在自体も、歴史的な出来事じゃなかったからだね。でも、それはそれで良かったと思うよ。モネが竜国や竜族に対して、何か悪い企みを持ってここへ来たんじゃないことの証明だからね。…5年前の彼もそうだったのかも知れないって考えると、胸が痛むけど……。それに、人間が自分たちの過ちを知って反省した上でというのなら、過ちを繰り返さないためにも語り継ぐべきだとは思うけど、真実を知らない人間たちが語り継ぐとなると、大地震を起こして多くの人命を奪った極悪集団竜族への憎しみ、になりそうだしね」
そこまでで、心ここにあらずのモネの状態に気づいてか、サナは小さな笑みを作り、
「って、モネに、こんな話しても仕方ないよね。ゴメン……」
口を閉じた。


 頭上から、ザワザワと人の声がする。表にいた人々が、穴のすぐ傍まで来ているのだろうか。
 サナ、頭上を気にしてから、
「この場所から、人間の世界に帰ることって出来る? モネが竜族にとって危険な人間じゃないって、僕とシイは分かったけど、穴の外の人たちは知らないし、今、説明するのは難しいと思うんだ。だから、今のうちに帰ったほうがいいと思うんだけど」
 (…どうやって……? )
途方に暮れるモネ。
 モネの表情を見てとってか、サナ、
「…ああ、どこか特定の場所か特別な条件下でしか無理なんだ……? 」
 モネは、途方に暮れたまま、小さく首を横に振る。
 「…もしかして、帰れないの……? 」
 ちょっと驚いたようなサナの質問に、モネが頷くと、サナ、
「じゃあ、どうやって、ここへ来たの? 」
 モネは俯き、また首を小さく横に振った。
(そんなの、分かんないよ……)
下校時に地震に遭って、地面の亀裂に落ち、気づいたときには養生所のベッドの上にいたのだ。分かるわけがない。
 「もしかして、モネは次元を越える特殊能力があったりするわけじゃなくて、自分では何も意識しない状態で、偶然、ここに来ちゃったの? 」
 モネ、頷く。
 サナは声のトーンを落とし、気遣うように、
「…そうなんだ……。帰りたい、よね……? 」
 

 その時、頭上の水の蓋を破って、
(! )
中年の竜族の男性が2人、穴の中へ落ちてきた。モネは驚きすぎて反射的に穴の壁ギリギリまで飛び退く。
 2人の男性は、穴とは知らずに、もちろん、そこにモネがいるなどとは知らずに落ちてきたようで、着地に失敗。1人は背中を、もう1人は尻を、穴の底面に強か打ちつけ、打ったところをさすりながら起き上がると、モネを見つけるなり目を円くして、2人同時に頭上に向かって叫んだ。
「いたぞっ! 」
 痛みに顔を歪めながら立ち上がる2人の男性。
 サナがモネを背に庇うようにモネと男性2人の間に入り、更に、そのサナを庇うように、シイがサナと男性たちの間に割り込んだ。
 殺気立つ2人の男性。 
 モネは頭上からも殺気を感じ、仰いで、いくつもの顔が穴を囲んで覗き込んでいるのを見、固まる。
 穴を覗き込んでいる人々が、一斉に穴の中に向けて手のひらを突き出した。
 穴の中の中年男性2人が慌てた様子で叫ぶ。
「おい! 何するんだっ! 」
「オレたちもいるんだぞっ! 」
 そんな2人の声など、聞こえていないよう。穴を覗く人々の手から、炎が放出された。
 男性2人は反射的に頭を抱え込んでしゃがみ、モネはと言えば、
(! ! ! )
あまりの恐怖にすっかり竦みあがり、一瞬、呼吸や鼓動まで止まった感覚。体がスウッと冷たくなる。目を閉じることすら出来ない。
 サナがシイを押し退けるようにして穴の中央へ。両腕を頭上に突き上げ、手のひらを上に向け、太い柱状の水を放って、穴の外の人々から放たれる幾つもの炎を、いっぺんに押し戻して、炎がモネやシイ、男性2人に当たらないよう、食い止めようとする。
 が、多勢に無勢。時折、サナの水柱に勝って、穴の中の一同まで到達する炎。モネ以外の一同、それぞれは、自分の持てる反射神経を駆使して避け、
(怖いっ! …熱い……っ! )
完全に固まりきってしまっているモネの場合は、運で、その直撃を免れていたが、体のすぐ近くをかすめていく炎は、髪や衣服を焦がす。
 モネの全身が、炎の熱に中てられたか、カアッと熱くなった。直後、 
「つっ……! 」
額中央に、刺すような痛み。額を押さえる。痛みは次第に強くなり、モネは、気が遠くなってきた。
 そこへ、
「やあ、楽しそうだね。何のお祭り? 」
穴の外で、この場の緊迫した雰囲気に全くそぐわない、実に気楽な感じの男性の声。
 炎の攻撃が止む。
 サナは、自分の水柱の向こうの様子を探るように、暫し目を凝らすようにしてから、上げ続けていた腕を下ろした。同時に水柱も消える。
 気楽な感じの声の質問に対し、サナ先生とシイ様が人間の娘を庇うのだと訴える声。
 気楽な声は、
「そう。それはそれは、大変だねー」
全く大変だなどと思っていないような軽い調子で返し、軽いまま、
「とりあえず、この場は僕に預けてくれる? 」
 そのすぐ後、1人の男性が穴に飛び下りてきた。長めの前髪を横分けにして流し、カチッとしたジャケットをカジュアルなパンツと合わせて着崩した、小洒落た印象の、サナより少し年上と思われる男性。横分けにして流した長めの前髪の隙間、額中央に、竜族の族印と聞く、サナやシイをはじめ校門を出たところで地震に遭って以降に見かけた全ての人と同じように、黒い字のような絵のようなものが覗く。
 サナが、
「ナガ、どうしてここに? 」
特に警戒した様子などではなく単純な質問としてな感じで小洒落た男性に話しかけた。男性は、ナガ、という名前らしい。
 ナガが返した、
「んー、ここの斜向かいの御茶屋の看板娘のイグちゃんに誘われてね、デートしてきて、彼女を送り届けて帰るトコだったんだけど、何か、こっちから賑やかな声が聞こえてきて、楽しそうだったから立ち寄ってみたんだけど……」
その声、その軽さは、穴の外から聞こえた気楽なもの。
「一体、どうしたの? 」
 問い返されて、サナは答える。発電所近くの林の中でモネが倒れているのを見つけ、監視目的で連れ帰ったこと。話してみた結果、特に危険な人間ではないと判明したこと。 
 その答えに、ナガ、
「何だ、大して楽しい話じゃないね。わざわざ立ち寄って損したかな……? 」
軽くガッカリしたように息を吐きながら、チラッとモネを見る。
 額の痛みは既に、いつの間にか治まっていたが、何となく額を押さえたままでいるモネ。
 ナガは1度、サナのほうに視線を戻しかけるが、ふと一瞬 動きを止めてから、また モネのほうを向き、今度はジーッと、覗き込むようにモネを見つめた。
 何だろう? と、モネはナガの目を見つめ返すが、ナガが見つめているのはモネの目ではないらしく、視線はぶつからない。
 ナガは突然、モネに歩み寄り、
「ちょっと失礼」
言って、モネの顔のほうへ向けて手を伸ばす。
 サナのナガに対する態度や雰囲気から、それまでナガに対して、怖さなどを感じていなかったモネだが、いきなりのナガの行動に、さすがにちょっと構えた。
 ナガは伸ばした手で、モネの、額を押さえ続けている手をどかす。そして、
「やっぱり、これは……」
驚いた表情で呟いたかと思うと、突如、クックッと肩を揺すり、
「面白い……! 」
声をたてて笑い出した。
 モネは、
(……? )
他人の顔を見て面白いと笑うなんて、と、軽く不快感。
 ナガは笑いを引きずったまま、見てみなよ、と、サナとシイを振り返る。
 ナガにつられてサナに目をやるモネ。
 サナは、驚いた様子で立ち尽くし、モネを見つめたが、ナガと同じく、目は合わない。
 シイも、サナの隣で驚きをあらわに、
「…王族の、族印……」
呟いたきり、絶句。
 たまたまモネの視界に映りこんでいた中年男性2人は、慌てた様子で底面に平伏した。
 (? ? ? )
全く状況が掴めないモネ。
 ナガは、ジャケットの胸元の内ポケットから小さな鏡を取り出し、気取った感じの仕草と口調で、
「ご覧になられますか? 」
モネの顔へと向けた。
 何の気なくモネが覗いた鏡の中には、
(……! )
額中央に竜族の族印らしきものがある、自分の顔。驚き、
(何、これ……! どうしてっ……? )
確かめようと、鏡を見ながら、自分の額の族印らしきものに手をやるモネ。さっき痛くて押さえていた間も何の感触も無かったが、今も、特にその部分だけ脹らんでいるとか、そこだけザラつく、ベタつく、カサつく、といったようなことはない。強めに擦ってみても、消えずに周りの皮膚が赤くなるだけ。
(ヤダッ……! )
モネはショック。再び右手で額を覆い、ほぼ族印に間違いなさそうなそれを、隠して俯いた。  
 モネの視界の隅でナガが、鏡を自分へ向けて、ちょっと前髪を整えてから、元通り、胸元へ仕舞う。それから、ごく自然な流れるような動作で、モネの左手をとった。
 モネは、軽くビクッ。顔を上げ、ナガを見た。
 ナガは、フッと甘く笑って見せ、ワザとらしく気取った感じで一礼し、
「では、姫。早速、穴の外の民衆に、ご挨拶を」
 (……姫……? )
キョトンとしてしまうモネ。
(…って、私……? )
 その無言の問いに、ナガ、
「そうです。アナタです。姫」
返してから、シイに向かって、冗談な感じで偉そうに、
「シイ君、姫が民衆の前へお出になられる。この穴の底を、このまま上に移動させてくれ給へ」
 シイは驚きから立ち直った様子で、ムッとしたように、
「オレに命令すんなよ」
 やはり驚きから立ち直ったらしいサナが、ちょっと笑って、まあまあ、とシイの肩に手をのせる。
「確かに、もう 穴の中にいる必要は無いね。シイ、お願い」
 「そりゃ、もう穴ん中にいる必要は無いけどさ。何か、オレがやるのが当たり前みたいに言われると腹立つよ」
ブツブツ言い、最後に、
「特にナガなんかにっ! 」
ナガを睨んでから、シイは穴の底面に手のひらを向ける。 


 底面が、ゴゴ……と震動しながら、ゆっくりと、エレベーターのように上がっていき、穴の周りの地面と同じ高さで停まった。そこには、養生所の表にいた大勢の人々全員と思われる人数が、穴を取り囲むようにして立っていた。
 底面が停まると同時、人々の殺気立った視線がモネに集中。その殺気の理由を知った今、モネは、攻撃など受けなくとも、その大勢から発せられる憎悪だけで押し潰されるように感じた。
 と、不意に、ナガがモネの右手首を掴み、額を覆っていた手を強引に剥がした。
 (何を……っ? )
モネは驚いてナガを仰ぎつつ、族印を人に見られるのが嫌で、急いで右手を額に戻そうとする。
 が、ナガが手首を掴む手に力を込め、それを邪魔した。
 モネは負けずに、何とか手を額に持っていこうとする。
 それに対し、ナガも更に手に力を込め……、と、そうこうしている数秒の間に、まず、モネの視界の隅で、モネのほぼ真正面最前列に立っていた人々が、見るからに驚いて、後ろの人にぶつかりながら、数歩、後退り。膝を折り、地面に額をつけた。その行動は、順次、後ろへ、両側へ、伝わっていき、まるで海の潮が引いていくように、穴の外にいた全ての人々が平伏したのだった。
 異様なその光景に、
(? )
モネはナガへの抵抗をやめ、人々のほうを向く。
 モネの隣で、ナガが小さく笑いながら、
「楽しいねえ……」
呟いた。
 人々の急な態度の変化の原因が、自分にあることは何となく分かるが、……分かるからこそ、途惑い、ただ、人々を見回すモネ。
 
 

 楽しいねえ、と呟いたきり、無言で笑みを浮かべながら、暫し、人々の様子を眺めて心から楽しんでいたように見えたナガが、
「姫」
不意に、笑いを含まない真面目な感じで口を開いた。
 全く呼ばれ慣れない呼び名に、モネは反応出来ず、改めて、
「アナタです。姫」
至近距離から真っ直ぐに顔を覗き込まれながら呼ばれて初めて、
「は、はいっ? 」
自分のことだったと思い出した。
 ナガは恭しく頭を下げ、
「参りましょう」
 (……どこへ? )
 モネの無言の問いに、ナガ、顔を上げ、
「王族の長の所へ。ワタクシメが、ご案内いたします」
 (王族の長……って、確か、竜族で一番偉い、指導者的立場の人っていう……。…そんな人に会いに……? )
途惑い、意見を求めるべくサナを見るモネ。そんな自分の行動に、ハッとした。いつの間にか、自分がサナを頼りにしていたことに気づいて……。
 サナの隣でシイが、
「まあ、当然だな」
 サナも頷く。
 モネは、サナについて来て欲しいと思ってしまいながら、サナを見つめた。
 モネの気持ちに気づいてか、サナ、優しく笑って、
「僕も一緒に行くよ」 
 その一言が、サナが一緒に来てくれることが、モネには、とても心強かった。
 ナガ、シイに、
「シイも一緒に来てよ。証人は多いほうがいいから」
言ってから、穴の中に落ちてきて以降モネやサナ・シイと一緒にいた2人の中年男性にも、
「あ、君たちも頼むよ」



                                 *



 ナガを先頭に、モネ・サナ・シイ・中年男性2人は、一同が通るのに合わせて一旦身を起こし道を空けてから再度平伏す人々の間を歩いて、裏口から入って養生所内を通り抜け、養生所表側に面した道路に出た。
 右手側を気にして見ているナガ。少しして、乗合電動車両、という名前らしい、バスのような乗物がやって来た。
 ナガが手を上げると、乗合車両は停まった。
 一同は、乗合車両の左側面前側にあるドアから乗り込む。
 2人掛けの座席に挟まれた通路の板張りの床を軋ませながら車内を奥へ進み、最後部の5人掛けの座席に6人で座った。
 

 「モネ? どうしたの? 」
モネの隣に腰掛けたサナが、気遣うようにモネの顔を覗きこんだ。
 モネは、さっきナガによって剥がされた額を覆っていた手を、ナガから解放されて以降、すぐに額へと戻し、今も覆ったまま、ずっと俯いていた。サナは、それが気になったのだろう。
 モネは返答に困った。素直に言っていいものかどうか、悩んだ。族印が嫌だ、なんて…… サナにとっては、目や鼻や口と同じ、顔のパーツの1つのはず。その存在を否定するようなことを言ったら、サナがどう思うか……。
 モネが黙っていると、サナ、
「族印が気になるの? …そうだよね、今まで、無かったものだもんね……」
 理解を示そうとしてくれている、その言葉に、モネは、
「これって、消せないんですか……? 」
まだ、言うべきか言わざるべきか迷いながら、小さく返した。
 サナは言い辛そうに低く頷く。 
 それに被せるようにして、サナの向こうに座っているシイ、
「いいじゃねーか、別に」
放り出すように言う。
「人間の世界には帰れねえんだろ? だったら、族印があったほうがいいじゃねえか。……って言うか、もし、あのタイミングで族印が出てなかったら、今頃どうなってたか分かんねえぞ? 」
 モネは、確かにそうだ、と思った。人間の世界には帰れない。この竜国では、額に族印があっても誰も変な目でなど見ない。……と、言うより、ついさっきまで、族印が無かったがために大変な目に遭っていたのだ。それに、今となっては、サナやシイに族印があることが自然なことに見える。逆に、族印の無い彼らの顔など、想像出来ない。自分も、そうかも知れない。そのうち、自分の顔に族印があることが当たり前になる時がくるかも知れない。…当たり前にならなくても、受け入れなければ、と思った。消せないものは仕方ないのだから……。 
 モネは、そっと額から手を下ろし、顔を上げた。
 サナとは反対側のモネの隣で、ナガがすかさず、
「その族印、誇り高い印象をお持ちのアナタには、まるで生まれついてのもののように、よくお似合いです。神々しささえ感じられます」
甘い笑顔を見せる。
 瞬間、シイが膝を叩いて笑った。
「ナガ、お前、ホント、女を褒めることに関しちゃ天才的だな! まったく、モノは言いようだ。こんなの、族印が王族のでさえなけりゃ、ただの生意気でワガママな小娘なのにさ」
 (こんなの? 生意気でワガママな小娘? )
モネは、その部分に引っかかりを感じたが、すぐに思い出した。…さっき、まだ穴の中に隠れている時に、自分を庇ったために血を流したサナに対して自分が放った言葉……。小さくなりながら、心の中で、すみませんでした、と謝る。
 ナガ、咳払い。
 シイは溜息を1つ吐き、
「あーあ、いいよなー、王族の族印……。この先、贅沢な暮らしが約束されてるようなもんじゃん」
 シイのボヤキに、
「果たして、そんな単純なものかな……? 」 
ナガが呟いた。
 その一言に楽しげな響を感じ、モネは、ナガについて、この人って、一体どういう人なんだろう、と思った。
モネの族印を初めて目にした時、別に笑う場面でもないだろうに、面白い、と言って笑った。穴の外の人々が急に平伏した時も、楽しいねえ、などと言いながら、本当に楽しそうに眺めていた。そして、たった今も……。何だか、変なところで面白がる。ちょっと変わった性格なだけ? それとも……。
ナガの言うとおりに王族の長のもとへ向かってしまっていることについて、サナとシイも同意見ではあったが、本当にこれでいいのか、と、不安になる。…もっとも、竜国について、さっきサナから聞かされたこと以外は何も分からないモネに、選択肢は無いのだが……。
(人間の世界に帰れたらいいのに……。こんな不安な状況、ヤダ……)
 そんなモネの思考を遮るように、シイ、
「でもさ、どうして急に、族印が出たんだろうな。生まれつきじゃなくて後から出たなんて話、聞いたことねーけど、って言うか、モネって結局、人間? 竜族? 」
誰に言うでもなく、大きな独り言のように言って腕組みをし、難しい顔で考え込む。
 モネは驚いた。自分は人間だ。人間の世界に生まれて、人間として16年間生きてきた。人間じゃないなんてことは、ありえない、と思った。
 ところが、
「族印があるからには、竜族だよ」
サナが、シイの疑問にサラッと答える。
「別に、不思議なことじゃないと思うよ。竜族は、156年前まで人間と一緒の世界で暮らしてたんだ。いくら人間たちと距離をおいて生活していたとは言え、中には人間と交わりがあった人がいても、おかしくないでしょ? それに、もっとずっと大昔には、そんな距離さえおかずに生活してた。モネの先祖の中には、きっと、竜族がいたんだよ。族印は無くても、その血は世代を越えて受け継がれて、今、竜国の空気を吸って、あるいは、僕たちの能力は基本的には自分の身を守るためのものだから、危険な目に遭ったのをキッカケに、体の奥で眠っていたその血が目覚めた、とかじゃないのかな? もしかしたら、モネの意に反して竜国へ来てしまったのだって、竜族の血が竜国に呼び寄せられてのことだったのかも知れないよね? 」
 モネ以外の4人は、サナの話に、なるほど、と頷いた。
 モネは、
(…そうなの……? )
その話は、それほど説得力のあるものなのだろうか。いまひとつ納得できず、
(私って、竜族? なの……? )
1人、首を傾げた。
      
      

 乗合車両は住宅街を抜け、左折。薄紅色の花が咲く背の低い木に両側を挟まれた、ゆるやかな坂道を上って行く。
 「間もなくです。姫」
ナガが言った。
 モネの心臓が、トクン、と、1度、大きく鳴った。


 数秒後、乗合車両は、大きな門に突き当たって停車。ドアが開く。
 通路に近いシイが最初に座席から立ち上がり、通路をドア方向へ。続いて、同じく通路に近いサナが立ち上がって、モネを振り返り、モネの通り道を空けて、モネに頷く。
 モネは、サナに無言で通されるまま、サナの前を、後ろを歩くサナの気配に穏やかに、しかし強く押されるまま、ドアへと歩いた。
 サナの後ろから、ナガに順番を譲られて、ナガから証人を頼まれて共に来た中年男性2人。最後にナガ、と、その6人だけを降ろして、乗合車両はドアを閉め、右手側の空いたスペースを使ってUターンし、来た道を戻って行った。


 「王族の長・カイ様の居城です」
 ナガの言葉に、モネは大きな門を仰ぐ。木製だが頑丈そうな、モネの身長の倍の高さのある観音開きの門扉。門扉の上部と左右を白い壁が囲い、更にその上に 灰色がかった薄緑色の瓦屋根が載って、最終的にはモネの身長の3倍以上の高さになっている、立派な和風の門。門の左右から、その場から見渡せないほど遠くまで続いている塀は、石垣で造られ、その上を門と同じく白い壁・薄緑色の瓦で飾られて、高さはモネの身長の倍ほど。
(スゴイ……)
その大きさ、立派さ加減に、モネは圧倒された。まるで、昔の殿様の城。こんなスゴイ所に住んでいる人に会うのか、と、緊張し、一層、人間の世界に帰りたい気持ちが強くなった。
 「姫、参りましょう」
大きな観音開きの右側の門扉に作られた普通サイズのドアを開いたナガから声がかかった。
 ナガは、その普通サイズのドアの脇に避け、通り道を手のひらを上に向けて指し示し、モネを待っている。
 モネは、そこを、すすまない気持ちでくぐった。
すると目の前に、また坂が続き、その先に、今くぐったものよりは小さめの、しかし、やはり立派な似たような形の門が見えた。
 モネの後を、他の5人が続いて普通サイズのドアをくぐる。シイは1人、どんどん先に、ナガは、
「こちらへ」
と言ってから、モネの1歩先を振り返り振り返り、サナは気遣うようにモネの隣を歩調を合わせて、中年男性2人は遠慮してか一番後ろを、先に見えた小さめの門へと歩いた。
 小さめの門をくぐると、足下には砂利が敷きつめられ、周囲をモネの身長ほどの生垣に囲まれた、所々、石の灯篭などが置かれている、和風の庭。その向こうに、ここまで来るのにくぐってきた2つの門と同じ白い壁、灰色がかった薄緑色の瓦を使用している和風の建物。…その大きさと言ったら……、少し離れたところに建っているにもかかわらず、視界に収まりきらない。 



 建物の玄関は、小さめの門のほぼ真正面に位置していた。
大きめに突き出したヒサシの下の、無色透明のガラスがはめ込まれた木製の引き戸を、ナガが開けると、そこは広いホールだった。ツルッツルに磨き込まれた黒い石の床。高い天井からは無数のガラスが使われた直径3メートルはあるシャンデリアが2基下がり、ほんのり紫がかった上品な光を放っている。
 (……)
あまりの美しさに、モネは緊張も忘れ、思わず溜息。暫し呆然としてしまい、
「姫、中へお進み下さい」
ナガに促され、ハッと我に返った。
 重たい気分のモネと他5名がホールに入ると、たまたま通りかかった様子のモネとあまり変わらない年頃の紺色の作務衣姿の少年が、モネたちに気づいたらしく、モネたちのほうを見、足を止めた。
 ナガが、にこやかな笑顔で、
「やあ、久し振りだね。お姉さんは元気? 」
少年に向かって、ゆっくり歩き、モネを含めた他5名とは少し離れた所で、彼と何やら話す。
 ナガは楽しげに、少年は終始驚いた様子。


 数分後、話を終えたらしいナガと少年は、モネたちのほうへ来、少年が、
「こちらへ」
と、玄関から見て正面と右手側から、それぞれ奥へと続く廊下のうち、右手側の廊下へと一同を誘導。 
 廊下の手前でサナ・シイ・ナガが靴を脱いだのに倣って、モネは靴を脱ぎ、2人の中年男性も続く。
 少年は低い姿勢で素早く、しかし雑さは感じさせずに、一同それぞれのためにスリッパを用意した。それから身を起こすと、右側すぐの引き戸を開け、
「こちらで少々お待ち下さい」
一同を、その引き戸の向こうの部屋へ通すと、丁寧なお辞儀をし、去って行った。



                                   *


 
 モネたちの通された部屋は、40畳ほどの広さの板張りの床の部屋。入って正面の窓からは、ついさっき通ってきた砂利の庭が見えた。入口から比較的近い右手の壁中央には、赤い蛇に2本のツノと長いヒゲ、4本の足をつけたような生物の、大きな絵が飾られており、その手前に3畳だけ畳が敷かれている。左手の壁にも、山が噴火している、蛇の絵よりも更に大きな絵が飾られていた。
 そこで庭を眺めるなどして待つこと20分弱だろうか、お待たせしました、と、先程の少年。少年は部屋に入ると、一旦、入口から横へ避け、入口のほうを向いて深く頭を下げた姿勢。 
 ややして入口から、茶色のカチッとしたベストとズボン、白のワイシャツにネクタイまで締めた堅苦しい身なりの、ナガと同じくらいの年齢と思われる気難しそうな男性が現れ、真っ直ぐに、モネに向かって歩いて来た。 
 少年はモネたちのほうへと体の向きを変え、そのまま入口横に正座。
 気難しそうな男性は、モネの1メートルくらい手前で足を止め、モネの頭の先から爪先までを、なめ回すように見た。
 モネは極度の緊張から固まる。  
(…この人が、王族の、長……? )
想像より、随分と若い。もっと、歳の多い人を想像していた。
 ナガがモネのすぐ隣で、 
「侍従長のムタ君です」
モネ向けに、しかし、気のせいかも知れないが、気難しそうな男性に向けてのものと思える、ふざけた感じの挑発的とも受け取れる口調で、男性を紹介。
 ああ、王族の長じゃなかったんだ、……そうだよね、こんな若い人。と、モネは、ほんの少しだけ力が抜けかけるが、モネの感じたナガの言葉の挑発的な雰囲気は気のせいではなかったらしく、ムタ、と紹介された気難しそうな男性は、目だけでキロッとナガを睨んだ。その視線の鋭さに、モネは、今度は恐れをなして石化。
 ムタは入口横の少年を振り返り、
「こちらのお方か? 」
モネをアゴで指す。
 少年が、はい、と答えた。
 ムタはモネに向き直り、ふーん、と言いながら、また、頭の先から爪先までをなめ回すように見、淡々とした口調で、
「大体の話はうちの者から聞きましたが、とりあえず」
そこまでで一旦、言葉を切り、
「試させていただきましょう」
言うが早いか、右手のひらをモネに向けて突き出した。そこから、ゴオッという音と共に、大きく勢いのある炎。
 (! )
50センチメートルあるか無いかの距離からモネに向かって噴出したそれの、直撃を受けようという瞬間、モネは、反射的に自分の顔を両腕でガードするような格好で縮こまり、ギュッと目をつむる。
「ムタっ! 何をっ……? 」
サナの叫び声が聞こえた。
熱さで、息が上手く出来ない。 
「大丈夫だよ。だって、王族だから」
ナガの気楽な声。
 サナが、それはそうだけど、と、オロオロした感じで返す。
(…大丈夫……? )
ナガの気楽さに、他人事だと思って、と、モネは腹が立った。本気で熱いんだけど! と。しかし、心の中でそう怒鳴りながら、ふと気づいた。
(…熱い……? 炎の直撃を受けて、熱い、で済んでる……? )
モネは、恐る恐る目を開けた。見れば、炎はモネの寸前でモネを避けるように分かれ、モネの両脇へと流れている。 
 直後、モネの周りの炎は、フッと消えた。
 サナが駆け寄って来、大丈夫? と、モネの顔を覗き込んだ。
 モネは自分の体を見おろし、
(もう熱くないし、どこも何ともない。…でも、どうして……? )
首を傾げる。
 ムタは姿勢を正し、目を伏せる程度のお辞儀をしてから、真っ直ぐにモネを見、何の感情も込められていない感じの声で、
「手荒な真似をして、申し訳ありませんでした」
謝ったが、その目は謝ってなどいない。冷たい目。
 冷視線に晒されてモネは居心地が悪く、俯き加減でチラチラと盗み見るようにムタに視線を返す。
 ムタが、
「あなたが本物の王族であると証明されましたので、カイ様をお呼びいたします」
やはり無感情に言った、その時、
「もう、来てるよ」
入口のほうで声。入口から、赤いジャージ、のような、ちょっと違うような、とにかく運動する際に着そうな上下に身を包んだ、ナガやムタと同じ年頃の、やや小柄な男性が、モネたちのほうを覗いていた。
 入口横に座っていた少年が、慌てて入口方向へと体の向きを変え、頭を下げる。
 ムタが入口を頭だけで振り返り、
「カイ様……」
呟いて、体ごと入口を向き、深く頭を下げた。
 (この人が……) 
どうやら、入口に立っている赤ジャージの男性が、王族の長・カイらしい。またしてもモネの想像とは違う。
(…お爺ちゃんじゃないんだ……)
 サナ・シイ・ナガも、ムタと同様、カイに向かって頭を下げ、中年男性2人は床に平伏す。
 入口横の少年は、カイが入口を入り自分の前を通り過ぎるのを待って立ち上がり、慌しい様子で部屋を出、ほんの数秒後、偉いお坊さんが座りそうな大判の分厚い座布団を抱えて戻って来た。 
 カイは、足の生えた蛇の絵の前まで、ゆっくり真っ直ぐに進み、畳の上に上がって足を止め、部屋の中心を向いた。
 座布団を抱えた少年はカイに駆け寄り、膝をついて、カイの足下に素早く、しかし丁寧な感じで座布団を置く。
 カイは一度、少年をしっかり見つめ、短く、
「ありがと」
言ってから、ヨッコラショ、と、座布団の上にあぐらを掻いた。
 少年はカイに一礼してから入口横へと戻り、元のように正座。ムタはカイのすぐ隣に移動し、畳に片膝をついて頭を垂れた。サナ・シイ・ナガは、入口方向からカイへと微妙に体の向きを修正しつつ、床に片膝をついて頭を垂れ、中年男性2人もカイのほうへ向きを変えて平伏し直す。
 カイ、ムタに何やら耳打ち。
 ムタは頷き、カイに、ごく浅く頭を下げてから立ち上がり、部屋を出て行った。
 カイは、モネをジッと見ている。
 モネは、どうしていいか分からなかった。モネ以外は全員、カイに対して、かなりかしこまった態度をとっている。だが、それぞれかしこまり方の度合いが違い、誰に合わせてよいのか分からないのだ。
(どうしよう……)
モネはサナに目をやるが、サナはカイのほうに体を向け、しかも頭を垂れていて、モネの視線には気づきそうにない。
(ここから逃げたい……。帰りたい……)
 泣きたいくらい困り果てるモネに、カイ、
「オレは王族の長で、カイという。お前は? 」
 モネは、とりあえず自分のとるべき行動が決まり、少しホッとする。とりあえず、質問に答えればいい。
「吉川、モネといいます」
 カイは目を細め、頷く。
「そうか、モネか……」
それから、入口横の少年に向かって、
「モネにも座布団を」
 その言葉を受け、少年は部屋を出、数秒後、普通サイズの座布団を手に戻ってくると、畳の敷かれた場所より、ほんの少し手前、カイの真正面にあたる位置に置き、その横の床に正座して、モネを見た。
 カイ、
「まあ、座ってくれ」
 勧められるまま、モネは座布団へと歩き、スリッパを脱いで、その上に正座。
 モネが座るのを待っていたらしく、少年は入口横へ戻る。
 カイは自分の両膝に両肘をついた姿勢で、貫禄たっぷりの笑みを浮かべ、
「よく来たな、歓迎する。王族は、この城で暮らす決まりだ。仲良くしよう」
 (私が、ここで……? )
人間の世界に帰れない以上、この国のどこかで暮らすのは当たり前だと分かってる。だが、
(ここ……? )
とても場違いな感じがし、途惑うモネ。 
 しかし、決まりであるため、モネの気持ちなど聞く必要は無いらしい。傍目にもおそらくハッキリ途惑っているモネのことを気にも留めていない様子で、カイは視線をサナに移し、次にシイ・ナガ・中年男性2人、と、1人ずつ順に視線を送りつつ、
「モネを連れて来てくれたこと、感謝する。別室に茶の用意がある。時間があるのなら一服していってくれ。ご苦労だった」
 その言葉に対し、サナ・シイ・ナガは深く頭を下げ、中年男性2人は額を1度床につけてから、それぞれ立ち上がった。
 モネは焦った。
(行っちゃうのっ? )
 モネは、自分の後ろを通り過ぎて行こうとしているサナを振り返り、白衣の裾を掴む。頭で何か考えるより早く、体が勝手に動いていた。……心細い。一緒に、いて欲しい。
「モネ……? 」  
サナは足を止め、しゃがんでモネと視線の高さを合わせて、気遣うように、
「どうしたの? 」
 (帰らないで。一緒にいて……)
……出かかった言葉を、モネは飲み込んだ。かしこまった態度をとらなければならないような相手から、帰るよう言われたのだ。帰らないで、なんて、きっと無理。
 サナは少し困ったような笑みを浮かべ、モネを見つめている。
 モネは、今の時点で既に自分がサナを困らせているのだと知った。
(でも、あと少し……)
モネは、掴んだ白衣の裾を更に強く握り、俯いた。あと少しでいいから、傍にいてほしい……。何か、サナを引き止める いい口実がないかと考える。そして、
「診察して」
モネがサナの養生所で目覚めたばかりの時、倒れてたからには何かあるはずだから、もう1度ちゃんと診せて、と言われたきり、まだ診察してもらっていないと思い出して、縋るような思いでサナを見つめ、言った。
 サナは、分かった、と、優しく笑って頷き、
「でも、今は診察するための道具を持ってないから、また後で来るね」
そう約束し、他の4人と一緒に部屋を出て行った。
 (…行っちゃった……)
心細く、サナの背中を見送るモネ。
 カイが立ち上がり、口を開く。
「今、部屋を用意させている。用意が出来るまで、庭でも案内しよう」
と、そこへ、ムタがやって来、カイに一礼してから歩み寄り、耳打ち。
 カイは頷いてから、モネに、
「悪いな。用事が出来た。その辺を自由に散策していてくれていい」
言い残して、部屋を出て行った。
 ムタがすぐ後に続き、入口横の少年も、カイが座っていた座布団を抱え、出て行く。
 モネは1人、ポツンと取り残された。 
 自由に散策していいと言われても、まったく勝手の分からない城の中。また、気分的にもそんな気になれず、モネは、さっきからいる、この板張りの部屋から1歩も出ずに、1人、窓の外に見える砂利の庭をぼんやりと眺めて時間を過ごした。



                                  *



 どのくらい時間が経ったのか……。辺りがあまりに静かで、とても長い時間が経ったような、でも、実際には大したことないような……。何だかモネは、時間の感覚を無くしていた。
 「モネ様」
 背後から声がかかり、モネは振り返る。と、入口に、桃色の作務衣を着、長い髪をスッキリと後ろで1つに束ねた、20代半ばくらいのホワンと柔和な雰囲気を持つ美しい女性が正座していた。
 女性は1度、頭を下げてから部屋に入り、モネの前まで歩いてくると、もう1度、丁寧にお辞儀をして、
「初めまして、私はコリと申します。本日より、モネ様の身の回りのお世話を担当させていただくことになりました。よろしくお願いいたします」
自然で柔らかな笑顔をモネに向ける。
 (モネ『様』って……)
何だか、すごく違和感のある呼ばれ方。しかし、その笑顔は綺麗で……、そして、何となく安心出来るものを感じた。城の中では、この、コリという女性を頼ればいいのだと分かったこともあり、モネは、気持ちがスウッと楽になった。 
 モネが少々照れながら、
「あ……、あの、こちらこそ、ヨロシクお願いします」
挨拶を返すと、コリは、笑みで柔らかく受け止め、
「お部屋の用意が整いましたので、ご案内いたします」



 コリに導かれ、モネは廊下をホールのほうへ。ホールに出る手前でスリッパから自分の靴に履き替える。さっき特に意識しないで脱いだままだったはずの靴は、キチンと揃えて置かれていた。1度ホールに出てから、玄関から見て正面に位置する廊下を奥へと進んで行く。左手の窓から、薄紅色の花の咲く背の低い木がたくさん植えられた庭園が見えた。左手の窓が途切れると、玄関ホールをそのまま小さくしたようなスペースが現れた。そのスペースの奥、引き戸の出入口を通り、庭園に出る。
 右手に大きな池を見ながら、庭園の小道をコリに案内されて進むモネ。やがて、行く手に、藁のようなもので出来た高さ1メートルほどの低い塀と、木の皮の屋根とスルスルに磨いた木の柱で作られた門、その向こうに、自然の材料の美しさを大切にしていると思われる趣のある純和風の家が見えた。
門をくぐると、すぐのところに手水鉢や石灯籠などが置かれ、敷石が玄関へと続いている。
 やはりコリが先に立ち、敷石の上を歩いて玄関へ。 
 コリは玄関を開け、
「こちらの離れを、ご自由にお使い下さい」


 コリに言われて靴を脱いでから、モネは、玄関を入ってすぐの50センチほどの段差を上がる。
板張りの広縁が左手に向かって続いているのが見え、正面を塞ぐ障子がコリの手で開けられると、14畳の畳の部屋。  
 「上着をお預かりいたします」
 コリの言葉を受け、ブレザーを脱いでコリに手渡してから、モネは、目の前の14畳の部屋に足を踏み入れた。
部屋の中央に上品な黒の低いテーブルが置かれ、その上には、庭園の低い木の薄紅の花が1輪活けられていた。その部屋の奥の部屋と左の部屋も畳の部屋で、襖で仕切られているだけで その3部屋は、襖を外せば1つの部屋としても使えそうな感じだ。左奥にある残りの1部屋だけが他の部屋とは壁で仕切られているためと玄関から見て一番奥にあることから、コリは、その部屋を寝室として使われてはいかがでしょう、と薦めた。特に考えの無いモネは頷く。
 (…広い部屋……)
モネは、玄関正面の部屋と左の部屋の間の襖を開けた境に立ち、部屋を見回す。畳があったりして親しみを感じるのも確かだが、何しろ広すぎて、静かすぎて、落ち着くような落ち着かないような……。こんな広い部屋を1人で使ってしまって本当にいいのだろうか……。そんなふうに思い、口に出すと、コリは、ちょっと笑って、
「もちろんでございます。この離れはカイ様が大変お気に入りで、おひとりでゆっくりとお寛ぎになられる際にご使用になられているのですが、モネ様のお部屋をご用意するにあたって、是非、モネ様にご使用いただきたいとおっしゃられたのです」
 それを聞き、モネは余計に恐縮した。
(大変お気に入り、って……)
 と、その時、
「ごめん下さい」
玄関のほうで女性の声。
 それを受け、コリ、
「いらしたようですね」
玄関へ行こうとする。
 モネは、
(? )
 コリ、モネが無言の問いかけをしたのに気づいたらしく、一旦、足を止めてモネを見、
「申し訳ございません。まだお伝えしておりませんでしたが、30日後の夜に、モネ様のお披露目の宴が開かれることになりまして……。その際に ご着用いただくドレスを仕立てて下さる業者の方が、おみえになったのです」
説明してから、今度こそ玄関へ。
 (宴っ? ドレスッ? )
あまりの世界の違いに何の反応も出来ずに、モネはコリを見送った。


 仕立て業者は、お揃いの濃紺の制服をキチッと着こなした3人組の中年女性だった。
 モネは、膨大な量のカタログを見せられ、コリのアドバイスを受けながら……というよりは、ほとんどコリの意見に流されながら、遠慮しながら、袖とスカート部分がフワリとふくらんだTHEプリンセスといったデザインで光沢のある水色の、胸元とスカートの裾にビーズで細かな装飾の施された豪華なドレスを選んだ。それから、3人組の業者に囲まれ、コリに見守られて採寸。
 4人もの人が自分だけのために、ちょっと声を掛けることさえ躊躇われるくらい、あれやこれやと傍で忙しなく動き回っている状況。モネは、今までに経験の無いこの状況に、途惑いと少しの居心地の悪さを感じながら、動き回る4人に完全に流されるままに採寸を終える。
 採寸を終え、今日のところは、と、帰る業者を、コリは玄関まで見送りに出、そのコリが戻って来たところで、モネは、気疲れから、つい大きく息を吐いてしまった。
 コリ、気遣うように、
「お疲れになられましたか? 今、お茶をご用意いたします」
 他人が淹れてくれた茶を、淹れてくれたその人にすぐ傍で見守られながら自分だけが飲む、という状況も、何だか……。
(コリさんも一緒に飲めたらいいのに……。…ダメ、なのかな……)
コリが淹れてくれた茶をすすりながら、モネは時々、部屋入口の閉じた障子近くに正座しているコリに目をやった。 
 モネと目が合うと、コリは、その度に、にっこり微笑んで返す。


 玄関が開く音。続いて数秒後、
「モネ、いるか? 開けるぞ? 」
障子の向こうでカイの声。
 直後、障子が開き、カイが姿を現した。
 コリは障子のほうを向き、頭を下げる。
 カイは、モネを真っ直ぐに見下ろし、
「モネ、ちょっと一緒に来れるか? 」



 モネがカイの後について外に出ると、空は、ほんのり赤みを帯びていた。 
 庭園の小道をただ黙って早歩きするカイを、モネは小走りで追い、離れに対して母屋、とでも呼べばいいのか、ナガに案内されて城の敷地内に入って初めに足を踏み入れた建物の、さっき、コリと一緒に出てきた出入口を入る。
 出入口を入って廊下を左。すぐに右に折れ曲がって奥へ。途中で靴を脱ぎ、靴下で歩く。階段を上り、2階を経て3階まで上って、カイは初めて足を止め、モネを振り返った。
 そこは、8畳ほどの板張りの部屋。四方の壁それぞれに大きな窓があり、カイの向こう、階段を上って丁度正面の窓からは、熟したトマトのような夕陽が水平線に沈んでいこうとしているのが遠くに見えた。
 もっと窓の近くで見ればいい、と、カイに勧められ、モネは、夕陽が見える正面の窓に近づく。眼下に広がるのは、無数の窓明かり。夕陽の赤と、きらめく窓明かり……それはまるで、宝石箱をひっくり返したよう……。
 「ここは眺望の間だ。どうだ、キレイだろう? 」
カイの言葉に、モネは、
(キレイ……)
思わず溜息を吐きながら、ただ、頷く。 
 カイが、モネの隣に移動してきて外を眺めながら、眼下の家々の窓から見える明かりについて、かなり誇らしげに説明を始めた。…あれは、電灯 という物による明かりだ、と。風を操る能力を持つ種族・風族(ふうぞく)の能力を生かして作り出された、電気という物によって、光っているのだ。その電気を作り出す装置は、竜国最大の発明だ。電気のおかげで暮らしがとても便利になった。今や、電灯の一般家庭への普及率は100パーセント。城へ来るのに、乗合電動車両に乗ったのだろう? その動力も、電気だ。こんな素晴らしい発明が出来る竜族も、その竜族を育んだ竜国も、本当に素晴らしい……と。
 語っているうちに、カイの語調は興奮気味になってくる。目もキラキラ。ああ、この人は竜国が(もしくは電気が)大好きなんだな、と、モネは思った

 一通りお国自慢を終えると、カイは小さく息を吐き、自慢話をしている時に比べ、やや声のトーンを落として、真面目な感じで、
「人間の世界に、帰りたいか? 」
唐突な質問。
 モネは考えてしまう。
(…私、帰りたいのかな……? )
と。帰りたい理由が見当たらない。確かに、この竜国に来て以降、何度か、帰りたい、帰れたらいいのに、と思った。ただ、それは、怖かったり不安だったり、どうしていいか分からなかったりした時で、人間の世界にいたって同じことを思う状況になることはある。…どこか、別の場所に逃げたい、と……。今、自分が竜国にいるから、逃げる場所として、竜国に比べればかなり勝手知ったる、人間の世界を思い浮かべただけのような気がする。 今だって、不安は不安だ。この先、竜国で生きていく上で、何が自分を待ち受けているのか、自分がどのように生きていくのか、全く先が見えない。 しかし、それこそ、人間の世界にいたって同じことだと思う。これまで、流されるままに生きてきたから考えたことも無かったが、きっと、流されずに踏みとどまって辺りを見回してしまっていたら、人間の世界にいたって、同じ不安を持っていた。場所こそ変わったが、これからも流されればいいのだと思う。部屋は与えられた。あれだけ豪華なドレスを作ってもらえるくらいだから、普段着の着替えも多分手に入る。疲れたように見える態度をとることで茶を淹れてもらえるのだから、腹が空いた態度をとれば、あるいは、お披露目の宴など形式ばった世界のようだから決まった時間がくれば、食事もちゃんともらえるだろう。幸い、衣食住に困らない流れに乗れているようだ。身を任せて生きていけば、時間は勝手に過ぎていく。……大体、帰れないのに、帰りたいかどうかなんて考えたって仕方ない。意味が無い。 
 モネは、頭の中でたった今、1人であれこれ考えては消えていった内容の中から、カイの質問の答えになる部分、
「帰れないのに、帰りたいかどうかなんて考えたって、仕方ないです」
だけを選んで返す。
 と、カイは頷きながら、
「それは、そうだな」
少し気遣うような様子を見せ、
「竜国は、いい国だ。便利な分、自然だけは人間の世界に負けるかも知れないが、これ以上、自然を壊さないよう、配慮をしている。モネも、きっと気に入ってくれると思う」
 (…… )
モネは、もしかしたらカイが、人間の世界に帰れないモネが落ち込んでいるのではと思いやり、こんなふうに誘い出してくれたのかな、などと、少し思ってから、カイが発した、気に入る、という言葉から、ふと思い出した。自分に与えられた離れのこと。カイが大変気に入っている部屋であると聞いたことを。そこで、本当に自分が使っていいのか、直接本人に確かめてみようと、
「カイ様」
口を開く。
 すると、カイはちょっと笑って、
「同じ王族だ。様、なんてつけなくていい」
 それを受け、モネ、
「カイ……さん」
言い直し、
「ん? 何だ」
とのカイの返事を待ってから、離れのことについて聞いた。
 カイは、遠い目で窓の向こうを見ながら、溜息まじりに、
「そう、気に入ってたのになあ……」
呟いて、しかし、モネがその言葉を気にするより先に、
「けど、仕方ないな。気にするな。オレが言い出したことだ。それに、悪いのは」
そこまではあっさりと、以降、ちょっと怒ったように、ふくれっ面になって、
「ムタだ! 」
 モネは、これまで、カイについて、良い意味で、国で一番偉い人に相応しい威厳というか、余裕のようなものを感じていた。だが、このふくれっ面は、かなり子供っぽい。
 「オレ本当は、モネと、この母屋で一緒に暮らしたかったのに、ムタのヤツ、『どう考えても遠い血の繋がりしかない未婚の男女が、ほぼ2人きりに近い状態で、夜をひとつ屋根の下で過ごすものではありません』なんて言い出して、モネを山の離宮に……どんなに急いでも、ここから2時間はかかるんだけどさ、そこに住まわせる、とか言うんだ」
不貞腐ってブツブツ言うカイの横顔。本当に子供みたいだ、と、モネは、何となく親近感。
「だから、ひとつ屋根の下じゃなきゃいいなら、ってことで、離れならどうか、って言ったんだ」
 モネは、別に離宮でもよかったのに、と思った。そんな、自分のために無理に気に入っていた部屋を明け渡したようなことを言われては、気兼ねしてしまう。この後、離れに戻る時に、カイにどんな顔を見せてから戻ればいいのかさえ、分からなくなってしまう。 
 モネがそう言うと、カイ、
「そんな寂しいこと言うなよ……」
肩をちょっと竦めて見せた。それから、体ごと、モネの真正面を向き、真剣な表情でモネの目の奥を見つめて、
「本当に気にしなくていい。…オレが、モネに傍にいて欲しかっただけだから……」
 モネは、ドキッ。
(…それって……? )
思わず、カイの目を見つめ返す。
 が、
「竜国は建国以来、どんどん人口が増え続けて、ついこの間、1千万人を突破したんだが、どうしたワケか、王族だけは減り続けて、一昨々年うちのオヤジが死んじまってから、今日モネが来てくれるまでの間、オレ1人だけだったんだ」
 (…なんだ、それだけのこと……)
モネは、ガックリと力が抜けた。寂しかっただけか、と。そこへ、
「モネ様」
階段のほうから声がかかり、振り返ると、コリが階段を上りきったところで正座し、頭を下げていた。
 コリは顔を上げ、
「サナ先生がいらっしゃいました。離れでお待ちです」
 モネは、ちょっと途惑った。まだ、カイとの話が途中な感じがする。どうしようか、と、カイを仰ぐと、カイ、
「モネが呼んだんだろう? 行っていい」 
その表情が少し寂しげに見えて、モネは、行くのを躊躇われた。たった今、モネは、今まで同じ王族がいなかったカイの寂しさを、だけ、と思ったが、実際に寂しそうな顔を目にすると、寂しいという気持ちは、他人が勝手に程度を判断して、だけ、などと言ってしまっていいものじゃないと感じられた。
 コリが立ち上がり、
「モネ様、参りましょう」
促す。
 モネはカイを気にしつつ、カイに背を向け、階段を下りた。



                                  *



 「お待たせいたしました」
コリは、離れの玄関を開けてモネを通し、モネの靴を脱ぐ世話を焼いてから、自分も素早くツッカケを脱ぎ、モネの前を塞がないよう微妙に横に避けつつ玄関を入って正面の障子を開け、中に向かって頭を下げる。
 部屋の中で、サナが、飲んでいた茶を黒テーブルに置き、モネのほうを向いた。
 「モネ」
サナは立ち上がり、モネを真っ直ぐに見つめて微笑む。
 モネの胸がキュウッとなった。…顔を見ただけで……。サナの顔を見ただけで、何故か、泣けてきた。
 モネは、
(…どうして……)
そんな自分に途惑いながら考える。……涙の、理由について。悲しくないから、嬉し泣き……? …会いたかった、のかな……? 会いたかった理由は分からないけれど、きっと、とても会いたかったから? サナさんに会いたくて、会えたから嬉しくて? …もう心細くなんかないのに……? …多分……。うん、多分、そうだ……。考えている間にも、ポロポロと、次から次へと涙がこぼれ落ちる。
 サナは、うろたえた様子でモネに歩み寄って来、
「どうしたの? 」
顔を覗きこんだ。
 モネは、ただ、首を横に振る。
(どうも、しないけど……)
涙が止まらない。
(どうもしてない、はずなんだけど……)
 サナが、モネの肩を抱く形に腕を回した。
 モネは、ビクッ。反射的な感じで涙が止まった。代わりに、胸がドクンドクンと強く脈打つ。
 サナが、肩に回した腕で、そっとモネを部屋の中へと押し、
「とにかく、座って。落ち着いて話してごらん? 」
 体中が、変に熱い。足下がフワフワする。モネは、サナに導かれるまま、フワフワする足で歩き、たった今までサナが座っていた座布団に座った。
 「コリさん、モネにもお茶をお願いできますか? 」
言ってから、サナも、モネのすぐ傍の畳の上に腰を下ろした。
 コリが、片手に茶を、もう一方の手に座布団を持って来、座布団を畳に置いてサナに座布団を勧め、サナがありがとうございます、と言って座るのを待ってから、空いた手を茶を持つ手に添え、両手でモネに茶を手渡す。
 モネは、ゆっくり口に含んで、とのサナの言葉に従い、サナに見守られながら、茶を飲み干す。動悸も、体の火照りも、少し落ち着いた。
 (私、おかしい……)
モネは小さく息を吐く。
 サナ、気遣うようにモネを窺い、
「落ち着いた? 」
 モネは頷く。
 「何が、あったの? 」
心配げなサナの問いに、モネは困った。
(本当に、別に、何も無いんだけど……)
泣いた理由なら……。
(サナさんに会いたくて、会えたから、嬉しくて……? そんな感じ……? 会いたかった理由は、分からないけど……)
それをそのまま口にしようとして、モネは、ハッとした。まるで、愛の告白みたいだ、と。
(私、サナさんのこと、好き、なの……? )
それなら、さっきの動悸と火照りも説明がつく。モネは、出かかっていた言葉を飲み込んだ。突然そんなことを言い出したりしたら、サナさんがどう思うだろう、と考えたのだ。優しいサナさんのことだから、この場では何も、顔にも言葉にも出さなくても、心の中では、うっとおしいと思うかもしれない。気持ち悪いとさえ思うかも知れない。そして、避けられるようになってしまうかも……と。そんなのは嫌だ。
 モネは、もう1度小さく息を吐いてから、首を横に振る。
「大丈夫。何も、ないです」
 サナ、まだ心配な感じを残して、
「そう? それならいいんだけど……」
言って、ちょっと間を置いてから、作ったような笑顔で、
「じゃあ、診察しようか」
黒テーブルの下から大きめのカバンを引っ張り出し、その中から聴診器を出した。
 そこで、モネは初めて思い出す。サナに来てもらうのに、診察、という口実を使ったことを……。 
 聴診器を出して、診察しよう、と言うからには……。モネは固まってしまいながら、サナの 聴診器を持つ手を見つめた。
 サナは、事も無げに、
「胸の音を聴くから、脱いで」
 (やっぱり? )
モネは、酷く後悔した。医者だと思えば性別は関係ないのだが、一度 男性として意識してしまったら、もうダメだ。…恥ずかしい……。 しかし、自分から頼んでしまったのだから仕方ない。モネは、ブラウスのボタンをはずそうとする。が、手が震えて上手くいかない。見かねたのか、コリが、ボタンをはずし、腕から袖を抜いてブラウスを体から取り去るところまで手伝ってくれた。


 冷たい聴診器がモネの肌に触れる。 
 サナは真剣な表情。
 男の人は、やっぱ仕事をしている時が一番カッコイイ、などと、冷静に仕事中のサナの姿を楽しむモネと、好意を寄せる男性の前で肌をさらし聴診器越しとは言え肌に触れられているこの状況に、恥ずかしくてそれどころではないモネが、モネの体を奪い合っていた。 
 胸、腹、背中……。サナが聴診器の位置を変えるたび、モネは体中が、ムズッ、ムズッと、軽く痺れる。それが、次第に快感になっていった。
 そして、
「はい、おしまい。いいよ、服着て」
との声がサナから掛かった時には、もう、モネは完全に快感に身を委ねて恍惚としてしまっていて、その声で、ハッと我に返る。
(…ヤダ、私……)
そんな自分がすごく恥ずかしくて、モネは、大急ぎでブラウスに袖を通し、前を両手でギュッと掴んで合わせ、俯いた。
 しかしサナは、モネの態度を何とも思わなかったのか、そもそも気づかなかったのか、ごく普通に、
「脈が少し速めな感じがするけど、心配ないよ。今日、バタバタと色々あった中で、こうして、今の時点でこれだけ元気なんだから、大丈夫」
そう太鼓判を押し、もしまた何かあったら呼んでくれていいから、と言い置いて、カバンに聴診器をしまい、カバンを手に立ち上がる。
 (もう、行っちゃうの? )
慌ててサナを見上げるモネの視線に、サナはニッコリと余裕のある笑みで応えた。


 玄関へと歩くサナの後を、コリが、見送るためついて行く。
 サナとコリの姿が、モネの視界から消えた。玄関の開く音。
「ありがとうございました」
コリの声。玄関の閉まる音。
 モネの胸がキュウッとなる。たまらず、モネは、ブラウスのボタンをはめるのもそこそこに、部屋へと戻ってこようとしていたコリと入れかわりに外に飛び出した。

 外は、すっかり暗い。外灯とボンヤリした月明かりに照らし出されたサナの姿は、もう遠い。
 (今度は、いつ会えるのかな……)
モネは、小さくなっていくサナの背中を、見えなくなるまで見送った。



                                   *


 
 サナを見送った後、離れの中に戻った特にやることの無いモネは、広縁に立ち、外に面した障子を開け、窓ガラスに映る自分の顔を何となく眺めていた。 
(ホントに、今日は何だか、色々あったな……)
人間の世界の家を普通に出掛け、普通に学校に行き、その帰りに地震に遭った、人間の世界で過ごした最後の日が何日前なのか分からないが、きっと、それほど前ではない。サナの養生所で目覚めてから、今、これまでの出来事は、間違いなく、たった1日にも満たない間の出来事だ。……考えてみれば、短い間にすごい変化。人間の世界の普通の高校生が、突然、竜族の暮らす、この竜国に来て、敵視され攻撃されて、そうかと思えば、いきなり自分も竜族なのだと言われ、しかも、王族の姫として、今は、こんな立派な城の中で、様づけで呼ばれて過ごしている……。
(私、何で こんなに落ち着いてるんだろ……)
初めは、様づけで呼ばれることにも違和感があった。自分では何も動かずに周りの人が自分のために動くことを居心地悪く感じた。城にいること自体、申し訳なさに近い感情を覚えた。それが、たった数時間で、何だか当たり前になってきている。
(…こんなものなのかな……? )
モネは、指でそっと、額の族印に触れた。
(これだって、何時間か前には無かった……)
 と、そこへ、少し前に、ちょっと失礼いたします、と言って どこかへ行っていたコリが戻って来、
「モネ様、カイ様がこちらの離れで夕食をご一緒されたいとおっしゃっておいでですが、いかがいたしましょう? 」
 その問いに、先程のカイの寂しげな表情が気にかかっていたモネは、
「あ、はい。是非……」

 

 モネの返事を受けたコリが、再び少しの間どこかへ行って戻って来、
「間もなく夕食です」
まだ広縁でボンヤリしていたモネに声を掛け、黒テーブルのある部屋へ入るよう言う。


 コリはキビキビと、黒テーブルの部屋に座布団を2枚、テーブルを挟んで向かい合う形に置きなおし、うち1枚をモネに勧めて、モネが座るのを待ってから、自分は入口の障子前の定位置らしい場所に正座。
 コリが座った直後、
「邪魔するぞ? 」
声とともに障子が開き、カイが入ってきて、空いているほうの座布団に腰を下ろすなり、
「まったく、ムタはうるさくてかなわない」
溜息まじりの言葉を吐き出す。聞けば、ムタにモネと夕食をとることを反対されたのだと言う。だが、反対の理由がいまひとつ理解出来なかったため、押し切って来たのだ、と。 
 そこへ、
「失礼します」
紺色の作務衣の男性2人が、料理を盆に載せて運んで来、テーブル上、モネとカイそれぞれの前に並べ、部屋を出て行った。
 テーブルの上に並べられたメニューは、体長25センチくらいの1人分としては少し大きいのではと思われる真鯛に似た魚の塩焼きと、大きな二枚貝のすまし汁。それから小さな碗に入った無色透明の液体。
 竜国はメシも美味いぞ、と、自慢げに一言言ってから、カイは行儀よく手を合わせ、
「いただきます」
 モネは、それを真似、同じように手を合わせ、
「いただきます」
続いて、やはりカイを真似て、小さな碗の液体に口をつける。と、鼻から入って脳の中までフワッと広がり、酔わせる、その匂い。
(…お酒……? )
 モネが飲まずにいると、カイ、
「モネは、酒がダメか? 」
 (ダメって言うか……)
1度も飲んだことが無い。未成年なのだから、当然だ。この国には、未成年が酒を飲んではいけないという法律は無いのだろうか? 途惑うモネ。
 カイは、ちょっと笑って、
「無理して飲むことはない」
言ってから、コリに向かい、
「モネに、茶を」
そして、コリがモネに茶を持ってくるのを待ってから、
「じゃ、これはオレがもらうよ」
モネが手にしていた碗を取り上げ、いっきに飲み干した。
 2人分飲んだためか少々赤みを帯びた顔のカイは、魚に箸をつけ、時々、すまし汁をすする。
 マナー違反を恐れて、モネは、それを見事に倣った。
 

 料理は美味しい。しかし、モネにとっては、どうしてもあと1つ、足りないものがあった。……ご飯だ。ご飯が無ければ、うどんか蕎麦などの和風の麺類か、メニューには合わないが、洋風麺類やパンでもいい。とにかく、何か主食になるものが食べたかった。もしかしたら、主食抜きの食生活が この国の習慣なのでは、と心配になる。この先、ずっとご飯を食べられないのでは、と。
 だが、いらない心配だった。魚とすまし汁を食べ終えようという頃、再び、
「失礼します」
と、さっきと同じ作務衣姿の男性2人が、新たな料理を載せた盆を手に入って来た。 その上には、細長い魚の煮物、野菜の煮物、ゼンマイのようなものの煮付、カブの味噌汁と一緒に、白く輝くご飯。
 モネはホッとし、やはりまた、カイと同じ順序で箸をつけていく。



                                  *



 大満足で夕食を終えたモネは、カイが母屋に戻りがてら母屋の中にある風呂へと案内してくれると言うので、庭園の小道をついて行った。
 すぐに入浴出来るよう準備をするため、コリが一足先に走って行った。
 母屋へ向かって歩きながら、カイは、風呂についての自慢。……竜国の全世帯で、風呂は、地下から湧き出る天然の湯を引いてきて利用しており、その湯に浸かると疲れがとれるのだ、と。
 (それって、温泉、ってこと? )
自宅に温泉があるなんてスゴイ、と、モネは感心し、楽しみにしながら、カイに続いて母屋の庭園側入口を入る。
 と、そこに、ムタが、何をするでもなく静かに、ただ立っていた。
 ムタは、頭を下げてカイが通り過ぎるのを待ってから、顔を上げて、モネに、ギロッと、冷たく力のこもった視線を浴びせかける。
 その迫力に、
(…… )
モネは固まり、足が止まった。
 「モネ」
先に行ってしまったカイに離れたところから呼ばれ、モネはハッとし、逃げるようにカイのところへ走り、追いついてから、大きく息を吐く。…怖かった……。
(ムタさんって、もしかして、私のこと、嫌い……? )
モネは、ムタの、他の人たちに向ける目と自分に向ける目が、違っていると感じた。確か、ナガ相手にも、モネに対してと同じような目をしていたが、それ以外の人たちには、温かくはなくとも、特に冷たい視線は向けていないように思う。
(私、ムタさんに何かしたかな……? )
モネは考えるが、分からない。
(まだ会ってそんなに経ってないし、嫌われる理由ができるほど関わってもないと思うんだけど……)
 モネは小さく息を吐き、
(まあ、いいや)
気持ちを切り替えた。分からないものは仕方ない。それに、カイさんが味方でいてくれれば、ムタさんに嫌われてても、そんな困ったことにはならないと思うから……と。


 カイは風呂について、その湯のことしか自慢していなかったが、モネが案内されて風呂場の戸をくぐり、最初にスゴイと思ったのは、その広さだった。モネの知っているものの中で例えるとすれば、まるで、中学の修学旅行の宿泊先の大浴場。当時のクラスの女子全員がいっぺんに入っても ゆったり出来るであろう広さがある。雰囲気的には、それよりもっと上品だが……。
 磨き込まれた白い石の床や壁や高めの天井。緻密な細工が施されたガラスの照明器具の明かりが、湯気で柔らかにぼやける。……静かだ。 そんな風呂に、1人で入る。伸び伸び出来て気分がいいが、少し寂しくも感じ、モネは、勇気を振りしぼって、脱衣所で待機しているコリに、
「あの……、コリさん。…一緒に、入りませんか……? 」
声を掛ける。
 しかし、モネ自身の想像の範囲内だが、
「とんでもございませんっ! 」
すごい勢いで断られた。



                                  *



 風呂から上がったモネは、コリが用意してくれてあった来客用の寝間着を着て、コリと共に母屋を出、離れへ歩く。
火照った体に夜風が心地よい。


 離れへ戻ると、寝室にと決めておいた部屋に、コリが、その部屋の押入れから布団を出し、敷いてくれた。
 湯冷めなさらないうちに、お休み下さい、と、コリに言われ、モネは早々に布団に入る。
まだ全然眠くないと思っていたが、疲れていたのか、布団に入って目を瞑ると、敷布団の中に体の中身が吸い込まれていく感覚。……気持ちがいい。空中か水上を漂うように微かに揺れているような錯覚に身を任せながら、ゆっくりと眠りに落ちていくのが自分で分かった。 



                                  
                                 * 3 *



 (……? )
光を感じて目を覚ますと、そこは、見慣れない純和風の部屋だった。状況が掴めないモネ。しかし、
(…ああ、そうだった……)
すぐに思い出す。ここは竜国で、この部屋は自分の寝室だ、と。
 時計は見当たらないが、窓の障子の向こうの明るさ加減で、もう朝だと判断し、モネは起き上がる。
 自分が寝ていた布団を片付けようと、モネが、一旦、掛布団を退け、敷布団を3つ折にして持ち上げたところへ、
「モネ様、おはようございます」
寝室には2ヵ所、隣接するそれぞれの部屋とつながる襖の出入口があるが、玄関から見て寝室の隣にあたる部屋に通じる襖の向こうから、コリの声。静かに襖が開く。襖に手を掛けて正座したコリと目が合った。
 途端、
「モネ様! 」
コリが血相を変えて立ち上がり、
「私が、いたしますから! 」
モネに向かって突進して来ると、モネの手から敷布団を奪い取った。
 コリの、その意外な迫力に、呆然としてしまうモネ。
 そんなモネに、コリは取り繕うようにニッコリ笑みを作り、
「間もなく朝食になります。お着替えになって、お待ち下さい」
言ってから、テキパキと布団一式を片付ける。それから、今回もカイ様がお食事をご一緒されたいとのことですが、と、モネに伺いを立て、OKの返事を持って、離れを出て行った。


                                  *



 朝食の席で、昨日とは違う黄色いジャージを身に纏ったカイが、モネをジーッと見つめている。しかし、目が合わない。モネの首から下を見ている。
 (……? )
モネが、何だろう? と思っていると、やがて、カイは口を開いた。
「モネ、それ、昨日と同じ服だよな? 」 
 カイの言うとおり、モネが今、着ているのは、学校の制服のブレザーとスカート。モネも正直、気にはしていた。制服なのだから、通常、ブレザーとスカートは、その学期中、ずっと洗わずに、毎日 同じものを着ている。ブラウスも、まだ暑くないこの季節、汚れてさえいなければ、2日くらいなら続けて着たりもするが、昨日は色々あって、汗をたくさんかき、見た目にも汚れた。他人からは見えないが、その下に着ている下着などは、本来、毎日替えたいものだ。他に持っていないのだから仕方の無いことだが、指摘され、ああ、そんなに 見た目に分かるのだ、と、少し恥ずかしくなり、俯くモネ。
 カイ、心の奥を探るようにモネを窺い、
「悪い。気にしたか? 」
それから目を逸らし、子供が言い訳をする時のように ボソボソと、
「…そんなつもりじゃ、なかったんだ……」


                                  *



 モネは朝食後、一旦 母屋へ戻ったカイと、城敷地内の、中門、という名称らしい、昨日通った2つの門のうち内側の小さめの門の外側で待ち合わせた。午前中は特に予定が無いということで、モネの服を買うため、カイがモネを町へ連れてってくれると言うのだ。
汚れの目立つブラウスのままでは恥ずかしいのではと気を遣い、自分の粗末な物などでよろしければ、と言いながらコリが貸してくれたコリの私服のブラウスに着替え、中門外側でカイを待つ。
 少しして、中門の左手側後方の生け垣の陰から、1台の、丸みを帯びた型の白い普通乗用車のような乗物が出て来、モネの前で停まると、後部座席のガラス窓が開き、そこからカイが顔を覗かせ、
「モネ、乗れ」
言ってから、座席を空いている奥へと詰めた。
 運転席に座っていた紺色の作務衣姿の初老の男性運転手が、急いだ様子で降りて来、後部座席のドアを開け、モネに頭を下げる。
 カイが、モネに向けて もう一度、
「乗れ」 
 その言葉に頷き、モネは、運転手が開けて待ってくれているドアをくぐり、カイの隣に乗り込んだ。
 運転手は後部座席のドアを閉め、運転席に戻る。
 カイは、中門のほうをチラチラと しきりに気にしながら、運転手に、早く車を出すよう言った。
 何をそんなに急いでるんだろ? と、モネが思った、その時、中門が開き、怖い顔をしたムタが現れ、モネを睨み据える。
 (……! )
固まるモネ。
 カイが、もう一度、運転手を急かした。
 車は急発進。



                                   *



 モネとカイは、竜国最大とカイの自慢する、城から車で30分ほどの距離にある商店街へと向かっていた。
 その車中、窓から車の外を眺めていて、1度、乗合車両とすれ違ったきり、1台も他の車を見かけなかったことを疑問に思ったモネの、その疑問そのままの質問に、カイは、
「……竜国の中で自家用車を持っているのはオレだけなんだ」
と、自慢げにではなく、むしろ、ちょっと恥ずかしそうに話す。自家用車を持っているのは、何だか自分ばかりが贅沢をしているようで嫌なのだ、と。自分的には移動は乗合車両で充分なのだが、自分が乗合車両に乗ることで、自分の乗り降りの際、いちいち他の乗客や運転手に立ち上がって頭を下げさせたり、空席が無い時には席を譲らせたりしてしまうことになり、色々と迷惑をかけることになるから仕方がないのだが……と。
 (何か、意外……)
カイさんなら、自分だけが自家用車を持ってたら自慢しそうなのに、と、モネは思ったが、すぐに、
(…あ、そっか……)
気がついた。カイさんが今まで自慢していたものは、竜国の人たち皆で分け合えるようなものばかりだった、と。 たった今 気づいた、カイの そんな一面に、感心するモネ。
 と、カイ、
「ところで モネ。中門まで、どうやって来た? 」
唐突に話を変える。
 (どうやって、って……)
普通に母屋に行って、母屋の玄関から出て歩いてきましたけど……? モネがそう言うと、カイは、
「離れから母屋に向かう途中にさ、道が二股に分かれてるところがあるだろ? そこを母屋に通じるほうじゃないほうへ歩いてくと、中門のすぐ手前に……母屋の玄関側から見て右手側の木戸から出てくることになるんだ。オレと出掛ける時は、今度からその道を使うといい」
言って、最後に、母屋を通ると途中でムタに捉まる確率が高いからさ、と付け加え、イタズラっぽく笑った。

 

 車は商店街に到着。他の人の通行の妨げにならないよう気を遣ったと思われる場所に車を停めて運転手が降りて来、モネ側の後部座席のドアを開けて頭を下げた。
 カイは一度、尻を浮かせて、ズボンの後ろポケットからキャップを取り出し、目深に被る。これを被っていれば、周囲の人たちに、自分が王族の長・カイであると気付かれにくい。気付かれれば気を遣わせてしまうことになるから、と言いながら。
 (王族の長って、大変なんだ……)
と、モネは、しみじみ、カイを見つめる。
 キャップを被った自分をバックミラーでさり気なく確認したカイから、降りるよう促され、モネはハッとし、急いで降りた。
 続いてカイが降り、運転手に礼を言って歩き出す。
 モネもカイを真似、しかし、カイと同じ言葉では偉そう過ぎて抵抗があったため、同義語の中から初対面の年上の人相手に使うのに相応しい言葉を選んで使ってから、カイを追った。



 道路を挟んで両側に、精肉店、鮮魚店、青果店、食堂、生花店、書店、雑貨店など、様々な専門店が軒を連ね、大勢の人々が行き交う中を、
「どうだ、賑やかだろ? 」
などと、自慢げに話しながら暫く歩き、カイは、1軒の店の前で足を止めた。
 そこは、周りの店と比べ、わりと大きな衣料品店。紳士服・婦人服・子供服・下着類と、種類ごとにキッチリ売場を分けてある広く明るい店内に入り、カイの後について婦人服売場へ。
 好きなものを選べ、と言われ、モネは、最小限必要な物を思い浮かべる。今、持っている制服や下着なんかを数に入れると、昼間着る普段着は2組、パジャマは洗濯して、もし乾かなくても、昨晩借りた来客用の寝間着をまた借りればいいだろから、1組。あとは、下着を2組と靴下を2足……そのくらいだろうか。
 思い浮かべた頭の中のリストをもとに、まずは、と、今いる婦人服売場で普段着を選ぼうとするモネ。と、その時、
(? )
モネは、モネのすぐ近くの陳列棚のシャツを畳み直している、エプロンを身につけた店員らしい女性の、カイをジッと見る視線に気付いた。
 そのモネの視線に逆に気付いた様子の店員らしい女性は、モネに会釈し、急いだ感じで立ち去る。
 (? ? ? )
首を傾げつつ、モネは再び 普段着選びに戻った。


 少しもしないうちに、店員らしい女性は、同じく店員らしい中年の男性を連れて小走りでモネたちのいる婦人服売場に向かってやって来、陳列棚の陰に中途半端に隠れて、カイを見ながら、
「あちらです」
小声で言う。
 店員らしい男性は、分かった、と、短く返し、それから1人で陳列棚の陰から出て来、ハンガーに掛けて吊るしてある服を眺めているカイに背後から歩み寄って、
「お客様、恐れ入れいますが……」
 声を掛けられて、振り返るカイ。
 男性、
「私は、この店の店主で、シムと申す者です。失礼ですが、お客様は、王族の長・カイ様でよろしいでしょうか? 」
 質問に対し、カイが、そうだが、と答えると、店主であると名乗った男性は深々と頭を下げ、
「わざわざ足をお運びいただき恐縮です。ご所望の品をおっしゃっていただければ、お届けに参りましたものを」
 カイ、紳士的な笑みを作り、
「出掛ける前に、うちのムタにも同じことを言われたよ。でも、コイツに」
言って、チラッとモネに視線を流す。 
 つられたらしくモネを見る店主。
 続けて、カイ、
「町を見せてやりたくてな。若いから、賑やかな場所が好きだろうと思ってさ」
 店主は、然様でございましたか、と、相槌を打ち、
「では、もしかして、こちらが噂の、人間の世界からいらした姫様で……」
 カイは、
「ああ。モネという。よろしく頼む」
と返してから、ハタと気づいたように、
「…って、噂になってるのか? 」
ちょっと驚いた様子。
 店主は焦ったように、
「あ、特に悪い噂ではございません。私の知り合いに、昨日、モネ様を見かけた者がおりまして、お可愛らしい姫様でいらっしゃると……。そして、つい先程、ナガ様がお買物にいらした際に、少し詳しく話して聞かせて下さいました」
 カイは、そうか、と納得。
 店主は、ホッと小さく息を吐き、
「ところで、どのような物をお探しで? 」
 カイが、モネが普段着や下着類の着替えを持っていないため買いに来たのだと説明すると、店主は、そういうことでしたら、と、さっきモネの近くの陳列棚でシャツを畳み直していた、今は棚の陰からこちらを窺っている、やはり店員だった女性を呼んだ。
 女性店員のアドバイスを受けながら、モネは、ジーンズ1本と膝丈のタイトスカート1着、カットソー2枚に、薄手のカーディガン1着、パジャマ1組、つけ心地の良さそうな下着2組、靴下2足を選んだ。
 

 カイが会計を済ませてくれるのを待ち、モネは、カイの後について店を出た。
 店の外まで見送りに出てきてくれた店主と女性店員の、ありがとうございました、の言葉に、カイ、
「気を遣わせて、すまなかったな」
 店主は慌てた様子で、
「滅相もございません」
もう一度、ありがとうございました、と、深々と頭を下げる。
 モネは、そんなカイと店主のやりとりを見ていて、周りの人も大変だけど、王族の長って、カイさんって、本当に大変なんだな、と思った。



 まだ見送り続ける店主と女性店員の視線を背に、車が停まっているはずの場所とは反対方向に、カイは歩き出した。
 (っ? )
もう車に乗って帰るものだと思い込んでいたモネは、突然逆方向に歩かれて後れを取り、焦って後を追う。
 斜め後ろにまで追いついたモネに、カイ、
「まだ時間があるからな。少し町を歩いてから帰ろう」
 ああ、そういうこと……、と、モネが納得し、ついて行こうとしたところへ、今度は、突然立ち止まるカイ。突然過ぎて、モネはカイの背中にぶつかってしまい、
(もうっ! 今度は何っ? )
軽くキレ気味にカイを仰いでから、真っ直ぐ前方に向けられたカイの視線を追ってみると、
(? )
そこには、何やら行列。更に行列を先頭に向かって目で追ってみれば、行列の始点は豆腐屋だった。
 カイが、
「今、若者の間で流行の、デンガク、とかいう、歩きながら食べる食べ物だ」
手短に説明をすると、買ってきてやるから待っていろ、と言い置いて、行列の最後尾に並ぶ。


 カイに、いいように振り回されているようで少々疲れ、モネは、溜息をひとつ。それから、何の気なく辺りを眺めながらカイを待った。
 と、豆腐屋と隣の乾物屋の狭い隙間から、見覚えのある白衣姿の男性が出てくるのを見つけ、モネ、
(サナさん! )
会えると思わなかった、と、驚き、偶然を喜びながら、
「サナさんっ」
人波を縫い、サナに駆け寄る。
 「モネ……」
サナも、少し驚いたような、心配げともとれる感じで、
「どうしてここに? 」
 モネは、カイさんと買物に来たんです、と答え、サナさんは? と聞き返す。
 サナ、モネの答えに、ホッとしたように頷いて、
「僕は往診だよ。豆腐屋の御隠居が体調を崩されてね、かなりのご高齢だから、1人で養生所まで来れないし、息子さんたちも、お店が忙しそうで付き添うのが大変そうだったから、僕のほうから来たんだ」
そこまでで一旦、言葉を切り、辺りをキョロキョロ見回してから、
「それで、カイ様は? 」
 モネが、デンガクを買うために並んでくれてます、と答えると、サナ、カイ様が? と、とても驚いたような表情を見せ、それから、とにかく、と、すぐに落ち着き払った表情を取り戻し、
「ちゃんと、元いた場所に立ってなきゃ。買って戻って来た時にモネがいないと、カイ様が心配するよ? 」
 確かにそうだ、と、モネは反省し、頷く。元の場所から今いる場所は数メートルしか離れていないが、人通りが多く、見通しがきかない。
 モネ、見えにくい元の場所の方向を、よく見れば、行き交う人々の隙間に、既に元の場所に戻ってきて右を向き左を向き後ろを向き、モネを捜しているらしいカイの姿。
 カイが、あっちを見そっちを見、の流れで、こっち……モネのいるほうを見たところで、モネと目が合う。
 モネの隣で、サナがカイに向かって頭を下げた。
 じっと、モネとサナのほうを見ているカイ。
 サナは頭を上げ、
「ほら、戻って」
そっと、モネの背を押した。
 (今度、いつ会えるの……? )
別れを惜しんで何度も何度もサナを振り返りながら、モネは カイのところへ戻った。



 カイが買ってきてくれたデンガクというのは、味噌が塗られた串刺しの豆腐。流行に倣い、モネとカイは歩きながら食べる。
 暫く歩くと、何やら騒々しいイメージの旋律と音色を持つ曲が聞こえ始め、歩を進めるにつれ、その音は大きくなっていった。
 やがて明らかになった音の出どころは、見渡せる範囲内で最も大きく最も派手な建物と、その建物の隣の、それより少し小さめの建物。
 大きいほうの建物入口前で足を止め、カイ、
「モネは今、歳はいくつだ? 」
唐突に聞いた。
 モネは、ワケが分からないまま、
「? 16歳、ですけど……? 」 
 カイは、16か、と呟くと、難しい顔になり、うーん、と唸って、
「微妙だな……」
 モネは、
(? )
カイが悩んでいる理由を、無言で問う。
 カイ、
「ここは遊技場といって、大人が健全に賭け事を楽しむための娯楽施設なんだ」
途中までは、まともに答え、以降、独り言のように、
「楽しいところだから連れてってやれば喜ぶかと思ったけど、酒も飲めないくらいだし、モネは、まだ、子供の部類に入るのかな……」
ブツブツ言って、本当に真剣に頭を悩ませているのが伝わってくる。
 (そんなに悩まなくてもいいのに……)
モネは、少し距離を置いた場所からのようにカイを眺めながら思った。別に、賭け事なんてしたくない。せっかく連れてってもらっても、多分、カイさんが期待してるほどには喜べない。勝ったとか負けたとか、はっきり言って、どうでもいい。勝敗なんかで夢中になれそうにない、と。
 悩み続けるカイを、モネが眺めること数分、カイはようやく結論を出したようで、モネを見、親指で隣の建物を指しながら、
「隣は子供向けの娯楽施設になってるんだが、寄ってくか? 」
言って、そちらへと歩く。
 ついて行ったモネが入口のガラスのドアを覗くと、そこは、普通のゲームセンター。こちらも、モネはあまり興味が無い。
 それを感じ取ったのか、カイ、
「だったら、もっと向こうに行ってみるか? 」
これまでの進行方向と変わらない、そのままの方向を指さし、
「見せたいものがあるんだ」

 

 カイの案内で商店街を歩いて抜けると、これまで通って来た道と同じくらいの幅の別の道とぶつかった。その別の道の向こうに道と平行に1階建ての横に長い建物と、建物の左右から どこまで続いているのかが確認できない遠くまで伸びている生け垣。生け垣のほんの少し奥の空中に2条に張られた太めの電線のようなものが、生け垣とワンセットのように、左右に、どこまでも続いている。 
 「渡るぞ」
言って、軽く左右を確認してから、ぶつかったほうの道を渡るカイの後ろについて渡り、建物の左側の生け垣のすぐ手前まで行ってみれば、生け垣の向こうには線路があった。生け垣と平行に並び、同じく確認出来ない遠くまで伸びている。 
 その時、遠くから、ガタターン、ゴトトーン、ガタターン、ゴトトーン、と、音。音は次第に近づいてくる。 
 やがて、音と共に右手側から深緑色の、電車によく似た箱型の物体がやって来、その先頭を建物の左端に合わせて停まった。建物は駅のようで、電車のような物が停まって少しすると、もともと建物内にいたとはとても思えない、この電車のような物によって運ばれて来たとしか思えないほど大勢の人と、その中の一部の人の押す台車に載せられた荷物が出てきた。 
 それから、また少しして、電車のような物は左手方向へと出発。そうしてモネの目の前を通り過ぎて行った電車のような物は、
(…電車……? 電車、だよね……? )
モネの知っている電車によく似ているが、屋根の上から前方に突き出すように取り付けられた2本の平行な長いポールが、まるで昆虫のバッタの触角のようで特徴的だった。ポールは、先端が空中の電線のようなものに接している。三両編成で、最後部車両には窓が無く、代わりに他の車両のものと比べてかなり大きめのドアが2つついていた。
 モネの隣で、カイが、その電車のような物を満足げに見送ってから、
「今、通過して行った乗物は、鉄道車両、って言うんだ。名前の由来は、見てみろ」
言って、生け垣の向こうの線路を指差し、
「この鉄の軌条……つまり鉄の道、略して鉄道。その上を走るから、鉄道車両。動力は乗合車両と同じで電気だが、車体が大きい分、それだけ大きな電力が必要で、充電では間に合わずに、屋根の上の集電装置で上の架線から電気を取り入れながら走ってるんだ。決まった場所しか走れないが、一度に多くの人や物を運べるという利点がある、竜国の交通の要だ」
モネのほうを全く見ずに陶酔気味に語った。そして、話がひと段落ついたところで、やっと、モネを見、自慢げに、
「どうだ、素晴らしいと思わないか? 人間の世界では考えられないだろう? 」
 (……)
モネは、あいまいに笑ってその場を過ごした。人間の世界にも、似たような物……むしろ、もっと高度な技術で作られた物がある。だが、それをカイに言ったところで何の意味も無いし、カイを傷つけることになるかもしれないと思ったからだ。


 カイは、もう1本、今度は左手側からの鉄道車両を見送ってから、
「よし、帰るか」
言って、来た道を引き返す。
 モネもカイに続き、車の所まで戻った。
 車の運転席では、運転手が本を読んでいた。その表情まで分かるくらいの距離までモネとカイが近づいたところで、運転手は2人の存在に気づいたらしく、慌てた様子で本を助手席の上に置き、車を降りて、後部座席のドアを開け、頭を下げた。



                                   *



 モネとカイが城へ戻ると、中門の前でムタが腕組みをし、門に寄り掛かるようにして待ち構えていた。
 中門前に車が横付けになる少し前のタイミングでムタは門から身を起こし、腕組みを解いて姿勢を正した上で停車を待ち、後部座席のドアを開け、先に降りるカイに向かって、
「お帰りなさいませ」
丁寧に頭を下げた。そして、カイが車から降りきるのを待ち、
「カイ様、本日お聴きになられる予定の講演の会場への道が緊急の工事とのことで迂回しなくてはならなくなりましたので、お急ぎ下さい」
カイを中門の内へと急き立てながら、まだ車から降りる途中だったモネをキロッと振り返る。
 その視線の冷たいこと。モネは一瞬凍りついてしまいながらカイとムタを見送った。
 運転手が、取り残されたモネに気を遣ってか、急いだ様子で運転席から降りて来、後部座席のドアに軽く両手を添えて頭を下げた。
 モネは運転手に礼をいいながら車を降りて中門を入り、中門を入ってすぐ左側の、行きの車内でカイから教えてもらったばかりの、庭園に入れるという木戸を開けて入ってみた。



 モネが離れまで数メートルのところまで戻って来た時、離れのほうから、何やら楽しげな複数の男性の笑い声。
 (……誰? )
首を傾げつつ、モネは離れの門をくぐる。と、広縁の手前の地面の上、ドッカとあぐらをかき、おにぎりをほおばっている、昨日と同じ作業服姿のシイと、同じく地面にあぐらでおにぎりをほおばる、シイと同じような作業着上下姿の20歳前後くらいの男性3人。シイの隣に、小さな子供を背負った30代前半と思われる女性がしゃがんでいる。
 シイが、自分の手に持っているおにぎりを指でつまんで小さくちぎり、女性の背の子供の口元へと持っていった。 
 子供が、条件反射のような感じでポカン、と口を開ける。
 シイは、フッと笑みを漏らしながら、その口に、ちぎったおにぎりを軽く押し込んだ。
 モネは驚いた。子供に向けられた、シイの表情。……とろけそうな、とでも言おうか、その子供のことが可愛くてたまらないのだと、言われなくても分かる顔。この上なく、優しい顔。モネは、
(こんな顔もするんだ……)
あまりの驚きから、門をくぐった地点で立ち尽くしてしまう。
 子供が自分の口元を指さしながら、自分を背負っている女性を無理な体勢で覗き込んで、
「とーしゃん、とーしゃん」
 女性も、首から上だけで無理に子供を振り返り、優しく穏やかな声で、
「そう、お父さんがくれたの。よかったね」
言ってから、顔を元の向きに戻した。
 そこで、立ち尽くしていたモネは女性と目が合う。
 女性がモネのほうを見たことでか、やっと、シイもモネの存在に気づき、
「おう」
ドッカリと地面に落ち着いたまま、声を掛けてきた。
 モネは会釈で返す。
 女性はシイに視線を送り、無言の問い。
 返してシイ、
「この離れの主のワガママ姫だよ」
 シイさんは、昨日サナさんにハンカチを貸した時の一件から、まだこんなことを言うのか、と、モネは思った。酷い言い方をされた本人でもないのに、ちょっとしつこい。自分が悪いのは事実だから仕方ないのかもしれないけど、ちょっと いい加減にしてほしい、と。
 そんなモネの前で、女性は、シイに対して小声で、ちょっと! と言いながらシイを軽く肘で突き、焦った様子で立ち上がると、モネに向かって深々と頭を下げ、
「私はシイの妻で、ナオと申します。シイがお世話になっております」
 シイ以外の男性3人も正座に座り直し、地面に額をつけるようにして頭を下げた。
 そこへ、
「ナオ、座れ」
シイが、低く静かに、妻・ナオに言い、それから3人の男性にも、
「お前らもだ。こんなのに頭を下げる必要なんか無い」
 シイの静かな迫力に圧されるように、ナオは腰を下ろし、3人の男性も顔を上げた。
 代わってシイが立ち上がり、モネに向かってゆっくりと歩いてくる。その目は、まっすぐにモネを見据えて……。
 (…何……? )
モネは、思わず半歩分ほど後退った。昨日サナの養生所でシイに宙吊りにされたり襟ぐりを掴まれたりした恐怖がよみがえっていた。 
 シイは30センチの距離まで近づいてモネを見下ろし、
「お前、いくら王族だからって、ワガママが過ぎるだろ」
 モネは、シイの話が全く掴めない。ただ、怖い。 どうやら、昨日のハンカチの一件のことではなさそうだ。何故なら、あの時は まだ、モネ自身もシイも、モネを人間だと思っていた。王族だから、などということは関係が無い。
 シイは話を続ける。
「今日中に離れに風呂をつけろなんてさ……。確かに、風呂は1日あれば何とか出来るけど、そのせいでサナの養生所の改築が遅れるよ。 ……まったく、風呂なら母屋にあるだろ? それで充分じゃねーのか? 」
 (何の話? )
モネは、やはり話が掴めない。ただ本当に怖くて、シイが、怖くて……。
 怯えるだけのモネに、シイはイラついた様子で、
「昨日の夜、ムタを通して発注してきただろ? 離れに専用の風呂が必要だから明日中に用意してくれ、って」
 (知らない、けど……)
モネは首を横に振る。
 シイは、少し驚いたように、
「お前じゃないのか? 」
 モネ、頷く。
 シイ、もう一度、
「本当に? 」
 モネ、もう一度頷く。離れに専用の風呂が必要などと、モネは思っていない。母屋の風呂は広すぎて少し寂しいが、別に嫌ではない。
 シイは、フッと目の力を緩めた。
「そう、か……。悪かったな。オレの思い込みだったみたいだ」
 モネは恐怖から解放され、ホッ。
 シイは、ちょっと申し訳なさげな顔になり、
「オレの中でお前って、生意気でワガママな印象だからさ、つい、他人と一緒の湯を使いたくないとか、母屋まで行くのが面倒くさいとかの理由での、お前自身の発注だって思い込んじまったんだ。本当、悪かった」
 (生意気でワガママって……)
それで謝ってるつもりなのだろうか、と、モネは思ったが、まあいいや、と軽く首を横に振って見せた。
 シイは腕組みをし、考え深げに、
「じゃあ、カイ様かムタからの発注ってことか……」
言ってから腕組みを解き、
「ま、どっちでもいーけどな。……とにかく、悪かったよ」
考えることを放棄。
 モネは、
(多分、ムタさんだよね……)
何故なら、カイは昨日、快く、モネに母屋の風呂を使わせてくれた。加えて、ムタがモネを嫌いなのかどうかは分からないが、モネが母屋に部屋を持つことを反対したこと、カイがモネと一緒に食事することを反対したらしいこと、ついさっき町に行った時にも、反対するムタからカイが逃げてきた様子だったことから、ムタが モネをカイに近づけたくないと思っているとは、自信を持って言える。だから、出来るだけモネが母屋に来る回数を減らすべく、離れに風呂をと考えたのだろう、と。
 そこへ、
「モネ様」
背後、門のほうから、コリの声。モネが振り返ると、門の真下に、コリが少し驚いたような表情で立っていた。
 コリ、
「お帰りでしたか。お出迎えも出来ず、申し訳ございませんでした。すぐ、昼食の用意をするよう言ってまいります」
言って、たった今くぐって来たばかりのはずの門を再びくぐり、庭園へ出て行った。



 カイは町から帰って来た後、すぐに用事で出掛けたらしく、昼食に同席しなかった。
(そう言えば、さっき、ムタさんがカイさんを急かしてたっけ……)
 1人での食事は竜国に来て以来初めてのこと。モネは少し物足りなさを感じながら食事を済ませた。



                                   *



 昼食後から、モネは予告無しに急に忙しくなった。


 まだモネが食後の茶を すすっているところへ、玄関から、
「ごめん下さい」
 コリに迎え入れられ、茶をすすっているモネの前に現れたのは、三原色プラス黒・金・銀の派手な色の衣装を身に纏った5人の男女。見た目にハッキリ年齢の多いほうから3人が、それぞれ、タイコのようなもの、タテブエのようなもの、ギターのようなものを持っている。
 モネの目の前に横1列で並んだ彼らを、コリが、
「竜国舞踊団の方々です」
紹介した。
「モネ様に竜国舞踊を習得していただくために、お越しいただきました」
 モネは、
(ブヨウ? って、舞踊? …私が、踊るの……? )
嫌だな、と思った。モネはダンスが苦手だ。何だか、恥ずかしくて……。これまでも、幼稚園のおゆうぎと小学校の運動会でのフォークダンス、中学の体育の授業内のものくらいしか、ダンス経験は無い。しかし、コリから、竜国舞踊とは竜国の伝統的な踊りであり、祭りの場や宴の席では必ず踊られるもので、原則、その場にいる全員が参加。29日後のモネのお披露目の宴でもやはり踊ることになっており、当然、モネも踊らなければならないのだと聞かされ、仕方ないか……、と、諦めた。

 モネが食事をしていた黒テーブルの部屋とその奥の部屋の間の襖を全て取り去り、黒テーブルを隣の部屋に運んで作った広いスペースで、まずは手本と、歳の多い3人の演奏で若い男女2人がペアで踊って見せてくれた。テンポの速い明るい曲に合わせ、クルクルクルクル回ってばかり、といった感じの踊り。見ているだけで目が回りそうだが、それほど難しい感じではない。
 手本を見終え、早速、モネはコリを相手役に、舞踊団の若い2人が踊る姿を横目で確認しながら踊った。
 モネは、コリにも舞踊団の人にも踊りを褒められ、やはり恥ずかしいながらも、何となく、楽しくも感じた。


 舞踊団の人たちは2時間ほどで帰り、入れ代わりに、作法の先生だという和服をキリリと着こなした初老の女性がやって来、今日のところはとりあえず、と、美しい所作の大切さについて説き、余談として、王族独特のマナーの話を聞かせてくれた。
 王族独特のマナーについて聞いていて、モネは、自分が今朝、コリに対して申し訳ないことをしたと気づいた。
王族独特のマナーで、身近に必ずいる身の回りの世話をしてくれる人の仕事を奪ってはならない、というものがあった。つまり、今朝のように、自分で出来るからといって布団を片付けたりしてはならないということ。王族にそのようなマナーがあるように、きっと、身の回りの世話をしてくれる側の人たちには、王族に布団を片付けさせたりしてはいけない、というようなルールがあるに違いない。だから今朝、コリはすごい迫力でモネから布団を奪い取ったのだ。全然知らなくて悪いことをしてしまった、と反省した。
(勉強、しなくちゃ……)
竜国は、実際に暮らしてみて、人間の世界と大して違わないと感じていたが、その、少しの違いの中の大切なことや、竜族なら知っていて当然のことをちゃんと知って、自分も傷つかず他人も傷つけないよう、無難に過ごしていけるようになりたいと思った。竜国で生まれ育った人にとっては当たり前で、だからこそ大切なこと……常識。大体、それほど大切なことかどうかは分からないが、モネは、自分が何者なのかすら、よく分かっていない。竜族の、能力別に分けられて何種類かある種族のうち、自分は、王族、という種族で、現在、王族は自分とカイしかいない、ということくらいしか分からない。王族、なんて、何だかエラそうな名称だし、周りの人たちも、エラい人を扱うように扱ってくれるが、実際にはどの程度のミブンなのか、とか、自分もサナやシイやムタや、昨日、養生所で会った人々のように、何かを操る力を持っているのか、とか……。
「私、何にも知らない……」
モネがそう呟くと、作法の先生は、
「これから、ゆっくりと学ばれていかれたらよろしいかと存じます」
言って、上品に笑み、モネが何者であるかについては、ちょっと付け足して、といった感じで教えてくれた。
「王族の長であらせられるカイ様は、竜国の実権を握られているお方です。モネ様は、それに次ぐ地位にあられ、他の種族の長であるムタ様、ナガ様、サナ先生、シイ様と、制度上同列、慣例上、少し上のお立場にあられます。能力としては、基本的に私共、他の種族がお守りいたしますので必要ございませんが、防御面に長けていらっしゃるはずです。転ばれたりなされば、お怪我もされますが、他の種族の能力によって傷を負われることはございません。他の種族の能力によって傷つくことが無い……つまり、最も強い種族。それが、王族の王族たる所以なのでございましょう」


 作法の先生が帰ると、次にやって来たのは、牛乳瓶の底のような厚いレンズのメガネをかけた、白髪の、かなりの年齢と思われる男性。彼は学問所の所長で、モネの学力調査のため、学問所の卒業試験問題を持ってモネを訪ねたとのことだった。
 早速渡された問題用紙に視線を落としたモネは、
(? ? ? ? ? ・ ・ ・ ・ ・ )
溜息。
(分かんないよ、こんなの……)



                                  *



 夕食の席で、カイは、まず最初に小さな碗の酒を飲み干してから、
「さっき、出先から戻った時、中門のところで学問所の所長に会ってな……」
 所長は、モネの学力調査の惨たんたる結果をカイに伝えたそうだ。……惨たんたる結果、と言っても、全部が全部出来なかったわけではない。 文字の読み書きや計算などの分野は、竜国で使用されている言語が日本語で、計算のルール(? )も人間の世界と同じ、しかも、レベル的には小学校卒業程度なため、高校生のモネは、当然、パーフェクトだった。出来なかったのは、竜族の歴史や竜国の地理分野、それから、生物や天文に関する分野……チンプンカンプンで、白紙のまま出した。
(だって、竜族についての歴史年表の虫食い問題とか、火族(かぞく)が炎を放出する仕組みを答えよ、とか、分かるわけないんだけど……)
しかし、学問所は義務教育。つまり、学問所の卒業試験問題は、常識問題。作法の先生が来た時に勉強の必要を感じた事柄に通じるものがある。
 (やっぱ、勉強しなくちゃなあ……)
勉強しなければならないコトの多さに溜息を吐き、
(常識をちゃんと身につけて無難に過ごせる日がくるのは、いつだろ……)
箸がすすまないモネに、カイ、
「気にする必要は無い。竜国で育ったわけじゃないから、その分野は出来なくて当然だ。所長が1日おきに通ってくれることになっているから、これから、しっかり勉強していけばいい」



                                  *



 夕食を終え、カイは母屋に戻り、モネは、シイが今日、取りつけてくれたばかりの、離れの風呂に入った。
 風呂は、やはりムタの発注だったらしく、カイは昨日と同じようにモネを母屋の風呂へと誘い、断られるまで、その存在すら知らなかった。
 風呂のことを知ってカイは、
「そうか。…まあ、そのほうが、モネも自分の好きなタイミングで気兼ねなく入れて、いいかもな……」
少し寂しそうだった。
 離れの裏手に造られた風呂は、板張りの脱衣所と木製の浴槽がある風呂場の2間からなる、離れの外観のイメージとシックリくる独立した建物。 家庭の風呂といった感じの広さが落ち着く。
 湯にゆっくりと浸かりながら、モネは、この風呂を造るためにサナの養生所の改築が遅れる、というシイの言葉を思い出し、自分が頼んだわけではないが、申し訳なく思った。



 風呂から上がると、モネは、昨日と同じく早々に布団に入った。何だか今日は疲れた。横になると気持ちいい。
深く息を吐くと同時、急速に、体の中身が敷布団に吸い込まれていく感じがした。



                                 * 4 *



 (何か、気持ち悪……)
吐き気とは違うが、軽くクラクラすると言うか……立っているのが辛い。
今日の午後最初のモネの予定は、宴用のドレスの仮縫い。今は、その最中だ。
 用意された大きな鏡に映る自分の力無い姿、さえない表情に、モネは、
(疲れてる、のかな……)
もやがかかったようにボンヤリする頭で、考える、と言えるほどちゃんとではなく、思う。 
 モネは今日の朝、何だかスッキリ目覚めれなかった。朝食後すぐから、午前中はずっと、習字やら護身術やら、いつも通り予定が詰まっていて、護身術の際の準備運動で体を伸ばしたことで一度は体が楽になったように感じたものの、他は、疲れの抜ける暇というものが全く無かった。そして、昼食後すぐの、この仮縫い。思えば、竜国で目覚めた翌日の午後から今日までの20日間以上もの間、モネの予定は毎日こんな感じだった。……疲れて当然かも知れない。
 立っているのがやっとのモネ。だが、宴まであと7日。作業が予定より遅れ気味であると業者の女性同士の会話から知れば、体調が悪いから休ませてくれなどとは言い出し辛かったのだ。
(ドレス、間に合わなかったら困るし……)
モネは自分に言い聞かせ、我慢。
 そんなモネを、
「モネ様? 」
コリが覗き込んだ。
「お顔の色が優れませんが……」
 気づいてもらえてホッとしたためか、急に、
(! )
モネは足の力がガクンと抜け、崩れそうになる。
 それを咄嗟に支えながらコリ、
「モネ様はご気分がよろしくないようですので、少し休憩を取らせていただきたいのですが」
 その言葉に、業者の女性は、
「重要な部分は既に済んでおりますので、ここまででも大丈夫です。あとは、こちらで良い具合に仕上げさせていただきます」
と返し、モネの体と仮縫いのドレスの両方を気遣う感じで、慎重にドレスをモネの体から取り去ると、
「では、お大事になさって下さい」
帰って行った。



                                    *



 コリは寝室に布団を敷き、モネのパジャマへの着替えを手伝って、モネが布団に入るまでを見届けると、
「お医者様をお呼びいたします」
言って、寝室を出て行った。
 (…お医者様……)
モネは、布団に転がった姿勢でコリを見送る。
(サナさん……)
サナと会えるのは嬉しいが、こんな弱ったみっともない姿で恥ずかしい、というのも少しある。 しかし、やはり、
(サナさんに、会える……! )
嬉しい気持ちのほうが大きかった。
(すごい、久し振り……)
数日前、図書の間で本を借りるためコリと共に母屋の廊下を歩いていた時に、ムタと一緒にやはり廊下を歩いていたサナとすれ違い、挨拶を交わしはしたが、互いに足も止めずの短時間。まともに顔を見るのは、竜国で目を覚ました翌日にカイと町へ出掛けた際、往診のために豆腐屋に来ていたところを偶然会って以来だ。
 (…サナさん…サナさん……)
胸から溢れ出んばかりの嬉しさを抑えるべく、モネは、掛布団を鼻が隠れる位置まで持ってき、目を閉じて、深く呼吸した。


 コリは、ちょっともしないうちに戻って来た。
 随分早い、との、モネの無言の問いに、
「母屋に入ったところで、カイ様にお会いいたしまして……」
モネの体調が優れないこと、医者を呼ぶところだということを話すと、カイが、医者は自分が手配するから、コリはモネの傍についているように、と言ったため戻って来たのだと説明し、
「すぐにはお見えにならないと思いますので、お休みになってお待ち下さい」



                                    *



 「モネ様、失礼いたします」
コリの声で、モネは、ハッと目を覚ました。いつの間にか、すっかり眠ってしまっていた。
 声は、玄関側から見て寝室手前の部屋に通じるほうの襖の向こうから。モネが布団に横になったまま襖に目をやると、襖が静かに開き、正座したコリ。
「お医者様がお見えになりました」
 モネは、ドキッ。
(サナさん……! )
布団から上半身起き上がりながら、髪を急いで手のひらで撫でつけて整える。
 コリが寝室に入って、開いた襖の横に避けて正座。
 モネは、その後コリに続いてその開いた襖から入ってくるのは、当然、サナだと思っていた。 
 しかし、
「横になられたままで結構ですよ」
そう言いながら入って来たのは、白衣姿の年配の女性。モネの布団の脇に静かに腰を下ろし、ヲリタと申します、と自己紹介した。
 (サナさんじゃ、ない……)
モネは、少しホッとし、
(そっか、人口1千万人の国にお医者さんが1人しかいないワケないし、お医者さんが来るって言ったって、サナさんが来るとは限らないよね……)
納得しながらも、ガッカリ。
(何か、私、馬鹿みたい……)


 ヲリタ医師の言葉に甘えて横になった姿勢で診察を受けるモネ。
 その診断は、
「かなりお疲れのようですね。しっかり栄養を摂られて、今日明日くらいは、ゆっくりなさったほうがよろしいかと思います」



                                    *



 「モネ、体の調子が悪いんだって? 」
サナが、襖から心配げな顔を覗かせた。
 ヲリタ医師の指示通り布団で横になっていたモネは、驚きすぎて掛け布団をはね飛ばし、跳び上がるようにして立ち上がる。瞬間、クラッとめまい。倒れそうになったところを、
「モネ! 」
咄嗟に駆け寄ったサナに受け止められた。ホッと、サナの温かな息が耳の辺りにかかる。
 間近にサナの顔を見て、モネはドキドキ。 
 サナ、
「ダメだよ、寝てなきゃ」
言って、モネをゆっくりと静かに布団へ横たわらせる。
 横になったモネを 至近距離から見下ろすサナ。
 モネは、自分の息のニオイに自信が無くて、サナに息がかかるのを恐れ、息を詰めた。その苦しさが、胸の高鳴りを何倍にもする。このままでは心臓が壊れてしまいそうだと思った。
 と、その時、
「モネ様」
手前の部屋側の襖の向こうからコリの声。モネは、特にやましいことなど無いにもかかわらず、ギクッ。本気で心臓が止まるかと思った。
 途端、目に映っていたものが、いっきに切り替わった。明るかった部屋は暗く、目の前にいたはずのサナの姿は無い。
(…夢……? だったの、かな……? )
モネは、部屋の中を見回す。
 再び、
「モネ様」
襖の向こうでコリの声。 襖が静かに開き、光が射した。モネは目を閉じ、寝たふり。サナと会えた夢の余韻に浸っていたかった。出来れば、続きをみたかった。
 少しして、静かに静かに襖の閉まる音。モネは、そっと目を開けて状況を確認。コリは寝室へは入って来ずに、そのまま襖を閉めていた。部屋の中には誰もいない。モネは、小さく息を吐いた。
 襖の向こうで、
「モネの様子はどうだ? 」
カイの声がする。
 「お休みになっていらっしゃいます」
コリの声が答えた。
 「そうか……」
カイの、ちょっと残念そうな声。
「じゃあ、一緒に晩メシは無理だな」
 返してコリ、
「そうでございますね。出来れば、今はゆっくりとお休みいただきたく思います」
 「まあ、仕方ないな。オレは母屋に戻って食うよ。邪魔したな」
遠ざかっていく、数歩分の足音。暫しの沈黙。
 沈黙を破って、
「あ、あのっ! 」
コリの声。
「今日は、サナ先生はご都合がつかなかったのでしょうか? 」
 「何故だ? 」
カイが短く低く聞き返す。
 「あの……」
コリ、遠慮気味に、
「いつもカイ様を診察なさるのはサナ先生ですし、私は、サナ先生にいらしていただくつもりでおりました。…それに……」
そこまでで、一瞬、躊躇した様子を感じさせてから、
「多分モネ様も、サナ先生がいらっしゃるものと思われていたと……。モネ様はサナ先生を大変お慕いになられておりますので、別の先生がいらしてガッカリされたご様子で……」
 (気づかれてたっ? )
モネは、自分のサナへの気持ちをコリに知られていたことに、とても驚き、
(どうしてっ? いつ、何で気づいたのっ? )
混乱。どうしようもなく恥ずかしくなりながら、それまでは何となく聞いていただけのカイとコリの会話に聞き耳をたてた。
 コリの言葉に、
「ん? ああ……」
何故か、カイまで動揺した様子で、
「モ、モネ…は、まだ……まだ、子供のようだとは言え、女性…だから、な。お、男の…サナより、ど、同性のヲ…リタ先生のほうが、いいんじゃないかって、か、考えたんだ」
特におかしなところの無い内容を、自信無さげな小さめの声で酷くどもりながら話す。
 「然様でございましたか」
コリは、そんなカイの様子を全く気にしていないような、ごく普通な感じで、
「余計なことを申しまして、申し訳ございませんでした」
 「あ、いや、構わない。……じゃあ、オレは母屋に帰る」
少し落ち着きを取り戻したカイの声。
 「あ、私も参ります。母屋に用事がございますので」
 コリの言葉の後、遠ざかっていく2つの足音。玄関が開いて閉まる音。
 モネは、何だか目が冴えてしまい、
(…… )
すっかり静かになった離れに1人ポツンと取り残され、少し寂しさを感じて、
(……やっぱり、カイさんと一緒にゴハン食べよ)
思いたち、起き上がる。



 カイを追いかけるべく、少々フラつく足取りで玄関を出るモネ。
玄関の外の暗さ加減、外灯とボンヤリした月明かりの明るさ加減、吹きゆく風の加減……全てが、竜国で目覚めた最初の日、サナと初めて出会った日の夜、診察に来たサナの背中を見送った時を思わせた。
 モネの胸が、キュッとなる。
 と、モネは、庭園の小道にサナの後姿を見た気がした。
(サナさん……? )
 モネは、吸い寄せられるように、その後姿を追って歩き出す。


 庭園の小道を木戸の方向へ。木戸を出て、中門を出、表門を出たところで、モネは、サナの後姿を見失った。
(あ……)
スウッと風が吹き抜ける。
(もう夜だし、いるワケないよ、ね……)
あんまり、会いたいと思ってたから……。
 モネは小さく息を吐き、門を振り返って、右側の門扉に作られた普通サイズのドアの取っ手に手をかけた。
(戻ろ……)
 しかしその時、ふと感じるものがあった。振り返り、その先の、ところどころ街灯に照らされた、静まり返った夜の坂道を見つめる。
 養生所からここまで来るのに、乗合車両で5・6分くらいだった気がする。歩いたら、どれくらいで着けるだろう? 
(ひと目だけ……)
ひと目だけでも会えたら……。会って、優しい笑顔を見られたら……。
 モネは、坂道へ踏み出した。



 記憶を辿り、モネは夜道を歩く。……単純な道だったはずだ。養生所から城まで来るのに、養生所前の道を左手方向に進み、住宅街を抜けたところで左折、坂を上った。つまり、城から養生所へ向かうには、坂を下り、ぶつかった道を右へ歩いて行けばいい。そうすれば、右手側に、あの特徴のある古いレンガの門が見えてくるはず。



                                    *



 (あった……! )
1時間ほど歩いて、モネは、右手側に養生所の古いレンガの門を見つけた。
門の2本の柱の間を通り、真正面の、煌々と明かりのついた養生所の玄関口へ。
 ドアのすぐ横にチャイムを見つけ、指を伸ばすが、モネは、
(…… )
押すのを躊躇った。
 (何て言えば、いいんだろ……)
サナが出てきたところで、何をどう言っていいか分からない。サナさんに会いたかったの。だって、サナさんのことが好きだから。……そんな言葉を口にしなければ説明が出来ない。もう、本来なら夕食も食べ終えているような時間。こんな時間にモネ1人で、偶然近くを通りかかったから、などということは、ありえない。そんな嘘など通用するはずがない。
 その時、視界がクラクラッと揺れた。立っていられず、ドアのほうを向いたまましゃがみ込むモネ。
(…気持ち悪い……)
こうなってしまうのは当然だと分かっている。ヲリタ医師が、今日明日くらいはゆっくりしていたほうがいいと言っていた。それなのに、何の準備も心構えも無く、いきなり1時間も歩いてしまった。分かっているが、歩き出す前はそんなこと考えもしなかった。ただ、サナさんに会いたい……それだけだった。
 モネは両手のひらで顔を覆う。
 そこへ、
「モネ? 」
少し離れた背後から、サナの声。駆け寄ってくる足音。
 モネは、
(…サナさん、どうして……? どうして、外から来るの……? …どうしよう。まだ、心の準備が……)
顔を覆った手を、はずせない。
 サナはモネの正面に回ってきてしゃがみ、モネの両手首を掴んで押し広げ、心配げに顔を覗きこむ。
「大丈夫? 」
 (…どうして……)
「サナ、さん……。どうして、外から……? 」
モネの、小さな小さな声の質問を、誠実な態度で聞き取ってから、サナ、
「僕は、隣の家に回覧板を回してきたところだよ。モネのほうこそ、どうして、こんな時間に、こんな所にいるの? 」
 答えられず、目を逸らすモネ。
「それも、こんなパジャマ姿で」
と続けられたサナの言葉に、
(…そうだったっ……! )
自分がパジャマ姿であることに初めて気づき、
(恥ずかしい……! )
もともと充分でなかった血の気が、更に引いていくのを感じた。
 「顔色も良くないね。……とにかく、中に入って」
サナは、歩ける? と、モネを気遣い、肩を支えて立ち上がらせ、養生所の中へと導いた。
 サナに導かれるまま、
「ここに座って」
言われるまま、モネは、待合室の椅子に腰を下ろした。
 サナはモネを座らせると、
「ちょっと待ってて」
1人で、一番近くのドアを入って行った。
 その背中を見送りながら、モネは後悔。
(私、サナさんに迷惑かけてる……)
来るんじゃなかった。面倒だと思われてるかもしれない……、と。
 

 座っている間に、モネの体調は少し落ち着いてきた。 
 暫くして、サナが盆に載せたコップ1杯の水を手に戻ってきた。その表情は、険しい。
 モネは、
(やっぱり、面倒なんだ……)
落ち込む。
 サナは、持ってきた水を、飲む? と、モネに差し出し、モネが首を横に振ると、盆ごと椅子の上に置いて、モネの横に腰を下ろした。
 「今、一応、お城に連絡してみたんだけど……」
いつもより、トーンの低い声。
「君、誰にも言わないで出てきたんだね」
 大きな溜息を吐くサナ。体の向きを変えて、モネの目の奥を真っ直ぐに見据え、
「ダメじゃないか」
怖いくらいに真剣な顔。
 モネは、ビクッとする。こんな怖い顔のサナを、見たのは初めてではない。学校の前で地震に遭った後に竜国で目覚めた日、養生所の玄関前に集まっていた人々のうち、
「サナ先生は、人間の味方をなさるのですか? 」
と発言した女性に向けて、こんな顔をしたのを見た。しかし、自分に向けられたのは初めてだった。
 サナは、厳しい口調で続ける。
「お城では、皆、とても心配して、大騒ぎになってたみたいだよ? 聞けば、今日は体の具合が悪くて、医者にもかかったらしいじゃないか。そんな体で、どうして黙ってこんな所まで来たの? 」
 (だって……)
モネは、顔をそむけた。
(サナさんに、会いたかったから……。でも、本当に、来るんじゃなかった……。どうして、来ちゃったんだろ……)
 サナが、モネの顔を両手のひらで挟むようにして、強引に自分のほうへと向ける。
 モネは、再びビクッ。反射的に、一瞬だけサナの目を見つめ返してしまってから、またすぐに逸らした。
 「ちゃんと、僕の目を見て答えて」
サナの、低い低い声。
 顔は強引にサナのほうに向けられてしまっているが、目は逸らし続けるモネ。
(私は、サナさんを怒らせたかったワケじゃない。ただ、会いたかった……。会って、優しく笑ってほしかっただけなのに……)
 サナは、モネの顔を挟んでいる手に更に力を込め、
「こっちを向きなさい」
 (…こんな、迷惑かけて……。サナさん、私のこと嫌いになっちゃったかも……)
自分が情けなくて、恥ずかしくて、モネはサナと目を合わせられない。
 「モネっ! 」
サナ、モネの頭を1度、揺さぶる。
 (…だって……)
モネの心は追いつめられた。意思とは関係なく、
「サナさんに会いたかったから……! 」
本心が口をついて出る。
 モネの顔を挟んでいるサナの手の力が緩んだ。
 (……? )
モネはサナを盗み見、驚いた表情のサナと目が合って初めて、ハッとし、口を押さえた。
(私、今、何を言ったのっ? )
 「そう、だったんだ……」
呟きながら、サナは、
「ゴメン、強く言い過ぎたね」
モネの顔から手を放した。
 本心を言ってしまったことで、サナがどう思ったのか、不安でいっぱいのモネ。何とかサナの気持ちが読み取れないかと、サナの目の奥を覗きながら、
「私のほうこそ、ゴメンなさい……」
 サナは、フッと目を優しくし、
「謝る相手が違うよ。お城に戻ってから、お城の皆に謝って」
 モネは、サナの気持ちを読み取るほうに集中してしまいつつ頷く。
 サナ、
「また、いつでもおいで。ただし、今度はちゃんと、誰かお城の人に言ってからね」
 (また、来ていいの……? )
モネは驚き、また、サナの本心を探る目的もあって、サナの目の、更に奥の奥を見つめた。……優しいサナのこと。サナさんに会いたかったから来た、などと言われてしまった手前、本当は迷惑なのに、また来ていいと、とりあえず言ったのでは、と、疑ったのだ。
 そんなモネに、サナは、モネが見たいと望んでいた、実にサナらしい優しい笑顔で応えた。
 (…本当に、来ていいのかな……? )


 その時、表のほうから、車のエンジンのような音。
 サナ、
「ああ、来たね」
 (? )
無言の問いをするモネ。
 答えてサナ、
「さっきお城に連絡した時、たまたま相手がコリさんだったんだけど、すぐにお迎えに参ります、って」
 サナが説明している間にエンジン音は止み、聞き覚えのある自家用車のドアの開閉の音。玄関口のドアの開閉の音。続いて、荒めの足音。その足音と共に現れたのは、
(カイさん……)
カイだった。
 驚くモネ。連絡した相手がコリだったとサナが言ったこともあり、迎えに来るのはコリだと思い込んでいた。
 サナも驚いた様子の急いだ感じで立ち上がり、カイに向けて頭を下げる。
 自分のほうへ向かってズンズン歩いてくるカイの顔に、モネはギクリとした。……明らかに、怒っている。
 カイから少し後れ、急いでカイを追って来たといったふうに、コリも姿を現す。
 カイは、モネの目の前まで来、足を止めるなり、バシッ! 
 (っ! )
モネは、椅子から転がり落ちる。一瞬、何が起こったのか分からなかった。左頬が熱を持ち、まるで心臓が移動してきたようにジンジン脈打った。 血の味が、口の中に微かに広がる。
(…痛……)
その痛みから、カイにひっぱたかれたのだと知る。
 (カイさん……)
モネが、打たれた頬を手で押さえつつカイを仰ぐと、カイは、暗い目でモネを見下ろしていた。
 (カイさん、すごく怒ってる……)
押し潰されそうな胸苦しさを感じるモネ。
 サナが身を屈め、床に落ちたままのモネに、そっと気遣うように、上に向けた手のひらを差し伸べた。
 と、カイは、サナをギラッと見据え、
「モネに触るなっ! 」
叫んだ。
 その大声に、モネは竦む。 
(…カイさんが、怖い……)
 サナは、ハッと反射的な感じで手を引っ込めて姿勢を正し、もう一度、頭を下げなおした。 
 カイはサナから目を逸らし、小さく息を吐いて弱く首を横に振り、
「いや、ゴメン……。連絡くれて、ありがとな」
言ってから、モネに向けて手を伸ばす。
 モネは、ビクッ。両腕で顔を庇い、
「ゴ、ゴメ、なさ……い! 」
また叩かれるかと思ったのだ。
 カイはモネの左手首を掴み、
「来い」
グイッと引っ張り、玄関口のほうを向いて歩き出す。
 ……強い力。手首が痛い。モネは中途半端に立ち上がった状態で2・3歩分を引きずられるように進んでから、
(…嫌っ……、怖いっ……! )
足を踏ん張って止まり、掴まれた手首を自分のほうへ引き寄せ、抵抗する。サナから離れて車や城に移動したら、もっと酷く怒られるように思えた。
 カイは一旦、立ち止まり、顔だけでモネを振り返って、低く、
「来るんだ」
また正面を向いて歩き出す。
 モネは、ほとんど引きずられている状態。 無理だろうと分かっていながら、助けて欲しくてサナを振り返るが、サナは、それまでの立ち位置から微動だにせず、心配げな、そして、何か言いたげともとれる表情で、やはりただ、モネを見送った。
 モネの視界中央にコリの背中が割り込み、サナに一礼してから回れ右。モネとカイの後をついて来る。



 外に出ると、階段の下、すぐ正面に、自家用車が停まっていた。運転手が運転席から降りて来、後部座席のドアを開けて頭を下げ、待つ。
 カイは、
「乗れ」
モネを先に車のほうへ押しやるが、モネは自分からは乗ろうとしない。
 カイ、モネの手首を放して空いた手ともう片方の手でモネの背を押し、モネを車の中へと押し込んでから、自分も乗り込んだ。


 後部座席にモネとカイ、助手席にコリ、運転席に運転手を乗せて、車は、ゆっくりと走り出す。
 次第にスピードをあげていく車。後ろへと流れていく夜の住宅街。
 車内は沈黙に押し包まれていた。
 モネは、窓の外を眺めながら、注意はカイのほうへ向いていた。カイがほんの少しでも動く度に、いちいちビクビクしてしまう。


 やがて車は住宅街を抜け、左に曲がって坂を上り、開いた状態になっていた表門を入って中門に横付けた。そこには、ムタが立っていた。
 ムタは、後部座席のドアを開け、座っていた位置的に先に降りることになったモネを無言で通してから、まだ車内にいるカイに向かって頭を下げ、
「お疲れ様でした」
車から降りたカイに、
「何か、温かいお飲み物でも、お召し上がりになりますか? 」
 それに対し、カイは、
「いや、もう寝るよ」
短く答え、1人でさっさと中門を入って行った。
 まだカイから怒られるのに続きがあると思っていたモネは、拍子抜け。自分が心配をかけたからカイは怒っているのに不謹慎だとは思いながらも、ホッとしてしまった。 
 ムタは、カイの後を追いざま、車のすぐ傍に立ったままカイを見送っていたモネにチラリと視線流し、
「別に、お帰りになられなくてもよろしかったのですよ? 」
モネにしか聞こえないような小声で言う。
 モネは、
(ああ、そう……)
初めて、ムタが自分のことを嫌いであると確信した。嫌われる理由は、やはり全く分からないが……。ムタが自分のことを嫌いなのではと前々から感じていたため、
(やっぱりね)
モネに、全くショックは無い。
 しかし、代わりに隣から、ただならぬ気配を感じ、モネは、そちらを確認する。と、自分のすぐ隣でコリが顔を強張らせ、目を大きく見開き、1歩、前へと踏み出して、今まさに、ムタに向けて言葉を発しようという状況だった。タイミング的に、モネに向けたムタの小声を、たまたまモネの傍にいたがために聞き取ってしまったことでの反応であると分かる。
 (待って! どうしてコリさんが怒るのっ? )
モネは慌てて、コリの手をギュッと握った。
(ムタさんは、コリさんにとって上司でしょっ? まずいんじゃないのっ? )
 コリは、ハッとしたようにモネを見る。
 モネは、首を横に振って見せた。
(私が原因で仕事をクビになられても困るし……)
「私のせいでモメないで下さい。私なら、大丈夫ですから。ムタさんが私に冷たいのなんて、いつものことで、慣れてますから……」
 押し殺したモネの言葉に、コリ、
「いつものこと、ですか……」
眉間にシワを寄せる。
 モネは、ああ、何か今、余計なことを言っちゃったのかも、と思いながら、お願いだから落ち着いて、と、祈るような気持ちで、
「ね? 大丈夫、ですから」
コリの目を見つめ、繰り返す。
 コリは数秒間、モネの目を見つめ返してから目を伏せ、1度、深呼吸し、
「お見苦しいところをお見せいたしまして、申し訳ございませんでした」
詫びてから、取り繕うように笑みを作り、
「モネ様も、お部屋へ……。頬を冷やさなくては……」



                                * 5 *



 朝の光に、自然と目が覚めた。布団の上で上半身起き上がり、伸びをするモネ。 と、
(……? )
窓の障子の向こうに人影が見えた。
 モネは立ち上がり、窓へと歩いて障子を開ける。瞬間、人影の主が、隠れようとしたのか、ササッとしゃがんだ。……カイだった。
 モネは窓も開け、昨日のことでまだ少しカイが怖いのと、まだ昨日のことをカイにキチンと謝っていないことから、
「カイさん」
そっと、恐る恐るととられてしまうかも知れないくらい遠慮がちに声を掛ける。
 カイは、チラッとだけモネを見、目を逸らして、バツが悪そうに頭を掻きながら立ち上がった。
 条件反射でビクッとしてしまうモネ。それでも、
(昨日のこと、ちゃんと謝らなきゃ……)
小さく息を吸って吐いて 気持ちを落ち着けてから、
「昨日は、ゴメンなさい」
口を開いた。
 同時にカイも、モネに向けて、全く同じ意味の言葉を口にする。
 どうしてカイさんが謝るのか、と、首を傾げるモネを真っ直ぐに見、カイは続ける。
「ほっぺた、痛かったか? 」
 (ああ、叩いたことを気にして……)
モネは頷いておいて、
「でも、心配かけちゃった私が悪いんですから……」
 カイは再び目を逸らし、モゴモゴと言い辛そうに、小さく口の中にこもる声で、
「オレ、さ……。モネが行った場所が、サナの所じゃなくて、どこか別の場所だったら、叩いたりしなかったような気がするんだ……」
 (…どういうこと……? )
 「オレ、サナに嫉妬したんだ、多分……。…サナもオレと同じで家族がいないけど、サナには同じ種族が大勢いて、その上、たった1人のオレと同じ種族のモネまで、オレよりサナを慕っててさ……」
 それを聞いて、モネは、
(駄々っ子? )
呆れた。いっきに、カイを恐れる気持ちが吹っ飛んだ。自分が手に入れたいものを他の人が手にれたからってヤキモチを焼いて暴れるなんて、本当に、ただの駄々っ子だ、と。同時に、
(カイさんって、正直で、不器用なんだ……)
カイの性格を気の毒に思った。せっかく、というのはおかしな気もするが、モネが昨日カイに叩かれた理由を皆に心配をかけたことで叱られたのだと勘違いして反省し謝ったのだから、わざわざ本当のことなど話さずに、そのままにしておけばよかったのに、と。
 その時、
「モネ様、おはようございます」
玄関側から見て寝室隣の部屋に通じるほうの襖の向こうから、コリの声。
 モネが振り返ると、襖が開いて、正座しているコリ、
「間もなく、朝食のお時間です」
言い終えてから、初めて、窓枠の向こうのカイに気づいたようで、
「あ、これはカイ様。おはようございます」
 カイは、またまたバツが悪そうに、
「おう」
と、短く返し、じゃあオレは母屋へ戻る、と、独り言のようにボソボソ言い、背中を向けてそそくさと立ち去ろうとした。
 モネは、これから先の自分とカイの関係のためには、このままでは良くないと考え、
「カイさん」
呼び止め、振り返ったカイを、
「一緒に、朝ごはん食べませんか? 」
誘う。
 カイは、パアッと顔を輝かせた。
 その表情に、モネ、
(…分かりやすい……)



                               * 6 *



 胸元とスカートの裾にビーズで細かな装飾が施された、袖とスカート部分がフワリと膨らんだ光沢のある水色のドレス。七五三以来の化粧。時間をかけて結った髪。最後に頭の上に、ドレスの色に合わせて水色の宝石が埋め込まれたティアラが、モネのヘアメイクを担当してくれた美容師の手で載せられた。
 ドレスを離れで着て庭園を移動中に引きずって汚すといけないとの理由から、今日だけ特別に母屋に用意された控室内、モネは、
(…お姫様みたい……)
姿見の前で右を向いたり左を向いたり、後姿を映して振り返って見てみたり……。姿見の中のお姫様は、とても自分だなどと思えないくらいキレイで、
(サナさんに、見て欲しいな……。今日、サナさんも来るのかな……)
 今日は、モネの お披露目の宴の当日。
 モネは、城を抜け出して養生所に行ったあの夜以来、サナに会っていなかった。サナは、いつでも来ていいと言ってくれていたし、宴の日が迫っていて色々と忙しかったとは言え、養生所に出かけて行って少しサナと会って帰ってくる程度の時間がとれないほどではなかったのだが……。原因は、カイだ。カイがサナに嫉妬したのだという話を聞いて、何となく、会いに行きづらくなってしまっていたのだ。
 (サナさんに、会いたいな……)
などと心の中で呟きながら姿見を眺め続けるモネに、モネのヘアメイクをするのに使用した道具を片付け終えた美容師、
「では、私はこれで……」
言って、控室の出入口へと向かう。
 コリが一緒に出入口まで行き、
「ありがとうございました」
 モネも、出入口のほうを向き、見送る。


 コリが出入口の戸を閉めようとしたところへ、
「あの……」
遠慮がちな、少年の声。
 少しして姿を現したのは、いつか、モネが初めて城に来た時に、最初に出迎えてくれた、モネと同じ年頃の少年。
 少年は出入口手前で正座し、一礼してから立ち上がり、静かにモネの前まで進むと、もう一度 頭を下げ、ムタからの用件を伝えた。……以前にもお話ししました列席者へのご挨拶を、よろしくお願いします、と。
 モネは、
(は? )
何の話だか、サッパリ分からない。
 少年は、伝えるだけ伝えると、丁寧に礼をしてサッサと出て行ってしまい、モネが聞き返そうとした時には、もういなかった。
 (列席者へのご挨拶…って……)
ワケが分からず、ただ、少年が出て行った出入口の戸を見つめるモネ。コリに、
「モネ様? 」
声を掛けられ、言われたモネ本人が分からないものをコリが分からないだろうと思いながらも、思わず、
「今のって、どういうこと? ですか? 」
聞いてしまう。
 答えてコリ、
「今日の宴の席で、宴にいらして下さった方々に、おそらく壇上からだと思いますが、モネ様からご挨拶をしていただきたい、ということかと……。 前もって、そのようにお話があったとのことですが……」
そこで一旦、言葉を切り、心配げに、気遣わしげにモネの目を覗き込みながら、
「お聞きになっていらっしゃいませんか……? 」
 聞いていない。ムタと話したことなど殆ど無いし、特に、ここ数日は姿を見かけることさえ無かった。ムタからの伝言なども、竜国に来てこの方、今のが初めてで、ムタさんが私に何の用? などと、驚いてしまったくらいだ。絶対に聞いてない。
(私を困らせようとしてワザと……? それとも、ただ忘れてただけ……? )
モネは考え込みかけるが、そんなことより、と、考え込みかけた内容を頭の中から追い出す。そんなことより、宴での挨拶で何を話すのか考えなきゃ、と。
(でも、何を言えばいいんだろ……)
宴が始まるまで、あと30分も無い。こんなに急に、どうしよう……と、困惑するモネ。
 その様子を見てとってか、コリ、
「お聞きになっていらっしゃらないのですね? 」
と、確認。モネが頷くと、モネからクッと目を逸らし、独り言のように、
「もう、アッタマきた……! 」
呟きながらモネに背を向け部屋を飛び出して行った。
 (コリさんっ? )
突然のコリの行動に、モネは驚き、反射的にコリを追って、顔だけ出入口から廊下へと覗かせる。視線を正面から左、右へと移動させると、右手側、だいぶ離れたところにコリの後姿。その背中は、かなりの速度で小さくなっていく。
(どこ行くんだろ……? )
一緒に挨拶の言葉を考えてもらおうと思ったのに……、と、そこまで心の中で呟いてから、モネは、ハタと気がついた。
(どこに、って……! )
コリさんが飛び出して行く直前の出来事を考えると、そして、自分が養生所に言った夜のムタさんの言葉へのコリさんの怒りっぷりを合わせて考えると……! 
(ムタさんに、文句でも言いに行ったんだ! )
 これはいけない、と、モネは、ドレスの裾をひきずらないよう両手でスカート部分を持ち上げ、既に見えなくなってしまったコリを追って、右手側へ走った。
(コリさんって、時々激しいよね……。でも、この間もそうだったけど、どうしてコリさんが怒るんだろ……)
考えながら走り、途中で、考えているために走る速さが少し遅くなっていることに気づいて、今は必要の無い考えを振り払うべく頭を強く横に振る。
(とにかく、今はコリさんを止めないと……! 私が原因でクビになられても、本当に困るし……)



 廊下をひたすら真っ直ぐ走って行くと、突き当たって左に折れる。左に折れてすぐ右側は、カイが普段、公的な事務を執る、執務棟につながる引き戸。モネは一度、その戸の前を通り過ぎたが、コリのものらしい声を聞き取り、引き返した。
 そっと細く戸を開け、中を覗くモネ。と、すぐ目の前に、ムタに詰め寄るコリの横顔。
(遅かった! )
 コリが口を開く。
「お兄さんっ! 」
 (…お兄さん……? )
コリが発した言葉に、モネは首を傾げた。
 ムタが面倒臭そうに返す。
「何を、そんなに怒ってるんだ。お前は」
 (…お前呼ばわり……? )
ムタの言葉に、モネは、またまた首を傾げる。
(この2人って、兄妹……? )
そういえば、雰囲気は全然違うけど、顔立ちなんかは似てないこともないかも……。
(兄妹なら、大丈夫かな……)
しかし、何となくその場を離れられず、見つからないよう息を潜めて、あまりにも近過ぎる距離から見守り続けるモネ。距離が近いため、コリのフツフツと沸き起こっている怒りが、モネにも伝わってくる。
 コリは呻くように、
「怒って当然でしょう……? 自分の仕えるお方を侮辱されて、怒らない人がいますか? モネ様を侮辱することは、私を侮辱するのと同じことです! 」
 モネは驚いた。コリの中でモネの占める割合の高さに……。中を占めている、と言うより、コリ自身と一体のようにも……。 だから、この間の夜のムタの言葉も、今日の宴の挨拶の件も、自分のことのように本気で怒ったのだ。
少し重いが、嫌な気はしない。むしろ、
(私のこと、そんなふうに思ってくれてたんだ……)
と、嬉しく、感動すら覚えた。同時に、コリがムタに突っ掛かっていこうとしたことについて、純粋にコリの心配をしたのではなく、その事で、もし失業でもした時に、自分のせいにされては困る、といった感覚で、結局自分の心配ばかりをしていた自分を恥じた。
 熱く語るコリを、ムタはせせら笑う感じで、
「お前は侍従の鑑だな。どんな相手でも、主人は主人、というワケか? 」
 返してコリ、
「お兄さんは、モネ様のことを何か誤解なさってるのではないですか? 殆どお話をされたことも無いのに嫌ったりして……。モネ様は、とても素敵な方です」
 コリの言葉に、モネ、
(…素敵……? )
1人、照れる。
(ど、どこがだろ……? )
何だか、体中がムズムズする。
 ムタは、スッと小馬鹿にした笑みを消し、
「私は誤解などしていないし、嫌っているつもりもない。邪魔なだけだ」
真面目に言い放った。
 モネは、よくもまあそんなにハッキリ言えるものだと呆れながら、嫌いと邪魔とはどう違うのだろう、と考え込んだ。それによって、照れからくるムズムズが治まる。
 ムタは続ける。
「お前がキチンと自分の役目を果たしさえすれば、私にも、モネ様に親切に接する用意はある」
 (役…目……? )
モネは、その1語に引っかかりを感じた。
(役目、って、何……? )
私の世話なら、コリさんは、すごく.しっかり焼いてくれてるけど、それじゃなくて……? と、モネは、頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、一言も聞き逃さないよう耳を澄ます。
 コリは、顔を真っ赤にし、カッと目を見開いて、
「役目って、なんですかっ? 私の心の問題です! 心の中にまで、土足で踏み込まれたくありませんっ! 」
悲鳴のような声。
 対するムタは、あくまで冷静。
「分かってるようじゃないか……。私は初めから、それだけのために、お前をこっちに呼び寄せた。無理なら、田舎に帰るか? 私はそれで構わない。代わりにチリを呼ぶことにしよう。お前は帰れ」
 聞いても聞いても、モネには全く話が掴めない。ただ、コリが辞めさせられそうになっていることだけは分かるし、
「…そ…んな……」
呟きながらスウッと青ざめ、
「帰るなんて、嫌です! それだけは、許して下さい! 」
そう涙声になってムタに取り縋るコリが可哀相で、また、途中で大幅に話しが逸れたようだが、もとはと言えば自分に味方してムタに文句を言いに行ったところから始まっているため、責任を感じて、止めに入ろうかどうか悩んだ。ずっと盗み聞きをしていたと知られることはバツが悪いが、このままではコリが可哀相。モネが、自分の世話をしてくれるのはコリでなければ嫌だと言えば、コリは辞めなくて済むのではと思えた。
 そこへ、
「モネ」
後ろから突然、声が掛かった。
 モネがギクッとしながら振り返ると、黒の燕尾服でカチッとキメたカイ。
「どうした? 」
 モネは、盗み聞きしていたことが後ろめたく、
「…あの…コリさんが……」
戸の向こうを気にしながら、言葉を濁す。
 それを受け、カイは、今までモネが覗いていた戸の隙間から中を覗く。
 モネも遠慮気味に、カイの下の位置から再び覗いた。
 コリは、ボロボロに泣き崩れて床に蹲ってしまっている。
 カイが、
「分かった。オレに任せろ」
短く言って、戸を普通に開け、中に入って行った。
 開け放たれた戸から、中は丸見え。モネは、何となくその場に居づらく、中の様子が見える位置で、そのまま後ろにさがり、距離をとった。
 「どうかしたのか? 」
カイが、ムタに声を掛ける。 
 ムタ、
「カイ様……」
頭を下げてから、
「コリが失態をいたしまして、注意していたところです」
 「コリがか? 珍しいな」
言って、カイは、コリのほうに目をやり、
「こんなに泣くまで注意しなければならないほどの、大変な失態なのか? 」
 カイの問いに、ムタは目を伏せる程度の礼をし、
「いえ、些細な事でございます」
 それを受け、カイ、ムタに視線を戻し、
「ならば、もう許してやれ。妹であればこそ厳しく指導したいと思うお前の気持ちも、分からなくもないがな」
 ムタ、もう1度、浅く礼。
「カイ様が、そうおっしゃられるのなら」
 カイは軽く頷き、コリの正面に移動。身を屈め、コリの両肩にそっと手を添え、立ち上がらせた。そして、思いやり溢れる目でコリを見つめ、
「コリ、大丈夫だ。誰にでも失敗はある。次から気をつければいい」
 コリは、はい、と小さく返事する。
 カイは、1度、大きく頷いて見せ、
「モネが捜していたぞ? 急いで行ってやってくれ」
 コリはカイに一礼し、袖で涙を拭いながら廊下へと歩いて来る。まだ、モネの存在に気づいている様子は無い。
 モネは咄嗟に頭を巡らし、立ち位置を戸の正面から微妙にずらして、廊下を歩いている最中のように体と視線の向きを変え、たった今通りかかったふうを装った。



                                   *



 コリに手伝ってもらい、モネは何とか、宴の開始時刻前に列席者への挨拶の言葉を紙にまとめ終えた。さすがに暗記する時間は無かったため、コリに相談の上、紙に書いた文章をそのまま読み上げることにした。
 

 「モネ様、お時間です」
宴の進行を補助する係らしい桃色の作務衣姿の中年女性が、モネを控室まで呼びに来た。
 モネは、挨拶の言葉を書いた紙を手に、コリに付き添われ、中年女性の後に従って、宴の間へと歩く。
 宴の間は、一言で言ってしまえば、学校の体育館のような造りの部屋。広いフロアと、そこより1メートルほど高い位置にある、フロアとは緞帳で仕切ることが出来るようになっている舞台から成っている。
 モネとコリは、舞台に通じる入口の前で中年女性と別れ、その入口を入った。
 入口を入ると、薄暗い。すぐ左手側に上品な光沢のあるクリーム色の厚手のカーテンが幾重にも掛けられ、フロアからの光を遮っているためだ。
 入って正面、カーテンの無くなる境の、ギリギリでカーテンに隠れる位置に、カイの背中。その向こうには、ムタ。舞台中央に立ち、列席の人々がいるはずの、モネのところからは見えないフロアに向かい、眩しい照明に照らされマイクを握って何やら喋っている。
 カイが、モネたちの小さな足音を聞きつけてか、振り返り、小声で、
「もうすぐだ」
 ムタが、握っていたマイクをマイクスタンドに戻し、モネたちのほうを向きながら後ろ歩きで、モネたちがいるのとは向かい側のカーテンの手前に遠慮がちに置かれた、もう1つのマイクスタンドの所までさがった。
 「行くぞ」
手招かれ、モネはカイのもとへ。
 

 カイは、左手でそっとモネの右手をとり、照明の光の降り注ぐほうへ、ゆったりとした音楽が控えめな音量で流れる中、足を踏み出す。
 ゆっくりと歩を進めるモネの視界の隅、左手側の、モネが歩いている場所より1段低くなっているフロアに、大勢の人がいるのが映った。 
 広いフロアの舞台側から見て手前半分を埋め尽くすように立ち、一様にモネを見つめる、キチンとした身なりの男性たち、華やかなドレスの女性たち……。
 (何? この人数……)
ざっと、300人はいる。モネは思わず固まった。こんなに大規模な宴だとは思っていなかった。背中の中央を嫌な汗が一筋流れ、足が震える。クラス委員などやっていたから、人前に出るのは慣れているつもりでいた。しかし、見知らぬ人ばかり、こんなに大勢、しかも、その人たちが皆、おそらく それなりの興味を持ってモネを見ているとなると……。
 カイに、
「モネ」
小声で呼びかけられ、モネはハッと気がつき、震える足を何とか励まして、転ばないよう注意深く、カイに導かれるまま、舞台中央、マイクスタンドの後ろに位置する2つ並んだドッシリとした椅子のうち左側の椅子に腰を下ろした。
 カイは一旦、モネの右側の椅子に座ったが、舞台隅に立つ司会であるムタからの紹介を受けて、すぐに立ち上がり、中央のマイクの前に立つ。
 カイの次がモネの番だ。モネは緊張から、カイの喋っている内容が全く頭に入らなかった。
(こんなにたくさんの人たちの前で、話さなきゃいけないなんて……)
震えは、足だけでなく手にまできていた。きっと、今、 口を開けば、声も震えている。  
 モネは何とか落ち着こうと、周囲に気づかれないよう、そっと深呼吸を繰り返した。
(大丈夫、紙に書いてあることを読むだけなんだから……)
そう 自分に言い聞かせる。と、
「モネ」
カイの小声が掛かった。ハッとし、見れば、隣の椅子にカイが座っており、ムタが舞台隅のマイクスタンドの前で、モネに無言でいつもの冷たい視線を浴びせている。会場中の視線も、モネに集中。既にカイの番が終わり、ムタによるモネの紹介も済んでいるのだと気づき、モネは慌てて立ち上がった。
 焦りすぎて転びそうになりながら、モネは、中央マイクの前に立ち、フロアの人々に向かってお辞儀をしてから、強く握りしめてしまっていたためにシワシワになってしまった挨拶の言葉の紙に視線と落とし、読み上げる。その中身は、まず最初に、宴に来てくれたことへのお礼。次に、簡単な自己紹介。それから、カイが竜国について自慢していたことは他の人たちにとっても自慢だろうとの考えから、カイが自慢していたものを片っ端から褒め、最後に、まだまだ分からないことばかりで至らない点も多いかと思いますので、その時はよろしくご指導下さい、と締めくくるというもの。 
 モネは緊張から、ひたすら紙の上の文字を追い、1度も目の前の人々をまともに見ることは出来なかった。最後まで読み終え、言葉の書かれた紙を持つ手を下ろし、深くお辞儀をしてから椅子に戻る背中で拍手を聞き、ホッとする。とりあえず、終わった、と。この後は、もう、モネだけが注目されるところは無いはず。
 モネは椅子に深く腰掛け、落ち着く。と、人々の最前列に黒の燕尾服姿のサナを見つけ、直後、目が合った。
(サナさん……)
白衣姿以外のサナを見たのは初めてで、何だか新鮮で少し照れる。
 サナは、フッと優しく笑んだ。



 舞台側を前方とした時のフロア後方出入口から、グラスに入った飲物各10杯ほどを載せた盆を手にした、男性紺、女性桃色の作務衣姿の男女30人ほどが入って来、各々、列席の人々の間を縫って歩いては、1人につき1つずつグラスを勧め、盆が空き次第退場していった。
 列席の人々全員にグラスが行き渡ると、ムタから紹介を受けて、ナガが舞台に上がった。他の男性たちは皆、黒の燕尾服なのに、1人だけ非常に目立つ銀色の燕尾服を着ている。
 ナガは中央のマイクの前に立ち、
「えー、それでは、我らが美しき姫君・モネ姫様の御多幸と、我らが竜国の永遠なる安寧を祈り、乾杯! 」

 
 乾杯を境に、静まり返っていた会場はザワめき始めた。 
 列席の人々は、フロア後方に用意された立食形式の食事を楽しんだり、そのまま前方に留まって会話に忙しそうだったり……。さっき飲物を運んで来た作務衣の男女30人も、飲物や料理を新しく運んで来たり、空いた食器を片付けたり、切り分ける必要のある料理を切り分けたりと、動き回っている。 
 そして、フロアから舞台にあがるための階段前には、何やら列が……。その先頭は、ナガ。乾杯の後、急いで舞台から下り、真っ先に並んだのだった。その後ろはサナ、続いて、初めにサナの後ろに並んでいた男性に譲ってもらい、シイ。
 何の列だろう、と、モネが首を傾げていると、カイのすぐ脇に移動して来て立っていたムタにマイクで呼ばれ、先頭のナガが舞台へ上がり、中央へと進み、モネとカイのほうを向いて片膝をつき、頭を垂れた。
 ムタが口を開く。
「既に面識がおありのはずですが、風族の長・ナガ様です」
 紹介されたのを受け、ナガ、顔を上げて甘く笑み、
「お久し振りです、姫。以前お目にかかった時にも、お美しかったですが、今日はまた、一段とお美しい。あまりに眩しすぎて、ワタクシなどは直視することが出来ません」
 (…見てるじゃん、真っ直ぐ……)
以前会った時にもそうだったが、この人は、どうして、こんな歯の浮くようなセリフをスラスラ言えてしまうんだろう、と、他の人に言われれば照れもするだろうが、既にモネの中で、そういう人、となってしまっているナガ。モネは半ば感心し、半ば呆れる。
 と、隣からカイが小声で、
「モネ、何か一言返せ。この場はそういうものだ」
 (あ、そうなんだ……)
モネは急いで頭を働かせ、
「あの、えっと……、この間は、お世話になりました」
モネがサナの養生所で目を覚ました、あの日、最初にモネの族印に気づき、城に連れて行こうと言い出したのはナガだった。ナガがいなければ、カイに遠慮してしまってサナに会いに行けないといった不自由はあるにせよ、他は特に不自由無く落ち着いている今の生活は、無かったかも知れない。そう考え、礼を言う。
 返してナガ、
「もったいないお言葉です」
頭を垂れた。
 ムタが、ナガの次に並んでいたサナを呼ぶ。
  ナガは立ち上がり、もう1度お辞儀をしてから舞台を下りた。
 代わって、サナが舞台へ。
 (サナさん……)
モネは再び少し照れ、俯いた。
 サナは、ナガがやったのと同じように、モネとカイの前で片膝をつき、頭を垂れる。
 ムタが、
「水族(すいぞく)の長・サナ先生です」
サナを紹介。 
 サナ、顔を上げ、
「その後、お体の調子はいかがですか? 」
 モネは、まだ照れたまま、カイのほうをチラリと気にしてから、
「……はい、大丈夫です」
 「そうですか。それは良かった」
サナは穏やかな笑みを見せてから、頭を垂れた。
 モネは、サナとは、もっと話をしていたかったのだが、ムタが次の順番のシイを呼ぶ。もっとも、モネは今、サナと話すのに、自分の隣に座っているカイの目を気にしながら話していた上に、久し振りに会うからなのかサナが見慣れない燕尾服など着ているためなのか理由はハッキリしないが 今日は何となくサナと目を合わすのを恥ずかしく感じるため、このくらいで丁度良かったのかもしれないが……。宴開始前には、あれだけ、サナにドレス姿を見せたいと思っていたくせに……。
 サナが立ち上がり、もう1度お辞儀をしてから舞台を下りる。
 代わってシイが舞台に上がり、モネとカイの前で片膝をついて頭を垂れ、ムタからの紹介。
「地族(ちぞく)の長・シイ様です」
……と、そんなふうにして、シイの次は各種族の副長、続いて各居住地区会の三役、と、1人につき持ち時間20から30秒くらいで入れ代わり立ち代わりモネと短い会話を交わす。
 階段前の列が短くなってきたかと思うと、それまで食事をしていた人々や列席者同士の会話に忙しそうだった人々が新たに並び、結局、モネは、2時間半くらいの時間を、列席者と短い会話を交わすことで過ごした。
 階段前の列が無くなり、モネは、ホッと小さく息を吐く。結構、大変だった。返す言葉は、ほとんどが、ありがとうございます、か、よろしくお願いします、で間に合ったが、その同じ言葉の繰り返しが、逆に、最後のほうでは、自分で口にしていて違和感を覚えるようになり、本当に正しく相手の言葉に合った受け答えが出来ているのか不安になった。



 「皆様、お待たせいたしました。竜国舞踊が始まります」
舞台隅からのムタの言葉に、フロア前方にいた人々は後方へ移動し、前方を空ける。
 フロア前方入口から、見覚えのある三原色プラス黒・金・銀の派手な衣装を纏った十数人の人々が、それぞれ、楽器と椅子を手に入って来、入口を入ってすぐの隅に陣取った。竜国舞踊団の人たちだ。
 照明が薄暗く切り替わる。それまでのゆったりとした音楽が途切れ、代わって、隅に陣取った舞踊団の楽器担当の人たちが演奏開始。
 楽器担当の人たちによる、地を這うように低く腹の底に響く大音量の太鼓の連打に合わせ、フロア前方入口から、楽器の人たちとお揃いの衣装の踊り担当の人たちが10名ほど、フロア前方中央までいっきに駆け込んで来、力強く激しい、アクロバティックなダンスを始めた。
 (…ムタさん、竜国舞踊、って言ってたよね……? 何か、習ったのと全然違う……)
少々不安になりながら、そう小声でカイに言うモネ。
 返して、カイも小さな声で、
「竜国舞踊は、竜国建国を記念して作られた、竜族の歴史を音楽と踊りで表現した四部構成のものだ。今、踊ってるのは、竜族の誕生を表現した神話的色合いの強い第1部。モネが習ったのは、建国の歓びを表現した第4部だ」 
 (そうなんだ……)
納得し、安心したモネは、舞踊を舞台上の椅子から眺め、楽しむ。多分、踊っている人たちと同じ高さから観るより、高いところから観るのに向いている踊りなのかな、といった感じがした。
 迫力のある第1部。竜族の人間の世界での生活を表現した、もの悲しくも穏やかな第2部。誤解から人間たちに攻撃される、怒りと悲しみの第3部……。
 「モネ様」
第3部が終了して暗転した直後、舞台の袖から小さく声が掛かった。ナガだ。
 ナガは舞台に出て来、モネの前に片膝をついて気取った調子で、
「モネ姫様、、次の第4部、ワタクシメのお相手をしていただけないでしょうか? 」
 モネはカイに目をやり、無言で意見を仰いだ。
 カイは頷き、
「行ってこい」


 暗転中の頼りない視界の中、ナガに右手を預けたモネが階段を下り、フロア前方中央付近と思われる辺りまで歩いたところで、ガシャーン、と、シンバルのような派手な金属系の音。それが合図、といった感じで、これまでの第1・2・3部の時に比べ極端に明るい照明がつく。と、モネの周囲には、人・人・人。その人々の体と体の隙間から見えるフロア後方には、誰も人がいなかった。暗転の間に、フロア後方にいた列席の人々が全員、前方に移動してきていたのだ。
 モネの耳に、聞き覚えのあるテンポの速い明るい曲。大勢の人たちの中に紛れ、他の人にぶつかりそうになりながら、クルクルクルクル、ナガのリードで、モネは、極度に小さな動きで踊る。
 クルクルクルクル、踊りながらナガ、
「何か、特に楽しいことには、なっていないですよね」
口を開く。
 唐突すぎて、
(? )
何の話だか、全く分からないモネ。
 ナガは続ける。
「僕は、アナタが現れたことで、城の中が……もっとハッキリ言えば、カイ様やムタの立場が揺らぐのではないかと期待していたのですが。……だって、もしカイ様に王族の族印を持つ子供が生まれる前に、カイ様に何かあった場合、次に王族の長の座につくのは、アナタなのですよ? 」
 (? 次の王族の長、なんて、考えたことも無かったけど……。でも、うん、普通に考えれば、他に誰もいないんだから、私だと思う……けど? )
モネは、やはり ナガが何を言いたいのか分からない。
(だから、何? )
 「王族の長になりたいとは思いませんか? そのために、何か行動を起こそうとか……」
 ああ そういうこと、と、モネは、やっとナガの言わんとすることを理解した。それならば、答えは、
(全然)
だ。何かあったら、って、それって、どう考えたって、カイさんにとって不幸なことでしょ? カイさんの不幸なんて望まないし、そもそも、王族の長には、本当に、本気で、絶対に、なりたくない。カイさんを見てて、すごく大変だって分かってるから……。まあ、万が一カイさんに何かあって、その時には、仕方ないって諦めるけど……。と。
(王族の長になりたいと思わないか、なんて発想が出てくるってことは、ナガさんから見て、王族の長って、いいモノに見えてるのかな……? )
 ナガは、
「…つまんないなあ……」
遠い目になる。
 モネは、ナガを、ちょっと警戒心を持って見つめた。他人の不幸を望むような話を持ちかけてくるなんて、もしかして、この人って危険な人? と。
 モネのそんな視線に気づいてか、ナガ、ナガらしい甘い笑みを作り、
「お気になさらなくて結構です。揺らがせてどうこうというワケではなく、ただ、見て楽しみたかっただけですので」
 (見て楽しみたかった? 人の不幸を、わざわざ? )
モネには、ナガの感覚が全く理解出来ない。
 モネは、スッキリしない気分を抱えたまま踊り続け、第4部が終わった。
 相手をしてくれたことに対しての礼を言いながら、ナガは気取って一礼。
 モネも、何ともスッキリしないまま、こちらこそ、と返した。直後、ゆっくりとフロア後方へと向かう人波にのまれ、ナガの姿が見えなくなった。
 

 (ま、いっか……)
モネは小さく息を吐きつつ、心の中でそう呟いて、スッキリしない気分を消化してから、舞台のほうへ歩こうとする。しかし、他の人たちの進行方向が、速度がゆっくりだとは言えモネとは逆方向なため、思うように進めない。
と、その時、誰かが、グッ、と強引に、モネの手を掴んだ。
(! )
モネは驚いてその手を見、そこから繋がる腕を辿って、その手の主を仰いだ。
(サナさん……)
サナだった。
 サナは気遣わしげにモネを見、
「大丈夫? 席に戻りたいんだね? 連れてってあげるよ」
 モネは、咄嗟に舞台に目をやる。……カイの姿は無い。ホッとして、ものすごく照れながらもサナに甘え、連れてってもらうことにした。
 大きくて温かなサナの手。心が温かくなっているとハッキリ感じるのに、何故か落ち着かない……不思議な感覚。モネは、ずっとこのまま手をつないでいられたらいいのに、と、少し切なくもなった。
 サナは、器用に人々の間を縫って歩きながら、
「ドレス姿、素敵だね。よく似合ってるよ。他の人たちも、モネのこと、初々しくって可愛らしい姫様だって、褒めてたよ」
 (サナさん……)
ストレートに褒められて、モネは、嬉しいが、どうしようもなく照れくさく、俯く。
 俯いたまま数歩。ほんの少し照れが治まり、顔を上げた瞬間、
(! )
モネは思わず足を止めた。いつの間にかカイが舞台上にいて、モネのほうを見ている。
 モネは慌ててサナの手を離そうとしたが、急ぎすぎて、少し乱暴に振り払うような感じになってしまった。
 驚いた様子のサナ。
 (あ……)
モネは、手を振り払うように離してしまったことでサナが気を悪くしたのではと思い、何とか取り繕えないかと作り笑いをして、
「あ、あの、ここまでで大丈夫ですから……。ありがとう、ございました……」
 サナは怪訝な表情。
 しかし、サナのその表情より、今はカイが気になり、モネは、サナを見ながら後ろ歩きで舞台のほうへ進みつつ、もう1度、
「ありがとうございました」
言って、舞台のほうへ向き直り、舞台を目指した。


 サナと別れた地点より、ほんの2メートルくらい先からは、もう、人は まばらだった。モネは一旦、立ち止まり、小さく息を吐いた。
(何か、ノド渇いた……)
と、モネの真横 数メートルに位置する開け放たれた状態のフロア前方入口の向こうの廊下を、後方入口を目指しているらしい、グラスに入った飲物を盆に載せて通過している作務衣の男女の列が目に留まる。
(もらって来よ……)
 モネは入口へと歩き、廊下を覗いて、丁度モネの前を通り過ぎようとしていた女性を呼び止めた。
 女性は列から外れ、モネのすぐ前まで来た。
 モネは、女性の運んでいたオレンジジュースをもらい、すぐその場で、いっきに飲み干す。
 女性が小さく、明らかにモネの行動に対して、あっ、と声を上げた。
 (? )
モネは、女性のその反応に、軽く首を傾げながら、空いたグラスを女性の盆の上に返し、
「ごちそうさまでした」
言って、舞台へ向かうべく踵を返す。途端、クラッとめまいを感じた。疲れたからだと思い、早めに座ろうと、歩調を速める。直後、うっかりドレスの裾を踏み、
(! )
派手に転んでしまった。
 モネは恥ずかしくて、笑みを作りながら、転んじゃった 転んじゃった、と、独り言を言い、腕を突っ張って起き上がろうと、床に両手のひらをついた。が、視界は大きく揺れ、腕にも、思うように力が入らず、
(……? …何か……どうしたんだろ……? どう、しよう……)
そのまま突っ伏す。耳に何か詰まってでもいるように、全ての音が遠い。
 「モネ! 」
カイの声。体を仰向けに動かされる 視界が揺れていて自信が無いが、カイらしい顔が覗いた。
 「…あの……、申し訳ございません。多分、私が運んでいたお酒を、いっきにお召し上がりになられたためかと存じます。お酒であると、ご存知なかったのかも知れません。キチンと、お酒ですと、お伝えするべきでした」
誰のものか分からない声が、オロオロした感じで話す。内容からして、モネが口にしたオレンジジュースを運んでいた女性の声だろうか。
 (そっか……。あれ、お酒だったんだ……)
色も味も香りもオレンジジュースそのもので、全く気づかなかった。
 「いい、いい。気にするな」
カイの声が返す。
 そこへ、
「いかがなされましたか? 」
サナの声が聞こえた。
 モネは、
(ヤダ……、来ないで……)
お酒を飲んで、こうなった。酔っ払って、立てないでいるのだ。多分、自分は今、とてもみっともない姿をしている。
(こんな姿、サナさんに見られたくない……)
 カイが、酒を飲んで倒れたのだと説明すると、サナ、
「とりあえず、お部屋へ運びましょう」
背に、憶えのあるサナの腕の感触。モネは半身起き上がらせられる。
 (ヤダ……。お願い、どっか行って……)
モネの祈りにも似た強い思いが神様にでも通じたのか、
「いや、いいよ。俺が運ぶ」
カイの声とともに、サナの腕の感触が消え、代わって、感触に憶えの無い腕に支えられた。モネは、少しホッとする。
 「いえ、私が運びましょう」
今度は、ムタの声。
「主役であるモネ様がこのような状況になられた今、カイ様にまでお席を外されるわけにはまいりません。よろしいですね? 」
また、腕が変わった。話の流れからして、ムタの腕だろう。……有難い。こんな時は、自分のことを嫌ってる(ムタの言葉に置き換えれば、嫌っているのではなく、邪魔なだけ、ということだが)くらいの人物が職務に徹する形で、というのが一番いい。もともと嫌われているのだから、今さら、みっともない姿をさらすことでどう思われるかなどと気にする必要が無く、仕事だから、無責任にその辺に放り出される心配も無いから……。
 体が宙に浮き、揺られる感覚。
 「モネ様! いかがなされたのですかっ? 」
コリの声がする。
 ムタの声が、お酒を召し上がられて倒れられたのだ、と説明し、先に離れに行って布団の用意をするようにと言う。
 はい、と、コリの返事。



 ムタによって運ばれること数分。急に周囲が静かになり、明かりの眩しさも無くなり、心地よく冷たい空気が頬を撫でる。外に出たらしい。
 モネの真上から、大きく息を吐く音と、
「まったく……」
ムタの声。
 きっと今、ムタは、これまでの中でも最冷級の目で自分を見下ろしているに違いない、と、モネは思った。視界がボヤけていてよかった、と思った。 そんな視線をまともに受けたら、内臓まで凍りついてしまう。
 と、そこへ、
「ムタも忙しいでしょ? あとは僕が運ぶから、戻っていいよ」
突然サナの声が聞こえ、驚くモネ。
(サナさん、いたの……)
ショックだった。ムタしかいないと思い込み、安心しきって、余計にみっともない姿をさらしてしまっていたような気がする。
 サナの申し出に、ムタは、待ってましたとばかり、
「そうか? 悪いな」
即座に答えた。
 モネは、まるで荷物でも渡すかのように愛情のカケラも無く、ドサッと、ムタの腕からサナの腕に移される。
 (そんな……)
ムタさん、自分の仕事に責任を持とうよ……、と、モネは思った。
 自分をキチンと気遣ってくれているのが伝わってくるサナの腕の温かさが、今のモネには何とも居心地悪い。みっともない姿を見られて恥ずかしいわ、重いだろうと考え申し訳ないわ、さっきドレス姿を褒めてもらえたばかりなのに情けないわ、手を振り払うように離してしまったことについても、ちゃんと説明したいのに声は出ないわ、でも、そのためにモネがサナと接することについてカイの目を気にする理由など話せば、優しいサナのことだから、カイに気を遣ってモネと距離を置いてしまうかも知れず、それは絶対嫌だと思ったりで、もう、頭の中はグシャグシャ。色々な思いが頭を巡る。


                                   *



 ふと気がついた時、モネは薄暗い部屋で横になっていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。
見慣れた天井。自分の寝室だ。腕や脚、首元の感覚から、パジャマに着替えさせてもらって布団の中にいるのだということが分かる。すぐ脇にコリが座り前屈み気味に下を向いている姿が、モネの視界3分の1を遮っているが、モネの顔を覗き込んでいるワケではない。何かに集中している様子で、目が合わない。
(コリさん……? )
 その時、コリが座っている側のモネの顔の横で、何かが、この薄暗い部屋にあって今唯一の明かりである天井のナツメ球の、赤みを帯びた弱い光を反射した。
 (? )
モネは、目だけを動かして、その何かを確認し、
(! )
固まる。カミソリだった。そのカミソリは、コリの右手の中に握られている。コリはカミソリに集中していたのだった。
 まさか……と、モネの脳裏を、ある場面がよぎる。その場面は、宴の挨拶の件でコリがムタに文句を言いに行った際、ムタがコリに、自分の役目を果たせと言っていた場面。
(コリさんの役目って、こういうこと……? …私を、殺すの……? でも、ムタさんは、コリさんが役目を果たしさえすれば、私に親切にする用意があるって言ってたよね……? 死んじゃったら、親切にしてもらうことなんて出来ないけど……)
でも、もしかして、と、モネは思いつく。
(親切丁寧に弔ってくれる、っていう意味? )
 モネは、
(どうしよう! )
頭の中が真っ白になりかけたが、何とか自分を励まし、
(逃げなきゃっ! )
思考を保った。
(…でも、どうやって……? )
一生懸命考えを巡らす。顔のすぐ横にはカミソリがあるが、コリはまだ、モネの目が覚めていることに気づいていない様子だ。
(…カミソリとは反対方向に転がって、カミソリとコリさんから距離をとって、起き上がって、母屋まで逃げられれば……)
今、何時なのか分からない。 
(もしかしたら、もう宴はお開きになって、来てくれた人たちは帰って、カイさんも、他のお城で働いてる人たちも、皆、眠っちゃってるかもしれない。 でも、眠ってるなら逆に、カイさんは絶対に母屋にいる! カイさんを起こして、助けてもらおうっ! )
そう、結論を出した。しかし、
(出来る? )
速く走るのはもちろん、起き上がるまでの全ての動作も、素早く行わなくてはならない。モネは、今の今まで、酔っ払って寝ていた。
(大丈夫っ? 私! )
頭の中で考えたとおりのことが実行できるか、不安。
 だが、そんな、不安がっている場合じゃない。
(…やるしか、ないよねっ……! )
モネは、腹にグッと力を込め、いざ実行! ……と思った、その時、コリと目が合った。目覚めていることを、気づかれてしまった。
 「モネ、様……」
コリは大きく目を見開き、酷く驚いたような掠れた声で呟く。
 モネは、目の前が真っ暗になった。
 と、そこへ、
「コリ、モネの具合は……」
言いながら、カイが襖を開けて入って来、後ろ手で襖を閉めたところで、コリの手のカミソリを見つけてか、絶句。一瞬固まってしまったが、即座に ハッと我に返った様子で、コリの、カミソリを持つほうの手にとびつき、
「何やってんだっ! 」
手首を掴み上げ、カミソリを奪い取って部屋の隅へ投げ捨てる。
 (カイ、さん……)
ホッとし、いっきに力が抜けるモネ。 
 カイ、コリの手首を掴んだままモネを見、
「モネ、大丈夫か? 」
 モネは、何度も何度も頷きながら上半身起き上がった。
 カイは、大きく1つ息を吐いてから、今度は、真っ直ぐにコリを見据え、
「これは、どういうことだ? 」
 コリは、あ、あ……、と、掠れた声を漏らし、震えながらカイを見つめ返す。
 「どういうことかと聞いている! 答えろ、コリっ! 」
声を荒げるカイ。
 コリは、
「髪、を……」
掠れた声を絞り出すように、
「…モネ様の髪の毛を、いただきたくて……」
 (か、カミノケ……? )
ワケが分からないモネ。
(カミノケ、って、頭に生えてる、髪の毛のこと……? )
 カイも、
「は? 髪? 」
ワケが分からないといった表情を見せながら、姿勢を変えようとしたのか右足を動かし、直後、
「つっ! 」
小さく短く叫んで顔を歪めた。何か踏んだらしい。その足下には、1冊の厚めの本。
 カイは、コリの手首は掴んだまま身を屈め、その本を空いているほうの手で拾い上げた。 
 見覚えの無い本。モネの物ではない。
 カイは表紙を見、
「……まじないの本? 」
呟いて、モネを見、
「モネのか? 」
モネが首を横に振ると、コリに目をやり、
「じゃあ、コリのか」
本を持つ手の小指で器用に電気のヒモ引っ掛けて引っ張り、明かりをつけた。
 本の上部から、付箋などに使う小さな紙が1枚、覗いている。カイは、片手で付箋のページを開いて、本に視線を落とし、
「『特定の人物を嫌わせる方法』? 『使用する物。酢・5ミリリットル、白い木綿のハンカチ・1枚、嫌わせたい人物の頭髪・3ミリグラム』? 」
読み上げてから、再びコリを見、
「髪って、これに使うのか? 」
 コリは俯き、頷く。
 「モネを、誰に嫌わせるつもりだった? 」
カイの問いに、コリは言いづらそうに、
「…カイ様、です……」
答えてから、手首を握る力が弱くなっていたカイの手をバッと払い、正座し、畳に両手をついて低く低く頭を下げた。
「申し訳ございません! カイ様! モネ様! 」 
 カイ、
「…どうして、こんなこと……」
呟いてから、半ば呆れた調子で、
「って、そもそも、こんなものが本当に効果あると思うか? 」
 コリは身を起こし、しかし、顔は俯いたまま、
「…おかしいですよね? この歳で……。笑われても仕方ありません……。でも、私は、こんなものに頼るしかないのです。…私は、ずっと……、まだ、先代の王族の長……カイ様のお父様がご健在の頃より、カイ様を、自分のお仕えする方としてではなく、1人の男性として、お慕い申し上げておりました」
 (コリさんが、カイさんをっ? )
モネは驚いた。
(そりゃ、カイさんは悪い人じゃない……どちらかと言えば、いい人だとは思うけど……)
でも、コリさんほどの女性なら、カイさんよりも、もっと素敵な人とだって付き合えるはずなのに……、と思った。
 カイも、驚いた表情。
 コリは、俯いた状態で続ける。
「私はただ、カイ様のお傍で、カイ様の身の回りのお世話をさせていただけるだけで幸せでした。…ですが、この度、モネ様がいらして、私はカイ様の担当をはずされ……。それがカイ様のご希望によるものと聞かされ、モネ様に一生懸命尽くすことがカイ様の御ためになるのだと自分に言い聞かせて頑張ってまいりましたが、辛くて……。カイ様がモネ様を気にかけられていらっしゃるのを傍で見ているのが、本当に辛くて……。それを辛いと感じてしまう自分が醜いものに思えて、余計に辛くて……。…とても、羨ましかったのです……。モネ様がお城を抜け出してサナ先生のところへ行かれた夜、カイ様は非常に取り乱されていて……。お傍にいられるだけで幸せと思っていたはずなのに、自分も、あんなふうにカイ様のお心を乱して、ぶたれてみたい、などと……。私などが、モネ様に敵うはずもないのに……。あまりに辛くて、もう、お2人に離れていただくしかないと……。そのために、カイ様かモネ様どちらかに、お相手を嫌っていただくしかないと……。何て醜いのでしょう……。まじないなど、効かないことくらい、本当は分かっています。それでも……。それでも、何かせずにいられなかった……。滑稽ですよね……。…どうぞ、笑ってください……」
最後は消え入るように言い、それから、一度、息を大きく吸って吐くと、思い切ったように顔を上げ、モネとカイの顔を交互に見つめた。
「カイ様、モネ様。今まで、お世話になりました。私は明日、朝一番に田舎に帰ります。モネ様の大切な髪を切り取ろうなどと、大変なご無礼を働いてしまった今、もう、私は、ここにいることなど出来ません。……申し訳ございませんでした」
コリは深々と頭を下げ、
「どうか、お元気で……」
言うと、立ち上がり、襖のほうへ。 
 モネは焦って、
(ち、ちょっと……! )
コリを止めるべく立ち上がろうとしたが、頭がクラッ。立ち上がれなかった。
 「コリさんっ! 」
モネは、立ち上がれないまま、布団の上からコリの横顔を見つめ、叫ぶ。
「髪を切ろうとしたくらい、何でもないです! それに、切ろうとしただけで、切ってないでしょっ? 」
 しかし、コリは止まらず、襖に手を掛けて、開けた。
 と、立てないモネに代わってカイが追い、
「待ってくれ! コリ! 」
今まさに部屋を出て行こうとしていたコリを、二の腕を掴んで止めつつ、もう一方の手で、開けられたばかりの襖を閉める。
「モネの言うとおりだ、コリ。このことを知れば色々と言う者もいるかも知れないが、今、ここには、オレとモネしかいない。オレもモネも、誰にも言わない。だから、田舎に帰る必要など無い。……いや、帰るな。頼む、帰らないでくれ」
 コリはカイを振り返り、驚いた表情でカイを見つめ、掠れた声で、
「…カイ、様……」
 カイ、コリを見つめ返し、頷く。
「詫びなければならないのは、オレのほうだ。お前の心を知らず、悪かった……。許してくれ。モネはオレにとって、たった1人の大切な同種族なんだ。だから、信頼できるお前に頼みたかった。だが、それが、お前を苦しめることになるなんて……。……モネの世話は、他の者に頼もう。……オレのもとへ、戻ってくるか……? 」
 コリは両手を口元へ持っていき、信じられない、といったように、小さく、ゆっくりと首を横に振り、
「私は、幸せ者です。辞めようとするのを引き止めていただけただけでなく、信頼できる、などと、もったいないお言葉をいただき、カイ様の担当に戻してまでいただけるなんて……」
感激のあまりか、涙ぐむ。
 モネは、コリが辞めるのを思いとどまってくれたようで、安心した。
 そこへ、カイが、
「…いや、あ、のさ……。コリ……」
何故か言いづらそうに口を開く。
 コリは目に浮かんだ涙を指で拭い、少し不安げに、
「はい……? 」
 モネも、何だろう? と、軽く緊張して、カイの次の言葉を待った。
 カイは一度、目を伏せ、深呼吸。それから顔を上げ、覚悟を決めた、といった感じで、グッと喉の奥に力を入れ、力強く熱のこもった目でコリを見つめた。
「担当、じゃなくてさ……。オレの妻に、なってほしいんだ。…なって、くれるか……? 」
 モネは、
(うわっ……! )
他人事ながら、頬が変なふうに歪み赤くなったのを感じた。
(プロポーズッ? )
生で見たのなんて初めてだ、と、言うか、普通、当事者以外が滅多にお目にかかれる場面ではないはず……。
 (私、ここにいちゃ、いけないんじゃ……? )
そう考え、モネは、完全にモネの存在など忘れているくらいの勢いでコリだけを見つめるカイと、カイの前で大きく目を見開き小刻みに震えているコリに背を向け、カイとコリの立っているほうでないほうの襖へと、コソコソ這った。立ち上がるのは、まだ、ちょっと怖い。立ち上がろうとして万が一 倒れでもしたら、せっかくのカイとコリの2人の世界を台無しにしてしまう。
 這った姿勢のままで、音をたてないよう注意を払って襖を開けるモネ。背中で、
「コリ、返事を……」
とのカイの台詞を聞き、開けた襖から寝室を出、もう1度、カイとコリを振り返った。
「カイ様……。…はい……、はい……」
コリが涙声で何度も何度も頷き、カイが腕を伸ばして不器用にコリを自分の胸へと引き寄せるのを見届けてから、
(お邪魔しました……)
やはり音をたてないよう慎重に、襖を閉める。


 寝室の襖を閉めてから、モネは、意識して、ゆっくりと立ち上がった。急に立ち上がると、また目まいがするかも知れないと思ったためだ。
今度は平気だった。
一呼吸おいて落ち着き、足を踏み出す。
ソロリソロリ忍び足で玄関へ。靴を履いて、外に出た。
 玄関の戸を背中で閉め、モネは大きく息を吐く。空には、まん丸の大きな月。
(…キレイ……)
散歩でもしようと、庭園へ。



 モネは、離れの門を出て真正面、池の向こう側に、1つの人影を見つけた。
(…サナ、さん……? )
人影は遠く、大きな月が出ているとは言え、やはり夜なので暗くて、顔など分かるはずもないのに、しかも今日は、宴に出席していた男性のうちナガ以外の全員が似たような黒の燕尾服を着ていたのに、モネには、何故か、池の向こうの人物が、サナにしか見えなかった。
 モネは、そうだ、と思い出す。竜国舞踊の後、舞台まで連れて行ってもらっている途中に振り払うように手を離しちゃった事情を、サナさんに説明しなきゃ、と。
優しいサナのことだから、モネがサナと接することについて、カイの目を気にする理由を話したりすれば、カイに気を遣ってモネと距離を置くようになってしまうかもしれない。しかし、そんな理由は、もう過去のこと。今、カイには、コリがいる。その部分までキッチリ話せば大丈夫だ。


 早く説明したくて気持ちがはやり、自然と駆け足になった、池の反対側を目指すモネ。
母屋の庭園に面した出入口前を通過中、実にタイミング良く、戸がガラッと開き、ビクッ。反射的に飛び退いて 足を止め、戸のほうに目をやる。
 「モネ様」
ムタだった。
「窓から拝見いたしました。走ったりなどされて、お体の具合は、すっかりよろしいようで……」
相変わらずの冷視線。だが、今回は仕方ない。宴の席で酒を飲んで倒れてしまったことで、おそらく、大変な迷惑をかけてしまった。宴について責任ある立場にあれば、ムタでなくても似たような目をしたに違いない。
 モネは素直に反省し、
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした。それで、宴のほうはどうなりましたか? 」
謝った。
 返してムタ、淡々と、
「別に、モネ様などいらっしゃらなくとも、宴くらい無事に終わります。もう小1時間ほど前に宴は終わり、今は、お時間に余裕のある方々だけ残られて、別室にて、お酒を楽しまれておられます」
 (モネ様などいらっしゃらなくとも、ね……)
この言い方、本当に嫌われてるなあ、とモネは思った。
(ああ、そっか。嫌われてるんじゃなくて、邪魔なだけだっけ……? でも、まあ、私のせいで困ったことにはならなかったみたいで、よかった)
と、ホッとする。
 「ところでモネ様」
ムタが、冷たい目のまま、
「カイ様がどちらにいらっしゃるか、ご存知ありませんか? 」
 モネ、
(この人は……)
人にものを尋ねる時くらい、その目の温度を何とか出来ないものかと呆れながら、
「カイさんなら、離れにいますけど」
返し、
「お1人でですか? 」
との、重ねての質問に、
「いえ、コリさんと2人で」
特に何も考えず普通に答えてしまってから、ハッとして口を押さえた。ムタに言ってはマズかったのではと思ったのだ。
(ムタさんって、コリさんのお兄さんだった……)
もしも反対されて、せっかく芽生えた2人の恋を邪魔されでもしたらどうしよう、と。
(そうしたら、私のせいだ……)
モネは、恐る恐るムタの顔色を窺う。
 ムタの顔色は変化無し。目の温度もそのままに、
「コリと2人きりで、ですか? 何をなさっていらっしゃるので? 」
 (何を、って……)
モネは、さっきのカイのプロポーズシーンを思い出し、思わず赤くなる。
 モネが答えないでいると、ムタ、
「モネ様のお口からは、おっしゃることをはばかられるようなこと、ですか? 」
 その言葉に、モネは焦って首を横に振り、
「あ、いえ、そんなことは……! 」
否定しかけて、
(……どうだろう? )
自信をなくした。今頃はちょっと分からない、と思った。2人とも大人だし、部屋には布団まで敷いてあるし……、と。 
 とにかく、邪魔はされたくない、と考え、
「あの、実は……」
もうここまで話してしまったのだから、事実をキチンと説明して理解を求めようと思い、モネは、覚悟を決めて口を開いた。
「さっき、カイさんがコリさんに、妻になってほしいってプロポーズして、コリさんが、OKしたんです」
 ムタは、驚いたように目を見開いたかと思うと、
「そう、でしたか……」
ニヤリと、僅かだが確かに、口元を歪めた。
 その様子に、モネは、
(な、何……? )
不安に駆られた。ムタが、モネの話にどう思ったのか、全く分からない。やっぱり言うべきじゃなかったのかも、と、後悔。
 不安のためにドキドキしながら、モネ、
「ムタさんは、2人の結婚に反対ですか……? 」
 ムタの答えは、
「いえ、カイ様もコリも、もう立派な大人ですから、私がとやかく言うことではございません」
 モネは、とりあえず、ホッ。 
 しかし、その直後、
「モネ様」
ムタの、モネに向ける視線の温度が、にわかに上昇。
「カイ様とコリのために離れにいらっしゃり辛いお気持ち、お察しいたします。どうぞ、母屋の中へ。すぐに、お飲物をご用意いたします」
相手がモネなのに、親切なことを言う。
 モネは、
(ぶ、不気味……っ! )
ムタが何を考えているのか、本当に分からない。分からないが、カイとコリの邪魔をする気は無いらしいことだけは確認できたため、
「いえ、わ、私は、散歩の途中なので……っ! 」
と断り、そそくさと、ムタの前から逃げ出した。
 

 ムタの姿が見えない位置まで逃げてから、ああ、怖かった(いつもと違う意味で)……、と、モネは大きく1つ息を吐く。
 それから、
(一体、何だったんだろ……? )
ムタの急な態度の変化について、あまり真剣にではなく考えつつ、さっきサナが立っているのが見えた、離れの門の前から見て、丁度、池の対岸にあたる場所を目指した。



 離れの門の前から見えた、池の向こうに立っていた人物は、やはりサナだった。離れの方向を、何やら深刻そうな面持ちで見つめている。
 (何か、悩み事……? )
モネは、声を掛けていいものかと迷い、サナのいる場所より少し手前で、一度、足を止めたが、今日中に、振り払うように手を離してしまった事情を説明しておきたくて、そっと歩み寄り、遠慮がちに、
「サナさん」
声を掛けた。
 サナはビクッとし、モネを振り返る。
「モネ……」
それから、気持ちを切り替えるためか、1度 軽く息を吸って吐いてから、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、
「体の具合はどう? 」
 そう言われて初めて、モネは思い出した。酔っ払って、サナに、みっともない姿を見せてしまったことを……。手を振り払うように離した事情を説明したいので頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。途中でムタに出くわしたアクシデントの際に一度は確実に思い出していたが、その後、ムタの態度がおかしかったこともあり、再び完全に頭の中から抜け落ちてしまっていたのだった。
 モネは急に恥ずかしくなって俯き、はい大丈夫です、と、小さく返事する。
 サナ、それは良かった、と、優しく返してから、
「ところで、モネは、ここで何をしてるの? 」
 モネは、恥ずかしさから立ち直ることが出来ないまま、それでも、そのために来たのだからと顔を上げ、
「目が覚めちゃって……。散歩でもしようと思って外に出たら、サナさんがいるのが見えて、…あの……、さっき、宴の時に、私、サナさんの手を振り払うみたいに離しちゃったりしたでしょ? そのことで、サナさんが気を悪くしたんじゃないかって……。それで、そんなふうに手を離した事情を、ちゃんと説明したくて……」
話すとわりと長くなると分かっているため、どう話せば ちゃんと伝わるか、考えながら話す。
 サナは優しい笑みで、
「それなら、大丈夫だよ。気にしてない」
応じてから、スッと笑みを消し、真顔になって、
「事情も大体分かるよ。…カイ様、だね……? 」
 モネは驚く。
(知ってたの……? )
 サナは、モネの両肩をグッと掴み、目の奥を覗いた。真剣な眼差し。
 (っ? )
突然のサナの行動に、また驚くモネ。
 サナ、押し殺した声で、
「何も怖がらないで、本当のことを教えてほしいんだ」
 (…本当のこと……って? )
モネは、サナの言っていることが分からない。
 サナは、辺りを素早くキョロキョロッと見回してから、再びモネの目の奥を見つめ、やはり押し殺した声で、
「……モネ、君、カイ様から虐待を受けてるね? 僕と話したりすると怒られるんだね? 」
 (虐待? カイさんが、私を? 何で、そんな話になってるの……? )
モネが否定するために口を開こうとしたところへ、サナの言葉が続く。
 「大体、僕やシイやナガが、君をお城に連れて行った日の夕方、診察のために僕が改めて君を訪ねた時から、突然泣き出したりして、君の様子は おかしかった。僕はその時、君の、大丈夫 何でもないって言葉を、そのまま信じてしまったけど……。 町で偶然、カイ様と君に会った時も、君は、僕と話した後、カイ様のところへ戻るのを躊躇ったよね? その時は、特に何とも思わなかったけど、それだって、今になって考えてみれば、おかしい。君が夜、突然、僕の養生所を訪ねて来た時も、迎えに来たカイ様が君を殴ったのは躾だったんだろうけど、正直、あんなに強く殴る必要は無いんじゃないかって思った。殴られた後、カイ様に手を引かれて連れ戻されて行く時、君は、ハッキリと僕に助けを求めたよね? ……その時だよ。僕が初めて、カイ様の、君への虐待を疑ったのは……。僕ね、ずっと、後悔してたんだ。君が養生所に来てすぐに、僕は、お城に連絡してしまったけど、連絡する前に、じっくり君の話を聞いて、保護してあげるべきだったんじゃないのかって……。僕は、君が僕に会いたかった理由を、単純に、僕に好意を寄せてくれているからだと思ったんだけど、助けを求める君を見て……。お城で何か辛い目に遭った君が、誰かに優しくして欲しくて、僕なら優しくしてくれるんじゃないかと考えて、僕を訪ねて来たんじゃないかって、感じたんだ。それから、ずっと気にしてた。いつでも来ていいって言っておいたのに、君は結局、今日まで1度も来なかったし……。気になって、何度かお城まで覗きに来て、その時は、変わったことは見受けられなかったけど、今日、宴の時に、次第で決められた、皆が順番で君と短い会話を交わす時にも、君が気にしてた、僕の手を振り払うように離してしまった時にも、君は、カイ様の視線を意識してた。君がお酒を飲んで倒れた後、僕が君を診ようとしたら、コリさんが、カイ様のご指示ですから、って言って、わざわざヲリタ先生を呼んだんだ。……ヲリタ先生は、カイ様の遠縁にあたる。カイ様にとって、僕に見られてマズイものも、ヲリタ先生だったら平気だからじゃないかって思えた。……例えば、君の体に、僕が以前診察した時には無かった不自然な傷がある、とか……。今だって僕は、心配で、離れの見えるこの場所から、離れられなくなってたんだ。……宴がお開きになって、僕は、シイやナガ、副長、三役さんたちと一緒に、カイ様を囲んでお酒を飲んでいて、暑くなってきたから、少し涼もうと外に出てたら、カイ様がお酒の席を抜け出して離れに入って行くのが見えて……。こんな言い方をすると、君が気にするかも知れないけど、君がお酒を飲んで大勢の人の前で倒れたことは、カイ様にとって、恥だよね? そんなことがあった後で、また君が、カイ様から殴られてたりするんじゃないかって……」
 (サナさん……。サナさんが、私のことを気にしてくれてた……心配してくれてた……)
気にしてた、とか、心配、とかいった言葉の甘さに、モネは酔いそうになった。サナの心の中に自分がいたことが嬉しくて……。しかし同時に、カイに対して申し訳なく思った。何も悪いところの無いカイが、どういった加減か、悪者扱いになっている。確かにカイは、1度だけ、モネに手を上げた。その時、モネがカイを怖がったのは事実。だが、それ以前の、サナが診察に来た時に泣いただとか、町で偶然会って話した時にサナから離れてカイの所へ戻るのを躊躇っただとかは、モネのサナに対する恋心によるもの。養生所を訪ねた理由だって、サナが最初に思った、僕に好意を寄せているから、で正解だ。夜に養生所を訪ねて以降、いつでもおいでと言ってもらえてあったにもかかわらず行かなかったのは、カイを気にしてのことではあったが、結局は、モネ自身の考え。……カイさんの名誉のためにも、ちょっと、のん気に酔いしれてるワケにはいかないな、と思い、モネ、
「サナさん、違います」
口を開く。
「私、虐待なんてされてません」
 サナは、モネの心を探るように、目の奥をジッと見つめる。
 あんまり見つめられて、モネは、何だかいたたまれなくなった。…虐待の有無の真実だけでなく、サナに心配をかけて喜んでしまったような部分まで見透かされてしまいそうで……。
 モネは1度、深呼吸。腹にグッと力を込め、自分のパジャマの上着の裾を両腕をクロスさせて掴み、少し……、いや、かなり恥ずかしいが、
(これしかない)
いっきに脱ぎ、続いて、ズボンも下ろした。
 「モ、モネっ? 」
驚き、動揺した様子のサナ。
 モネ、サナを真っ直ぐに見つめ、
「サナさん、見て下さい。傷なんて無いです」
 サナは小さく息を吐き、首を軽く横に振って、冷静な医者の表情を取り戻し、1度、しっかりとモネの体の前面を見、それから、モネに後ろを向かせて背中を確認し、
「うん、無いね。分かったよ、モネ。分かったから、服を着て。風邪をひくよ」
言って、モネがパジャマを着るのを待ち、
「ゴメン、僕の思い違いだったみたいだね」
申し訳なさそうに言ってから、
「でも、思い違いでよかった……」
穏やかに笑んだ。 それから、ふと思い出したように、
「そういえば、モネ、君、どうやって離れから出てきたの? 僕、ずっと離れを見てたんだけど」
 (どうやって、って……)
モネが、普通に、と答えると、サナ、
「ずっと見てたつもりだったけど、ボーッとしちゃってなのかな? モネは、多分、その間に出てきたんだね」
 うん、それしかないよね、と、モネは思った。だって、自分は本当に普通に出てきたから。
(きっと、すごく心配してくれてたんだ……。心配しすぎて上の空になっちゃうくらい……)
モネの胸が、甘い息苦しさで満ちた。




                                  * 7 *



 モネは午前中、カイとの結婚が正式に決まったコリの後任でモネの担当となったチャミと共に、このところ体調を崩しているカイに代わり、学問所の球技大会に来賓として出席してきた。
 学問所から城の離れに帰って来、黒テーブルのある部屋で茶を淹れるところまでモネの世話を焼いてから、チャミ、
「ではモネ様、私は厨房に、モネ様がお戻りになられたと伝え、昼食の用意をするよう言って参ります」
言って、離れを出て行った。
 

 モネは、黒テーブルの下に置きっ放しにしてあった木箱の中から、カードの束とノート、ペンを出して、テーブルの上に広げた。 
 カードの束は、モネのお披露目の宴に来てくれた人たちへの御礼状。出来るだけ早くとムタから言われているため、少しの空き時間も無駄にせず 書き進めることにしていた。ノートには、御礼状を送る相手の名前と送り先住所、それから、決まった文面以外にモネが一筆書き加える参考にと、送る相手ひとりひとりとモネが宴の際に舞台上で交わした会話が書かれている。このノートは、ムタがまとめた物。宴の日を境に、ムタは突然、モネに親切になった。喋り方は相変わらず淡々としていて感情も読み取りづらいが、視線は冷たくなく、その言動からは思いやりさえ感じられることもある。コリが役目を果たした、ということなのだろうか。
(そういえば、コリさんの役目って何だったんだろ……? )
ふとそんなことを思い、ペンの動きを止めてしまうモネ。すぐにハッと気がつき、
(マズイ、マズイ)
慌ててペンを動かす。
 と、その時、玄関の戸が、いつになく乱暴に勢いよく開閉される音。
 (? )
モネはペンを持つ手を休め、顔を上げた。
 直後、玄関に通じる障子が開け放たれ、
「モネっ! 」
いつもの白衣姿のサナが、モネの靴を片手に持ち、土足のまま駆け込んで来た。
 (サナさんっ? )
どうしたの? などと聞く間もモネに与えず、
「逃げて! 」
サナはモネの右の二の腕を掴み、上に向かって引っ張り上げて、強引に立ち上がらせながら叫ぶ。
「いや、とりあえず隠れてっ! 」
 (? ? ? )
ワケが分からないモネ。ただ、モネの二の腕を掴んでグイグイ引っ張り何かを探すように辺りをキョロキョロ見回しながら黒テーブルの部屋の奥の部屋、その隣の寝室へと大股で歩くサナは顔面蒼白で、ただ事ではないことだけは分かった。


 サナは寝室の押入れに目を留め、その前で足を止めると、モネの靴を持ったままの手で押入れの襖を開け、その中を確認したように頷いてから、モネの腕を離し、モネの靴をモネに渡し、屈んで、押入れ下段に積んである座布団数枚の1山を、積んだままの状態で、その奥の空きスペースに押し込み、現れた押入れの床に人指し指を向け、高圧の水を放出して、床に、座布団の大きさより少し小さめの円を描いた。 
 円の内側がガタッと音をたてて落ち、床にポッカリと穴が開く。
 サナ、穴の手前に膝をつき、縁に手をかけて体重を支えて、1度、穴の中に顔を突っ込んで覗いてから、上体を起こしてモネを振り返り、
「靴を履いて入って」
 その言葉に、
(その、穴に? )
躊躇うモネ。…何か、変な虫とかいそうなんだけど……、と。
 サナは立ち上がり、モネの背後に回って、
「いいから入って」
押入れのほうへ向けてモネの背を押す。
 モネは、サナの目の中に激しい苛立ちを見つけ、逆らえずに、サナの言うとおりにした。穴は浅く、モネの太腿までの深さしかない。
 サナもモネに続いて押入れの中、穴の横のスペースに窮屈そうに入り、自由に身動きがとれない中で、何とか、といった感じで押入れの襖を閉めてから、モネに、行けるはずだから、と、完全に穴の中に入って奥に詰めるように言う。
 モネはサナの言葉に従い、しゃがむ格好で頭まで穴に入り、1歩分ほど奥へ詰める。そこは、真っ暗でよく見えないが、かなり広い空間になっているようだった。
 サナも穴の中に入って来つつ、さっきどかした座布団を穴の真上に移動させ、穴に蓋をした。
 穴の中の空間が、自分が目を開けているのかどうかさえ疑わしくなるくらいの深い闇に閉ざされ、すぐ傍にいるはずのサナの姿も見えず不安になったモネが、
「サナさん」
サナを呼ぶと、耳元で、
「シッ! 」
温かい息と共に、押し殺した声。
「大丈夫。ここにいるよ。後で、ちゃんと色々説明するから、今は静かにしてて」
そして、肘のあたりに、憶えのある温かな感触。サナの手のひらの感触。サナの手のひらは、探るようにモネの肘から腕を伝って、モネの手のひらまで辿りつき、ギュッと握る。
 (サナさん……? )


 そこへ、玄関の戸が開く音。複数と思われる足音が、遠くから、次第に近く。ややして聞こえた、
「どちらへいらしたのでしょうね」
ムタの声は、とても近い。 
 「なあ、ムタ、」
体調が悪いためか深刻そうに沈んだように聞こえるカイの声が続く。
「本当に、モネを差し出さなけりゃならないのか? あれって……、あの話って、本当なのかな……。オレ、聞いたことねーよ」
 「私も、聞いたことがございませんでした」
ムタは、いつもと変わらず淡々とした調子。
「何らかの考えから、先人が隠したがったのかも知れませんね。そして実際に、これまで隠しおおせた……。王族の系図によると、竜国建国以来、姫君は1人も、お生まれになっておられませんから。今を生きる私どもの立場から言えば、きちんと伝えておいていただかなければ困ることなのですが……」
 カイのものだろうか、大きな溜息が聞こえる。
「オレ、この国が大好きだけど、もし、あの話が本当なら、もう、今までみたいには、この国を誇れねえよ。人1人の犠牲の上に成り立った国なんて……。モネ……可哀想に……」
泣いているのか、カイの声は震えている。
「どこに行ったのか知らねえけど、このまま見つからなけりゃいいって、正直、思っちまうよ……」
 「カイ様! 」
ムタが珍しく大きな声を出して、カイの言葉を遮った。
「王族の長としてのお立場をお忘れになられてはなりません。国と国民を守ることが、王族の長の務めでしょう。それに、この国が消滅すれば、カイ様も、カイ様の大切なコリも死んでしまうのです。モネ様だって、どのみち死ぬことになるのですよ」
 「…そう、か……。…そうだよな……」
深い溜息と混じり、消え入るようなカイの声。
 「とにかく捜しましょう。つい先程、チャミが厨房に、モネ様がお戻りになられたと伝えてきたばかりです。この事態を知ってお逃げになられたのだとしても、まだ、そう遠くへは行かれていないでしょう」
相変わらず淡々としたムタの声。
 遠ざかっていく足音と、続いて、玄関の戸の閉まる音が聞こえた。
 モネは、
(どういうこと……? 私を差し出すって……?  あの話って、何の話……? 竜国が消滅するっていうのは……? )
カイとムタの会話の内容は全く掴めなかったが、ただ、自分が、とてつもなく大きくて、けっして良くはない話の中心に置かれていることだけは感じ取れた。…何だか、怖い……。
 「行こう」
サナが押し殺した声で言って手を引っ張ったが、モネは体が震えて動けない。
 「モネ? 震えてるの? 」
 「サナ、さん……。今の、カイさんとムタさんの話って、どういうことですか……? 」
モネのその問いにサナ、何か考え深げな躊躇ってもいるような沈黙。
 モネは、不安と緊張に押し潰されそうになりつつ、サナの返答を待った。自分で質問しておきながら、ほんの1秒、時間の経つごとに、答えを聞くのが怖くなっていく。
 ややして、軽く息を吸って吐いてから、覚悟を決めたようにグッと息を詰めて、
「絶対に大丈夫だから、落ち着いて聞いて」
低く、そう前置きし、サナは話した。……それはさっき、サナがカイを診察中のことだった。以前にもサナから聞いたことのある竜国を創った神であるリュウシンが、突然、窓の外に現れて、カイに、モネを差し出すよう言ってきたのだ。そういう約束だったはずだ、約束を守らなければ、この国は消滅することになる、と。全く話が掴めずにいるカイに、リュウシンは説明した。竜国建国の際、リュウシンは、引きかえに王族の姫を2人、生贄として差し出すよう要求したが、当時、姫は1人しかいなかった。その1人しかいない姫は、竜族の皆に平和に幸せに暮らしてほしいからと、自分1人で何とかならないかと リュウシンに願い出た。リュウシンは、その姫の気持ちに打たれて、その姫1人を飲み込み、竜国を創った。次に姫が生まれた時には差し出す約束で。その、次に生まれた姫というのが、モネだという。この156年の間、王族に生まれたのは男子だけだったのだ。156年という歳月は、リュウシンの予想を遥かに超えて長かった。本来2人必要なところを、1人のまま156年。力が足りず、竜国の空間を支えきれず、まだ竜国に暮らす人々が気づくほどではないが、既に空間は収縮の兆しを見せ始めた。このまま本格的な収縮が始まれば、もう、リュウシンの力をもってしても止められない。空間は収縮を続け、最終的には空間に押し潰される形で全てが消滅することになるのだという。収縮を止めるためには、どうしても、あと1人の姫の犠牲が必要。他に方法は無い、と、リュウシンが頭を悩ませていた折、リュウシンは、竜国に姫の気配があることに気づき、今なら、まだ間に合うということで、急いで、姫であるモネを貰い受けるために竜国にやって来たのだ、と。
「日没までの猶予を与えると言い残して、リュウシンは去って行った……。 それで、カイ様とムタが、君を捜してるんだ」
 (…そ、んな……。生贄、って……)
モネは、震えが止まらない。
(私、死ぬの……? )
 モネの心の中の声が聞こえたのか、サナ、モネの上体を自分の膝の上に引き寄せ、覆い被さるようにして包み込んで、
「大丈夫だよ、モネ。僕が守るよ」
力強く言う。
 サナにそんなふうに包まれても驚きも緊張も出来ないほど動揺しながら、でも、と、モネは、暗闇に目が慣れてきていても輪郭程度しか見えないサナの顔を、首を無理に捻って至近距離から見上げた。
「でも、私を差し出さなきゃ、竜国は消滅しちゃうんでしょ? そしたら、皆……。サナさんも……。…私だって、ムタさんも言ってたけど、どっちみち……」
 サナ、上体をモネから浮かせ、しっかりと見つめあう形になるよう顔の向きを合わせて、
「大丈夫。そんなことにはならない。落ち着いて考えれば、モネも皆も助かる良い方法が、きっとあるよ。今は、突然のことで、カイ様もムタもパニックになってる。隠れて、もう少し時間をおいて、カイ様やムタの気持ちが落ち着くのを待つんだ」
 (落ち着くのを待つ、って……)
今は、もう午後だ。日没まで、あと、せいぜい5時間。その間に、カイさんやムタさんは落ち着くの? 落ち着いたところで、どうなるの? 国を1つ ポンと創ってしまうような力を持つスゴイ神様が、他に方法は無いって言い切ってるのに……。 
 モネがそう言うと、サナ、再びモネに体を密着させ、
「大丈夫。大丈夫だよ」
 (サナさん……)
温かい……。
ああ、私は本当にサナさんが好きなんだな、と、モネは思った。サナの言うように絶対大丈夫などと、助かる良い方法があるなどとは 全然思えないが、
「いつか買物中のモネと会った商店街近くの鉄道車両の駅の、次の停車駅の近くに、今は誰も住んでない僕の生家があるんだ。とりあえず、そこに隠れよう」
との、サナの言葉のとおりにしてみてもいいと思えたから。…大人しくしていても同じ死んじゃうなら、ちょっとでも長くサナさんと一緒にいたい……、そう思った。そのために逃げてみてもいいかも、と。
 大好きなサナさんと出来るだけ長く一緒にいられる努力をしよう、という方向で心が決まったことでか、モネの震えは止まる。
 「さあ、動けるね? 」
サナの言葉に、モネは頷いた。…ほんの少しだけ、迷いはある。カイさんに王族の長としての立場があるように、自分にも、王族の姫としての立場があるのでは、と。王族の姫としては、国民のため、逃げたりせずに、大人しくリュウシンに差し出されるべきなのでは、と。本当に、少しだけ……。  
モネは、156年前の姫をエラいと思った。自分は、頭の中では、リュウシンに差し出されるべきなのでは、なんて考えても、実際にそうする気になんて、ちょっとなれないから……。



 真っ暗な床下を四つ這いで進むサナを見失わないよう、後ろにピッタリとくっついて、同じく四つ這いで進むモネ。
 サナは時々モネを振り返っては、
「モネ、大丈夫? 」
と、気遣った。
 地面についたモネの指先が、ふと、割れた卵の殻くらいの微妙に硬く微妙に軟らかいものに触れる。直後、おそらくモネが触れた、その微妙に硬くて微妙に軟らかいものが、サララと優しい感触で、モネの手の甲の上を通り過ぎた。ゾワッと鳥肌がたち、
(…やっぱり、いた……! )
モネは固まる。
 思わず大きな声を出しそうになったところへ、
「モネ? 」
モネが自分のすぐ後ろにいないと気づいたらしいサナの声がかかり、モネはハッとして、叫びたいのを堪え、急いでサナのほうへと進み、追いついた。


 少しして、サナは止まり、
「モネ、ちょっと さがって待ってて」
言いながら、僅かに後退。
 モネも、それに合わせてさがった。
 「クッ! フッ! 」
と、息む声が聞こえ、モネは、
(? )
続いて、ゴ、ゴ……と、重たくて硬い物同士が擦れ合う時のような音と、荒い息遣い。
(? ? ? )
やがて、ゴト……、と鈍い音と、微かな震動。同時に明るい光が射し、モネは目を細めた。コンクリートのようなもので出来た離れの土台部分に、サナがギリギリ通れる程度の大きさの四角い穴が開いたのだ。
(今、ずっと聞こえてた音とかって、サナさんが穴を開けてた音だったんだ……)
 その穴の向こうに、離れを囲う背の低い藁の塀が見えた。
 サナが穴から顔を出し、左右をキョロキョロ。それから全身、穴から出、また辺りを気にする様子を見せてから、モネのいる床下を覗き、
「モネ、出てきていいよ」
 その額には汗がビッシリで、穴を開けるのが大変だったことを窺わせた。聞こえていた音からしても、押入れの床に穴を開けた時のような指1本の作業ではなかったはずで、モネは、
(サナさん……)
肉体労働には向いてなさそうなのに、私を逃がすために……、と、申し訳なく思いながらも、少し、くすぐったいような気分にもなった。 
 そんなくすぐったい気分に、モネは罪悪感。サナさんは真面目に私を逃がそうとしてくれてるのに、と。もっと真面目にならなきゃ、と。
(死んじゃうのに、どうしてサナさんみたいに真剣になれないんだろう……)
モネは、自分が分からない。…サナさんからカイさんとムタさんの会話について説明してもらった時には、怖くて、ちゃんと震えてたのに……、と。しかし、
(……)
白衣の袖でそっと額の汗を拭うサナを見つめていて、
(…そっか……)
分かった気がした。モネが穴から出るのを、周囲を警戒しつつ待つサナが発する緊迫感。
(死んじゃうのに、じゃない。どうせ死んじゃうって分かってるから、なんだ……)
動機が違う。
(サナさんは、私を死なせないために逃げてる。…私は……サナさんと出来るだけ長く一緒にいるために逃げてる……。私の逃げる動機は、弱いんだ……)
これじゃあいけない、と思った。サナさんに失礼だ、と。どうせ死んじゃうからとか一緒にいるために逃げるとか、そういう考え方の部分は変えられないにしても もっと真剣にならなきゃ、と。
(サナさんと出来るだけ長く一緒にいたい気持ちは本当なんだから、もっともっと、強く強く、そう思い込めば、真剣になれる……かな? )


 穴を通って離れの床下を出ると、モネは、サナの手を借りて藁の塀を越え、すぐ目の前の薄紅の花が咲く低い木の陰に入り、身を隠した。
連なる低い木の陰を、サナの後ろから、サナに倣って姿勢を低くして進む。
 庭園内は、いつもより作務衣姿の男女の行き来が多い。モネを捜すよう言いつけられたのだろう、と、サナが言う。しかし、その理由までは教えられていないのか、何となく、のんびりしている。



 作務衣の男女に見つからないよう注意を払いつつ、サナの後ろに従い、モネは、城の敷地をグルリと囲う最も外側の塀まで辿り着いた。
 サナは低い体勢のまま、塀の下のほう、石垣部分に人指し指を向けて、離れの床下から抜け出す際に通った穴と同じくらいの大きさの四角を、高圧の水で描いた。それから、その四角の内側に右肩をつけ、
「クッ! フッ! 」
と声を漏らし、顔を真っ赤にしながら満身の力を込めて押す。
 離れの土台にも、こうやって穴を開けたのか、と、見守るモネ。だが、今度は無理そうだ。離れの土台と塀の石垣部分とでは、厚みが違いすぎる。
 案の定、暫くしてサナは、石垣を押すのをやめ、ハアッと大きく息を吐きつつ、背中で石垣に寄り掛かって、
「やっぱ、ダメだ……」
 モネは、サナがこれだけ頑張っているのに自分は見てるだけ、というのでは申し訳なく感じ、肉体労働が向いてなさそうとは言え男性のサナでどうにもならないものが、女である自分の腕力でどうなるワケでもないと分かっていながら、サナの隣へ行き、両手で四角の内側を押す。
やはり、ビクともしない。
 それを見ていたサナ、ちょっと笑って見せ、
「無理だよ、モネ」
モネにさがっているように言い、石垣に向き直る。
 「他に方法が無いわけじゃないんだ。ただ、加減が難しいし、危険だから、出来るだけやりたくなかったんだけど……」
 サナは、今度は石垣に直接触れず、10センチほどの距離から、四角内に両手のひらを向けた。
手のひら全体から、それはもう既に水には見えない白い塊が現れた。塊の周囲に飛び散る飛沫が、辛うじて、その物体が液体であることを証明している。
 ガコッ!
塊に圧された四角の内側がいっきにヘコみ、塀の向こうにふっ飛んで、石垣部分に穴が開いた。
 (…スゴイ……! )
目を見張るモネ。
塀の向こうにふっ飛んだ四角が、塀の向こうの障害物の無い芝の斜面を勢いよく滑っていくのが、穴から見えた。
やがて、ザザザザザザ、と、四角は斜面の下のほうに密集して植えられた背の低い木の茂みに突っ込み、茂みの木の数本を犠牲にして止まる。
ああ、サナさんの言うとおり、確かに危険かも、と、モネは納得。もし塀の向こう、茂みより手前に人がいたら、と……。
 「行こう」
言って、サナは穴をくぐる。
 モネは頷き、続いた。


 モネが穴をくぐって塀の外に出ると、待っていたサナ、
「モネ、手を」
 サナに手を取られて、モネは芝の斜面を滑るように下り、
(っと! 危ないっ! )
茂みを、木に足を取られて転びそうになりながら抜け、民家の裏手に出た。
 斜面と民家の間にはモネの身長ほどの段差があり、モネの手を離して、サナが先に飛び下りる。
 自分の身長ほどの高さというのは、やはり、飛び下りるにはちょっと高く、躊躇するモネ。 
 するとサナは、モネに、斜面の縁に腰を下ろすよう言い、それに従ったモネを、両腕を伸ばしモネの腋の下を支えて、意外と軽々、ヒョイッと下ろした。
 (…サナさん……)
モネの心に、手を取られて斜面を下りている間には実は必死で抑えていた、くすぐったい気分が復活。まずいまずい、と、モネは慌てて首を横に振るい、そんな気分を振り払った。
  サナは不思議そうな表情でモネを見る。
 モネは、サナに自分の浮ついた気分を見透かされたのではと、軽く緊張してサナを窺った。…こんな浮ついた気分でいるのをサナが知ったら、気を悪くするに決まっているから……。
 上目遣いでサナを見つめるモネの視線の先で、サナは突然、白衣を脱ぐ。
 (? )
当然、自覚無く、今度はモネが不思議な表情になった。
 答えてサナ、
「白衣は意外と目立つからね。それに、着ていない時と比べたら、やっぱり、着ていると動きにくいし」
脱いだ白衣を段差の上の茂みの根元に丸めて押し込む。
 浮ついた気分に全く気づいてない、その様子に、モネは、ホッと胸を撫で下ろした。



 民家の庭を遠慮しながらコソコソ突っ切り、道路に出たモネとサナ。
 サナが、右手側からタイミング良くやって来た乗合車両を停め、乗り込もうとする。
 モネは焦って、
「サ、サナさんっ! 」
後ろからサナの腕を掴み、止めた。
 振り返ったサナは、
「大丈夫だよ。今は、まだね」
穏やかに笑んで見せ、一度、乗降口の前から退いて、モネの背に腕を回して乗降口に向けて軽く押した。
 (サナさんが、そう言うなら……)
モネは、進まない気持ちで仕方なく車内へ。……ほぼ満席の乗合車両。そんな大勢の人のいる、しかも、密室と言える逃げ場の無い場所に、逃亡中の身で入って大丈夫なのか、捕まったりしないのかと、心配したのだ。
 サナは1つだけ空席を見つけてモネを座らせ、自分はそのすぐ横の通路に立つ。
 モネは、目だけで周りを盗み見ながら小さくなって座っていたが、運転手も他の乗客も、モネを気にしていない様子だった。考えてみれば、城で働く人たちでさえ、事情を知らされていないようだったのだ。多分、乗合車両内の人々は、まだ、カイがモネを捜しているという事実さえ知らない。
(サナさんの、言うとおりだった……)


                                  *



 乗合車両から乗り換えた鉄道車両。
板張りの床にボックスシート、天井には扇風機の、物自体はそう古くはなさそうだがレトロな雰囲気のあるその車内で、向かい合う形でシートに座り、半分開けた窓から、まだ若い水稲の爽やかな香の風を頬に受けて揺られること30分。モネとサナが降り立った駅は、乗車した駅と同じくらいの大きさがあるが、とても静かな駅。モネやサナと一緒にそこで降りたのは、スケッチブックのようなものを小脇に抱えてリュックを背負った中年の男性1人だけだった。
 駅前も静かで、開店休業状態の土産物屋や食堂が軒を連ね、あとは、営業しているのかどうかすら分からない旅館が数軒。
 サナ、
「金湖っていう、有名な湖がある観光地なんだ。真夏と、秋の終わりから冬にかけての紅葉の時季は賑わうんだけど……」 
ちょっと笑みを作って言ってから、こっちだよ、と、線路と平行に通る駅前の道の、駅から見て左側を指差し、歩き出す。



 駅前の道から右手側の横道へ入ろうとしたところで、サナが不意に足を止める。
「モネ、そういえば君、お昼ゴハン食べてないよね? 」
 モネは頷いてから、でも、お腹空いてないですから、と、返す。
 と、サナ、
「今はゴハンどころじゃないって気持ちも分かるけど、こんな時こそ、ちゃんと食べないと」
言いながら、モネを横道へ押しやって、ちょっとここで待ってて、と言い置くと、来たところを少しだけ戻り、一番近くの食堂へ入って行った。
 取り残されたモネは、ゴハンなんかよりこの時間の分だけでも長く一緒にいたいのに、と、少しだけ不満に思った。
(…私とサナさんは逃げてる理由が違うから、しょうがないけど……)


 モネが1人ポツンとサナを待っていると、通りすがりの年配の男性と目が合った。
 男性は、ちょっと驚いたような表情を見せてから、パッと目を逸らし、足早にモネの目の前を通り過ぎて行った。
 (今の人……)
モネは、今の男性に見覚えがある気がするが、
(誰だっけ……? )
思い出せない。
 モネが考え込みかけたところへ、
「お待たせ」
サナが、サナの片手でやっと持てるくらいの大きさの緑の葉の包みを手に、戻って来た。
「おにぎり作ってもらってきたんだ」



 横道を奥へと進むと、同じくらいの幅の道と交わる十字路に出た。その左手前方の角の家を指し、サナ、
「そこが、僕の生家だよ」
 (…ここが……)
モネは、家を囲う白っぽい塀にツタのようなツル性の植物が這い、塀の内側に木が鬱蒼と生い茂っている、平屋のその家を、
(サナさんが、生まれて育った家……)
興味深く見つめた。
 金属製の門扉にもツタが絡まり、錆びついているのか、サナが開けると、キイ……、と音がした。
 家の白い壁にもツタが這い、閉ざされた木製の雨戸は色褪せた感じ。
 サナは、玄関のチャイムの真下に置かれている何も植わっていない大きめの植木鉢の下から鍵を取り出し、玄関を開けて、
「どうぞ」
先にモネを通してから、自分も入ってドアを閉め、内側から鍵をする。
 家の中は暗く、ホコリとカビのニオイがした。


 モネは、玄関を入ってすぐの、居間らしい部屋に通された。
 磨りガラスの天窓からの明かりで玄関や廊下に比べかなり明るいその部屋を入って正面に、雨戸に閉ざされた、モネの腰より上くらいの高さの窓と、その手前に、背もたれを窓に向ける形で置かれたソファ。
 モネは、興味から辺りをキョロキョロと見回しつつ、勧められるまま、正面の窓の手前に置かれたソファに腰掛けた。
 サナが、
「ホコリっぽいけど、我慢して」
言いながら、おにぎりの包みをモネに差し出す。 
 頷きながら受け取った時、モネの目が、ふと、サナの向こう、壁際のチェストの上の写真たてに留まった。サナより幾分年上と思われるサナによく似た男性と、優しい顔立ちの女性、何となくサナに似ている7・8歳くらいの男の子が、少し色の褪せた感じの写真の中からモネに微笑む。
 サナ、モネの視線を追い、
「ああ、僕と、僕の両親だよ」
 (じゃあ、あの男の子がサナさん……)
カワイイ、と微笑ましく見つめてから、モネは、サナさんの両親は今、どうしてるんだろう、と思った。この家は、随分長い間、誰も住んでないみたいだし、と。だが、すぐに思い出した。以前、カイが、サナにも家族はいないと話していたことを。いないって、どういうことだろう……? 亡くなった、とか……? 写真から考えられるサナさんとの年齢差からすると、今の時点で、まだ、お父さんもお母さんも50代後半か、いってて60代前半くらいのはずなのに……?  ご両親は今、どうしてるんですか? なんて、余計なことを聞かなくてよかった、と思った。
 モネは、サナの、僕と僕の両親だよ、との言葉に、へえ、そうなんですか、と、意識して軽く返してから、
「おにぎり、いただきます」
言って、包みを開け、その中の白いおにぎり3つのうち1つを手に取った。


                                   *



 突然、玄関で、ドンドンッと、ドアが乱暴に叩かれる。
 (! )
ビクッとしたモネは、おにぎりの最後の1口を、ろくに噛まないまま飲み込んでしまい、ノドに詰まらせる。
(…苦し、い……)
 サナが、モネを覗き込み、
「大丈夫? 」
手から水を出して飲ませてくれ、背中をさすってくれて、落ち着いた。
 ありがとうを言おうと、モネがサナを仰ぐと、サナは、険しい表情で、モネとサナがいるこの部屋の中からは見えない玄関の方向を見据えていた。
 「サナ! 」
シイの声。
 (…シイさん……? )
 ドンドンドンドンッ! 再び、ドアが壊されそうな勢いで叩かれる。
 「シイ……」
サナが低く呟く。表情は険しいまま。シイが敵なのか味方なのか、判断しようとしているようだ。
 サナにつられて、モネも緊張。思わず、ギュッとサナの腕にしがみついた。
 ドンドンドンドンドンッ!
 「サナ! いるんだろっ? 開けろっ! 」
激しくドアを叩き続け、叫ぶシイ。 
 シイが敵か味方か判断しかねている様子のサナが、もちろんモネも、何の反応もせずにいると、やがて、玄関の外は静かになった。
 ホッと息を吐くモネ。
 そこで初めて、モネは自分がサナにしがみついていることに気がつき、焦って、ゴメンなさいっ! と言いながら離れた。
 直後、ゴト……、ガタガタッ……。
 (……! )
 モネの後ろの窓の雨戸が揺れた。 
 モネは驚きすぎて跳び上がりながら、再び思わず、本当に思わず、今度は胸に真正面から、背に腕を回すかたちでしがみついてしまい、
「ゴ、ゴメンなさいっ! 」
すぐに離れようとするが、サナ、
「いいよ、掴まってて」
モネの頭と背を優しく押さえ、自分の胸に留める。
 (サナさん……)
 ガタガタッ、ガタッ、ガタッ。雨戸の揺れが激しさを増す。
 サナは、しがみついたままの状態のモネを、腋の下を通して背中側へ移動させて背に庇うかたちをとり、自動的に腹の上に移動してきたモネの手を、しっかりと握った。
 揺れ続ける雨戸を見据え、ゆっくりと壁際へ後退るサナ。
 ガタンッ。雨戸が外れた。
 窓の向こうで、シイがイラついた様子で開けろと叫び、バンバンと窓ガラスを叩く。
 何となく、味方でない雰囲気。
 モネは、更に強くサナにしがみついた。
 サナも、モネの手を握り直す。
 と、シイが、クルッとモネとサナに背を向け、急に姿を消した…… かと思うと、また急に後姿で現れて、モネとサナのほうを振り返りざま、手に持った大きめの石で、ガシャンッ!  窓の鍵付近のガラスを割り、鍵をはずし、窓を開け、窓枠を越えて、家の中へと入ってきた。
 (! ! ! )
モネは、更に強く強く、サナにしがみついた。
 「やっぱり、ここだったか……」
シイは、チラッと1度だけモネに目をやってから、サナを見据え、
「サナ、悪いことは言わない。モネをこっちに渡せ」
 やっぱり敵だった、と、モネは、グッと腹に力を入れる。
 サナ、
「シイ、どうしてここに……? 」
 その問いに、シイは、
「モネを捜すのに、各種族の族長と副長が召集されたんだよ。サナには連絡つかなかったらしいから、サナは知らないだろうけど……」
学問所から帰ってきているはずのモネの、食事前であるため普通なら離れにいるはずであるところの不在を確認後、パニックを避けるためとのムタの考えにより、出来るだけ少人数で捜すべく、各種族の族長と副長を召集。事情の説明は無いが、城勤めの人たちと各居住地区の三役にも協力を要請したとのこと。その召集の際にサナが姿を見せなかったことと、城内を捜索していた人からの報告で、水族の中でも高度な能力者が開けたと思われる、人が通れる大きさの新しい穴が3つも、しかも、そのうち2つはモネの私室である離れから発見されたことから、リュウシンが現れた時に偶然カイの傍におり事情を知るサナが、モネの逃亡の手引きをしたのだと断定された、と説明。
「サナさ、かなり前だけど、1回だけ、ここにオレを連れて来たことがあるの、憶えてる? オレは憶えてたから、ここに捜しに来たんだよ。サナの性格上、女子供を連れて隠れる場所は、少なくても雨風は凌げる場所だろう、って思って……。そうなると、オレの知ってる限りじゃ、ここか養生所しかねえし、養生所は、先に他のヤツが見に行ってて、いなかったって連絡が入ってたからさ」
と答えた。
 「そう……」
サナは納得したように頷いてから、
「ねえ、シイ……」
ちょっと言い難そうに、
「見逃して、くれないかな……」
 シイは軽く目を伏せ、首を横に振りながら、大きな溜息。
「サナ、自分が何を言ってるか分かってんのか? 」
 分かってる、と答えるサナ。
 シイは、サナに歩み寄り、ごく近い距離から、サナの目を覗いて、
「目を覚ませ、サナ。モネを差し出さなけりゃ、皆、死ぬんだぞ」
 「僕は! 」
サナは大きめの声をシイの語尾に被せるようにして、シイの言葉を遮り、シイの視線を跳ね返すくらいの勢いでシイを見つめ返した。
「僕には、犠牲になるのがモネ1人ならいいって考え方は、どうしても出来ない。それに、冷静になって考えてみれば、きっと、何か他にいい方法があるはずだよ。誰1人、犠牲にならなくて済むような……。それを、考えてみたい」
 「それで! 」
今度は、シイが苛立たしげにサナの言葉を遮った。
「それで、他の方法に心当たりくらいはあるのかっ? 」
 「それは……」
言葉を濁すサナ。
 シイは大きな大きな溜息を吐き、俯いて、
「…サナは、どうかしてるよ……。日没まで、あと何時間だと思ってるんだ? オレはむしろ、大人しくモネを差し出すってほうが、冷静な判断だと思うけどな」
 「モネが聞いてる前で、そんな話……」
 サナの遠慮がちな抗議に、シイはバッと顔を上げ、
「本当のことだろっ? 大体、何でサナは、そんなにモネに肩入れしてんだ! モネって、サナの何なんだよっ! 」
 シイの言っていることは正しいと、モネは思う。何故なら、モネも基本的にシイと同じ考えだから。逃げるからには出来るだけ長くサナさんと一緒にいられるように、と、真剣に逃げているが、もちろん、死にたくもないのだが、希望は持っていない。だからこそ、シイと同じ疑問も持つし、それは、ただ単純に、サナに恋する女の子としても、ちょっと怖いが聞いてみたいところでもある。
(私って、サナさんの、何? )
 「何、って……」
 モネは、返答に困っている様子のサナを、背中にしがみついたままの姿勢で見上げた。
 シイは、軽く息を吸って吐いてから、
「とにかく! 」
サナの後ろのモネに手を伸ばし、
「モネは連れて行くっ! 」
 モネは固まる。
 瞬間、サナが体の向きをシイに対して斜に変え、伸びてくるシイの手を遮った。
 「シイ、お願い……」
サナは縋るように言う。
 返してシイ、
「サナのほうこそ、頼む……。分かってくれよ……。オレ、サナに手荒なことはしたくねえんだ。…でも、オレは、自分の女房・子供を守りたいから……! 」
心を抉るような涙声で言い、
「許してくれっ! 」
叫ぶや否や、しゃがんで床に両手のひらをついた。
 途端、床が全くの無傷のまま、極端に傾いた。



 あっという間の出来事だった。
 モネはシイの肩の上に後ろ向きに担がれて外にいる。床が傾きモネがバランスを失ってサナから離れたところを、シイが素早くさらって窓から出たのだった。
 モネをユッサユッサと揺すりながら、駅の方向へ走るシイ。
 「モネっ! 」
サナが追ってきた。
 モネなんかを担いでいるシイの足が遅いのか、サナの足が速いのか、サナはグングン近づいてくる。そして、1メートルほどの距離まで迫ったところで、サナは地面を蹴り、シイの背中に体当たり。
 その弾みで、
(! ! ! )
モネは道路上に放り出されて転がる。
(…痛……)
肘と膝に痛み。擦り剥いてしまった。
 「モネっ! モネっ! 」
擦り剥いた肘と膝に気を取られているところへ名を呼ばれ、ハッと声のほうを見ると、サナが、シイのウエストにしがみつきながら、モネのほうを見ていた。
 「モネ、走ってっ! 」
必死の様子のサナの指示に圧されるように、モネは、
「は、はいっ! 」
立ち上がり、シイのいる位置からの判断で、来たばかりの道を戻ることを選び、肘と膝の痛みも忘れさせられて駆け出した。


 サナの生家のある十字路を左へ曲がろうとした時、誰かがモネの横を通り過ぎざま手首を掴んだ。モネは一瞬ギクッとしたが、それは、
(サナさん……)
サナだった。
 サナはモネの手を引いて走り、サナの生家から数えて2軒目の民家の前まで来た時、チラッと後ろを気にしたかと思うと、
(! )
突然グイッと、これまで前方向へと引いていた手を右側へと強く引っ張り、その民家の開け放たれた門の陰へと引きずり込んだ。
 モネとサナが民家の門の陰に身を隠してから、ややして、2人の目の前をシイが通過して行った。


 少し間をおいてから、サナは、門の陰からそっと顔だけを出し、シイの行った方向を見て、シイの姿が見えないことを確認してか、頷いてから、
「行こうか」
しっかり握ったままだったモネの手を軽く引く。
 モネは頷き、サナに手を引かれるまま門の陰から出て、シイの行ったほうへ目をやると、シイらしき背中が遠く小さく見えた。
 サナは、シイが行ったのとは反対方向、自分たちがついさっき来た方向へと走り出し、生家の十字路を右に。
 サナに手を引かれるまま、導かれるまま、その斜め後ろにひたすら従うモネ。
 サナ、走りながら、前を向いたまま、
「また、鉄道車両……に、乗ろ、う。シイに見つかった、から、この町からは離れたほうが、いい……。…あては無い、けど、出来るだけ遠くに行こ、う……」
 (……? )
サナの話し方が何だか苦しげで、モネは気になった。走ったための息切れにしては、モネ自身の息切れ具合と比べて、ちょっと……。 走り続けながら観察するうちに、モネは、サナの走り方が不自然であることに気づいた。右足を、やけに庇っているような……。
 「サナさん、足……」
モネが言うと、サナ、
「…うん、さっき、シイに体当たりした時に、ちょっと、ね……。でも、大丈夫、だよ……」
 (…サナさん……)
モネの胸が、キュッとなった。ちょっとの隙あらば感じる不謹慎なくすぐったさ……今も、しっかりと握られたままの手に、シイとの距離が出来たことで少し余裕ができたためにこっそり感じていた、それが、跡形も無く完全に吹き飛んだ。



 駅に到着し、切符を買うため、切符販売窓口の駅員に、サナ、
「すみません」
声を掛けた。 
 窓口の駅員は、申し訳なさそうに口を開く。
「申し訳ございませんが、30分ほど前に、王族の長・カイ様より、詳細は不明ですが、緊急事態が発生したとのことで命令がございまして、当駅へお降りになることは出来ますが、ご乗車にはなれません。乗合車両のほうも、町内は運行を見合わせているとの情報が入っておりますので、恐れ入りますが、最寄の駅へは町境まで徒歩で行っていただき、隣町の乗合車両にお乗り下さい」
 (それって……)
モネは、サナの顔を見た。それって、シイさんだけじゃなくて、もう、カイさんや、他の、私を捜してる人たちにも、ここにいるってことが知られたってこと? と。
 サナ、モネに頷き、駅員に、そうですか分かりました、と、返してから、
「行こう」
再びモネの手を引いて、駅を出る。



                                   *



 「サナさんっ? 」
突然、サナが地面にくずおれた。駅から、徒歩では2時間ほどかかるらしい町境を目指して走っている最中、まだ、それほど駅から離れていない地点で、急激にサナの走るスピードが落ちた直後のことだった。
 手を引かれていたモネは、つられて転ぶ。
 サナは辛そうに顔を歪め、両手で右足を押さえている。
 (サナさん、足が……)
モネは、どうしよう、と、辺りを見回した。サナにこれ以上の無理をさせたくないが、このままここにいては、今にきっと、シイだけでなくカイや、他の、モネを捜している人たちもこの町に来るから、すぐに見つかってしまう。 
 と、自分たちのすぐ脇の生け垣の向こうの様子がモネの目に留まった。ベンチが置かれ、植えられている木の1本1本に木の名前らしいものが書かれた札がさげられ、広い敷地のわりに、倉庫のような小さな建物が建っている以外は他に建物が見当たらない。どうやら、民家ではなさそう……そう思い、サナに確認すると、そこは、観光名所・金湖のほとりの公園。
モネは、とりあえずこの公園のどこかに隠れて休もうと提案。
 申し訳なさげに、
「…そう、だね……」
頷くサナの表情に胸をキュウッと締めつけられるのを感じながら、モネは、右手でサナの右腕を持ち上げて腋の下に頭をくぐらせ、左手をサナの背中に回し、立ち上がった。
 途端、
(お、重……)
モネはヨロける。それでも何とか歩を進め、近くの入口から公園内へ。辺りを見回し、倉庫のような建物の裏を選んで、生け垣との狭い隙間に入った。
 倉庫に寄り掛かるようにして腰を下ろしてから、サナは、たまたま目に留まったらしい、サナの座った位置からでは届かない、地面に転がっているバケツを拾ってきてくれるようモネに頼んだ。
 そのバケツは金属製で、形が歪み、長い間放置されていたのか、酷く汚れ、錆びついていて、モネが拾って手にとって見ると、底に小さな穴まで開いていた。
サナに手渡しながら、穴が開いていることを伝えると、サナは、
「充分だよ。ありがとう」
と言って受け取り、地面の僅かな傾斜で 低くなっている生け垣側にバケツを置いて、右足の靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をめくる。
サナの足首は、見た目にもすぐ分かるほど腫れていた。
 (痛そう……)
モネが見つめる先で、サナは、座ったままの姿勢で微妙に体の向きを変え、裸足になった右足をバケツに突っ込んで、手から水を出してバケツに注ぐ。


                                    *



 サナが手から水を出し続け、バケツの中で右足を冷やし続けること小1時間。サナは小さく息を吐き、水から足を上げた。
ズボンのポケットから取り出した大判のハンカチで、濡れている足をザッと拭いてから、
「冷やさないでいる間は、こうして圧迫しておくと、腫れが酷くなるのを防げるんだよ」
と説明しながら、そのままハンカチを強めに巻きつける。そして靴を履き、左足に力を入れて立ち上がり、
「さあ、行こうか」
 でもサナさん、足がまだ……、と、心配するモネ。
 サナ、ちょっと得意げに、
「いいこと思いついたんだ」
 (いいこと? )
 モネの無言の問いに、サナは頷き、自分の背後、倉庫を親指で指して見せて、
「公園に入った時、あっちに木立があるのを見たでしょ? そのすぐ向こうは金湖なんだ。ボートに乗って対岸に渡ろう。走るのは、まだ大変だけど、ボートなら、足を使わないで進める。対岸は深い森になってるけど、もう隣町なんだ。足の痛みがもう少し治まるまで森に隠れてから、歩いて森を抜けて道路に出て、乗合車両に乗って移動すればいい。ボートを普通に漕いで渡ろうとすると時間もかかるし、その間に、捜してる人たちに見つかるかもしれないけど、僕なら、湖の水を操って、あっという間に対岸に着けるよ」
 

 と、その時、
「見ーつけた」
生け垣の向こうから、聞き覚えのある軽い声。
直後、地面から50センチくらいの位置で、モネとサナの目の前の生け垣が幅1メートルほど、水平に切り落とされ、
(! )
ナガが姿を現した。
 「楽しいかくれんぼだね」
ナガは、切り落とされた生け垣を跨ぎ、両腕を広げて、切り落とされて出来た生け垣の隙間と生け垣と倉庫の隙間の片側を塞ぐ形で、モネとサナの前に立ちはだかる。
 サナはモネを背に庇い、警戒した様子でナガを見据えつつ、残された唯一の退路である生け垣と倉庫の隙間、ナガが立っているほうでない方向へ、ジリジリとさがった。
 ナガが、指をキッチリ揃えた左手のひらを、自分の頭上でサッと斜めに振る。
 瞬間、
(っ? )
モネは、頭の上を、ズザッと何かがスゴイ勢いで通り過ぎて行ったのを感じた。
 そのほんの数秒後、モネの背後で、ズズ……と、何かが擦れるような低い音。続いて、ザワッと木の葉が大きく揺れるような音。直後、ドスンと震動。振り返ってみれば、倉庫の横に生えていた木の、直径1メートルはあるかと思われる太い幹が、倉庫の屋根より少し上の位置でバッサリと斜めに切断され、その上部が、豊かに茂った緑の葉諸共、地面に落ち、退路を塞いでいた。 
 恐らく、ナガの仕業だ。ナガが手のひらを斜めに振ったために起きたことだ。 
 サナが、モネの斜め前でギリッと歯軋り。
 「この地区の地区会長から目撃情報が入ってね……」
とのナガの言葉に、モネは、あっ、と思い出す。サナの生家に向かう途中に出会った年配の男性を、どこかで見たような気がしたが、そう、彼は地区会長。モネのお披露目の宴に来ていたのだ。
 ナガの口調はいつもと同じく軽いが、目は真剣。
「ムタ君なんかが血相を変えて君たちを捜してる姿は、とても面白いんだけど、自分も死んでしまうんじゃ、純粋に楽しめないからね。残念だけど、かくれんぼは、もう終わりにして、一緒に来てもらうよ」 
 サナは全身に力を込めてナガを見据えていたが、急に、フッと力を抜いた。 
 (? )
どうかしたのか、と首を傾げるモネの手を、サナは、そっと取り、ナガに向かって、
「ナガ、顔に何か……」
 「ん? 」
ナガは胸ポケットから小さな鏡を取り出し、覗く。
 サナはモネの手をギュッと握り直し、突然走り出して、鏡に気を取られているナガの脇の狭いスペースを、いっきに駆け抜けた。そして、真っ直ぐに木立を目指す。
 走るサナの表情は、辛そう。右足を地面につく度に声を漏らす。
 足が痛むんだ……、と、モネは胸が痛む。自分がサナさんに、こんな無理をさせてるんだ、と。
 すぐ後ろからナガが追いかけて来ていることが、振り返って見なくても分かる。


 木立を抜けると、そこは、対岸がボンヤリとしか見えないほど大きな湖。金湖という名前の由来か、既に大きく傾いている太陽の光を湖面が乱反射し、金色に輝いている。
 サナはチラッと後ろを振り返ったかと思うと、いきなりモネを両腕に抱き上げた。 
 (! )
驚くモネ。
 しかし、そんなモネにサナは何の説明も無く、今度は、モネを抱き上げたままの状態で静かに、湖に膝の深さまで入る。
 (っ? )
サナの行動に驚かされっぱなしのモネ。だが、サナに説明を請える雰囲気ではない。モネは、自分で状況を掴むべく、辺りを見回し、そこが、すぐ近くにある桟橋によって、自分たちが走ってきた方向から見ると非常に見えにくい場所であることに気づき、サナは今、ナガから隠れているのだ、と納得した。
 ごく近くで、ナガのものらしい駆け足の足音。その足音の方向に合わせて、モネを抱いたまま、隠れる場所を少しずつ移動するサナ。
 足音は、次第に遠ざかっていく。
 足音が遠くになったことを確認したように頷いてから、サナは目を閉じた。
 (サナさん……? )
 サナは、軽く眉間にシワを寄せ、何かに集中している様子。
 直後、ザザ……、と、サナの周りの湖水がサナから離れ、サナを中心として半径1メートル程の距離に水の壁となって静止する。
 サナは集中力を保ったままな感じの緊張した面持ちで目を開け、岸を離れ、湖の奥へ奥へと歩を進めた。
 水の壁は、サナからの距離を変えずにサナの移動に合わせて動き、ただ高さだけが、本来の水深に合わせて高くなり、その高さがサナの頭上1メートルを超えた時点で、今度は水の天井まで出来、モネとサナは無色透明の円筒状の入れ物に入って水中にいるような状態となった。
 サナが足を止め、フウッと息を吐く。緊張を解いたのが分かった。
 こうして形を作ってしまうまでが大変なんだ、と、軽く、サナは説明する。あとは、形を保っていられるように少し気をつけていればいいだけだから、と。それから、モネを腕からおろし、
「時間はかかるけど、このまま湖の底を歩いて対岸へ渡ろうと思うんだ。ボートだと、速いけど、ナガから丸見えだから攻撃されそうだし、今は逃げきれても行く先がバレるから、対岸に着いてからも隠れてられなくて、どんどん逃げなきゃいけなくなるし」
 モネが頷くと、サナも頷き返してモネの手を取り、1歩、踏み出した。途端、クッ……と呻いて、しゃがんで俯き、右足首を押さえる。
 「サナさん! 」
身を屈め、サナの顔を覗き込むモネ。
(足が……。…無理、したから……)
 と、モネの首筋に少量の水がかかった。思わず、モネは小さく叫ぶ。
 サナはハッと顔を上げ、右腕を上げて 手のひらを斜め上方に向けた。
 水の壁が崩れかかっていたのだった。
 サナは水の壁を補修し、小さく息を吐いて、
「ゴメン……。気持ちが張り詰めてる間は、足、大丈夫だったんだけど、今、無事に形を作り終えて、ちょっと気持ちが緩んじゃったんだ」
 謝られてしまって、モネは辛くなり、サナから顔を背けた。…謝らなければならないのは自分のほうなのに、と……。鼻の奥がツンとなる。
(…サナさん……。私の、せいで……)
涙が溢れた。
 サナは、
「モネ? どうしたの? 」
オロオロと、モネの顔を覗く。
 (私のせい……。私を、逃がしてくれようとしたから……)
胸が痛くて、涙が後から後から、止まらない。その痛みから解放されたくて、モネ、
「…サナさん……。もういい……。もう、いいよ……。もう、やめて下さい……」
口を開く。
「私、リュウシンのところへ行きます」
本当は初めからそうするべきだったんだ、と思った。「同じ死んでしまうなら少しでも長くサナさんと一緒にいたい」なんて考えないで、サナさんを、こんな目に遭わせてしまう前に、逃げることじゃなく、自分からカイさんとムタさんの前に出て行くことを選べばよかったんだ、と……。
(それに私、自分がサナさんと一緒にいたいばっかで、サナさんのこと、ちゃんと考えてなかった……。この後、もし日没に間に合うように私が見つかった場合、私がリュウシンに差し出されて死んだ後、神様に逆らって私を逃がそうとした、国を危険にさらしたサナさんの立場は、どうなるの? 消滅しないで済んだ竜国で、サナさんは、どんなふうに生きていくの? …私、とんでもない間違いをしちゃったのかも……)
 サナは驚いた表情で、
「モネ、何、言って……」
 モネは、でも、今ならまだ、と、繰り返す。
「リュウシンのところへ行きます。サナさんの手で、私をリュウシンのところへ連れてって下さい」
他の人たちに見つかる前に、サナの手で差し出してもらう形に出来れば、サナの立場は確保出来ると考えた。
 「…何……」
サナは最初、呻くように、次第に声を荒げ、
「言……ってるのっ! 」
ガッとモネの両肩を掴んだ。
 その迫力に、モネはビクッ。反射的に涙が止まる。
 サナは、心の奥を探るように、真っ直ぐ、モネの目の奥を見つめた。
「怖く、ないの? 」
静かな低い声。怒りのような悲しみのような感情を滲ませた目。
 モネはサナから目を逸らし、
「怖い、けど……」
答えながら、また涙がこみ上げてくる。
 サナは小さく息を吐き、
「だったら」
悲しみを残したままの表情でモネを覗く。
「そんなこと、言わなくていいんだよ」
 でも、と、モネは首を横に振った。
「遅い早いの違いはあっても、結局、私は……」
 「モネっ! 」
大きな声で、サナはモネの言葉を遮り、モネの肩を掴む手に、もう1度、グッと力を入れなおして、モネを見据えた。
「それ以上言ったら、本気で怒るよ? 」
 「怒られても」
モネも、サナの目を真っ直ぐに見据え、言い返す。
「怒られても、無理です」
 「やめなさい! モネっ! 」
悲鳴のような声をあげるサナ。  
 頭上からパタパタと、天井部分の水が落ちてきた。
 「もう、無理なんですっ! 」
叫び返すモネ。
 サナの手が、スッと動く。
 (叩かれるっ! )
モネは竦んだ。しかし、サナの手がしたのは、天井の補修だった。
 モネの体の力が、フウッと抜ける。
(もう、心がもたない……)
疲れて、
「…サナさんは、どこまで本気で、私を守れると思ってるんですか……? 」
さっきから心の中にはあったがサナが傷つくと考え言わずにいた言葉が、思わず口をついて出た。
 サナは、凍りついたようにモネを見る。
 モネは、ハッとして口を押さえた。こんなこと、言うつもりじゃなかった。傷つけてしまった、と、後悔した。が、もう言ってしまったものは仕方ないし、これで無理はやめてくれれば、と、否定はせず続ける。
「一生懸命逃がしてくれようとしてたサナさんには悪いけど、私は初めから、助かるなんて思ってなかったです。ただ、同じ死んじゃうなら、少しでも長くサナさんと一緒にいたくて……。ゴメンなさい……」
 突然、サナは、モネを自分の胸へと引き寄せた。そして、強く強く、痛いくらい強く、抱きしめる。
 (サナさんっ? )
驚くモネ。
 「僕も、本当は、頭の隅では分かってたよ。僕に、君を救う力なんて無いって……」
サナの声も体も、震えていた。
「ただ、君に生きていてほしくて……。カイ様やシイや、他の、僕らを捜索している人たちから逃げてるって言うより、僕は、もしかしたら、現実から逃げてたのかもしれない……」
絞りだすように、苦しげに紡がれる言葉。
 (サナさん……)
モネの胸は、これまでに経験の無い強さで、キュウウッと締めつけられた。苦しい。息が出来ない。体が変に熱くなって、汗まで滲み出てくる。
(…私、サナさんが好きだ。本当に、こんなに好きだなんて、思わなかった……。サナさんに、生きてほしい……! )
苦しみの中で、モネは初めて、強くそう思った。これまでは、流れのままに、どちらでもいいと考えていた。日没に間に合うように見つかって自分だけが死ぬのでも、竜国の消滅までサナと一緒にいて皆揃って死ぬのでも、どちらにしろ死んでしまう自分には関係ないと思っていた。ただ、出来るだけ長くサナさんと一緒にいられれば、と。しかし、たった今、考えが変わった。どちらにしろ自分は死んでしまうから関係ないワケじゃない。サナさんには絶対に生きていてほしい、と。……そうなれば、やっぱり、取るべき方法は1つ。サナさんに生きていてほしいなら、生きている以上、辛い思いをしてほしくないなら……。
「サナさん、お願いです。私を、リュウシンのところへ連れてって下さい」
 サナの答えは、
「ダメだよ……! そんなこと、出来ないっ……! 」
そして、更に強くモネを抱きしめ、モネの髪に顔をうずめる。
 あんまり強く抱きしめられて息が出来ず、モネは、サナの腕の中でもがき、何とか顔だけ横を向いて、呼吸を確保した。
 サナは震える声で続ける。
「…シイじゃないけど、モネはワガママだよ……。君を犠牲にして生き延びて、僕が、その後の人生を、どんな辛い気持ちを抱えて生きていかなきゃならなくなるか、少しは考えてみてくれてから、そんなことを言ってるの……? そんな思いをするくらいなら、竜国が消滅する時まで君を連れて逃げて、一緒に死ねたほうが、どんなにいいか知れないっ……! 」
 (…一緒に死ねたほうがいい、なんて……)
サナの考え方に、モネは驚く。
(でも、大丈夫だよ……)
生き延びた後のサナさんの辛い気持ちは、きっと心配いらない、と思った。何故なら、サナがモネを殺すワケではない。サナの行動に関係なく、どうしたってモネは死ぬ。…もう、1年以上前の話。モネを可愛がってくれた遠方に住む祖母が病気で亡くなる前、病状が悪化したとの知らせに、両親はモネの学校に立ち寄り、危篤になったら連絡するから学校から帰ったらいつでも出掛けられるよう仕度をして待ってなさい、と言い置いて、祖母のもとへ向かった。それまでにも何度も、同じようなことがあった。結局いつも大丈夫だったから、と、モネは学校から帰っても何の仕度もしていなかった。夜遅くになって、祖母が危篤だと連絡が入った。すぐにタクシーで駅に向かえば最終の新幹線に間に合ったはずだったが、モネは仕度をしていなかったし、その段階になっても、まだ、大丈夫だと思っていたから、仕度もしていないのに身ひとつで駆けつけるほどでもないと思い、行かなかった。そして真夜中、モネが何の心配も無く眠っているところへ、祖母が亡くなったと知らせがあった。後悔した。両親の言いつけどおり、学校から帰ってすぐ仕度をしておけば、と。仕度などしていなくても、金さえ持っていれば必要な物は揃うのだから、危篤の連絡の時点で駆けつけていれば会えたのに、と……。思い出せば、今も辛い。しかし、普段は忘れている。サナも、きっとそうなると思った。病気のせいで亡くなった祖母のことをモネが普段忘れているように、サナのせいでなく死んだモネのことを、サナは忘れる、と。初めは辛くても、時間が癒してくれる、と。 
 モネは何だか、幸せな気持ちになっていた。一緒に死ねたほうがいいとまで言ってくれた、サナの言葉。強く強く抱いてくれている、胸の温もり。満たされた。もう、充分だ。どうしてだろう、もうすぐ死ぬと分かっているのに、とても穏やかな気分。そして、多分、生まれて初めて、こんな、死を目前に控えて今さら、目標らしい目標を持った。流されるのではなく、自分から強引に、その目標に向かって行こうと……。その目標とは、もちろん、サナの手で自分をリュウシンに差し出してもらうこと。


                                    *



 モネとサナのいる円筒状の空間の外を、大小様々色とりどりの魚たちが悠々と泳ぎ、時々、モネたちのほうへ向かって泳いで来ては、モネたちの存在に気づいてか、ビクッとして方向を変え、去っていく。
 その様子を眺めながら、モネは考えを巡らせていた。どうしたら、サナさんは分かってくれるんだろう? 私をリュウシンのところへ連れてってくれるんだろう? と。
 頭を悩ませるモネの耳元で、サナは独り言のように、
「どうして、モネは竜国に来てしまったんだろう……? 僕は、モネが竜国に来たばかりの時、竜族の血が竜国に呼び寄せられてのことなんじゃないか、なんて、いい加減に言ったけど、本当にそうだったのかな……? 消滅の危機に瀕した竜国そのものが、モネを必要として……? …どうして……。本当に、どうして……! 」
途中から声が大きくなり、吐き出すように、
「竜国なんかに来なければ……! ずっと、人間の世界にいられたら……! 人間の、世界…に……」
そこまでで サナは口を閉じ、モネから体を離す。
 (……? )
モネがサナを見上げると、サナは、大きく見開いた目でモネを見つめていた。
 サナ、声を掠れさせ、
「…モネ……。助かるかもしれない……。モネも、この国の人たち皆も……」
 (っ? )
 「どうして、今まで気づかなかったんだろう……! 」
目を輝かせるサナ。
 (どういうこと? )
モネは、無言でサナを見つめ返し、説明を求めた。


 その時、モネの視界の隅で、円筒のすぐ外側にいた小さくて地味目の魚が、急に、フッと力の抜けたような、その魚の意思とは無関係と思われる不自然な感じで、フワフワと湖面に向かって上がっていった。
 (? )
辺りを見回せば、他の魚たち……モネから見える範囲の全ての魚たちも、同じように上がっていっている。
 「何、これ……? 」
とても不自然な感じ。嫌な、感じ……。
 サナも、眉を寄せて辺りを見回している。
 モネの全身を、体調の悪い時にかくような嫌な汗が、ジットリと濡らした。
(…汗……。どうして……? )
 その汗が実際に暑いためにかいている汗だと、モネが気づいた直後、いっきに湖の水が無くなり、湖底が干からびた。可哀想な魚たちが、夕暮れの空からポトポトと降って来、乾ききってヒビ割れた湖底に落ちる。
 (何、なの……? )
モネは、また辺りを見回し、そして見つけた。……桟橋の先端に立つ、8つの人影。
(! ! ! )
カイとムタ、ナガ、シイ、それに、各種族の副長たちだ。
 ムタと火族の副長の、湖に向けて突き出された手のひらから、炎が出ている。おそらく湖水は、その2人の炎によって蒸発させられたのだ。
 ムタが炎を消し、腕を下ろした。火族の副長も、それに倣う。
 これだけの人数が相手では、もう、逃げられそうにない。
(サナさんの手で、私をリュウシンに差し出してほしかったのに……)
モネは唇を噛んだ。
 カイ以外の7人が桟橋から湖底へと飛び下り、モネとサナのほうへ走ってくる。
 カイは1人、桟橋の上で俯き、モネから顔を背け、立ち尽くしていた。少し距離があるため、よくは分からないが、体調のせいか、辛そうな表情に見える。
 サナがモネを背に庇い、7人に向き直って胸の高さで両手を構え、勢いよく放水。
 しかし、先頭の火族の副長は、サナの攻撃を咄嗟にしゃがんでかわし、続く6人も、それぞれ右へ左へ避ける。
 攻撃のために逆に出来てしまった隙を突かれた形で、モネはムタと火族の副長に、サナは他の5人に捕まり、引き離された。
 「モネっ! 」
サナが、5人の手によって湖底にうつ伏せに押さえつけられようという状況で激しく抵抗しつつ、モネを見、叫んだ。
 モネは、ムタと火族の副長に片側ずつガッチリと二の腕を掴まれながら、サナのあまりに乱暴な扱われ方に驚いて、
「サナさんっ! 」
叫ぶ。
 ムタ、モネの腕を1度引っ張り、自分のほうへと注意を向かせてから、
「モネ様、捜しましたよ。この付近でモネ様を見失ったとの報告をナガから受け、タイムリミット寸前でしたので、ありのままをリュウシンにお伝えしたところ、さすがは偉大なる我らがリュウシン。モネ様のいらっしゃる場所を教えて下さいました」
実にムタらしい無感情な調子で囁き、上空を仰いで、
「リュウシン! 」
大きな声で呼ぶ。
 すると遥か上空、モネがムタにつられて見上げた先に、何やら黒いヒモのようなものが現れたかと思うと、一瞬のうちに、モネたちのすぐ目の前まで降りて来た。
 モネは、
(これが、リュウシンっ……? )
その姿に圧倒される。
大きい。視界に全身が収まりきらない。頭の高さだけでモネの身長の倍以上はある、蛇に2本のツノと長いヒゲ、4本の足をつけたような生物。光沢のある深い黒色の体は周囲の色を映し、少し動く度に様々な色に変化する。色こそ違うが、城に飾ってあった絵の生物と同じ形。いや、あれは、同じ部屋に飾られている絵の火山の色を映した、このリュウシンの絵だったのかもしれない。
 リュウシンの、実際には、おそらくノドから、しかし体全体から発せられているように感じられる、グルルルル……と、動物っぽい低く響く音。生臭い息。緩く閉じられた口の隙間から鋭い歯が覗き、モネは、ゴクッと唾をのんだ。
(…飲み込む、って、確か言ってたけど……。その時、噛むのかな……? やっぱ、痛いのかな……? )
 ムタは、今度はカイのほうを仰ぎ、
「よろしいですね? カイ様」
 モネも、やはりつられて見れば、カイは俯いたまま体ごと横を向き、ギュッと強く目を閉じていた。
(カイさん……)
押入れの床下に隠れている時に聞いた、カイの、モネがこのまま見つからなけりゃいい、との、泣いているような声での言葉が思い出された。
 ムタが、火族の副長に目をやり、無言でアゴを動かし、合図のようなことをする。
 火族の副長が頷く。
 ムタと火族の副長によって、リュウシンの、より近くへと引きずられていくモネ。いよいよであるのを知り、焦って、族長・副長の5人に湖底にうつ伏せに押さえつけられているサナを見た。
(このままじゃ……! )
今だって、あんな乱暴な扱いを受けているのだ。このままじゃ、自分が死んだ後、サナさんが辛い思いをしてしまう、と。だが、ふと、
(……そっか……! )
いいことを思いついた。簡単なこと。嘘をつけばいいのだ。逃げたのはモネ自身の考えであり、サナさんは無理に手伝わされただけだ、と。サナさんは自分に、王族の姫としての立場を考え生贄になるよう何度も説得したのだ、と。逃亡中に出会ったシイやナガからすれば、また、サナの性格を考えたりすれば、かなり嘘っぽく感じられるかも知れないが、嘘であるという証拠はどこにも無い。
 モネは、自分の考えに力を得、ムタに言おうとした。
 が、一瞬早く、
「リュウシン! 」
サナが、うつ伏せの状態から顔を上げ、リュウシンに向けて口を開いた。
「お聞きしたいことがあります! 」
 (…サナさん……? )
開きかけた口を閉じるモネ。
 グル……と低く唸りながら、リュウシンはサナのほうを向いた。
 ムタと火族の副長、サナを押さえている5人も動きを止め、サナを見る。
 サナは続ける。
「156年前の竜国建国の際、人間の世界からこの竜国へと、竜族を呼び寄せたのはリュウシンであると伝え聞いておりますが、本当ですか? 本当であるとすれば、その逆、竜国から人間の世界へと全ての竜族を移動させることは可能ですか? また、その際、王族の姫の犠牲は必要ですか? 」
 暫し沈黙が流れる。
 ムタが、あまり良い意味ではないであろう笑みを含み、
「何を言って……」
呟いたのに被せ、
「犠牲は、要らぬ。私の力のみで可能だが……? 」
地を這うように低く、厳かに返すリュウシン。
 それ受け、サナは更に続けた。
「率直にお聞きします。リュウシンは、この竜国そのものを絶対に残したいとお考えですか? それとも、竜族が生き延びるのであれば、その場所は人間の世界であっても構わないとお考えですか? 」
 答えてリュウシン、
「私が残したいのは竜族だ。竜国自体は、竜族を守る手段の1つに過ぎぬ」
 リュウシンの答えに、サナは、目に明るい光を浮かべ、リュウシンに、質問に答えてくれたことに対しての礼を言ってから、
「カイ様! 」
カイを振り仰ぎ、
「お聞きになりましたかっ? リュウシンのお力を借り、この国の竜族全員で、人間の世界へ移住しましょう! そうすれば、誰1人、モネ様も、犠牲いならずに済みますっ! 」
 カイは、弾かれたように顔を上げつつ体の向きを変え、信じられない、といったように、まじまじとサナを見た。
 当然の反応だと、モネは思った。
(サナさんが、さっき私に言おうとした、助かるかもしれない、って、こういうことだったの……? )
そんなの無理だ、と思った。何故なら、この国の人たちは人間を憎んでる。その憎しみの強さは、身をもって経験済みだ。人間の世界でなんて、暮らしていけるワケがない。人間の世界で暮らすくらいなら竜国に残って竜国とともに消滅したい、などと言い出す人がいても、おかしくない。モネが犠牲になりさえすれば竜国は消滅せずに済むと知れば、モネを悪く言う人が出てくることも容易に想像がつく。もちろんモネにとっては、死んでしまうよりは人間の世界で暮らすほうが絶対にいい。族印さえ……モネが竜国に来て初めて見た時に、とても気味の悪い印象を持った族印さえ、上手に隠すことが出来れば、暮らしていける自信は当然ある。だが、他の人たちは……。
(サナさんは、言っちゃ悪いけどちょっと変わってるから、大丈夫かも知れないけど……。って言うか、そもそも自分は大丈夫だって自信があるから、サナさんは、人間の世界に住もうなんて突拍子もないことを思いついたのかも……)
モネは溜息。
 と、そこへ、リュウシンの、
「王族の長よ。竜国を残すのでも、人間の世界に移住するのでも、私はどちらでも構わぬ。お前が決めよ」
辺りに低く響き渡る声が頭上から降り注いだ。
 その言葉に、
(何でっ? )
モネは思わず、リュウシンを見た。…突拍子もないサナの考えを、リュウシンが選択肢に入れたことに驚いて……。それから、そっと、カイを窺うと、困惑した表情のカイと目が合った。
 カイは、暫くの間モネを見つめてから、桟橋から湖底へと飛び下りた。ゆっくりとリュウシンの前まで歩き、足を止め、モネのほうを向いて、もう1度しっかりとモネを見つめる。その目には、もう、困惑の色は無かった。
 モネは、
(カイさん……? )
カイが何やら自分に対して無言で語りかけているのが分かったが、その内容までは読み取れずにいた。
 カイは、モネに頷いて見せてから、微塵の迷いも感じさせず真っ直ぐにリュウシンを仰ぎ、
「決めたよ、リュウシン。人間の世界に移住する! 力を貸してくれ! 」
 「カイさんっ? 」
声にまで出して驚くモネ。……カイさんも自分と同じ考えだと思ってたのに、と。
 カイは、真っ直ぐにリュウシンに向けていた視線をモネに向け、フッと笑み、
「人間の世界はモネの故郷だ。しかも、モネは16年間、人間として生きてきた。モネを見る限り、人間たちが、伝え聞いているほどの悪者であるとは思えない。伝えられている話も真実だとしても、それは、ほんのごく一部の人間たちの話だと思う。自分の見たもの聞いたもの、自分の感覚を一番に信じたい。大丈夫だ。やっていける」
そして、ムタを見、火族の副長を見、ナガを、シイを、風・地・水族の副長を見、
「それにオレは、1人の犠牲も許したくない。皆で生きるんだ」
最後に、サナに視線を留めた。
「サナも、同じ考えだな? 」
 力強く頷くサナ。
 カイも頷き返し、
「よく、人間の世界に移住などという方法を考えてくれた。おかげで、大きな間違いを犯さずに済んだ。心から礼を言おう。……ありがとな」
 あまりの展開に呆然としてしまっていたようだった、サナを押さえつけていた5人が、ようやく我に返った様子で、急いでサナを解放する。
 サナは立ち上がり、カイに向けて深く頭を垂れ、
「もったいないお言葉です」
 リュウシンが、グウ……と唸り、
「人間の世界に移住……。承知した。空間の収縮により、この先は何が起こるか分からぬ。早いほうが良かろう。明日の今頃、再び、この地に集まるがよい。人間の世界へ送り届けてやろう」 
 モネの隣でムタが、
「しかし、人間の世界に移住というのでは……! 」
モネを放し、1歩前に進み出た。
 リュウシンは、目だけをキロッと動かしてムタを見、
「王族の長の決定だ。異論は許さぬ」
 ムタは、珍しく分かりやすく、悔しげにグッと口をつぐんだ。


                                   *


 …ユルサナイ…ユルサナイ……ユルサナイユルサナイユルサナイ……。
 モネは、何やら女性の声のようなものを聞き取り、
(? )
辺りを見回す。
 瞬間、バリッという音と共に、リュウシンの位置とカイの立つ位置の間の地面に亀裂が生じた。その亀裂から、白く渦を巻いた強い風のようなものが、ゴオッと3メートルほどの高さまで吹き上げ、カイは後方へと吹き飛ばされて尻もち。
 (カイさんっ! )
 尻を湖底についたままの状態で呆然と白い渦を見上げるカイに、モネも、サナをはじめとする族長副長の8人も駆け寄る。
 (何、これ……? )
モネは、白い渦を見つめた。何だか、とても嫌な感じがする。
 ユルサナイ、ユルサナイ、と、再び声。……渦の中からだ。
 渦を見守る10人とリュウシンの視線の先で、渦は次第に勢いを弱めて、やがて消え、中から、モネより少し年上と思われる、髪の長い着物姿の少女が、モネたち10人の側を正面に現れた。
 少女は俯き加減でユルサナイ、ユルサナイ、と呟いている。さっきから聞こえていた声の正体だ。
 何だか不気味で、モネは、背筋に寒気を感じた。
 少女の後ろで、リュウシンが唸るように、
「…お前は……」
 表情など分からないリュウシンが、はっきりと驚いていた。渦の中からの、この少女の出現は、それほどのことなのだ。一体、誰なのだろう……? 
 モネの無言の問いに答えてか、リュウシンは、これまでより更に低く掠れた、注意深く聞かなければ唸っているようにしか聞こえない声で、
「…竜国創造の際、私が飲み込んだ、王族の姫……」
 (156年前の……っ? )
…それって……、と、モネは思わず後退る。
(やっぱり、幽霊、ってこと……っ? )
渦の中から現れたその時に、何となく、そういう類の存在ではないかと感じてはいたが、言葉で、そうであると聞かされると、何をされたワケでもないのだから失礼かもしれないが、やはり、どうしても怖くなる。
 156年前の姫は、ユルサナイ、ユルサナイ、と繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。と、モネと目が合う。 
 凍りつくモネ。
 瞬間、姫はフウッと宙に浮き、
「許サナイッ! 」
 (! )
 宙を直線的に、いっきにモネとの間合いを詰めると、狂気を感じさせる目で、至近距離からモネを覗き込み、
「オ前ダケガ生キ延ビルナド、許サナイ……ッ! 」
囁いたかと思うと、恐怖からすっかり固まってしまっているモネの右手首を、ガッと掴んだ。そして、
「オ前モ飲ミ込マレロ! オ前モ死ネ! 」
リュウシンのほうへと引っ張る。
 引きずられるモネ。
 モネが引きずられて行くのを止めるべく、サナとカイが咄嗟にモネの体に飛びつき、しがみついたが、一緒に引きずられるほどの強い力。シイ、副長4人、最後にナガ、と、ムタとリュウシン以外の、その場にいる全員が次々と飛びつき、ようやく、ドサッ。 姫の手がモネから離れ、モネと、しがみついていた一同は、湖底に転がった。
 モネが、掴まれていた手首を見れば、赤く、しっかりと手の跡が残っている。
 姫は、すぐさま、クワッと目を見開き、髪を振り乱しながら、
「私ノ命ヲ犠牲ニシテマデ創ラレタ竜国ヲ簡単ニ消滅サセヨウナド許サナイッ! 姫ナラバ、竜族ノタメニ命ヲ差シ出セッ! ワガママハ許サナイッ! 」
再びモネに手を伸ばしてきた。
 「どっちがワガママだ! 」
シイが怒鳴りながら素早く身を起こし、立ち上がって、モネと姫の間に割り込んだ。
 姫は動きを止め、少しさがって距離をとり、シイ越しに静かにモネを睨む。
 「モネもワガママなヤツだけど、アンタのほうが、まだヒデエよ。犠牲になることは、アンタが選んだことだろっ? モネを犠牲にするってのは、アンタが決めたことなのか156年前のヤツらが揃って決めたことなのか、それともリュウシンが決めたことなのか、知らねえけど、モネのいないところで勝手に決まったことにモネが従わねえからって、何だってんだ! 」
シイが叫んでいる間に、同じく転がっていたほかの7人も立ち上がり、シイの隣にズラリと並んで、モネを守る壁となった。
 叫ぶシイなど、まるで眼中に無い……どころか、モネを睨むことすらやめて、気まぐれな視線を退屈そうに彷徨わせていた姫は、シイが一通り叫び終えるのを待っていたかのように、
「言イタイコトハ、ソレダケカ……? 」
フン、と鼻で笑いつつ言ってから、
「邪魔ダアッ! ドケエェェェェェェェェェェェェェェェェェェッ! 」
ギラついた目で真っ直ぐにモネだけを見据えて絶叫。モネの前に並ぶ8人など全く見えていないのでは、といった勢いで、宙を、モネに向かい突進。 真正面にいるシイとぶつかる寸前で、更に加速。しかし、ぶつからなかった。
 前面の8人は、姫の通り道を強引にあけさせられるように、正体不明の何か見えない力によって、左右に吹っ飛ばされたのだった。
(! )
飛ばされ、湖底に体を強く打ちつけられた8人。気を失ってしまったのか、倒れたまま、グッタリと動かない。
(サナさん! カイさんっ! )
直後、
(っ! )
モネは背後から首を絞めつけられた。グッタリと動かない8人にモネが気を取られた隙に、姫に背後に回られたのだった。
 姫は、自分の体の前面にモネの背中を密着させ、モネの両腕の動きを封じるように自分の左腕をモネの体前面へと回して押さえつけ、右腕でモネの首を絞めていた。
 (…苦しい……! )
モネは振りほどこうとするが、姫の力は強く、無理だった。 
 その状態のまま、姫は勝ち誇ったように笑いながら、スウッと宙をリュウシンの前まで移動。リュウシンの目の高さと同じ高さまで上昇し、
「リュウシン! サア、コイツヲ飲ミ込メ! カツテ私ヲ飲ミ込ンダヨウニ、コイツヲ飲ミ込ンデ、竜国ヲ救エッ! 」
 と、モネの耳に、後方から小さく呻き声が聞こえ、続いて、
「モネッ! 」
サナの叫ぶ声。
(サナさんっ! )
モネはサナのほうを振り返ろうとするが、ガッチリ押さえられていて出来ない。
 リュウシンの唸り声。微かに生臭い息。リュウシンは、静かにゆっくりと、口を開き始めた。
 モネは、恐怖から目を閉じることすら出来ずに、ただ、
(嫌っ! 怖い! 死にたくない! 死にたくないっ! )
心の中で叫ぶ。リュウシンに飲み込まれて死ぬことは、覚悟……と言ってしまうと少し違うような気もするが、仕方のないことと諦め、受け入れていたはずのことだった。しかし、一度、生き延びる希望を目の前に広げられて見てしまったら……。
(…生きたい……! )
ノドがとても渇いた時に、水が飲みたい、水が飲みたい、と、そればかりになるのと似た感じで、今、モネの心は、生きたい、生きたい、と繰り返していた。
 姫が、ガッチリと押さえつけた腕はそのままに、斜めから、楽しげに意地の悪い笑みを浮かべ、モネの顔を覗きこむ。
 その時、開いた口でリュウシンが、
「それは、出来ぬ」
言った。
 モネは驚く。リュウシンの口は、自分を飲み込むために開かれたのだと思っていた。
 モネを覗き込む姫の顔から、フッと笑みが消えた。姫は強張った表情をリュウシンに向ける。
「何故ダ? 」
 答えて、リュウシン、
「王族の長の決定に反する。お前の腕の中の、その姫を犠牲にし竜国を救えば、王族の長は、竜族を守っていく力を失う。本末転倒。竜族は遠からず滅ぶこととなるのだ。竜族の者たちは私を神などと呼ぶが、神はむしろ、王族の長。王族の長の竜族を愛する心こそが、竜族を守り支えている。王族の長とは、そういう存在だ。ここ暫く、王族の長は体調が優れなかったようだが、それは、竜族の危機を知らず知らず敏感に感じ取ってのこと。人間の世界への移住の決定を境に、体調は回復したと見受ける。ならば移住は竜族にとり正しい選択と言えよう。私は、それに逆らう力を持たぬ」
 「ソ…ンナ……」
姫の腕の力が急に緩んだ。
 (! )
スルッと、モネの体が姫の腕からすり抜ける。
(落ちるっ! )
モネはギュッと目を閉じ、身を固くした。
 「モネっ! 」
サナが叫ぶ。
 直後、ドサッ。モネは落ちたが、
(……? )
痛くない。恐る恐る目を開けて見れば、モネの体の下に、サナ。モネが湖底にぶつかる寸前、間一髪のところで、サナがモネと湖底の間に滑り込んだのだった。
(! サナさんっ! )
モネは慌ててサナの上から退く。
 サナは小さく呻きながら上半身起き上がり、
「モネ……」
サナらしく優しく穏やかに笑んで、そっと腕を伸ばし、モネを自分の胸へと引き寄せた。
 (サナさん……)
モネは、サナに体を預ける。
(…あったかい……)
 そこへ、頭上から、
「ウアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ! アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!! 」
大絶叫。見れば、姫が、髪に指先を埋めるようにして抱えた頭を狂ったように前後左右に振り、叫んでいた。
「私ノ犠牲ハ、無意味ダッタト言ウノカッ! 無駄ダッタト言ウノカッ! 私ノ命ハッ! 私ノ命ハアアアアアアアアアアアアアアアアアッ! 」
血を吐くように、激しく。
 そのあまりに激しい様を、恐怖もあって、思わずギュッとサナの胸に爪をたてつつ身を起こし、唖然としてしまいながら見つめるモネ。
 と、そんなモネの背後で、 
「それは違う! 」
凛とした声が響いた。
 姫は叫ぶのをやめ、声の方向を見る。
 モネも振り返ると、カイが苦しげに顔をしかめ、立ち上がるところだった。
 カイは、ヨロヨロとモネとサナのすぐ横まで歩いて来、姫を見上げる。
「オレは、いや、ここにいる全員が、アナタには感謝している! 人間の世界で主に竜族が暮らしていた地は、四方を海に囲まれた小さな島国だったと伝えられている。そんな中で命を狙われては、逃げることも儘ならず、戦うにしても、当時は人数も少ないし、竜国という逃げ場を創ってもらえなければ、オレたちの先祖は生き延びることが出来なかったかも知れない。そうなれば、オレたちも生まれてはこれなかった! 」
 姫は、スッと宙から湖底に下り、カイの正面に立った。
 サナが、手のひらで優しく包み込むようにしながら、自分の胸にくい込んだ爪を解き、さり気なく、モネを背に庇う。
 姫、カイの目を覗いて、
「感謝、ダト……? 何モ知ラナイクセニ……」
皮肉げに笑った。
「オ前ラノ先祖ガ、私ヲ追イツメタノダゾ? 」
言って、チラッと、たった今の姫の大絶叫によって気がついたのか上半身起き上がり頭を軽く左右に振っているシイに視線を流し、
「サッキ、ソコノ大男ガ、犠牲ニナルコトハ私ガ選ンダコトダト言ッテイタガ、ソレハ違ウ。…私ハ、生キタカッタノニ……」
語尾を震わせ、俯く。
「リュウシンガ、私ガ生キテイタ当時ノ、私ノ住ム竜族ノ村ノ皆ノ前デ、竜国ヲ創ル話ヲシタ。皆、口デハ何モ言ワナカッタガ、目デ、私ニ、死ネト言ッテイタ。姫ナラバ、ソウスルベキダト……。生キタクテ躊躇ウ私ヲ責メテイタ……」
小さな小さな声で言葉を紡ぎ、最後は、ほとんど聞き取れないほど小さく言って、口をつぐむ。
 辺りは、シン……と静けさにのまれた。
 モネは、
(…何か……。…何だろ……)
遣る瀬無い思いで胸がいっぱいになっていた。姫が、あまりに痛々しくて……。…ほんの数秒前まで、ただ怖いと思っていた。その姫が、今、何と小さく見えることか……。この姫の心を、何とか慰めてあげたいと思った。しかし、言葉が見つからない。
 皆、同じような気持ちなのだろう。モネが、そっと、サナやカイ、シイ、いつの間にか目を覚まして起き上がっていたナガや副長たちの様子を窺うと、皆、一様に俯き、切なげな表情をしていた。…ムタだけは、いつもと変わらず感情の読み取れない表情をしていたが……。 
 ややして、
「…なあ……」
地べたに座ったままのシイが、姫に向かって徐に口を開いた。
「アンタが死んだ時、アンタの親父って、生きてた? 」
 姫は、ゆっくりと顔を上げ、気だるげに、アア、と、短く返す。
 シイは、そうか、と頷き、
「オレさ、親父なんだ。まだ小せえけど、娘がいる。可愛くてさ……。目に入れても痛くないって、きっと、こういうことだって、娘が生まれてから知ったんだ……。だから、自分より先に娘が死ぬなんて考えられねえし、考えたくない。アンタの親父も、そうだったんじゃねえかな……? 皆がアンタに死ねっていう目を向けた、って、生きたがるアンタを責めてた、って、アンタは言ったけど、親父だけは違うって、オレ、自信持って言えるよ。親父は、アンタに生きてて欲しいって思ってたと思う。自分が代わりに死んでもいいから、アンタには生きてて欲しいって……。一生、アンタを守れなかった自分の無力を呪いながら生きてたと思う。今だって、死んでなお不幸なアンタを天国から見て心配して、悲しんでるんじゃねえか? 」
 姫は、驚いたように大きく目を見開いてシイを見つめ、シイの言葉に聞き入っていた。見開かれた目から、大粒の涙がパタパタと落ちる。
 シイは続ける。
「アンタさ、こんなところでオレらに絡んでねえで、早く天国に行って、親父を安心させてやれよ。その後で」
そこまでで一旦 言葉を切り、
「156年分、キッチリ甘えてやれ」
ニヤッと笑って見せた。
 姫は、つられたように小さく笑い、頷いた。
 それを見て、モネは驚き、同時に、
(シイさんって……)
シイに対して尊敬の念を抱いた。……あんなに傷ついていた人を、こんなふうに慰められるなんて、と。
 感心しきっているモネに、
「オ前……」
姫が声を掛ける。
 突然に向けられた声に、モネは、軽くビクッ。
 「オ前ハ幸セダナ。コンナ、良イ人タチニ囲マレテ……」
姫は、とても穏やかな表情。
「私モ、幸セカ……」
呟きながら、一度 空を仰ぎ、再びモネに視線を戻す。
「怖イ思イヲサセテ、スマナカッタナ。何ダカ、トテモ清々シイ気分ダ。今ナラ、天国ヘ行ケソウナ気ガスル」
そして、イタズラっぽく笑い、
「イヤ、絶対ニ行カネバナ……。父ニ甘エルトイウ、大事ナ仕事ガアルノダカラ……」
 姫の体が透け、向こう側が見えた。天国へ行くのだと、モネには分かった。
 シイが、少し急いだ様子の早口で、
「さっきは悪かったな。何も知らねえのに、ワガママとか、勝手なこと言って……」
 姫は、フッと笑みで返す。その笑顔は、とてもキレイだった。
 直後、姫の体がパアッと眩しい光を放ち、モネは目を開けていられず、閉じる。
 

 光が落ち着いたのを感じ、モネは目を開ける。もう、そこに姫の姿は無かった。
 「モネ」
サナが、そっとモネの肩を抱いた。
 (サナさん……)
モネは頬でサナの胸の温もりを感じつつ、姫のいた場所を見つめた。光となって天国へ旅立った姫を、心の中でさえ言葉に出来ず、思いながら……。



                                  *


 人間の世界に移住するにあたって、モネ、サナ、カイ、シイ、ムタ、ナガと、4人の副長たちは、リュウシンを交え、その場……金湖にて話し合いを持った。
 「先に言っておくが」
と、低く、リュウシンは前置きし、姫の犠牲なしで可能なのは移動のみであり、竜国を創った時のように本来は人の住めない場所を住めるよう環境を整えることまでは不可能。現在の人間の世界で人の住める場所に於いては、山奥にまで人間の手が伸び、管理が行き届いており、以前のように竜族の村を作り、ある程度まとまった人数で隠れ住むことが不可能なため、目立たないよう家族単位ほどの少人数のグループに分かれて人間たちの中に紛れて生活するしかない、と告げた。
 それを聞き、
(…そっか……。そう、だよね……)
不安になったモネが他の9人に目をやると、皆、一様に途惑った様子だった。おそらく、人間の世界で暮らす姿として、昔のように山奥の竜族だけの村で、皆で一緒に、隠れる、とまではいかないまでも、人間たちとは距離を置いて暮らすことを思い描いていたのだ。何を隠そう、モネも、そう思い込んでいた。……やっていけるのだろうか。族印のこと1つをとってみても、距離を置いて生活する分には何とか隠せても、共に勉強したり働いたりする中で隠し続けるのは難しいのではないか。距離を置いて生活できるだけの場所が現在の人間の世界に無いことぐらい、人間の世界で16年も暮らしていたモネなら、ちょっと考えれば分かるはずのことなのに、モネも、リュウシンに言われて初めて気づいたのだった。
 モネはカイを窺った。竜国を消滅の危機から救うためにモネをリュウシンに差し出す期限である日没から、まだ数分が過ぎたところで、今なら間に合うのでは、と。カイが、その方向に考えを転換するのでは、と。
 しかしカイは、一度、大きく息を吐き、首を横に振って、その表情から途惑いを追い払い、
「皆、何を不安な顔をしている。大丈夫だ。やっていける。そのための話し合いを、今、している」
キッパリと言った。
 その言葉に、サナ、シイ、ムタ、ナガと4人の副長たちも途惑いを消し、あるいは隠しただけか、強く頷いて、移住の方向のまま話し合いを続行。
 モネは不安ながら、今さら、やっぱり皆のために死んでくれ、などと言われずに済んで、ホッとした。


 リュウシンが、モネが人間の世界の出身であると知り、聞いてきた。移住にあたって、竜族全員、1人1人に、必要なものを3つだけ用意してやれるが、何がいいと思うか、と。
 モネは、人間たちの中に紛れて生活するならば、と、ちょっと考え、電気・ガス・水道がすぐに使える状態の住居と、職に就いて収入を得られるまでの生活資金として足るだけの人間の世界の通貨、そして、戸籍を挙げた。
 承知した、と頷くリュウシン。
 カイが、
「服装なんかは、このままで大丈夫なのか? 」
人間たちの中に紛れようとしている以上、出来るだけ目立たないようにしたほうがいいと思うのだが、と、モネに向けて口を開く。
 返してモネ、
「服装は平気だと思いますけど、でも、族印は絶対に隠さないと……」
自分が竜国にやって来て、初めて人々の額の族印を目にした時に思ったことを話した。
 それに対し、ナガ、気取った調子で、
「それについては、ワタクシメにお任せを」
上手に隠せる方法に心当たりがございますので、と。


 続いて、竜国の人々全員に金湖に集まってもらうための手順などを話し合う。



                                  *



 話し合いを終え、リュウシンは空へ帰り、竜族10人は城の執務棟へ。話し合いで決まった手順に従い、手分けして、各居住地区の地区会長に連絡を取り、パニックを防ぐため事情は伏せたまま、
「カイ様から大切なお話があるため、明日の夕刻前までに金湖に間違いなく全員集まるよう、住民の皆さんにお知らせください」
との内容を伝えた。



 各地区会長からの、確かに住民全員に伝えた旨の折り返し連絡を待って、10人が執務棟に詰めているところへ、
「タムケ商店の方がお見えになりました」
桃色の作務衣姿の女性が入口で深く頭を下げ、夜なのに濃い色のサングラスをかけた、言っては悪いが、ちょっと胡散臭い感じの、30代後半くらいの男性を通す。
 その胡散臭い男性は、小さめのアタッシュケースを手に、愛想笑いを浮かべながら入って来た。 
 男性はナガが呼んだらしく、
「やあ、よく来てくれたね」
ナガが、笑顔で迎えた。
 男性は化粧品屋で、ナガは、族印を隠すのに化粧品を使ったらどうかと考え、男性に相談したのだと言う。
 男性からアタッシュケースを受け取り、開けるナガ。アタッシュケースの中身は、ファンデーションのようなベージュの化粧品が数種類。
 「この中のいずれの物でも隠せるとは思うのですが……」
 男性の言葉に、ナガは、試してみよう、と、
「モネ様、モデルをお願い出来ますか? 」
モネに声を掛けてきた。
 モネは、え? 私? と、別に驚いたワケでも嫌なワケでもないが、とりあえず反応してから、
(いいけど……)
頷き、
「そこの椅子に お掛けください」
とのナガの言葉に従い、窓辺の椅子に座る。



 ナガは、男性の指導を受けながら モネの額に化粧品を塗り、
「うん、我ながら良い出来」
満足げに頷いて 男性を振り返った。
 男性はゴマをするように揉み手をしながら、
「はい、そうでございますね」
 しかし、お世辞ではなかったらしく、すぐ傍で見ていたサナとカイが、感心したように唸った。
 サナにまじまじと見られ、ナガにいじられた後の自分自身の顔が分からないだけに、恥ずかしく、いたたまれなくなるモネ。
 「ご覧になられますか? 」
言いながら、ナガは、いつもの胸ポケットの鏡をモネに向ける。
 鏡の中に、族印の無い自分の顔を見、モネは、
(…んー……、何か……)
違和感。間違いなく必要な、あるべきものが足りない、間の抜けた印象を持った。
(…変な感じ……)
 モネに向けられた鏡に、その向きの加減で、窓の外の月が映った。


 ナガが、鏡を自分に向けて軽く前髪を直してから、元通り、ポケットに仕舞う。
 モネは窓の外に目をやり、たった今 鏡を通して見た月を、今度は直接眺めた。……胸がキュッとなるような、ボンヤリとした月。……切ない記憶を呼び覚ます月。……懐かしいような気持ちにさせる月。……もう、見ることのない月。…何だか、信じられない……。 竜国に来て、色々なことがあった。……その竜国に、明日の今頃、自分も、誰も、もういない。竜国自体も、遠からず消えて無くなってしまう、なんて……。



                                 * 8 *


 水の無い金湖の周りに湖底に集まった、数えきれない人々が、傾き始めた太陽の微かに赤みを帯びた終末の輝きを斜めに受けながら、「カイ様の大切なお話」を待っていた。
 「お待たせいたしました」
人々から少し離れた、ほとりの公園側の木立のところで人々の様子を見守る、モネ、カイと、各種族の長、副長のもとへ、タムケ商店の男性がやって来、
「無事、運び終わりました」
言って、公園内に目をやる。つられて見れば、公園内倉庫手前に見事に出来上がったダンボールの壁。中身は、族印を隠すための化粧品1千万個。昨日、月を眺めるモネの隣で、ナガが注文していた。何故 族印を隠すのですか? 1千万個もどうなさるのですか? という男性の質問を、明日のカイ様のお話を聞くまでのお楽しみ、と、軽くかわし、代金のことはムタに言ってね、と言ってムタから睨まれながら……。
「苦労しましたよ。1千万個も数を揃えるのは……。 他の店に聞いてみたり、製造元の在庫を確認してもらったり……」 
 男性の言葉に、ナガは、ご苦労様でした、と、ニッコリ笑って返し、ついでだから、そこにいる人たち全員に、足りなかったら1家族最低2個の計算で配ってくれる? と、金湖のほうに目をやりながら、全然ついでにならないことを頼んでいた。最後に、代金を1割上乗せしていいから、と、周囲に完全に聞こえてしまっているが、一応、男性の耳元で囁く感じで付け加えて……。
 モネは、男性をちょっと気の毒に思った。化粧品そのものの代金は既に支払われているのかどうか、分からないが、今、ナガから約束された上乗せ分は、確実に支払われないで終わる。……もっとも、支払われても、竜国の通貨では、もう、使えなくなるのだが。



                                   *



 カイの指示で、城勤めの人たちがタムケ商店の男性の化粧品配布を手伝った。数人で1つのダンボールを金湖へ運んでは金湖の周りや湖底にいる人々に配り、空になったダンボールは潰して元の倉庫前まで戻しに来る、を繰り返す。
 化粧品の入っていたダンボール箱の空になった最後の1つをタムケ商店の男性が倉庫前へ戻したのを見届け、確認したように頷いてから、カイ、
「そろそろ、いいか」
言って、モネと各種族の長・副長を見回す。
 いよいよ、だ……。 モネは、緊張しながら頷く。
 長・副長たちも、頷いた。



 モネとカイ、各種族の長・副長は、金湖の縁、それまで立っていた木立のところから直線の位置へ移動。シイと地族の副長の手で、土の演壇が造られた。モネと長・副長たちは、その脇に控える。カイが、ムタから拡声器を手渡されて頷き、ゆっくりと演壇に登った。
 モネは更に緊張を強める。ついに、カイから、集まった人々へ、竜国が消滅する事実と人間の世界への移住の決定が伝えられるのだ。……この話を聞いて、人々は何を思い、どんな反応を見せるのだろう、と。当然、人々が強いショックを受けることを想定し、それによって起こりうる様々な事態への対処法も昨日のうちに話し合い済みだが、もし、想定している以上の大変なことが起こったら、自分は、その時、キチンと対応出来るのだろうか、と。
 それまで普通にザワついていた人々が、演壇上にカイの姿を認め、一斉に口をつぐんで直立の姿勢をとって注目する中、カイは、拡声器を通して発表した。……竜国が遠からず消滅すること。その消滅から身を守るため、今、これから、リュウシンの力を借りて、竜族全員で人間の世界へ移り住むことに決まったこと。
 モネは、自分の隣に立つサナをはじめ、他の、演壇脇に控えている長・副長たちが、自分と同じく緊張しているのを感じる。少しの変化も見逃すまいと、神経を研ぎ澄まし、人々に注意を払っている。
 しかし、意外と、カイからの話を聞いた人々の反応は薄く、人々がどう感じたのか、モネには全く伝わってこなかった。
 だがそれは、カイの前であるということで、意識的に、カイの決定に少しでも批判的な要素のある感情を抑えてのことだったらしく、カイが演壇から下り、代わってムタが詳細を説明し始めると、人々は再びザワめきだした。
 ショックのあまりか、
(! )
モネの真正面で若い女性が卒倒した。覚悟はしていたものの、あまりにも真正面過ぎて、モネは、思わずビクッ。その後、暫し呆然としてしまい、
「モネっ! 」
サナに声を掛けられ、ハッとする。
 昨日話し合った対処法に則り、身体にショックが現れた人の手当て担当のサナが、女性に駆け寄った。
 モネは、サナの補助を担当。急いで、サナに続いた。
 サナの指示の下、女性の衣服を緩め、体勢をそっと変えさせるモネの耳に、周囲の人々の声が入ってくる。
 母親に向かって、
「ねえ、おかあさん。カイさまは、なんて おっしゃられたの? ムタさまは、なにを おっしゃっているの? 」
と聞く、全く話が呑み込めていない小さな子供。その母子と背中合わせの位置で、中年男性5人組は、
「消滅しちまうんじゃ、仕方ないなあ。死ぬよりゃいいよ」
「人間の世界も、皆で行くなら悪かないだろ」
「そうだな、元々は人間の世界に住んでたらしいもんな。新しい土地に行くって言うより、どっちかってーと、オレたち、故郷に帰るんだよ。全然、悪くねえよ」
「そうか? 人間の世界は悪いから、こっちに住むようになったんだろ? 」
「お前! せっかくオレらが何とか納得しようとしてるのにっ! 」
などと話し、5人組の横では、初老の女性がすすり泣く……。
 ムタによる詳細の説明が終わり、ナガが、タムケ商店の男性が人々に配った化粧品と同じものを手に族印を隠す実演を始めると、モネのすぐ横にいたかなり歳の多い男性が、手にした化粧品を見つめながら連れの中年女性に、
「族印を隠してまで人間の世界で暮らすくらいなら、このままここに残って、竜国と一緒に消滅出来んかなあ……」
と呟き、涙ぐんだ。
 それは昨日、サナが人間の世界に移住、などということを言い出した時に、モネが、そんなことを言い出す人がいてもおかしくない、と想像した、そのままの言葉だった。モネが想像していたもう1つ……モネを悪く言う言葉は、どこからも聞こえて来ない。移住することに決まった以上、モネを差し出せば竜国は救われるはずだったなどと人々に伝える必要性は全く無いため、モネ本人とサナ、昨日モネを捜していた8人以外は誰も知らないからだ。
 モネは何だか申し訳ないような気持ちになり、その歳の多い男性のほうへと向き直って口を開こうとした。 
 と、その時、誰かがモネの二の腕をクイッと掴んだ。振り返って見ると、
(サナさん……)
サナだった。
 サナは、静かに首を横に振って見せる。
 そこへ、
「誰か、オレの族印に塗ってくれないか? 」
カイが、化粧品を顔の横まで持ってきて見せながら、モネやサナのいるほうへ歩いて来、
「貴方がいいな。塗ってくれるか? 」
竜国と一緒に消滅したいと言っていた男性に声を掛けた。
 男性は、
「カイ様……」
非常に驚いた様子で2・3歩後退り、地面に平伏した。
 カイは、男性のすぐ前まで歩き、しゃがんで、
「塗ってくれるか? 」
繰り返しながら、自分の手にしていた化粧品を、平伏している男性の顔の下に差し出す。
 男性は顔を上げ、暫しカイを見つめてから上体を起こし、恐る恐る、といった感じでカイの化粧品に手を伸ばす。手に取り、蓋を開け、中身を指に取ると、震える手でカイの額に塗った。
 カイは、ありがとう、と軽く礼を言ってから、しっかりと、男性の両目を見つめ、
「貴方のように年齢を重ね人生経験の豊かな方は、これから人間の世界で暮らすにあたり、その存在だけで歳の若い者に安心感を与える大切な存在だ。一緒に、人間の世界に来て欲しい。来て、くれるな? 」
 男性は涙を溢れさせながら、何度も何度も頷いた。
 カイは、ポン、と軽く、男性の肩に手を乗せ、立ち上がる。


 カイは予定外に再び演壇へ上ると、族印を隠す実演中のナガから拡声器を借り、
「皆、聞いてくれ」
 カイの声に、人々は一瞬で静まり、演壇のほうを向いて姿勢を正す。
 カイは一度、首だけをゆっくりと横に動かして人々を見渡し、
「若い親が小さな子供を守り、子供の笑顔が親の心を癒し、仲の良い親子の姿が見ている者の気持ちを穏やかにし、その温かな視線が、また親に子供を守る力を与えるように、1人1人、誰もがかけがえの無い、大切な存在だ。人間の世界に移住するなどという重大な事柄を、こんなふうに、寸前になって突然発表したことは、申し訳ないと思っている。長年暮らした家に最後の別れを言いたかった者もいるだろう。どうしても手放したくない物を置いてきてしまった者もいるだろう。許してくれとは言わない。だが、そうしたのには理由がある。オレは、1人も失いたくなかったんだ。ヤケを起こして自殺などする者が出るのを防ぎたかった。皆揃って人間の世界へ行きたかったんだ。分かって欲しい」
そこまでで一旦、言葉を切り、再び人々を見渡してから、凛然と正面を向き、堂に入った口調で、
「皆で、人間の世界へ行こう! 竜族の、新しい1歩を踏み出そう! 」
 あちらこちらで、息の漏れる音、唾を飲み込む音。そして、数秒の沈黙の後、人々の間から、割れんばかりの拍手が沸き起こり、カイと竜族を称える大歓声が上がった。
 (…カイさん…スゴイ……! )
目に見えない熱く力強い何かが、自分も含めその場にいる人々全員を包み込み、1つにまとめたのを、モネは感じた。
(スゴイ……! )
感動で、体が震えた。



                                  *



 日が完全に没した。隣に立つサナが空を仰いだのにつられ、モネも上を見る。
(…リュウシン……)
リュウシンが、上空に姿を現した。
ほとんどの人が、リュウシンの姿を初めて見たのだろう。その場がどよめく。
 直後、
(! )
モネの視界が大きく揺れた。



                                * 9 *



 (ん、大丈夫)
放課後、学校近くのショッピングセンター内の100円ショップに、学校の球技大会で使用する応援グッズの材料か出来れば完成品を求めて買物に来ていたモネは、商品の鏡で、族印を隠す額の化粧が落ちていないか、さりげなく確認した。
 モネが、この人間の世界に戻って、もう、1ヵ月が経とうとしている。
 (皆、今頃どうしてるかなあ……)
族印がキチンと隠れているかどうか気にする度に、モネは、竜族の人たちのことを思う。リュウシンが住居と当面の生活資金を用意し、役所の戸籍データに竜族の分を作って紛れ込ませてくれたはずだが、それでも、モネのように、人間の世界に帰った、という形ではないのだから、慣れない土地で、色々と苦労しているのではないだろうか……。そう、サナも……。
(サナさん、どうしてるかな……)
会いたいが、どこにいるのかすら分からない。人間の世界に帰ってきたばかりの頃、モネは、サナが恋しくて、寂しくて……。考えたって仕方ないのに、会いたい、会いたい、と、1日中、そればかりだった。…最近は何となく慣れてきて、どうしているのか時々、気に掛かりはしても、1日中サナのことばかり考えている、ということはなくなったが……。
 家族のいないサナは、1人でか、あるいは何かしらの繋がりのある人たちと少人数のグループでか、竜国から、リュウシンがこの世界に用意した住居のうち、どこかにある1つの中に、リュウシンの力により移動したはずだった。
 モネの場合は、両親の住む、この世界での自宅玄関内に移動した。竜族全員で金湖に集まった、あの日、上空にリュウシンの姿を見て視界が揺れた後、視界が落ち着いた時には、もう、自宅玄関内に立っていた。移動したのだと気づいてすぐ、モネは自分の隣を見た。それまですぐ隣にいたはずのサナは、いなかった。心の中に、スウッと隙間風が吹いたのを感じた。家族単位ということなので、竜国に家族が無く人間の世界に家族のあるモネが、1人で人間の世界の家族のもとへ移動させられるのは当然のことかもしれないが、モネは何となく、人間の世界に移動した後も、サナと一緒にいられるような気になっていたのだった。
 モネが戻って来た時、両親はモネに、今までどこで何をしていたのかと聞いてきた。当然だ。返してモネ、
「言ったって、どうせ信じないと思うけど……」
その答えに、母は、心配してたのに何それ! と怒りながら泣き、父は、そんな母を宥めつつ、母と同じ言葉でモネをたしなめ、そして、モネは驚いた。自分自身の口をついて出た言葉に、驚いた。以前に人間の世界で暮らしていた頃のモネだったら、思っていても口にすることはありえない言葉だったから……。言った後の両親の反応が分かりきっているから、面倒くさいから口にしない。何か、両親が簡単に納得するような嘘をサラリとついて済ます。結局、竜国のことに関しては、信じてもらえる見込みが本当にゼロなため適当にごまかして話さずじまいだったが、その、ちょっとケンカを売っているようにも取れる発言を最初に、毎日一緒に暮らす中で、時々モネは、何故か自然に素直に、両親に気持ちをぶつける。そして、言い合いになって……。両親、特に母との関係が変わった気がする。以前より、ほんの少しだが距離が縮まった気がする。……それは、やはり面倒くさい。しかし、不思議と悪くはない。


 「吉川さん」
想い耽っていたところを、後ろから不意に呼ばれ、モネは振り返る。
「このメガホンなんて良くない? 」
一緒に買物に来ていた同じクラスの女子が、クラスカラーである青色のプラスチック製のメガホンを手に、立っていた。
「レジの横のカゴの中に積んであったの。数えてみたら、ちゃんと人数分揃うだけあったから、お店の人に聞かなくて済むし」
 応援グッズを買いに来るくらい、学級会でキチンとモネに一任されていたこともあり、交通手段が徒歩のモネには荷物になって大変ではあっても、まあ1人でも大丈夫だろう、と考えていたのだが、理想に燃える担任が、強引に、クラスで2番目に暇な女子を来させたのだった。
 と、その時、小さな子供の泣き声が聞こえ、
(……? )
モネは辺りを見回す。
 100円ショップと向かいの手芸店の間の通路で、3歳くらいの男の子が、ママ、ママ、と言いながら泣いていた。……迷子のようだ。
 モネは男の子に歩み寄り、
「ママがいないの? 」
声をかけた。
 男の子は、泣きながら頷く。
 モネは、通路の右手方向を見、左手方向を見た。
 そこへ、手芸店内の背の高い棚と棚の間から、モネのほうへ向かって若い女性が走って来、
「ケンちゃんっ! 」
 男の子は、その声に反応し、ママ! と嬉しそうに、女性のほうへ走り、抱きついた。
 女性は、しっかりと男の子を抱きとめつつ、モネに会釈し、男の子を連れて、手芸店内に戻って行った。
 その後姿を見送ってから、モネが100円ショップ内に戻ると、一緒に買物に来ていた女子が感心したように、
「吉川さんって、勇気あるねー」
 (勇気……? )
今、モネは、とても自然に男の子に声をかけた。しかし、考えてみれば、本来、モネは、そういう時に声など掛けない人のはず。放っておいても、そのうちショッピングセンターのスタッフが何とかしてくれるだろうから、と。その男の子の親にモネが男の子を泣かせたのだと勘違いされて嫌な思いをする可能性だってあるし、と……。
 今、男の子に声を掛けたことといい、両親に気持ちをぶつけたりすることといい、竜国から戻ったばかりの頃には、サナさんに会いたいなんて、考えても仕方の無いことばかり考えてたことといい、何でだろ……? 
(私、何か変だ……)
モネは、心の中で呟く。



                                                                            * 終 *





 

竜の胎教

竜の胎教

2010年作品です。 大地震によって、竜族(りゅうぞく)の暮らす国・竜国(りゅうこく)へ来てしまった、ちょっと冷めた性格の女子高生・吉川モネが、竜国での出来事を通して成長していく物語。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-14

CC BY-NC-ND
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