桜
暖かな日差し。優しい春風にのって、桜のかけらが舞う。木々は青々と茂り、見る者の心をなごませている。
静かで、しかし密とした空気の中に、子供たちの歌声が混じった。まだ小さな子供たちは、美しい音色を聴けど、それを表現する力をもたない。けれど、力いっぱい張り上げたその声には、大人たちの心を揺るがすたしかな力があった。
仰げば尊しの合唱が終わると、大きな拍手があがった。子供たちの抑えた嗚咽は、拍手が鳴りやんでも、途切れることはなかった。子供たちは今日、この小学校を卒業するのだ。
最初はほんのちょっと抵抗があった。自分の眼球に指を押し付けるなんて、そんなこわいこと、自分にできるはずがないと思っていた。でも、コツさえ掴めば意外と簡単で、初めはちくちくと痛んだコンタクトレンズにも、そんなに違和感はなくなっていた。ただ、やっぱり着けてすぐは、なんだかふわふわ浮いているような、そんな感じ。
あかねは、しばらくじぃっと鏡とにらめっこして、やがて「よしっ」と歯を見せて笑った。ファーストフード店とかの営業用スマイルみたいで、ちょっと変な、ぎこちない笑顔。
やっぱりちょっと変かもしれないぞと思い、笑い方や顔の角度を変えてみる。いろいろ試して、効果的に誰からも好かれる、いわゆる社交性というやつを会得しなければならない。小学校も卒業したことだし、これはいわば、大人になるための登竜門みたいなものなのだ。時間を忘れてうんうんうなりながら修行に励んでいると、
「何してるの、あかねちゃん?」
急に後ろから声をかけられて、思わず「わあっ」と飛び上がった。
「マ、ママっ」
振り返ると、洗面所の入口からこちらの様子をうかがうママがいた。
「デートのときの笑顔の練習?」
「だ、断じて違うよっ」
にやにやと訊くママに、あかねは両手をぶんぶん振って、大声で否定した。なんだか恥ずかしいので、これは誰にも知られてはいけないのだ。大人の階段は、ゆっくりと密やかなものだから。
「じゃあ、鏡に向かって何をしてたの?」
ママはしつこく訊いてくる。きれいで自慢のママだけど、こんな知りたがりなところは勘弁してほしい。
「何もしてないっ」
あかねはママの脇をするりと走り抜けて、玄関で急いでくつをはいた。後ろから「あかねちゃん、メガネ忘れてるわよ」と聞こえてきたので、あかねはまた声を張り上げた。
「いいよ、コンタクトしてるから!」
春の柔らかな日差しは、外を歩く誰にも等しく、その優しい光を注ぎ続けていた。その恩恵をじゅうぶんに受ける、切妻屋根のよく似た家々が立ち並ぶ住宅街から抜け出ると、片道二車線の大きな国道があらわれる。近くの歩道橋を渡って道路の反対側に来ると、なじみの古めかしい駄菓子屋さんが遠くに見えた。走れば数分のところだけど、今日はちょっと気分がいい。おまけに空気が暖かいので、あかねはそこまで歩いていこうと決めた。
駄菓子屋さんまでは、あまり舗装されていないでこぼこの道を通る。両脇が田んぼなので、トラクターとか稲刈り機とかが、長い年月をかけて道を踏み荒らしているのかもしれない。だとしたら、この道はいったいどれだけの間、舗装もされずにいるのだろか。そんなことを考える。すぐ近くの国道は、毎年のようにピカピカに舗装されているというのに。
でも、あかねはこの道が気に入っていた。よく分からないけれど、でこぼこで、よく見ればあちこちから小さな雑草が飛び出してきているこの道は、なんだか温かいのだ。それはたぶん、ピカピカのアスファルトにはない、人の歩いた熱みたいなものなんじゃないかな、とあかねは思う。だとしたら、この道の歴史に自分も加われたようで、少し嬉しいのだった。
「あれ、時田?」
不意に名前を呼ばれ、立ち止まる。でも、辺りを見回しても、誰もいない。
「やっぱり時田だ。ここだよ、ここ」
もう一度、声がした。さっきと同じ、男の子の声だ。声のした方向をきょろきょろしていると、道をくぐる用水路からひょっこりと坊主頭が突き出ていた。その子の顔を確認して、あかねは「あっ」と叫んだ。
「藤崎くん!」
用水路に下りていたのは、クラスメイトの藤崎正弥くんだった。野球部のエースで、クラスでも人気者の藤崎くん。もともと色黒の彼は、夏になるとすごく真っ黒になる。毎日遅くまで汗をいっぱい流して白球を追う彼の姿に、あかねはちょっと惹かれていた。
「な、何してるの?」
「ヘビを追いかけていたんだ」
緊張気味に問うあかねに、藤崎くんはにかっと笑って返した。
「ヘ、ヘビっ?」
「うん。けっこうデカくてさ、でも素早いからなかなか捕まえられなくて」
「捕まえなくていいよ!」
もしかしたら、まだこの辺りにいるのかもしれない。あかねは慌てて付近を確認したが、それらしき影はなかった。でも、藤崎くんの情報によると大きくて素早いらしいから、油断は禁物だ。
「早く上がってきなよ。くつ、水でぐちょぐちょなんじゃないの?」
あかねが手を差し出すと、藤崎くんは「サンキュ」とその手を握り、田んぼに上がった。藤崎くんの手は固くてごくごつしていて、ほんのりと温かかった。
「この用水路、脇にちょうど人が一人歩けるくらいの道があるんだ。だから濡れてないよ」
用水路を見ると、たしかにそれらしい路肩みたいなものがある。藤崎くんは、どうやらここを歩いていたらしい。あかねは、はぁ~とため息をついた。
「どうしたんだ?」
あかねの顔を見やり、それから藤崎くんは「あ、そうか」と、何か納得したように手をポンと打った。
「ごめんな。やっぱり時田もヘビ見たかったよな」
「そうじゃないよっ」
それでなくても、あかねは爬虫類が大の苦手なのだ。ここにヘビがいたと聞いただけで、これからこの道を通ることさえためらわれる。大きくて素早いヘビが自分の目の前にあらわれたら、きっと腰が抜けてしまうだろう。
「なんで、そんな危ないことするの? 襲われちゃうよ?」
「あはは。大丈夫だよ」
本気で心配しているというのに、藤崎くんは声を上げて笑った。「俺、強いから」と、腕の力こぶを、反対の手でポンっと叩いてみせる。
それから彼は、改めてあかねの顔を見た。まっすぐに見つめられて、あかねは真っ赤になる。
「な、何?」
「いや、今日はメガネじゃないんだなって思って」
学校ではずっとメガネをしているから、藤崎くんはその顔しか知らないのだ。
「今日からコンタクトにしたの」
彼の視線から目をそらしながら、「へ、変かな?」と訊いてみる。何気ないつもりだったけど、それはとても勇気のいる言葉だった。変だと答えられたら明日からどうしよう、とか考えてしまう。
藤崎くんは、またまじまじとあかねを見て、それから「別に変じゃねーよ」と言った。
「でも、メガネかどうかで、見た目って変わるもんだな。最初見たときは本当に時田かどうか自信なかったし」
「……それって、ほめてくれてるの?」
訊くと、藤崎くんは「ほめてるんだよ」と笑った。
「メガネのときより、とっつきやすくなった」
「えぇっ?」
「ほら、メガネしてるヤツって、それだけで頭良さそうに見えるじゃん」
「じゃあ、今のわたしは頭悪そうに見えるってこと?」
「あれ、時田って、頭良かったっけ?」
「うっ」
痛いところを突かれて、思わず言葉に詰まる。たしかに成績はあまり良くはない。
「時田が言ってるのは、極論だよ。メガネしてるヤツは頭良さそうに見えるけど、でも、メガネじゃないからって頭が悪いようには見えないよ」
「あ、ありがと……」
なんだか気恥ずかしくなって、うつむいてぺこっと頭を下げた。
それから、ほんのちょっと、沈黙が訪れた。
それぞれ、田んぼを眺めたり、用水路をのぞいたりして、それは、何か次の言葉をさがしているようでもあった。
「そ、そういえばさ」
藤崎くんが切り出して、あかねは慌てて「う、うんっ」とうなずく。
「中学校、別々になるんだよな」
その言葉は、まさに不意打ちだった。
「そう、だね……」
「今までありがとうな」
にかっと笑う藤崎くんが、今、とても遠くにいるように思える。ついさっきまで、目の前にいたのに。
「こちらこそ、ありがとう」
そう返すと、あかね自身も、ぐーんと遠くにきてしまったように感じた。
藤崎くんは、ちょっと寂しそうな顔になって、それからすぐ笑顔に戻って、「じゃあな」と背中を向けた。歩き去る藤崎くんが、どんどん遠く、小さくなっていく。この距離は、ひょっとしたら永遠に縮まらないのかもしれない。もっともっと、広がってしまうのかもしれない。あかねは思わず、彼の名前を叫んだ。
「藤崎くんっ、またいつか、会えたらいいねっ!」
自分の声がお腹に響いて、びっくりする。藤崎くんは振り返らず、でも片手を挙げて、軽く振った。その仕草はちょっとキザに見えたけれど、そこにはたしかに、大人に近づく彼の姿があった。彼もまた、大人への階段を上っているのだ。
そう、自分だけじゃない。子供はみんな、階段を上っているのだ。
あかねは駄菓子屋さんに背を向けて、家へと歩き出した。
ぽかぽかと暖かい太陽は、そんなあかねを明るく照らしている。
帰ってくると、ママをさがした。ママは居間のソファに座って、アルバムを開いていた。それは、あかねのアルバムだった。
「あら、おかえりなさい」
あかねに気付き、顔を上げてママが言う。あかねは「ただいま」とママの横に座って、一緒にアルバムを覗きこんだ。
「これ、小学校に入学したときの写真だね」
大きな赤いランドセルを背負って、カメラに向かってブイサインをしている。写真の中の小さなあかねはとても嬉しそうで、当時を思い出して、目を細める。この頃のことはあまり覚えていないけれど、わくわくとか、どきどきとか、そういう目に見えない感情はまだ残っているような気がする。もしかしたら、写真を介してそう感じるだけなのかもしれないけれど。
「そうね。こんなに小さかったあかねちゃんが、今ではこんなに大きくなってくれたんですもの。ママは嬉しいわ」
頭をなでられて、「えへへ」と笑う。
「ねぇ、ママ。わたしのメガネ、どこにある?」
微笑むママの顔を見て、あかねが訊くと、
「どうしたの、今度は? コンタクトレンズしてるんでしょう?」
少し意外そうに訊き返してきた。
「うん、ちょっとね」
「あなたのお部屋の机に置いといたわよ」
「ありがとう」
あかねはお礼を言って、居間を出た。
部屋の電気をつけて、ドアを閉める。自分だけの空間は、いまだなお、小学生の自分の空気が濃く残っていた。毎日が新鮮だった、小学生のあかね。笑ったり、泣いたり、怒ったり。小学校を卒業することは、子供を卒業することだと思っていた。
机の小さなスタンドミラーで確認しながら、慎重にコンタクトレンズを外す。それを洗浄液で洗って、保存液を入れたケースにそっと入れ、ふたをした。今度、洗浄と保存が一緒にできるやつを買ってもらおうと思い、引き出しからメモ帳を取り出して記しておく。
それからメガネをかけて、もう一度、鏡をのぞく。鏡の中には、小学生のあかねがいた。
「ゆっくりでいいんだよね」
鏡に語りかけると、その向こうのあかねが笑った。
子供はみんな、大人への階段を上っている。駆け足だったり、ゆっくりだったり。でも、その先にあるものは、みんな一緒。あせらなくても、一歩一歩、近付いているのだ。
開けた窓からは、優しい春の風。
運ばれた桜の花びらが、少女のほほを、そっとなでる。
桜