ニキュ

ニキュ

桜庭ごがつ

          ☆
 
 ネコのニキュを拾ったのは、ボクが小学四年生の時だった。
 肉球を上手く「にくきゅう」と言えなくて、どうしても「にきゅきゅう」と発音してしまうことから、彼の名前はニキュになった。今にして思えば、なんとも情けないネーミングだ。でも何度も名前を呼べばこちらも自然と慣れてくるもので、あれから三年たった今では、彼はニキュ以外の何者でもない。ボクの大切な友達だ。
 
          ☆
 
 ニキュは黒猫だった。黒猫というのは大人にとってあまり縁起の良くない生き物らしく、ボクが拾って帰ったニキュを見た両親は、口を揃えて「元いた所に返してきなさい」とボクを叱った。ニキュが捨てられていたのは通学路にある小さな公園の脇である。冬も近いこの季節、公園で遊ぶ子供なんて少ないものだ。まだ生まれて間もない仔猫をまたあんな所に戻すだなんてボクには考えられなかったし、そんなことを平然と言ってのける両親が信じられなかった。
「オレは飼いたいな」
 助け舟は思わぬところからやってきた。
 声の方を見やると、お兄ちゃんが勉強部屋から出てきたところだった。来年に高校受験を控える、ちょっと年の離れたボクのお兄ちゃんだ。
「正直、毎日勉強勉強で息が詰まってたんだ。なんか癒されたいんだよね、オレ」
 そう言って肩をすくませて見せるお兄ちゃんに、両親は「じゃあ、ちゃんとしたネコを買ってやろう」と言った。
「ちゃんとしたネコ?」
 途端、お兄ちゃんの眉が吊り上がる。
「ちゃんとしたネコって何だよ。エイキの持ってるネコのどこがちゃんとしてないのさ」
 お兄ちゃんに詰め寄られて、両親はただオロオロするばかりで。
 そんな彼を、ボクは尊敬のまなざしで見ていた。
 でも、両親はけして首を縦には振らなかった。
「猫なんかにかまけていたら、勉強がおろそかになるだろう」
「今は少しくらい勉強がしんどくても我慢しなきゃ。カズキだっていい高校に入りたいんでしょう?」
 そう言って、ボクに視線を戻すと、
「お前も早く返してきなさい」
 しっしっと手で払った。
 それに抗える力がボクにあるはずもなく、ボクは俯いたまま、公園へと向かった。
 
          ☆
 
 夕暮れ時の公園は切ない。
 ただでさえ少ない子供たちは、迎えに来た母親と手を繋いで帰路につく。どこからか漂ってくる美味しそうな夕飯の匂いと、微かに聞こえてくる笑い声。きっとみんな幸せな時間を大切な人と過ごしているのだろう。
 それに比べてボクらはどうだ。寒さに身を縮め、誰もいなくなった公園で、ただ黙って震えている。ボクの鳴らすブランコの軋んだ音が、冷たい空間に響く。今の自分はとても惨めだと思った。
「ふみゃあ」
 ネコが鳴いた。ボクのトレーナーの中で暖をとる彼は、丸まってとても気持ちよさそうにしている。自分がまた捨てられるなんて思ってもいないようだった。
「ごめんね、お前を助けてあげられないんだ」
 囁くと、彼はこちらを見上げ、頭を傾げてみせた。それから大きく「ふあっ」とあくびをして、また心地よい夢の世界に戻る。
 ボクは信頼されているのだと思った。このネコはボクのことを親だと思っているのだと思った。
 だからこそ、ボクはこのネコを手放せないでいた。
「エイキ!」
 遠くからボクを呼ぶ声。見やると、公園の柵の外に両親がいた。
 まさかと思い、公園の時計を見上げる。思ったとおり、ボクが家を出てから一時間以上たっていた。両親は帰りの遅いボクを心配して捜しにきたのだ。
 怒られる、という危機感よりも、今度こそこのネコと別れなければいけないという悲しみがボクの心を深く沈めた。
 しかし、予想に反して、両親はこう言った。
「カズキを見なかったか?」
 
          ☆

 両親の話によると、お兄ちゃんはボクが出ていった後も両親ともめていたようだった。
 それからしばらくして、ボクを迎えに行くと言って家を出たそうだ。
 ボクがどこにいるかも分からずに。
「全く、あいつはもうすぐ受験だっていうのに、何を馬鹿なことをやっているんだ」
「こんなことじゃ、受験に失敗しないか不安になるわね」
 そんな彼らの物言いに、ボクもさすがに腹が立った。
「そんな言い方ないでしょ!」
 思わずブランコから立ち上がると、服の中のネコがぽろりと落ちた。しまった、と思ったが、彼は器用に着地を決めると、ボクの足に顔を擦り付けてきた。
「なんだお前、まだ捨ててなかったのか」
「……捨てられるわけないじゃないか」
「いや、今はそれよりカズキのことだ」
 両親はまだ捜していないエリアを話し合い、その言葉の端々に「受験」とか「勉強」とか、そんな言葉を織り交ぜた。
 そんな彼らを、ボクは寂しいと思った。
 いつからだろう、家族がこんなふうになってしまったのは。
 しゃがみ込んでネコの喉を指先で撫でてやると、ネコは気持ちよさそうに目を細めた。
「お兄ちゃん……」
 口にすると、涙が溢れてきた。
 次から次へと止めどなく溢れる涙。頬を伝い、そして地面に零れ落ちる。ネコは不思議そうにボクを見上げる。まるで「どうしたの?」と言っているみたいだった。
 お兄ちゃんはいつもボクの味方だった。どんな時も、ボクを応援してくれた。さっきだって、ネコを助けたいというボクに助け舟を出してくれた。
 お兄ちゃん。今、どこにいるの? ボクはここだよ。ここにいるよ。
 不意に。
 ネコが跳躍したかと思うと、ボクの腕に乗った。そして、ボクの濡れた頬をぺろりと舐める。
「お前……」
「みゅう」
 驚くボクに向かって鳴く。
 そしてぴょんと飛び降りて、今度は公園の外に向かって走り出した。
「あ、ど、どこ行くんだよっ」
 慌てて追いかける。ネコは公園を出て一度止まると、ボクが追いかけているのを確認したように、また走り出す。「ついておいで」と言わんばかりに。
「待てってば!」
「いや、お前こそ待ちなさい!」
 ボクに続いて両親も走って追いかける。
 ネコとボクと両親の追いかけっこは数分に及んだ。
 
 突然ネコが立ち止まった。
 息を切らせて走り寄るボクを振り返り、「みゃうっ」と鳴く。
「はぁっ、はぁっ、ど、どうしたって言うのさ……」
 ネコに話しかけると、声はその先から聞こえてきた。
「エイキ!」
「……え?」
 見やると、遠く向こうにお兄ちゃんの姿があった。こちらに向かって走ってきている。
「お兄ちゃん……」
 お兄ちゃんはボクの傍まで来ると、ボクと同じように肩を大きく上下させながら「良かった」と安堵の表情を浮かべた。
「お前、一体どこ行ってたんだよ」
「どこって……公園だよ」
「え? 近所のあの公園か?」
「う、うん」
「そっかぁ。あそこはまだ捜してなかったなぁ」
 そう言って笑う。
 お兄ちゃんはやっぱりボクを捜してくれていたんだ。嬉しくなって、ボクもつられて笑った。
「カズキ! エイキ!」
 後ろから両親がようやく追いついてきた。途端にボクは悲しくなる。
 あぁ、また怒られるんだなぁ――そう思った。
 でも、それは違った。
「カズキ! エイキ!」
 二人はボクたちをぎゅうっと抱きしめた。
「良かった。無事で良かった」
 普段運動していない二人は、ボクたち以上に疲れきっていた。それでもボクとお兄ちゃんを抱きしめる力はとても強くて、そしてとても温かかった。
「ネコが……」
 ボクは言う。
「うん?」
「ネコが、ボクをここにつれて来てくれたんだよ」
「知ってるよ。お父さんたちだって見ていたんだから」
「うん……」
 本当にネコがそうしたのかと訊かれたら、ボクは多分肯定することはできないだろう。ネコにそんな力があるはずはないし、どう考えたって奇跡以外のなにものでもない。
 それでもボクは信じたかった。
「あのネコ、飼ってもいいぞ」
 お父さんが言った。
「本当っ?」
「あぁ。あいつは恩人だものな」
 そう言って辺りを見回し、「おや?」とボクを見た。
「ネコはどうした?」
「え?」
 慌ててボクも辺りを捜す。でも、ネコはどこにもいなかった。
「いなくなっちゃった……」
 不思議と悲しくはなかった。
 ただ、「ありがとう」って言えなかったのが、ちょっと残念だった。
 
          ☆
 
 そんなことがあったのが三年前で。
 晴れて中学生になったボクは、縁側でのどかな春の日差しを全身に浴びて、まったりとした休日を満喫しているのだった。
「だぁぁぁぁっ! ニキュ、お前何回言ったら分かるんだよっ」
 遠くでお兄ちゃんの叫び声が聞こえる。
 あれから三年。つまりお兄ちゃんは今度は大学受験ってことで、再び訪れた勉強漬けの生活に少々ピリピリしている。
「エイキー!」
 どすどすと音を立てながらお兄ちゃんがやってきた。
「んー?」
「こいつ、どうにかしてくれよ。勉強の邪魔ばっかりしやがるんだ」
 見やると、彼の肩には真っ黒なネコがのへーっとぶら下がっていた。
「こら、降りろって。重いだろうがっ」
 振りほどこうとすると、今度は首に移動してマフラーのように巻きつく。
 あはは。いいコンビだよ、ホント。
 まぁ、お兄ちゃんも疲れてるだろうし……
「おいで、ニキュ」
 ボクが呼ぶと、ニキュはお兄ちゃんの首からすとんと降り立って、あぐらをかくボクの膝の上にちょこんと乗った。そしてそのまま丸くなって「ふぁっ」とあくび。やがて静かな寝息を立て始めた。
 
 三年前。
 あの後、家族揃って家に戻ると、玄関の前に小さな影があった。
「お前、ここにいたのか」
 声をかけると、影は当然だとでも言うように「みゃう」と鳴いたのだった。
 
「カズキぃ、エイキぃ、ニキュぅ」
 台所からお母さんの声が聞こえる。
「そろそろお昼にしましょう」
 その声に一番に反応したのはニキュ。がばっと飛び起きると、勢いよく台所へと駆けていく。
 ボクとお兄ちゃんはそんな彼の後ろ姿をしばらく眺め、
「そういや腹減ったな」
「うん。早く食べよう」
 食い意地の張った我が家のネコを追って、並んで歩くのだった。

ニキュ

ニキュ

「……捨てられるわけないじゃないか」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-14

Copyrighted
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